平成25年お年玉記念切手
P2&P4発表会を終えて(Ⅱ)

「ツリーハウスに挑戦!-続・修験道トレッキング-」、2年生最後のまとめをサブリーダーの私が担当します。まぁ、いつも通りジャンケンで負けてしまっただけですが、今回は私だけの感想ではなく、2年生一人ひとりの感想も入っています。発表会前夜、メンバー全員が遅くまで残って先生の最終チェックを受けていました。みんなで話し合い、当日は9時30分に13講義室前に集合と決まりました。当日、私は9時30分の少し前に13講義室の前に行ってみましたが、誰も来ておらず、心配になってリーダーに連絡してみると「まだゼミ室にいる」と言われて、 急いで4階に上がったところ、最終調整の途中でした。間に合うのか心配している時にOさんのスライドが一枚ないことに気づきました。本人から何の連絡もなかったので、13講義室の前で待っているのかと思い電話してみると、なぜか5秒通話して切れてしまいました。もう一回かけ直したところ、まさかの「寝坊した」ということが発覚。急いでY君に迎えに行ってもらいました。13講義室前にいる先生から連絡があり、私たちも急いで13講義室に向かい、準備を始めました。発表時刻2分前になんとかOさんも到着し、これで大丈夫だろうと思っていましたが、先程急いで最終調整したため、スライドの移行が出来ない箇所があったり、2年生と1年生ではWindows7と8の違いがあり、1年生のスライドの部分が白くなってしまいました。もっと早く準備しておけば、このようなことにもならなかったと反省しています。
それでは、発表順に2年生の感想を紹介します。まずは、リーダーとして頑張ってくれたN君から。


準備の大切さ
今回の発表でぼくが痛感させられたことは、良い仕事を成し遂げるためには良い準備が必要であることでした。自分のパワーポイントは前日に既に完成していたのですが、全員のパワーポイントを1つのスライドにまとめるという作業の取り掛かりが遅かったためにリハーサルを行うことができず、ぶっつけ本番で発表することになり、たどたどしい発表になってしまったのを後悔しています。これは 準備をしていなかったために招いた結果ですが、発表の内容そのものは、良い準備ができていたので成功したのではないかと思います。リーダーという立場だったので責任をもって全体をまとめるべきだったと感じています。(中田)
以上、リーダーの感想でした。私的にはN君は最後までリーダーとしてみんなを引っ張ってくれてたと思います。本当にありがとう! 続いて匠1号くんの感想です。


発表ベタをどうにかしたい
発表会を終えて、いつもどおりの乗り切った感に包まれました。この「発表ヘタ」をどうにかしたい。。。前日、ではなく当日の0時20分頃。先生に発表を見ていただき、修正点を指示されました。お疲れの中、用語の修正など、自分の目の行き届かない細かい点まで注意されました。観察力を養わないと、と毎度思います。メモ、ボイスレコーダーを確認し、原稿を書き、パワーポイント自体を修正し、発表を待つだけの状態。全員があんなに発表ギリギリに揃うことになるとは思いもしませんでした。ちなみに、自分も印刷ができず遅れ気味に講義室に到着です。その結果が、発表中は頭が真っ白になる始末。これも毎度思うことですが、次回、何かの発表があるときこそは何度も原稿を読み直し、万全の状態で発表に向かいたいと思います。(小林)
以上、匠1号くんの感想でした。かれは私と同様、1年生のときに先生のプロ研に参加していたのですが、前回の発表のときも今回のような感じだったそうです。 お互い計画的に頑張っていこうね! 続いて私の感想にまいりたいと思います。
P2&P4発表会を終えて(Ⅰ)


P2&P4「ツリーハウスに挑戦! -続・修験道トレッキング-」の感想が揃いましたので、2回にわけて掲載します。1回めは1年生の感想文です。発表会の速報とあわせてお読みいただければ幸いです。
ハプニング続出だけど達成感あり
発表会前日(21日)、昼から1年生の発表メンバーで集まり、最後の準備を進めていました。早い段階でパワーポイントと原稿の出来を先生のチェックを受けたかったのですが、先生との予定が合わず、午後7時まで待つことにしました。その間イオンで夕食を済ませ、夜の発表に備えました。そして先生にチェックしていただき、最後の修正に取り掛かりました。これまでに何も修正していたのですが、なかなか完成しませんでした。バイトがあって、深夜10時以後、修正に取り掛かる人もいました。時間はあっという間に過ぎてゆき、いつのまにか日付も変
わっていました。それでも完成せず、みんなで励ましあいながら頑張りました。
結局、原稿が完成し、皆が帰り始めたのが当日22日の午前3時30分でした。その1時間後に先生も帰宅され、終わっていないメンバーが残って原稿作成を続けました。中には6時まで奮闘した人もいました。家に帰ったメンバーは、原稿の手直しをした人、発表に備えて寝た人、寝坊を恐れて起きていた人など、さまざまだったようです。発表当日、9時30分に発表を行う13講義室前に集合する予定だったのですが、ぎりぎりまで編集作業をしていたため、なんと発表2分前にようやく全員が集合しました。
発表メンバーのほとんどが寝不足の状態で発表会にのぞみました。発表には、たくさんの聴衆の方々においでいただきました。パワーポイントが繋がっていなくて、発表がスムーズに行えなかったり、パワーポイントのバージョンの違いで文字が白に変化して読めなくなっていたりとハプニング続出で時間もオーバーしてしまい、満足とはいかないレベルに終わってしまいました。
しかし、プレゼンの内容としては、今までのプロ研全体の活動成果をみんなうまく報告できたと思います。プロ研は大変でしたが、みんなが頑張った分、達成感を得ることができたと思います。また、いつもみんなが協力し合い、良いチームワークを発揮できたと思います。このメンバーでこのプロ研をがんばってきて良かったです。(江上・大西・佐々木・中村・山中)


リーダーの重圧
後期のプロジェクト研究は「ツリーハウスに挑戦! -続・修験道トレッキング」になりました。正直に言えば、プロジェクト研究をとてもなめていました。はじめの授業でリー ダー、 副リーダーと書記を決めたのですが、その場の感じに流されて「リーダー」という大役になってしまいました。プロジェクト研究の集大成である発表会の終わった今となって自分の立場と行動について考えてみると、全く双方がかみ合っていなかったなと感じます。1年生の行動を見てみると個々の頑張りがとても目立ち、それぞれが全力以上の力であらゆる時間を削りながらやっている姿を多く見受けられました。自分はリーダーとして仕事を全うできたかと考えると、とてもそうとは思えないのが現状です。みんなの頑張りと眠そうな顔が、自分の空けた穴を埋めてくれていたなと感じます。6人の1年生メンバーと先輩方々にとても感謝してます。プロジェクト研究お疲れ様、そしてありがとうございました!
比較居住文化小委員会(拡大委員会)講演を終えて


