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熊野神社遺跡(Ⅰ)

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修験の磁場へ

 6月末で学生の摩尼山での活動は一段落し、学内での整理とプレゼン準備に移行してしまいましたが、私個人は佐治町の熊野神社遺跡をなんどか訪れていました。「聖なる巌」の鳥取講演に元校長先生のTさんが来場され、熊野神社遺跡のパンフをいただいたのが事の始まり。熊野神社遺跡は佐治村の指定史跡であったものが、2005年の市町村合併後に持ち上がりで市指定文化財(史跡)に格上げされたものです。中世に熊野神社信仰が全国各地にひろまり、それが佐治にも及んだものだろうと推定されており、パンフをみると、磐座、小鳥居、本殿跡、「奥の院」の石窟・羅漢仏(↑)に「那智の滝」などが山麓から山上に分散しています。これはぜひともみておきたいと、まず14日に現場を訪れ、近所で野良仕事をしていたTさんにご案内いただいた。その後、個人的にさらに2度訪問し、3度目の26日(木)には学生諸君数名に視察してもらいました。
 というわけで、何回か熊野神社遺跡訪問記を連載しようと考えており、視察した学生のうちジャンケンで負けたイッポ君がブログを書くことになっていたんですが、そのイッポくんは、プロジェクト研究「修験道トレッキング」の感想文を先に送ってきたのです。昨夜のブレイクDくんの感想文で摩尼山の前期活動は一段落と思っていたのですが、もちろん掲載しないわけにはいかないですよね。
 なお、本日掲載の写真はすべて熊野神社遺跡ですので、ご注意ください。


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当たりくじを引いたプロ研

 僕の授業資料ファイルには、今までのプロ研に関するブログ記事が全て印刷された冊子がある。パワーポイント作りのための資料だが、今回感想を書くにあたってちょっと取り出してみた。冊子はホチキスの芯1つでは綴じることができず、前半と後半に分けたほど分厚い。我々の活動を文字にして表すとこんなにもなるのかと少し感動した。そこで、一通り目を通すと1番最初の顔合わせが4月12日で以後15回の活動をこなし、7月21日の発表会をもってプロ研の活動が終了した。
 僕は3ヶ月以上の期間をとても短く感じた。時が経つのを忘れるほど夢中になったと表現してもいい。実際、今回の活動や取り組みはバラエティに富んでおり、毎回楽しみだった。そもそもの始まりは、プロ研のシラバスに書かれた「山歩きの好きな人、大集合!」の宣伝文句だった。どんな研究分野かまともに見ることなく適当に選んだつもりが、今となっては当たりくじを引いたと確信している。
 僕は普段一人でいることが多い。それは集団行動が苦手という意識があるからで、昔から団体作業や活動においては、場に馴染めるか馴染めないかがはっきり分かれていた。だから最初は不安で、退屈な授業になってしまうことを恐れた。しかし、GW明けに初めて摩尼山を訪れた頃から、その不安は消えていった。摩尼寺「奥の院」遺跡を整備するための活動が始まり、疲労が一気に増したことが大きな要因だ。それまでの坂谷神社や不動院岩屋堂の見学で、やることと言ったら先生の説明をメモ書きするか写真を撮るかだけだった。大学の外に出ることは嬉しかったが、いまいち物足りない。それが樹木の伐採や除草作業、土嚢階段作り、参道整備など自分たちの活動が目に見える形となって表れることに大きな達成感を感じた。こうして、いつのまにか夢中になったのだ。
 今回のプロ研で良かったことの一つに、天候に恵まれたことが挙げられる。15回の授業のうち、1回目はガイダンス、後半3回が資料作り、最後が発表、それ以外の10回は全てフィールドワークだった。逆に晴れ過ぎで蒸し暑いなと感じることも多く、「奥の院」への道の最後は必ず大量の汗がつきものだった。おかげで先生の「生まれて来るんじゃなかった」「死んだ方がましや」という口癖が毎回冴えわたった。


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倫敦五輪(Ⅳ)

中二日という魔物


 いやぁ・・・よく勝ちきりましたねぇ。
 やはり中2日には魔物が潜んでいる。独逸戦で消耗した伊太利亜がEURO決勝でまったく動けなかったように、前半のU23日本代表もプレスが効かず、中盤のルーズボールを拾われ苦戦した。
 摩洛哥は喀麦隆 や奈及利亞 をおさえて阿弗利加代表になっただけのことはあり、力強く、速いチームであった。日本が最も苦手とするタイプであり、ロングボールや縦の突進に苦しんだ。とくにオーバーエイジのストライカーは恐ろしい楔になって日本のディフェンス陣に立ちはだかったが、驚いたことにピム監督は後半途中でそのベテランをベンチに下げてしまった。日本を知り尽くしているはずのピム監督は、自ら率いる摩洛哥に対する理解が甘かったのか、この交替を境に日本ペースとなり、結果として永井のゴールが生まれたと云えるかもしれない。

 日本はグループリーグ第2戦も勝利し、シドニー以来の決勝トーナメントを決めた。しかし、「良いサッカー」をしていると評価できるであろうか。いまのU23代表は集中守備でボールを奪って前線に放り込むリアクション・フットボールでしかなく、兄貴分にあたるザックJAPANとの質の違いが大きすぎる。ともかく、もう少しパスを正確につないでほしい。中盤でパスが繋がらないサッカーを視るのはしんどく、いらいらする。
 前線のほとんどの選手がドリブル好きで、自分で突っかけてドリブルしシュートを打とうとする。コンビネーションで崩しての点をみてみたいものだ。
 中二日の魔物は次の宏都拉斯戦にも潜んでいる。もちろん勝ちきる気持ちをもって臨まなければならないが、引き分けでも1位通過できるのだから、控え選手を先発に使ってほしい。このまま宇佐美を使わないと、宇佐美のコンディションが良いのか悪いのか、トーナメントで使えるのかどうかも判断できない。いまのU23代表は中盤でパスが繋がらず、ゲームを作れない。アバウトなロビングボールで永井を走らせる原始的な戦術で勝利を納めているだけだ。東ではなく、宇佐美をトップ下においた場合、それが改善されるのかどうかを、少なくとも45分はみてみたい。
 西班牙対宏都拉斯の結果にもよるだろうが、主力を休ませながら、新たな可能性を見いだそうではないか。

巨巌現る!(Ⅲ)

