fc2ブログ

iPadでブログ

 ついにiPadを買ってしまいましたよ。
 書きにくいね。ブログにはむいてないけど、短文ならなんとかなる。
 昨日は長谷寺でサンプル採取し、そのまま奈良にもどってきました。その日がじつは31回めの結婚記念日であることに今日になってきづいた。さきほどささやかなディナーをしてきました。

 学生諸君、インターンシップのブログを買いてください。ちなみに、昨日の長谷寺調査は、おとといの埋蔵文化財研修とあわせて白帯とケントが担当です〜
 よろしく!


0830写真 ねこ05圧縮  0830写真ねこ01圧縮
↑もちろんiPadで撮影したものです

木綿街道のこと(ⅩⅩⅩⅨ)

CIMG36632.jpg


放射性炭素年代のためのサンプル採取(1)-SS邸

 8月23日。金曜日のインターンシップ終了後、先生に率いられて平田に向かいました。夕食がとてもおいしかったですが、このときのことは多分先生が報告されると思います。翌24日の朝9:00すぎにタクオさんが合流され、まず編集会議が始まりました。私たちはその時間を利用して、測定候補の建物2棟のうちSS邸を歩き回り、放射性炭素年代測定のサンプルにふさわしい候補を探しました。
 サンプル採取は、まず年輪の数を数えることから始まります。部材には年輪40年以上残り、しかも辺材を含むことが望ましいそうです。年輪5年ごとにマチ針などで印をつけ、みんなで部屋中の柱などの部材つぶさにチェックしっていきました。そして、見つけたのは蔵の梁でした。サンプルを採取して先生たちにチェックしてもらうと、「蔵は大正だよ、アウト」と言われ、がっくり。その後、タクオさんから指示をうけ、オモヤ2階の小屋梁・登り梁を調べましたが、学生はサンプル採取の経験が乏しく、作業がはかどりません。


DSC_02162.jpg


 一旦休憩してからもう一度部材探しを行い、ミセ‐ドマ境の胴差など何箇所かサンプル採取を行った結果、1階のドマ上の胴差(大引?)が一番古いのではないかと推定するに至りました。サンプル採取では、3-5年の年輪を両端部と中間の3箇所(1~3年、24~26年、48~50年など)で取る必要があります。部材の表面が炭化しており、少し深めにチップを取らないといけません。しかし、削り跡が目立たないような位置で作業をしなければならないので少し難しい作業でした。S邸のサンプル採取はタクオさんが主導され、私たちはサポートやラベル書きの手伝いを担当しました。胴差は柱と違って高いところにある水平部材です。脚立にのって常に腕を上げての作業なので安定せず、大変そうでした。
 もう1棟のHS邸については、ユート君が報告します。(セツ)


DSC_02312.jpg

二つの覆堂

0820毛越寺10常行堂01


毛越寺常行堂と長谷寺本堂

 一関夕刻の雨は翌日の平泉まで降り止まなかった。毛越寺のことはすでに話したが、一つだけ付け加えておきたい建物がある。常行堂だ。本尊は宝冠阿弥陀如来、奥殿に摩多羅神を祀る。正月20日に常行三昧の修法がおこなわれる施設であり、重要無形民俗文化財に指定されている。建物は享保17年(1732)の再建にかかる茅葺きの5間堂宝行造。
 わたしたちが平泉を旅していたころ、3年生はインターンシップで長谷寺本堂の屋根架構の調査をしていた。長谷寺本堂は中世の茅葺き5間堂を山上に移築し懸造にして、縁をめぐらせたものである。いまはシコロ葺き風の寄棟瓦葺きになっている。長谷寺本堂の当初の屋根は、おそらく毛越寺常行堂のような茅葺き宝行造だったであろうと思う。だから、毛越寺常行堂を取り上げたのだ。「復原」を好まない私であるけれども、長谷寺本堂の屋根については旧状の屋根に復したい、つまり茅葺き宝行造に復原したいという下心がないとはいえない。景観上の課題のみならず、構造上の課題をクリアできるからだ。茅葺きの屋根は軽く、それを支える小屋組は素朴なものであったろう。それが四面瓦葺きになると、何倍もの重さになる。このため、小屋組には複雑な介入が施された。屋根裏に上れば、その複雑さに驚かされる。矛盾だらけの小屋組と言ってよいかもしれない。学生たちはその複雑な小屋組を実測し、おそらくCGを制作するだろう。そこから後補材を取り去っていけば、茅葺きの架構があらわれる。そうした本来の架構にふさわしい軽量の茅葺き屋根をみてみたい。


0820毛越寺10常行堂02 0820毛越寺10常行堂04


 素朴な茅葺き屋根の内側には装飾豊かな禅宗様厨子が納まる。この対比がおもしろいではないか。しかも、茅葺きの覆堂は懸造になっている。もうひとつ期待していることがある。長谷寺本堂の背面には岩山があり、その頂部に巨巌が露出している。また、本堂背後の部分は岩陰のように抉られているようにもみえる。摩尼寺「奥の院」のような巨巌と岩陰仏堂が背後に潜んでいる可能性があり、これについては9月末までに雑草・灌木の除去清掃を業者に委託する予定であり、また「巨巌現る」の記事が紙面を踊るかもしれない。