10時に鶯谷のT横インをチェックアウトし、ヨドバシカメラをめざした。上野公園を歩く。水面に薄氷が張っている。気温は低いようだが、寒いというほどではなく、晴朗な日差しが清々しい。上野公園を歩くのは、たぶん27年ぶりだ。研究所の入所試験が上野であった。あのとき公園を徘徊し、もんじゃの店に入った記憶がある。
ここにもまた「世界遺産に!」の旗がたなびいている。コルビジェ設計の国立西洋美術館。これなら三仏寺のほうが百倍マシだね。「チョコレート展」という特別展をやっていたが、1400円もするので入館断念。弟子の前川が設計した東京文化会館が対面にある。ちょうどもよおしていたので、文化会館に入って厠を拝借。当然のことながら、京都会館と同じ匂いがする。上野に着いてアメ横入口のヨドバシカメラのビルに上がり、レッツノート用のACアダプターを買った。アメ横を少し歩く。中国のマーケットのような趣きがある。パイナップルの短冊切りを屋台で売っていた。その横に見事な石榴(サクロ)が並んでいて、トルコを想い出した。


蕎麦屋で大ザルを注文した。前夜は鶯谷の老舗で大モリだった。かつてその老舗では、モリとザルで汁(つゆ)を変えていたそうだが、今は同じ。違いはキザミ海苔をふりかけるか否かだけ。それでも値段には100円ばかりの差がある。蕎麦通としては、やはりモリですね。白くて細い更科に満足した。一夜あけて上野の蕎麦屋にはザルしかない。キザミ海苔がいっぱいふりかけてあるが、鶯谷のモリに軍配があがった。蕎麦湯が薄すぎるよ・・・
環状線で田町へ移動。エクセルシオールに陣取って、パソコン仕事を始めたが、まもなく猛烈な睡魔に襲われ始め、外に出る。建築会館で9th ISAIA(第9回アジアの建築交流国際シンポ)の論文集CDコピーを受け取り、談話室に移ってパソコン仕事を再開した。懐かしい場所である。2002年W杯の日本対トルコ戦を編集委員会のメンバー全員ここでみたんだ。敗戦の悔しさに一晩眠れなかった。しばらくして、再び強度の睡魔に襲われ、談話室のソファに横になった。品のよい行いとは言えない。窓の外に殺気を感じ、にょきっと上半身をおこして外に目をやると、忍者かスパイダーマンのような・・・ガラス清掃の業者さんが窓に貼りついていた。

↑ トラック諸島の夜這棒
鶯谷通信
先週のP2&P4発表会のあと、4年生と院生を連れてギョギョに行った。ギョギョは回転寿司の店で、12時~14時のあいだ105円均一サービスがあり、メニューの端から端まで頼んで味噌汁も飲んだ。テーブルから転げ落ちそうなぐらい皿が並んだ。腹一杯になりましたよ。お代は3千数百円。学生食べさせるにはいいなぁ。これぐらいで済めば万々歳だ。それは良かったんだけれども、そこでまた詰め物がぬけちまいましてね。
おかげでまた京都二条室町のホームデンティストに応急処置してもらい、そのまま新幹線にのって、いま上野のT横インにいます。またチョンボやっちまいましてね。充電してたガラケーを家に忘れてしまったの。まぁ、そんなに携帯が鳴る人ではないから、不自由はないんだけど、学会講演にチャックが来ることになっていて、打ち合わせしようと思っていたのにできない。さきほどパソコンからチャックの携帯アドレスに送信してホテルの電話番号を伝えたところ電話があり、いきなり「センセー、あれFAX番号ですよ」と言われた。
「どうやって調べたんだ、お前?」
という情けない状態のまま、15時間後に講演であります。もう配布資料のデータは担当者に送ってるんですが、ここは敢えてバージョンアップしておこうかな。発表と資料がずれてるほうが、聴く側も眠くなんないでしょうからね。
いまBS2で『ヴィヨンの妻』を演っている。ぼっとみちまいそうだな。
おかげでまた京都二条室町のホームデンティストに応急処置してもらい、そのまま新幹線にのって、いま上野のT横インにいます。またチョンボやっちまいましてね。充電してたガラケーを家に忘れてしまったの。まぁ、そんなに携帯が鳴る人ではないから、不自由はないんだけど、学会講演にチャックが来ることになっていて、打ち合わせしようと思っていたのにできない。さきほどパソコンからチャックの携帯アドレスに送信してホテルの電話番号を伝えたところ電話があり、いきなり「センセー、あれFAX番号ですよ」と言われた。
「どうやって調べたんだ、お前?」
という情けない状態のまま、15時間後に講演であります。もう配布資料のデータは担当者に送ってるんですが、ここは敢えてバージョンアップしておこうかな。発表と資料がずれてるほうが、聴く側も眠くなんないでしょうからね。
いまBS2で『ヴィヨンの妻』を演っている。ぼっとみちまいそうだな。
飛んでイスタンブール(ⅩⅡ)

カッパドキアの奇岩群は分布範囲がとてもひろく、その全貌をお伝えするのはやっかいなことである。とくに奇岩を動植物等に喩える「きのこ岩」だとか「うさぎ岩」だとか「らくだ岩」(↑@デブレント)だとかが枚挙にいとまないけれども、私はあまり興味がない。中国人が好きなんだね、こういうの。「福建丹霞」でもさんざんそういう奇岩をみせられたが、「だからどうした」と思うのである。そして、すでにアナトリア紀行をおえて一月が過ぎようとしている。そろそろ連載も終わらせたい。最後に、ゼルベ野外公園とカイマクル地下都市のことを記し、紀行文の結びとしよう。

ゼルベ野外公園
アクテペの丘の斜面と渓谷に形成されたゼルベは「妖精の煙突」が最も集中するエリアである。人工洞穴に人びとが居住しはじめたのがいつごろなのか、分かっていないけれども、9~13世紀にはキリスト教徒たちの重要な定住地となり、信仰拠点の一つとなっていた。斜面に位置するディレクレ教会が初期のもので、浮彫十字架は偶像崇拝主義の影響を示す。バルックル、ウズルン、ゲイックリなどのキルセ(教会)は偶像崇拝以前の遺構ともいう。1952年まで人が住んでいた。地震などによる岩窟の崩壊が移住の原因だという。修道院(僧院)と教会のほかに住居、トンネル、鳩舎などが廃墟となって残っている。1967年に野外博物館としてオープンした。奇岩が集中し、ぶどうの教会(ウズルン・キルセ)などもここに含まれている。ギョレメ野外博物館は教会・修道院群であるのに対して、ゼルベは多数の住居群を含む点に特色がある。




飛んでイスタンブール(ⅩⅠ)


