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摩尼山~砂丘ミニトレイル(Ⅴ)

150529林道入り口 ←林道入口


大雲院~東照宮の林道ルート

 5月29日(金)のゼミ活動時間に、大雲院調査班と分かれて、私ときいは別行動をとることにした。大雲院から鳥取東照宮に至る新たなトレッキングコースを探すために調査に向かったのである。環境学フィールド演習でに通ったまちなかルートとは違い、大雲院と鳥取東照宮を隔てる山を横断するルートをグーグルマップで確認し、地図上でも使えそうな道を発見したので、その道を実際に歩いてみることにしたのだ。
 大雲院を離れ、その山路へは15分ほどで着いた。その山路の入口は分かりにくく、一見すると通っていいのかどうかも分からない。この林道コースは、入口までに至る住宅地の舗装されたコンクリート道路とは異なり、トレッキングコースとして十分に使える道であった。しかし、グーグルマップではこの道は途中で途切れていた。どうなるのかわからなかったが、2人でどんどん先に進んでいくと、なんとこのコースはぐるっとこの周辺を一周することが判明した。


150529林道 ←林道コース

 
 往きに見かけた印象的な場所がその事実に気付かせてくれた。少なくとも最悪の場合(この山を横断できなく、延々と歩き続けて戻れなくなる)よりは幾分マシな状況ではあったが、私たちは住宅地ルートと異なる道を見つける困難さを十分に思い知らされた。大雲院へ戻るとき、コースを変更して何か重要なこのコースのポイントになるような場所を探しながら歩いた。林道ルートのすぐそばに安禅寺というお寺があった。そのお寺の境内は見通しがよく、大木や境内を囲うように配置された柵などを設置していない。



150529安禅寺 ←安禅寺


 結果として、この林道は樗谷公園のトレッキングコース(中国自然歩道)へはつながっていないだろうということが言えそうだ。まだすべての道を確認したわけではないので、この道をさらに調べ、またグーグルマップなどでも検討し直さなければならない。安禅寺やこの地域についても詳しく調査する必要があるので、文献を探しに図書館へ行こうと思う。


大雲院→東照宮への別ルートver2結果 ブログ加工済み ←今回探索したルート

ブータンの民話(7)

ヘィレィヘィレィじいさん(その2)


 しばらく歩くと、雄牛をつれた男が道の向こうから歩いてきました。その男はじいさんにたずねます。「ヘィレィヘィレィじいさん、どこ行くの?」。じいさんははまた鼻歌で答えました。

   「ヘィレィヘィレィじいさんなんて言わないで、
   あんたに言わなきゃならないことをお聞きなさいよ。
   おいらさ、畑を耕してたら大きな切り株にでくわして、
   その切り株を引きぬくと、トルコ石がでてきたんだ。
   そして、この馬と交換したのさ。
   さておまえは、その雄牛をこの馬と交換したいかい?」

 男はなにもかも信じられないという顔つきで、口をぽかんと開けました。その男の老牛は、見栄えが良くて若い種馬に比べたら貧しい安物だったからです。しかし、男はすぐに当初のショックから落ち着きを取り戻し、急いで牛と馬を交換しました。交換した後、ヘィレィヘィレィじいさんは角に結んだロープで雄牛を引き、市場までの道を歩き続けました。
 まもなくじいさんは子羊を連れた男に「どこに行くの?」とたずねられました。じいさんは鼻歌で答えました。

   「ヘィレィヘィレィじいさんなんて言わないで、
   あんたに言わなきゃならないことをお聞きなさいよ。
   おいらさ、畑を耕してたら大きな切り株にでくわして、
   その切り株を引きぬくと、トルコ石がでてきたんだ。
   おいらは、トルコ石と馬を交換して、その馬を雄牛と取り換えたのさ。
   さておまえさん、その小羊を、おいらの雄牛と交換してほしいかい?」

 子羊の飼い主は驚きはしたものの喜んで同意し、たちまち雄牛をつれさりました。ヘィレィヘィレィじいさんは、こんなにすばやく物々交換できたことを喜んで、成功した商人のような足取りで歩いていきました。


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ブータンの民話(6)

1圧縮ヘィレィ・ヘィレィ じいさん


ヘィレィヘィレィじいさん(その1)           

 ダンボ・ダンボ・ダンボ、ディンボ・ディンボ・ディンボ…

 昔むかし、その昔。ミミ・ヘィレィヘィレィは暑い日差しの中で畑を耕していました。ミミ・ヘィレィヘィレィ、すなわちヘィレィヘィレィじいさんは、村人すべてに親しみをもって知られていました。
 じいさんはずばぬけた体の大きさがあるわけではありませんが、印象的な個性をもつ人物です。じいさんのひよわな体は、みごとに盛り上がったふくらはぎのガニ股によって微妙にバランスがとれていました。村の集まりといえばどんなところでも、薄毛の山羊ひげをなでるじいさんの姿をみることができました。この愉快な老人は、やっかいな仕事が任されることもなく、村の仲間の思いやりのおかげで何年も暮らしていました。
 のんびりとして手を抜いたじいさんのクワ打ちをみると、ながくてつらいソバ畑の耕作を楽しめていないことがよく分かります。ですから、畑のまん中で、牙をむいて立つ大きな切り株を不意に目にしたとき、じいさんはあきらかに不きげんになりました。じいさんは切り株をいまわしそうにながめ、しばらくヤギひげをなでながらクワ打ちをとめてしまいました。
 じいさんは切り株を抜きとらなければならないと決心しました。そして、切り株との戦いをはじめました。少しずつ根っこを掘りおこしていくと、汗がまゆ毛に流れでて、手のひらにまめができました。そのまめが痛くなるまで根っこを引っぱりました。太陽が西の山並みに落ちていこうとするそのとき、じいさんは最後の引っこぬきをかまし、切り株の全体が地響きをたてて地上にあらわれたのです。
 さきほどまで根っこがあり、いまはぽっかりと開いた大きな穴の中に、じいさんはやにわに大きくて平たい円形のトルコ石をみつけました。それはゴーラン(ブンタン地方のそば粉パンケーキを作るフライパン)に似ています。じいさんは自分の目をうたがいました。目を見ひらき、ながいあいだ畏れの気持ちをもって立ちすくみ、石をじろじろ眺めていました。ついにじいさんは重いトルコ石の石片を拾い上げ、こまかに観察しました。それは本当にじいさんが今までみたなかでいちばん美しいものでした!
 ヘィレィヘィレィじいさんは大きな声で独りごとを言いました。

  「このトルコ石を手にした今、おいらはもう働かなくてもいいんだ。
  この石を売って大金持ちになるのさ。」

 いま手にしたばかりの富を手にして自信に溢れ、ヘィレィヘィレィじいさんはいせいよく市場へむかいました。市場にいく途中、じいさんはロープで馬を引いている男に出会いました。その男はじいさんにたずねます。「ヘィレィヘィレィじいさん、どこ行くの?」。じいさんは鼻歌で答えました。

   「ヘィレィヘィレィじいさんなんて言わないで
   あんたに言わなきゃならないことをお聞きなさいよ。
   おいらさ、畑を耕してたら大きな切り株にでくわして、
   その切り株を引きぬくと、トルコ石がでてきたんだ。
   だから、今から市場に行ってトルコ石を売るのさ。
   お前さんの馬とトルコ石を交換してほしいかい」

 その男はドン引きしました。この年寄りは頭がおかしいんじゃないか。トルコ石は金で買えないほど貴重なものです。この機会をのがせません。男はすばやく決断し、馬と石を交換したのでした。トルコ石を手にした男は、ヘィレィヘィレィじいさんが心変わりするのを恐れ、たちまち歩きさっていったのです。一方、じいさんは取引にとても満足で、ロープを引いて馬をひきつれ旅を続けました。【続】

大雲院と鳥取東照宮(Ⅵ)

0515大雲院04 0515大雲院03サムネイル


実測演習進む

 5月27日(水)。3年生の大雲院でのゼミ活動第4回目、実測を始めて3回目となりました。自分はこれまでで境内屋根伏図、鐘楼平面図の実測演習をおこなってきましたが、今回はTD君とともに立面図に挑戦することになりました。対象は土蔵です。前回の立面図担当者から受けたアドバイスにしたがって、まずはスケッチから始めました。土蔵を真正面から見る事の出来る位置として鐘楼の基壇から全景をスケッチをし、木の陰になって隠れている細部については観察することにしました。


