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2021いい加減に学ぶ中国語講座(5)

MACAU SKYLINE


百度百科「澳門」翻訳(5)
https://baike.baidu.com/item/%E6%BE%B3%E9%97%A8/24335

 皆さん、こんにちは。ブログをご覧いただきありがとうございます。修士1年の金巴克です。今回も和訳を通して、マカオの理解と日本語の向上に努めます。よろしくお願いいたします。

ポルトガル植民地として

1.原文
殖民历史
 1553年,开始有葡萄牙人在澳门居住。虽然从1557年开始被葡萄牙人在明朝求得澳门的居住权,但明朝政府仍在此设有官府,由广东省直接管辖。直至1887年葡萄牙政府与清朝政府签订了《中葡会议草约》和有效期为40年的《中葡和好通商条约》(至1928年期满失效)后,正式通过外交文书的手续占领澳门。
 1622年,荷兰人攻打葡萄牙租借自明朝的澳门,被击败(澳门之战)。1627年荷兰人再次来犯,又战败于澳门海战。
 葡萄牙人最初限定只能居住在澳门南方,1623年,葡萄牙政府委任马士加路也为首任澳门总督。澳门历史上以中西文化交流驰名于世,明末清初的西学东渐在地区上扮演一个重要的角色,曾在世界经济的运转中发挥重大作用。
 澳门自被葡萄牙侵占以来,葡萄牙人在澳门一直拥有特权或特殊地位,这使普遍居民大小程度的不满;从1849年8月29日沈志亮刺杀总督亚马留伊始,直至1966年12月3日因文化大革命和氹仔学校事件而触发的“一二·三”事件,均显示了民间对于葡萄牙人在澳门的特权一直深感不满。1974年4月25日,葡萄牙革命成功,实行非殖民地化政策,承认澳门是被葡萄牙非法侵占的,并首次提出把澳门交还中国。由于当时不具备适当的交接条件,时任总理的周恩来提出暂时维持澳门当时的状况。


マカオ港務局大樓


2.中国の簡体字を日本の漢字に変換
楽訳中国語変換 http://www.jcdic.com/chinese_convert/

 1553年,開始有葡萄牙人在澳門居住。雖然従1557年開始被葡萄牙人在明朝求得澳門的居住権,但明朝政府仍在此設有官府,由広東省直接管轄。直至1887年葡萄牙政府与清朝政府簽訂了《中葡会議草約》和有効期為40年的《中葡和好通商条約》(至1928年期満失効)后,正式通過外交文書的手続占領澳門。
 1622年,荷蘭人攻打葡萄牙租借自明朝的澳門,被撃敗(澳門之戦)。1627年荷蘭人再次来犯,又戦敗于澳門海戦。
 葡萄牙人最初限定隻能居住在澳門南方,1623年,葡萄牙政府委任馬士加路也為首任澳門総督。澳門歴史上以中西文化交流馳名于世,明末清初的西学東漸在地区上扮演一個重要的角色,曾在世界経済的運転中発揮重大作用。
 澳門自被葡萄牙侵占以来,葡萄牙人在澳門一直擁有特権或特殊地位,這使普遍居民大小程度的不満;従1849年8月29日沈志亮刺殺総督亜馬留伊始,直至1966年12月3日因文化大革命和氹仔学校事件而触発的“一二·三”事件,均顕示了民間対于葡萄牙人在澳門的特権一直深感不満。1974年4月25日,葡萄牙革命成功,実行非殖民地化政策,承認澳門是被葡萄牙非法侵占的,併首次提出把澳門交還中国。由于当時不具備適当的交接条件,時任総理的周恩来提出暫時維持澳門当時的状況。