ウチヒサール
話は一月前のクリスマス・イブにさかのぼる。あの日、短いブログをロビーのソファで書き上げ、「保存」のボタンをクリックしてただちにホテルのレストランに移動し、度肝を抜かれた。窓外に尖り帽子状の隆起地形が群をなす渓谷の景観がひろびろと展開している。聞けば、ホテルが所在するウチヒサールも世界遺産カッパドキアの一部をなすという。ウチヒサール市街地の東・西・北に点在する奇岩地形は、ローマ帝国時代に墓地として使われていた。横穴墓の入口は通常西向きになっている。ギョレメに近接するため、教会は少ない。
カッパドキア地方のエルジェス山、ハサン山、ギュルリュ山はおよそ1千万年前に火山活動を始めて噴火を繰り返して、湖底の火口から溶岩が噴出し、水面から100m以上高い台地に堆積した。おもに凝灰岩層から構成され、火山灰・粘土・砂岩・玄武岩なども含んでいる。この地形をクズル川などの水流が浸食し、「妖精の煙突」と呼ばれる特殊な地形が形成された。この煙突状の地形を利用して、横穴式の教会・修道院・住居群や地下都市が造られるようになるのはローマ帝国属州時代(4世紀ころ?)からであろうと言われる。こうした自然地形と宗教・居住文化が評価され、1985年、アナトリア中部ネヴシェヒル県の「ギョレメ国立公園およびカッパドキアの岩石遺跡群」が世界遺産リストに加えられた。


パムカッレ&ヒエラポリスが世界複合遺産で、昨夏訪問した「武夷山」もそうだから、なんだまたそうかと言われるかもしれないが、すでに世界で1000ヶ所を超える世界遺産のうち世界複合遺産は28ヶ所しかない。だから、一年のあいだに3つの世界複合遺産を訪問したわけで、我ながら珍しいことだと思っている。世界ジオパークにはなっていないようだが、世界自然遺産あるいは世界複合遺産のほうが事実上格上なので、申請する必要もないのだろう。摩尼山で活動を続け、「山のジオパーク」としての保全活用をめざす我々にとって、この上ない模範である。

ギョレメ野外博物館
2世紀末、カッパドキアにはすでにキリスト教のコミュニティが存在していた。とくに有力だったのがカイセリ司教区とマラティア司教区である。3世紀になると、それが発展・拡大し始め、4世紀には聖バジル、聖グレゴリー、聖ナジアヌ・グレゴルの3大聖徒の故郷として知られるようになる。聖バジルがギョレメ博物館の地で新たな宗教改革をおこなったという。ギョレメの洞窟教会は、単拝廊・アーチ式天井が一般的で、墓地としても使われていた。例外として、2拝廊式のメソポタミア様式や3拝廊のバシリカ様式も含まれている。とくに壁画等の残りがよい遺構として、りんごの教会(エルマル・キリセ)、蛇の教会(ユランル・キルセ)、闇の教会(カランルク・キルセ)などがあり、11世紀ころに造営されたものである。

第15回「ツリーハウスに挑戦!」

P2&P4発表会速報!
昨夜は結局明け方4時過ぎまで大学におりましてね、1年生1名と2年生1名の作業が終わらない。作業の完了をみぬまま帰宅し、9時20分に起床。急いで大学に戻り、13講義室の前に行くのですが、集合時間の9時半を過ぎているのに、学生はだれも居ない。講義室に入ってみると、エガチャン1名が別の発表会を聴講している。他のメンバーはまだゼミ室で作業している模様。電話のつながらない学生、寝坊して車で迎えに行く学生などいることが判明し、発表者全員揃ったのは開始予定時(10時)の2分前というありさまでした。そういえば、昨年は寝坊してそのまま欠席した学生が約1名おりましたね・・・例年ドキドキです。
発表はOSの関係で、通しのパワポができていないため(前期はリーダーが調整済でしたよ)、発表者間の受け渡し等で時間を浪費したり、なかには黒い文字が白い文字に化けて、頭も真っ白になってしまった学生もいました。それでも、みんなよく頑張りました。聴講者も前期以上に多く、充実した発表会だったと思います。いまや常連となった倉吉の会長のほか、熊野神社遺跡保存会長、某新聞記者さんなども含まれ、発表会後に取材を受けました。もちろん木彫仏の年代測定についても情報公開しましたが、「少し勉強してから記事にする」そうです。
今後、学生諸君に感想文をお願いしているので、またブログにアップしてゆきます。

↑奈良の研究所から戻ってきた木彫仏2体の梱包を初めて解きました
学会講演、迫る
摩尼山に係わるプロジェクト研究の成果発表会が7時間後に迫ってきました。まぁ、ありがたいことに、続々と発表練習の学生があらわれて、自分の仕事はなんにもできません。わたしゃ、今夜は帰るよ。大半の学生は徹夜でしょう。昨年までは朝まで付き合ってたけど、還暦も近づいてきたし、もうヤだ。帰る。
ほんとは26日の学会講演「ミクロネシアの住居論」のパワポづくりをしようと思ってたんだけど、駄目でした・・・でも、モードを切り替えないとね。その意味でもういちど比較居住文化小委員会(拡大委員会)の講演について広報しておきます。
1.日時 2013年1月26日(土)15時30分~18時00分
2.会場 建築会館 308会議室
〒108-8414 東京都港区芝5-26-20
3.プログラム 司会:内海 佐和子(昭和女子大学)
15:30~15:40 趣旨説明 清水 郁郎(芝浦工業大学)
15:40~17:10 講 演 浅川 滋男(鳥取環境大学)
演 題「ミクロネシアの住居論 -1980年代の調査から-」
17:10~17:40 討 論
17:40~18:00 まとめ 栗原 伸治(日本大学)

↑ 右の画像をクリックすると拡大します
ほんとは26日の学会講演「ミクロネシアの住居論」のパワポづくりをしようと思ってたんだけど、駄目でした・・・でも、モードを切り替えないとね。その意味でもういちど比較居住文化小委員会(拡大委員会)の講演について広報しておきます。
1.日時 2013年1月26日(土)15時30分~18時00分
2.会場 建築会館 308会議室
〒108-8414 東京都港区芝5-26-20
3.プログラム 司会:内海 佐和子(昭和女子大学)
15:30~15:40 趣旨説明 清水 郁郎(芝浦工業大学)
15:40~17:10 講 演 浅川 滋男(鳥取環境大学)
演 題「ミクロネシアの住居論 -1980年代の調査から-」
17:10~17:40 討 論
17:40~18:00 まとめ 栗原 伸治(日本大学)