中尊寺金色堂旧覆堂

 平泉にきて金色堂をみないまま帰るわけにはいかない。わたしはどうでもいいのだが、患者は初めての平泉なのだから行きたいのは当然のことである。中尊寺の登りは結構きついので、金色堂真下の駐車場までタクシーで上がった。金色堂はコンクリートの覆屋におさまっている。少し大きな展示物のまわりに博物館を建てたようなものだ。わたしはあっさり通り抜けたが、患者は時間をかけてみている。しかし、さほど反応していない。五感が反応していれば、必ず言葉に出る。言葉が少ないということは、心を動かされていない証である。


CIMG2802長谷寺01
↑長谷寺本堂もかつては茅葺き宝行造だったと思われる。常行堂のような姿に戻る日がくるだろうか? 

続きを読む

サテンドール(ⅩⅨ)

0819ベイシー02


ベイシー再び

 土蔵造りの蔵元からハーフティンバーのベイシーまで数分とかからない。なつかしい扉をあけると、カウンター側のテーブルでマスターが原稿を書いていた。怪訝そうにわたしたちをジロリと覗く。音楽はかかっていない。客はひとりも居なかった。原稿書きに最適の環境だったことだろう。わたしたちはスピーカーの正面いちばん奥に陣取った。昨年と同じ席である。ターンテーブルがまわってLPに針が落ち、ジャケットが座席横の柱に立てかけられた。「ワルツ・フォー・デビー」のピアノソロから始まって、どう聴いてもビル・エヴァンスだから、かのエヴァンストリオの名作かぁと思ったらちがっていた。キャノンボール・アダレイ with エヴァンス3の『ノウ・ウァット・アイ・ミーン?』でした。2枚めはカウント・ベイシーで、その次がフランク・シナトラ。シナトラのバックもベイシー楽団にちがいない。あんな小気味よいリズムギターを刻めるのはフレディ・グリーンだけだからね。喫茶ベイシーで聴くビッグバンドの音は、それはそれは凄いものです。ベースなんか、もうビンビン心臓に響いてくる。ただ、昨年の衝撃が強烈だったので私は昨年の方が良い音のように感じたのだが、患者はいや今年の方が良いと反論した。音も人間も生き物であり、それぞれの人生で音の伝わり方が違うのかもしれない。


0819ベイシー04


 シナトラの次は、ローリンド・アルメイダをフューチャーしたMJQの『コラボレーション』。いまアマゾンで検索したところ、CDは中古品しかなくて、7000~8000円するね。手がでません・・・安いのに変えよう。『ギター・フロム・イパネマ』なら送料込613円か。これに決めた。というわけで、やっぱりギタリストに耳が反応してしまう。とくにナイロン弦のギタリストは、ライバルのようなもんだからねぇ(冗談ですよ)。そう言えば、「なんであなたはナイロン弦を弾くのか」という間抜けな質問をしてきたヤツがいる。高価なアコギを膝に抱え、調子にのって「楽(らく)だから?」とにやけた顔で挑発するではないか。なんでナイロン弦かって、ナイロン弦の方が良い音がすると思っているからに決まっているでしょう。


0819ベイシー03

続きを読む

サテンドール(ⅩⅧ)

0819せきのいち04


世嬉の一

 雨の一戸から一関まで下ると、空は晴れていた。午前からずっと快晴だったらしい。暑い。夕方のニュースで分かったことだが、この日の一関の最高気温は35℃を超えていた。同じ岩手県でも北部と南部でかくも天気がちがうのか、と感じ入り、ついでに「餅」について思いをめぐらせた。
 江戸時代にあって、一戸は南部藩、一関は伊達藩に属した。そして、いつかどこかで書いたはずだが、南部藩は「蕎麦」、伊達藩は「餅」の文化圏である。「餅」の代表格がずんだ餅であり、ずんだ以外にも、あんころ餅、黒ごま餅、ネギ味噌餅など、餅の種類は多種多彩で、「餅」専門のカフェもある。患者はずんだやあんころに目がない。駅前のホテルでゲットした町歩きマップをみると、「ふじせい」という餅御膳カフェがホテルの近くにあることが分かった。餅御膳でお茶しようと提案すると、患者の顔はほころんだ。
 しかし、残念なことに、「ふじせい」は盆休みの3連休初日。そこで、わたしはベイシーに電話した。無愛想な男性が電話口にでてきた。大音量のジャズも聞こえてくる。店が開いていることに安堵し、「今夜は何時までやっていますか」と訊ねると、さらに無愛想なため口で、

