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ブログを中断していた理由

 みなさま、大変ご無沙汰しております。 LABLOGの更新が半年ばかり途絶えてしまいました。
 じつはここ2年ばかり、心身の倦怠感を感じることが多く、ブログの執筆を始め、諸事やる気がおきない状況に自ら歯痒い想いをしておりました。昨年度末、2022年度卒業生・修了生は大変立派な卒論・修論を著し、見事な発表をしてくれました。わたしもこれを喜び、2月28日から2泊3日で沖縄の卒業旅行をするという異例の祝福をしております。しかしながら、当方の体調は依然快方には向かっておらず、卒業する学生諸君の論文概要がブログの下書きに投稿されているにも拘わらず、そのアップの気持ちが湧いてこないという自身の不調にもどかしさを感じていた次第です。
 そうこうしていると、GW明けの5月7日に、高校・大学時代の同級生T氏(東京在住)からメールが入りました。「ブログの更新が無いので心配している」というメッセージでした。わたしは、こう答えています。

   ご心配をおかけしております。ただの自堕落です。じつは糖尿病が一時悪化
   しており、仕事をする気がうせていたのと、大谷翔平選手の活躍でメジャー
   リーグをのんべんだらりと視聴する時間が長くなってしまっているなど
   どうしようもない理由によります。

 あぁそうかそうか、ということで一段落。その1週間後に事態が急変します。5月16日の夕方、授業と採点を終えて研究室を出ようとすると、右足に脚気のような反応があり、とくに階段を下りる際、露骨な異常を感じました。帰宅して、そのままソファに横たわり、明け方まで眠りに落ちたのですが、起床して歯磨きしようとすると、右手が上にあがらない。明らかな異変であり、まずスマホで検索し、脳梗塞の初期症状の可能性が高いことを知り、ただちに病院に電話して状況を説明したところ、やはり脳梗塞の症状だということだったのですが、3軒の病院では受け入れるベッドがないなどで断られ、4軒めの県立中央病院でようやく入院を許可されました。病院への移動については、自分では車を運転できないので、大学院生のメッシ君に来てもらいました。今となれば、命の恩人です。病院搬送後、ただちに血管注射をずぶずぶ打ち込まれ、CTスキャンとMRI検査をおこなった結果、左脳の下側に梗塞が確認されました(あとで分かったのですが、じつはこれで二度目だということです)。
 以後、5月27日まで入院しておりました。軽度の症状ではありましたが、本当はもう少し入院しておいた方がよかったようです。とはいえ、週2コマの講義などに穴をあけ続けることもできないので早めに退院し、5月30日(火)より授業に復帰した次第です。
 軽度の脳梗塞であるのは間違いありません。頭と口は相変わらずです。ただし、右足の歩行に後遺症があって、歩くスピードが遅くなり、歩行後の疲労も大きくなりました。車の運転はできます。最初2ヵ月は通勤など短距離に限定しており、近畿方面に移動する際はメッシ君に運転を委ねましたが、7月後半から自分で長距離も運転するようになりました。

 こういう事情でますますブログから遠のきました。日常生活の方は、授業はスケジュールどおりこなし、補講もおこないました。以前からオファーのあった学外での講演もこなしています。夏休みには第10次ブータン調査も実施しました。そして、後期が始まりました。学期はじめはいつでも憂鬱ですが、本日、初回の講義を迎えます。

 これまで下書きに溜まっているブログのアップから始め、前期活動を要約的に少しずつ公開し、それを終えたら、後期の活動も報告しようと思います。昨年までのような速度での更新は不可能と思われますが、なんとかネット上の日常を取り戻したいと考えております。よろしくお願いします。

卒業論文・修士論文発表会のお知らせ

 新年が始まって、3年の講義やゼミはすでに終了、1・2年のプロジェクト研究「エスニック料理のフードスケープ」の発表会も1月23日(月)に終わりました。今週の水曜ゼミから、卒論・修論関係のパワポ指導に移行して、4年生以上の尻を叩いております。
 今年の卒論・修論関係の発表者は以下の5名です。昨年、一昨年はリモートの発表会でしたが、今年は講義室での発表が決まりました。もし学外者で聴講希望がありましたら、教師の方までご連絡ください。