0515大雲院01


 最初は配置図を描いた要領でいけると思っていました。しかし配置図の場合、瓦や屋根を記号的に簡略化し描いていたのに対して、立面図では見たままの姿をほぼ正確に描く必要があり(真正面から見たものにする必要があるので屋根の見え方などが実際と異なってくる)スケッチとしての難易度も高く、細かい部分が多いので修正を繰り返し加えながら少しずつ描くことになりました。その結果スケッチとしては自分では納得いくものができました。ただ、細かい所を気にして描くスピードが遅くなってしまい、寸法を測る時間がなくなってしまったのは残念でした。次回以降の演習では正確さだけでなく要点を押さえたうえで素早く描くことができるように心がけたいです。そのためには先輩方の書いたものの模写や自分で撮った写真を使っての繰り返しの練習が必要だと感じました。

 他のメンバーの作業は以下のとおりです。(KMR)

  教授: 本堂奥の「米村家霊堂」の平面実測。市教委課長補佐との情報交換。
  3年2名: 大師堂立面の採寸。
  4年2名: 土蔵の断面実測。
  3年1名+4年1名: 土蔵の平面実測。
  院生: 本堂の断面実測(軸部)


0515大雲院05米村家霊堂02
↑↓米村家霊堂
0515大雲院05米村家霊堂01

寅次郎の告白・補遺

 昨日の記事に匿名のコメントを頂戴した。転載しておきます。

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 山田洋二監督の奥様は実は鳥取市出身です。瓦町に同級生の方がおられて、帰省の際に面会されたりしていました(10年以上前のことです)。明徳校区だったそうです。
 「寅次郎の告白」、ロケは私が鳥取に着任する2年前のことでしたので直接は見ていませんが、その後数年は結構話題に上っていたように記憶しています。
 因幡地域でも結構ロケは行われていて、以前はフィルムコミッションがあったりしました(現在は解散していますが)。
(若桜鉄道では「モダニズムの宿」というつげ義春原作の映画の撮影もありました)
 3年ほど前にロケ地マップも作っていたのですが、この頃は見かけません。
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寅次郎の告白

0511葛飾柴又02参道03とら屋05映画ポスター


遙かなる河原

 BS17「土曜は寅さん」とレンタルDVDをあわせると、「男はつらいよ」48作中39作をすでにみている。暇さえあれば、まだ見ぬ作品をテレビの画面に流していたいとは思うものの、晩年の作品に限るならば、もうひとつ手を出す気にならなかった。渥美清が癌を患って主役の重荷に耐えかね、甥の満男(吉岡秀隆)を事実上の主役としてストーリーが展開するからだ。
 しかししかし、残る作品も数少なくなっているわけでありまして、以下をみてしまったのです。

  第42作 「ぼくの伯父さん」(1989)後藤久美子・檀ふみ
  第43作 「寅次郎の休日」(1990)後藤久美子・夏木マリ
  第44作 「寅次郎の告白」(1991)後藤久美子・吉田日出子
  第45作 「寅次郎の青春」(1992)後藤久美子・風吹ジュン


0511葛飾柴又02参道04うなぎ


 驚いたね。第44作 「寅次郎の告白」の舞台は鳥取であります。後藤久美子が家出して鳥取をさすらう。途中、倉吉で寅さんと出会い、砂丘で吉岡と落ち合う。倉吉と砂丘は分かります。鳥取県を代表する景勝地だからね。ところが、後半、吉田日出子と寅さんのラブ・コメディの舞台となるのは河原だ。倉吉の河原町(かわらまち)ではなく、上方往来の河原宿。そう、わたしの故郷です。しかも、昨年実習・演習で町並みを描いたところ。
 吉田日出子は「新茶屋」の女将役。新茶屋では子供のころよく遊びました。そこから霊石山も千代川もみえる。野菜を洗い、鮎をざるに移す背戸川もよく知っている場所でした。魚釣り場は国英と片山のあいだにある堰堤のまわりでして、ここで私自身なんども鮎を釣り、逢引きもしたんです。


0511葛飾柴又02参道05たかぎ屋


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続・わたしの寅さん

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葛飾柴又への旅

 わたしの寅さん熱はいっこうに衰えず、先日の関東出張では、葛飾柴又まで足をのばしてしまいました。上野から京成を乗り継げば半時間足らずで柴又の駅に着きます。
 あぁ、ここでさくらはいつもあんちゃんを見送りしていたんだねぇ。
 帝釈天への参道はとても短い。が、そこにはいかにも日本らしい門前町が残っています。もちろん「とらや」に入って草だんごをいただきました。この店で4作目までロケがおこなわれていたそうです。山田監督が復帰した5作目から大船撮影所のセットに移ったらしい。
 出来たての草だんごを身内に送りたいと思い、クール宅急便はないか、と何店かで訊ねたのですが、いずれも渋い顔をされました。草だんごは出来たその日が賞味期限だということです。その伝統にこそ敬意を表さないといけませんねぇ。
 ほかには江戸川で取れた川魚の佃煮の店、うなぎの食堂、漬け物屋、煎餅屋など昔なつかしいお店が軒を連ねています。ビニールやセルロイドのまやかし物ばかり売ってる浅草などとはえらい違いだ。今回の滞在は40分ばかりでして、江戸川まで足をのばせなかったので、必ずもういちど、ゆっくり訪問したいと思います。


0511葛飾柴又02参道02高木屋01 だんごの老舗「高木屋」


上野でやぶ蛇

 それはさておき、上野ではとんだ薮蛇・・・滅多にしないことをやるもんじゃありませんね。こともあろうか、娘に電話したんです。期待してたわけじゃないんだけど、遠くにいるから行けないわ、ということで一件落着。ホテルでのんびり休んでいると、こんどはむこうから電話をかけてきた。「じつは彼氏と一緒にいるんやけど、彼氏が挨拶したいって言ってるの・・・」。
 はたして、一時間ばかり3人で食事をしました・・・焼酎3杯で酔っ払い、寅さんばりに「テメ、このタコ~~」の大乱闘・・・にはならなかった。焼酎3杯でとめる自制心がいまのわたしにはあるのです、ははは。

 
0511葛飾柴又02参道03とら屋03縦 0511葛飾柴又02参道03とら屋04だんご


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ブータンの民話(6)

3圧縮カッコウとカエル (3)


カッコーとカエル

 ダンボ・ダンボ・ダンボ、ディンボ・ディンボ・ディンボ・・・

 昔むかしその昔、カッコーをめとったでかくて太ったみにくいカエルがいました。カッコーは夫のカエルが自分のことをどう思っているのか、まったくわかりません。カエルはいつも風変わりで、うさんくさいことばかりするのです。カエルが自分のことを本当にどう思っているのか、とても知りたかったので、嫁のカッコーはある日陽気なふぜいで夫に告げたのでした。

  「チベットの親せきのところに行ってくるわ」

 夫のカエルはでかくてみにくい頭をぶっきらぼうに下げてうなづき、かろうじて聞き取れるように、「行け!」と吐き捨てました。

 カッコーはさよならを告げ、まもなく北ブータンの高山にむかって飛びたちました。彼女はしばらく大空をはばたき、夫のカエルが自分を見えなくなったのを確かめてから、池に近い樹に戻ってきました。
 樹のぶあつい葉っぱのあいだに注意深く隠れ、カッコーはじっとカエルを観察しました。暖かい晴れの日、まもなくカエルは大きなユリの葉に飛びのりました。カエルは両手足を投げ出して、大あくびをし、気持ち良くなったところで、陽光の下、ひなたぼっこの余暇を過ごしました。カエルはそこに寝そべっているあいだ、ふざけて独りごとを言ってましたが、その声は大きくて、池の中にいる他の生き物にも聞こえてしまいました。

  カッコー、カッコー、おれの奥さん。
  あの娘は今モンラーカーチュン*1 に上っているところ。
  前(おもて)はおしっこびしょびしょで 後(うしろ)はきたない汗まみれ*2

