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大僧正行基の長岡院に関する継続的再検討 -奈良市菅原遺跡の発掘調査報告書の刊行をうけて-《2023年度卒論概要》

卒論スライド1(武内) スライド1


 こんにちは、武内です。2月7日(水)ポスター卒論研究発表会の発表内容と概要を報告させていただきます。 卒業研究にご協力いただいたすべての皆様に厚く御礼申し上げます。

題目: 大僧正行基の長岡院に関する継続的再検討
    -奈良市菅原遺跡の発掘調査報告書の刊行をうけて-
Continuous Re-examination on the Annex called Nagaoka-in for the Memorial Service of Archbishop Gyoki in the 8th Century
-Upon the Publication of the Formal Report on the Excavation of SUGAWARA Site, Nara City -
中間報告


1.研究の経緯と問題意識

 奈良市疋田町の丘陵上に所在する菅原遺跡は、2020年10月から元興寺文化財研究所(以下、元文研)が発掘調査し、2021年5月22日にその成果を一斉に報道した。菅原遺跡は菅原寺の西北約1kmの丘の上にあり、『行基年譜』(1175)の記載に一致するため、東大寺大仏の造営を指揮した大僧正行基(668-749)を追善供養する「長岡院」説が有力視されている。そこで発見された遺構は、同心円的平面を呈する十六角形建物を回廊・塀などが囲んでおり、国指定史跡の価値があると評価されたものの、遺跡の保存は叶わず、宅地造成により滅失した曰く因縁の奈良時代遺跡である。
 報道を受けてまもなく、研究室の有志は菅原遺跡を訪れて遺構を体感し、建築的復元を決意した。当時、ただ元文研がネット上にアップした速報があるだけで、その資料から復元に挑むのは早計の誹りを免れえないとは思いつつ、研究室が事を急いだのは以下の理由による。元文研が記者発表で使った「円堂」の復元パースは、空海が真言密教とともにもたらしたとされる「多宝塔」をイメージしたものだが、奈良時代の日本には存在しないというのが常識であった。復元パースの建物は、ネパールのストゥーパや北京の天壇を彷彿とさせる日本離れしたものであり、一般国民はこのような建築が奈良時代に存在したと勘違いしかねないので、できるだけ早く修正しなければならないという想いが強くなったのである。
 研究室の手法はオーソドックスである。十六角形という特殊な平面を、奈良時代の八角円堂のバリエーションとして捉え、四つの復元案を完成させ、記者発表と学会誌投稿などをおこなった。このとき研究室の卒業生、玉田花澄が卒論として考察している。その後、2023年3月に元文研が正式な報告書を刊行した。問題点はさらに悪化している。「多宝塔の初現形式」が空海帰国以前の奈良時代に遡ると断定し、円形建物の復元案が当初案以上に奇怪な姿を露呈しているからだ。こうした日本史/日本建築史に抗う見解を示すならば、予め学会誌で審査を受けるべきだが、そのような慎重なプロセスを経ることなく報道され、再び国民に歪んだ歴史観を与えかねない状況なので、急ぎ報告書を全面的に精査し、批評を試みる。


卒論スライド2(武内) スライド2


2.宝塔/多宝塔の歴史観-空海帰国以前と以後では形式が異なる

 宝塔・多宝塔の本来の意味は『法華経』見宝塔品に由来する。釈迦が法華経を説法していたとき、突然地下より巨大で美しい塔が涌き出で空中に浮かび、「釈迦の説法は正しい」と絶賛する大声が聞こえ、釈迦を塔の中に招きいれて並座する。この大声の主こそ、東方の宝浄国にいた過去仏、多宝如来である。法華経では、多宝如来の御在所を「塔廟」と呼んでおり、「宝塔」あるいは「大塔」とも表現している。煌びやかで大きいことに特徴があるだけで、具体的な姿は不詳だが、7世紀に遡る長谷寺銅板説相図の「多寶佛塔」は六角三重塔に描かれている。ほかにもバリエーションはあるが、ともかく平安時代以降の多宝塔とは全く異なることを知っておかなければならない。
 平安時代の初め(9世紀初期)に、空海が唐長安青龍寺での修行を終えて、密教の奥義を極め、多数の仏典とともに、日本に招来したのが宝塔・多宝塔とマンダラである。マンダラは円と正方形を組み合わせた図形の複合に特徴がある。そうした幾何学的造形は宝塔・多宝塔にも共通する。高野山金剛峯寺の根本大塔や同じ和歌山県の根来寺大塔 (1496)などの裳階付き宝塔は、平安初期には「大塔」と呼ばれていた。10世紀前期以降、釈迦・多宝如来並座の天台系の塔を「多宝塔」と呼び始め、現存最古の石山寺多宝塔(1194)は真言宗の本尊「大日如来」を祀っている。
 日本建築史の定義では、裳階のない円筒・伏鉢状本体だけのものを「宝塔」、それに裳階がついたものを「多宝塔」とする。仏教史的にはそうした区別はあまり意味がないようで、多宝如来を祀る宝塔を「多宝塔」と呼ぶ寺院もある。繰り返しになるけれども、空海帰国以前の「多宝塔」と帰国以降の「多宝塔」は形式を異にするという事実を認識する必要がある。