↑ 右の画像をクリックすると拡大します
1094030
大学教員にとって一年でいちばん長い二日間が終わりました。仕事を終え、へなへなになって研究室で呆けていると、若い同僚がやってきて、「トラブルなくてよかったですね」と笑顔をみせながら、別の事件がネット上にアップされていることを教えてくれました。
NHK ON LINE というサイトにでかでかと本学の記事がでている。国営放送はテレビ報道の内容を短時間ネット上にアップし、まもなく削除するのでしょう。しかし、キャッシュはしばらく消えない。そしてまた、某茶店では、その騒動を「新聞で読んだ」と女将がいう。すでにして人口に膾炙している現実を思い知らされました。そういえば最近、『雲盗暫平』を寝床で読んでいたんだ。お務めするなら、暫平ぐらい胸のすくことやってくれよな。さきほど『笑点』で林家木久扇がお馴染みの駄洒落を言ったとか、言わなかったとか・・・
アルジェリアのテロもずいぶん気がかりだけど、あんたは こちら がナイジェリア。(座布団なし)
NHK ON LINE というサイトにでかでかと本学の記事がでている。国営放送はテレビ報道の内容を短時間ネット上にアップし、まもなく削除するのでしょう。しかし、キャッシュはしばらく消えない。そしてまた、某茶店では、その騒動を「新聞で読んだ」と女将がいう。すでにして人口に膾炙している現実を思い知らされました。そういえば最近、『雲盗暫平』を寝床で読んでいたんだ。お務めするなら、暫平ぐらい胸のすくことやってくれよな。さきほど『笑点』で林家木久扇がお馴染みの駄洒落を言ったとか、言わなかったとか・・・
アルジェリアのテロもずいぶん気がかりだけど、あんたは こちら がナイジェリア。(座布団なし)
飛んでイスタンブール(Ⅹ)


パムッカレの朝焼け
これまでトルコの旅を逆行しつつ紀行文を書いている。旅はアンカラから始まり、ヒッタイトの城とアタテュルク廟を視察してカッパドキアに向かった。カッパドキアからセルジュク朝の古都コンヤを経由してパムッカレに飛ぶ。700キロばかりの距離を飛行機ではなく専用車で飛んだので、乗車時間は12時間に及んだ。翌日はパムッカレからエフェソス遺跡を経由してアイワルクまで7時間、その翌日はアイワルクからトロイ遺跡を経由してイスタンブールまで9時間、車に乗り続けた。今回の最重要対象はカッパドキアの奇岩風景・洞穴僧院・洞穴集落であったが、第2の目的は世界遺産の視察であり、世界遺産から世界遺産に飛ぼうとすると、こうして長距離移動の連続となってしまうのである。
出発前、「本を書きたきゃ国外脱出だ」などと豪語したが、現実は甘くない。校正できる時間も空間もなかった。車で風景をみては居眠りし、あとは文庫本を読む。タケシの本をたくさんもっていった。幻冬舎の『全思考』から読み始めて、同舎の『超思考』、祥伝社の『下世話の作法』、最新刊の新潮新書『間抜けの構造』と読み進めたが、後3冊は『全思考』の焼き直しか、内容の重複が少なからずある。しかし、それにしても、内容は抜群におもしろく、ダケシは冴えわたっている。一方、昨年最大のベストセラーとなった阿川佐和子『聞く力』 (文春新書)はすぐに飽きた。俺には無理だね。

さて、パムッカレについて述べよう。上の写真は、雪に覆われた棚田ではない。トルコが世界に誇る石灰華段丘である。石灰岩で棚田のような地形が形成され、おまけにそこに温泉が注ぎ込んでいるのだ。対面遠くには海抜3000m級の雪山が視界におさまり、雪の湯漕(ゆぶね)に浸かっているような錯覚を覚える。エフェソスまでの移動が長いので、早朝一番の訪問となった。寒いが晴れている。雪が積もっているようにみえて、そこは温水の溜まりであり、旅客はみな靴をぬぎ、ずぼんを膝までめくりあげて、滑りやすい石灰岩を歩き回る。そういえば、ミニスカートのお嬢さんもいたな。溝には湯が勢いよく流れている。もちろん腰掛けて足湯に浸かる。溜まり湯よりも若干温度が高い。


第14回「ツリーハウスに挑戦!」
プロジェクト研究2&4発表会、迫る
ついにプロ研最後の授業日となり、2回めの発表練習を終えました。前回は発表構成通りの順序(1→2→3→4)でプレゼンしましたが、今回は作業時間をほぼ平等に確保するため、4→3→1→2の順に練習しました。驚いたのは、先週欠席しスピーチ放棄かと思われたミノリンことインドアーズ2号がじつに堂々たるプレゼンをしてみせたことです。滅多に人を誉めない教師が「上手いね、よかった」と思わず口にしたほどの出来でしたが、それでもまだ若干の修正が必要です。全体としてみると、1年生が2年生よりがんばっているという印象です。2年生は、課題をもう少し深くほりさげる必要がある。とくに、4「摩尼寺門前活性化計画」は相当なテコ入れが必要ということで、学生たちはまだ議論を続けています。1週間前に今の段階まで来てなきゃいけませんでしたね。でもまだ時間はあります。発表会は火曜日ですから。発表分担と構成を若干変更したので、下に最新バージョンを示しておきます。
ところで、ここだけの話ですが、パレオラボ社より木彫仏の放射性炭素年代測定レポートが届きました。発表会当日、メディアに公開したいと思います。お楽しみに!
--
1)日時: 2013年1月22日(火)10:00~10:45
2)会場: 鳥取環境大学13講義室
3)プロジェクト題目: ツリーハウスに挑戦! -続・修験道トレッキング-
4)発表構成
1.プロジェクトの目的と概要
1-1 摩尼山と摩尼寺「奥の院」遺跡(中田)
1-2 前期の活動成果と後期の目標(中村)
2.巨巌現る-摩尼寺「奥の院」遺跡の環境整備
2-1 巨巌周辺の環境整備(江上・金山)
2-2 伐採木のリサイクル(Ⅰ)-キノコの原木栽培(山中・石田)
2-3 伐採木のリサイクル(Ⅱ)-ツリーハウスに挑戦(小林・中田・吉田)
3.摩尼山を中核とする「景勝地トライアングル」構想
3-1 「山のジオパーク」と「景勝地トライアングル」(藤井・岡田)
3-2 登山路と日本海遊歩道の現状(大西・金山)
3-3 伐採木のリサイクル(Ⅲ)-サインボードの制作と設置(佐々木・中村)
3-4 ルートマップの作成 -景勝地間トレイルから山陰海岸ジオトレイルへ(吉田・石田)
4.摩尼寺門前活性化計画
4-1 門前の現状と空間再生マスタープラン(岡田・山家)
(1)景勝地トライアングルとの関連性
(2)中継基地としての「終着駅」構想
-特殊な「道の駅」と交通アクセス-
(3)門前町の風情と空間
4-2 施設計画(山家・藤井・小林・中田)
(1)情報センターもしくはミニ博物館
(2)喫茶店の移動と改装
(3)門前蕎麦屋「摩尼そば」
(4)多目的オープンスペース
(5)「雁木」の効果
ついにプロ研最後の授業日となり、2回めの発表練習を終えました。前回は発表構成通りの順序(1→2→3→4)でプレゼンしましたが、今回は作業時間をほぼ平等に確保するため、4→3→1→2の順に練習しました。驚いたのは、先週欠席しスピーチ放棄かと思われたミノリンことインドアーズ2号がじつに堂々たるプレゼンをしてみせたことです。滅多に人を誉めない教師が「上手いね、よかった」と思わず口にしたほどの出来でしたが、それでもまだ若干の修正が必要です。全体としてみると、1年生が2年生よりがんばっているという印象です。2年生は、課題をもう少し深くほりさげる必要がある。とくに、4「摩尼寺門前活性化計画」は相当なテコ入れが必要ということで、学生たちはまだ議論を続けています。1週間前に今の段階まで来てなきゃいけませんでしたね。でもまだ時間はあります。発表会は火曜日ですから。発表分担と構成を若干変更したので、下に最新バージョンを示しておきます。
ところで、ここだけの話ですが、パレオラボ社より木彫仏の放射性炭素年代測定レポートが届きました。発表会当日、メディアに公開したいと思います。お楽しみに!
--
1)日時: 2013年1月22日(火)10:00~10:45
2)会場: 鳥取環境大学13講義室
3)プロジェクト題目: ツリーハウスに挑戦! -続・修験道トレッキング-
4)発表構成
1.プロジェクトの目的と概要
1-1 摩尼山と摩尼寺「奥の院」遺跡(中田)
1-2 前期の活動成果と後期の目標(中村)
2.巨巌現る-摩尼寺「奥の院」遺跡の環境整備
2-1 巨巌周辺の環境整備(江上・金山)
2-2 伐採木のリサイクル(Ⅰ)-キノコの原木栽培(山中・石田)
2-3 伐採木のリサイクル(Ⅱ)-ツリーハウスに挑戦(小林・中田・吉田)
3.摩尼山を中核とする「景勝地トライアングル」構想
3-1 「山のジオパーク」と「景勝地トライアングル」(藤井・岡田)
3-2 登山路と日本海遊歩道の現状(大西・金山)
3-3 伐採木のリサイクル(Ⅲ)-サインボードの制作と設置(佐々木・中村)
3-4 ルートマップの作成 -景勝地間トレイルから山陰海岸ジオトレイルへ(吉田・石田)
4.摩尼寺門前活性化計画
4-1 門前の現状と空間再生マスタープラン(岡田・山家)
(1)景勝地トライアングルとの関連性
(2)中継基地としての「終着駅」構想
-特殊な「道の駅」と交通アクセス-
(3)門前町の風情と空間
4-2 施設計画(山家・藤井・小林・中田)
(1)情報センターもしくはミニ博物館
(2)喫茶店の移動と改装
(3)門前蕎麦屋「摩尼そば」
(4)多目的オープンスペース
(5)「雁木」の効果
飛んでイスタンブール(Ⅸ)