 池はたちまち生き物たちの大きな笑い声と意地悪なクスクス笑いに包まれました。カエルはそれをとても楽しんでいるようで、おなじ悪口を何度もなんどもくり返しました。


カッコーimg_0


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大雲院と鳥取東照宮(Ⅵ)

0520大雲員01


習うより慣れろ

 5月20日(水)の3年ゼミでは、先週に引き続き、大雲院建造物のスケッチ・実測・測量演習をおこないました。私は今回、ソニドリさんとともに、大師堂の正面図を作しました。じつは先週も大師堂の立面図作成に携わったのですが、私の几帳面な性格が災いし、寸法を測りすぎてしまったため、採寸のみで時間切れとなってしまいました。時間をかけて採取した寸法図と写真を元に立面図を作成しましたが、完成した立面図に寸法を入れておらず、また先週の寸法の測り方も誤りがあったため今回は先週と引き続き採寸の作業に取り組みました。

 先週の反省のもと、無駄に時間をかけてしまった採寸は、先生や先輩の指導に従って改善したつもりです。まず建物の隅から隅まで巻尺を伸ばします。それで全長だけを測るのではなく、窓や柱、起点からどのくらいの位置にあるのか記入します。こうすることによって、短時間で寸法を正確に測ることができます。そこから柱の長さなど別途測っていく方法を取っていきました。


0520大雲員02


 また、先週のゼミでは屋根高が明らかに誤っていたため、ソニドリ氏とともに屋根の寸法を測り直しました。「高さ測り棒」(上記写真にある黄色い棒)という屋根の高さを測るものがあり、地面から屋根の雨樋の高さを測るときは非常に重宝します。しかし屋根のてっぺんまでで測ることは無理だったため、先週は高さ測り棒を使用し、遠くから眺めて高さを測っていきました。しかし、遠近法により遠くのものは小さく見えてしまい、図面に起こした時に屋根の高さと建物の高さが不釣り合いとなってしまいました。今回も同様の方法をとったんですが、前回の反省を踏まえ極力正確となるように測りなおした。

 今回もゼミの終盤になって先生の指導が入りました。採寸では三色ボールペンなどで色の使いわけをしなかった点以外ではとくに問題はなかったのですが、先生から上級生の書いたお手本を見せられ、私との画力の違いに愕然としてしまいました(私が下手です)。次回のゼミまでには採寸データをもとに立面図の修正、とくに屋根まわは上級生のお手本を見ながら徹底修正します。
 今回の作業によって前回の測量ミスの改善、そしてなによりも効率よく寸法を測ることができれば、先生がたびたびおっしゃっていた「限られた時間で実測を完成させる」ことをを実現できます。実現できるように今後も邁進していきます。(ゆめみし)


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摩尼山~砂丘ミニトレイル(Ⅳ)

20150519 06


環境学フィールド演習

 5月19日13時から、1年の環境学フィールド演習に同行した。先生、ケントさんとわたしで1年生49名(2名欠席)を引率する。大学からバスで大雲院へ。そこから鳥取東照宮(樗谷神社)まで町歩き、東照宮からは再びバスで摩尼寺門前まで移動し、お馴染みの林道ルートで湯山まででて、最終目標は砂丘ということに決まっていた。


0519大雲院01 0519大雲院02サムネイル


大雲院~東照宮

 このたびは田尻住職から直々の説明をうけた。1年生たちは江戸時代にもっとも力のある寺院でありながら維新後の神仏分離令で「忘れ去れられ」ていった寺院の仏像や市街地最古と言われる本堂建築に圧倒されていた。
 私の先導で東照宮まで行くことになり、まず逆送して登録有形文化財「吉村家」を眺め、さらに廣徳禅寺や観音院を通りすぎ、正面に鳥取城跡(久松山)を望むポイントで右に折れた。まもなく市指定文化財「グランドアパート(佐々木家住宅)」が樗谷駐車場の対面にみえた。鳥取東照宮にも1年生たちは鋭く反応していた。
 さきほど見学した大雲院の跡地を俯瞰しつつ、大雲院が管理した重要文化財「鳥取東照宮」に参拝する。歴史の道筋をたどっていくようで、さらに中国自然歩道の入口で「摩尼寺に至る山道」であることが知らされた。歴史が次から次へとつながってゆく。


0519まちあるき01 0519まちあるき02amuneiru


摩尼寺~湯山~??

 摩尼寺門前では、寺に檀家がいないこと、大雲院の住職は引退後に摩尼寺の住職になって生涯を終え摩尼山の麓の墓地に祀られること、かつての発掘調査のことなとが簡単に説明された。そして、大雲院住職の墓をみてお馴染みの林道に向かった。ここでも私が先導していたが、集落へ入る一歩手前の道を間違え引き返すようなこともあった。
 湯山から先は私以外道を知る者がいないので、当然先導することとなった。私のようなものでも確実に間違わずに砂丘へと到達する道、つまりGW中に歩いた道、梨狩り街道(国道)を通った。この日厚くて日差しが強く、景色も殺風景で、砂丘まで延々砂漠のような国道の路肩を歩きとおす状態になった。まるでフライパンの上で焼かれながらの行進であり、いたたまれなくなった先生がトレック中止を判断された。砂丘会館でまつバスを呼び寄せ、車内に入って全員が感想文を書いた。「砂丘に行きたかった」という感想文がちらほらみられたという。責任を感じている。


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↑大雲院はここにあった!



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大雲院と鳥取東照宮(Ⅴ)

本学特別研究費に新規採択!

 平成27年度鳥取環境大学特別研究費に申請していた下記研究が採択されたとの通知がありました。申請費の満額回答に喜んでおります。

  1.研究課題名: 大雲院とその末寺群の伽藍構成及び仏教美術に関する予備的研究
  2.研究代表者: 浅川 滋男
  3.研究助成額: 995,000円

【研究の目的と概要】
 東照宮別当寺大雲院  鳥取市立川の乾向山大雲院(天台宗山門派)は、慶安3年(1650)に鳥取藩主池田光仲が勧請した鳥取東照宮(樗谿神社)の別当寺であった。江戸時代の鳥取で「御宮(おみや)」と言えば鳥取東照宮を指し、藩内の神社として最高の格式を誇った。大雲院は東照宮勧請と同時に神社の隣接地(現在の樗谿公園周辺)に創建され、別当寺として東照宮境内を管理し社領500石を自らの寺領とした。鳥取東照宮の実体とは別当寺大雲院であったと言って過言ではないのである。鳥取東照宮の実体たる大雲院は徳川家歴代将軍の位牌安置所でもあり、江戸における上野寛永寺の役割を鳥取で果たしていた。
 さらに大雲院は、鳥取藩領内天台宗の触頭として諸寺を管轄した。鳥取の観音院、覚寺の摩尼寺、三朝の三仏寺、倉吉の長谷寺、八橋の転法輪寺などは平安期以前にまで遡りうる天台宗の古刹でありながら、藩政時代には大雲院の末寺とされた。末寺の数は因幡12ヶ寺、伯耆8ヶ寺の計20ヶ寺に及んでいる。ひとり大山寺だけが別格扱とされ、独立の寺領を有したが、大山寺に対する取次役も大雲院が果たしていた。
 神仏分離令による霊光院への移転  ところが、明治元年の神仏分離令により、神宮寺(別当寺)の廃止と僧侶の還俗が命じられる。その結果、東照宮奉仕をやめて境内を引き払い、いったん末寺の観音院を仮の居として、明治3年(1870)には立川にある末寺霊光院に仏具等一式を移した。霊光院は「宅間堂」と通称される。元禄~享保に活躍した藩士、米村所平は草堂の観音を崇敬し異例の出世を遂げたため、立川に霊光院を造営し、宅間堂の観音を本尊に迎えた。さらに33体の観音を刻んで奉納し、近在に稀な大寺となる。本堂は米村が夭逝した息子の追善供養のため享保2年(1717)に建立したものである。明治以降の大火・震災のため近世建造物が壊滅状態になった鳥取市にあって、例外的な江戸期の密教本堂遺産として貴重な存在である。
 大雲院と摩尼寺と安楽律  わたしたちが6年以上調査研究に取り組んできた摩尼寺も大雲院の末寺である。両者の係わりは東照宮勧請直後まで遡る。元禄3年(1690)に大雲院の二代栄春が荒廃していた摩尼寺の復興に着手したが、明暦3年(1657)死去し摩尼寺に埋葬。三代廣海も延宝2年(1674)に摩尼寺で死去し埋葬。元禄2年(1689)四代観海が隠居して約30年に及ぶ堂舎・仏像などの整備を進め、享保3年(1718)に五代観洞が山上「奥の院」から山腹に移設された新生摩尼寺の初代住職となった。大雲院は山門派であるにも拘わらず、このとき摩尼寺は宗派を安楽律派に変更しており、安楽律院から代々輪住が派遣されることとなった。安楽律院は比叡山横川飯室谷に所在する天台宗安楽律の拠点であった。小乗戒を重視する安楽律運動を復活・高揚させるが、厳しい戒律ゆえ18世紀末までに衰退し、現在は廃寺となって遺跡化している。ただし、近江を中心に安楽院の末寺が20ばかり現存しているという。