◆卒業研究発表会 2月8日(水)午後
  会場:26講義室(都市計画・インテリア・構造材料・歴史遺産の4研究室)
  ASALABの発表時間は午後3時38分ころからを予定していますが、半日がかりの発表会であり、時間が前後する可能性が高いと思われます。一人あたりの発表は12分、質疑2~3分の予定です。

【発表1】 小林 功典 KOBAYASHI Kosuke
文化的景観としてのラッキョウ畑-福部砂丘の土地利用変化から
Scallion fields as cultural landscape -From the view of land use change in Fukube sand dunes中間報告


【発表2】 上田 咲帆 UEDA Sakiho
クンサン・チョデン 『トウガラシとチーズ:ブータンの食と社会』の翻訳と考察
Translation and Consideration of Chili and Cheese:Food and Society in Bhutan by Kunsan Choden(2008) 中間報告

【発表3】 上野 夏輝 UENO Natsuki
旧地主邸宅の分譲型再生-葵御紋の土蔵と亭閣を中心に
Subdivision-type Revitalization of a Former Landowner's mansion: Focusing on Rest-pavilion and the storehouses with the Hollyhock crest中間報告


◆修士研究発表会 2月15日(水)午前@13講義室
 午前9時より修士1年の東くんが修士研究中間発表(質疑含20分)、11時より修士2年のテイ君が修士論文の最終発表(質疑含30分)をおこないます。会場は13講義室。

【発表4】 東 将平 AZUMA Shohei  9:00-
幸福な居場所のあり方に係わる試考 ー仏教国ブータンのGNH的生活を体験して 卒論概要
A Trial Study on the Way of Wellbeing Place - Through the Experience of the GNH Lifestyle in the Buddhist country Bhutan

【発表5】 テイ・ケンキン ZHENG jianxin 11:00-
小店の出自からみたマカオの多民族性に関する基礎的考察 -言語・建築・フードスケープ
A Fundamental Study on the Multi-Ethnicity of Macau from the Viewpoint of the Origins of Small Stores -Languages, Architectures and Foodscape 中間報告前年度関係卒論概要

2022年度卒業論文(3)ー中間報告

文化的景観としてのラッキョウ畑―福部砂丘の土地利用変化から
Scallion fields as cultural landscape -From the view of land use change in Fukube sand dunes

 鳥取砂丘のラッキョウ畑群は鳥取市福部町湯山一帯の砂丘の砂地を育成環境としている。山陰海岸国立公園の特別保護地区の中にある耕作地であり、鳥取県有数の農業特産地として重要であるだけでなく、景観資源としても注目される。とりわけ、10月末~11月初には紫色のラッキョウの花が咲き乱れ、耕作地は広大な「ラベンダーの絨毯」のようになる。その壮麗な風景/景観を鑑賞しようと、短期間の間に大勢の観光客が耕作地を訪れる。本研究は湯山のラッキョウ畑でボランティア活動を続けることにより、ラッキョウ栽培をできるだけ農家の側から捉えつつ、文化財保護法に規定する「文化的景観」もしくは「名勝」としての指定の可能性を探ろうとするものである。