   「今日は早いよ、8時には閉める」

ときた。マスターの菅原さんだ。知人でもなんでもないが、噂に聞くとおりの対応に間違いないと確信した。


0819せきのいち05 ←石蔵クラストン


 ベイシーでジャスを聴くために一関に来たわけではない。なんて書くと、「うそつけぇ」と野次が飛びそうだから、あえて申し上げておきますと、ベイシーは勤務時間外に訪れる目的地であります。そのまえに行くところがある。登録文化財「世嬉の一」酒造。
 北に向かって歩き始める。暑い。汗が噴き出してくる。しばらくすると妻入の町家群があり、ソフトクリームやらかき氷の旗がなびいている。休憩だわ。ともかく休憩しよう。私たちは「松栄堂」という和菓子屋にしけこんだ。「田村の梅」という菓子で有名な老舗らしい。すでに初老の夫婦が長いすに腰かけ、汗をぬぐいながら、レモンのかき氷を食べていた。わたしたちはイチゴのかき氷としそ焼餅を注文した。いやぁ、猛暑日のかき氷は体に染み渡るね。しそ焼餅も上品な甘さで、伊達藩の餅をまずはひとつクリアできたことに喜んだ。ここで餅御膳を食べられるカフェについて聞くと、店員の女性は「世嬉の一」の名前をただちにあげた。


0819せきのいち08
↑蔵元カフェ


続きを読む

御所野遺跡を世界遺産に(Ⅱ)

0819御所野09← 焼却実験住居跡(下2枚も)


念力

 一夜あけて空は雨模様。8年ぶりの御所野だというのに、昨夜「世界遺産狙い」を酷評した罰が当たったのかもしれないな・・・徐々に雨は小降りになり、遺跡を歩いて回れるぐらいになった。
 ここにはやはり「地霊のオーラ」がある。「豊かな自然」とか「緑の広場」とか、そんな生やさしいモノではない。かつて何かが存在し、眼にみえない超自然的な何かがこの高台を支配していて、そこに入ると人は自らが浄化されたような気持ちになる。研究所の激務に苦しんでいたころ、年に何回か御所野に出張した。奈良を出て交通手段を5回変える。ただでさえ頭は痛く、血圧は高く、苦悩しつつ御所野にたどり着くのだが、高台に立った瞬間、気持ちが清浄になって頭は冴え始める。「また来て良かった」と感じ入ったものである。今回もそういう内面の変化がたしかにあった。
 驚いたことに、御所野を初めて訪問する患者も似たような反応を示した。いきなり、

   「平城宮よりずっと気持ちいいやん」

と口走ったのである。ムナモト(仮名)はムナモトで、

   「実家に一晩帰ってましたが、ぼくにとっては御所野の方が実家らしい
    実家ですね・・・」

という。わたしも遂に故郷に戻ってきた想いがした。そして、昨晩、世界遺産騒動を批判したことを少々反省した。ここが世界遺産になってくれたらいいのに、という気持ちが、大きくではないけれども、心の底に芽生えたのは事実である。

   「御所野だけで申請したらいいですよ。ここだけで勝負すべきだ」

 勝てる保証はない。欧米人に「地霊のオーラ」が感じ取れるかどうか分からないし、仮に感じ取れたとしても、それが文化遺産として評価されるとは限らないだろう。ただ、ここは他の縄文遺跡とはちがう。少なくとも、林謙作さんや私はそう考えていたし、再訪してまたそう思った。


0819御所野08 0819御所野07


 今回の東北行で、患者がもう1ヶ所はしゃいだ場所があった。毛越寺(もうつじ)である。雨のなか、一関のホテルから平泉まで移動するタクシーの中で患者に諭しておいた。「平泉で世界遺産たり得るのは毛越寺だけだ(から最初に行く)」と。はたして毛越寺の浄土庭園遺跡を回遊しながら、彼女は何度も記念写真を撮ろうと提案した。「撮影を頼むと迷惑がかかるだけだからやめよう」と答えるのだが、彼女はその要望を断念することがなく、遣水の畔と鐘楼跡で見知らぬ旅人に2回も撮影してもらった。いま振り返ると、二人で記念撮影したのは、毛越寺だけなのである。彼女は毛越寺を異常に気に入っていた。毛越寺にも地霊のオーラが存在したのだ。

 御所野と毛越寺には、人間を浄化し躍動させる何かがある。ただ、文化遺産としての評価はおそらく毛越寺が有利だろう。あの池と州浜と建物の礎石跡は藤原氏の時代のものだ。そういうオーセンティックな遺跡が目の前にひろがっている。そして、復元建物がいっさいないことで場の真実性が際立っている。前にも述べたように、毛越寺庭園の整備はシンプルであるが故に、平城宮東院庭園を上回っている。東院庭園に復元建物を建てたのは間違いであったと思う。毛越寺のように、遺跡をそのまま見せれば良かったのだ。


0820毛越寺03 0820毛越寺01
↑毛越寺庭園遺跡(平泉)

続きを読む

御所野遺跡を世界遺産に(Ⅰ)