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2014年度実績報告(4)

 科研第2年度(2014)の実績報告です。

1.研究題目: チベット系仏教及び上座部仏教の洞穴僧院に関する比較研究
2.種目・課題番号: 基盤研究C 25420677
3.補助事業期間: 2013~2015年度
4.研究費総額: (直接経費)4,000,000円  (間接経費)1,200,000円


研究実績の概要

 2014年は東ブータンと中央ブータンで調査した。東ブータン高地メラ(標高3400~4000m)では、定住化したヤク放牧民の集落と放牧地を調べた。集落からヤク放牧地に至る途中、山道で何度もヤクの群れに出会った。森林で大量の薪(イトスギ)を集め、ヤクに担がせて戻る。薪の確保が住民の生活の生命線であり、どの家にも垣根や軒下に大量の薪を積み上げている。
 牛飼いはメラに集住し、放牧地には山小屋が1棟建っているだけで、テントは消え失せている。かれらがテントを捨て定住を開始したのは80年ばかり前からであり、築後40年前後の住宅が多かった。住宅は木造と石造の折衷で、居間にはストーブがあり、その部屋にベッドや多くの家具を置く。隣に必ず仏間があり、複数の仏像・タンカを配するが、中心にダライ・ラマの写真を貼って祭る。メラ・サクテン地方ではゲルク派が浸透しており、ダライ・ラマを崇拝している。町外れにメラ寺があり、調査中に儀式(プージャ)をおこなっていた。50年遡れば、この村には遊牧民のテントと寺院しかなかった。
 その後、タシガン経由でブンタンまで移動し、中央ブータンのシュクドラ寺、チュウドラ寺、クンザンドラ寺、ウラ寺などの僧院を調査した(標高3100~3600m)。いずれもドゥク派の僧院で、本堂ラカンは17世紀以降の建立だが、瞑想洞穴チャムカンの成立は13世紀に遡る。中央ブータンを代表するウラ村の集落はわずか50年の歴史しかなく、以前は遊牧民の放牧地であった。ただし、ウラ寺の成立は13世紀に遡る。当初の瞑想洞穴は寺院から2キロ離れた山頂崖上にあり、その崖を登り切ると鳥葬の儀場がある。
 帰国後、ブータン民話の翻訳にも着手した。クンザン・チョデンの著した『炎たつ湖』は完訳、続く『ブータンの民話』を翻訳中である。

今後の研究の推進方策

 1)2015年も夏にブータンを訪問し、洞穴僧院の測量を続ける一方で、最終年度はむしろ仏僧の人生・生活に係わるヒアリングに重心をおく。パロ地区で親しくなったダカルポ-ゲムジャロ寺住職のライフヒストリーの聞き書きに時間を割く予定。
 2)ブータン民話(仏教説話)の第一人者クンザン・チョデン女史に面談し、民話・民俗に関する情報を収集する。
 3)西インドの最初期石窟寺院を冬に訪問したいが、予算が十分ではないので、1~2の調査で浪費した場合は断念せざるをえないかもしれない。中国青海省にも質の高いチベット系僧院や瞑想洞穴が残っていると聞いているので訪問してみたいが、こちらも時間・予算との相談になる。
 4)大学紀要もしくは学会の審査論文を執筆・投稿する。それと併行してクンザン・チョデン女史の民話に関する著作の翻訳も進める。


大雲院と鳥取東照宮(Ⅳ)

大雲院3-1 大雲院3-4


断面図作成、遅遅として…

 5月15日(金)、今週の4年ゼミは、13日に続いて大雲院での活動となりました。今回は院生・四年生・三年生一名の計八名が参加し、土蔵の平面図と断面図・本堂の立面図・境内測量のそれぞれに分かれ、先生は本堂の調書取りと仏像等美術品データベース作成の準備を行いました。
 今回、私はココアくんと土蔵の断面図スケッチを行いました。断面図はある点で建物を切断したと仮定して、切断されて見えてくる断面線は太線で、切断されることなく見えてくる見え掛かり線は中線で描きます。断面図を描くことは初めてで、どこから書き出してよいのかわからず時間だけが過ぎてしまいました。


大雲院3-2


 その結果、途中経過報告時に先生からの喝が入り、残りの時間で院生のケントさんに指導をしていただきながらスケッチを進めました。今回の時間だけでは完成しなかったのですが、先生は「土蔵の断面図は2時間もあれば完成するものだ」とおっしゃられたので、あらかじめ今まで浅川研究室が調査してきた断面図の野帳を確認しておくべきだったと思い、次回までには断面図を模写するなどして練習をしておこうと思います。

 この大雲院は四年生の誰かが卒業論文のテーマとして取り上げることなので、しっかりと調査をしていこうと思います。また前期の活動で、三年生を中心に本堂や土蔵などの連続立面図や平面図を作成する予定なので、今後をご期待ください。(ロン)


150515大雲院土蔵


大雲院と鳥取東照宮(Ⅲ)

0513大雲院09 0513大雲院10


実測演習開始

 5月13日(水)。大雲院を再訪しました。本日よりいよいよ、この寺院の配置図・平面図・立面図をとる作業に取り掛かります。3年生にとってははじめての現場の実習・演習です。あらかじめ決めておいた担当に分かれて、早速各々図面の作成を開始しました。ノウハウを知らない3年生は、先輩方や先生に教わりながら作図していきます。私は今回立面図を担当しました。立面図とは、住宅を横から見た投影図であり、建物の外観デザインを表します。立面図の縮尺には一般的に100分の1を用います。私たちも同様に100分の1スケールに縮尺しました。


0513大雲院05 0513大雲院08


 立面図の作成にあたり、まずは建物の寸法を測りました。全長や高さ、大まかな区切り(例えば建物の端から次の柱までなど)を測量し、シートに記入していきます。私たちはここから立面図をおこしていきました。
 ところが、それをみた教授が指示されました。

   採寸はあと。まずはスケッチを描きなさい。現場では必ずスケッチを描く。
   そのスケッチに3色ボールペンなどで寸法を書き込み、図面を浄書する。


0513大雲院03 0513大雲院02


 フィールドでは時間が限られており、手早い作図と採寸が重要な場合がしばしばある。そのデータをもとに正式な図面を描くということです。なるほど、と納得したので、私は再度歩測にて大まかな測量を行いました。それから全体を見渡せる位置へ移動し、大体の高さを測りスケッチしていきました。この間、ほかの人たちも各々の担当図面の作成に集中していました。日本建築の場合、寸法の感覚として、とくに重要な意味をもつのは畳のサイズだそうです。畳は1間(182cm)×半間(91cm)。1間は6尺、1尺は303㎜。日本建築はこれらの寸法の倍数で設計されており、畳がない部分では大股の1歩が半間、2歩が1間になるとも聞きました。


0513大雲院01 0513大雲院04


 集合の合図がかかり、完成したものも途中経過のものも、全員一旦提出しました。先生のご指導が入り、3年生は次回ゼミまでに改善・完成させて再提出することとなりました。この時に先生にいただいた言葉として私が念頭に置いておきたいのは、「いちど描いた図を消してしまうのはもったいない。書いた記録は残しながら新しい紙に図を描きなおすべきだ」ということです。 (ソニドリ)


0513大雲院06

ブータンの民話(5)