3.和訳
 1553年にポルトガル人はマカオに住みを始めた。ポルトガル人によって1557年より明王朝からマカオの居住権を獲得したが、明王朝は依然としてここに官府(自治政府)を設け、広東省を通して直接に(マカオを)管轄した。1887年になって、ポルトガル政府と清政府が「中葡会議草案条約」と有効期40年間の「中葡友好通商条約」(1928年に満期失効)を締結した後、正式な外交文書を通して(ポルトガルは)マカオを占領した。
 1622年、オランダは、ポルトガルが明王朝から租借したマカオを攻撃し、敗北した(マカオの戦)。1627年、オランダは再度マカオに襲来したが、マカオの海戦でまた敗れた。
ポルトガル人は当初マカオ南部に限定して居住していた。1623年、ポルトガル政府はマスカロ(Francisco Mascarenhas)をマカオの初代総督に任命した。マカオは歴史上、中国と西洋の文化交流によって世界に名を馳せた。明末清初の西学東漸(西洋の学問が東洋に漸次浸透すること)はこの地において重要な役割を果たし、世界経済の動向に重大な影響をもたらした。
 マカオがポルトガルに占領されて以来、ポルトガル人はいつでもマカオで特権や特別な地位を有していたため、(華人系の)居住者は大なり小なり不満を抱いていた。1849年8月29日に沈志亮がアマリウ総督を刺殺した事件から、1966年12月3日の文化大革命とタイパ学校事件によって触発された「12·3」事件まで、(華人系)民間人がマカオにおけるポルトガル人の特権に対してずっと深い不満を抱いていた事実を示すものである。1974年4月25日、ポルトガル国内の(市民)革命が成し遂げられ、脱植民地化の政策を実行した。ポルトガルはマカオの不法占拠を認め、初めてマカオの中国返還を提案した。(しかしながら)当時は適切な交換条件を整えることができなかったので、時の総理・周恩来は、マカオの当時の状況をしばらく維持することを提案した。(金巴克・遊民)


聖フランシスコ・ザビエル教会


2021いい加減に学ぶ中国語講座(4)

アルメイダ・リベイロ通り(2)


百度百科「澳門」翻訳(4)
https://baike.baidu.com/item/%E6%BE%B3%E9%97%A8/24335

 みなさん、こんにちは。4年の遊民です。今回も中国語翻訳の続きを行いました。少しづつですが翻訳のスピードが上がっており、これまでの成果を感じています。今以上によくなるようにもっと頑張りたいと思います。


マカオ所轄と変転(1)-明代まで

1.原文
 澳门先秦属百越地。从秦帝国起就成为中国领土,属南海郡。澳门古称濠镜澳,与广州香山县的历史关系极其密切。早在春秋战国时期,香山已属百越海屿之地。约前3世纪(即秦始皇一统中国之时),澳门被正式纳入中国版图,属南海郡番禺县地。420年(晋朝元熙二年),澳门属新会郡封乐县地。590年(隋朝开皇十年),废新会郡改属宝安县地,757年(唐朝至德二年),废宝安县,改为广州东莞县辖。自南宋开始,澳门属广东省广州香山县。据史料记载,宋末名将张世杰与军队曾在此一带驻扎;早期在澳门定居的人在此形成小村落,倚靠捕鱼与务农种植为生。元代属广东道宣慰司广州路,路治广州,明代属于广州府,清朝后期前属广肇罗道广州府,道治肇庆,府治广州。
 澳门半岛之有大量华人定居,是在南宋皇朝倾覆之际。当几十万南宋军民从福建败退乘船长驱到达澳门一带,有的可能踏上这片半岛汲取淡水、寻找食物,有的更可能将这片荒僻地辟成藏身之所。召集澳门半岛上名为“永福古社”的沙梨头土地庙,便相传邕建于南宋末年。大约在南宋末年至元初,澳门半岛上的望厦、濠镜等地,已是定居的居民点了。自此以后,澳门始稍有人烟,但由于地方细,耕地缺,物产少,立足生活繁衍后代并不容易。直至16世纪中叶,即明世宗嘉靖年间。