山陰中央新報25面02大圧縮


山陰中央新報の報道

 28日(土)、摩尼寺「奥の院」遺跡の巨巌が新聞報道されました。ともかく知名度が低いので、こうしてこつこつとメディアに掲載していただいて、摩尼山と「奥の院」遺跡の価値をアピールしていくしかありません。下の小さな画像をクリックしていただくと、画面が拡大して文字が読めます。ぜひお読みください。


山陰中央新報25面01圧縮

 
 発表会を終えて、学生諸君には「強制ではないので、感想文が書ける人は書いてください」という依頼をしたのですが、結局届いたのは環境学部1年のブレイクD君だけでした。感謝の気持ちとともに、以下に掲載します。


摩尼山の道より険しパワポ哉

 今回のプロジェクト研究はフィールドに出ていろいろな活動をしていきました。フィールドでの活動が好きな私にとっては毎週の活動は楽しいものでした。「修験道トレッキング -山と巨岩の信仰を訪ねて」をテーマにいろいろな山に登りました。トレッキングの経験が今までになかったのですが、やってみたいとおもっていたことなのでどんどん積極的に登っていきました。いろいろな山に登りましたが、活動のメインであった摩尼山は毎週登り一番印象に残っています。初めて登ったときは長くしんどい道のりで、加工段に着いても巨岩はあらわになっておらず、巨岩よりも山頂から周囲をみわたした眺望景観に感動していました。
 活動を開始して毎週登っていくうちに登山のペースも速くなっていきました。巨岩を隠していた樹木を伐採したあと、巨岩が見えるようになっていると聞いていたのでどんなものなのか楽しみに登り、加工段に着いたときに巨岩があらわになっているのを見たときは思わず「おぉーすげー」と声を発していました。これだけ巨大なものが山頂付近にあるということ自体神秘的で、信仰の対象になるのも尤もだと思いました。

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倫敦五輪(Ⅲ)

宇津木へのメッセージ?


 撫子が一貫して優勢のようにみえて、じつはずっと瑞典ペースの試合だったといま振り返って思う。戦後、選手たちは「勝ちたかった」と悔しさを口にしたが、佐々木監督は勝ちたかったのか、引き分けでも良かったのか、よく分からない采配をした。
 澤を後半に下げたことは評価したい。しかし、その後の動きが鈍かった。岩淵をいつだすのか、待ちに待って、ようやく残り十分でカードを切った。岩淵のスキルは突出している。しかし、レギュラー陣との呼吸があわない。岩淵は足下でボールをほしがるのに対して、周囲の中盤はディフェンスの裏にスルーパスを狙い続ける。岩淵は足下でボールを受け、瑞典DF二人をかわしゴールを狙っていたのだろう。INACの選手は岩淵の特性をもっと活かしてほしい。
 中2日で3連戦。できるならば、多くの選手を使って、レギュラー陣を休めたい。控え選手の力量も試したい。控え選手を先発で使い、3人の交替枠もしっかり使い、力量を判断する。そういう意図をもっての引き分けなら納得できるが、レギュラー陣の疲労は蓄積するばかりで、意義ある引き分けだったとは言い難いだろう。

 ところで、鮫島に対するNHKのインタビューは酷いものだった。「スタジオにいる宇津木さんにメッセージをお願いします」だって・・・宇津木はワールドカップのメンバーでありながら、五輪18人の枠に残れなかった選手である。そういう選手をゲスト出演させること自体どうかと思うが、おそらく忸怩たる想いをもってスタジオで解説役を務めていたことだろう。その選手にむけてのメッセージをレギュラー選手に求めるとは・・・こうした傷口に塩を塗りつける行為に対して、すでにネット上で大きな批判が巻き起こっている。

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倫敦五輪(Ⅱ)

グラスゴーの奇跡?


 嗚呼、良かった。ああいう試合の流れではロスタイムに同点に追いつかれることがしばしばある。そうなるかもしれないという不安が最後の最後までぬぐえない試合展開だった。日本が健闘したのはいうまでもないが、西班牙U23代表はゲームを振りだしに戻す脅威を最後まで示せなかった。今回の西班牙はそういうチームだと判断せざるをえないだろう。

 日本対西班牙戦は、EUROの初戦「伊太利亜対西班牙」を彷彿とさせるスタートを切った。
 関塚監督は、EUROにおける伊太利亜や克羅地亜の戦いをおおいに参考にしたことだろう。相手が世界チャンピオンの西班牙だからといって畏れることなく、前線からプレスをかけていく。西班牙と戦う場合、この原則を崩してはいけない。
 しかし、それにしても、西班牙のU23代表の力量はA代表に遠くおよばない。A代表のパスサッカーは敵の防御網を崩すことをつねに目標としているが、U23のパスサッカーはパスのためのサッカーに堕している。ただボールをつないでいるだけだ。守備も不安定で、永井一人に振り回されていた。このU23代表ならば、日本A代表のほうがはるかに強いであろう。
 日本は開始から高い位置でプレスをかけ、集中守備からボールを奪って、永井にあわせる単純な戦法だったが、永井のスピードに西班牙は手を焼いた。五輪の亜細亜予選では、敵チームが引いてしまうので控えに甘んじた永井ではあるけれども、五輪本番では相手が攻めてくる。敵陣に大きなスペースが生まれるので、永井のスピードは予想以上の脅威となって、西班牙防御陣を攪乱し続けた。
 日本は高い位置でボールを奪うが、ゲームメーカーがいない。伊太利亜にはピルロ、モントリーボ、デ・ロッシが配球役として十全な役割を果たし、前線のバロテッリ、カッサーノを躍動させたが、日本のU23にはそれに匹敵するリンクマンがいないのだ。その点、伊太利亜より葡萄牙に似ていると言うべきかもしれない。本田も香川も遠藤もいない日本の中盤で、ゲームメーカーの重責を担うべき選手を敢えてあげるとすれば宇佐美と清武だが、宇佐美は先発をはずれ、清武はミスが多すぎた。清武は「人を使おう、活かそう」という発想に乏しく、自分が主役になりたがった。おおいに反省してもらいたい。もし監督がオシムだったなら、清武は途中交替させられただろうし、第2戦の先発もなくなっていただろう。

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倫敦五輪(Ⅰ)