ソナム・チョデン・ワンチュク王妃による序文


 ブータンに存在する宗教的文学および他の文学の豊かさについては、世界中でひろく知られています。ところが知識の源泉たる潤沢な口承はあまり有名ではなく、簡単には接することができません。口承から文学への移行が未完であるブータンの民衆にとって、口伝えの伝承は一つの世代と次の世代をつなぐ強力な生命力をもつ媒体です。それは文書化されていない知識の存続を確実にします。口承(ゾンカ語のカジュ)を頼りにすることで文字を読めないブータン人は民話から恩恵を受けることができました。ブータンの村々では、民話は今なお語られ、人々-多くは子供たちですが-は、この生きた伝統から学んでいます。
 民話を聞いて自ら語りなおす方法は、私個人の考えでは、ブータン民衆のあいだに豊かにみられるこの国特有の雄弁さや明瞭な語り口の発展にとって重要なツールでした。それは人々が物語に含まれる道徳的、哲学的、宗教的、神話的、空想的な意味を見出すのを可能にします。近代化の進展が30年前ばかり前から始まって以来、ブータン社会のいくつかの側面で急速な変化が生じました。必然的に、口承が知識の伝達において果たしてきた重要な役割はその必要性を失っていったのです。子供たちが、地元の民話を犠牲にしつつ遠い場所で作られた物語によって育てられていることはすでに明白です。
 ですから、クンザン・チョデンの著作は、ほとんど未知にしてこれまで文書化されていないブータンの民話を含む多様な「生きた遺産」の保全にむけての、賞賛に値する第一歩です。彼女の著作は若者の興味を刺激し、年配世代の記憶を呼び覚ますはずです。その結果、ブータン口承を総合的に集成する仕事が可能になるでしょう。このような書物を著した最初のブータン人である著者に賛辞を述べるのたいへん名誉なことです。私はこの先駆的な著作をあらゆる読者に強く推薦します。[KT]
                                     
                                        S.C.ワンチュク
既約部分は以下のサイトをごらんください。

  目 次        http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-946.html#more

  まえがき(その1)  http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-950.html
  まえがき(その2)  http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-965.html
  はじめに       http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-955.html

倉吉打吹山麓の歴史的風致に関する総合調査(ⅩⅩⅦ)

農業高校 農地


鳥取県立倉吉農業高校

 5月9日(土)、快晴。教授・院生・私を含む4年生2名の計4名で、倉吉市社地区に点在する古代史跡群と周辺の農村地域を視察しました。
 まず私たちは鳥取県立倉吉農業高等学校に向かいました。倉吉農業高校は鳥取県で最も早く開校した農業高校です。キャンパス正面の造園は広大で美しく、圧倒されます。環境大学もこれぐらいの緑地造形をしてもらいたいものだと思いました。その広大な公園は、周辺のさらい広大な田畑に連続していきます。土曜日ながら参観日だったので、作業服を着て実習をする生徒を数おおく見かけました。生徒が育てた花が色鮮やかに咲いており、玄関で4株購入。この花は茶室の畑に植える予定です。
 

農業高校 花


古代国府の風水

 わたしは6日の学生4名による古代史跡群視察にも参加しました。9日は法華寺畑遺跡から周辺の国府、国分寺などに散在する農村を歩きました。国分寺遺跡を横切って法華寺畑遺跡に戻ると、大勢の市民がゲートボールを楽しんでいました。そこから四王寺山の展望台をめざしました。大谷という集落を抜けて山道をあがると迷路のようになっていて。わたしたちは間違って山麓の法幢寺に至りました。虹梁絵様の彫りや形状から、18世紀後半に遡る可能性があるとのことで、思いもよらぬ収穫です。展望台からは集落や古代史跡群のパノラマを撮影しました。


0509法華畑no 0509法華畑ゲートb-る
↑(左)法華寺畑遺跡周辺の田畑 (右)史跡でゲートボール
↓法華寺畑から四王寺山を望む
0509法華畑からみる四王山01


 先生の構想は壮大です。国府地域の配置計画を規定する原理を導きだそうとされているのです。
 古代の首都、平城京や平安京は四神相応の地理思想を基に配置がなされていると言われています。地方の国府においても、それに似た風水説によって配置が構想されていた可能性があります。それを歴史地理学的にあきらかにすることを学生たちに期待されています。社地区はいまでも豊かな農村地帯です。ここが豊かであるのは、古代から同じであり、その地理的条件を活かして国府・国分寺が建設されたのではないでしょうか。


0509四王山03法どう寺 
↑法幢寺  ↓四王寺山展望台からのパノラマ(右が大谷集落)
0509四王山01 0509四王山02大谷01
↑展望台作って電線が眺望邪魔してます。頭隠して尻隠さず?

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大雲院と鳥取東照宮(Ⅱ)

01大雲院02 01大雲院01記念撮影01


活動概要

 5月8日(金)、ASALABのメンバーは三年生と四年生・院生の合同で鳥取市内にある大雲院と鳥取東照宮(樗谿神社)を訪れ、歴史的建造物などを見学した。大雲院と鳥取東照宮、鳥取東照宮を創設した当時の鳥取藩藩主の池田光仲と徳川家の関係性や、建造物にあらわれた様式的特徴を教授の解説を交えて学んだほか、今後の活動計画として大雲院の建造物と美術品を対象に実測・測量やデータベース作成の基礎を学ぶことを決めた。


01大雲院01本堂01 ←大雲院本堂天井


鳥取東照宮と大雲院の関係

 鳥取東照宮とは鳥取藩初代藩主である池田光仲によって創設された徳川家康の霊廟である。配神として池田光仲と父の忠雄、伯父の忠継の3霊も祀られている。藩政期に鳥取東照宮(樗谿神社).を管理・運営したのが大雲院である。もともと大雲院は東照宮に隣接する霊廟の別当寺であり、明治になると神仏分離令により、立川の末寺霊光院へと移された。東照宮を管理していた当時の名残として、現在の大雲院には仏像等仏教美術品のほかに、歴代徳川将軍の位牌が祀られている。


01東照宮02休憩01


鳥取東照宮の建築的特徴
 
 鳥取東照宮は拝殿・幣殿・本殿により構成される。凸形平面の幣拝殿は入母屋造こけら葺き、本殿は入母屋造檜皮葺きである。日光東照宮の場合、本殿と拝殿が石の間(幣殿)によってつながれた「エ」字形の平面を呈する。いわゆる「権現造」である。一方、鳥取東照宮は幣殿が短く、本殿と幣殿は連続しない。権現造の省略形とでもいうべき平面形式をとっている。鰹木の数が千木に沿う2本であることを奇妙に思った。千木は先端を垂直に切りおとす「男千木」であり、祭祀対象の性別に対応しているにも係わらず、鰹木が偶数である点は女神を象徴しているからである。教授によれば、中央の鰹木が落ちてしまったのだろうとのことだが、謎を感じた。


01東照宮03


感想

 鳥取東照宮の見学を通じて、鳥取東照宮は仏教色のある神社だと感じた。神社にはそれに合わせて鳥居が構えられているのが普通であるが、鳥取東照宮は公園内の入口の鳥居以外に鳥居はなく、寺院の門のような建物を多く構えていたのが印象的だった。鳥取東照宮を管理していた大雲院の影響がこういった形で表れているのだろうと感じた。樗谿の鳥取東照宮と立川の大雲院は明治維新で境内が離ればなれになったが、それから年月が経ってもなお、双方の関係は未だに強く繋がっている神社と寺院であることを、今回の活動を通して見てとれた。(TD)


01東照宮05

大雲院と鳥取東照宮(Ⅰ)

01大雲院101 大雲院 詳細1


大雲院を連続訪問

 5月6日、GW中の卒業研究に係わる活動として、金曜ゼミで正式訪問する予定になっているで大雲院の下見をしました。6日の訪問の際には私だけだったんですが、その前にケントさん(院生)と4回生2人が訪問し、大雲院の内部を見学させてもらったようです。私が参拝したときは関係者がご不在でして、建物の外部だけ観察し帰宅しました。


01大雲院100


 その二日後の5月8日(金)でのゼミ活動で、ゼミ所属メンバー計13人で大雲院を訪問しました。鳥取市文化財課のSさんとともに住職ご夫妻に対応いただき、大雲院の内部を見学させていただきました。本堂は霊光院の本堂をうけつだ関係で、霊光院の本尊阿弥陀三尊を祀っています。大雲院の本尊は千手観音であり、向かって右の手前側に祀られていました。本尊を後と左右から囲むコ字形の仏壇には西国33霊場の代表的な仏像を模した千手観音、如意輪観音、聖観音を祀っています。
 先生によると、仏堂は一般的に柱筋がグリッドパターンで並ぶものだが、大雲院本堂はずれまくっているそうです。平面図をとるのに苦労しそうです。隣の元三大師堂はおもに鳥取藩主の厄除祈祷をしていた仏堂です。そこには二つの部屋があり、一つはいくつもの仏壇が置かれていて、もう一つの部屋は徳川家の位牌などが置いてありました。この二つの部屋には柱があるはずの入隅のところにそれがなく、位牌などを隈無く見渡せるようになっています。


大雲院 圧縮 1 大雲院 詳細2


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摩尼山~砂丘ミニトレイル(Ⅲ)

砂丘から湯山までの道 ←砂丘から湯山へ


未来を切り開け!