卒論スライド3(武内) スライド3


3.行基墓に係る文献記載-行基舎利は生駒山中にあり、長岡院とは関係ない

 我が研究室は、菅原遺跡で発見された十六角形建物を法隆寺夢殿のような供養堂だと考えている。一方、元文研はこれを多宝塔系と捉えている。その根拠として、行基の墓に関する記録に「多宝之塔」「塔廟」が含まれることをあげているが、さてどうだろう。
 鎌倉時代初期、文暦2年(1235)の行基墓発掘の記録を含む『竹林寺縁起』を要約してみよう。

  行基の遺命によって生駒山の東陵で火葬した。 ただ砕け残った舎利、燃え尽きた軽灰が
  あるのみ。 行基の舎利・遺灰を容器に収めて、多宝之塔とみなした。

 行基の舎利を埋めた生駒山竹林寺の陵墓を「多宝之塔」とみなしており、行基の没年(749)の段階で墓はあっても、追善供養の施設はまだ建立されているはずはなく、菅原遺跡の円形建物と「多宝之塔」は関係ない。また、嘉元3年(1305)に凝然が著した『竹林寺略録』の読み下し文は以下のようになる。

   勝賓から嘉禄に至るまで、ただ「塔廟」を建てて舎利を安置する。
     *天平勝宝:749~757年  嘉禄:1225~1227年
 行基の没年以降、鎌倉時代の初期まで「塔廟」を造営して舎利を安置していた、ということである。「塔廟」とは生駒山で行基舎利を納めた施設であり、追善供養を目的とする長岡院(菅原遺跡)とは別の場所の別の施設であったと考えられる。そもそも、「多宝之塔」「塔廟」は『法華経』からの引用であり、いずれも「多宝如来の御在所」を意味しており、行基を多宝如来に重ねあわせた表現とみるべきである。


卒論スライド4(武内) スライド4


4.円形建物SB140の遺構解釈-大壁の作為と十六角形土庇

 菅原遺跡の円形建物跡SB140の平面図を改めてみるとよく分かるのだが、後世の削平により、断続的な円形の溝状遺構とその外側にめぐる16個の柱穴しかない。研究室は内側の溝状遺構を基壇地覆石の痕跡とみなしていたが、元文研はこれを否定し、大陸風大壁の痕跡とした。しかしながら大陸風の大壁は、溝状遺構の中に多くの杭を打って分厚い小舞壁とするものだが、菅原遺跡の場合、杭跡は一つもなく、この基壇端に「大陸風の大壁」をつくることはできない。
 外周の16本掘立柱列について、元文研はこれを多宝塔の裳階と表現し、基壇端大壁と扇垂木でつないでいる。扇垂木を奈良時代に使う例は知られていない。円形の本体と貧相な外周掘立柱列に構造の一体感はなく、研究室は、この16本柱列を土庇とみなしている。土庇とは、石階などの上につくる向拝、すなわち玄関ポーチのようなものである。このたび研究室は16角形の向拝に覆われ、基壇全周にまわる石階の案を追加で設計した。この場合、基壇は面取り八角形、すなわち不整十六形になる。



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菅原遺跡報告書批評のための習作(18)