鳥取砂丘の変化1948年 鳥取砂丘1948


1.鳥取砂丘とラッキョウ畑の歴史
 砂丘から耕作地へ 砂丘は耕作に不向きな土地とみなされてきた。鳥取砂丘の場合、明治29年(1897)から陸軍歩兵第四十連隊の演習地となり、昭和20年(1945)の大戦終了後までほとんど放置されていた。戦後、砂丘での植林事業が本格化する。現鳥取大学乾燥地研究センター北側など一部のエリアを残した砂丘のほとんどが植林された。また、食糧不足のため、国は食料の増産を緊急課題とし、砂丘の農地利用開拓が全国的に展開する。
 鳥取砂丘は元々岩戸海岸から白兎海岸まで延々と連続する海岸の砂地であったが、福部砂丘はラッキョウ畑へ、浜坂砂丘は現在の自然保護地区としての「鳥取砂丘」となり、湖山砂丘は鳥取空港へと変化した。
 砂丘を自然のままに 砂丘周辺の植林が進む一方、民藝活動家の吉田璋也や鳥取大学の生駒義博らは砂丘の自然資源としての価値を見出し、砂丘を自然のまま残すよう国や自治体に働きかけた。その結果、昭和30年(1955)に鳥取砂丘の中心部30haが国の天然記念物に指定された。山陰海岸国定公園の指定も受け、砂丘の一部は自然保護の方向が定まった。昭和38年(1963)には国定公園から国立公園に昇格し、保護区域は146haまで拡大した。
 福部砂丘のラッキョウ畑  『福部村誌』(1981)によると、鳥取県福部村(現福部町)でラッキョウが栽培され始めたのは、江戸時代に遡る。当時は、主に自家消費用に細々と栽培されていたものと思われる。戦前に砂丘の農地開拓が福部村周辺に及ぶと、大正6年(1917)に佐々木勘蔵・浜本四方蔵らによって15haの砂丘畑の開墾に成功した。砂丘ラッキョウは病害虫が少なく、無灌水でも艶のある小粒ラッキョウが出来、植付後から収穫期まで防砂効果を高く発揮したため、砂丘畑向きの作物として注目された。大正初年ころ、砂丘畑におけるラッキョウ栽培が有効であると認識され、かなり本格的に栽培されていたと推察される。また、浜本の提唱によりラッキョウを中心とする産業組合が設立され、大正元年に開業していた国鉄山陰本線の鉄道貨車を使って京阪神市場に根つきラッキョウを出荷していた。しかし、当時は輸送技術や芽止め技術が確立しておらず、腐敗・変質・発芽などから有利な販売に至らなかった。また、ラッキョウは日光によって赤紫に変色するため、長期販売に向かない。そこで、塩漬けや瓶詰め等の加工ラッキョウの方向性で販売が始まり、根付いたとされる。
 戦後の栽培地拡大 昭和28年(1953)、食糧不足改善へ向けて海岸砂地地帯農業振興臨時特別措置法が制定され、砂地でのラッキョウの有利性が認められ栽培地は一気に拡大した。今ではスプリンクラーなどが完備されているが、以前は人力で河川・湖から水を確保しており、農作業の過酷さから「福部へ嫁がせるのは嫁殺し」と言われたという。このような苦境を乗りこえたのは鳥取大学乾燥地研究センターの支援があったからである。こうして、砂丘ラッキョウというブランドが生まれたといえる。


鳥取砂丘の変化1961年 鳥取砂丘1961


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2022年度卒業論文(2)ー中間報告

古民家再生ークラとハナレの保全再生と新築施設の付加
Reproduction of Old Folk Houses - Conservation of storehouses and guesthouse and addition of the new construction house -

1.研究の目的
 近年、古民家の再生に注目が集まっている。木造建築の持続可能性は、文化財保護の指定・登録制度による「保存」にとどまらず、カフェ、ギャラリー、住宅などへの現代的再生によって実現可能になる。昨年より、研究室でおおいに着目しているのは、カール・ベンクス氏(80)の活動である。旧東ドイツ出身のカール氏はベルリンの壁を越えて西側に亡命した。父親の影響で、幼いころから、ブルーノ・タウトの『日本の家屋と生活』等の著書に親しんでおり、日本の文化と建築に憧れを抱き、パリ経由で来日。その後、新潟県十日町市の限界集落「竹所」に移住し、自邸「双鶴庵」をはじめ多くの民家を再生して集落人口を倍増させている。
 このたびASALABは、鳥取市河原町大字河原に所在する空き家T家の建造物調査を管理者より依頼された。T家は主屋の一部や土蔵が幕末に遡る古民家であり、文化財保護の対象たりうるが、所有者・管理者は邸宅を文化財とすることを望んでいない。むしろ土蔵をカフェに再生転用するアイデア等が面白いと考えている。カール・ベンクス型の再生手法がモデルとなりうる木造建築群だと思われる。
 こうした管理者等の意見を踏まえながら、筆者はT家の「一部」を現代的施設に再生する案を具体的に示したい。なぜ一部かと言えば、敷地全体の面積が300坪(約1,000㎡)に及び、新しい事業主が不動産を購入して運営するには土地等購入代金が高く、維持管理にも手間が掛かりすぎるからである。


