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『鳥取県の民家』を訪ねて(2)

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若桜郷土文化の里と三百田家住宅

 5月15日(水)。 ゼミ生全員で今年度初の野外演習にでかけました。3年生はこれまでおもに報告書から学んできた民家平面図と実際の空間の関係、とくに「間(けん)」という寸法の概念を実感し、さらにドローンやGPSデジカメなどの機材の使い方を学ぶことを目的として活動しました。
 初めに、若桜町屋堂羅にある「若桜郷土文化の里」を訪れました。この敷地には、旧山陰合同銀行若桜支店社屋(現若桜町歴史民俗資料館・町建造物有形文化財指定)、無動山永福寺山門(現在廃寺・山門は町建造物有形文化財指定・金剛界胎蔵界曼陀羅は県指定・県博所蔵)とともに、三百田家住宅主屋が移築公開されています。いま読み込んでいる『鳥取県の民家』(1974)でも詳細調査の対象として報告されていますが、県保護文化財の指定は報告書に先行する昭和39年(1964)に遡ります。もとは同じ若桜町の吉川という集落に屋敷を構えていましたが、昭和58年(1983)に建物は町に寄贈され、平成5年(1993)屋堂羅に移築されました。


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 三百田家主屋は入母屋造の茅葺きで、典型的な「広間型三間取り」に復元されています。そのなかで畳が敷かれているのは「奥の間」だけであり、一間/半間がわかりやすいので、この部屋を演習の場所としました。四年生の先輩方に平面の描きかたを教えていただき、3年生も実際にその部屋の平面図を方眼紙に描いてみました。畳一枚(一間×半間)を方眼紙の2センチ×1センチとして平面を描き、さらに建具や天井などの略称や記号を書き込んで、より理解が深まりました。


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↑(左)奥の間 (右)広間と奥の間の境
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↑カマド(土間)と縦長のイロリ(広間)。イロリのキジリがそのままカマドの焚口になっている。


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「賽の河原」の風景-摩尼山地蔵堂の考察と復元-

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「賽の河原」ミニ講演

 5月8日。ゼミの途中、環境大学地域連携事業報告会で教授のミニ講演があるため多目的ホールで聴講しました。講演の題目と構成は以下のとおりです。

    「賽の河原」の風景
 -摩尼山地蔵堂の考証と復元-

1.摩尼山-日本最大の登録記念物(名勝地)  
2.賽の河原と回向の塔   
3.地蔵堂と三祖堂
4.地蔵堂の復元と鷲ヶ峰の歴史的景観

 摩尼山がどこにあるのか、どのような山なのかという説明から始まり、山頂に近い鷲ヶ峰の立岩に降臨した帝釈天の伝承、18世紀末の『因幡志』に描かれた「財河原」、「西院の河原」和讃の内容、 三祖堂の調査に基づいた地蔵堂の復元など興味深い発表でした。成果報告を聞いて自分も早く摩尼山に登りたいと思いました。(N.Y)


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回向の塔

 今回、あらためて講演をして資料を作り直した結果、賽の河原の石積塔の意味を誤ってとらえていたことに気がついた。これまで漠然と小石を積み上げた石積塔を「供養塔」と表現していたが、それは間違いであり、「回向(えこう)の塔」と理解すべきものである。「西院の河原」和讃本の当該部分を抜粋引用してみよう。

二っや三っや四っ五っ 十にもたらぬ嬰子が  
さいの河原に集りて 父こいし母こいし  
恋し恋しとなく声は この世の声とは事変り   
悲しさ骨身を通す也 かの嬰子の所作として  
川原の石をとり集め 是にて回向の塔を組み
一重くんでは父の為 二重くんでは母の為
三重くんでは古里の 兄弟我身と回向して

 回向(えこう)とは「自らの徳を他者に転回すること」である。賽の河原で夭逝した嬰子(みどりご)たちはなぜ石を積むのか。石を積むとは、徳を積むことにほかならない。辺土で積んだ徳を娑婆で生きる父母兄弟に転送し、かれらの幸福を願うという考え方である。「供養」の場合、娑婆にいる生存者が死んだ子どもに対しておこなうものだから、あきらかに間違いである。今後は和讃本に記すとおり、「回向の塔」という表現を使おうと思う。