批評-1981年調査区の基壇建物跡と小型瓦の関係

 卒論発表会が明日に迫ってきて、最後の詰めをいろいろやっている。報告書2023の巻末に掲載されている遺物の一覧表で、小型瓦を再確認したところ、「小型瓦」は11点、「小型瓦?」は3点を数えた。「小型瓦?」は小型瓦かどうか分からないので排除し、書評では「小型瓦」の総数をこれまでどおり11点とする。学生は、その出土位置を遺構図に落とそうとして混乱した。一覧表にはSC150とSB150の両方があるからだ。SC150が誤記である。SCは回廊の記号であり、西面の回廊はSC160である。SB150は伽藍の北にある東西棟掘立柱建物で、法隆寺東院になぞらえるなら、舎利殿・絵殿に相当する。菅原遺跡南区の場合、南側にも東西棟らしき遺構の一部が検出されており、こちらは法隆寺東院の礼堂にあたる。こうしてみると、ますます菅原遺跡と法隆寺東院の平面配置が近しいものにみえるが、いちばん大きな違いは東面が回廊ではなく塀(SA)になっている点であろう。この塀の地盤はもともと傾斜面であり、そこを整地して塀を築いたものである。おそらく地盤が不安定であったため、回廊の建設を控え、塀に代えた可能性が高いと思われる。
 いずれにしても、小型瓦は西面回廊SC160と北面東西棟SB150で集中的に出土しているので、この瓦を円形建物SB140の所用瓦とみなすのは難しい。小型瓦はSB150・SC160に用いられたとみるべきである。報告書2023では、SB140の屋根は約80mも離れた1980年調査区でみつかった小型瓦で葺いたと決めつけているが、
報告書2023第4章第2節「出土瓦の検討」の執筆者も「1981年調査でまとまって出土した軒丸瓦6316M-軒平瓦6710Dのセットは、(略)1981年調査の基壇建物の所用瓦であると考えられる」この部分保留中
と述べている。それでは、方形基壇建物跡はどのような建築と理解されていたのか、報告書192を読んでみると、3つの平面の可能性を指摘していることが分かった。ここに引用する(1982:pp.41-42)。

   本遺跡で検出された基壇の上面は大きく削平をうけており、礎石、
   礎石抜き取り穴等は全く検出されなかった。また基壇縁自体の
   後世の削平のため、東西方向の基壇長は明確にすることはでき
   なかったが、南北方向はかろうじて両側縁を確認することができた。
   このような条件下であるが、残存する基壇、雨落ち溝、ピット等から
   基壇建物の復元を試みたい。
    まず、棟の方向により、以下の三案が考えられる。
   Ⅰ.正方形プラン建物:平坦面東側が大きく削平を受けており、
     東方3m近く伸びていたと考える。すなわち、基壇南北長、
     東西長共に約22mをもつ方形の建物を推定する。また
     平坦面東側の地形を考慮に入れると、建物は南面していた
     と考えられる。
   Ⅱ.東西棟建物:平坦面東側が大きく削平を受けており、平坦部
    がより東にのびていたと考える。すなわち、基壇南北長22m、
    東西長18m以上を測る桁行7間、梁行4間の東西棟建物が考えられる。
   Ⅲ.南北棟建物:平坦面東側はあまり削平を受けておらず、かなり旧状
    を保っているものと考え、基壇東西長は基壇南縁の現存長とほぼ等しい
    と想定する。この場合、基壇は南北長約22m、東西長約18mとなり、
    桁行5間、梁行4間の東面した建物が考えられる。

 以上の3パターンのうち、Ⅰ案は「奈良時代において正方形プランの建物の類例は認められないから積極的に肯定できない」、Ⅱ案は基壇の桁行総長が「35m~48m」にもなるので考え難いとして排除し、Ⅲ案は梁行総長が「16~18m」程度で納まるので最も可能性が高い、とする。


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菅原遺跡報告書批評のための習作(16)

第5章 調査のまとめ-要点の整理と課題(続)
 3.創建年代と維持管理について pp.88-89
 4.中央建物の構造について pp.89-90


 メリー・クリスマス! 菅原ブルーの夜に、サンタさん来るかな?


批評-堀方/抜取からの出土を明確に区別して解釈せよ!

 菅原遺跡2020年度調査区でみつかった複数の遺物を取り上げ、創建年代を749~760年に位置づける解釈は妥当であろう。ただし、遺物の出土位置に着目すると、北側建物SB150柱穴m抜取痕と南側排水路SDO34から出土した6711B型式軒平瓦(5·35·36)は施設の廃絶と関わる遺物である。円形建物SB140に用いられていた軒瓦が伽藍廃絶時に投棄されたものと考えられる。一方、SB150柱穴c掘方から出土している土師器杯B(1:730~760年)こそが施設設置に伴う遺物と言える。同じ柱穴と言っても、抜取で出土した遺物は廃絶、堀方で出土した遺物は設置を反映しているからである。この土師器こそが伽藍造営の鍵を握っているが、廃絶時に投棄された6711B型式軒平瓦は西側の整地土Ⅰでも出土しているので、区画内施設群の当初から用いられていたとみてよい。ただし、何度も述べてきたように、造営工程から考えて、行基没後まもない749年以降10年以内に編年される6711B型式軒平瓦はSB140の大屋根に使用されていたとみなすべきである。