 5月3日、卒業研究に係わるGW中の自主的課題として、わたしとココアと天草の3人で鳥取砂丘から摩尼山を経由して樗谷(おうちだに)公園に抜けるトレイルを歩きとおしてみることにした。鳥取駅から鳥取砂丘展望台まではループ麒麟獅子バスを使った。そこから歩いて坂の登り口まで下り、十字路を左に折れ、岩井線バスルートに沿ってバイパス付近まで歩き、湯山集落に着いた。
 湯山からは前回歩いた林道ルートを逆走した。門脇茶屋まで半時間ばかり、そこで昼食をとった。門前から「奥の院」への登山路に分け入り、「慈覚大師」看板のたつ三叉路で「奥の院」ではなく、「太閤平」に向かって折れ曲がった。
 途中上下二手に分かれる道を下に降りてみると、ほとんど獣道のような有様で、この道は怪しいと思い、いったん引き返して上への道を歩んでいくと、ちゃんと崖側に手すりがあった。先に進むと、正規のルートであることがわかった。門脇茶屋の方から登ってくる人も中にはいるかもしれないので、一応看板は立てておいた方がいいでしょう。


下:獣道 上:人道 ←運命の分かれ道


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ブータンの民話(4)

まえがき(その2)

 物語は私たちが住んでいる世界を豊かなものにしてくれます。私たちはタン渓谷を囲む山々を越えて旅することはできませんが、私たちの世界は心の中でははるか彼方までひろがっています。物語の登場人物のように多くの山を登り、多くの谷を渡り、何事も不可能ではありません。精霊や幽霊、そしてシンポ【注1】は知力と体力を以て人間と戦います。動物は人間と会話し交流します。かれらは人間の敵の場合もあれば、親切な友人の場合もあります。そういう世界に人間はかりそめに入りこみ、神、精霊、地獄の妖怪を垣間見ることができるのです。物語には呪術や神話が満ちており、私たちの現実とほとんど切り離せないものです。思いやり、謙虚さ、親切、誠実さに満ちた普遍的な美徳を称揚する物語もあれば、ばかげた残忍性や礼儀の無さ、そして不誠実な行為を説く物語もあります。最も印象深いのは、かなり首尾一貫したストーリーをもつ物語です(とくに宗教説話のナムザースがそうですが、本書には含まれていません)。善は悪に勝ち、謙虚な静けさは大ぼら吹きの饒舌を負かし、富める者は貧しき者に譲るのです。[HT]
 いくつかの物語は14年間に及ぶインドの(寄宿学校での)長期滞在の期間でさえ、心の中で生き続けていました。物語は異文化への順応とさらなる理解にあたって、孤独や憂鬱を感じた時に私の安全な逃げ場と慰めになってくれたものです。物語の記憶は自分のルーツとのつながりを保つのを助けてくれました。自分自身のアイデンティティを与えてくれたのです。私が誰か別の人物のようになろうとしていたときでさえ、自分が本当は何者なのかを理解していました。何年か後に、私は村の物語の語り手を探しだそうと努力しました。もはや曖昧になってきたいくつかの物語を、再び私自身になじませるために、です。調査の間、私は口承芸術が明らかに少なくなっていることを察知しました。さらに悪いことに、物語の語り聞きは、ハリウッドやボンベイ、香港で制作された流行映画に取って代わられていたのです。揺らめくラワン(銅製ランプ)の灯りは、今では青白い光を発するTVセットに置き換えられつつあります。子供の頃たくさんの物語を語ってくれた老人はこう言いました。「物語なんて忘れちまったよ。近頃はみんなビデオを見ているのさ。どうして私に物語を話させようとするんだい?」。そのとき私は、ひどく悲しい気持ちにさいなまれたものです。[SC01]
 自分が何者で、どこから来たのかという命題と関係あるものとして、物語の重要性に気付いたとき、私はまた自分の子供たちにとっても、物語はとても重要な存在になるであろうことに気づきました。物語が文化的基礎とつながりある生活において、幾分なりとも価値あるものになるだろうという希望を以って私が物語を書き残すのは、自分の子供、および子供と同世代の人々のためです。こうした文化的基礎を理解するにつれ、若い世代は自分たちの生活をよりよく理解し、称賛することになるでしょう。

【注1】 シンポ sinpo
 肉食の精霊。ブータン仏教の開祖パドマサンババ(グル・リン・ポチェ=尊師)が制圧しあの世に追放するまでは、この世を自由に彷徨っていた。Sinpoiyulとも言う。


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倉吉打吹山麓の歴史的風致に関する総合調査(ⅩⅩⅥ)

150506法華寺畑遺跡


国史跡「法華寺畑遺跡」

 卒業研究に係わるGW中の自主的課題として、5月6日に私を含む4年生4人で倉吉の伯耆国府跡周辺の史跡を視察してきました。会長さんに案内と解説をお願いし、合計5つの史跡をまわることができました。
 まず初めは法華寺畑遺跡を訪れ、遺跡を囲む柵列・溝と西門(↓)の復元されたものを見学しました。敷地は150m四方、周りに溝と板塀をめぐらし、東西南北4つの門がかつて存在していたようです。しかし天暦2年(948)に国分尼寺から火災が発生し、それが国分寺にまで及んだという記述が残っており、国分寺との位置関係上、国分尼寺であった可能性が高いとのことでした。発掘調査により、はじめは役所としてつくられたが、後に国分尼寺に転用された可能性が指摘されています。


150506西門
↑法華寺畑遺跡西門(復元) ↓伯耆国分寺跡金堂
150506金堂跡


国史跡「伯耆国分寺跡」

 次に訪れたのは伯耆国分寺跡でした。法華寺畑遺跡がつくられた丘陵の南斜面にあり、土塁跡や回廊跡などが残されています。金堂と五重塔が離れた位置にあるというのがこの遺跡の特徴です。金堂・講堂と塔の方位が2度ほど違っているので、つくられた時期の違いを示すものとして考えられています。


150506国分寺跡


国史跡「伯耆国府跡 国庁跡」

 続いては「伯耆国府跡 国庁跡」を見学しました。日本の全国各地に「国府」という地名が残っています。倉吉にも国府があり、それは「こう」と発音されています。こういう地名によって国府の所在地はおおむね判明している場合が多いのですが、実際に国府の遺跡が確認されている例は珍しいそうです。伯耆国庁跡は発見された代表例といえるのですが、残念なことに、整備はなされていません。周囲は平野で、とても見通しの良い場所なので、史跡整備がなされればどんなにすばらしい景観になるのか、と想像をたくましくしました。

150506国庁跡 150506国庁跡看板




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天平紀行(Ⅱ)