続・エフェソスの猫
クレテス通りは、前290年にリシマコスが修復・再生させた街路である。トラヤヌスの泉(↓右)、ハドリアヌス神殿(↓左)、公衆トイレ、妓楼などが軒を連ねる。泉は2世紀初頭の建造で、トラヤヌス帝に捧げられたものだが、後世の改修が多いという。神殿はやや遅れて、ハドリアヌス帝に捧げられた。4世紀にテオドシウスが修復した後、かれは絞首刑となった。テオドシウスの息子は、父の死後、神殿を一般公開したという。この遺構は最近エフェソスで発見されたばかり。


クレテス通りを下っていくと、壮麗な2階建てのモニュメントに目を奪われる。セルシウス図書館である(↓左)。135年、ユリウスがアジア州総督だった父セルシウスに捧げるために造営させた図書館。セルシウスの墓所は図書館の裏手にある。図書館脇のマテウス&ミスリアダテスの門(↓右)をぬけると大理石通り(マーブル通り)にでる。これが町のメインストリートで、ほどなくして大劇場に至る。その向こうには聖母マリア教会や競技場がある。



飛んでイスタンブール(Ⅷ)

エフェソスの猫
トルコ第3の都市イズミールは、エーゲ海交易の利権を一手に掌握する港町であった。そこから75キロばかり南下したところにエフェソス(エフェス)という巨大な遺跡が残っている。古代ギリシア~ローマ時代の都市遺跡である。その歴史はとても複雑だが、なんとか概要をまとめてみよう。
古代エフェソスはクチュクメンデレス川が西アナトリアの海へ注ぐ湾口に建設された。起源は前2000年にまで遡る。アマゾネスが都市を建設したという伝説もあり、女神アルテミスを崇拝していた。前11世紀になると、イオニア人がエフェソスを征服し、前6世紀にはアテネ系のアンドロクロス王が暴政を強いていた。その間、哲学者ヘラクレイトスがこの地に住み着いて古代哲学に強い影響を残している。ペルシア戦争(前499~前449)の後、エフェソスにも民主主義が芽生えた。ペロポネソス戦争(前431~前404)では、前半にアテネ、後半になってスパルタの支配下に入り、グラニコスの戦(前334)の後にアレクサンダー大王がペルシア人から町を奪い返した。大王の後継者の一人、リシマコスは前283年に町を征服し、城壁を築いた。

前190年、エフェソスはローマ人によって攻略された。アウグストス帝(前63~後14)のときに共和制ローマのアジア属州首府となり、「小アジアの銀行」として商業的に大発展を遂げるが、その繁栄も3世紀にいったん終焉を迎える。女神アルテミスの神殿を攻略したゴート人はエフェソスを破壊した。その後4世紀には、小アジアにおけるローマ司教の首都に返り咲く。
キリスト教伝道史のなかでとくに重要な二人の人物がエフェソスで暮らしている。聖パウロはエフェソスを基点として数年間布教活動をしたが、後に町を追放されている。一方、聖ヨハネはこの地で新約聖書を訳し、生涯を終えたと言われる。6世紀の半ば、ユスティニアス帝は聖ヨハネの墓上にバシリカ(礼拝堂)を建設した。それはアルテミス神殿の東側、アヤスルクの丘の上にあったが、リシマコスの時代に丘の麓に移転され、11世紀ころからエフェソスの町はようやく丘の周囲に定着したという。

飛んでイスタンブール(Ⅶ)


ウドとサズとブーズーキー
カッパドキアの二晩め、洞窟レストランで夕食をとった。ベリーダンスの観賞を売りにしているレストランで、その前座にメブラーナ教の神楽舞と民族舞踊があり、これが長すぎてうんざりした。トリを務めるセクシー・ベリーダンスを心待ちにして、居眠りしながら待っていたのだが、はたしてベリーダンスの露出度は低く、腰の振りもいまいちで、がっくりきた。しかし、収穫がなかったわけではない、民族舞踊のバックを務める4重奏団の演奏レベルがとても高い。とくに、ダンス前座でのインストルメント(歌舞なし演奏のみ)に興奮した。
クラリネット(風の管楽器)・弦楽器・琴(のような楽器)・打楽器の4人編成で、モーダルなインプロビゼーションをくりひろげる。スケールはペンタ(5音階)で単純なのだろうが、各楽器がほぼ独立して即興演奏し、その重なりにもの凄い迫力がある。モード時代のコルトレーン・カルテットを彷彿とさせるほどの熱演だった。分かる人は分かるでしょ、『セルフレスネス・フィーチュアリング・マイフェイバリットシングズ』の「マイフェイバリットシングズ」のようなグルーブ感のあるパフォーマンスだったの。この夜、最大の拍手喝采が四重奏団におくられた。要するに、前座の前座がいちばん受けたわけ。