 ちなみに、徳を積み上げた「回向の塔」をつぶす破壊者が「地獄の鬼」であり、悲嘆にくれた子どもたちを救い天に導くのが「能化の地蔵尊」である。能化(のうげ)とは「衆生を救う指導者」であり、衆生(しゅじょう)とは「生きとし生けるもの」を意味する。=教師補遺=


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『鳥取県の民家』を訪ねて(1)

『鳥取県の民家』データベース作成中

 5月8日(水)のゼミはGW開け一回目の活動になりました。
 ゼミのメンバーは連休中に人間環境実習演習B「『鳥取県の民家』を訪ねて」に係る課題を出されていたので、全員がおもにデータベースの作成状況をプロジェクターで移しだしチェックを受けました。
 データベースの出来栄え確認と修正には時間がかかりました。今回の課題はファイルメーカーというソフトで作成したフォーマットを基準にして『鳥取県の民家』の第3次調査民家のデータを3年生は3軒、4年生は1~2軒入力してくるというものでした。
データベースの課題確認では多くの課題が見つかりました。
 データベースのフォーマットの問題がいくつかありました。入力した文字が入力していない箇所に自動でコピーされてしまう、とか、選択したデータの文字が全文字表示されない、などの改善点がありました。全員がまとめてきたデータの文字フォトンやポイントがバラバラだったり、主屋の屋根形式の間違いがあったり、付属屋の数がちがったり、まだまだ知識不足な点が目立ちました。そして、一番時間を費やしたのは主屋規模でした。「間」という寸法の概念がわかりにくいのです。とくに3年生はまだ知識がないため間口と奥行が何間あるのかが理解できておらず、教授や先輩方のちからを借りて主屋規模がどのくらいなのかを具体的に計って判断していきました。このほか、担当した民家の解説文(半ページ前後)をwordでタイピングしてくるという課題もありましたが、こちらはとくにチェックはありませんでした。今回のゼミ活動では、主屋規模を測るのがとても難しかったですが、中間発表にむけての今後の課題とどのような事をすればいいのかということが見えてきたので頑張って作業していきたいと思いました。
 その中間発表のパワポの構成のラフが教授から示されました。以下のとおりです(今後変更あり)。これを5人で分担し発表します。【続】

 1.研究の目的-『鳥取県の民家』を訪ねて-
 2.昭和49年(1974)はどういう年だったか
 3.『鳥取県の民家』(1974)のデータ化
  (1)調査一覧表 (2)分布図 (3)データベース
 4.今後の課題

陳従周先生生誕百周年(6)

5.蘇州古典園林-世界遺産評定2000

夕陽に映える白銀の借景

 帰国の3年後、1987年から研究所に勤務するようになった。研究所は中国社会科学院考古研と共同で「日中都城の比較研究」を進めていたが、個人的にも住宅総合研究財団の助成によって、貴州のトン族・ミャオ族、西北雲南のチベット・ビルマ語族、黒龍江のツングースと朝鮮族の住居集落に係る調査研究を細々と続けていた。そうした調査の帰途、上海でしばしば1泊し、同済新村の陳従周先生宅にお邪魔した。病床に伏されていた先生のお見舞いである。
 先生がお亡くなりになる2000年3月の直前、蘇州古典園林の第2次世界文化遺産評定の依頼が届いた。イコモスの調査員として5つの庭の文化財価値を審査せよ、というミッションである。第1次世界文化遺産評定は1997年に以下の四園を対象にしておこなわれ、すでに世界遺産リストへの登録を済ませていた。

  1.拙政園   明・正徳4年(1509)
  2.留園    明・万暦21年(1593)
  3.網師園   清・乾隆24年(1758)
  4.環秀山荘  明・万暦年間(16世紀末~17世紀初)

 いずれも全国重点文物保護単位に指定されている。陳先生の名言「江南園林甲天下、蘇州園林甲江南」を引用するまでもなく、上の四園は中国を代表する名園であり、世界遺産の名にふさわしい存在である。
 さて、蘇州には30以上の私邸園林が集中して存在する。そのうち、2000年2月下旬に実施された第2次評定の対象として中国政府が申請したのは以下の五園であった。