批評-SB140多宝塔案に根拠がない理由一覧

 またまたまたSB140多宝塔説の根拠と起源説が繰り返し語られる。何度でも反論してさしあげます。今回は箇条書にコメント形式とする。

 ①内周土坑列の性格については、その配置が円形を呈すること、その性格として転用石を埋設したものである: 【コメント】「転用石を埋設」という説明は初見。あとで「切石など廃材利用」という表現も出てくる。「転用石」「廃材」の根拠不明。事実ではなく、推定あるいは解釈であることを明記すべし。
 ②(土坑列のうち)一つは147゜の角度を持つ切石の痕跡が確認でき、これは正八角形の内角(135゜)とは異なること、またその配置は内周土坑列の配置と整合性を持たないことなどから、これらの石材は八角形や円形の石造基壇地覆石にはなり得ない(18頁): 【コメント】前にもに述べたように、土坑列の抜取穴の角度が147゜であって、切石の角度そのものではない。「石材」は一点も出土していない。執筆者たちは「略円形」の「壁地覆の地覆石」説を採っているが、結果として基壇は存在し、凝灰岩の地覆石は基壇外装になっている。また、基壇形状は八角形でなくとも十六角形もありうる。十二角形にはなりうるのか?
 ③内周土坑列はその配置から八角円堂の8本柱の礎石痕跡にも、多宝塔にみられる12本柱の礎石にもなり得ない: 【コメント】八角円堂の場合、八角に並ぶ柱列は基壇端から数尺内側に並ぶので、基壇端に柱を立てる必要はない。むしろ立ててはいけない。多宝塔案の場合、基壇端に12本の柱を円状に並べる必要がある。それができないと自白しているのだから、ここに構造壁を構築するのは不可能である。一般的にこの位置で壁をつくる場合、カーテンウォールとするが、その場合は必ず12本の柱が必要になる。大壁にする場合でも、柱は必要であり、柱がないというのなら、深い溝状遺構に杭を並べて大壁の小舞が多数必要だが、そのような痕跡も一切ない。したがって、多宝塔説の基壇端大壁復元は成立しない。
 ④外周柱列は《略》周辺から小型瓦が出土しているが、回廊は通常の瓦を利用した甍棟構造であることが判明しているため、小型瓦は中央建物に使用したものと考えざるを得ない: 【コメント】回廊が通常の瓦を利用した甍棟構造であるとしているのは執筆者の大胆な「解釈」であって、事実として受け入れることはできない。中央建物に小型瓦を使用したという論理も成り立たない。6711B型式軒平瓦を回廊に使ったとすれば、行基没後最初に回廊等囲繞施設が完成し、その後に内側のSB140の造営に移行したことになる。作業上ありえない工程であり、当然、SB140を真っ先に完成させ、その後、囲繞施設の建設に移行したであろうから、6711B型式軒平瓦など普通サイズの瓦を用いたのはSB140であり、むしろ小型瓦は囲繞施設のどこかで少数使ったと考えるべきである。
 ⑤内周土坑列をかなりの重量を支えるための基礎構築物を抜き取った痕跡と判断した: 【コメント】内周土坑列が大重量を受ける基礎の痕跡のようにはみえない。また、遺構は基礎構築物の「抜取り」痕跡ではなく、「据付け」と「抜取り」の痕跡が重複したものである。凝灰岩粉が底面でわずかにみつかっているので、凝灰岩の切石が収まっていたのはたしかだろうが、大壁の基礎となる杭列も柱礎石列も皆無である。凝灰岩は柔らかい化粧石材なので、基礎そのものにはならない。基壇端に大壁(構造壁)をつくることはできない。


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菅原遺跡報告書批評のための習作(9)

 今回から第4章「遺構・遺物の分析」の検討に移行するが、第1節「菅原遺跡SB140の復元考察」は後の楽しみにとっておき、まずは昨日(連載8)の分析と直結する第2節「出土瓦の検討」(pp.77-82)から批評する。太字・下線はすべて評者。
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報告書 第4章第2節 出土瓦の検討