0819御所野13世界01 


再会

 夕方二戸に着くと、銀河鉄道のプラットフォームに館長のお出迎え。宿舎までの移動の車中で、どういうわけか、ある人物のことが頭をよぎった。

   「ほら、あの、毎年夏休みになると、御所野に来てプラプラしてた
    あいつ、いまどうしてんですかね?」

 館長は答える。

   「あっ、ムナモト(仮名)のことですか。あいつ、ずっとシャリにいたんですが、
    この4月から某道庁教委の採用になりましてね。37歳になるんですけど、
    ようやく定職がみつかって、盆休みで御所野に寄って昨日実家の仙台に
    帰ったんですが、今日アサカワさん来るよって言ったら、飛んで戻ってきました。
    良かったら、少しだけ酒でもお付き合いください」

 ムナモトは私たちと同じホテルに泊まっていて、向かいの居酒屋で卓を囲んだ。わんこ蕎麦がまだ腹に残っていて、とてもビールを飲む気にならない。芋焼酎のロックから入った。ムナモトは私の20歳ばかり年下の男で、1999年に御所野の中型住居焼却実験で「最後の晩餐」を供にし、それから二晩ヤツは焼却直前の復元住居で夜を過ごしている。わたしは42歳だったはずだ。だから、やつは22~23歳のころか。その後、総合研究大学院大学の修士課程に進んだという。

   「おまえ、そんな柄でもないところに行ったの。吉本とか全日本プロレスとか、
    もっと似合うところあっただろ?」


0819御所野12


 はたして博士学位を得ることなく歴博をフェイドアウトし、北海道の現場をうろうろしていたらしい。しかし、くよくよしないおおらかな人柄が好まれたのだろう、どこでも重宝され、ついには役職に就いてしまった。おもしろい話をいくつか聞いた。たとえば、

   「ケイン・コスギは小説家ですよ」
   「えっ、タレントだろ?」
   「いえ、だから小説書いてんです」
   「・・・・」

などという訳の分からぬ話である。笑うしかないネタもあれば、患者が困るような「犬」ネタもあり、館長が「そりゃマズイよ、おまえ」と窘める話題もあった。が、総じて笑えた。ヤツの顔に笑ったというほうが的を得ているかもしれない。

 一戸は「御所野遺跡を世界遺産に!」で湧いている。酒席の話題も徐々にそちらに軌道修正していく。すでに暫定リスト入りしている「北海道・北東北の縄文遺跡群」の代表格として御所野にかかる期待は大きい。


0819御所野11

続きを読む

WNK84

0818わんこ05


 岩手に出張していて、花巻東が鳴門に逆転勝ちした直後の一戸の大衆食堂で盛り上がった。花巻が優勝すればいいね、と自ら発言した関係上、今日の準決勝もTVの画面を凝視して応援してたんですが、負けちゃいましたね。終盤にスクイズを外した場面なんか、迫力あった。あぁいうのを「スパイで見破った」なんて記事が出たら笑っちゃうよね。プロだろうがアマチュアだろうが、あらゆるところから、相手のサインを解読する指示がでているに決まってるじゃないの。でなきゃ勝てないでしょう。ヤフコメ読んでみなさいな。昨年まで高校球児だったって人物がちゃんと証言しているんだから。花巻東は恥ずべき行為などしていません。堂々と胸をはって帰郷してください。

 さて、話は18日に遡る。盛岡駅前の老舗「東家(あずまや)」でわんこ蕎麦をたらふく食べました。わたしは蕎麦好きで、これまでの人生においてわんこを二度いただいてます。患者は経験がない。食べたいというわけです。で、えらいめにあいましたよ。


0818わんこ02


 わんこ蕎麦の1椀はほぼ蕎麦一口の分量。15椀で掛け蕎麦1杯にあたるんです。女中さんがお盆に15椀の蕎麦をのせて食卓にやってくる。それをこちらのお椀に入れては食べ、食べては入れ、の繰り返しなんですが、わたしは健常大食早食いであり、患者は右手が不自由で一椀食べるのに時間がかかる。結果、お盆1回の15椀は患者3椀、私12椀という配分になります。2盆めが終わると、患者6椀、私24椀。患者が掛け蕎麦1杯分に達するのは5回目のお盆ですね。ここでようやく患者15椀・・・私は60椀。

   「うぅぅん・・・もうちょっと食べたいね」

との一言に女中さんは厨房に戻り、まもなく6盆めをもってくる。ここで患者18椀、私72椀。もう勘弁してくりぃ~と悲鳴あげているところに、

   「それじゃ、最後にもう1回いこうか」

とくる。ついに7盆めがやってきた。結果、合計は患者21椀、私84椀。


0818わんこ04
↑うちの隣の席。どこもこんなもんです。

続きを読む

サテンドール(ⅩⅦ)

0815八幡堀01


ぷるみえ

 近江守山で発掘現場に降り立った。現場に立つのはいつ以来だろうか。三徳山の冠巌が最後だったかもしれない。楽しかった。梁間が5mもある掘立柱建物がみつかっている。ただ、側柱の堀形は小さく浅く、柱痕跡は30㎝ばかり。棟通りは後世の溝で攪乱され、棟持柱や床束の痕跡は消え失せている。「柱穴に対して梁間が長すぎるから平屋だね」の一言に技師の顔はひきつった。
 こういう建物は「高床の祭殿」でなければならないそうだ。現実が平屋であったとしても、唯物疾患・・・じゃなかった・・・唯物史観に立脚した進化主義考古学にとってみれば、「ムラからクニへ」という発展段階があり、そのプロセスの中でこういう建物を位置づけたいのだとかれは吐露する。


