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第25回六弦倶楽部練習会

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尾崎家住宅公開講演に係わるミーティング

 三朝シンポジウム終了後、調査官は足早に会場を去られた。5時代のフライトが迫っていたのである。残されたわたしたちはといえば、まずセッつぁんに射的の景品を渡した。喜んでくれたような気がする。
 それから10月12日に迫っている尾崎家住宅公開講演のための打ち合わせをすることになった。若いご当主が来場されていたからである。会長の案内で、クラシックカーの展示されたカフェに移動。そこで協議した結果、講演の会場を住宅のドマではなく、安楽寺本堂にするのが良いのではないか、ということになった。なにせ、演題は「尾崎家住宅と安楽寺」ですからね。わるくないアイデアだ。
 それから倉吉市内にある某町家へ移動。翌日、倉吉で六弦倶楽部の練習会が開催されることになっている。いったん鳥取の下宿に戻って、また倉吉にやってくるのも面倒くさいので、28日は帰宅せず、某町家に泊まることにした。まずは鍵を受け取りチェックイン。夕食は関金のサテンドールに決めていた。シンポジウムでのシノギがそこそこあり、サポートしてくれた学生たちにニジマスのムニエルを馳走したかったのである。関金まで行くのだから温泉に浸かろう。三朝温泉の朝湯は短時間であがったが、夜の関金温泉は「湯命館」でたっぷり長風呂してやった。倉吉に戻り、ワイファイのある店を探したのだが、ついにみつからなかった。ブータンではiPadの感度がよく、セブンやXPのパソコンが不通の場合でもiPadでワイファイに忍び込めたのに、倉吉では駄目だった・・・じつは平田から電話が入っており、報告書の最後の詰めの段階で結構大きな修正を余儀なくされているところがあり、メールを確認したかったのだが、かなわなかった。後期は始まっている。いつまでも報告書にひきづられるのはまずい。


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今年も淀屋で練習会

 町家で12時ころ眠りに落ち、8時半に目覚めた。まるで普通の人のような生活ではないか。赤瓦10号館の「天女の泉」という喫茶店にモーニングがあると聞いたので、町に出る。快晴。気持ちいい。まもなく玉川の畔で自転車に乗る人影がわたしに迫る。会長だ。『遙かなまち』にでてくる漫画の一コマのような風景であった。二人して「天女の泉」にしけ込むが、会長は財布をもっていない。ホカノや患者がよく使う手である。もちろん奢ってあげたぜ~
 淀屋にはすでに六弦倶楽部の会員が2名やってきていて、PAのセッティングを始めていた。なにかお手伝いしようと願いでたのだが、なにぶん機械音痴なので、あまりお役に立てない。練習会は12時からということになっているが、なかなかメンバーが集まらなかった。わたしはその時間を利用して平田の原稿を推敲した。かなり手をいれた。これが限界だな・・・これで駄目なら割愛しよう。
 練習会は13時にスタートした。集まったのは8名。昨年は弾き語りやフォークバンド編成が多かったが、今回はインストが主流で、歌を唱ったのは私とチョトロク会長だけ。全体にバラードが多く、大人っぽくてよいのだが、バラードばかりだと眠たくなるよね。


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満員御礼-三徳山シンポジウム

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夜遊び?

 28日(土)のシンポジウムを控え、前日夕刻に三朝入りした。主賓の調査官を囲む懇親会に出席するためである。夕食会は9時ころに終わった。9時ってみなさん眠る時間じゃないよね。調査官は静かに部屋に戻られたが、他のメンバーは三朝の温泉街に繰り出した。
 さびれている。灯りのついている店が極端に少ない。三朝の名物であったヌード劇場と泡ランドもすでに廃業している。導かれるまま「射的場」に向かった。おもちゃのライフルで人形を倒すだけの遊びだが、これが結構おもしろい。数名夢中になって人形を打ち倒し、コインが30個ばかりたまった。ピンクの人形をゲット。タオルケット兼用の優れものである。セッつぁんにプレゼントしようということで一同合意。
 それからスナックを探した。いま温泉街には2~3軒しかないらしい。そのうちの一軒に入って雑談していたのだが、あきてきたので、カウンターに一人移動して「ふたり」と「酔って候」を歌ったところで、県内の重鎮2名が「帰ろう」と腰をあげ、わたしは「おれ残るから」と拒んだのだが、「シンポの準備があるでしょ、コメント用のパワポ作ってください」と命じられ、ほとんど拉致状態で旅館に連れ戻された。まだ11時なんだ。こんなに早く床に就くことなんて、この10年ばかりの人生ではないことであり、とても眠れないので、じつはこっそり旅館を抜けだし、川縁や路地裏を歩いた。路地の雰囲気はとても良い。この町はだれかの卒業論文になるかもしれない。そんなことを考えていた。


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正善院

 シンポ当日(28日)の午前、火災で焼失した三仏寺正善院の発掘現場を関係者全員で視察した。やっかいな現場である。シンポジウムでも述べたが、国指定史跡のなかの「復元」建物として再建する場合、相当な時間を要するであろう。できるだけ早く復興したいという気持ちも理解できないわけではないが、国民の血税を投じての復元なのだから、慎重な姿勢で臨まなければならないだろう。
 わたしはシンポジウムのコメンテータだが、パワポを用意していなかった。今回の自分の立場は刺身のツマのようなものであり、脇役に徹するためには発表資料などないほうがよいだろうと考えていたからだ。しかし、司会者はパワポをつよく要望する。鳥取市民大学講座のパワポを圧縮し、ブータンのデジカメデータをくっつけた。会場は110名の観客で埋まっていた。本来ならもっと多くの文化財関係者がはせ参じていただろう。28日は文化イベントが4つも重なり合う週末で、青谷上寺地シンポ、池田家墓所灯籠会?に加えて、倉吉市制60周年記念講座で助教のスギボーが講演していた。ASLABの学生は半数が三朝、半数が倉吉に分かれて講演会をサポートした。


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↑日本海新聞2013年9月29日



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ドラフ巡礼(Ⅳ)-ブータンの洞穴僧院を往く

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ダカルパ-ゲムジャロ寺

 ダグツォガン寺を離れ、清流の河原で遅めのお弁当をいただいた。サンドイッチにアップルジュース、ポテト、ゆで卵、鶏の唐揚げ・・・なかなか美味しい。ここにも龍之介があらわれた。
 食後、車はティンプー方向に発車。まもなく大きなヘアピンカーヴの道ばたに農民たちが列をなし出店をだしているのがみえた。その市場は山側の畦際にあり、反対側の川に近い平地には版築壁の残骸が立体的な姿をとどめている。ここで停車し、山をみあげると、懐かしいダカルパ寺が視界に納まった。車は車道からそれて舗装されていないでこぼこ山道を少しあがって駐車場に車を停める。
 ここから寺まで歩くしかない。ただし、道はなかった。畑地のような山の斜面の土を踏みしめながら山寺をめざす。ブータンに来て初めての山登りであった。若者たちも辛いだろうが、老教授2名からみれば足取りは軽い。二人の歩みは遅かった。年齢と戦いながらの登山であり、わたしに至っては体重との戦いもある。もしも体重が20キロ少なかったら、おそらくこんなに辛い想いをしなくても済むのに。平城ニュータウンのスロージョギングで登り坂を駆け上がるとき、いつもそう思う。ましては登山をや・・・同行した先輩教授は細身の体にして空手道の達人であり、体力には自信をもっているはずだ。おまけに両腕にトレッキングステッキをもって歩行を支えている。しかし、どういうわけか、スピードはわたしが先輩を上回った。


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 山肌を歩くのは途中までで、寺に近づくと山道があらわれる。その道はおそらく麓の市場あたりにつながっているのだろう。そこから歩くよりたしかに山肌を登るほうが早いし、疲れないだろうと思った。境内の境界に木柵があり、その内側にチベット式のチョルテン(ストゥーパ)が建っている。境内の主要な施設はそこからほぼ横一列に並ぶのだが、敷地は絶壁に近い斜面であり、大半の建物が懸造になっている。これまでブータンでみた中では最強の懸造であり、それは日本の懸造を彷彿とさせるものであった。
 ここで重要なことを述べておく。ダカルパ(Drakharpa)というのは本寺の固有名称ではない。明日から登場するティンプー地区のゴンパ寺やチェリ寺を開山した赤帽子派(ドゥルク・カギュル派)の開祖、パジョ・ドルガム・シンポがパロ地区に開山した一連の瞑想場をダカルパと呼ぶ。標高約2500mの山肌にこういう山寺がたしかに点在している。それらはすべてダカルパと呼ばれる。ダグツォガンと同じく、14世紀の開山段階では瞑想場のみで、17世紀以降本堂等が建立された。日本語で表記する場合、ドラカルパとすべきかもしれない。ドラ(dra)はすでに何度も述べてきたように「崖」を意味する。実際にブータン人が話すのを耳にすると、訛っているのかこちらの聴力が劣化したのか分からないが、「ダカルパ」と聞こえる。


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ドラフ巡礼(Ⅲ)-ブータンの洞穴僧院を往く

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 9月10日(火)。調査の2日めを迎え、教師は朝から機嫌がよろしくない。昨日のゾンドラカ寺での測量ウォームアップの不調が調査全体に暗雲をなげかけている。その遠因は学生たちの軽装にあった。まるで「北海道3泊4日の旅」のような出で立ちで関空にあらわれた彼らをみて唖然とし、あれだけ予め注意していおいた液体物やカッター類を手荷物検査で次々にとりあげられていく不注意さに言葉を失った。不慣れな海外旅行とはいえ、ブータンのような高地に対するレスペクト、あるいは調査の重みに対する意識が最初からあまり感じられず、この先どうなるのか、という不安が拭えなかった。
 朝食後の部屋でわたしは荷物と格闘していた。スーツケース2台の総重量は45キロ。なんでもかんでも放り込んでいる。これは何なのか、と訝しくなる代物がビニール袋に入っている。学生たちを部屋に集めて調査道具を仕分けしながら、屋外に持ち出していった。おあつらえむきに、ガイドは約束の時刻になってもホテルにあらわれない。あとで分かったことだが、ガイドの朝遅刻は常態化していた。おそらく費用をカットするために、宿舎を手配せず、ティンプーの自宅から通っていたのだろう。その時間を使って、調査道具を整理したのだが、荷物は多いが足りないものもある。たとえば、画板を容れるバッグ。B4の画板だけがバラバラにあり、それを納める袋がないのはまずい。調査前にパロの町で安価なバッグを買うことにした。
 この日は、昨年遠目に眺めた2つの山寺(崖寺というべきか?)を調査することにした。パロからティンプーへ向かう車道から視野に納まる山上寺院で、ゾンドラカとともに、出国前からどうしても調査したいと思っていた。


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タグツォガン寺

 ブータンを旅する旅客がパロ空港着陸後最初に訪れる景勝地である。車道に沿う渓流に屋根付きの吊り橋が架かっていて、寺と橋を含む風景に圧倒される。タグ(tag)は「馬」、ツォ(cho)は「草」、ガン(gang)は「丘」を意味する。谷の向こうにみえる集落の人々が馬の放牧地にしていた小高い丘に境内がある。
 昨年わたしは橋の手前まで行って写真を撮影したが、橋を渡ることはなかった。時差呆けし睡眠時間の足りない初日のふらふら状態ではなかなか橋を渡って寺まで登ろうという気力が湧かない。ガイドも初日は旅客に無理をさせてはいけないと思っているから、だいたい橋の手前でUターンすることになる。今回はもちろん橋を渡った。スチールワイヤーの吊り橋である。橋は揺れるし、下をみると早瀬に呑み込まれそうになる。高所恐怖症の白帯はどうなるのか、と心配したが、案外しっかりした足取りで驚いた。もっとも怖がっていたのはわたしかもしれない。


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 橋を渡ると小さなブータン式チョルテンが鎮座し、斜面をあがると国樹イトスギが1本そびえ立っている。その向こうにラカン(本堂)が建つ。寺の歴史は14世紀に遡る。チベット仏教赤帽子派(ドゥルク・カギュ派)の高僧タントンゲルポがブータンで開山した二寺のうちの一つ。11世紀から14世紀ころまでブータンにはチベット仏教諸派が五月雨式に南下し、布教を競った。どの寺でもそうだが、その時期にラカンはなかったと伝承されている。14世紀ころまで、寺に大きな建築物は存在せず、ただ瞑想修行をおこなう聖域であった。その場所は絶壁のくぼみや岩陰であったのだろうが、掛屋が存在したのかどうかは分かっていない。タクツォガンでも14世紀にラカンはなかった。しかし、橋はあったのだという。ワイヤーロープ式の橋をタントンゲルポが造った。その橋が修繕されながら、今まで存続しているのだとガイドは説明した。
 ラカンが建立されるのは17世紀からである。17世紀に赤帽子派がブータンの国境となり、勢いラカンの建立が進んだのだ。ただし、火災や地震などの影響で何度も改修・改築・建て替えをおこなっている。これはどの山寺に行っても聞く話であり、伝承の信頼性を裏付けるべく当初らしき部材の年代測定サンプルをたくさん採取し持ち帰っている。ただし、予算が乏しい。1~2ヶ所のAMS年代を業者に委託するのが限度であろう。

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ドラフ巡礼(Ⅱ)-ブータンの洞穴僧院を往く

0909ゾンドラカ06眺望01←ゾンドラカ寺からの眺望


先発隊出国

 9月8日(日)、ブータン調査先発隊の白帯、ユート、私の3名は朝早く大学に集合しました。測量器材はもちろんのこと、画板、カメラなどなど調査に必要最低限の道具一式を全て持っているかどうかの確認をしました。大半の測量器材は、奈良にいる先生のキャリーバックに納まっているはずです。夕方5時代の飛行機に乗ります。私は、今回初めての海外だったので、出発前から緊張して、関空に着くまでですでにとても疲れていました。空港で教授2名と落ち合いました。海外旅行保険やドルへの両替などがあり、出発前からすでにドタバタしていました。
 出国審査の際に持ち物検査が待ち受けていました。調査に必要なカッターナイフやまち針、コンベックスその他諸々をキャリーバックに詰めておいたので、手持ちのリュックの中には取り上げられるものはないと自負していました。ベルトコンベアに持ち物を流し、自分は検査ゲートをくぐります。無事ゲートを通過したのですが、安心したのも束の間、、、リュックに入れていたカルピスと制汗剤を没収されました。液体は危険物(爆発物)扱いされるのです(ミーティングで先生から指示されていたのですが)。うなだれていると、ユートも爽健美茶茶とカッターと日焼け止めを没収されていました。沈んだ気持ちのままボーディング。とても居心地のいい椅子でした。ですが、やはり国際線。外国人が多いせいか、変に緊張してしまい、あまり眠ることはできませんでした。


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バンコクの夜

 バンコク国際空港着は夜の9時半ころ。預けた荷物は直接パロに届けられるので、結構身軽でしてバンコクの街に出ることに。空港から大型タクシーに乗り、世に名高いPPストリートで下車。まずは屋台でビールを一杯。「東京オリンピック招致成功に乾杯!」。シメで食べたニョクマム風味のラーメンが最高でした。
 食後、教授1名は集合時間・場所を決め、またたくまに夜の闇へと消えてゆきました。もう1名の教授と白帯さんも気づくと姿をくらましている・・・残された私とユートは屋台のラーメンをまた食べたり、お土産の通りを見回ったりしていました。
 時間通り、待ち合わせの場所に立っていると、教授1名と白帯さんが満足げな顔をして戻ってきました。その後ろから、肩を落とした別の教授も戻ってきました。その顔で三人に何があったかは、私でも一目瞭然・・・タクシーで空港に戻り、ドルゥック・エアー前のベンチで仮眠をとりました。9日早朝、バンコク空港を出発。パロに向かう飛行機は小ぶりで、こんな小さなモノがちゃんと飛ぶかどうか心配でした。機内は外国人ばかりで、日本語が通じないことに恐怖を覚えてしまいました。

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↑ブータン最初の食事(パロのレストラン)
0909ゾンドラカ07背負子
↑背負子にのったインパルス


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ドラフ巡礼(Ⅰ)-ブータンの洞穴僧院を往く

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おウマさんにのって

 夏休みよ、永遠に終わらないで、という想いとは裏腹に時は流れ、ついに新学期のガイダンスが始まってしまいました。憂鬱。
 9月19日早朝、バンコク経由でブータンより帰国しました。総勢13名の旅ですからね、なんにもおきないはずはありません。いろいろあって、正直なところ、若干2名の教員は不機嫌な時間が結構長かった。女子学生は大切に扱ったつもりですが、男子学生はよく叱りました。叱ったのがわたしだけではないところが、今回の味噌でして・・・それにしても、最後の事件には耳を疑った・・・
 というわけですが、成果は上々です。キーワードはゾンカ語(ブータンの公用語)の「dra」。崖のことです。崖に築かれた寺院をたくさん調査してきました。毎日のように山に登り、岩窟・岩陰と複合する懸造系の寺院を測量したんです。修行における瞑想の重要さをひしひしと感じています。
 調査終了の2日前(9月16日)には全員でタイガーズ・ネストに登りました。ここでも測量に挑んだんですが、手強かったね、やはりスケールがちがう。
 そうそう、若干1名の教師は途中帰国するので、12日に単独行でタイガーズ・ネストをめざしました。まるで加藤文太郎のようでしょ。でもね、それ以前の登山ぶりをみるにつけ、無事に生還するか心配していたんですよ。ところが、下山して面会すると活きいきしている。低い山登りでもミイラのようになっていた人物が元気なんで、みんな驚いた。写真をみていただけば謎は解けますね。お馬さん、20ドルだそうです。


0925 Dr.N&馬


 明日から、少しずつ紀行文を連載していきます。ラインアップは以下のとおり。

  9月 9日:ブータン入国~ゾンドラカ寺(ケント)
  9月10日:タクツォガン寺~ダカルパ寺(教師A)
  9月11日:タンゴ寺(黒くなった白帯)
  9月12日:チェリ寺(ユート)
  9月13日:バンコクの夜(ワープ)
       ティンプー城とツェチュ祭(セツ)
  9月14日:ドチュラ峠とプナカ城(ポール)
        チミ・ラカン寺(ケント)
  9月15日:ダカルパ寺再訪(フミエ)
  9月16日:タイガーズ・ネスト(会長)
  9月17日:民家ホームステイとキチュラカン寺(カナエ)
       ゾンドラカ寺再訪(ベッチ)
  9月18日:パロの街とパロ城(ユーリー)


 乞御期待!


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『建築考古学の実証と復元研究』書評(1)

 拙著『建築考古学の実証と復元研究』の書評がでました。六一書房のネット上書評リレーの第4回(2013年9月3日)に島根県の松本さんが執筆されたものです。紛らわしいので念押ししておくと、鳥取県教委の松本さん(建築史)ではなくて、島根県教委の松本さん(考古学)の書評です。松本さんらしい誠実な文章で、ありがたい限りです。ありがとうございました。

 同成社から出した『先史日本の住居とその周辺』(1998)、『埋もれた中近世の住まい』(2001)、『出雲大社の建築考古学』(2010)については、結構頑張って広報活動をしました。なにぶん高価な本だから、一定量の売り上げがないと出版社にご迷惑がかかる。だから、いろんな専門誌に書評を書いてもらったり、新聞夕刊の文化欄で取り上げてもらったりしたんです。今回の本については、科研の出版助成を得ているわけだし、そういう宣伝めいたことを一切控えようと心に決めています。あんまり売れる本ではないでしょうが、密かなブームというか、隠れたマニアの愛読書というか、そういう立ち位置の本になれば嬉しい。
 書評は以下のサイトに掲載されています。

  http://www.book61.co.jp/book_review.php/61


 まことにもって厚かましい限りだが、以下に転載させていただきます。


縄文から近世のあらゆる建築構造物復元を手がけた著者による復元研究の全容を集大成

 だだっ広い野原にしか見えない遺跡の中に忽然と姿を現した大極殿。平城宮跡第1次大極殿の復元建物は、平城遷都1300年を記念して2010年に完成した。その大規模な木造建築は、訪れる人びとに往時を偲ばせ、感動を与える構造物として多くの興味をそそる。国(文化庁)の事業として整備されたものであり、復元案作成にあたっては奈良文化財研究所(以下、奈文研)を中心に、現存する古代建築や今日までの建築史研究の成果、明治以来百年を越える蓄積をもつ文化財建造物修理の知見、発掘調査によって明らかになった資料に再検討を加え、国の総力をあげて取り組まれたもので、現段階の研究成果の到達点を示す建築物と言ってもよい。
 しかし、本書の著者浅川滋男氏は「復元された大極殿上屋構造はどこまで確かなものであろうか。基礎情報が乏しいものを復元すべきではなかったのでは」という疑問を投げかける。著者は現在鳥取環境大学教授であるが、元は奈文研の職員であり大極殿復元検討チームの主要メンバーの一人でもあった。何故にそのような発言があったのか。


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2013三徳山シンポジウムのお知らせ

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 9月4日(水)は大雨で、私の住む美保地区に避難勧告がでていたらしいんですが、避難勧告の真っ最中に鳥取市民大学講座で「山寺を歩く-不動院岩屋堂と摩尼寺を中心に-」という講演をしておりました。講演終了後、司会のお役人さんが「美保地区で避難勧告がでておりますので、気をつけてお帰りください」というんだ。気楽なもんだね。「お帰りください」もなにも、避難勧告でてる場所に帰るわけにもいかないしな・・・大覚寺のマンションが床下浸水してんじゃないか、って不安になったたんですが、講演終了後まもなく晴れ間がのぞいてきました。コーヒー専門喫茶の「豆蔵人」にしけこんで、グァテマラだったかな、今日のスペシャルを口にして少し落ち着きましたよ。豆蔵人のマスターは真剣に避難しようとしてたそうです。
 さて、市民大学の聴衆は40人余。大雨のなか、よく集まってくださいました。感謝申し上げます。大学の公開講座より多いよね(あれ、なんとかならんかな?)。この講演内容は、来たる9月28日(土)開催の三徳山シンポジウム「三徳山の建造物とその景観」、さらに11月2日(日)開催の山陰海岸ジオパーク・シンポジウムの予行演習みたいなものでした。患者も講演を聞いてくれたんですが、聴衆の反応はかなり良かったそうです。良くなかったのはその後でしてね・・・まぁ、やめとこう・・・#$%&’&”””*+>>

 さて、このブログがアップされているころ、私たちは一路ブータンをめざし、深夜のバンコクで一休みしているころでしょう。今回のブータン調査は総勢13名の大所帯で、先発隊5名が8日出発、後発隊8名は12日出発です。帰国は19日早朝(1名のみ14日早朝)。おもしろいのは私以外の先生2名や一部の学生がバンコクの市街地(というか盛り場)に出るのを怖がっていることでしてね。英語が通じないから、だって。そんなの知ったことじゃないし、「わたしゃ一人で遊んできますよ」って切り捨てると、みんな「連れてってください」だって。
 まぁ、そんなことはどうでもいい。この秋は週末がどば~と潰されていてがっくりしてるんだ。呆けて忘れたらいけないから、またメモ代わりにスケジュールを記しておきます(「続き」参照)。とりあえず、三徳山シンポのトークショーをこなさないといけないんですが、参加ご希望の方はいちばん上のチラシ裏面をクリックしてください。申し込み書がついているので、それを事務局にFAXかなにかで送信されればOKです。
 多数のご来場をお待ち申し上げます。

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倉吉打吹山麓の歴史的風致に関する総合調査(Ⅴ)

D05デジカメアップ01←年輪測定用高解像度デジカメ


科学的年代測定のためのサンプル採取
 
 翌29日、星野先生の指導により科学的年代測定にふさわしい材のサンプル採取をおこないました。現場には早くから会長さん、I工務店の社長さんと若い大工さんが待機しておられます。これに星野さんと先生が加わるわけですから、現状で考えられる最強のメンバーが揃ったと言えるでしょう。もちろんゼミ生6名も全員参加です。
 まず8月6日に上端木口を雑巾がけした2本の外陣柱(E02・E05:柱番付図は こちら を参照)の鑑定から入りました。それまでの情報では一方がスギ、他方がクリかシイという情報を得ていたのですが、再度精査した結果、両材ともクリかシイであることが判明し、年輪年代測定からオミットされました。年輪数は多い(辺材に相当する部分はなし)ので、放射性炭素年代測定の対象とすることになったのですが、雑巾掛けした上端木口面にはなお埃が詰まって年輪がみえないため、若い大工さんが鉋と鑿を使って年輪をみえる状態にしました。この削りだしたチップは樹種鑑定のサンプルとなりました(↓右)。年輪測定はユートとポールが担当。

   E05柱上端 直径440 残存総年輪数78(1~3年 39~41年 77~79年)でチップを採取(↓)


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 長谷寺本堂の床上柱にはスギ材を多用しており、年輪年代学の適用が期待されましたが、E02とE05以外では木口がみるものはなく、いったん柱材を諦めて小屋裏に上がり、おもに水平材を観察しました。その結果、内陣の束を受けるD04~B04上の土居桁がマツ材ながら辺材を残す太鼓落の材であることが分かり、この材の木口(外陣側)
でもサンプルを採取しました。担当はケントとユーリー。

  D04上土居桁 残存総年輪数62(1~2年 31~32年 61~62年)でチップを採取(↓)


0829長谷寺1 0929サンプル01



 一方、床下では、やはり柱材に「辺材」相当部分を残す材がなく、比較的直径が太く年輪を多く残しているF02の金輪上でAMS用のサンプルを1点採取しました。また、E03-D03上の大引材は樹皮を残しており、正確な伐採年代がでる可能性もあるのですが、転用材とみなされるため、移築年代ではなく、創建年代を反映する可能性があります。


F02床下柱01 F02床下柱02縦
↑F02床下柱金輪上いちばん外の年輪 ↓E03-D03大引樹皮直下
E03-D03床下大引01樹皮直下 E03-D03床下大引02樹皮直下



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木材科学の基礎研修に参加して

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 8月28日(水)。鳥取県埋蔵文化センターで星野研究員(奈文研年代学研究室)の研修「出土木材のための木材科学の基礎-樹種同定・年輪年代測定を中心に-」がおこなわれ、私白帯とケントも参加させていただきました。翌29日(木)に長谷寺本堂で年代測定と樹種鑑定のサンプル採取を星野先生の指導の下におこなうことになっており、いわばその準備のための研修参加です。28日は午前に講義を拝聴し、午後にサンプル採取の実習がおこなわれました。
 樹種同定は、木材切片を顕微鏡観察し標本との比較参照によって同定するもので、基本的に破壊分析になります。試料の量は小指の先くらいで1年輪以上含まれていることと、傷みが少なく、節・あて材などが含まれていないものが望ましいとされています。この顕微鏡観察で木材の「属」まで判定できるものが多いようです。
 一方、年輪年代測定は、年輪幅を計測し暦年標準パターンと照合させることで年代を判定する方法で、一定の条件をクリアできていれば、年代が1年精度で誤差なく判定できます。樹皮残存の場合は年代と季節、辺材(シラタ)残存の場合は伐採年代に近い上限年代、心材のみの場合は上限年代のみが分かります。年輪が同心円状に形成されている材がサンプルとして適しており、年輪幅が比較的狭いものが良いとのことです。年輪数は100層以上が目安(若齢部、不斉な部分は使えない)で、試料数は1点から可能ですが、多いほうが望ましいです。樹種はヒノキ・スギ・ヒノキアスナロ(ヒバ)・コウヤマキ・ツガに限られます。観察面は木口もしくは柾目の側面です。


研修1


 午後の実習では試料サンプリング及び樹種同定を行ないました。枝上の材からサンプルを採り、顕微鏡観察で細胞の配列をみて樹種を調べます。まず、カミソリで木口、柾目、板目の3箇所を透き通るくらいに薄く採ります。カミソリは触れただけで切れてしまうほどの鋭利なもので、指を切らないように持ち方に注意しながら採取しました。試料をプレパラートに移して、顕微鏡で観察しました。木口は円形上に、柾目はまっすぐ、板目はくねくねした細胞の配列をしているのですが、切り方が下手だったのか、すべてくねくねした配列で一部分だけ柾目がみえる程度でした。
 このような貴重な研修に参加させていただきました鳥取県埋蔵文化財センターに深く御礼申し上げます。ありがとうございました。(続)


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木綿街道のこと(ⅩⅩⅩⅩ)

01蛇酒 02にんじん酒


放射性炭素年代のためのサンプル採取(2)-HS邸

 ぼくは島根県出身ですが平田の木綿街道に訪れるのは初めてだったので、調査をとても楽しみにしていました。ところが、調査した8月23~24日は例の突発的豪雨の日で、平田入りするころからフロントウィンドウの向こうがみえないほど強烈な雨が降り出しました、「ゲリラ豪雨」というやつです。
 平田の宿舎に着いてもいっこうに雨足は弱まらず、街道を歩いて宿舎に移動するだけでびしょびしょになってしまうほどでした。雨に濡れた学生はただちに近くのゆらら温泉へ。帰宅後、おいしい夕食をいただきました(↑)。先生は自らしばしば吐露されるのですが、「セツさんがいるとおとなしくなる」そうです。前回の平田では騒いだみたいですが、今回はそれほどでもありません。12時には皆おとなしく眠りに落ちました。
 翌24日はSS邸とHS邸で放射性炭素年代測定のサンプルを採取しました。SS邸についてはセツさん既報のとおりです。ぼくはHS邸での調査を報告します。
 サンプル採取は、まず年輪の数を数えることから始まります。年輪40年以上残り、しかも辺材を含むことが望ましいことは何度も述べているとおりです。HS邸では以下3箇所のサンプルを採取しました。

 1.小屋束①②【担当:タクオさん】 年輪数は少ないが、面皮の部分を残しており、2つの小屋束(①②)で外皮から2年輪分のサンプルを採取。直交する貫が背違いにならないタイプで、17世紀以前の可能性が高い。ウィグルマッチではなく、AMS用のサンプル。


130824 本石橋家 小屋束


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丸井家住宅の庭園測量

129丸井家

  
 私は8月インターンシップで倉吉のK建築設計事務所にお世話になっていました。インターンシップは毎朝1時間の通勤から始まります。研修先が倉吉だったので朝6時半に起き7時半には出発でした。研修期間はお盆をはさんで5日+5日の計10日で、研修先でのメインの作業は、倉吉の町家「丸井家住宅」の庭園の実測でした。そのほかは資料整理や、図面作成などがほとんどで、たまに事務所にある建築関係の本を読んだりしていました。
 丸井家での作業は盆休みの前後にわけての2日間ずつでした。前半の2日間は平板を使って庭を測量しました。は平板測量は1年夏休みの集中講義以来です。ほぼ初めての経験でした。地面に平行に設置した平板とメジャーを使い、平板の上に置いた測角器からポールを見て角度を測り、メジャーで長さを図ります。その数値をもとに平板に敷いた方眼紙などにスケッチしていきます。私はポールとメジャーを持って測量地点まで行くのが仕事でしたが、樹木に遮られて、なかなか対象物までポールを運べません。蜘蛛の巣に引っかかるの毎度のことです。平板作業には2日を要し、残りは目測でのスケッチをして測量を終わらせました。


丸井家庭園


 丸井家住宅の庭園は門によって2つのスペースに分かたれています。3日目の作業は、門の立面図の実測です。門から平行に木々をメジャーで測り、寸法を書き込んでいく作業で、スケッチが好きな私にとっては楽しい1日でした。これ↓が現場で作成した立面図です。
 今回のインターンシップでは、このような実習のほかにも実際に働いている人の生の声を聞けたことなどがとてもいい経験になりました。(タク庵)


門立面


倉吉打吹山麓の歴史的風致に関する総合調査(Ⅳ)

0901 長谷寺架構 Lookdown 0901 長谷寺架構 架構風景


長谷寺本堂の架構調査

 私は高所恐怖症で、高いところがあまり得意ではありません。地上から見上げるとそうでもないような高さでも、実際にその高さに立つと結構怖いものです。

 盆明けからのインターンシップ後半、主なミッションは長谷寺本堂の小屋組架構の実測でした。先日のブログで、毛越寺常行堂を比較された教授は、長谷寺本堂はかつて茅葺きで、小屋組は素朴なものであったのが、屋根が瓦葺きになるとともに複雑化したと述べておられます。もともとの架構材に、新しい材を何度か継ぎ足して補強しており、とても複雑な構造になっています。その複雑な構造の部材を一本ずつ測り、最終的に図面で表現することを目的として実測しました。一般的に実測は自分の手でスケッチし、その図に寸法を書き込んでいきますが、大学3年生には複雑すぎる構造であるため、時間の節約もあり、プリントアウトした架構の写真に直接寸法を採用するシステムを採用しました。建築史や考古学では邪道の方法と言われかねませんが、1週間後に迫るブータン調査でもおそらく時間が少ないでしょうから、プリントした写真や地図を活用することになるでしょう。加えて、最近、研究室でインスタントカメラ(ポラロイド)を購入しました。現地で撮影した写真を即プリントし、寸法を書き込む方法を導入する予定です。


0901 長谷寺架構 分担図

 外陣の小屋組にはハシゴで登りました。登りきってみると案外高く、足がすくんでしまいます。コンベックスを用いて梁や束などの寸法を測り読み上げる係と、読み上げられた寸法を聞き取って写真に記入していく係に分かれます。天井裏はホコリがすごく、風が通らないので、熱がこもっていて暑かったです。複雑な架構ではありましたが、なんとか予定通りに作業を終えることができました。今回の実測資料を2次元で表現するのは難しく、CADの3Dで立体的に柱や小屋組を立ち上げようと思っています。いずれは茅葺き屋根の復元に結びつけたいと思っています。(ケント)


0901 長谷寺架構 調査風景 0901 長谷寺架構 調査風景

聖神社の建築年代(Ⅱ)

1.jpg

 8月はゼミの3年生全員が3つの受け入れ先に分かれインターンシップをしました。先生からそのレポートを書くよう再三言われていたのですが、今日までのびのびになってしまったことをお詫びします。わたしは実習先の一つであった県指定文化財「聖神社」でおこなった放射性炭素年代測定部材サンプル採取について報告します。
 鳥取市行徳町の聖神社は、宝永7年(1710)の棟札を残していますが、建築様式は19世紀前中期を示していることをすでに先生が述べておられます。『鳥取県の近世社寺建築』等によると、本殿の建築年代については『鳥府志』に以下のような記載があり、寛政年間(1789-1801)と推定されています(参照)。

  本社 
  寛政年間、更に建たり。但、その発端は旧しきこと成しと聞えける。国中無双の麗営なり。
  工匠巧を究め、彫刻美を尽せり。世説に、当社は出雲の日ノ岬の社を模規すと云。

 一方、拝殿・弊殿は「後年拝殿を営み神籬を繞し」とあり、文化十年(1813)の棟札を残しています。お盆前には本殿の妻飾や破風板の絵様を拓本にとりましたが、先生の見解が「文化文政以後」でした。今回はまず拝殿の向拝周辺で絵様の拓本をとりました。再び先生の見解によると、本殿妻飾の虹梁と拝殿向拝虹梁の絵様が比較的古式であり、本殿の破風板はそれよりも明らかに新しく幕末に下る可能性があると仰います。


聖神社 本殿妻飾虹梁 ←本殿妻飾虹梁絵様


 このように錯綜した年代資料を科学的年代測定からも考察しようということで、8月8日にまず年代を測定する本殿・拝殿のはね木(差し替え材)の実測をおこない、円形断面のサンプル材を裁断してもらいました。はね木は当初材である可能性が高く、おまけに樹皮直下の年輪を残しています。材種はマツ属ということで、年輪年代測定をおこなうことはできません。放射性炭素年代を適用するしかないわけですが、拝殿のはね木は年輪50年以上を数えるので、ウィグルマッチ法に適しています。
 盆休みの後、作業を再開しました。8月22日には他のゼミ生の応援もあり、本殿と拝殿の裁断はね木材からウィグルマッチのためのサンプルを各3ヶ所採取しました。まず、サンプルに新品のカッターで線を入れ、その上にマチ針を5年ごとに刺していきます。結果、拝殿はね木の年輪数は全65年、本殿のそれは全20年であることが判明しました。少なくとも40年の年輪を必要とするウィグルマッチにとって後者は条件のよい材ではありませんが、今回は練習ということで二つの円盤状の材の小口からサンプルを採取しました。サンプル採取の位置は、年輪の両端部と中間の3ヶ所でして、チップは年輪1~2年分を削り取ります。米粒状の大きさで十分です。今回が初めての作業だった私たちは、年輪の硬さと格闘しながらも、なんとかサンプルを得ることができました。
 米粒状のサンプルはまずアルミ箔でくるみ、ジッパー付きのビニール袋に納め冷蔵庫で保管します。これから先は業者さんにサンプルを送って結果待ちです。なにぶん測定代金が高いので(チップ1点につき数万円)、採取したサンプルの中から厳選して業者さんに送付するものを選びます。今回の場合、65年輪と表皮直下の層を残すが拝殿はね木の方が有力な候補であるのは言うまでもありません。これで良い結果が出ればいいなと思っています。(ユーリー)

2.jpg 3.jpg
↑ 拝殿はね木(差し替え材)の年輪サンプル
 

江畑さんのオーラ

0901ebata写真 2


 今夜は江畑さんに尽きますね。
 日本でバレーボールのワールドグランプリが開催されているとは露知らず、午後7時にチャンネルをまわすと、江畑さんの顔がズーンとクローズアップされていた。
 凄いオーラだね、この人。浅田真央を凌ぐ存在になりつつある。倫敦五輪の日中戦を制した立役者であり、その風格にさらに磨きがかかってきた。前にも述べたが、この人、Vリーグではなく実業団リーグ(チャレンジ・リーグ)の選手・・・あれっ違うわ・・・日立リヴァーレはプレミア・リーグに昇格してますね。チャレンジ・リーグはサッカーで言えばJ2かJFLみたいなもんだから、オフト監督がヤマハ時代の中山や吉田を重用していたようなもんだね。真鍋監督だから江畑選手を使ってるのかもしれない。中田久美が代表監督になったら、きっと長岡を使うよ。
 しかしながら、単純に私の好みだとは思えない。だって、TVカメラがアップにする回数が圧倒的に多いんだから。木村沙織の3~4倍あったんじゃないか。木村はトルコに渡って調子を落としている。さっさと帰国して東レに戻ったほうがよいよ。ばかでかい筋肉質の選手が揃うヨーロッパでは、バレーの質がちがうだろうし、力勝負になるとどうしても出場機会が減るから、コンディションを維持できないんじゃないかな。不似合いな茶髪に木村のストレスが映し出されている。

 1セットを終えたあたりで、社長がやってきた。ちょいと相談事があり、イオンの食堂街へ。馴染みのイタメシ屋「ミラン」がなくなっていて驚いた。隣のベイカリー食堂で懇談・・・帰宅すると、情報セブンデイズでたけしが「サドル」ネタを連発していた。これはしばらく続きそうだね。流行語大賞になったりして。江畑さんの自転車のサドルは・・・アカンアカン、アキマセン・・・ 
 そして私は日中戦のビデオをみた。すでに日本のエースは木村ではなく、江畑になっていた。私の視線はずっと彼女を追っている。というか、釘付けのまま時間が過ぎてゆく。1年間眠っていた想いが息を吹き返した。アメリカ戦も絶対みるよ。


0901ebata写真 1
↑アメリカ戦(上下とも)

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プロフィール

魯班13世

Author:魯班13世
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魯班(ルパン)は大工の神様や棟梁を表す中国語。魯搬とも書く。古代の日本は百済から「露盤博士」を迎えて本格的な寺院の造営に着手した。魯班=露盤です。研究室は保存修復スタジオと自称してますが、OBを含む別働隊「魯班営造学社(アトリエ・ド・ルパン)」を緩やかに組織しています。13は謎の数字、、、ぐふふ。

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