1.出士瓦類の概要 p.77
(1) 菅原遺跡2020年調査出士瓦類
 今回の調査では、軒丸瓦が6236D、6299A、6316Dcの3型式、軒平瓦が6765A、6711Bの2型式が出土した。軒平瓦6711B型式が遺構に伴って4点出土している以外は、1点のみのものも多く、表採資料など、遊離した状態で出士している。以下、軒瓦のみならず、瓦類全体を遺構、整地土などのまとまりで整理しておくことにしたい。
 囲繞施設関連瓦類  今回の調査で検出した囲繞施設であるSC160、SA170、SCl80を構成する柱穴からは、多くはないが瓦類が出士している。軒瓦はなく、平瓦が多く、丸瓦が少ない傾向が看取される。丸瓦では、柱の抜き取り痕からは小型丸瓦(12)も出土している。平瓦には縦方向に半裁した可能性が高いものも含まれており、これは北区で検出したSK100から出土している平瓦と共通する。これらは割熨斗瓦であった可能性が高いものと判断している。平瓦には西大寺および東大寺の造瓦司にみられる凸面押庄技法によって製作された平瓦も出土している。また、北側で検出したSB150の柱穴mからは6711B型式の軒平瓦が出士しているほか、SC180の北側で検出したSD034からも同型式の軒平瓦2点が出土している。全体に瓦の出土量が少ない中にあって、軒平瓦6711B型式の出土は際立っており、同型式の瓦は 1981年調査区では全く出土していないこともあり、方形囲繞に使われていた可能性が高いものといえる。SD034からは西大寺26次調査(奈良市)で出土した「西」刻印と同氾の刻印平瓦(41)が出士しており、上記の凸面押圧技法の平瓦とともに差し替え用として搬入された可能性がある。なお、整地士Ⅱからは西大寺系の6236D型式の軒丸瓦も出土している。ただし、軒平瓦に組み合う軒丸瓦の出士がみられず、割熨斗瓦と考えられる平瓦が出土することなど、囲繞施設が掘立柱構造であることと合わせて、これらの瓦は屋根の甍にのみ使用されていた可能性が想起される。
 整地土Ⅰ出土瓦類  整地土Ⅰはすでに報告したように(30頁)、建物および囲饒施設を造営する際に行われた地業時の客土である。ここから、囲饒施設所用瓦と考えている6711B型式の軒平瓦が1点出士している。当該資料は囲続施設の屋根に用いるために搬入されたものが、造成時の整地土に紛れ込んだ可能性が高い。6711B型式は平城宮瓦編年のIII -2期(749~757年)とされ、今回の調査で検出した一連の遺構群の上限年代を特定する上で重要な位置を占める。
(2)菅原遺跡1981年調査出土瓦類  pp.77-79
 1981年の調査では、軒丸瓦が菅原A類、菅原B類、菅原C類、6225A、6236D、6281A、6299A、6316Dc、6316Mの9型式と軒平瓦が6681S、6710D、6765Aの3型式が出土している。菅原遺跡を特徴づけるのは、大きさの異なる多様な瓦の出土である。出土点数については図68に記したとおりであり、出土点数の対応関係から、中型瓦では軒丸瓦6316M-軒平瓦6710Dがセット、小型瓦では軒丸瓦6299A-軒平瓦6765Aがセットであると考えて問題なかろう。また、数点ではあるが超小型瓦についてもセット関係で出土している。この小型瓦については1981年調査時には、大きさの異なる瓦の混在に対する明快な回答は示されていなかったが、今回の調査では柱の抜き取り痕から小型瓦が出土し、周辺からは小型軒瓦が採集されることなどから、SBl40の上層に薔かれた可能性を想定することとなった。 《以上、原文》
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批評-6711B型式軒平瓦はどこに使われていたか