0815moriyama.jpg 0815moriyama02.jpg

 
 ハナから色をつけて遺跡をみてはいけませんよ。まっさらな気持ちで遺跡に接する。梁間は長いし、柱穴は小さい。床束もない。これでは高床になりません。そもそも「祭殿」なんて施設があったかどうか分からない。倭人伝に「祭殿」なんて用語はでてこない。いってみれば、これは「掘立小屋」じゃないのか。そんな建物から社会の発展を導き出せますかね?

 考古学という学問分野はすでに死に体ではないか、と思うことがある。マスコミ考古学の隆盛は旧石器捏造事件を契機に終焉に向かい、いまは堅実な成果のみが求められている。余計な色気を出さずに、遺構と遺物に即した研究をしている考古学者が賢明だ。


0815八幡堀02小路02 0815八幡堀02小路01平面
↑ 倉吉の重伝建地区でも町並みの歯抜けとなった駐車場にこういう横丁を造ったらどうか?


続きを読む

講演のお知らせ(Ⅱ)

鳥取市民大学「郷土の歴史」講座


 1回目の講演がぼちぼち近づいてきました。前回()でお知らせしましたが、まずは鳥取市民大学からです。今回は講演要旨を掲載しておきます。


  日  時: 9月4日(水)13:30~15:00

  会  場: 鳥取市文化センター2階大会議室

  演  題: 山寺をあるく-摩尼寺と不動院岩屋堂を中心に-

  講演要旨: 仏教では山林での修行がなにより大切で、奥深いに山中に境内を構えることが
        当然のことと思われていましたが、江戸時代あたりから山麓に境内を移し、
        当初の境内を「奥の院」と呼ぶようになりました。私たちは遺跡と化した摩尼寺
        (鳥取市)の「奥の院」を発掘調査し、その起源が平安時代にまで遡ることを
        あきらかにしています。摩尼寺のほか三徳山三仏寺(三朝町)や不動院岩屋堂
        (若桜町)を題材に、岩窟仏堂系の山寺について語ります。


0814猫01

難波

0813猫01 ←ドライブにも慣れてきました


 難波の熱風はトルファンを彷彿とさせた。風が体温を上回っている。
 高級ホテルのラウンジに避難してアイスコーヒーを注文する。メニューに1400円とあるのをみて、思わず嗤った。会談の席であり、テーブルにグラスが置かれても、なかなか口に運べない。ジェントルマンは、飲物を出されてから口をつけるまでのタイミングを知っているのだそうだ。まぁ、少し待ってコーヒーを飲んだが、ガブ飲みするわけにもいかないしね。
 ちびりちびり口にした。あとで若い仲間が教えてくれたのだが、あのアイスコーヒーはお代わり自由らしい。何杯飲んでも1400円だったんだ。もったいないことをした。3杯飲むべきだった。これから先の人生で1400円のアイスコーヒーを注文することはもうないかもしれない。

 一夜あけて、ホームセンターのペットショップに出かけ、メダカ(20尾)と金魚(5尾)を買った。50円の金魚とはかくも小さきものだったのである。平田の小鮒が大きくみえる。玄関の水槽にふさわしいスケールの魚たちが戻ってきた。驚いたことに、金魚とメダカは棲み分けすることなく、仲間のようにして泳ぎ回っている。

 深夜、長女が東京から帰宅し、子猫と対面。長女はニャアニャアと鳴きながら猫に近づくのだが、猫は人見知りする。あんなにお転婆なさっちんが、長女に接触しようとせず、一定の距離を保っている。私は猫に怖がられているようで、そうでもない。深夜、校正の仕事をしていると、膝の上に飛び乗ってきて、腹を枕に寝そべり甘えはじめる。我が家の猫になってきた。だから、初対面の人物になつかないのかもしれない。


0813猫02金魚

睡蓮鉢

0810金魚04


 昨年の夏祭り(朱雀左京)で掬った金魚の総数は13尾で、うち12尾が雑菌感染のため帰らぬ魚となり、1尾だけ生き残った。水槽は寂しくなり、平田や摩尼寺の門前で仕入れたメダカなどの淡水魚を数十尾放流し、さらに近くのペットショップで小さな金魚4尾を追加した。魚の棲み分けは見事だった。水面近くにメダカ、水底に金魚と小鮒が群遊する。
 雑菌感染を乗り切った金魚の生命力は凄まじい。みるみる大きくなっていく。1㎝ばかりの稚魚がいまは体調10㎝を超える大魚になって、沼の主と化してしまった。一方、不思議なことに、メダカは数を減らし続け、一月ばかり前、ついに絶滅してしまった。