加拿大戦評

 やはり、永里ですね。
 この大型ストライカーがもう少しトラップ上手になり、廣い視野をもつようになれば、撫子は今の倍の得点が可能となる。幻の3点目については、あちこちで論究されているでしょうから、不問に伏すにしても、このストライカーは大舞台でのツキをもっていない。バロテッリは失敗を繰り返しても、いつか大仕事をしてくれるだろうというオーラを発していたが、永里の場合、監督がいつ先発を見限るかが勝敗の鍵を握っているようにみえる。
 できることならば、独W杯グループリーグと同じく、永里不調のままグループリーグで1敗して2位通過になり、攻撃陣のスタメン入れ替えへという流れが生まれてくれないかな、と。1位でトップ通過しようが、2位に甘んじようが、トーナメント初戦での対戦相手は亜米利加か仏蘭西であって、両国とも実力的に今の日本を上回っている。しかし、どんなチームでも連勝は難しく、グループリーグ連勝のチームがトーナメントで敗北する恐ろしさをわたしたちは何度もみてきている。先のEUROにおける独逸がそのよい例であり、2008EUROの阿蘭陀もまた3連勝後休養十分の状態で露西亜に完敗した。
 今日の状態ではベスト8止まりで、メダルには手が届かないでしょう。澤が中盤で執拗にマークされた場合、トップの選手は思いきって中盤に下がり、そのスペースを澤が突く。前線にあがった澤に中盤からラストパスを通せるFWはだれか。鍵を握るのは岩淵ではないか。佐々木監督が岩淵をどのように使うか、注目したい。

「聖なる巌」の撮影

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胎内くぐりの蔓

 土曜日のお昼に「修験道トレッキング」の発表会を終えました。学生たちと打ち上げしたいところですが、そんな余裕はありません。学生たちは、自分たちの発表会以外に指定聴講と自由聴講の課題が残っています。他のプロ研発表を聴かなければならない。そして、なにより学生たちは疲れている。ほとんど眠っていないのですから。

 わたしはF記者と山村カメラマンを摩尼寺「奥の院」遺跡の現場にお連れしました。今回、タクヲ、白帯の二人がいずれも法要関係で欠席したため、助教スギボーと大学院生H君にサポートをお願いしました。あとで気づいたのですが、いま大学院の授業で、摩尼寺「奥の院」遺跡の修士論文概要を英訳しています。二人はそのメンバーであり、英訳中の遺跡を初めてみるよい機会となったことでしょう。
 なにはさておき、まずは昼食。こういうときは、蕎麦切り「たかや」に限ります。出雲蕎麦の地元、松江から来られた山村カメラマンも蕎麦の味に満足され、農業倉庫を改装したインテリアにも感心されていました。その後、摩尼山へ。じつは、「後期高齢者」間近の山村カメラマンから、前夜「今回は熱すぎるのでやめとこうか」というメールがあったのですが、ただちに電話して、「21日の最高気温は31℃、最低気温は23℃」だとお伝えすると、「それぐらいなら大丈夫ですかね」と翻意された経緯があります。この判断があとで後悔を招くことになりました。


2012修験道発表会07現場案内02縦01   「奥の院」の下見は健康診断前日の17日(火)に済ませています。あの日も猛暑で、ぼくはサッカー用のウィンドブレーカーを着て「奥の院」→山頂(立岩)→境内をまわった。入山前、茶屋の方から「3キロ減るよ」と激励(揶揄?)されたのですが、あれだけ大量の汗をかいたのに、翌日の健康診断では体重も、ウェストも、血圧も予想を上まわる値がでてショックをうけてしまい、週末まで蕎麦とトマトしか食べなかった。おもしろいもので、そういう食生活をしていても、体重は目にみえて減らないのですが、ウェストをコンベで実測すると、日に1~2㎝短くなっている。これ、ホントです。山登りしたり、自転車通学しながら、蕎麦とトマトの生活を続けていると、ウェストの脂肪が少しくぬけていくようです。「たかや」の蕎麦はそういう生活の延長にあったと云えなくもない。
 21日(土)もまた猛暑でした。しかし、高齢の山村カメラマンを気遣い、みながのんびり山を歩きました。2010年8月の現場撮影では、大型カメラ、三脚、脚立などを持ち上がりましたが、今回は35mmと一眼レフのデジカメだけなので、助手たちも楽だったでしょう。


2012修験道発表会07現場案内01山村01
↑1枚のみ山村カメラマンの高解像度デジカメ撮影写真を掲載しておきます(もったいなくて、あまり使いたくない)。他は研究室のコンパクト・デジカメによる写真です。

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満員御礼!-「修験道トレッキング」発表会

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 1週間のご無沙汰です。司会(P研発表会)の某教師です。
 7月19日(木)がP1&P3「修験道トレッキング」の最終授業でした。21日(土)の発表会が2日後に迫っており、最初で最後の練習会となるべき授業日ですが、世の中それほど甘くはありません。例年、P研の発表会は平日の火曜日が多かったのですが、12年めにあたる今年、(だれが首謀者か分かりませんが)初めて土曜日に発表会を突っ込まれてしまったのです。「公立化」を錦の御旗を掲げれば何をしてもよいと思っている輩がどこそこにおりまして、まちがいなく、教育の現場を混乱させている(いずれこの問題を本気で取り上げざるをえなくなるかもしれません)。実際、最終授業の19日から発表会の21日まで一睡もしなかった学生が何名かいます。

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苦 行

 19日、1・2年生15名の発表練習をしましたが、まる2コマ(3時間)使っても終わらない。そのまま3年生父兄懇談の席にいったん移り、その仕事を済ませてから、最終発表者2名の指導を終えたのが午後7時過ぎでした。これで終わりではなく、ここから修羅場の始まりです。
 一度目の練習で60点以上と評価できたのは2~3名でした。残りの学生は50点に充たない状態です。これら(ほぼ)すべての学生を2日のうちに80点以上のレベルに引き上げてやりたい。木曜の夜、ゼミ室に残った2/3の学生は金曜の深夜にはほぼ合格点を与えうるレベルに達したのですが、木曜夜の準備をさぼった残りの学生は金曜日深夜になっても、まだおろおろている。発表は土曜日の11時に迫っています。
 教師のもとには次々と「資料をみてください」「発表を聞いてください」の依頼がくる。これをベルトコンベア式に指導していきます。鍵となるのはヴォイスレコーダ。メモだけでは駄目です。学生はコメントを聞いているようで、しっかり聞けていない。レコーダを使わないと、修正が十分反映されないのです。学生は席に戻り、録音を聴きながらまたパワポを修正する。一人の発表者で平均3~4回練習します。これぐらいしないと、人前に出せるプレゼンにはなりません。結局、教師は土曜の未明(午前4時)までゼミ室に陣取り続けました。なかには「発表せんでいい!」と叱られたグループもありまして、早朝4時を超えても未完成の班は見捨てて帰宅したのですが・・・とりあえず全ての班が発表会に間に合いました。

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「奥の院」をジオサイトに!