言うまでもなく、中東・バルカン方面に諸楽器の起源がある。ギターの祖先もこのあたりで生まれたはずだから、トルコの弦楽器にはおおいに関心があり、今回のトルコ行にあたって、私はブーズーキーを買い帰ることを一つの目的にしていた。凄まじい即興演奏をくりひろげる4重奏団を前にして、「あの弦楽器はブーズーキーなのか」という疑問がふつふつとわき上がり、席を立って楽団の前に移動し写真を撮影した。弦楽器はリュートのような形をしている。ヘッドが直角に折れて、ネックは短くフレットはついていない。たぶん11弦だろう。ブーズーキーは4コース8弦だから、あきらかに異なっている。翌日、絨毯屋さんでみた2枚のポスターにその弦楽器が大きく映っていた。2枚とも美女が絨毯に坐り、その横に弦楽器を横たえている。
さっそく楽器をじろじろ眺めた結果、まちがいなくフレットレスで、6コースの11弦。いちばん低音の6コースだけを1弦にして、他の5コースは2弦にしている。フィリピンのバンドリア系弦楽器も、6コースのみシングルとしていたが、これはルート音を強調するためであり、普通の12弦ギターでもこうしたほうが良い場合がある。店員に楽器の名称を訊ねた。ウド(ud)という。「美女と絨毯とウド」が贅沢の象徴なんだね。
その日の午後、パーキングエリアのショップでCDを2枚買った。ジャケットに弦楽器をプリントしている。1枚はウド、もう1枚は別の弦楽器だった。ネックは長く、黒いフレットが映っている。トルコのブーズーキーにちがいないと思って訊ねると、店員は「サズ」と答えた。いま、そのCDを聴きながらこの文章を書いている。


飛んでイスタンブール(Ⅵ)

続・イスタンぶら
トルコ人はべらぼうに日本語が上手い。大学の日本語科で学んだとか、そういう問題ではない。独学の人だって驚くほど流ちょうな日本語を話す。エジプシャン・バザール(↑)を歩いてみればいい。日本語が飛び交っている。メディア取材中の男(店主)が、いきなり声をかけてきた(↓)。
ねぇねぇ、お兄さん、ちょっと寄ってきなさいよ、
よりどりみどり、きみどり、さつきみどりだよ!
トルコ語は日本語、朝鮮語、モンゴル語、満州語などとともにウラル・アルタイ語群を構成する主要な言語グループである。これらの諸言語は文法がよく似ており、とりわけ語順が変わらない。モンゴルの関取がまるで日本人のように日本語を操るのは、こういう言語的下地があるからだろう。トルコ人の風貌はコーカソイド(白色人種)系にみえる。しかし、かれらは自分たちの祖先がモンゴル人のような風貌をしていたと認識している。トルコという国の人口はたしか1億にみたないはずだが、トルコ系の民族は全世界では十数億に及ぶ。近隣諸国への移民ばかりでなく、ウズベキスタン、タジキスタン、カザフスタン、キルギスタンなどの国々の人びとはみなトルコ系で、言語もトルコ語の「方言」に分類できるという。2011年秋に訪れた中国新疆のウィグル族もこの一派とみなされる。クチャが文明化すれば、イスタンブールのようになるかもしれない。かれらの祖先は、中国で「突厥」「鉄勒」「回鶻」などと呼ばれた。いずれも漢族の王朝を長城の外側から脅かした西域の騎馬遊牧民である。一方、モンゴルの祖先は「鮮卑」や「匈奴」と呼ばれて、長城の北を跋扈していた。突厥(テュルク)は西遷してトルコとなり、匈奴(フン)は西遷してハンガリーとなった。その民族移動の過程でコーカソイドと混血し、モンゴロイド的体質を失っていった、とわたしは思いこんでいる。

トルコ石の店で誕生日が12月だと漏らしたばかりに、誕生石だから買え、買えとずいぶんしつこく迫られた。その店長も素晴らしく日本語が上手かった。店長の隣に25歳の女性店員もついて、半ば色仕掛けで宝石を買わせようとする。そのときの会話を再現しよう。もちろんすべて日本語である。
店長:「あなたは神様を信じていますか?」
教師:「いや・・・信じてません」
店長:「それはいけない。この世の中のすべてのモノは神様がお造りになったものでしょう。
その神様を信じないなんて、あってはならないことです」
教師:「日本人だって、正月になると、神社に初詣に行ってお祈りしますよ」
店長:「あの、頭が はげぼうず の人たちが神に仕えているのですか?」
教師:「いや、あれは違う。寺院のお坊さんです。日本人は神道と仏教の両方を信仰してるんです」
店長:「えっ、神様は一人でしょ。アラーは一人です」
教師:「日本ではね、八百万(やおよろず)の神といって、無数の神様がいるんです」
店長:(呆然として絶句)


飛んでイスタンブール(Ⅴ)


イスタンぶら
イスタンブールのような歴史都市の街歩きは楽しい。世界文化遺産に登録された歴史性と現代性が入り乱れ、ヨーロッパと中東アジアの情緒が交錯している。小道や路地を歩くと、雑貨屋、カフェ、レストラン、八百屋などいろんな店があり、スープ、ケバブ(串焼き)、アイスクリーム、焼き栗などの屋台が通りすぎてゆく。中国やインドとちがって嬉しいのは、イスラムの規律が無意識に働いているためか、街も店も清潔なことだ。そういえば、スレイマニアからブルーモスクへ移動する小道の角地に木造建築を発見した。16世紀の建物で、すでに国が買収しており、修復の計画が進行中だと聞いた(↑右)。オスマン朝の木造町家だからね、とても気になった。
ツアーガイドなどという人種は「泥棒さんが多くて危険だ」とかなんとか吹聴して街歩きを妨害し、自分たちが契約している免税品店に連れ込もうとする。日本人(の女性グループ?)の大半はそれに従い、目を剥くほどのブランド物漁りに時間を割くが、本当の旅の楽しさが分かっている者なら、行く当てもなく街をぶらぶら歩くだろう。