  5.獅子林  元・至正二年(1342)   
  6.耦園   清・擁正~光緒年間(19世紀)
  7.芸圃   明・嘉靖年間(16世紀中頃)
  8.滄浪亭  明・嘉靖年間(16世紀中頃)
  9.退思園  清・光緒11~13年(1885~87)

 これらも中国を代表する名園と言えるであろうが、第1次評定対象が全国重点文物保護単位であるのに対して、第2次評定対象はすべてが江蘇省文物保護単位(後に全国重点文物保護単位に格上げ)という点が気がかりであり、第2次評定を進めるにあたって、わたしはまず拙政園と留園の見学を希望した。すでに春の兆しに満ちた季節になっていたが、十数年ぶりに雪が降り始め、植栽と屋根瓦に微かな積雪をみた。夕暮に訪れた拙政園では、積雪と池水に夕陽が反射し、とりわけ北寺塔を借景に取り込んだ風景はえも言われぬ幻想的な世界を生み出していた(図22)。

シリアル・ノミネーション

 世界遺産登録済の二園を視察後に第2次評定対象の五園を訪れると、たしかに全国重点文物保護単位と省級文物保護単位の差を感じ取ることができた。そのすべてを書き留めることは控えるが、たとえば漏窓を例にとるならば、留園のそれは幾何学的かつ抽象的で現代美術に通じるハイレベルの芸術性を有するけれども、第2次評定対象の漏窓は動植物や壺などを直射した具象に傾斜しており(図23)、工芸としては優れているかもしれないが、芸術性が高いとまでは言えないと思った。また、拙政園で演出される大がかりな借景のダイナミズムもない。借景という点では、むしろ近隣の工場・幼稚園・アパートなどが園内からの眺望景観を害している点にも違和感があった。庭園の景観保全にとって、バッファゾーン(緩衝帯)はきわめて重要である。バッファゾーンの開発を抑制することが庭園の保護にとっては必要不可欠であろうと思われた。幸い、当時の蘇州は平江区や同里鎮などに古風な水郷の町並みをよく残しており、こうした水郷の景観と庭園の併存こそが未来への鍵を握るという意見を現地で述べた記憶がある。
 さらに評定の翌日、揚州を訪れ、国家重点文物保護単位の何園と個園を参観した。蘇州の第2次評定対象と比較するならば、庭園としての文化財価値は揚州に軍配が上がる。そういう感想を改めて抱いた。省級文物保護単位を世界遺産にしてよいものか、という問題が最初から存在したわけだが、蘇州・揚州の重点文物保護単位庭園と比べるならば、第2次評定対象の五園は必ずしも文化財価値が突出して高いわけではないということがわたしの心中で一つの結論となったのは事実である。
 しかし、蘇州の場合、市内に30以上の庭園が集中し、水路で連結されている点を軽視できない。蘇州は中国有数の「園林都市」であり「水郷都市」である点を評価するならば、庭園を単体としてとらえるのではなく、第1~2次評定の対象となった九園はシリアル・ノミネーションとして評価すべきと考えられる。また、庭園を世界遺産にすることで広大な面積のバッファゾーンが発生し、そのエリアの開発を抑制することが可能となり、蘇州という歴史都市の保全におおいに貢献するであろう。そうした観点から、第2次評定対象の五園を世界遺産リストに登載すべきというレポートをユネスコ本部に送信した。



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陳従周先生生誕百周年(5)

3.回想1984-華南放浪

魯般尺法の原流

 1983-84年の年末年始は福建(廈門→泉州→福州)と江西(南昌)をまわった。閩南~閩北方面の民居/古建築を訪問することが大きな目的ではあった(図13)が、民間大工技術書『魯班経』『魯般営造正式』の引用する『事林廣記』の古い版本を福建省図書館で閲覧することが課題の一つであった。『事林廣記』は南宋の陳元靚が編纂した日用百科全書であるが、すでに宋代の原本は失われ、元代至順年間(1330-33)の影印本が中華書局より復刻されている(1963)。別集を含む全7冊により構成され、第6冊巻6に「算法類」があり、大工の寸法体系を複数記す。『魯班経』『魯般営造正式』が引用しているのは「魯般尺法」の部分である(句読点は筆者による/〓は不鮮明な漢字)。
 