 10時45分に13講義室入場。来場者は増える一方で、50名(60名?)以上に達したと思われます。特筆すべきは本学の教員4名と学外者(記者・カメラマン・文化財専門家)も含まれていたことです。これまで経験したなかで最も聴講者数の多いP研発表会となりました。正直、驚いています。
 発表時間は例年どおり、45分間とされていましたが、今年は学生が15名と多く、うち11名が発表した結果、50分を超えてしまいました。一人5分平均としても55分かかるわけですから、仕方ないことと思われます(教務課は発表時間の調整をする必要があるでしょう)。
 発表の構成と分担者については、「続き」に再録しています。みなフィールドワークに基づく良い発表をしてくれました。発表後、岡田環境学部長(地質学)と中橋教授(ランドスケープ)からコメントを頂戴しました。お二人とも山陰海岸ジオパークに深く関わっておられ、岡田教授は鳥取県文化財保護審議委員会の委員長でもあります(私は鳥取市の文化財保護審議委員)。中橋教授が「ぜひジオサイトにしよう」と提言され、岡田教授も「それは簡単にできる」と即答されました。今回露わとなった摩尼寺奥の院遺跡の巨巌と坂谷神社の磐座をジオサイトとし、両者をトレッキング路(中国自然歩道の延長)でつなぐところから出発すればよいのではないか、と考えます。
 発表会終了後、おなじみの仏教考古学者S01さんからメロンの差し入れがあり、学生たちはその味を堪能したはずです。わたしは記者さん、カメラマンさんを連れて摩尼寺「奥の院」遺跡に向かいました。


2012修験道発表会01

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私の趣味

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 昨日のプロ研作業中、教師は4409ゼミ室の中央デスクに陣取る女子学生3名の樹種鑑定作業に割って入りましてね。じつは週末に平城ニュータウンの緑地で広葉樹の葉を8枚ばかり仕入れてきたのです。スロージョギングしているようなふりをしてうろうろ歩きまわり、樹種名看板のある広葉樹の葉っぱをビニール袋に入れたの。サンプル採取ですね。
 問題は「シラカシ」。カシではなくで、細い葉っぱのブナ科落葉樹です。N教授の鑑定によれば、「奥の院」で6月初旬に伐採したS23(↑)はシラカシだというのですが、どうみてもニュータウンのシラカシ葉とはちがう。教師と2年Mさんの意見は「サカキ」です。「榊」という漢字は日本人の造字でありまして、文字通り、神事に用いる神聖な照葉樹ですが、この幹に椎茸ができると聞いたことはない。
 1年のTさんとKさんは「スダジイ」説をとりました。巨巌前方にあって造園業者に伐り倒された大木S05・S06は鋸葉のスダジイでしたが、全葉のスダジイもあるという考えかたです。かつて廊下ですれ違った生物学のK教授は「絶対、スダジイだ」と断言した。そのときS05・S06の葉とあまりに見栄えがちがうので、とりあえずN教授の意見にしたがっておりましたが、シラカシ説は研究史を飾る過去の学説になってしまいましたね。スダジイならば椎茸ができるはずですし、サカキだとできないんだろうなぁ。結果は1~2年先にならないと分かりませんが。
 スダジイ/サカキ論争を終え、教師は女子学生にある依頼をしたのです。 「趣味は何ですか?」って訊いてくれないかな? Kさんは素直に従ってくれました。やさしい声で質問する。
    
    「先生、趣味は何ですか?」

 教師は答える。

    「(ぷふっ)広葉樹さ・・・」


 結構、うけたんだけどね。


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↑中央スペースの葉がシラカシ(ブナ科落葉樹)。右下はS23の枯葉(照葉樹)。

第13回「修験道トレッキング -山と巨岩の信仰を訪ねて」

P1&P3発表会のお知らせ(1)


 7月12日(木)。快晴。野山の光と風を堪能したいところですが、発表会まで10日を切っており、学内で発表準備のデスクワークをこなしました。そういえば、2年生3名は自ら担当する霊石山(御子岩)まで出かけましたが、他のメンバーは13講義室と4409演習室で夕方までパワポづくりやら、樹種鑑定やら、講義のテープおこしやら・・・とくに4409のゼミ室は狭いので熱気むんむんの活動となりました。

 発表会の日時・会場等は以下のとおりです。先週、発表構成の「案」を示しました。学生諸君はとくに異論ないようでしたが、若干変更しています。学内外多数の皆様のご来場をお待ち申し上げます。

 
  日時: 7月21日(土)11:00~11:45
  
  会場: 鳥取環境大学13講義室
 
  題目: 修験道トレッキング -山と巨岩の信仰を訪ねて

  構成:
 
 1.山と巨岩の信仰をさぐる

  1-1 プロジェクトの目的と概要
       -「聖なる巌」の解明【松田・福永】
  1-2 磐座(いわくら)とは何か【遠藤・古志・近藤】
    1) 霊石山から三角山へ
    2) 坂谷神社の巨巌と岩陰
    3) 三徳山冠巌と神倉神社
  1-3 岩窟・岩陰と懸造仏堂 【加藤・野村】
    1) 三徳山三仏寺投入堂・観音堂
    2) 不動院岩屋堂 -岩窟・岩陰と神仏習合
  1-4 山の信仰の変遷【斉藤】

 2.摩尼寺「奥の院」遺跡での活動

  2-1 摩尼山と摩尼寺「奥の院」遺跡
   1)伝承と歴史【川田・手登根】
   2)2010年度発掘調査の概要【阿保】
  2-2 2012年度前期の活動
   1) 伐採候補樹木の番付と測量【森本・阿保】
   2) 樹種鑑定と伐採木の選定【手登根・川田・松岡】
   3) 大木の間引き伐採と清掃活動【中村】
   4) 伐採木のリサイクル -シイタケ原木栽培【松岡】
   5) 伐採竹のリサイクル -ツリーハウス風竹編棚の制作【福田】
  2-3 摩尼山・摩尼寺「奥の院」遺跡の景観保全にむけて【斉藤・森本】

木綿街道のこと(ⅩⅩⅩⅤ)

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鉄ちゃんイッポのバースデイ!