150427 平城宮 池と第1次大極殿 150427 平城宮 第1次大極殿 軒下


平城宮跡を歩く

 夕刻、文化財研究所まで報告書を届けに行きました。 いま「本庁舎建替事業」の真っ最中で、史跡内の仮庁舎が職場となっています。景観研究室、遺構研究室、年代学研究室の順に報告書を配ってまわりました。どの研究室でも、先生の後輩のみなさんが丁寧な対応をしてくださいました。結果として言えるのは、報告書は足りなくなったということです。いずれ補填しなければならないかもしれません。
 年代学研究室を後にしたなにげに東行、大極殿院をめざしました。私はこれまで平城宮跡に行ったことがなく、建築史を学ぶ者として一度は訪問してみたかった場所です。 平城宮跡は国の特別史跡ですが、もちろん世界文化遺産「古都奈良の文化財」の一つでもあります。日本国内で最初に世界遺産になった考古遺跡としてよく知られています。
 野原のように広大な史跡の中に第1次大極殿が建っています。平城遷都1300年を記念して、2010年に竣工しました。二重入母屋造の巨大な復元建物で、近くまで来ると迫力があり圧倒されます。軒下の組物は薬師寺式の三手先です。軒は「地円飛角」の二軒。


内裏-第2次大極殿-朝堂院ブロック

 第1次大極殿の東隣には第2次大極殿跡があります。こちらには復元建物はありません。大極殿院の北側に接する内裏では掘立柱の位置を柘植の刈り込みで表現しています。一方、大極殿は基壇と礎石のみ復元表示がなされています。基壇に上がってみると、北側は内裏、南側は朝堂院の全域を望むことができます。
 内裏-第2次大極殿-朝堂院ブロックは、散歩する人、基壇上で横になる人などがいました。第1次大極殿よりも人影が多いのです。のどかな光景に文化財の活用のあり方をうかがえます。


150427 平城宮 第2次大極殿跡  150427 平城宮 内裏と柘植
↑(右)第2次大極殿跡 (左)内裏と柱位置を示す柘植
  

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倉吉打吹山麓の歴史的風致に関する総合調査(ⅩⅩⅤ)

0509雑談01 公民館便り72号5月号_02圧縮01


社から河原町へ

 倉吉での活動を再開しました。詳細はおって学生諸君が報告しますが、いまは狼煙だけあげておきます。9日(土)はよい天気でした。社地区に点在する古代史跡群、その周辺の農村群をみてあるきました。四王寺山の麓にある大谷という集落が印象に残りましたね。茅葺き民家が1棟姿をとどめ、法幢寺本堂は18世紀に遡る可能性があるでしょう。建築的にアプローチするなら、この集落が最適かもしれません。ただ、社地区の魅力は土地利用=景観です。平城京が四神相応の地に建設されたように、古代の国府もまた一定の風水に従って配置・計画されたであろうと思います。その地理的条件は相当に良かったはずであり、その条件を生かして中世以降の農村と田畑が発展していったのではないか・・・だれかが卒業研究で取り組んでくれると信じています。

 社地区の最後は不入岡(ふにおか)の上神(かづわ)焼窯元。囲炉裏で抹茶の接待を受け、片口の腕を買いました。
 そこで調査は終了。社地区から河原町・鍛冶町に移動して、懐かしい種苗店と大鳥屋さんに挨拶し、ごらんのような接待を受けた次第です。その数日前、公民館便りの最新号が送信されてきておりまして、ここに転載させていただきます(↑右)。4月末、住民に対する重伝建の説明会が開催されたようです。一歩前進したことに喜びつつ、配布資料をみて少々心配になるところもあり、意見を交わした次第です。もう帰ろうとして鯉に餌をやっているころ、会長も自転車であらわれ、雑談は延長戦にもつれ込みました。
 やはり倉吉はよいですね。ホームグラウンドの趣きがあります。今年も大きな収穫がありそうな予感がしました。


0509雑談02  0509鯉01

『鳥取環境大学紀要』第13号 刊行!

 『鳥取環境大学紀要」第13号が刊行されました。例年どおり、ASALAB関係の論文が2本掲載されています。1本は摩尼寺、もう1本は米子八幡神社に関する論考です。以下、基礎情報。

 ①宮本正崇・吉田健人・中塚武・浅川滋男(2015)
   「摩尼寺建造物の調査」
   『鳥取環境大学紀要』第13号:p.79-98

 ②原島修・中島俊博・浅川滋男(2015)
   「米子八幡神社の棟札と本殿・拝殿の建築年代」
   『鳥取環境大学紀要』第13号:p.99-128

 ①は報告書『思い出の摩尼』(浅川編2015)に巻頭論文として転載されています。また、②は報告書『近世木造建造物の科学的年代測定に関する基礎的研究』(浅川・原島編2015)第3章の原典ですが、論文投稿後に炭素14年代の新しい成果がもたらされ、報告書では結論を大きく書き改めています。
 いずれの論文も本学HPよりダウンロードできるようになっているはずです。

わたしの寅さん

 BS17でアンコール放送中の「土曜は寅さん」もすでに16回を数える。57年間興味をもたなかった映画に突然嵌ってしまった理由は自分でもよく分からない。が、症状は悪化の一途をたどり、このGWはツタヤにまで通う始末。いっぺんに6枚も借りるんです。6枚のDVDを1日でみる。そういうGWでした。ソファに寝ころんで動かないから、またリバウンドしちゃった。公開と反省の毎日を過ごしております。

 美人に恋した寅さんがあっさり振られてまた旅にでるというストーリーの定型は最初からあったわけではない。第1~2話の主演女優はさくらであり、その美貌は寅さんのマドンナたちを上回っている。第3~4話は、もうひとつノリが悪いというか、テンポがよくないし、マドンナ像にもブレがある。調べてみると、監督が変わっていた。
 第5話「望郷篇」で山田洋次監督が復帰し長山藍子をマドンナに抜擢、続く第6話「純情篇」では若尾文子が登場して、寅さんの定型が生まれる。若い長山も大変な美人だが、若尾文子のレベルはAAA級だ。AAA級を採用することで、「(絶対に)手の届かない」マドンナのイメージが確立する。これを池内淳子(⑧寅次郎恋歌)、吉永小百合(⑨柴又慕情・⑬寅次郎恋やつれ)、岸恵子(⑫わたしの寅さん)らが継承する。何十人ものマドンナが入れかわり立ち替わりスクリーンを彩るわけだが、前期のマドンナは他を圧してレベルが高い。それがストーリーの定型化を確固たるものにしている。とりわけ凄いと感じ入ったのは岸恵子です。こんな女優が日本にいたんだねぇ・・・
 定型化した物語は、水戸黄門や銭形平次がそうであるように、決して退屈しない。ここでこういう展開になるのが分かっていても、否、分かっているからこそ、またその画面に集中するんだね。AA~AAA級の女優に見とれ、寅さんと脇役陣のコントに大笑いし、最後は寂しく故郷を去っていく寅さんを涙ぐんで見送る。数千万の日本人がこの一連の筋書きを堪能してきたわけだ。

 定型に対置すべきサブタイプもある。寅さんがマドンナに惚れられるパターンでして、その先駆けは、幼なじみのお千代坊を演じる八千草薫(⑩寅次郎夢枕)。この系列のマドンナは「出戻り」が多く、どういうわけか、寅さんとの再婚を心に秘めるのだが、寅さんは(駄目だ、オレと一緒になっても幸せにはなれない)と思いこんでまた一人旅に出ていくのです。どさまわりの歌姫リリイ演じる浅丘ルリ子(⑪寅次郎忘れな草・⑮寅次郎相合い傘etc.)は、寅さんと似たフーテン的な女性を演じ、相思相愛なるも、互いが己と相手を深く知るが故に離ればなれになっていく。第33作「夜霧にむせぶ寅次郎」の中原理恵(フーテンの風子)は明らかにリリィの焼き直しバージョンである。


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天平紀行(Ⅰ)

150501 薬師寺 150501 薬師寺3


 4月末の週末、要するにGWのとっかりに奈良にしばらく滞在しておりました。社長さんと飲んだり、先生の家でお嬢さんの手料理をご馳走になったり、楽しい休日でしたが、もちろんいちばんの目的は古建築と史跡の探訪です。