 魯般尺法:  淮南子曰。魯般即公輸般、楚人也。乃天下之巧士、能作雲梯之械。
  其尺也以官尺一尺二寸為準。均分為八寸、其文曰財、曰病、曰離、曰義、曰官、
  曰劫、曰害、曰吉。古乃北斗七星與輔星主之。用尺之法従財字量起〓、一丈十丈
  皆不論、但丈尺之内量取吉寸用之。遇吉星則吉、遇凶星則凶。亘古及今公私造作
  大小方直皆本乎。昇作門尤宜子細。又有以官尺一尺一寸、而分作長短寸者但改吉
  字作本字・・・

 官尺(曲尺)の1尺2寸を魯般尺(魯班尺)1尺として財・病・離・義・官・劫・害・吉の八寸に等分する。そして丈より短い寸の単位ではできるだけ、吉寸(財・義・官・吉)を用いるようにするというわけである。『魯班経』『魯般営造正式』では、こうした魯般尺法とともに、1・6・8の3つの数字を重視する曲尺法もあって、両者を併用するよう指示している。しかしながら、わたしが浙江省の座談会等で聞いた限りでは、大工はおしなべてそうした尺法を知らず、地方独自の吉凶の判断をしていた。

四川・雲南・貴州・広西・海南島など

 浙江に続く江蘇省調査は3月からと決まったので、江蘇行の前後に華南各地をまわった。いずれも一ヶ月近いツアーになった。
 1月23日~2月20日: 同済大学留学生のツアーに加わって、昆明と桂林を訪れた。桂林で留学生は解散となり、わたしは広州経由で香港にわたり、さらに海南島に飛んだ。当時の海南島は北端の海口のみ外国人に開放されていたが、幸運が重なって通什と三亜を訪問することができた。帰りは海口から船で広西チワン族自治区の湛江に渡り、南寧、長沙を経由して上海に戻った。
 5月3日~5月30日: いったん西安まで北上し、その後、成都経由で昆明を再訪。大理まで足をのばして昆明に戻り、貴陽から重慶へ。重慶からは長江を下って武漢に至り、南京経由で上海に戻った。
 後の研究に影響を及ぼした点は以下のとおり。
 ①昆明では、雲南省博物館で青銅器時代の「銅屋」をはじめてみた。大学院時代に「銅鼓にみえる家」という論文を書いていて、報告書等はよく読んでいたが、実物を目のあたりにして驚喜したのである。
 ②昆明の街にはまだ古い住宅が多く残っていて、翠湖南路などで二階建ての民家を何棟か調査した。また、路南県の名勝「石林」に近い五果樹村ではサニ族の民家を実測した(図13)。漢化した住まいではあったが、西南少数民族と接する初めての機会となった。
 ③桂林では漓江下りの際、遊覧船が埠頭をでてまもなく、竹筏にのった鵜匠が近づいてきた。鵜飼でとれた淡水魚を売るためである。そこからさらに遡上していくと、陽朔の近くで家船(住宿船)が群をなしており(図14)、周辺に竹筏が散在している。かれらは内水面で船上居住する蛋民であることが分かった。2000年以降、おもに東南アジアをフィールドにして進める水上居住研究の発端となる出来事であった。
 ④海南島では通什周辺でミャオ族の集落を見学した。藁を巻かない木舞に粘土を塗りつけた素朴な平屋の建物に住む。一方、三亜では主屋と炊事小屋を分離する二棟型住居を発見。沖縄やオセアニアの住まいと似ているが、居住者は漢族であり、次に述べる成都などのL字形平面住居の分散型と考えるべきと予測した。三亜では、沿海地域に広東方面から移住してきた蛋民たちが水上高床住居の群落を形成していた。
 ⑤成都盆地では散居村にL字形平面の茅葺き民家が点在する(図15)。漢族に特有な閉鎖中庭型ではなく、竹林に囲まれた開放外庭型であり、日本の農家と非常に近しい外観を有する。こうした民家も1990年代になると大きく改造されていく。
 ⑥大理は南詔・大理国以降の伝統をよく残し、洱海周辺の風景もすばらしく、衝撃的な印象をうけた(図16)。のち1990年代中ごろに住宅総合研究財団の助成により本格的な調査をおこなうことになる。
 ⑦貴州省の花渓で石葺き屋根の民家(図17)と大きな石板を真壁にする水車小屋をみた。こちらは1980年代後半の貴州省少数民族調査に受け継がれていく。



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