 非論理的思考の塊のような文章である。驚愕のレベルと思って読んでいた。まず前提として知っておくべきことがある。回廊等囲繞施設を伴う建築群の場合、最初に中心となる仏堂等を造営し、その竣工をみてから囲繞施設の造営に移行する。中心建物の建設工事には大掛かりな足場と周辺のオープンスペース(作業場)が必要であり、回廊などが存在しては邪魔になるからだ。たとえば、法隆寺西院を例にとると、まず金堂、次に五重塔を築いてから中門に移行し、最後に回廊を造営して全体が完成したと推定される。組み立てに必要な場所を確保するだけでなく、資材の運搬を考えても、このような工程で工事を進めるのは当たり前のことである。現在進行中の平城宮第一次大極殿にしても、同様のプロセスを踏んでいる。にも拘わらず、平城宮瓦編年のIII -2期(749~757年)にあたる6711B型式の軒平瓦を囲繞施設用の甍瓦と判断するのは如何なものか。行基の没年は749年であり、その後まもなく供養堂の造営が始まったとしたら、まず建設するのは中央の円形建物SB140以外考えられない。年代の古い6711B型式の軒平瓦は当然のことながら、円形建物SB140(の大屋根)に使われていたとみなすべきであろう。
 総数4点で際立つという6711B型式軒平瓦の出土地点をまとめると、北側の東西棟掘立柱建物SB150の柱穴mから1点、南側の排水溝SD034から2点、北西の整地土Ⅰから1点である。まず、SB150の柱穴mと言っても、その掘方か抜取りかが明記してないので解釈が難しいが、図16(p.21)をみる限り、後者の可能性が高く、第5章のまとめの段階(p.88)になって初めて「抜取痕」と記している。その場合、建築群の廃絶期に古い瓦が混入したことになる。この場合、厳密にいうならば、どの建物で用いた瓦か分からない。一方、仮に掘方からの出土なら、すでに竣工していたSB140に使用された(あるいは使用予定だった)軒瓦がSB150の柱掘方に混入したと考えられる。南側の排水溝SD034は南面の掘立柱列SC180からやや離れた位置にあって、「SC180の雨落溝ではない」としているので、ここに投棄された6711B型式軒平瓦や西大寺系の瓦は当然のことながら、SB140で使用された可能性を否定できない。さらに、北東の整地土Ⅰについては、掘立柱塀SA170の地盤をつくるための客土層、つまりSA170が完成する以前に造成された地盤であり、すでに竣工していた(あるいは建設中の)SB140の軒瓦が混入したと考えるほかなかろう。
 ここで遺物の出土分布を振り返ると、SB140周辺では「皆無」であり、小型瓦は南区北半の囲繞施設に10点ばかりがほぼ集中、軒瓦はむしろ南半の排水溝SD034や北西の整地土Ⅰで多くみつかっている。この状況を冷静に捉える場合、円形建物SB140に葺かれた瓦は小型瓦とも標準サイズの瓦とも判断しがたい。にも拘わらず、報告書ではSB140は小型瓦で葺かれ、標準サイズ瓦は囲繞施設の甍瓦だとしている。しかし、すでに述べたように、年代の最も古い6711B型式軒平瓦は建築工程からみてSB140に用いられたとみるべきであり、一方、囲続施設の北半に集中する傾向にある小型瓦こそ甍棟に使った可能性があるだろう。あるいは、東側の掘立柱塀SA170のほぼ中央に設けた可能性がある棟門(東門)用の葺材かもしれない。
 それにしても、「(軒平瓦6711B型式)の瓦は1981年調査区では全く出土していないこともあり、方形囲繞に使われていた可能性が高いものといえる」という一文には驚かされる。前半の「軒平瓦6711B型式の瓦は1981年調査区では全く出土していない」事実と後半の「方形囲繞に使われていた可能性が高い」という推測の因果関係が全く認められないからだ。1981年調査区の瓦を分析した(2)の結果として、「この小型瓦については《略》明快な回答は示されていなかったが、今回の調査では柱の抜き取り痕から小型瓦が出土し、周辺からは小型軒瓦が採集されることなどから、SB140の上層に葺かれた可能性を想定することとなった」とある指摘も同様で、1981年調査区と同じ小型瓦がみつかった事実とそれがSB140に葺かれていたという推測の因果関係を微塵も説明できていない。
 くどいけれども、6711B型式の軒平瓦は、その年代観と工程のプロセスから判断して、円形建物SB140に使用したと考えるべきである。そして、その後、765年に創建される西大寺の瓦(おそらく八角七重塔用に準備した瓦?)が「差し替え用で搬入された」という理解には納得できるのだが、割熨斗と推測される瓦がいくつか出土しているので、軒丸瓦・軒平瓦は「(囲繞施設の)屋根の甍にのみ使用されていた」という考えには賛同できない。軒瓦の年代観が囲繞施設と合わないだけでなく、単廊の甍棟としてこれらの瓦は大きすぎるのではないか。むしろ小型瓦こそが甍棟にふさわしいように思われる。こうした甍棟説は、出土する瓦の量が著しく少ない遺跡における常套解釈だが、菅原遺跡南区は円形建物の基壇土が消滅してしまうほどの削平を受けており、旧地表面と遺構検出面のレベル差は相当あるだろう。結果、遺物包含層・整地層も広く残っていないのだから、瓦ほか遺物全体が少ないのは仕方ないことであり、そういう状況のなかで、11点しか出土していない小型瓦をSB140の葺瓦とみなすのはあまりにも無謀であり、論理に飛躍がありすぎる。
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菅原遺跡報告書批評のための習作(8)

 円形建物SB140を囲繞する周辺施設については、報告書第3章で遺構と遺物に分けて記述しているが、ここでは施設ごとに遺構と遺物をまとめて述べようと思う。遺物については、建物復元と係りの深い瓦にほぼ絞り、遺構との関係を考えていきたい。報告書の記載はこのページの下段より一括して圧縮転載するが、まずは報告書を読んだ当方の感想を記す。