 7月8日はイッポくん二十歳の誕生日。前の晩、つまり七夕の夜、みんなでお祝いしました。イベントの打ち上げ終盤、姿がみえないと思っていたタクヲさんが即席で特製のキャンドルを持ってきて、サプライズ! 白いキャンドルはちょうど20本あります(↓)。イッポくんがすべてのロウソクを吹き消し、チャイピクの皆さんが演奏と歌で祝福。その夜は旧石橋酒造のオモテで七夕飾りが風にゆれ、縁側も涼しく、気持ちの良い夜でした。

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 誕生日当日の8日(日)は7時起床!
 匠くんとイッポくんが8時すぎの一畑電鉄で帰鳥するため、みんな早起きしました。まいど朝ご飯をいただく持田醤油店の向かいで朝市をやっていましたよ(↓)。
 じつはイッポくん、鉄道大好きの“鉄ちゃん”だったことが判明。当初はタクヲさんがJRの駅まで送るつもりだったんですが、鉄ちゃんイッポのために映画「rail ways」のモデルにもなった私鉄「一畑電鉄」に乗って出雲市駅経由で鳥取への帰途につきました。彼にとっては初めての平田でしたが、地元の方々と気さくに交流し、この町にも興味を持ってくれたのではないかと思います。二十歳となったイッポくん、今後もなにかと活躍してくれることでしょう。


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↑缶ビールを飲むイッポくん  

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木綿街道のこと(ⅩⅩⅩⅣ)

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続・小路の実測


 こんにちは。おぎんです。
 先週の記事で木綿街道でのイベント「七色のヨル」を告知していました。当初わたしひとりで行くつもりでしたが、研究室からタクヲさん、また、2年の匠くんと1年のイッポくんの山梨コンビも来てくれました。イベントの始まる夕方までは4人で調査です。当初の予定ではイベントの参加のみだったんですが、前回の小路調査が中途半端だったのと、匠&イッポくんが来てくれると言うことで、「調査を手伝ってくれるならバイト代として交通費は負担する」ということで、採寸・撮影を補助してもらいました。

 さて週末ですが、わたしは当初、安来の実家に泊まるつもりで、すでに実家にも連絡していたので、6日(金)の夜に電車で帰りました。次の日のお昼頃に、匠くんとイッポくんを乗せたタクヲ車に合流し、平田へ向かいました。調査は先週の続きで、小路の実測から再開。先週報告した「岡屋小路」の立面をコピーし、実測に使いました。このときポツポツ小雨が降っていましたが、中止するほどではなかったので継続しました。ひととおりの実測を終え、次に、高さ測り用の「スタッフ」を持っての撮影を補助者2名に任せ、私は細部の寸法を取っていきました。最後にタクヲさんと協力して平面にも必要な寸法を測り、書き込み、終了。


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七色のヨル

 調査後、旧石橋酒造で着々と準備中のイベント「七色のヨル」の手伝いをしに行きました。木綿街道振興会が出店していたのは、「特製からあげ」「七夕そうめん」「白玉だんご」「子どもサイズのお好み焼き」などなど。イッポくんはお好み焼き担当に任命され、ひたすら黙々と焼いていました。タクヲさんはKさんと陽気にからあげを売っており、匠くんと私でそうめん、白玉、お好み焼きの売り子をしました。ここは、鳥取環境大学が出しているの?と聞かれてしまうほど自然だったようです。そのあと振興会の方がハッピを持ってきて下さり、振興会の人っぽくなりました(↓)。あとで聞くと、タクヲさんはこのハッピに密かに憧れていたそうです。念願かなって良かったですね!

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木彫仏、奈良へ

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 6月4日(木)に岩陰仏堂の木彫仏を梱包して下山し、以来、大学の修復建築スタジオで自然乾燥させてきた(↑)。そうこうしているうちに、今度は26日(火)、岩陰近くの草むらで新たな木彫仏の頭部が発見された。これもまた同じように、修復建築スタジオで自然乾燥させていた(↓)。
 木彫仏を奈良の某研究所に運び込むため梱包したのは、7月4日(水)のこと。ここまでのメンテ、梱包については逐一仏教考古学の専門家S01さんに指導をうけた。

 そして、昨日、ついに某研究所の年代学研究室へ。いろいろコメントをいただいたが、まだ伏せておかなければならない。サティアンと俗称される資料棟の周辺で旧同僚に何人か出会った。『摩尼寺「奥の院」遺跡』の報告書を配りまくり、お返しにいろいろ文献を頂戴した。みんな優しくしてくれるな。
 
 昨年開催した「山林寺院」と「木綿街道」のシンポジウムの記録校正の依頼も無事終わった。


01梱包01新木仏001


 ところで、「奥の院」の仏像に新たな情報がもたらされている。郷土の民俗学者、田中新次郎の『因幡の摩尼寺』(鳥取県民俗研究会、1958:p.59)に摩尼寺の仏像に関する記載があることを鳥取市の歴史家S02さんから教えられたのだ。もとの資料は摩尼寺宝物帳であり、信ぴょう性は高いと判断される。当該部分を引用しておく。

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 次の四点は鳥取市元魚町大谷文治郎所有に係わる廃寺ノ尊像ナルヲ明治二十九年五月遷座ス

   一、地蔵菩薩       六体  丈一尺六寸
   一、奥の院弘法大師    木僧   一尺厨子入  
   一、奥の院 虚空蔵菩薩 石立像 丈三尺
   一、同    不動明王 同上(奥ノ院、通路三ヶ所)
   一、西国三十三ヶ観世音菩薩  三十三体
    以上四十 
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 ここに掲載された「虚空蔵菩薩」が岩陰仏堂上段の虚空蔵菩薩立像をさすのはほぼ間違いない。虚空蔵菩薩立像の背面には「文化六年 施主 大谷岐山」の銘が刻まれている。現境内から立岩に至る山径の側道に祀られる観世音菩薩像群にも背面に同様の銘を確認できる。これらの石仏等は大谷岐山が文化年間にまず「ある寺院」に寄進したのだろう。その「ある寺院」は廃寺になり、寄進した仏像は大谷家がいったん保管した上で、明治29年に大谷文治郎が摩尼寺に寄進したと推定できよう。ちなみに、大谷文次郎は「塩屋」という鳥取の商家で、町年寄筆頭という城下町を代表する大町人だったという。