谷本家 背戸川沿い外観
↑T家背戸川沿いの土蔵群と裏木戸


2.T家の第1次調査
 T家は河原町河原の上方往来(因幡街道)に東麺して西側に建つ旧地主宅である。対面には映画「寅次郎の告白」(1971)の舞台となった新茶屋が店棚を構える。新茶屋も今は空き家である。T家の調査はこれまで2度おこなっている。第1回調査は5月18日に主屋、土蔵2棟(南蔵・西蔵)の実測と屋敷地全体のドローン空撮に取り組んだ。敷地は広大であり、背面側は背戸川まで達している。
 主屋: 木造平屋建切妻造鉄板葺。元は茅葺の四間取りに復原される。表側の2室(奥座敷+仏間)は地味な書院造で保存状況が良好。座敷飾のうち付書院を平書院とする点は省略的であり、長押を全く用いない点も農家に近く古式を示す。後述する土蔵の年代を参照にすると、この2部屋のみ幕末に遡る可能性がある。裏側の2室とツノヤ、厨房(元土間)は大正・昭和以降の改造が著しく、文化財保護の対象とはみなしがたいが、景観資源としては重要である。
 南蔵: 敷地南側、小路沿いに建つ東西棟(7間×3間)。内側にオダレ(庇)が付き、背戸川に西妻壁が面する。二階建切妻造桟瓦葺で東側のハナレとほぼ同高。妻壁の小屋組は梁を相接して積み上げ、束を用いていない。戸口のマグサと背戸川に面する妻壁の妻飾に三葉葵御紋のコテ絵をあしらう。


谷本家 南蔵実測図 T家南蔵 平面図・断面図    


 西蔵: 敷地の西側中央、背戸川に面して建つ南北棟。二階建切妻造桟瓦葺で北側に裏木戸・味噌蔵が軒を連ねる。三葉葵家紋のコテ絵は戸口マグサのみ確認できる。南側の妻壁はトタン張りになっている。現存平面規模は桁行3.5間×梁間3間だが、南妻壁のさらに南側地面に2間ばかりの盛り上がりがあり、土蔵基礎はここまで続いていたと推定され、当初平面は桁行6~7間であったと思われる。主屋背面のツノヤを増築する際、蔵の一部を切り取り、切断部分にトタンを貼ったのが今の妻壁ではなかろうか。おそらく当初の妻壁には三葉葵御紋をあしらっていただろう。
 小屋組は南蔵と同じく梁を相接して積み上げ、束を用いていない。両者で異なるのは梁間の柱割であり、南蔵では半間毎、西蔵では3尺毎に柱を立てる。両者の妻壁と入口マグサに残る三葉葵御紋は同型であり、二つの土蔵が幕末以前に遡るのは間違いない。この理由については詳らかではないが、本家が徳川家に米を献上したという伝承があるようだ。鳥取県内で葵御紋をあしらう建築は因幡東照宮とその別当寺「大雲院」のみとされてきたが、T家土蔵2棟がそれに加わった。


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2022年度卒業論文(1)-中間報告

クンサン・チョデン著『トウガラシとチーズ ブータンの料理と社会』の翻訳と批評
Translation and review of Chilli and Cheese:Food and Society in Bhutan by Kunsan Choden(2005)

 ASALABでは一昨年(2019)まで、ブータンの生活・仏教遺産等に係わる調査を8年連続でおこない、一定の成果を上げてきた。この2年間はcovid-19の蔓延により海外渡航が叶わなかった。私は3年次から、ブータン初の女性作家クンサン・チョデン(Kunzan Choden)の著書『トウガラシとチーズ-ブータンの料理と社会(原題: Chilli and Cheese :Food and Society in Bhutan)』(2008)の全訳に取り組んでいる。

1.本書の構成
 本書は以下のような構成をしている。

1.Introduction
第1章 はじめに(序論)
2.Our Beliefs and Our Realities
第2章 ブータンの信仰と現実
3.Celebrating New Year
第3章 新年を祝う
4.The Bhutanese Kitchen
第4章 ブータンの台所
5.Food through the Ages
第5章 世々代々の食べ物
6.Food in Religion and Ritual
第6章 宗教と儀式の食べ物
7.Food for the Hungry Spirits
第7章 空腹な神霊に捧げる食べ物
8.Food Weighed, Measured and Stored
第8章 保存食
9.Lifecycle and Food
第9章 生活サイクルと食べ物
10.Tea and Tea Ceremonies
第10章 茶とその作法
11.Food for Enjoyment: Betel
第11章 嗜好品-キンマ(檳榔樹の実)
12.Chang: From Esoteric Offering to Drunken Brawl
第12章 チャン-密教供物から酔っ払いの喧嘩へ
13.Chilli and Cheese: The National Dish
第13章 トウガラシとチーズ-国民食
14.To za-Eat Food (Eat Rice)
第14章 米食
15.Less Known and Nearly Forgotten Foods
第15章 ほとんど知られていないか忘れられた食べ物
16.Vegetables for Mountain Environments
第16章 山の野菜
17.Buckwheat: The Crop of Cold, High Altitudes
第17章 ソバ-寒冷高地の穀物
18.Ju nor semchen: Wealth of Cattle and Other Animals   
第18章 ジュノール・セムチェン-牛や他の動物がもたらす富
19.Foods from the Forests
第19章 森の食べ物
20.Foods of Nepali Origin
第20章 ネパール由来の食べ物

Chilli and Cheese 表紙(表) 上田中間報告 Chilli and Cheese 表紙(裏) 
『トウガラシとチーズ-ブータンの料理と社会』の表紙・裏表紙


2.序論の翻訳抜粋
 本研究のいちばんの目的は、チョデン女史の英文著作の全篇を丁寧に翻訳することだが、とくに重点を置く章は、書名にもなっている第13章「トウガラシとチーズ-国民食」と、研究室が取り組んでいる第17章「ソバ-寒冷高地の穀物」である。まずは序論のうち書題と係り深い部分(p.3-4)を抜粋して訳出する。
 農業と食料生産: ブータンは伝統的に牧畜民と農民の社会であり、20世紀半ばまで都市は存在しなかった。農業は主に自給自足を目的としていた。現在、農業は労働力の63%を占め、GDPの24%を生み出す最も重要な経済部門となっている(2005統計)。ブータンは地形が非常に極端なため、農業に適した土地はごく一部で、耕作地は国土のわずか6%に過ぎない。残りの面積のうち72%は森林に覆われている。
 過去の農業慣行に関して入手できる情報はほとんどない。標高や降水量に大きな開きがあり、生産環境は多様であるものの、高い標高、急勾配の傾斜、悪質な土壌、水不足といった理由で耕作限界に達しているところもある。ブータンの農民や遊牧民はそのような状況に適応した生産方法を考案し、過酷な山間部の環境で社会が発展するための基盤となっている。標高は作物栽培にとって大きな障壁となる。たとえば、バナナは標高1200mまでしか育たないが、米は2600m、トウモロコシは3000m、大麦、ソバ、ダイコン、カブは4000m、ジャガイモは4300mが上限になる。ヤク牛の飼育は、標高5000mの永久積雪線に接した草原で栽培されている。ヤク放牧者は標高3500~4000mの冬期放牧地の近くに定住している場合がある。この標高では、大麦、マスタード、ダイコン、カブなどを栽培する小さな畑があることもある。中央ブータンの高地では、小麦、大麦、ソバを混作している。標高2600~3500mでは、伝統的な焼畑pangshingによるソバ栽培システムが一般的であった。


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プロフィール

魯班13世

Author:魯班13世
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魯班(ルパン)は大工の神様や棟梁を表す中国語。魯搬とも書く。古代の日本は百済から「露盤博士」を迎えて本格的な寺院の造営に着手した。魯班=露盤です。研究室は保存修復スタジオと自称してますが、OBを含む別働隊「魯班営造学社(アトリエ・ド・ルパン)」を緩やかに組織しています。13は謎の数字、、、ぐふふ。

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