批評-西大寺系瓦から見通して:頓挫した八角塔の匂い

 まず全体的に言えることだが、瓦などの遺物を「掘立柱の柱穴から出土した」と記述するだけで、柱穴の掘形か抜取りかを明示していない点が残念である。掘方なら建物の設置、抜取りなら廃絶と相関するので悩ましい。さて、元文研が注目する小型瓦の出土状況をみると、北側の東西棟掘立柱建物SB150で、小型瓦の可能性のある丸瓦2点(6・7)、平瓦3点(8・9・10)が出土。掘立柱の単廊SB160では、小型瓦と確定するか、それに復元できるものが2点(平瓦12・14)、小型瓦の可能性があるものも2点(平瓦13・丸瓦18)出土している。このほかでは、北西の掘立柱塀SA170で小型の平瓦1点のみ(30)、北側飛び地の整地土II出土の丸瓦(58)も小型瓦とされる。報告書を読む限り、2020年度南区で出土した小型瓦は「可能性がある」ものを含めても、丸瓦4点、平瓦7点にすぎず、その分布は南区の北側外周域に偏る傾向が認められる。円形建物SB140周辺をはじめ、最も多くの遺物を得た南側の排水溝SD034や整地土Ⅰでは小型瓦は1点もみつかっていない。
 むしろ注目すべきは、西大寺と係る軒瓦・文字瓦である。約280点の瓦片を確認した排水溝SD034では、6711B形式の軒瓦(35・36)2点に加えて、「西」という漢字を刻印する平瓦(41)が出土した。報告書を引用すると、「41は平瓦で凹面側に『西』刻印が押捺されている。《略》奈良市の西大寺26次調査出土の平瓦に同范がある(未報告)。また、同范ではないが、書体は「西(a)」(西大寺 1990)に類似する」。掘立柱塀SA170で出土した平瓦31も瓦当は残らないが、軒平瓦であった可能性が高く、凸面押圧技法は東大寺および西大寺の造瓦司にみられる技法であり、「西」刻印瓦(41)とともに重要な位置を占めると報告書に記載される。また、整地土Ⅱに含まれた56は、西大寺系の6236D型式の蓮華文軒丸瓦であり、同57は均整唐草文軒平瓦である。


西大寺八角塔跡 西大寺八角塔跡02 西大寺東塔(方形五重塔)基壇跡の下に八角七重塔掘込地業の標示あり


 ここまで記せば、誰しも思い浮かぶのは西大寺八角七重塔ではないか。孝謙上皇が重祚して称徳天皇となり、天平神護元年(765)に西大寺が創建された。行基の没年は天平21年(749)であり、菅原遺跡南区に最初に持ち込まれた軒瓦は平城宮瓦編年のIII -2期(749~757年)にあたる6711B型式の軒平瓦と考えられるが、西大寺創建時においても、円形建物SB140等が行基の供養堂としてなお造営中もしくは修復中(あるいは裳階を増設中?)であり、西大寺の力を借りたと考えられる。しかも、西大寺東西両塔は当初、八角七重塔として構想されていた。その後、規模を縮小、意匠を改め方形五重塔として建立されたが、後に焼失。1956年の発掘調査で塔跡周辺に八角の掘込地業が確認されている。西大寺の八角塔で使用予定であった瓦を菅原遺跡円形建物に転用しようとした可能性を当然想定しなければならない。報告書の瓦出土状況を読んで思った。小型瓦は円形建物以外の周辺施設(塀・門・回廊等)と関係する匂いを発しているのに対して、円形建物には西大寺の瓦とのつながりを感じる。若干の時間差があるとはいえ、頓挫した八角塔と行基供養堂の関係を無視するわけにはいかないだろう。
 なお、老婆心ながら、さらに一言。掘立柱建物SB150の柱穴gを「棟持柱にあたる」としているが、奈良時代の一般建築の場合、「棟持柱」を使うことはまずない。梁下でとまる「妻柱」と考えるべきである。以下に報告書の圧縮引用文を掲載する。太字・下線は評者による。
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 以下は、すべて報告書第3章の抜粋転載である。