宝物帳02圧縮

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第12回「修験道トレッキング -山と巨岩の信仰を訪ねて」

聖なる巌0705表紙01

聖なる巌(Ⅳ)

 7月5日(木)の第11回プロジェクト研究は、午後から悪天候のため13講義室で教授のパワーポイントで「聖なる巌(いわお)」という題目の講義をうけました。なんでも一般向けの公開講座で使った教材だそうで、全内容の3/4の講義となりました。なお、環境学部のフィールド演習中止の際、イッポ君ら3人はこの講義を聴いており、4409演習室で樹種鑑定のデータ整理をしました。聴講者は11名(1名欠席)です。
 
 講義では、大山や扇ノ山、氷ノ山などのように「山」という漢字をなぜ「せん」と読むのかという事や、鳥取県に数多く存在する遺跡に残る伝説を仏教などの宗教的な面から学びました。遺跡には神話や伝説が残されていて、とても興味深かったです。 他県にもそういった伝説がないか調べてみようと思います。


聖なる巌0705活動目標02


 古代の建築様式や発掘調査によって判明してきた事の説明は難しくてわからない箇所もあったけど、高校時代に学んだ内容と絡むところもあり、おもしろかったです。三徳山にある投入堂のような建物が鳥取だけに存在しているのではない、ということも「懸造(かけづくり)」という建築様式も知らなかったし、鳥取の遺跡は奥が深いです。やはり、遺跡には様々な説が残っており、そこにも伝説や伝承が関係していました。しかし、「嘘」の歴史をでっちあげるために作られた伝承も残されていることに注意しようと思いました。そういった中から歴史ある建造物の重要性を見出すために真実を見極める力も大切だと思いました。

 最後に自分たちが今までしてきた活動の目的の再確認をみんなでして、発表会へ向けてがんばろうと思いました。いい発表会にしたいと思います。(経営学部1年F.T)


聖なる巌0705BRD03

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木綿街道のこと(ⅩⅩⅩⅢ)

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小路の調査、スタート!

 7月1日(日)。
 7月のはじまりの日。木綿街道の調査を夕方までおこない、夜、鳥取へ帰る予定です。
 予想とは裏腹にだんだんと晴れ、青空も見えたいちにちでした。

 朝8時、起きてこられないタクヲさんの部屋に声をかけ、顔を洗って身支度をします。朝食は持田醤油屋さんでいただきました。いつものように素朴で懐かしいおかず、焼きおにぎり、しじみ汁が並びました(↓)。平田のごはんは美味しいです。暑い中での調査も、ごはんを楽しみにいつもがんばれます。
 そして、調査へ。片原町には木綿街道の中でも、主な小路が2本通っています。この日はその片方、酒持田本店隣の「岡屋小路」を調査しました。平面図と立面図をタクヲさんと分担して野帳にスケッチしていきます。私は午前から夕方までかかって立面図を書きました。

DSCF2317.jpg

 今回は人員が少なかったので詳細な調査までできず、1日だけだったこともありますが、成果としてはスケッチだけで、実測までもいきませんでした。しかし、まずは一回、小路の調査としてどんなものかが経験できたので、今後につながる調査になったと思います。夏が近づいてきましたが、町並みとあわせて築地松についても考察を深めていかなければいけません。平野の築地松については範囲が広いので一人でやるのが良いのかもしれませんが、町並み調査にはもう2~3人助っ人がいればいいなと思います。夏休みの期間が勝負ですね。がんばりたいと思います。

 岡屋小路の奥行は、きちんと実測できていませんが、タクヲさんの足で93歩。70~80mくらいでしょうか。一番奥に住んでおられる方が自転車で通りまでスーっと走っていきました(↓)。たしかに、歩くと長く、往復するのも疲れました。しかし小路の風はよく通っていて、昼間でも日陰で涼しいです。また、プランターや花壇、植木鉢など、植物がたくさん並んでいました。足元、玄関まわり、ベランダ、屋外機の上など。こじんまりした通路でも、とても生活感がありました。
 妹尾河童の絵のように、雰囲気あるものが書ければ良いのですが。。

DSCF2319.jpg

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木綿街道のこと(ⅩⅩⅩⅡ)

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地元住民向け調査報告会

 6月30日(土)。視界を遮るほどの土砂降りの雨の中、車を走らせて平田へ向かいました。地元住民の皆様に対する「調査成果報告会」で発表するためです。町家と町並みの調査成果については、2月26日開催のシンポジウムで報告したことは御存知の通りですが、なんでもシンポジウムに参加された住民から「内容が難しかった」という意見が振興会に何件か寄せられたようです。そこで今回、あらためて町内の方々を対象とする報告会の依頼が木綿街道振興会事務局からあったのです。歴史的な町並みの保全に関しては、住民の理解が不可欠であり、私自身、調査研究活動を地域に還元する術(もちろん、報告書は出す予定ですが)を常々考えておりました。そんななか、振興会から「報告会」の依頼があり、ふたつ返事で引き受けた次第です。

  「町内の方々に木綿街道の魅力が伝わるようなわかりやすい説明を」

との要望のもと、思いのほか準備に時間がかかってしまいました。直前にならないと集中できない悪い癖もあるんですが、字のポイントを大きくしたり、アニメーションをシンプルなものにしたりしているうちに、パワポは半ば作り替え・・・。結局、当日の朝に準備完了し、平田に到着したのは発表の2時間前。いつの間にか、雨はやんでいました。

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尾崎家~倉吉巡礼五十名

0703尾崎03外観


環境学フィールド演習B班

 7月3日(火)、環境学部フィールド演習B班45名(欠席3名)は、湯梨浜町の尾崎家住宅と倉吉の打吹玉川重要伝統的建造物群保存地区(重伝建地区)に行ってきました。尾崎家住宅は、1200坪の敷地内に母屋、ハナレ、ブツマなど計16棟の建造物建と国指定名勝「松甫園」をはじめとする3つの庭園によって構成されている18世紀前半の古民家です。尾崎家住宅の裏庭には、米蔵やみそ蔵、山の水から引いてきたわき水をためるハンドなどがあり、自然をうまく利用しながら生活している様子をうかがえました。母屋に入ると、土間(トオリニワ)は天井なくて太い梁が露出しており、大黒柱などとあわせてみると、とても大きい建物なんだと感じることができました。また、昔のイロリや書斎(座敷)など、現代の建物にはない雰囲気にとても癒されました。