  「こいつがメダカを銜えているのをみたよ」

と娘は言った。こいつとは大きくなった金魚のことである。追加した4尾の金魚も「中魚」クラスに成長した。平田淡水魚唯一の生き残りの小鮒は小さいままだ。小鮒と金魚はほぼ同スケールだったから、金魚の成長が手にとるように分かる。


0810金魚02


 金魚はパブロフの犬になった。わたしが水槽に近づくだけで、水面に跳ね上がりバシャバシャと波を打つ。餌をくれ、というサインを送ってくるのだ。小さな水槽を跳ね回る5尾の金魚をみて、これは限界だと感じたのは私だけではない。家内が提案し、庭に大きな水甕をおいて金魚を移そうということになった。ベトナムや南方中国の中庭でみた金魚甕のイメージがある。酸素供給のポンプはない。背の高い甕に水をいれ水草を浮かべるのみ。
 量販店に足を運び、行き着いたのは「睡蓮鉢」であった。6000円もする鉢を買って帰り、軒下に置く。水道水を注ぎカルキ抜きの溶剤をとかしてしばらく待ち、金魚を移す。水の量は八分目にしてホテイアオイを数株浮かべ、金網で蓋をする。こうすれば、猫の被害を防げるし、大雨で金魚が鉢の外に流し出されることもない。摂氏40℃近い猛暑日が続いているが、鉢中の水温はさほど上昇していない。金魚はいまのところ元気に泳いでいる。

 その一方で、水槽はさみしくなった。今年の夏祭は左京も朱雀も24日らしい。予定では、24日は平田になっている。残念だな、金魚が掬いたい。娘に委ねるしかなさそうだ。


0810金魚01 0810金魚03

国英神社

0809国英神社02全景


 幼少のころ、八頭郡河原町には5つの小学校があった。わたしが通っていたのは河原小学校で、他の4校は国英(くにふさ)小学校、八上(やかみ)小学校、西郷小学校、散岐(さぬき)小学校である。河原小学校区から最も近い位置にあったのが国英小学校で、自転車で遠征したり、千代川沿いの道を歩いて行ったりしていた。
 ただ、国英神社のことはよく知らない。所在地は河原町片山854番地とあり、白帯くんにグーグル地図をみてもらいながら、なんとか境内まで車で辿りついた。そこは霊石山の山麓で、子供のころ鮎釣りをしていた八東川の川縁であった。鳥居の脇に「鳥取市指定文化財 大イチョウ」の所在を示す杭が打ってある。平成20年の案内板(鳥取市教委)によると、樹齢は約480年で、「天正九年(1581)国英神社が片山字宮畑からこの地に遷宮した以前からあったと思われる」とのこと。字宮畑がどこなのか、少し検索してみたが、よく分からない。


0809国英神社01倉庫01絵様 ←祈祷所の絵様


 鳥居をぬけて拝殿に至る石畳の参道から左に目をやると、社務所の上手に祈祷所があり、その虹梁に残る絵様が細くて円形に近く、18世紀に遡るだろうと思われた。本殿の絵様は、昨日紹介した聖神社本殿に近い。全面扇垂木に台輪をもつ禅宗様系の影響が強いところも同じであり、建築年代は幕末に下るであろう。平面は流造系だが、屋根はいわゆる「宮殿(くうでん)」系の派手な造りにしている。入母屋造平入の瓦屋根に千鳥破風と軒唐破風をつける。規模は小さいが有力な神社であったことを物語る意匠である。
 問題の梵鐘はどこにもみあたらなかった。鐘楼らしき建物もない。通りすがりの老女に訊ねたところ、たしかに以前に釣り鐘はあったが、市の職員がもっていったそうである。鐘楼ではなく、拝殿の軒先に吊していたともいう。


0809国英神社03軒


 帰学後、鳥取市教委の知人にメールで訊ねたところ、その梵鐘は現在、鳥取県立博物館の常設展示室に陳列されているという。「伯州久米郷長谷寺鐘」という14世紀の銘が記された梵鐘である。いちど会長さんとともに足を運んでみよう。


0809国英神社04絵様
↑繋虹梁・実肘木の渦の形は聖神社に近い


続きを読む

聖神社の建築年代(Ⅰ)

0808聖神社本殿01 0808聖神社本殿03三斗組


 3年女子2名がインターンシップの関係で、8日・9日と聖神社本殿の修理現場で活動した。わたしも現場にお邪魔し、科学的年代測定の端材の選択を大工さんと協議した。昨年の拝殿・弊殿、今年の本殿とも野小屋にあって差し替える桔木(はねぎ)が有力な候補となった。なにより樹皮をはいだ丸太の状態であり、辺材(シラタ)を完全な状態で残している。樹種はマツ。ここで年輪年代測定は脱落し、炭素14年代(ウィグルマッチ)に方法が絞られた。ウィグルマッチの場合でも、年輪が多いにこしたことはない。女子学生2名が目視で計測した結果、差し替えする拝殿・弊殿の2点の桔木のうち、1点が50年以上(↓)、他の1点が30数年であり、本殿差し替え予定の3本の桔木はすべて30数年分の年輪しか残していなかった。当然のことながら、50年以上の年輪を残す拝殿・弊殿の桔木が最有力の候補と決まった。近く、見積もりに出そうと思う。