ぶらぶらしては休憩する。まずはトルココーヒーのカフェで休もう。苦くてどろどろしたコーヒーだ。コップぐらいの小さな鍋でコーヒーを煮詰めるがフィルターは使わない。だからカップの底に粉がヘドロ状に残っている。味はエスプレッソに近くて、苦み走っている。だからおまけがつく。チョコレートとミネラルウォーター(小さなペットボトル)。チョコを囓りながら上澄みのコーヒーを口に含むとバランスがよく、まとめて喉を通してから水を飲む。楽しい一時だ。こういうカフェは売店を兼ねていることが多く、店の外にテーブルを並べているが、店内にも小さなカウンターがあって、そこで飲むと、コーヒーの作り方を間近に視られるので、ますます楽しい。帰国後、店で買った豆をコーヒーメーカーで淹れてみたが、まったく刺激がなくなっていた。あの縦長の鍋でぐつぐつ煮込み、ヘドロ混じりにしないと苦みばしった男の味にはならないのだろう。


第13回「ツリーハウスに挑戦!」
プロジェクト研究2&4発表会のお知らせ
昨日は新年のプロ研初回でしたが、いきなり発表練習となりました。初回としては、みなよくやっていました。さて、発表会の日時・会場が決まったのでお知らせしておきます。
1)日時: 2013年1月22日(火)10:00~10:45
2)会場: 鳥取環境大学13講義室
3)プロジェクト題目: ツリーハウスに挑戦! -続・修験道トレッキング-
4)発表構成
1.プロジェクトの目的と概要
1-1 摩尼山と摩尼寺「奥の院」遺跡(中田)
1-2 前期の活動成果と後期の目標(中村)
2.巨巌現る-摩尼寺「奥の院」遺跡の環境整備
2-1 巨巌周辺の環境整備(江上・金山)
2-2 伐採木のリサイクル(Ⅰ)-キノコの原木栽培(山中・石田)
2-3 伐採木のリサイクル(Ⅱ)-ツリーハウスに挑戦(小林・中田・吉田)
3.摩尼山を中核とする「景勝地トライアングル」構想
3-1 「山のジオパーク」と「景勝地トライアングル」(藤井・岡田)
3-2 登山路と日本海遊歩道の現状(金山・大西)
3-3 伐採木のリサイクル(Ⅲ)-サインボードの制作と設置(佐々木・中村)
3-4 ルートマップの作成 -景勝地間トレイルから山陰海岸ジオトレイルへ(吉田・石田)
4.摩尼寺門前活性化計画
4-1 門前の現状と空間再生マスタープラン(岡田・山家)
4-2 施設計画(山家・藤井・小林・中田)
(1)中継基地としての「終着駅」構想
-情報センターとユーティリティ・スペース
(2)摩尼蕎麦と精進弁当
(3)市街地・砂丘からの交通アクセス
昨日は新年のプロ研初回でしたが、いきなり発表練習となりました。初回としては、みなよくやっていました。さて、発表会の日時・会場が決まったのでお知らせしておきます。
1)日時: 2013年1月22日(火)10:00~10:45
2)会場: 鳥取環境大学13講義室
3)プロジェクト題目: ツリーハウスに挑戦! -続・修験道トレッキング-
4)発表構成
1.プロジェクトの目的と概要
1-1 摩尼山と摩尼寺「奥の院」遺跡(中田)
1-2 前期の活動成果と後期の目標(中村)
2.巨巌現る-摩尼寺「奥の院」遺跡の環境整備
2-1 巨巌周辺の環境整備(江上・金山)
2-2 伐採木のリサイクル(Ⅰ)-キノコの原木栽培(山中・石田)
2-3 伐採木のリサイクル(Ⅱ)-ツリーハウスに挑戦(小林・中田・吉田)
3.摩尼山を中核とする「景勝地トライアングル」構想
3-1 「山のジオパーク」と「景勝地トライアングル」(藤井・岡田)
3-2 登山路と日本海遊歩道の現状(金山・大西)
3-3 伐採木のリサイクル(Ⅲ)-サインボードの制作と設置(佐々木・中村)
3-4 ルートマップの作成 -景勝地間トレイルから山陰海岸ジオトレイルへ(吉田・石田)
4.摩尼寺門前活性化計画
4-1 門前の現状と空間再生マスタープラン(岡田・山家)
4-2 施設計画(山家・藤井・小林・中田)
(1)中継基地としての「終着駅」構想
-情報センターとユーティリティ・スペース
(2)摩尼蕎麦と精進弁当
(3)市街地・砂丘からの交通アクセス
飛んでイスタンブール(Ⅳ)


ブルーモスク
帰国後、正月を過ぎてから、オリンピック招致の広報合戦が始まっている。東京のライバルは、マドリードと・・・もう一つは何だイスタンブールか。イスタンブールは5度目の立候補だというし、イスラム圏初の五輪開催地を目指しているというから難敵だ。ただ、イスタンブールに弱みもある。おそらく「渋滞」の問題が競技開催にあたって大きな障壁になるだろう。10~15分の距離に2時間を要する場合があるほど、イスタンブールの渋滞は凄まじい。市内移動の際、専用車から降りて、歩いたほうがましだと何度も思った。「イスラム圏初」という売り文句にも疑問がないわけではない。これまで述べてきたように、現在のトルコは無宗教の国であり、歴史的にみても、キリスト教(ギリシア正教)とイスラム教が交錯している。アラブ系のイスラム諸国は、トルコを「イスラム圏の代表」とはみなさないだろう。トルコはすでにアラビア文字を放棄してアルファベットを使っているし、EUへの合流も時間の問題となっている。自国を「ヨーロッパ」とみなす国民が圧倒的に多い。イスラム圏代表としては、やはり中東の諸国がふさわしく、それらの国々の票はマドリードや東京に流れるではないかという杞憂(というか期待?)がトルコを旅した故に心中に芽生えている。

世界文化遺産としての「イスタンブール歴史地区」はたしかに素晴らしい。しかしながら、トルコが世界に誇るジャーミー(トルコ型モスク)にしても、原型がギリシア正教大本山のハギア・ソフィア(オスマン朝のアヤソフィア)にあって、イスラム系文化遺産のなかでは最も西欧寄りの特徴をもつことは前回述べたとおりである。トルコ史上最高の建築家とされるミマール・スィナンはアヤソフィアを凌ぐことを生涯の目的としてスレイマニエを設計した。ただ、「装飾」の方向性が真逆なので、両者の比較は難しい。あまりよい喩えではなかろうが、日光東照宮と利休の茶室の優劣を決しようとしても意味はないということだ。


建築学会「比較居住文化小委員会」講演のお知らせ


めずらしいことに、日本建築学会より講演の依頼がありました。比較居住文化小委員会の拡大委員会が、来たる1月26日に開催されます。フィールドワークに基づく住居集落の比較研究を課題とする委員会ですから、私の用語に変換するならば「民族建築」の研究会ということになります。民族建築は自分の研究の原点なんですが、最近ではもっぱら建築考古学関係の講演ばかりで、まれに民家・町並み系の講演依頼がある程度ですから、ほんと珍しくもありがたい機会を頂戴したと思っております。東方アジアなら大体どの地域でも話題提供できるのですが、年末にトルコをぶらぶらしながら演題を考えた末、ここは原点回帰しかないということで、ミクロネシアを主題にしようと思うに至りました。
取り急ぎ、日時・次第をお知らせしておきます。
1.日時 2013年1月26日(土)15時30分~18時00分
2.会場 建築会館 308会議室
〒108-8414 東京都港区芝5-26-20
3.プログラム 司会:内海 佐和子(昭和女子大学)
15:30~15:40 趣旨説明 清水 郁郎(芝浦工業大学)
15:40~17:10 講 演 浅川 滋男(鳥取環境大学)
演 題「ミクロネシアの住居論 -1980年代の調査から-」
17:10~17:40 討 論
17:40~18:00 まとめ 栗原 伸治(日本大学)

↑ トラック諸島トル島ファウバ遺跡における集会所建設(1980)
飛んでイスタンブール(Ⅲ)

ハギア・ソフィア
トルコ共和国の母胎は、オスマン・トルコ(1299-1922)であり、モンゴルの占領を跨いでオスマンに先行するのがセルジュク・トルコ(1071-1243)である。国がイスラム化したのはセルジュク期以後のことで、それ以前のビザンチン帝国時代(395-1071)はギリシャ正教を国教としていた。ギリシア正教はいうまでもなくキリスト教の一派だが、キリスト教は1世紀にパレスチナで生まれた新興宗教であり、ローマ帝国(BC334-AD395)の中期にあっては、むしろ国家反逆の邪教扱いされ、弾圧を受けていた。帝国の末期に至り、激しい帝位継承戦が繰り広げられるなかで、コンスタンチヌス1世(在位324-337)を支援したことで1世に公認され、ユスティニアス帝(在位527-565)の代に国教となった。


イスタンブールはローマ帝国末期の首都であり、元はビザンチウムと呼ばれていたが、コンスタンチヌス帝が330年に遷都してコンスタンチノープルと改名した。その後、395年にローマ帝国が分裂してこの地は東ローマ帝国の一部となり、「小アジア」としての文化的色彩を強めていく。ギリシア正教の国家的拠点となったのは、ハギア・ソフィア教会である。コンスタンチヌス1世の代に建設が始まり、息子の2世の代(西暦360年頃)に竣工した。当初は「メガレエクレシア大聖堂」と呼ばれ、身廊が一つ、四方に通廊を配した小振りの石造建築で、屋根は木造であったと推定されている。その後、火災や地震などで何度か崩壊し、修復・再建を繰り返した。今日に残された建物の全体は、ニケの乱を鎮圧したユスティニアス帝の時代のものと言われる。ギリシャ正教を国教とした皇帝のもとで生まれた大本山であり、いまのバチカンに相当する権威を誇ったと想像してよかろう。
コンスタンチノープルは1453年に陥落した。オスマン・トルコはただちにハギア・ソフィアをイスラムの礼拝堂に改修し、「アヤソフィア・モスク」と改名。2本のミナレットを増築して塔は4本となり、スルタンの御座所を建設し、内部のモザイク画を石灰で隠した。目が眩むほどのモザイク装飾が石灰で塗りつぶされた素朴な空間がどのようなものだったか、とても興味がある。後述するように、アヤソフィアこそがオスマン朝期モスクのモデルだったからだ。


飛んでイスタンブール(Ⅱ)


スレイマニア・ジャーミー
もう30年近くも前のことだが、『東洋建築史図集』という教材を編纂する学会委員会の席で、大ベテランの研究者が「イスラム建築こそ世界最高だ」となんどか口にした。その研究者はもちろんイスラム建築の専門家だから、そのころは反発を覚えたものである。そりゃイスラムの専門家はイスラムが世界最高だと誇るだろうし、ゴシックの研究者はゴシックこそが最高だと思っているだろう。中国の専門家なら、中国だって負けていないと反論するかもしれない(私は中国が世界最高だなんて思ったことがないけれども)。このたびトルコを訪問し、イスタンブールでスレイマニエ廟(1557)の内部に入った瞬間、あのベテラン・イスラム研究者の言は嘘ではない、と感じ入った。参りました、イッポンさしあげます。
私はヨーロッパをあまり知らない。訪問したことがあるのはイングランド、スコットランド、バルセロナ、マルセイユ、サンクトペテルブルグ、モスクワなどに限られる。そこで、そこそこの宗教建築を目にしてきた。凄いものだとは思うけれども、どちらかというと装飾過剰気味の演出にげんなりして、廃墟としての遺跡に関心が傾いていった。とくにイングランドの田舎とスコットランド離島の遺跡や町並み・田園風景に心を奪われ、日本の田舎(地方)もあんなふうにならなきゃいけないと思って今に至っている。

スレイマニエは清楚な建築である。装飾がないわけではないが、それはきわめてシンプルで配色も抑制が効いている。空間が清浄さを訴えており、その清浄さは、建築の構造と相関している。ドーム構造がそのまま力強さをもって「美しさ」と「神聖さ」に結びついている。装飾が控えめだけに、構造の意匠性がぞんぶんに発揮され、そこに人は空間の超越性を感じ取るのである。大阪の住吉大社本殿の屋根替え修理時に内部をみせていただいた際、同じような感動を覚えた。木柄の太いサス組の構造が強く聖性を訴えてくる。なんの装飾もない白木の建築である。弥生時代の建築も、こんなに清浄な美しさを備えていたのだろうか、と始原の時代に想いを馳せた。
スレイマニアに限らず、イスラムのモスクが構造をそのまま意匠化できている理由は、鉄骨構造補強にある。柱頭間に水平梁や雲筋交の細い鉄骨をめぐらせることで石造アーチというかドームというか(じつはよく分かっていない)、そういう構造が本来の姿を露わにできるのである。日本建築の場合、屋根裏にハネギを伴う野小屋をつくり、天井から上の「建築」を隠してしまう。こういう造作が平安時代から始まり、和風建築では当たり前になってしまった。だから、構造の意匠性をなかなか体感できない。古い神社本殿や浄土寺浄土堂などの特殊な建物においてのみ、例外的にそういう「空間=建築」の実体を味わえる。

2013 頌春

新年あけましておめでとうございます。
無事、トルコから帰国しておりますが、まだ時差調整の段階です。
28日以来、ブログをアップしてないと思ってる人はあまいよ。
たまにはLABLOGも覗いてみてください。
昨日の大晦日は56回目の誕生日でした。たくさんの方から祝賀メールを
いただきまして感謝申し上げます。(過半は学生からの中間成果レポート
提出メールだったんですがね、まぁなんでもいいや、ありがとう)
研究室の4年生と会長からは誕生祝いの品まで届きました。「催促」は
してみるもんですな、ぐふふ・・・
とにもかくにも、新年です。
あかるく元気にいきましょう!
平成25年 元旦

↑イスタンブールの小路