0703尾崎04土間


 尾崎家を見学してまず最初に思ったのが、テレビなどで見る祖父母の家がそのままセットで再現されているようで、テレビの世界に入ったと思うぐらい感動しました。あんなに広い尾崎家なのに代々住む人が大切に守っているのもすごいと思ったし、250年ももつ建物自体もすごいと思いました。自分自身、尾崎家のような重要文化財クラスの古民家まではいかなくても、古民家に住みたいという願望があるので、とても楽しい見学でした。尾崎家の奥様とお手伝いにこられた皆さん、お菓子やお茶の準備までしてくださって本当にありがとうございました。


0703尾崎01イロリ
↓懐かしい「陰陽五行の松」。もっと勉強しておくんでした・・・
0703尾崎02庭

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茶室でも椎茸栽培(Ⅱ)

作業を見つめるクロ


きのこセンター菌蕈研究所の種駒打ち込み

 7月2日(月)。先月29日(金)に余らせてしまったコナラのホダ木に駒種を植える作業をしました。今回はぼくとおぎんに加え、プロ研1年のイッポ君が参加しました。イッポ君はイタリアvsスペインの決勝戦を明け方まで見ていて、どうもあまり寝ていないようです。
 きのこセンターに電話連絡したところ、駒種は午後に届くということで、先に門脇茶屋喫茶部で孔あけすることにしました。大学から外に出ると真夏日並みの日差しで暑苦しく、車内は灼熱地獄。車の窓を全開にして茶屋に向かった。到着して専用のドリルを借り、コナラを車から下ろし、8mmの孔をあけていきました。門脇茶屋のドリルは原木栽培専用のものらしく、迅速に作業は進みました。孔あけ作業の最中、きのこセンターから「駒種が届きました」との電話連絡あり。もう少し早く届いていればちょうどよかったのに・・・7本の孔あけが終わり、門脇茶屋さんにお礼を言ってきのこセンターへ。
 途中、すき家で昼食を取りました。朝を食べていなかったイッポ君に二人で奢ったんですよ、だはは・・・それから、大学近くの古郡家にある「きのこセンター菌蕈研究所」へ。大学から約10分で到着し、用意してくださった駒種1袋(500個入)を買いました(↓)。値段は1360円と格安です(アマゾンが高すぎる?)。


購入した種駒


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茶室でも椎茸栽培(Ⅰ)

植え付け済みホダ木


余ってしまったコナラの原木

 6月28日(木)、摩尼寺奥の院から下山する際、何本か軽めのホダ木を持っておりた。山で千粒以上の種駒を使ったが、余った種駒を使い、学内でも椎茸栽培をしようという企てである。6月7日、すでにS12(コナラ)、S23(シラカシ)のホダ木を持ち帰り、駐輪場で乾燥させており、これにスダジイ(S05・S06)のホダ木を加えると20本以上になる。
 29日(金)の午後、先生やタクヲさんは大学院の授業だったが、わたしとおぎんさんで、ホダ木に穴をあけ、種駒(直径9mm)を埋め込む作業をおこなった(↑)。しかし、ここで失敗してしまった。何も考えずに種駒を打ち込んでしまい、しいたけ栽培に最適なコナラを数本残してしまったのだ(↓)。聞くところによると、シイ・カシなどは数年で椎茸ができなくなるのに対して、コナラやクヌギは十年できるという。また、コナラS12はすでに3週間乾燥させており、種駒の植え付けに最適の状態だった。大学院の授業を終えて、現場に来られた先生は頭を抱えられ、最適のホダ木数本を捨てるのはもったいないと、種駒入手のため、しいたけ会館→しいたけ本舗→(財)日本きのこセンター 菌蕈研究所(古郡家211 ℡51-8111)に次々と電話された。幸い菌蕈(きんじん)研究所のご好意により、種駒500粒をご用意いただけることになったので、2日(月)に残りのコナラに種植えする予定である。
 菌蕈研究所の種駒は直径8mmなので、門脇茶屋喫茶部のご夫婦に8ミリ専用ドリルをお借りする。いつものことながら、申し訳ありません。ありがとうございます。

残ったコナラ
↑残った7本のコナラ原木

2012EURO(Ⅵ)

西伊戦争(2)


 さきほど歯医者から帰ってきたところでしてね。また、牙の詰物がぬけてしまいました。最近、山に登るたびにキャラメルやミルキーをもってあがって学生のおやつにするんですが、その残りがポケットにあって、口にいれて噛んだらぬけちゃった・・・泣き面に蜂。

 以前()で述べたように、強豪と対する伊太利亜には3バック(3CB)がふさわしい(と私は思っている)。ところが、英・独戦を経て4バック(2CB)に安定感が増し、決勝でもブランデッリ監督は4バックを採用した。なぜ4バックなのか、というと、中盤でのプレスを強めたいのは言うまでもないが、おそらくリベロ役を果たすべきデ・ロッシのコンディションに問題があったと憶測している。
 グループリーグ1~2戦のデ・ロッシは素晴らしかった。3バックのど真ん中に構えて、ゴール前の数多の危機的状況を排除し、伊太利亜躍進の礎を築いた立役者である。そのデ・ロッシは怪我をしている(と私は思っている)。3戦目以降、中盤の左にポジションを移すも、プレス係ではなく、球の繋ぎ役をこなすシーンが目立った(決定的な仕事はしていない)。