0808聖神社拝殿02伐採後 ←拝殿桔木の断面


 さて、県指定文化財「聖神社本殿・拝殿・弊殿」は、宝永七(1710)年改築後の作とされているが、わたしはこの建築年代に疑問を覚えている。まず過剰な装飾が18世紀初期という年代に不釣り合いであり、なにより、絵様が新しい。妻飾虹梁、破風、木鼻などに残る渦の形は楕円形で彫りの線の幅もかなり太いから、常識的には、19世紀前中期の様式と思われる。摩尼寺本堂や米子の八幡神社に近いデザインを示している。はたして桔木の炭素14年代はどういう結果を示すのか。かりに18世紀初期を示した場合、幕末に大改造があったことになるが、19世紀中頃を示した場合、建築年代を根本的に再考する必要に迫られるかもしれない。
 全面扇垂木や台輪など禅宗様の影響が強いところにも特徴があり、その一方で向拝三斗組の大斗・巻斗には強い曲線をもつ皿斗(大仏様)を使っている(一番上の2枚の写真を参照)。
 個人的には18世紀初期にまで遡る建築とは思えない。文化文政期以降の作であろうとここに予想しておく。


0808聖神社本殿02絵様02妻飾虹梁
↑本殿妻飾虹梁

0808聖神社本殿02絵様01破風
↑破風 ↓隅木?  この渦が18世紀?? 幕末以降でしょう・・・
0808聖神社本殿02絵様01破風02 

酸素同位体比年代測定

 昨日のブログを読んだチャックから新聞記事のコピーが送信されてきた。
 2013年6月3日の毎日新聞報道によると、年輪年代測定や放射性炭素年代測定を超越した画期的な年代測定の方法を名古屋大学の中塚教授(気候学)が開発したという。詳しくは下の記事をクリックしていただきたい。

 この年代測定は、木材に含まれるセルロースの酸素同位体比が年ごとに変動する現象を応用したものである。酸素同位体には質量16・17・18の3種類があり、その含有率は降水量等によって左右される。質量16・17・18のうち、質量18の数量を質量16の数量で割った数値が「酸素同位体比」であり、この比率が毎年異なるのだが、その変動パターンは樹種を問わず、北海道など一部の地域を除く日本列島のほぼ全域で変わらない。
 年輪年代の場合、いまのところスギ・ヒノキに材種が限定され、年輪数は100年以上必要であるとされる。一方、放射性炭素年代は炭素14の半減期を基礎としているため誤差が大きい。長谷寺(倉吉市)や聖神社(鳥取市)でも、いま「材種」と「年輪数」の確認に躍起になっているが、酸素同位体比の方法では50年ほどの年輪が残存していれば、1年単位の高精度で年代を確定できるという。おまけに、安価で短時間に計測可能だと新聞は報道している。
 これが事実だとすれば、ほんとうに画期的な科学的年代測定法の出現であり、旧来の方法は存在価値を失ってしまうだろう。この方法はいつから使えるようになるのだろうか。私たちのような末端の研究チームが気楽に「測定してください」と依頼できるのがいつの日のことか、それが気になる。
 とりあえず今年は年輪年代と放射性炭素年代に賭けるしかない。


0603酸素同位体年代測定(毎日新聞)← 毎日新聞(東京)6月3日

倉吉打吹山麓の歴史的風致に関する総合調査(Ⅲ)

0806長谷寺本堂E02(1)圧縮 0806長谷寺本堂E02(3)


お中元御礼

 お中元の御礼をしなきゃいけないと思いつつ、やっていなくて後ろめたかったんですが、昨夜、大学にホカノ君のビールが届いておりまして、こりゃ、もう急がないといけません。以下の卒業生のみなさま、お中元、ほんとうにありがとうございます。

   1.ニシガキくんご夫妻(久しぶりだね、元気にしてますか?)
   2.北から来たのさん(いつもすいません)
   3.タクオくん(ウップルイの海苔おいしいね)
   4.ホカガキくんご夫妻(アイさんの気遣いだろうな、ありがとう)
   5.ホカノくん(またインパルスの調子がおかしいぞ・・・)

 さて、昨日は長谷寺で年輪をじろじろみておりました。観察するまえの掃除が大変だ。埃が年輪にくい込んでいる。箒で掃いてはいて、濡れ雑巾でなんども扱くのだけれども、年輪は鮮明にならない。そして、乾燥しない。だから良い写真が撮れなかった。でも、この2本の外陣柱(↑E02・E05↓)の年輪は密だよね。200年ぐらいあるんじゃないか。前回の棟梁による材種鑑定ではE02はスギ、E05はクリかシイとのことであり、スギならば年輪年代学を適用できる。ただ、辺材型ではなさそうだね。