掘立柱建物SB150 遺構:pp.19-22 遺物:p.31
 調査区北側で検出した桁行5間、梁行2間の東西棟掘立柱建物で、西側ではSC160、東側ではSA170に接続する。規模は桁行 14.99m、梁行5.81mを測る。柱間は桁行方向では若干のばらつきはあるものの、およそ3m を前後するものが多い。平均すると3.03mであり、10尺で設計されていた状況が看取される。染行方向は、平均では2.90mとなり、桁行の柱間に比してやや短めである。柱穴は東西方向にやや長い傾向がみられるものの、ほぼ正方形を呈し、一辺 1.1m前後のものが多い。深さも最深のものは78cmを測り、平均すると約58cmである。柱痕跡は平均して直径約43cmである。西側棟持柱にあたる柱穴gでは根固め石を検出している(図版 22下)。遺物の出土は南東側の柱穴で頭著で、柱穴a~d・mから土器片、瓦片が出土している。多くは細片であるが、柱穴cからは土師器杯B、柱穴mからは軒平瓦 (6711B) が出土している。
 瓦塼類5(図 27、以下すべて)は均整唐草文軒平瓦である。顎は曲線顎Ⅰであり、特徴的な瓦当文様から 6711B型式と判断できる。同型式の軒平瓦はSD034 (36・37)、整地土(58)からも出土している。6 • 7は丸瓦である。6は玉縁が残る。外面は縄タタキ後、ナデ消し調整を施す。内面は表面劣化のため、調整不明である。玉縁は厚さ 0.8cm前後で非常に薄く、丸瓦の復元幅は約12cmを測る小型瓦である7は外面は縄タタキ後、ナデ消し調整を施す。内面は布目浪が残る。厚さは約 1.4cm と薄く、復元幅約11cmの小型瓦である。8〜10は平瓦である。8は内外面ともに表面が劣化しており、調整は不明瞭であるが、凹面にはかすかに布目痕が残る。厚さが 1.6cm前後で小型瓦の可能性がある。9は凸面は縄タタキ、凹面は表面劣化のため調整不明である。厚さは1.4cm であり、小型瓦であると考えられる。10は凸面は細かい縄タタキ調整、凹面は布目が残る。端面はケズリ調整で側面は凸面側の面取り調整を行う。厚さは1.2~1.4cm前後で小型瓦と考えられる。

回廊SC160 遺構:pp.22-25 遺物:pp.31-35
 調査区北西で検出した掘立柱の回廊である。構造は単廊で、北辺では5間分を検出し、西辺では8間分を検出している。西辺は調査区南端で大きく攪乱、削平されているほか、調査区外へとのびているため全容は不明である。北辺はSB150 との接合部分から西端までで約13.5mを測る。柱間にはややばらつきがあり、北辺の北側柱列の柱間は、最長が2.80m、最短が2.47m で平均すると2.63m、標準偏差は0.1263 である。南側柱列の柱間は最長2.90m、最短は2.26mで平均2.76m、標準偏差0.2499 でばらつきが大きい。とくに西辺との接続部である柱穴k-1間、柱穴 q-r間は柱間が短い。延長が13.5mで5間であることからすると、計算上の1間は2.7mとなり、9尺を基本に設計されていた可能性もある。西辺は調査範囲内で北端からの検出長22.24mを測る。西辺の西側柱列の柱間は、最長が3,15m、最短が2.34mを測り、平均すると2.78m、標準偏差は0.2283 である。また、東側柱列の柱間は、最長が3.00m、最短が2.40mで平均すると2.74m で標準偏差は0.2718である。北辺同様に設計上は柱間9尺を基本として設計されていた可能性が高い。また、回廊幅の柱間寸法に関しては、比較的近似しており、最長は2.98m、最短は2.70m を測る。平均は2.83mで標準偏差は0.0923で、ばらつきは少ない。
 柱穴はほぼ正方形を呈するものが多く、攪乱により原形を留めない柱穴a・bを除く平均は東西96.1cm、南北101.1cm を測る。なお、北東側の柱穴掘方は柱穴j~l、柱穴q~sなどでは回廊の軸線に対して、斜めに触れている状況が看取される。振れ幅は北側で東に7.6~17.4°であり、平均は12.9°である。深さは柱穴a・bを除くと、最深のものが91cm、平均すると56cmを測る。柱穴c・dの底面からは板状の石材がまとまって出土しており、柱痕跡と対応している状況が看取される。このような造作は一部の柱穴に限られ、地山は比較的堅固であることなどを勘案すると、柱の不陸調整のために柱下面に埋置されたものの可能性もある(図 17)。柱痕跡の直径はSB150よりも若干細い傾向がみられ、平均して37cmである。柱穴e・i・p・uでは柱の抜き取り穴が検出されているが、方向は一定しない。
 SC160 を構成する柱穴からは、柱穴a・b・k・l・n〜pを除いて遺物が出土している。多くは土器、瓦の細片であるが、柱穴c・xからは凝灰岩片が出土しいるほか、柱穴 wからは小型丸瓦が出土している。また、特筆すべきは柱穴h・gの掘方埋土中から円形の鉄製品が出土している点である。隣り合う柱穴に意図的に埋納された可能性が高いものと判断している。鉄製円盤は柱掘方南東隅底部付近から出土している(図版 29下)。


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魯班13世

Author:魯班13世
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魯班(ルパン)は大工の神様や棟梁を表す中国語。魯搬とも書く。古代の日本は百済から「露盤博士」を迎えて本格的な寺院の造営に着手した。魯班=露盤です。研究室は保存修復スタジオと自称してますが、OBを含む別働隊「魯班営造学社(アトリエ・ド・ルパン)」を緩やかに組織しています。13は謎の数字、、、ぐふふ。

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