 決勝は明け方まで起きて視聴するに値しない試合に堕してしまった。疲弊した伊太利亜のプレスが最初からまったく機能しなくなったところに最大の因がある。西班牙は中盤を自由に支配し、その流れのまま先取点を奪った。あのセスクの突破にキエッリーニはついていけなかった。普段の伊太利亜なら、あそこで点を取られただろうか。サイドでもっと粘れたはずだし、ゴール前の人数はもっと多かったはずだ。まもなく負傷退場するキエッリーニは、あの場面ですでに足に違和感を抱えているように私にはみえた。
 キエッリーニの交替時、デ・ロッシも足の不調を訴えていた。あとはご覧のとおりで、ベンチには下がらなかったが、攻守に精彩を欠いた。トーレスの3点目は、ロッシの軽いパスミスからの逆襲速攻である。この二人に代表されるように、伊太利亜の選手たちはおおいに疲れ、傷ついていた。「勝っているチームを触るな」を鉄則とする蹴球世界ではあるけれども、ここまで怪我人が多く、試合間隔が短いからには、先発メンバーの選択とフォーメーションに「変化」が必要だったのかもしれない。
 選手の疲労を考慮するならば、3バックを採用すべきだった(と私は思っている)。キエッリーニは先発を外し、場合によってはロッシについても同じ判断を下すべきだったろう。少なくとも、キエッリーニ負傷退場の時点でデロッシをリベロに配置転換すべきだった。3バックにしていれば、2点めは防げたかもしれない。守備固めというよりも、初戦の感覚に戻す必要があったと思うのである。

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第11回「修験道トレッキング -山と巨岩の信仰を訪ねて」その2

穴あけ作業


椎茸種駒の打ち込み

 6月28日(木)。今回のプロジェクト研究は摩尼寺奥の院で3班に分かれて活動した。私の班は「しいたけ菌植え付け班」で、以前に業者の方に依頼し、伐採していただいたスダジイ(S05・S06)のホダ木に電動ドリルで孔(9mm)をあけ、その孔にかなづちでしいたけの種駒を打ち込んでいった。私は孔あけではなく、種駒をかなづちで打ち込んでいく作業を担当した。今回初めてしいたけの種駒を見た。小さなコルク栓のような種駒が1袋に400個固まって入っていて、手にとると簡単に個体に分けることができた。同じ班のある子は「チョコレートみたい!」と興奮したように言っていた。しいたけ種駒の打ち込む作業を私を含め3人で進めていった、1袋、2袋とまたたくまに打ち込み作業は終わった。ホダ木にの孔あけ作業も種駒800個を打ち込んだ時点でほとんど終わっていた。


シイタケ菌打ち込み

 そこで休憩。じつは種駒はまだ2袋あることを先生に知らされた。細いホダ木は少なくなっているが、太めのものならいくらでもある。そこからまた孔あけと種駒植え付けが再開。数十本のホダ木に千粒以上の種駒を植え付け、植え付けの終わったホダ木はすべて仮置場に積み上げ、その上から椿の枝葉を被せて作業が完了した。 
 思っていたよりも簡単にしいたけ菌を植え付けることができ、作業はとてもスムーズ進んだ。しいたけができるのはまだまだ先のことだが、その頃が来るのがとても楽しみに感じた。(環境マネジメント2年M.N)


00マニ椎茸仮置き01
↑加工段端の木陰に椿の枝葉をマット状に敷いて原木をかさね、↓原木の全体を椿の枝葉で覆う。
00マニ椎茸仮置き02

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第11回「修験道トレッキング -山と巨岩の信仰を訪ねて」その1

11木仏新発見01


新たな木彫仏の発見

 プロ研での摩尼山登頂は8回目。梅雨の時期というのに6月28日の鳥取市内は晴れで、我々が活動した時間帯14時頃~17時頃では気温が30度近くまで上がったそうだ。今週と来週の火曜日は、環境学部1年生対象のフィールド演習でも摩尼山を訪れることになっている。
 6月26日(火)のその演習では、ある学生が木彫仏の一部を岩陰正面の草むらで発見した。先生の推測では、樹木を伐採した際、振動とともに巨巌の高い位置にある窟から落ちたのではないかということで、28日(木)はその遺物の調査も兼ねて岩陰中段および上段に登ることとなった。


01岩窟上段02


 他にも、いよいよシイタケ菌の植え付けしたり、椿の伐採をしたりと、この日の活動は盛りだくさんだった。厄介なのはシイタケ栽培の班で作業自体は単純でだが、とにかく荷物が多い。電気ドリルが4本、発電機12kgが2台、ガソリン5Lを持たなければならない。前日にこのことを知ったぼくは、かなりの疲労を覚悟したが、皆で交換して運んだため、歩きのスピードはいつもとたいして変わらなかった。他のメンバーの話だと、環境学フィールド演習では歩くスピードがプロ研の4分の1だったという。偉そうな発言をするようだが、50人の大人数とはいえ、荷物が少ないのだからもっと早く歩けるだろとつっこみたくなる。ぼくはフィールド演習での摩尼山をとても楽しみにしていた。それは道に馴染みがあり土地勘に優れているという有利な立場を使って、でかい態度をとりたかったという理由があったからだが、残念ながら先週の台風で摩尼山登山を断念せざるを得なかった。ぼくのなかでは、鳥取に来てから一番ついてない出来事だと思う。


01岩窟上段01


岩陰上段の探索

 遺跡に到着後、脚立を出しさっそく岩陰に登った。足場は悪く脚立も不安定で少し怖かったが、大抵の人ならなんとか上がることができると思う。椿の伐採をしている人たちの真上約5m位の高さだったが、思った以上に緊張した。それは落ちたらどうしようという恐怖心よりも神聖な岩窟だという自覚からくるもので、迂闊にふざけることは絶対に許されない。祠があり、その裏の岩の影に石仏を新しく発見した。下の一部分が欠けていたその石仏は岩に沿って伸びる蔦の間にそっと立て掛けてあった。

 ここで祠と石仏の寸法を掲載しておく。

  祠…正面:1.5㎝ 側面:31.5㎝ 軒:56.5㎝ ケラバ:41㎝
    高さ(前):41㎝ (裏):54.5㎝ 板厚:2㎝
  石仏…残高:33㎝ 横幅:23㎝


01岩窟上段06
↑↓小祠のなかには木製の玉座が納まる。周辺には格狭間(こうざま)などが散乱している。
01岩窟上段03縦


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プロフィール

魯班13世

Author:魯班13世
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魯班(ルパン)は大工の神様や棟梁を表す中国語。魯搬とも書く。古代の日本は百済から「露盤博士」を迎えて本格的な寺院の造営に着手した。魯班=露盤です。研究室は保存修復スタジオと自称してますが、OBを含む別働隊「魯班営造学社(アトリエ・ド・ルパン)」を緩やかに組織しています。13は謎の数字、、、ぐふふ。

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