 一方、小屋梁には野物や太鼓落の材が少なくない。たぶんマツかな? だから年輪年代は分からないけれども、AMSのウィグルマッチを使えば表皮部分の14C年代がでるでしょう。29日に科学的年代測定専門家の指導を受けることになっていて、期待に胸がふくらみました。

 さきほどwikipediaの「長谷寺」の項を読んだんですが、以下の記載あり。

   鳥取市河原町片山の国英(くにふさ)神社蔵の正安3年(1301)銘の梵鐘には
   「伯州久米郷長谷寺鐘」とあり、この時点での寺の存在が確認できる。

 嘘かほんとか分からないけれども、14世紀初頭の長谷寺は移築前だから長谷(ながたに)村にあったのだろうね。国英神社を訪ねてみないといけません。


0806長谷寺本堂E05(2)圧縮

編集会議

0804編集会議01


 平田で1回めの編集会議をやってきました。
 そのあと大酒くらって顰蹙をかいましてね。翌朝もちだ醤油さんの焼きおにぎり朝食を完食するや否や、逃げるように木綿街道を立ち去ったのでありました。ひょっとすると、木綿街道を訪れることはもうないかもしれない・・・恥ずかしくて立ち寄れないわ。
 そもそも6月下旬あたりから、わたしのまわりにおかしな気が流れ始め、それが平田に出向く直前のオープンキャンパス終了時まで続いたの。口にできないことがいろいろあったんだけど、そのなかの一つに「息子の嫁にしたいお嬢さんの発見」があり、それを酒の席で大声で話したところ、大逆襲をくらった次第です。2週間ばかり前にずいぶん激しい自己嫌悪に陥り、反省したつもりでいたんだけど、それが木綿街道で再発してしまったわけで、これは深刻な症状だと感じ入り、車中で思案したあげく「従来の人生に戻るしかない」という処方箋に辿りついたのであります。そのためには、まず第一に学生と距離を置くことが肝要だ。
 だから、学生に奢ることはもうしないよ。みんな、オレをあてにするんじゃないぜ。

 平田から倉吉に直行し、ただちに長谷寺の調査に合流。いきなり雷を落としましてね。学生たちがどんなコンベ使ってるのか確かめようとしたんですが、みんなコンベをもってない。建造物実測調査の演習にコンベを持参してないんですよ。瞬時、アウトレイジ的罵詈罵倒が口から飛び出した。学生全員脱兎のごとく打吹山を駆け下り、量販店でコンベ買ってきました。
 その後しばらく実測に精を出したんですが、こんどは本物の雷が鳴り始めた。雷親爺が雷鳴を呼び、長谷寺は大雨に煙ったのです。それでも、そこそこの成果を得ることができましたよ。システムを変えたんです。これまでは、「全員●●時まで作業しよう」だったんですが、この日からは「自分の課題を終えた人は即終了。終わらない人は終わるまで作業を続ける」。一定の時間で調査を仕上げる訓練を重ねてブータンでのフィールドワークに臨みたいと思っているのです。


0804編集会議02

またしても校正マシーン

2013オーキャン01


 前期も終わって真夏のオープン・キャンパス。
 昨年ほどかき氷が出ませんね・・・山陰は曇りがちで猛暑というほどではないのかもしれない。

 前期はハードでした。教材と授業のやり方を根本的に見直しましてね。少しは軌道修正できたかもしれない、という感触はあります。でもまぁ、講義は苦手だ。というか、教育は苦手です。
 
 オーキャン初日(3日)終了後にブータン調査隊の結団式をやりました。ドタキャンした会長さん以外の12名が集結。以下の宣言をしたんです。

  1)わたしは通訳ではない。(通訳も)雑用もこれ以上しない。
  2)学生の飲食費等、いっさい奢らない。

 上の2点については、神仏に誓って遂行します。懐が寒いのね・・・自分で散財した夜もあれば、学生が勝手に「打ち上げ」やって、その代金を請求されたり、訳の分からぬ「誕生日」に奢らされたり・・・もう絶対学生には投資しません(ごく一部の例外的対象者あり)。でも、ブータンでは財布の紐をぎうぎうに締めます。

 オーキャンの前後から平田報告書の校正を始めました。最初はえらいことになったな、と頭を抱えていたんですが、しばらくすると、体が校正の快楽を思いだした。これは天職だわ。校正は、やっぱり楽しいな。教育は辛いが、校正は楽しい。
 まだ初校だから、先は長いけれども、良い本にしたいと思っています。乞御期待。


2013オーキャン02
↑ かき氷よりも「バウムクーヘンが美味しい」そうです。シュープリーズ圧勝!
プロフィール

魯班13世

Author:魯班13世
--
魯班(ルパン)は大工の神様や棟梁を表す中国語。魯搬とも書く。古代の日本は百済から「露盤博士」を迎えて本格的な寺院の造営に着手した。魯班=露盤です。研究室は保存修復スタジオと自称してますが、OBを含む別働隊「魯班営造学社(アトリエ・ド・ルパン)」を緩やかに組織しています。13は謎の数字、、、ぐふふ。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カレンダー
07 | 2013/08 | 09
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR