最終講義
1月30日(木)3限「建築の保存と修復」第15講(13講義室)。2001年に開学した鳥取環境大学の環境デザイン学科~建築・環境デザイン学科でおこなってきた授業「建築の保存と修復」の最終講義で、わたしは唐招提寺の修理に係わる短いスピーチをした。その後、学生たちは英文和訳と長いレポートを書いた。期末試験の代わりである。
その短い講義は、「建築と都市の歴史」「地域生活文化論」を含む私学時代の全講義の最終講義でもあった。すでに大学は公立化しているが、私学時代の授業はわずかに残っている。いまの3年生を卒業させると同時に私学としてのカリキュラムは終焉となるわけだが、一年早く担当講義がフィナーレを迎えたのである。
研究所を辞めて44歳で大学に移った2001年、定年退官した60代の教官のような心境に陥っていた。40代半ばにして、これからは余生だと思ったものである。その余生が終わったのだから、この先は余生の余生ではないか・・・などという感慨にどっぶり浸る間もなく、4限には大学院修士課程1年次の中間発表会が14講義室で始まった。その内容については、発表した白帯自身がまもなく報告するであろう。わたしは毎年同じ説教をしている。発表準備の着手が遅すぎる。
会の終了後、長谷寺報告書の打ち合わせを経て、ダウラへ。発表した白帯とサポートした3年生の慰労会だが、考えてみれば、摩尼寺建造物の登録文化財申請完了、最終講義に伴う英語和訳・長文レポートの解説と慰労が重なっている。時代は入れ替わりつつあった。同じ時間、学内では新3年生(現2年生)のゼミ選択投票がおこなわれていた。状況は楽観視できない。新ゼミは「文化遺産と歴史的環境の保全・再生」を旗印にしているのだが、理系の学部だからだろうか、「歴史」という言葉に拒否反応を示す学生が少なくない。また、製図やスケッチを苦手とする学生が圧倒的多数を占めている。おまけに、教師は「厳しい先生」の代表格である。極端に悲観的な見方をするならば、0名もありうる。アッサムを啜りながら、そう口にした。
その短い講義は、「建築と都市の歴史」「地域生活文化論」を含む私学時代の全講義の最終講義でもあった。すでに大学は公立化しているが、私学時代の授業はわずかに残っている。いまの3年生を卒業させると同時に私学としてのカリキュラムは終焉となるわけだが、一年早く担当講義がフィナーレを迎えたのである。
研究所を辞めて44歳で大学に移った2001年、定年退官した60代の教官のような心境に陥っていた。40代半ばにして、これからは余生だと思ったものである。その余生が終わったのだから、この先は余生の余生ではないか・・・などという感慨にどっぶり浸る間もなく、4限には大学院修士課程1年次の中間発表会が14講義室で始まった。その内容については、発表した白帯自身がまもなく報告するであろう。わたしは毎年同じ説教をしている。発表準備の着手が遅すぎる。
会の終了後、長谷寺報告書の打ち合わせを経て、ダウラへ。発表した白帯とサポートした3年生の慰労会だが、考えてみれば、摩尼寺建造物の登録文化財申請完了、最終講義に伴う英語和訳・長文レポートの解説と慰労が重なっている。時代は入れ替わりつつあった。同じ時間、学内では新3年生(現2年生)のゼミ選択投票がおこなわれていた。状況は楽観視できない。新ゼミは「文化遺産と歴史的環境の保全・再生」を旗印にしているのだが、理系の学部だからだろうか、「歴史」という言葉に拒否反応を示す学生が少なくない。また、製図やスケッチを苦手とする学生が圧倒的多数を占めている。おまけに、教師は「厳しい先生」の代表格である。極端に悲観的な見方をするならば、0名もありうる。アッサムを啜りながら、そう口にした。