2.中国語の簡体字を日本の漢字に変換
参考サイト「楽訳中国語翻訳」http://www.jcdic.com/chinese_convert/

 澳門先秦属百越地。従秦帝国起就成為中国領土,属南海郡。澳門古称濠鏡澳,与広州香山県的暦歴史関系極其密切。早在春秋戦国時期,香山已属百越海嶼之地。約前3世紀(即秦始皇一統中国之時),澳門被正式納入中国版図,属南海郡番禺県地。420年(晋朝元熙二年),澳門属新会郡封楽県地。590年(隋朝開皇十年),廃新会郡改属宝安県地,757年(唐朝至徳二年),廃宝安県,改為広州東莞県轄。自南宋開始,澳門属広東省広州香山県。拠史料記載,宋末名将張世傑与軍隊曾在此一帯駐扎;早期在澳門定居的人在此形成小村落,倚靠捕魚与務農種植為生。元代属広東道宣慰司広州路,路治広州,明代属于広州府,清朝后期前属広肇羅道広州府,道治肇慶,府治広州。
 澳門半島之有大量華人定居,是在南宋皇朝傾覆之際。当幾十万南宋軍民従福建敗退乗船長駆到達澳門一帯,有的可能踏上這片半島汲取淡水、尋找食物,有的更可能将這片荒僻地辟成蔵身之所。召集澳門半島上名為“永福古社”的沙梨頭土地廟,便相伝邕建于南宋末年。大約在南宋末年至元初,澳門半島上的望厦、濠鏡等地,已是定居的居民点了。自此以后,澳門始稍有人煙,但由于地方細,耕地缺,物産少,立足生活繁衍后代併不容易。直至16世紀中葉,即明世宗嘉靖年間。


アルメイダ・リベイロ通り




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祭礼の持続可能性(1)

地蔵盆ブログ表紙 地蔵盆ブログ2


倉吉市河原町地蔵盆に係わるヒアリング

 11月17日(火)、会長に率いられ、4年生全員で倉吉市河原町地蔵盆のヒアリングに臨みました。いま私は地元静岡の赤尾渋垂郡辺(あかお・しぶたれ・こうりべ)神社の「袋井祭り」の持続可能性について卒業研究に取り組んでいます。当初は袋井祭りのみを主題とする予定でしたが、過疎地における祭礼の持続可能性ということなら、鳥取の例も取り上げて比較すべきだという指導があり、このたびのヒアリングが実現することになりました。
 倉吉市河原町の地蔵盆については、ASALABが2016年前後に調査をおこなっています。ヒアリングの対象は、我らがマッド・トリオのリーダー、マッド・アマノさん(河原町の文化を守る会)です。大変有益なお話を聞かせていただきました。


ヒアリング中ブログ


 地蔵盆は、地蔵菩薩の縁日であり、一般的にはお盆の1週間後にあたる旧暦7月24日を軸にして、その前日(新暦8月23日)の宵縁日を中心とした3日間開催されます。文字通り、地蔵菩薩の祭りをさしますが、子供が主役の祭りであることもよく知られています。河原町の場合、過疎の影響を受け、中学校1年生以下の子供たちの数が著しく減って存続が危ぶまれており、様々な対策を講じています。以下はアマノさんの発言を箇条書きします。
 
 ①地蔵盆の現状は、ASALABが『地蔵盆を未来へ』(報告書2016)を刊行した当時の状況(数名)と大差ない。しかし、地蔵盆の主役となる6~13歳の子供の数はこれからどんどん減っていくのではないか。
 ②帰省して地蔵盆に参加する家族・子供・孫は少なく、仮にいたとしても地蔵盆を手伝うのではなく、楽しむ側にだけ回ってしまう。
 ③人を呼び込むため、東京巣鴨の「とげぬき地蔵」を参考にして、春・秋・冬にも季節に即した地蔵盆を催し、町を盛り上げようという試みを続けている。たとえば春の地蔵盆では餅つきをする。子供だけではなく大人の参加も促している。周辺の町からも参加したいという声があがるなど、地蔵盆への関心を持ってもらうことに成功している思う。