薬師寺

 いちばん最初に訪れたのは西ノ京の薬師寺。ご存じのとおり、1998年に「古都奈良の文化財」のひとつとしてユネスコの世界文化遺産に登録されています。薬師寺の東塔と東院堂が国宝の建造物です。法隆寺西院伽藍の建造物が「世界最古の木造建築」とすれば、薬師寺東塔(730)は「世界で2番目に古い木造建築」であり、軒の組物は「日本最古(つまり世界最古)の三手先」としてあまりにも有名です。
 境内に入る前から、塀の向こうに塔が頭を出していました。薬師寺境内には東塔と西塔の二つがあるはずなのに、金ぴかの西塔しかみえません。境内に入ってみると、東塔は解体修理中ということで、覆屋で覆はわれており、目にすることができませんでした。現在、東塔は完全に解体されさら地になっているようです。
 薬師寺は1金堂2塔式の伽藍配置ですが、西塔は焼失しており、昭和56年に453年ぶりに創建当初の天平様式で再建されました。東塔を模しての再建ですが、連子窓などは復元的に設置されており、東塔以上に天平の様式をよく表現されていると言われています。このたびの東塔修理では、当初の様式に戻すのでしょうか?
 東西の双塔が左右に並び立つ光景をぜひとも目にしたかったのですが、見られなくて残念です。修理の終了後、もういちど訪問しようと思います。


150501 法隆寺4 


法隆寺

 薬師寺から法隆寺へと足をのばしました。斑鳩にある聖徳太子ゆかりの寺院です。7世紀初(607)の創建ですが、天智天皇の代(670)に大火で焼失し、現在の西院伽藍は700年前後の完成と言われています。周知のように、法隆寺の建造物群は法起寺とともに「法隆寺地域の仏教建造物」(1993)として、日本で最初の世界文化遺産に登録されました。
 まず南大門をくぐります。法隆寺の玄関にあたる総門です。創建当時の建物は永享7年(1435)に焼失しており、永享10年(1438)に現在の門が建てられました。国宝です。南大門から北側正面に金堂、五重塔を含む西院伽藍が少し小高い位置に見えます。回廊で囲まれており、南正面に中門が建ち、奥の北側に大講堂が構えています。回廊は上空から見ると凸形をしていますが、これは平安時代の火災に伴う改変後の姿でして、かつて大講堂は長方形回廊の外にありました。左右に金堂・五重塔を配置する法隆寺式の伽藍配置は、塔(仏舎利)の中心性が崩れ、金堂(仏像)の比重が大きくなっていく過渡的段階を示す平面と言われています。仏舎利は釈迦の遺骨ですから、釈迦のシンボルです。釈迦が圧倒的に重要ではなく、多様な仏が宇宙には存在する。釈迦は、そのうちの一つがこの世に現れたものにすぎない、という教義上の変化が伽藍にも投影したのでしょう。
 次に東院を訪れ、八角円堂の夢殿のほか、を真ん中に回廊が囲み、伝法堂、絵殿・舎利殿、鐘楼などをみました。が建つ。東院伽藍と呼ばれるこの建物群は天平11年(734)の建立だとされていますが、天平9年以前に存在していた可能性も示唆されています。夢殿は奈良時代前半の建物ですが、鎌倉時代に小屋組の大修理をして、日本で最初に「はね木付きの野小屋」を採用したことでもよく知られています。その後、日本のあるゆる寺院でこの方法が採用されるのです。


150501 法隆寺7


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ブータンの民話(3)

はじめに

 ドゥクユルはブータン人が自国を指して言うときの名称です。東ヒマラヤ地域に位置し、国土はおよそ46,000㎡に及びます。この内陸の王国は北と北西で中国のチベット自治区、南ではインド連邦共和国の西ベンガルとアッサムに接しています。ブータンの注目すべき山嶺の地形は、もちろん世界で最も起伏が激しい山並みの一つであり、南方では海抜高度がわずか数百メートルですが、北方では山頂が常時冠雪しています。この極端な地勢は気温と降水量の多様さをもたらしました。その結果、植物相と動物相の多様さは、亜熱帯から高山帯まで及ぶ驚くべきものです。
 この国の60万人の人口は大きく3つの生態学的ゾーンに分けられます。チベットに接する北方のゾーンは山頂が海抜7,000mを超え、人口が最もまばらなところです。この高山地域には家畜を放牧するブロクパが住んでいます。かれらは夏に羊・牛・ヤクを標高5,000mの高度で放牧し、冬になると低い地域に移動します。ドゥクパはモンゴロイドの血統で、中央ゾーンの西部に住んでいます。かれらは仏教のドゥルパカギュ派の信者です。ブータンの国名ドゥクユルは「ドゥク派の国」という意味ですが、それはドゥルパカギュという言葉に由来しているのです。ドゥクユルはまた「龍の国」にも因んでいます(ドゥクは「龍」を意味する)。中央ゾーンの東部はシャルチョクパのふるさとです。ロッサンパはネパール血統の人々で、19世紀末にブータンに移植し、インド平原から隆起した南方丘陵地に住んでいます。全人口の90%以上は、穀物栽培・家畜飼育・林業を組み合わせた自給自足農業に従事しています。
 ブータンは前2000年頃から人類の居住が始まった可能性があると考えられています。考古学的研究が存在しなかった時代にはパロ渓谷のキチュラカンとブンタンのジャンパラカンという2つの仏教寺院だけが国の初期の歴史を知る証拠でした。これらの寺院は、およそ西暦627年から649年までチベットを支配したチベット王ソンツェンガンポが建設したと言われています。ブータン史において最も重要な宗教史的出来事はスワット(今のパキスタン)からやって来たタントラ信者のパドマサンババの光臨でした。一般的にはグル・リンポチェ(尊師)として知られていますが、パトマサンババはタントラ仏教を招来し、ニンマ派(古派)によって「ブッダの生まれ変わり」と信じられています。パトマサンババがあらわれる以前、人々はアニミスト(精霊崇拝者)だったようです。その後17世紀までは様々な方法でこの地に影響を及ぼした僧や学者の活動が記録されています。
 シャブドル・ナマン・ナムギュル(1595-1651)は国家を統一し、洗練された行政と法律のシステムを導入しました。ナムギュルは二つの政治制度を設けました。一つは宗教的長としてのジュケンポ(座主)、もう一つは世俗の長であるデシです。彼はゾン(城)を建設し始めました。それは僧院を含むだけでなく、地域行政のセンターでもありました。威厳あるゾンは、今でも国中でみられますが、当時の建築技術を証明するだけでなく、優れた彫刻・絵画・フレスコ画などの宝物庫でもあります。ゾン(城)は地域行政官、すなわちゾンハの下で地方行政の中心として機能しています。2つの制度は1907年、世襲制にとって代わられました。現在のジグミ・シンゲ・ワンチュク国王は4代目の世襲王です。
 政治的理由、そしてまた近づき難い険しい地形のため、ブータンは1950年代後半まで自ら課した鎖国の中にありました。その鎖国からの解放を決めてから20~30年の間にブータンは近代化にむけて努力し、かなり発展しました。変化はブータン社会のあらゆる側面に及びました。ブータンは着実に前進することをいとわず、変化する時代に遅れずについていく一方で、自らの伝統や先祖の習慣とともに仏教の価値を支援する者として自らを位置づけました。ブータンの人々は伝統と近代化のバランスをとるという目標をとても大切にしています。この切なる願いの影響は庶民のライフスタイルだけでなく、政府の政策においても明白です。
 ブータンは1974年に観光事業の門戸を開きました。観光事業は大いに不足している外貨をもたらしはしますが、制限されています。インフラや観光施設の不足に加えて、自然遺産と文化遺産を保全しようとするブータンの努力が、観光制限の主な理由です。個人旅行者は政府の招聘状がなければブータンを訪問できません。すべての旅行者は政府が許可した旅行会社を通してブータンを訪問しなければなりません。パスポートブック社から出版されたフランソワ・ポマレのガイドブック『ブータン -ヒマラヤの王国-』はブータンに関する正確で詳細な情報を掲載しており、旅行者に強く推奨されています。
プロフィール

魯班13世

Author:魯班13世
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魯班(ルパン)は大工の神様や棟梁を表す中国語。魯搬とも書く。古代の日本は百済から「露盤博士」を迎えて本格的な寺院の造営に着手した。魯班=露盤です。研究室は保存修復スタジオと自称してますが、OBを含む別働隊「魯班営造学社(アトリエ・ド・ルパン)」を緩やかに組織しています。13は謎の数字、、、ぐふふ。

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