 このように、地元住民や地元出身の子供たちや孫だけでは祭礼を維持できないので、過疎地において祭礼文化を持続させていくためには、人を引き込むような形態や行事に取り組むなど、外部の力の取り込みは必要不可欠になっているという印象を受けました。もともと子供の祭りだったのが、人口減少・少子化・高齢化のあおりを受けて、地域の祭りに変化していきつつある。祭りの在り方や形態を変化させる必要があるということです。

河原町の文化を守るため-外部と内部とバランス

 祭礼を持続させるには担い手だけではなく、「文化」の継承も大きな問題である。その点についても、河原町はしっかり対策をとっておられる。河原町には地蔵盆の実行委員会や「文化を守る会」がすでにあり、昔の写真を集めるなどの活動に励んでおられる。祭礼を持続させるためには、祭りの記録を残すことが重要である。祭事としての本来の意味や歴史的変化を理解することは、次世代の担い手に興味を持ってもらうきっかけになります。 
 「地蔵盆は多感な少年少女時代に体験した楽しい思い出、ほかの町の人では体験できない貴重な体験としてかけがえのないものになっていると思うからからこそ、まだまだ続けていきたいという思いがある」とアマノさんはおっしゃいました。このような根強い意識こそが祭礼を持続させる意欲の根源にあるのではないか思いました。
 地蔵盆に係わるコミュニティの範囲にも変化が認められます。河原町だけでは手におえないということで、明倫地区や倉吉市を巻き込んでの活動が必要になるのです。より大きな自治組織を動かすためにも、河原町住民の「やる気」が大切であり、人口減少を先の問題として楽観視するのではなく、直近の切実な問題としてとらえ議論しつつ、住民全体の「やろうじゃない」という心意気を露わにしていく必要がある。「表面的な伝統」だけでは言い表せられない思いがある祭りを今後も続けていきたいとアマノさんはおっしゃいました。今後ますます過疎が加速していく地方において、祭礼を持続させていくためにはそうした自治体をも動かす心意気が必要だと思いました。
 ヒアリング後、倉吉の歴史的市街地を散策しました。白壁土蔵群などの文化財を活用し、観光に力を入れている町であるのならば、祭りの情報も広く発信し、人を集めることで、外部の多くの人に求められる祭りにしていくことも大切ではないかと考えました。しかしながら、人を集めるための「イベント」にしてしまうと、伝統も威厳もないエンタメに堕してしまいかねません。外部と内部の兼ね合いが難しいですが、これから祭礼を維持していくうえでの鍵を握ることは間違いないと思いました。(沼の鰻)

《関係サイト》
冬の地蔵祭
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-1167.html
『地蔵盆を未来へ―倉吉の歴史まちづくり(Ⅱ)―』刊行!
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-1218.html




倉吉ブログ」

アイアンロード

図1 高さ10m以上の楼観(ものみやぐら)CG 図2 杉皮葺き大型建物CG


青谷上寺地復元建物CGの新バージョン

 アイアンロードってなんや、アイアンクローの間違いやろっ・・・という突っ込みは、フリッツ・フォン・エリックの「鉄の爪」に唸った昭和のプロレスファンしか分からんだろうなぁ。
 アイアンロードとは「鉄の道」であります。シルクロード(絹の道)より古い文明の伝播ルート。わたし自身、トルコの首都アンカラでヒッタイトの遺跡を眺めた記憶があります。そこが鉄の起源地であり、じつに紀元前15世紀に遡るというから驚いた。周辺の民族が青銅器しか知らない時代に鉄器をもったヒッタイトは圧倒的な戦力により覇王となった。そこから、どうやって鉄は日本にまで伝わったのか。そういう番組をNHKが制作するにあたって、青谷上寺地遺跡の復元建物CGを使いたい、というオファーを頂戴したのは昨年の9月初旬のことである。このたびの魏志倭人伝講演会で改めて確認されたように、帯方郡から邪馬台国に至る魏使の行路は日本海における鉄の流通路とほぼ重なり合う。その経由地として於投馬(イズモ)国とともに注目されるのが青谷上寺地遺跡であり、復元建物のCGを「NHKスペシャル」と「歴史秘話ヒストリア」に使いたいとの依頼だったのである。
 担当者と面談したのはブータンから帰国した直後の9月13日、場所は奈良自宅の近くにあるヴェジカフェであった。青谷上寺地のCGは著作権をASALABと某民放局が共有しているため話は少々入り組んでしまったが、結局、報告書の復元図をもとに作成しなおすしかない、という合意に至る。以後、何回か画像の校正をしました。なんとかボツにはならず済んだようです。担当者の言によりますと、「残念ながら日本パートは一番最後にちらっと登場するだけ」になってしまったとのことだが、まぁ、出していただけるだけマシだと感謝しましょう。番組名等は以下のとおりです。

NHKスペシャル
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アイアンロード~知られざる古代文明の道~
【NHK総合】2020年1月13日(月祝)21:00~21:59
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http://www6.nhk.or.jp/special/detail/index.html?aid=20200113

歴史秘話ヒストリア
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弥生ニッポン鉄物語(仮=正式タイトル未定)
【NHK総合】2020年2月12日(水)22:30~23:20
【NHK BS4K】2020年2月27日(木)20:20~21:10
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 どうか皆様、ご覧ください、録画してください。

内モンゴルのオボーを訪ねて(4)

20190916エルデン・チャガンオボー02


エルデン・チャガンオボー

 2019年9月16日(月)、私たちの運転手(叔母さん)が10時まで別の仕事に行った為、ダルハン・ムミンガンに着いたのは午後の13:45でした。本日は最後のオボー巡りで、ワクワク感がとまりません。
 午後14:32、17.5km離れたエルデン・チャガンオボーに到着。エルデン・チャガンオボーは海抜1,509mの山頂にあります。清の時代から祭祀をおこない、今に至ります。高さ約14m、直径約58m、四段円錐形を呈し、左右5基ずつ、前後1基ずつ小型オボーを伴う群集型です。


20190916エルデン・チャガンオボー03


 普通のオボーは段上に上ることができない構造でしたが、エルデン・チャガンオボーは上ることができます。筆者は三段目の四角い穴にすごく興味を抱いたので、ガイドのムンへ・バートルさんに訊ねました。
 ムンへ・バートルさんの説明によると、オボー祭祀儀式は大きく二つのタイプに分かれます。一つはチャガン・デヒリグ(白祭祀)でもう一つはオラーン・デヒリグ(赤祭祀)です。白祭祀は単純に乳製品や神聖なる供物を捧げ祭る方法です。一方。赤祭祀は羊を祭壇の香炉の前で殺し、その場で調理して、祭祀に参加した全員に分け与える儀式です。羊をさばいた後、羊の頭をオボーに向けて、石穴に置きます。それは、「頭」は一番神聖な部位とみなされ、その最良の品をオボーに捧げ、祭祀をおこなうのです。これが赤祭祀=オラーン・デヒリグです。わたしは風化した羊の頭蓋骨を発見しました。


20190916エルデン・チャガンオボー07


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プロフィール

魯班13世

Author:魯班13世
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魯班(ルパン)は大工の神様や棟梁を表す中国語。魯搬とも書く。古代の日本は百済から「露盤博士」を迎えて本格的な寺院の造営に着手した。魯班=露盤です。研究室は保存修復スタジオと自称してますが、OBを含む別働隊「魯班営造学社(アトリエ・ド・ルパン)」を緩やかに組織しています。13は謎の数字、、、ぐふふ。

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