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メダカのスタジオ

150731門脇茶屋前  


2015摩尼寺紅葉コンサートへむけて(1)

 7月31日(金)。先生、ケントさん、テングサ、私の4名で摩尼山を訪れた。私は昨秋の「2014摩尼寺紅葉コンサート」以来の訪問である。天気は快晴、とても夏らしい一日だった。摩尼寺に参拝もしたかったのだが、3年生の居住環境実習・演習(Ⅱ)期末報告会が迫っており、門前で打ち合わせの後、大学に引き返した。
 今秋のイベントについては、すでに先生の中で構想が練り上げられており、内々に交渉も進んでいるようで、問題は日程を決めることだけが残されていた。未だ不確定要素はあるけれども、この日の結論は以下のとおりである。

  10月24日(土): 2015摩尼寺紅葉コンサート
       *超大物ミュージシャン招聘予定
       *前座として「ブータン学術調査隊報告会」

  11月 7日(土): 大雲院・樗谿~摩尼寺・砂丘 巡礼トレッキング(仮称)

 私たちはこれからイベントに間に合うよう、急いでチラシやポスター作成等の準備に取り掛かる必要がある。卒業研究の調査も夏休み中に行わなければならないので、研究室メンバー全員で協力して進めていきたい。


20150731めだか01 150731メダカ用具



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最終講義

 先週金曜日は「住まいと建築の歴史」、そして昨日(木曜日)は「地域生活文化論」の最終講義だった。最終講義には60分(超過することの多い)のレポート(BRD)を課す。先週のBRDは思いの外、点数が高く、60点満点で平均点が44点を超えた。ゼミ内では、1位が3年のキムサンコン(56点)、2位は驚いたことに4年のNobdy(54点)であった。今日のBRDはまだ採点していない。
 いつだって最終講義には哀愁がある。学生たちも同じだろうが、くじけそうになったり、すべったりして落ち込むことが教師にもある。それを救ってくれるのが一部の学生の感想コメントだ。一方で別の学生から手厳しい批評もある。しかし、それを補ってあまりあるコメントをしてくれる学生が少数ながらいるのである。この前期は二人の女子学生に何度も勇気づけられた。たとえば、平城京や法隆寺の講義をすると、多くの学生から「難しい」というたぐいのコメントを頂戴する。わたしにとって当たり前すぎる内容なのでピンとこないのだが、「嗚呼、またやってしまったか」という自己嫌悪にさいなまれる。そんなとき、この二人は平気のヘの字で、

    「今日もまた楽しい授業でした。大好きな時代です」

などと書いてくれるのである。どんなに嬉しく、勇気づけられるか、おそらくみなさんは想像できないでしょう。



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ピカソの事務所

 居住環境実習・演習(Ⅱ)の期末報告会が明後日に迫っており、ゼミでパワポの指導をしていたところに携帯が鳴った。液晶に浮かんだ名前をみて仰天。先週末から何度かパソコンメールで連絡していて、「あとで電話させていただきます」とも書き添えておいたので、昼のそば切り「たかや」で初めて電話をかけたばかりだった。電車かなにか乗り物の中のような音がした。まさか当の本人とは思いもよらず・・・

   「どうしてこの電話番号を知られたのですか」と問われた。
   「以前いただいたショートメールに番号が追記されていたもので・・・」
   「あぁ、そうでしたね、でも、もう少しメールで話を詰めてからお電話でお話ししましょう」

 たかやではそれだけの会話だった。その直後のゼミ中に電話がかかってきたので、あわてて教員室に戻り、結構長い時間通話した。良い方向に動き始めている。どうなるか分からないが、この秋もまた忙しくなりそうだ。
 




京の大和棟

0726精華町の大和棟01 0726精華町の大和棟02


 週末に163号線をドライブしていたら、不意に大和棟の民家が目にとまった。163号線といえば、鳥取と奈良の往復に毎度使う道路であり、なぜいまこうして、初めて大和棟が触覚を刺激したのか、自分でもよくわからない。
 場所は京阪奈自動車道の山田川インターに近い相和という集落である。行政上は京都府相楽郡精華町。だから、京都の大和棟なんです。大和棟の主屋だけでなく、長屋門等の付属施設もよく残っている。ただし、主屋の落棟が桟瓦葺きである点が本式ではない。奈良は古式ゆかしいところであり、大和棟のような農家でも屋根に本瓦を使う。お寺なら当たり前だが、民家の場合、全国的にみても本瓦葺きは珍しい。
 猛暑の週末だが、わたしはこの熱い夏が一年でいちばん好きなので、車を路地のたまりに停めて写真を撮った。指定・登録など、なんの対象にもなっていないから、早晩この屋根は消えていくだろう。


0726精華町の大和棟04 0726精華町の大和棟05


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摩尼寺境内建造物の総合調査(Ⅶ)

摩尼寺庫裡 正面 摩尼寺庫裡 南東01                           


庫裡の調査を再開!

 7月24日(金)。他の学生がラッキョウ畑をトレックしている間、私とケントさんの二人は摩尼寺に向かった。懸案の庫裡の調査を再開したのである。日差しの強い午後で、「水を十分に持っていくように」という教授の助言がなければ、熱中症になっていたかもしれません。庫裡については、昨年ユートさんが卒論で取り組む予定でしたが、夏休みで挫折されたそうで、今日まで手つかずの状態が続いていました。 
 庫裡は山門より内側の境内で最古の建造物であることが棟札等により判明していますが、屋根・床の傷みが激しく、調査研究も十分に進んでいません。そこで、わたしが今年度の卒業論文として取り組むことになりました。まずは立面図作成に着手しました。


150724 庫裡 北東01 北東妻側  



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寅次郎紙風船

圧縮ひろせや 1961年 ひろせや(1961)


ひろせや

 BS17の「男はつらいよ」アンコールはこの週末で第28作「 寅次郎紙風船」まで進んだ。マドンナは音無美紀子。病床の小沢昭一、哀愁を感じましたね。レンタルDVD等で、すでに全作品の視聴を終えているのだけれども、寅さんの場合、何度みてもおもしろい。ただ、その反復数には作品によって結構差がある。
 ストーリーはいつものパターンでいいんです。寅さんの演技というか、即興的に連動するコントに大笑いし、地方の風景の美しさ、懐かしさを堪能するだけで満足な気分になる。ただ、マドンナだけは最上級レベルを確保しないと作品は輝きを失ってしまうんだ。中年男が一目惚れするだけの器量をもってなきゃ話にならないわけです。できれば、2Aから3Aレベル、最低でもA+クラスの女優でないとね。ときにそうでない女優さんもいますね、はっきり言って。名前あげようか・・・やめましょうね。その場合、作品の魅力は半減する。
 最近のアンコール放送で録画を繰り返し繰り返し視たのは、第26作「 寅次郎かもめ歌」(1981)でした。マドンナは伊藤蘭。我らがキャンディーズのセンターよね。アケビの大島某とか前田某とはラベルが違います。ストーリーもよく練れている。北海道奥尻島の田舎娘(死んだテキヤ仲間の娘)が東京で夜学に通う。教師役の松村達雄がじつに効いている。松村は「おいちゃん」以外の役の方が味を出してますよね。国鉄職員の便所掃除の詩を朗読するシーンは48作中の五指に入るほど見事なものです。


圧縮ひろせや007 ひろせや側面圧縮DSC02629
↑ 「ひろせや」の側面。鉄板に覆われた茅葺屋根の部分がわかりますか? 右の写真をクリック!


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摩尼山~砂丘ミニトレイル(Ⅵ)

ラッキョウ畑 3人組み


愛の小径を避けて

 7月24日(木)。このたびの4年・院生ゼミではバス男くんのみ摩尼寺庫裡の立面図作成に着手し、先生、ケントさん、テングサ、きいと私は久しぶりに摩尼山~砂丘コースをトレックした。
 湯山集落からラッキョウ畑を経由して砂丘に至るルートを教えられていたが、事前にいろいろ情報を集めたところ、村人(おばあさん)が指示してくれたルートには「愛の小径」が長々と続くことが判明したため、湯山神社の方面へ続く旧道を迂回して海岸をめざすことにした。背面には山並みが連なり、左右には青々と育った田の稲穂が天を向いていた。道を左に曲がり、湯山神社へ。時間の湯山神社を参詣することはせず、入口の位置確認を行うだけにした。その後、梨園ゾーンを通り、道路を渡った。


0724らっきょうトレイル01山湯山01
↑出発点(山湯山) ↓旧道を迂回   右は直浪遺跡の位置表示
0724らっきょうトレイル02旧道01 直浪遺跡


直浪(すくなみ)遺跡

 高架下を通過してしばらく歩くと、Café RuRuに至るも、あいにくその日は開店していなかった。そのカフェにはバンド練習用のSTUDIO DAIRINJIも併設されていた(↓)。
 しばらく歩いていると、道脇の雑草が繁茂している場所に、一本の案内札を発見。それは「直浪(すくなみ)遺跡」の位置を示すサインであった(↑右)。以前、発掘調査がおこなわれたのであろう。。「縄文時代前期から古墳時代にいたる砂丘地の遺跡で、土器などの生活用具を多量に包含していることで知られ、西方の丘陵地からは、古墳時代中期の住居跡が発見されています」と側面に書かれていた。さらに歩く、「愛の小径」の終着点に達した。秋のイベントで、このラブラブ通りを歩くかどうか、難しい問題ですね。


0724らっきょうトレイル03ルル01 0724らっきょうトレイル03ルル02サムネイル

0724らっきょうトレイル04畑01



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ブータンの民話(12)

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満員御礼! -プロ研発表会

 発表会当日の午前2時すぎ、久しぶりにタクヲからメールを受信した。大森の町並み担当になり、修景事業にも関わり始めていて、何かと忙しい毎日を過ごしているとのこと、祝着至極ですね!
 それに対してわたしは小言を書き連ねたのでした。

   今日午前11時からプロ研の発表会でね。
   昔(私立大学時代)とちがって今の学生はなんにもしません。
   おかげでわたしが昔話のパワポ90枚の最終仕上げを
   させていただきまして・・・

 発表会の前日にがんばって資料整理したり、パワポを調整したり、発表の練習をする。発表会当日の出来よりも、この準備のほうが教育効果が高いと思っておりましたが、わたしも老けてしまって面倒臭くなり、自分で調整の仕事をしました。スライド90枚です。1時間ばかりで終わるだろうと踏んでいたのですが、なんのなんの、その作業に4時間を要しました。おかげさまで、ジムに行けなかった。
 それでも、新大学の学生諸君は素直な子が多い。半時間前に集合場所に行くと、ほとんどの学生が頭を下げて「すいませ~ん」と謝ってくる。可愛いもんですね。


0723発表会01



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大雲院と鳥取東照宮(ⅩⅢ)

20150723大師堂文殊菩薩.jpg 大師堂文殊菩薩


大師堂の仏像調査

 7月22日(水)。13回目の大雲院の調査へ出かけました。今回は3年生やほかの4年生たちはデスクワークに専念したので、私と会長さんの2人だけで調査しました。会長さんも一緒だとはいえ、学生が私しかいない調査は初めてだったので、多少の緊張はありましたが、会長さん・住職さんのお助けもあり順調に仕事を進めることができました。
 これまでの大雲院の仏像の調査は本堂の西国三十三札所観音が中心でしたが、今回は主に大師堂の仏像に焦点を当てて調査を進めました。大師堂にはさまざまな場所にあった仏像を集めています。たとえば、秋葉大権現・文殊菩薩・弁才天・地蔵菩薩は霊光院に祭られていた仏像でした。


20150723大師堂地蔵菩薩.jpg 大師堂地蔵菩薩

20150723大師堂弁才天.jpg 大師堂弁財天


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晴耕雨読(Ⅴ)

最終発表会にむけて

 7月22日(水)、ASALABの三年生は、居住環境実習・演習Ⅱの最終発表会に向けてのパワポ・スライドや資料作成を各々おこないました。石田は大雲院の平面、木村と大石は絵様と棟札の分析、武田は連続立面図の作成、浅木は鐘楼の平面図のCAD作成を担当です。それぞれの作業を行うにあたって、3年生間だけではなく、先輩や教授との連携も以前よりましてとれてるように感じられ、前回の中間発表での反省が活きていると感じます。最終発表会まで残り10日を切りましたが、良い研究報告ができるよう各自努力している次第です。(TAKETA)


居住環境実習・演習(Ⅱ)最終報告会

  日時: 7月31日(金)14:40~
  会場: 1階製図室

  1.大雲院での実習活動成果
   1-1.棟札の翻刻と分析(大石)
   1-2.絵様拓本採取と分析(木村)
   1-3.本堂の平面分析(石田)
   1-4.実測演習の成果(武田)
  2.大学裏山菜園の収穫(浅木)

マグカップ

 150722 マグカップ2


 台風11号の夜、こんなマグカップを贈呈されました。組み立て式ですよ。おまけにペアカップ。

 2ヶ月ぶりに薬研堀の茶屋を訪れましてね。痛風以後、酒は飲めません。ひたすら無糖炭酸系です。茶屋ではサントリーの炭酸ソーダでした。つまみは栄華の蒟蒻ステーキ、冷や奴、砂丘らっきょう。そこで、このマグカップを頂戴したのです。誕生日プレゼントだと言われました。わたしの誕生日は大晦日です。それが、なぜいま手元に届いたのかを書くと長くなる。7ヶ月遅れのバースデイ・プレゼントに目を白黒させた次第。

 女という生き物はモノを買いたいのでしょうね。品物をみては、自分のものにしたいとか、だれかの贈り物にしたい、というショップ欲にかられ衝動買いする。合い言葉は、だって、可愛いでしょぉ~~
 思い直してハッとする。

 もらった側はとまどうわけです。これをどこに置いたらよいのか。だれだって家庭騒動のネタにはしたくない。そんなことはプレゼンターだって分かっていたはずです。だから、今まで遅れたのか・・・じつはもっと複雑な理由があったりして・・・

 カウンターに坐って「痛風」に係わる意見交換をしていたのですが、45分ばかりして馴染み客が入ってきたので、入れ替わりで店をでた。6人掛けのカウンター席に見知らぬオヤジが何人か腰掛け仲良く話すというのがスタンドバーの楽しみ方だと店主は考えているようだけど、まっぴら御免之輔でござんす。
 小雨の道を歩いてそのまま蹴球酒場へ。こちらも台風のおかげで誰もいない。いつものペリエを注文した。ヨーロッパの炭酸水はなぜかくも美味いのでしょうか。ペリエに対抗できる炭酸水は日本にないよね?
 撫子の戦いぶりについて話がしたかったんだ。ジャイアント馬場のようなマスターは「撫子を本気で応援してたんですか?」と少々呆れたような顔でわたしに問う。性格が歪んでいる貴方のような人は、斜に構えていたのだろうという前提での質問だと当方は捉えた。

   「本気で応援してましたよ。実力は世界の4~6位ぐらいかもしれないけれど、
   あの娘たちは運をもっている、というか、何かに守られているからね。
   3大会連続の決勝進出は快挙というほかない!」

 言い換えるならば、蹴球侍(男子)を応援していないということでもあります。トヨタじゃなかった、マツダでもない。私のディーラーと同じ名前をしてるヤツがエースでいる限り応援しない。酒場の客も似たやな感覚らしい。

 プレゼントの箱をひろげ、マグカップをみせたんだな。にやにや笑って、羨んでいるようにはとてもみえない。むしろ、哀れに思って同情している。

   「これ、どこに置いたらいいと思いますか?」
   「奥さんはどれくらいの頻度で来られるんですかね??」
   「1~2ヶ月に1回かな」
   「大学は?」
   「汚いゴミ箱のような研究室ですよ・・・」
   「でも、だれにも怪しまれないでしょ?」
   「まぁ、そうだけど・・・」

 ペリエを飲み干した後、車を大学へ走らせた。マグカップはケント・スタジオのテーブルに鎮座している。


150722 マグカップ1

大雲院と鳥取東照宮(ⅩⅡ)

大雲院指図撮影


庫裡の指図

 7月17日(金)。台風11号の影響でてっきり全学休講と思いきや、警報は「大雨」だけで「暴風」ではなくなったので開講するという訳の分からない論理であり、講義(月曜差し替え分)のないメンバーで4年以上の演習をおこなった。先生、ケントさんほか4年生3人の計5名で大雲院を訪れ、おもに指図の写真撮影と本堂四天柱の蟇股および実肘木の拓本採取に取り組んだ。
 指図には、樗谿に境内を構えていたころの大雲院の庫裡(平面図)が描かれています。この復元をココアの卒業研究にすることになり、ココア本人は講義で不参加でしたが、他のメンバーで作業した。庫裡の指図は畳一帖よりも大きく、脚立の上から一眼レフ2種類を使って、フラッシュ有無に分け、全景・細部を何枚も撮影した。

 
大雲院指図全体

大雲院指図分割  大雲院指図分割② ←↑庫裡指図



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ブータンの民話(11)

ブータン発表 表紙 [吉田]浅川改訂_03


「ブータンの民話」発表会のお知らせ

 前期も期末シーズンに入り、最終講義に、発表会やら試験が目白押しです。15年めのプロ研(1&3)「初級英語で読むブータンの民話」の発表会は7月23日(木)に開催されます。
 
 2015年度プロジェクト研究1&3発表会

  日時: 7月23日(木)午前11時~(約45分間)
  会場: 13講義室
  発表題目: クンザン・チョデン著『ブータンの民話』和訳
  翻訳部分(太字の項のみ圧縮して発表): 

・王妃序文 
  Foreword by Her Royal Highness Princess Sonam Choden Wangchuck
まえがき  Preface
・はじめに  Introduction
カッコーとカエル  The Cuckoo and the Frog
ヘィレィヘィレィじいさん  Mimi Heylay Heylay
ヤツガシラ  The Hoopoe
ツォンポン・ダワ・ザンポ  Tsongpon Dawa Zangpo
・メンドリとサル  The Hen and the Monkey
ねずみのニワおばさん  Aming Niwa


ブータン発表 表紙 [吉田]浅川改訂_04 ブータン発表 表紙 [吉田]浅川改訂_05
 

晴耕雨読(Ⅳ)

野菜DSCN6346(Webページサイズ)


畑での収穫

 7月15日(水)。先生が教授会出席のため、変則的な3・4年合同ゼミになりました。まず3年3名が指導をうけて、いったん休止。そこで3年全員で裏山の菜園へ。春から栽培してきた野菜を収穫しました。シシトウ、唐辛子、ナス、パセリが良い具合に成長していました。ナスに関しては、私の手のひらよりも大きくなっていました。シシトウや唐辛子もたくさん実っていました。手分けして写真撮影や収穫作業を行いました。


居住環境実習・演習(Ⅱ)最終報告会にむけて

 7月31日(金)に居住環境実習・演習(Ⅱ)の最終成果報告会が開催される予定です。その発表に向けて、役割分担を決めました。

  日時: 7月31日(金)14:40~
  会場: 1階製図室

  1.大雲院での実習活動成果
   1-1.棟札の翻刻と分析(大石)
   1-2.絵様拓本採取と分析(木村)
   1-3.本堂の平面分析(石田)
   1-4.実測演習の成果(武田)
  2.大学裏山菜園の収穫(浅木)

 このように決まりました。畑から戻ってきてからは最終発表に向け、立面図の清書やパワーポイントの作成に時間を費やしました。


菜園DSCN6314 菜園DSCN6312


【感想】  畑に行く道中、セミの鳴き声があちこちから聞こえてきました。セミの鳴き声は耳にキーンと響くつんざく音で、夏が本番を迎えたような気がします。今日の最高気温は34℃まで上昇し、畑での作業も蒸し暑さの中でおこないました。育て始めた当初はきちんと成長してくれるかどうか心配でしたが、今日は多くの野菜を収穫することができました。大きくなった姿を見ると、なんだか嬉しい気持ちになりました。
 前回の中間発表は、先生から多くのアドバイスをいただいて臨みました。最終発表に向けて、中間発表の際に使用したスライドよりも良いものを作り上げようと思います。発表する内容は前回に比べ難しい部分もありますが、他のゼミを圧倒するような出来に仕上げたいと思います。(くらのすけ)


菜園DSCN6320 菜園DSCN6326

第2回れきまち研究会<地蔵盆を未来へ>の記録(7)

津山城東むかし町カフェ せせらぎ 津山城東


津山城東重伝建地区の空き家対策

 ○司会   閉会の時間が近づいてきましたが、第Ⅱ部で「津山市の歴史まちづくりと城東の町並み保存」と題するご講演をいただきました津山市歴史まちづくり推進室主幹の平岡正宏さんからもコメントを頂戴したいと思います。津山市からみて如何でしょうか。
 ○平岡   やはりどこも同じでして、悩ましいところは少子高齢化です。津山市においても、重伝建に選定された城東地区がまさに今そういう状態です。高齢化率も40%を超えています。空き家も多い。若者や子どもたちが減ってきて、地域の中で祭りもなかなかできなくなってきている。これという特効薬があればいいのでしょうけれども、なかなかないのが実情です。やはり、どこも同じだから、一緒に頑張らなければいけないなと認識を新たにさせていただきました。
 津山市が今一番力を入れているのは、空き家の再生です。空き家をまず重伝建の補助金で修理して、それから産業振興課の空き店舗対策で新規の店舗を開いていただける方を呼び込んでくる。開店の資金も行政が支援させていただきます。建物を修理し開店に至る資金のかなりの部分を行政のほうで補助させていただくので、どうか店をやってくれませんかと若い人に頼んでいます。そういう事業に積極的に取り組んでいる最中なんですが、なかなか思うようには進みません。ようやく今年1~2件、パイロットケース的な事業を始めました。そういうやり方で、少しでも町なかに店を増やしたい。店が開いていることによって、にぎわいが生まれ、少しずつでも人影が増すようにできないものかと悪戦苦闘しています。また勉強させていただきたいと思います。今日は本当にありがとうございました。
 ○司会  ありがとうございました。
 ○天野  すみません、一言だけ。ここにもってきているのですが、これは一昨年102歳でお亡くなりになった種子道蔵さんという河原町の長老が明治~大正時代の河原町のことを書き残された記録です。我が町の歴史を記す重要な証拠ですね。いま私たちがさかのぼって、あのときああだったこうだったと推測してもあまり信頼性がありません。なぜかというと、それを校正する人がいない。ところが、種子道蔵氏は自分の記憶に基づいてこれを残された。それをみなさんにみていただきたいと思ってもってまいりました。
 それともう一つ。あすは冬の地蔵祭、9時半から「ふれあい市」もございますし、無料のぜんざいもあります。地蔵寿司も出ますので。大鳥屋さんの隣の小倉龍一さんのお宅の1階をお借りして、ぜんざいを振る舞い、ふれあい市を行いますので、ぜひお出かけくださいますようお願いいたします。ちなみに、小倉家の「味の素」の看板ですが、味のふりがなは「あぢ」になっています。「ち」に点々のルビが打ってある。歴史ある看板です。
 ○司会  ありがとうございます。(拍手) パネラーのみなさん、ありがとうございました。不慣れな司会で申し訳ありませんでした。最後に閉会の挨拶をお願いします。



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第2回れきまち研究会<地蔵盆を未来へ>の記録(6)

円形校舎201302170642513da


明倫音頭

 ○稲嶋  明倫NEXT100の活動自体、明倫地区の地域づくり・活性化に特化しているのですけれども、NEXTで一番大事だなと考えているのは、やはり定住人口の増加です。明倫地区の中には空き家だけでも180軒ぐらいあります。そういったところに移住者を導いたり、活用できる観光資源がまだまだ少ないのですけれども、なんとか交流人口をふやしていくことでにぎわいを生み出していくのが大事だと思っています。
 そもそも、平成21年におこなった明倫小学校100周年記念事業がNPO「明倫NEXT100」の発端です。そのときにいろんな資料を整理してみると、開校当初、小学校の児童数が倉吉でも一番多かった。成徳小学校と肩を並べて大きい学校でした。それが平成21年当時で195名まで減って、今は140名です。どんどん生徒が少なくなっていく。近い将来、80人ぐらいになっていくだろうという予測も出ています。そんな事情を背景にして、明倫地区をこれから先100年残していきたい、地域住民のみなさんが幸せに暮らしてほしいという願いをこめて、NEXT100という名前をつけました。活動のなかで一番大切に思っているのは仕事探し、というか、なりわいづくりです。その一環として、ミツバチ・プロジェクトを展開しています。地域のみなさんの庭先をお借りしてミツバチを取り込み、その蜂蜜でお酒をつくって、蜂蜜酒「メイリーン」として販売を進めています。河原町の地蔵盆に直接つながっている事業はありませんが、地域の中のいろんな伝統行事は継承していきたい、いかなければいけない、と思っているので、できるだけ積極的にサポートし一緒に活動させていただきます。
 ○奥野   円形校舎ができたのは、われわれが小学生のころです。1学年400人、1年から6年までだと2400人の子どもがおった。明倫がああいう小さい場所でたくさんの生徒が勉強できるというので、文化財課に以前研究してもらったところ、全国にたくさん似たような施設が建てられていました。数が多いから当分文化財にはしないでおこうという論理になった。ところで、小学校ができたときに明倫音頭という歌も作られたんです。  

    丸い校舎を大きな輪でかこみ
    声をそろえて手を打って
    声をそろえて歌っておどる
    みんなゆかいな明倫音頭、ソレ
    長谷の仁王さんもおりてくる、ソレ
    おりてくる。

こんなところまで長谷寺との関連性があるのだなと思いました。どうぞ明倫音頭を活用してください。
 ○司会  伝統を守りながらこの町の活性化しようとそれぞれ考えておられますね。河原町・鍛冶町を活性化していく方法について具体的にお話しいただけませんか。
 ○天野  端的に申し上げれば、それができれば苦労はしないということです。できないからみんな頭を抱えているわけです。結局は意識の問題ではないか。たとえば、先ほど課長がおっしゃったように、町並みを保存すればそれでいいのか、やはりそこに住んでいる人がいて、車の両輪で動いていかなければいけない。河原町の住民が冷え切ってしまったら地蔵盆もやがては廃れる。ですから、その熱き思いを伝えていくということが大事なことではないかと私は思います。



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第2回れきまち研究会<地蔵盆を未来へ>の記録(5)


四季の地蔵祭

 ○司会  町並みのすばらしさが存続していくことをみなさん希望されています。河原町には町並みなどの有形遺産の環境のなかで、地蔵盆」という無形遺産を継承しています。倉吉市内では珍しい状況です。地蔵盆の現状と課題を教えてください。
 ○天野  いずこも同じ少子高齢化が進んでいます。とくに地蔵盆は子どもの祭りですから、子どもがいなくなればできなくなります。しかし、少子高齢化の時代にあって、地蔵盆をあえて「子どもの祭り」に限定する必要はないと考えています。地蔵盆は8月23日だけですが、地蔵祭はその日に限らない。そう認識しているのです。ここにいらっしゃる富谷さんがすばらしい提案をなさったんですね。巣鴨のとげぬき地蔵は祭りを毎月やっている。私たちも、毎月というわけにはいかないが、季間で地蔵祭をやろうではないか、と発案されまして、そういう取り組みを実際にしております。春にはまず「春の地蔵祭」を今年(2014)初めてやりました。餅つきをしたのです。若い人たちも参加してくれました。それから、夏は8月23日に第60回「地蔵花火大会」を開催しました。谷口ジローの『遙かな町』(1998)にも描かれている小鴨川土手の花火大会です。今年60回目の節目でした。それからこのたび「秋の地蔵祭」をやりました。ヴィルコッメン・ツー・オクトーバー・イン・メイリン(明倫オクトーバーフェストへようこそ)とドイツ語で書いていますが、これを秋の地蔵祭として10月18~19日に開催したのです。
 そして、明日はいよいよ「冬の地蔵祭」です。宣伝してもいいよということで、ちょっと不細工なつくりですが、パネルを掲げます。ふれあい市とぜんざいのふるまい、それから午後5時からイルミネーションを点灯します。ぜひ冬の地蔵祭にお出かけください。じつは今日の午前、私どもの種苗店の温室でアレンジフラワー教室を開き、14~15名の方が参加されました。もちろんボランティアで報酬はありません。自分がアレンジした花をもって帰ることもできません。これを商品として500円で売ろうという魂胆です。こういう集まりには、500円では買えない楽しみがあります。独居老人の方も出てこられます。金で買えない楽しみをみなさん得て帰られる。
 四季の地蔵祭以外に「地蔵ふれあい市」を毎月第3日曜日にやっています(1月と2月はお休みです)。そのようにして、地域の団結といいますか、コミュニケーションの維持を図る。ご高齢になるとなかなか外に出にくくなるけれども、80歳以上の方がふれあい市のお店番をしてくださるわけです。どんどん出てきていただいてます。そういうコミュニケーションの場にもなっています。
 いちばんの問題は子どもを主役とする8月23日の地蔵盆です。今年は中学校1年生以下の児童が5人しかいませんでした。子どもが少なくなって大変なのですけれども、河原町住民の心意気で、日にちを変えることなく、これからも8月23日にやろうということになりました。実施にあたりましては、NPO明倫NEXT100のみなさん、環境大学の学生さんのお力をいただいて、より大きな力として継続していきたいと考えておりますので、よろしくお願いします。

仏事としての地蔵祭

 ○奥野  西の地蔵さん、東の地蔵さんっていつごろからあったんですか。 
 ○司会  江戸時代です。
 ○奥野  それは町内がもっていたのですか。
 ○司会  安永2年(1774)に生田の門原源六さんが六十六部で全国を回られているのですけれども、倉吉町のために今の場所に奉納された。百万遍の法華経を唱え地蔵を建てたそうです。鍛冶町2丁目の五叉路が倉吉陣屋町の西出口なんですね。江戸時代には五叉路に番所があって、旅人を監視していた。西に行けば米子、南に行けば津山(作州)です。交通の結節点に地蔵を建てたわけです。
 ○奥野  お地蔵さんがあるということを理由に子どもが集まり、大人が集まり、一つのコミュニティーをつくろうとしているんですが、長谷寺の登り口にも地蔵堂があります。たぶん同じような時代の石仏でしょう。私が小・中学生のころは、みなさんが長い40センチぐらいの団子を串に刺して、2本お供えした。お参りした人はお供えされた1本の団子を家にもって帰る。それが地蔵の拝み方です。この団子はあそこのおばあさんがつくんなった、みそ味で塩辛いじゃないかとかなんとか言いながら、じつはだれがつくった分からない団子を食べました。結構たくさんのお団子が串に刺して奉納されていました。
 そもそも、地蔵経は子どものことはほとんど書いてありません。地蔵本願経は長いお経でして、一部しか読んでいませんけれども、地蔵さんを拝むとこんなご利益があるよという内容がたくさん書いてあります。それは子どもに対しての文章ではなくて、年配者に対するものです。いま地蔵堂で地蔵本願経を読むことはたぶんないでしょう。般若心経の一巻で終わるぐらいではないですか。長谷寺のお地蔵さんに来られる方はみんな80代です。毎年30人ぐらい元気にお越しになります、上井のほうからもね。子どもはうちの孫ぐらいしか来ませんけれども、年配者にとってはそこが一つのコミュニティーの場になっています。
 地蔵祭の意味をひろげてイベント化するのは結構ですが、仏教における地蔵信仰が本来もっていた魅力を地蔵祭の中に少しでも取り入れてもらえたらなぁと思います。たんなるイベントとしての地蔵祭ではなく、仏教の根本に立ち返る部分があってもよいのではないか、ということです。

六十六部 六十六部



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第2回れきまち研究会<地蔵盆を未来へ>の記録(4)


翳りゆく町並み

 ○司会  2つ目の柱として、河原町・鍛冶町の町並みについて御意見をいただきたいと思います。河原町と鍛冶町は倉吉旧市街地の西側に位置して、職人町と商家町として繁栄をとげてきました。鍛冶町も1丁目と2丁目に分かれていまして、街路の形なんかちょっと違うようです。町の歴史を反映しているのかもしれません。この町並みについてずっと調査されてきた浅川先生からまずはご発言お願いします。
 ○浅川  私ばっかりで申しわけありません。町並みについて私は非常に危機感を覚えています。長谷川さんたちと調査した2002~2004年ごろに撮影した写真をとりだして見てみると、建物が軒を連ねているのに、いまはその町並みが歯抜けになっています。なによりもまず言いたいのは、河原町・鍛冶町において、これ以上建物の数を減らしてはいけないということです。さらに空き地がふえていくと、重伝建とか町並み保存なんて言っている場合ではなくなります。いちばん危険な状態にあるのが茅葺き民家と一部の借家群です。あれがやられてしまったら、重伝建などもってのほかというほどの事態を迎えるのではないか。とくに茅葺き民家は倉吉の江戸時代の景観要素として非常に貴重な歴史遺産です。このあたりについて、みなさんがどうお考えなのか、お聞きしたいですね。
 ○司会  どうでしょう、文化財保護の立場から。
 ○長谷川  じつは、東側の打吹玉川重伝建地区の建造物の内訳をみると、年代的には明治が4割、大正が3割、昭和が3割という構成になっています。ご存じのとおり、明治期の洪水を記録した写真を見ると、まだ町の随所に茅葺きの民家がたくさん残っています。それらが江戸時代まで遡りうる「町家」であろうことは承知しております。こうした取り壊しの危機にさらされた町家・民家を「登録」か「指定」で救うべきという話もありましたが、倉吉市としては、単体としての建造物ではなく、町を重伝建としてくくることができれば、一つひとつに拘る必要はなくて、群としての町並み保全がぽんとできる。玉川地区のほうは白壁倶楽部(旧国立第三銀行)を重伝建の補助金等で修理をしております。そういったことを鑑みますと、私は重伝建をお薦めしたい。町ごと守っていきたいと考えます。
 ○浅川  非常に力強いお言葉で感服しました。重伝建にするというなら大変ありがたいのですが、本心を吐露しますと、河原町・鍛冶町の重伝建選定のクリアはそんなにやわいものではないという感触もあります。重伝建をめざして活動しているうちに、時間がどんどん過ぎていって、重要な建物が何棟かこぼれていくのではないかと心配しています。それを防ぐための何かが必要ではないか。別に「登録」でも「指定」でも他の制度でもなんでもいいですけれども、何かで歯どめをきかせておかないと取り返しのつかないことになりかねない。ごく近い将来に重伝建になる保証があればいですが、必ずしもそうでない場合、何か手を打っておかないと建物がまたどんどん壊れていくのではないか、そういう杞憂を抱いています。
 ○司会  町全体を保全するか、個々の建造物を点として守っていって面的な保全に展開するのか、という問題ですね。河原町と鍛冶町の歴史的町並みの魅力については、文化財課も大学も強く意識してそれぞれ心配されているわけですが、住んでおられる立場からどうでしょうか。

倉吉大店会絵双六

 ○天野  ここ数年、よそ言葉を使われる方が倉吉市のパンフレットをもってやって来られます。鉢屋川の鯉をごらんになって、「こんな大きな鯉を身近に見たことがない」と言われるのです。じつは、「鯉に餌をやって幸せになろう!」というキャッチフレーズを掲げて、鯉の餌を売っています。お地蔵さんにお参りして家内安全や恋愛成就をお祈りした後、鯉に餌をやって幸せをもらって帰りましょう。うそか本当か真偽のほどはわかりませんが、河原町の鯉に餌をやった人は幸せになれるという言い伝えがあります。鯉の餌、みなさん、何袋ぐらい売れると思われますか。
 ○(会場) 年間で3,000袋!
 ○天野  そんなに売れたらいいのですが、年間200ぐらいです。
 ○浅川  うちの研究室が来ると2袋か3袋買います、1日で。
 ○司会  池の鯉はね、冬に餌をやったら死んでしまうといいますよ。川で泳いでいる鯉は平気ですか。池の鯉は寒いときに餌をやったら、春になったらみんな死んでしまうのです。


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Sugar 07

グローブDSC_0281


 9日に石田長生(62)と菊池雅章(75)の訃報を知り、なにか書こうと思っていた翌日、相倉久人(83)の訃報までも報じられ、少々落ち込んだ。知人でもなんでもないが、同時代をいきたスターたちである。かれらの死は、自分たちの時代の終焉のステッップをまたひとつ駆け上がったような気にさせる。
 学生時代、相倉久人と故平岡正明(68)はよく読んだ。左翼系の音楽評論家とでも申しましょうか、反体制としてのジャズを論じていたが、まもなく足を洗って、ロックやら歌謡曲やらを評論するようになった。気持ちはよくわかる。晩年はまたジャズに戻っていたらしいが、何を書いていたのか、知らない。
 菊池雅章のLPやCDは1枚ももっていない。どちらかというとナベサダ派のピアニストと当方が勝手に思いこんでいて、とくにエレピなんか演奏してたりしてたから、相倉・平岡などの過激派からすれば「保守」的で「商業」的な狙撃対象であったかもしれない(真実はそうではないだろうが)。わたしもかつてはもっぱら山下洋輔を支持していたが、それは時代の気分に呑み込まれていたからだろう。
 いま山下洋輔の音楽を聞くことはない。デレク・ベイリーやジョン・ケージの音楽はまれに車のSDから流れてくるが、山下洋輔についてはすでにリストから削除しているし、いい加減フリージャズなんて辞めちまえ、と思うこともある。むしろナベサダのビッグ・バンドの映像をみて感激したりしている。平穏な時代の心地よい音に無意識のうちに浸りきっているのかもしれませんねぇ。





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大雲院と鳥取東照宮(ⅩⅠ)

150708 大雲院 大師堂 小屋組01


大雲院大師堂の小屋組

 7月8日(水)。雨続きの梅雨の日、朝から小雨が降り続いていましたが、久しぶりに倉吉から会長がやってこられたので、少数ではありますが、大雲院での調査をおこないました(先生・会長・ココア・テングサと私の5名)。残りのメンバーは大学に残って、調査資料の整理、作図作業に専念です。
 前週ゼミで卒論進行状況発表で、テングサは大雲院本堂の三十三観音像のデータベース案を示しましたが、先生の指示により、大雲院所蔵の仏像はすべてデータベースに含めることになり、会長の指導の下、米村家霊堂、大師堂などに安置されている仏像の調査にも着手しました。それはもう、片っ端からの調査です。

 先生は完成品と未成品の混在する実肘木の調査をおこなわれました。その前提として、本堂の柱配置を番付しなければならないのですが、なにぶん柱筋のずれが極端な仏堂ですので、番付できるかどうか不安でしたが、なんとかまとめられたようです。実肘木の完成品は肘木の形状だけでなく、渦の絵様が施されています。未成品は渦の絵様がなく、形状も完成品と似ていますが、粗い加工になっています。それらは以下のタイプに分類できます。

  A型: 実肘木の両側が完成品
  B型: 実肘木の片方が完成品、他方が未成品
   B1型: 左側が完成品で右側が未成品
   B2型: 左側が未成品で右側が完成品
  C型: 両側が未成品

 すべての実肘木を類型化した結果、乱雑にみえた配列にも明快な規則性があることが判明しました。


150708 大雲院 本堂 柱上端実肘木 A 150708 大雲院 本堂 柱上端実肘木 B 150708 大雲院 本堂 柱上端実肘木 C ←左からA・B・C


 私はココアと大師堂の断面図作成に取り掛かった。本堂ほど規模は大きくないため、短時間での作図が可能であると予想された。ところが、軸部を描き終えて、天井裏に上れそうな場所を探すも、外せる天井板がみつからない。大師堂中央に祭壇があり、その直上に煙出しの開口部があり、その煙出し以外では上れそうな場所はなかった。許可をいただき祭壇を移動。はしごをかけ、上ろうとするも、天井が不安定であり、一人上がるのが限界であった。結局、私が上ることとなり、実測作業を続けた。
 小屋組は本堂と同様に和小屋でマツ材がほとんどであるが、昭和に移築されているため、本堂よりも新しい部材が少なくないように思われた。また、不思議なことに、束にホゾ穴が残っているのに、肝心の貫は1本も使われていなかった。やはり移築の影響であろうと思われる。和小屋ののる梁は中央でつながれて緩い勾配のV字を呈する。これは摩尼寺庫裏と同じ構法であり、とすれば、大師堂の小屋組も幕末までは遡るかもしれない。なお、元三大師堂と御霊屋は天井裏ではつながっており、小屋組は一体であった。
 本堂より規模が小さいので、スケッチは時間内に終えることができたが、採寸は後日おこなうことになった。(ケント)


150708 大雲院 大師堂 小屋組02 150708 大雲院 大師堂 小屋組03


ことしも松原田中へ

松原田中遺跡01 松原田中遺跡02


布掘建物の地中梁と柱根を発見!

 7月3日(金)、4年生・院生ゼミでは松原田中遺跡に足を運び、現在行われている発掘調査について説明していただきました。この松原田中遺跡は、今春卒業されたユートさんが卒業論文のテーマとし、嘱託の社長さんが復原CGの制作に携わったわけですが、今年もさっそく新しい成果がもたらされつつあります。
 今年度は昨年度バラス敷きの駐車場にしていた2区と4-1区の間の3区と、2区の北側の5区を調査中です。5区の調査は早くも佳境に入り、これまでに地中梁を伴う布掘建物が3棟検出されました。うち建物規模が判明したのは1棟のみで、桁行2間×梁間1間に復原できます。しかも、地中梁の上に柱が3本立った状態で出土しており、柱はいずれも輪薙込(わなぎこみ)の反転形式で地中梁に落とし込んでいます(↓一番下の写真)。他の建物跡は柱が抜き取られ地中梁のみ残存しますが、溝が調査区外へ延びるため、一部のみの検出であり、天候不順が続いたこともあって、今回は見学できませんでした。
 見学した桁行2間×梁間1間の布掘建物は、柱間約3m、地中梁は一辺10cm前後の角材で、柱径は30㎝程度です。2013年度4区のような大型のものではありませんが、柱根が輪薙込の反転形式で地中梁に納まった状態でみつかったのは初めてのことであり、これまでの推定を実証的に裏付けた点で注目されます。


松原田中遺跡03


 布掘より出土した土器の型式は、昨年までと同様、古墳時代前期のものだそうです。いまのところ、地中梁の設置も廃絶も古墳時代前期で納まると考えられますが、地中梁年輪年代測定の結果とは200年ばかりの開きがあることも事実です。また、昨年は掘形と柱抜取穴の区別をせずに遺構検出したことが反省点の一つであり、、縦断面の地層の調査も行っているそうです(↓右)。

 多くの説明をしていただいたのですが、今年の4年生(環境学部1期生)は建築について詳しくは勉強していないため基礎知識がなく、話についていくことに必死でした。初めは難しい単語が飛び交っているという印象ではありましたが、一つひとつ詳しい説明をしていただくことで、昔どんな建造物があったのかを想像することができ、面白い分野であると感じました。ですが、あまりにも知識がなかったので、もう少し勉強しなければと。
 ここでの調査は今年の12月末までとされていて、その後は山陰道(高速道路)の高架下となるため急ピッチで発掘調査を進めていくそうです。

 訪問後はお茶をしながら、卒業論文の進行状況の発表を行いました。今週が1回目で天草くんときいくんが発表し、テーマや研究内容を共有するとともに、先生から指導をうけました。毎週2人ずつ発表していきます。私はこのときテーマの大枠が決まったのですが、発表できるまでの状態にできるのか、少し焦りを感じています。(ロン)


松原田中遺跡05 松原田中遺跡04

第2回れきまち研究会<地蔵盆を未来へ>の記録(3)

長谷寺絵馬sP292


長谷寺の絵馬

 ○司会  どうもありがとうございます。長谷寺には建造物以外にもいろんな文化財があります。とくに絵馬ですね。鍛冶町の人たちはかなりな数の絵馬を長谷寺に奉納してきました。寺の住所は成徳地区仲ノ町ですが、明倫地区の河原町・鍛冶町と長谷寺には非常に強いつながりがあるようです。文化財保護の立場から長谷川課長、つけ加えることがあればお願いします。
 ○長谷川  長谷寺に収蔵されている絵馬群は63点を数えます。享禄4年(1531)から明治までの年紀があり、いちばん古い絵馬がこのたび6年ぶりに里帰りしました。ご存じのように、天文18年(1549)の絵馬(↑)は、夜になると額から抜け出て田畑を荒らすので、住職が手綱を描き入れてしばりつけたという伝説が伝わっています。有名な「繋白馬図」ですね。「繋黒馬図」もあります。巨勢派の作品という伝承まであります。絵馬のなかに、さきほど浅川先生が紹介された天保5年奉納の「長谷寺と倉吉町俯瞰図」の絵馬(↓)も含まれています。鍛冶町1丁目からは大名行列の絵馬が奉納されています。鍛冶町と言えば刀ですね。刀鍛冶と大名行列の関係の深さを示すものかもしれません。鍛冶町・河原町と長谷寺の関係は密接でして、高田家や小川家からも絵馬が奉納されています。明治から昭和初期にかけて河原町・鍛冶町はものすごく栄えていた。そういう時代、長谷寺の観音信仰がこの二つの町を含めて倉吉中で非常に盛んであったのだろうと考えています。
 長谷寺の本尊は重要文化財の厨子の中に納められた十一面観音坐像(市指定文化財)です。本堂と仁王門は2007年に県の保護文化財に指定されております。


天保五年(1834)「長谷寺と倉吉町ふかん図」の絵馬



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第2回れきまち研究会<地蔵盆を未来へ>の記録(2)

パネラー自己紹介

 ○司会  どうもありがとうございました。続きまして、意見交換に入りたいと思います。いまの長谷川課長の発表に加えて、第Ⅰ部の学生さん(中島・岡田・藤井)の中間報告について、感想がてら自己紹介をお願いします。
 ○奥野  長谷寺の住職を任命されている奥野寛應と申します。学生さんは本当に一生懸命頑張っていますね。その成果を受けて、われわれ住民なり文化財の管理者はおおいに今後の参考にしていきたいと思います。今後ともどうぞよろしくお願いします。
 ○天野  こんばんは。すぐ近くに住んでおります種苗屋のおやじです。先ほど地蔵祭の将来について藤井さん(4回生)からすばらしいお話を聞かせていただきました。ありがとうございます。私たちの責務として、地蔵祭を未来永劫つなげていきたいと思っていますので、今後とも御協力をよろしくお願いします。
 ○福井  みなさん、こんばんは。福井千草と申します。昨年の5月からここ「大鳥屋」をお借りしていろいろイベントをやっています。今日こういうふうに集っていただいて、とてもうれしく思います。若い学生さんが先生と一緒になって本当に熱心に建造物や町並みの調査とか、地蔵盆もボランティアで手伝っていただいたりとか、若い人が町にいるのはとても喜ばしいことだと思っています。若い方がどんどん来てくれる町になったらいいなという希望をもっています。みなさんよろしくお願いします。
 ○稲嶋  こんばんは。NPO「明倫NEXT100」の稲嶋です。資料のほうには代表の稲嶋正彦となっておりますけれども、所用で来られないということで、代理ですけれども、わたくし稲嶋敏彦が参加させていただきます。学生さんたちの今日の発表を聞かせていただいて、本当に自分も知らないことがたくさんあるのだなと驚きましたし、私たちのNPOはここ明倫地区の活性化に特化をして活動をしていますが、大学研究室の取り組みも今後参考にさせていただきたいと思います。よろしくお願いいたします。
 ○長谷川  私の専門は建築でして、倉吉市教委文化財課では初めての建築系職員として文化財保護に取り組んでいます。また違う一面が文化財課の中に芽生えればと考えております。よろしくお願いします。


圧縮pdf圧縮(倉吉1220)_01


長谷寺本堂の文化財価値

 ○司会  ありがとうございました。5つぐらいの柱にわけて意見交換していこうと思います。まず最初に長谷寺の文化財価値について。長谷寺と明倫地区の関係をさきほど長谷川課長が指摘されましたけれども、長谷寺にはいろんな文化財があります。とくに絵馬ですね。鍛冶町の人たちはかなりな数の絵馬を長谷寺に奉納しておられます。寺の住所は成徳地区仲ノ町ですが、河原町・鍛冶町と長谷寺には非常に強いつながりがあると思っています。浅川先生、建造物としての長谷寺の特徴を整理していただけますでしょうか。
 ○浅川  長谷寺の本堂は年代が不明な仏堂です。本堂に組物はまったくなくて、大きな民家のような建物なのですね。何でああいう建物ができたかというと、内陣にある室町時代後期の厨子の覆屋として建てられたものだからだと思うのです。あまり立派な建造物ではないという言い方もできますが、そんなこと言ったら、民家は立派ではないのかということになりますので、本堂の文化財価値を軽視するわけにはいきません。建築年代を明らかにしようと思い、数点の本堂建築部材を放射性炭素年代測定にかけたところ、中世仏堂の平面を呈する床上部分の柱上端最外年輪資料の年代が15世紀(のおそらく前半?)に遡る可能性が高くなりました。
 文化庁は、元和年間(1615-1624)以前に建立された建造物は原則として重要文化財に指定しています。長谷寺本堂は中世に遡る可能性が高いとして県の保護文化財に指定されましたが、年代が不詳なので、国の指定対象にはなっていません。私どもは、本堂は厨子よりも古くて15世紀の中世仏堂が懸造に改装されたものだと推定しています。まだ中間報告の段階ですが、中世に遡るということであれば、当然、県指定から重要文化財に格上げすべき遺構の候補になるだろうと思っています。
 あとは、先ほど中島君(大学院修士課程)が修士論文の中間報告で述べましたが、長谷寺文書のうち「分限御改書上」(天保12年)という信頼性の高い史料に長谷寺本堂が茅葺だったことを示す記載が残っています。


  一、本堂七間四面 西南ニ壱間通り縁側有り、
    修理之義者国主因幡「守」(朱筆)殿 被相加、
    又者伯州郡中江勧進被申付候事、
    従来屋根萱葺之処、天保十子年新ニ従国主
    瓦葺ニ被致候事


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第2回れきまち研究会<地蔵盆を未来へ>の記録(1)

第Ⅲ部 食後のセッション「歴史的風致と無形遺産の未来」

 日 時  平成26年12月20日(土)18:00~19:15
 会 場  大鳥屋(倉吉市鍛治町2丁目2875)
 【パネリスト】  平岡正宏(津山市歴史まちづくり推進室主幹)・奥野寛應(長谷寺住職)・
          天野博之(河原町文化の会)・福井千草(大鳥屋=IJU大学)・稲島敏彦
          (明倫NEXT100)・長谷川智郁(倉吉市教委文化財課長)
 【司会】眞田廣幸(倉吉文化財協会会長)


小屋町から河原町・鍛冶町2丁目へ

 ○司 会  それでは、まず長谷川課長から話題提供お願いします。
 ○長谷川  河原町・鍛冶町の成り立ちから説明させていただきます。倉吉の中央部に打吹山がそびえています。打吹山麓の成徳小学校がある敷地にかつて陣屋がありました。江戸時代には、陣屋を中心に町が再開発されていったのです。倉吉市は、近代になって大きな道路を抜いていまして、当初より道の幅は変わっておりますが、おおむね町割は保持しています。図1(↓)の色の濃いエリアが武家屋敷地区です。いまの東町、仲ノ町、瀬崎町などが武家屋敷街になります。その外側の堺町、魚町からずっと西のほうまで商人街が形成されていて、その商人街の外側に職人街がありました。職人街のずっと延長線上の端のほうに鍛治町があります。鍛冶町の外側には再び商人街の河原町が遅れてできます。元禄8年(1695)には鍛冶町2丁目が「小屋町」という名で記録にあらわれ、寛永年間(1748-1750)の絵図には河原町と小屋町がみえます。この時期、鍛冶町1丁目は「鍛冶町」と呼ばれていました。明治5年(1872)には、小屋町は鍛冶町2丁目という地名に変わっています。近代になって、河原町・鍛治町1丁目・鍛治町2丁目という地名が出そろうということです。鍛冶町2丁目は職人町として、河原町は造酒屋や肥料問屋など商人町として発展していきました。


01河原町【長谷川】_01 図1


重伝建と街なみ環境整備

 図2(↓)には「打吹玉川重要伝統的建造物群保存地区(重伝建)」の当初選定区(1998)、2011年の拡大選定区、旧陣屋町をほとんどん網羅する街なみ環境整備事業促進区域を示しています。街なみ環境整備事業促進区域の建造物調査については、2002年と2004年に浅川先生にお願いして基礎調査をやっていただきました。そのときの報告書が出ていますが、市の担当者は私でした。私と先生のおつき合いはそれ以来ということになります。
 2009年度におこなわれた東京芸術大学の町並み見直し調査の報告書では、河原町・鍛冶町2丁目が歴史的風致のよく維持されているエリアとして指摘されています。文化財課としても、同様の評価をしています。
 打吹山を中心に長谷寺、満正寺、陣屋跡が点在しています。陣屋の絵図には長谷寺へ上がる「東坂」がよくでてきますが、じつは「西坂」もあります。長谷寺の西坂を下る山道はずっと進むと河原町小川家の庭園「環翠園」に出るのです。八橋に抜ける八橋往来に沿ってあった山道で、伊能忠敬等が測量したという話も伝わっています。八橋往来の左右に河原町・鍛治町の町並みができているんですね。
 倉吉市としては、歴史的な町並みを活かした持続可能なまちづくりが必要であろうと考えています。倉吉市打吹玉川伝統的建造物群保存地区は選定から15年以上経過しました。その間保存事業によって着実に歴史的景観が回復してきています。選定前に比べれば、たんに建造物や景観が整備されて観光客が増加しただけでなく、着実に「まち」の活性化へとつながってきているのです。


02河原町【長谷川】_02 図2



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バンクーバーの流し素麺(5)

 撫子のみなさん、銀メダルおめでとうございます。2大会連続の決勝進出は快挙というほかありません。ベスト8どまりと見下していた小生の予想を大きく覆しての快進撃であり、後悔と反省の時間を過ごしております。
 でもね、以下に書き連ねた杞憂は現実のものとなりました。その最終章を記して、しばらくサッカーのことは忘れてしまおう。

  エドモントンの流し素麺(2) http://asalab.blog11.fc2.com/blog-entry-2994.html
  エドモントンの流し素麺(3) http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-1015.html
  エドモントンの流し素麺(4) http://asalab.blog11.fc2.com/blog-entry-2995.html

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 ロンドン五輪の決勝はロイドにやられたの。前半開始早々に1点決められ、後半まもなく追加点を奪われた。ロイドに2点ですよ。
 その選手をフリーにしている。キックオフ直後のプレースキックで、撫子の青いユニフォームはゴール前に固まり、裏側にフリーでいるロイドをほったらかしにしていた。「危ない、あぶな~い」と叫んでいるうちに2点献上。
 選手個々の問題ではない。ミーティングで何をしていたのか。日本にとって最も危険な選手はロイド、次がモーガンだということは分かっていたはずだ。プレースキックで、この2人のマークをどうせよと監督は指示していたのか。まさか指示をだしていなかったということもないだろう。

 監督は準決勝と同じメンバー、同じ布陣(4-4-2)で試合に臨んだ。日米を同格とみている証ではないか。しかしながら、決勝トーナメントに入ってからの試合、とりわけ準決勝を冷静に分析してみれば、日米に0-4ぐらいの実力差があることは自ずとみてとれたはずだ。ただし、撫子には運と粘りがある。それで、2点差ぐらいの距離までは縮められる。あとの2点は戦略と戦術で補うしかない。鍵を握るのは、「自分たちのサッカー」をすることではなく、「早い時間での失点を防ぐ」ことだった。


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大雲院と鳥取東照宮(Ⅹ)

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絵様拓本採取など

 7月1日(水)。3年生を中心に大雲院での調査・実習をおこなった。3年2名は土蔵の立面細部の採寸、残る3年3名はケントさんの指導のもとに本堂細部の拓本採取、4年のバス男さんは庫裡の立面をスケッチ、先生は大師堂の調書をとりました。
 私は拓本採取の作業を担当しました。この作業を行う上でのコツは、先週述べられたように、「絵様でくぼんでいる境界線が鮮明に出るようこすり、それ以外の木目の部分はまんべんなくやわらかにする」ことです。このアドバイスを先輩から聞いたとき、「強い弱いと言っても人それぞれで力加減が異なるから、難しいかもしれない」と思いました。私はこの日計2回拓本を取りましたが、力加減については2回目で感覚をつかむことができました。2回目は縁から隅の側柱外側の木鼻を写すことでした。風が強く、野外作業中は紙が風でめくれてしまいました。固定用のセロテープがはがれてしまったため、手で支えながらの作業でしたが、この場合、うまくやらないと、境界線が二重線になってしまい、あやうくやり直しとなるところでした。


浅木05CIMG9959 浅木04CIMG9955 0701本堂01拓本01四天柱03


 絵様拓本採取は以下の7ヶ所です。

   ①来迎柱上虹梁(正面)
   ②四天柱上虹梁(背面↑左・中)・木鼻(↑右)・実肘木 3ヶ所
   ③側柱筋実肘木(米村家霊堂へ入るところ)
   ④正面側柱隅の木鼻
   ⑤和様仏壇高欄地覆先端

 先生によれば、私の担当した④側柱隅の木鼻がいちばん古い可能性があるが、それでも18世紀には遡らないだろうとのことです。また、それと年代的に近いのは⑤だそうです。


浅木03CIMG9954


 一方、土蔵担当者は、立面図を仕上げるために細部を再測しました。今回の主題は「軒の出」と「けらば(桁端)の出」です。「けらば」は妻壁から外側に飛び出す屋根の出をさします。ここの長さは「支(枝)」で表現します。「支」とは隣接する垂木相互の間隔です。「けらば」の出は「一枝(いっし)」とか「一枝半」などと表現します。
 私はまだまだ初心者とはいえ、拓本を取ることができました。大雲院での実習が始まって以来大師堂の立面図の作成を続けていたため、立面図以外の作業は初めてでした。今後も多くの作業を行って経験を積んでいきたいと考えております(ゆめみし)。


0701土蔵01けらば01 浅木02CIMG0025
↑土蔵けらば(一枝)

ブータンの民話(11)

7圧縮アミング・ニワ


ねずみのニワおばさん


 ダンボ・ダンボ・ダンボ、ディンボ・ディンボ・ディンボ・・・

 昔むかし、その昔。山腹に少数の家々が群をなして建っていました。柳の樹々に囲まれた、静かで、絵に描いたような村です。この村のほぼ全員が何頭かの羊を所有していましたが、すべての羊は貧しい孤児の少女が放牧していました。少女は村の羊飼いです。毎日、少女は羊たちを青々とした松林の近くにある牧草地に連れて行きました。その林には羊たちにとって十分な草と日陰がありました。羊が草をはんでいるあいだ、大きな岩に腰かけて羊毛をつむいだものです。少女は紡錘車を岩から吊り下げ、長い羊毛が巻き編まれてなめらかな糸になるのをみていました。少女はそれを見飽きることはありません。そして、いつでも自分がどれくらい長い糸をつくることができるかを確かめるために、できるだけ下のほうに紡錘車を放り落とそうとしたのです。


4-011紡錘02 4-011紡錘  ブータンの紡錘車


 毎日、少女は太陽が頭の真上にくるときカプタン(kaptang)の昼食をとりました。カプタンは蕎麦粉か小麦粉と唐辛子ペーストでできた平たい丸型のパンです。太陽が西の山並みにむかって沈みはじめるころ、少女は羊をあつめて村につれて帰ります。少女はくる日もくる日もその仕事をやりました。思い起こすかぎり、それ以前もその仕事をしていました。
 さて、ある日太陽が頭の真上にあがり、昼食の時間だとわかったので、少女はいつものとおり、岩の上に腰かけ、糸をつむぎました。そこで少女はトラス(torrath:ランチクロス)をひろげてカプタンをとりだそうとしたのですが、なにもかも手から滑り出て、丘をころげ落ちてゆきました。羊飼いはあわてて岩を発ち、カプタンをおいかけました。ランチクロスは丘をころがり、大きな岩を跳ね越えたり、樹々のあいまをすりぬけたりして、ついには丘のふもと近くまで落ちていきました。

 少女がそこにたどりついた瞬間、ランチクロスはねずみの穴に落ちてしまいました。少女はどうしようもなくそこに立ちつくすしかありません。

  「ねずみのニワおばさん、カプタンを食べてもいいけど、ランチクロスは返してちょうだい。」
  「おまえはどうして下りてこないんだい?」と即座の返事がありました。
  「どうやって下りろと言うのよ。穴が小さすぎるわ。」
  「ただ目を閉じて、まっすぐ踏み出せばいいの」とねずみは答えました。

 羊飼いは目を閉じて、ねずみの穴に足を踏み入れました。たちまち自分がねずみの家に入っていることに少女は気づきました。ねずみは同時に「夜はふけているので、あなたは今夜ここで寝たらどう?」と少女にたずねました。
 羊飼いはおどろきはしたものの、提案をうけいれました。それからねずみは、夕食は何が欲しいかを少女にたずねました。羊飼いは、

  「私はとても貧しい女の子だから何でも食べられます。
  残り物がすこしあれば十分よ。」

と答えました。しかし、ねずみは、王様にふさわしいほど豪華な食事を少女に用意しました。食後、ねずみは少女に「どんなベッドを準備したらよいかね」とたずねました。「ボロ布(きれ)で構いません」と羊飼いは答えました。

 ねずみは羊飼いのためにとても快適なベッドを作りました。少女はその夜、やわらかいブランケットにくるまれ、最上級のやわらかい綿の詰まった枕に頭をのせ、ボーデン【注1】で眠りました。少女が床につく前にねずみは警告しました。夜中に大騒ぎの音がしたり、髪の毛を触られるのを実感するかもしれないけれど、ぜったい起きてはいけないよ、と。なるほど、夜通しねずみの家では、なにかが動く物音があり、少女は髪をひっぱられるのを感じました。
 翌朝、少女が目をさますと、ねずみはすでに朝食の準備で忙しくしていました。たくさんの朝ごはんを食べた後、少女は立ち去ろうとしました。そのとき、ねずみはランチクロスを返し、それをポシェットの中におさめました。

  「家に帰るまでクロスをひろげないようにね。さあ、目を閉じて!」

とねずみのおばさんは言いました。



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エドモントンの流し素麺(3)

 fc2は一ヶ月記事をアップしないと、広告がどば~んと画面にでてしまうのです。昨夜、旧LABLOGがその状態に陥ったので、日英戦の感想はそちらにアップしました。
 今夜は今後の展望でございます。
 英国のメディアは、「日本のラッキーな勝利」であること(つまりイングランドの不運な敗北であること)を強調し、米国のメディアは対イングランドの不出来な撫子をみて、決勝は圧勝するだろうと予想しているそうです。まぁ、日英戦をみる限り、妥当な評価ではあるでしょう。
 おそらく日本球迷の多くもこのままではやられると思っているでしょうね。丸山(前回W杯のサブ・メンバー)は澤を先発させるべきだと主張している。わたしも同じようなことを考えていたが、丸山は澤をどう使うべきか、発言していない。

 イングランドにあれだけやられたわけですから、アメリカにはもっと攻められるでしょう。とくに、モーガンとロイドは天敵のような存在であり、いまの守備陣でおさえきれるかどうか不安です。アンカーをおくべきでしょうね。阪口&澤のダブルボランチと4バックのあいだに宇津木を配する。こうすれば、中央突破をある程度防げるのではないか。
 この場合、システムは4-1-4-1ですが、じつは4-3-3でもある。澤のポジションは、アギーレJAPANにおける香川のそれです。中盤の守備をしながら、機をみてトップ下にあがっていく役割。この仕事は香川より澤の方が上手いでしょう。
 澤にはがんばれるだけがんばってもらいましょう。大野は岩渕とともに切り札として温存し後半~延長に勝負をかけたい。

 というわけで、システムを触るべき最初で最後のタイミングではないか、と思う次第です。3バックも練習してきたというから、ファン・ハール型の3-5-2(5-3-2)、あるいは3-6-1(3-4-3)で入る手もあるかもしれない。
 弱気ととられるかもしれませんが、早い時間の失点を防ぎたい、というのが小生の思惑であります。
 

第3回れきまち研究会「まちの里山資本主義」の記録(7)

若桜鉄道阿部駅05


町のアイデンティティー

 ○宗元  八頭町は無関心な町です。倉吉はまちおこしも早いし、住民のこういう活動もすごい。八頭町というのは本当に無関心なところで、ようやく若桜鉄道の活性化に伴って動きがでてきましたが、反対意見も少なくありません。血税をつぎ込んで何しているのかという批判があるのです。でも、アイデンティティーがなくなったらその地域は終わりだと思っています。
 河原町の場合も、さきほど指摘された鉢屋川の鯉とか、町並みに残る古民家とか、地蔵とか、自分とこのアイデンティティーは何かをしっかりみきわめておかないと、間違えると思います。お金がかかるとかかからないではなくて、いろんなものに分散投資をしているのが現状ですね。あっちもちょこっと、こっちもちょこっとね。そんなんではその町はいずれアイデンティティーを失ってしまう。そのときそのときで、誰かが満足すればいいだけで終わってしまう。
 本当に大切なものをみきわめて、八頭町と若桜町のあの田舎で、若桜鉄道がなくなったらアイデンティティーが本当になくなってしまうのですよ。八頭町と若桜町でまったく考えが違うし、若桜の町でも町なかで考えが違うし、氷ノ山というスキー場はまたまったく違うし、みんなばらばらに投資をしている。でも、そこに人を運ぶとか、何かが集まってくるとか、みんなの風景を残すということが大事なので、いま浅川先生が言われたように、古民家だったり茅葺き屋根だったり、そこが本当に河原町とか倉吉市のアイデンティティーなのかどうかをしっかりとみきわめておくことが大事なのではないかと思います。
 ○司会   ありがとうございます。もう時間もありませんので、会長、締めてください。
 ○眞田   いつもお世話になっています。たしかに、この河原町・鍛冶町は昔から気になるところでして、非常にいいものがたくさんございます。これをみなさんと一緒にどう活かしていくかということを考えて、今後もいろんな御支援とか、またみなさんの知恵も借りたいし、できることはやっていきたいと思います。河原町・鍛冶町、明倫地区のアイデンティティーは何だろうかなと、今ふと考え込んでおりました。
 ○司会  公民館長も一言お願いします。
 ○館長  今日は本当に忙しい中、また足元の悪い中、貴重な講演を拝聴させていただきまして、ありがとうございました。簡単ではありますけれども、お礼一言で申しわけないです。ありがとうございました。


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第3回れきまち研究会「まちの里山資本主義」の記録(6)

runaDSC02576.jpg ルナ


猫はかすがい

 ○司会  宗元さんは猫か犬を飼っていらっしゃいますか。
 ○宗元  猫を飼っています。
 ○司会  私の家にも猫が1匹おりまして、家内と私の間の、何と申しましょうか、「猫はかすがい」なんですね。ぎくしゃくする家庭のもめ事も、猫一匹でにこにこ関係に変わってしまう。そういう生活をしていますけれども、猫はこの町の救世主になるかもしれない、とじつは思っています。
 ○天野  つい先日まで猫が嫌いで嫌いでかなわなかった男ですので、猫について新しいアイデアはなかなかでて来ないのですが、猫の住民票をつくって、美人の猫の人気投票したらいいなんて思ってます。うちのルナ(↑)が一番になるのはわかっていますからね。まあそんなことをこれからぼちぼち考えていけばいろいろ良いことがあるのではないでしょうか。
 ○司会  すでに猫ちゃんの手術はされているのですか。
 ○天野  はい。野良猫が河原町でも大きな問題なんです。公民館便りにも書いたのですが、河原町には野良猫問題に非常に熱心な方がいらっしゃいます。自分の家の猫ではないのに、野良猫を保護し自費を投じて、複数匹の猫に避妊虚勢手術を施しておられるのです。うちのメス猫も、飼うと決めたらすぐに避妊手術をしました。虚勢避妊手術をして、かわいそうな顛末を迎えないようにすることと、人に迷惑をかけないような飼い方をする。そういうルールをきちんと守っていけば、猫嫌いの人もやがて猫が好きになるのではないでしょうか。石を投げる人がいらっしゃるようですけれども、そういう人のなくなる世の中になれば、と思います。
 ○司会  そうですね。わたしも猫は苦手だったんですが、いまはすっかり洗脳されてしまいました。数年前、環境大学のプロジェクト研究で「地域猫」の社会問題を取り上げたことがあります。若葉台ニュータウンとかあちこちで「猫屋敷」と呼ばれている住宅を探し回ったり、土木建築業の社長が野良猫を拾い集めて十数匹、会社の1階で飼っていると聞いてインタビューに行ったりしました。その人たちはものすごく猫を愛していて、避妊手術も自腹切ってやっているのですが、外部からは「猫屋敷」などという偏見をもたれている。結果として、猫を愛して頑張っている人たちが他の地域住民から色眼鏡でみられている。そういう社会構造ができあがっています。あの壁をなんとか乗りこえなければ。


若桜鉄道阿部駅03


ジビエか命か

 ○宗元  お寺にも猫がいます。嫁が1匹連れてきた野良猫です。雨の中、箱に捨てられていた小さな猫でしたが、18歳でまだ元気で生きています。ただ、宿坊では料理を出しますので、お客さんがいらっしゃるときは絶対外に出しません。猫アレルギーの方もいらっしゃることが本当にあります。いま犬派がとても多いです。ですから、猫に特化するのは難しいかもしれませんね。猫カフェとかだったらいいかもしれませんが、なかなか動物の問題はやっかいです。
 八頭町や若桜町では、いま鹿問題で、ジビエを起こそうとしています。里山ではないけれども、鹿もまた里山資本主義的な資源かもしれません。ところが、鹿はモノではなく命ある生物です。私も仏門として議員さんに言ったことがあるのです。鹿を有効に使うのはいいけれども、資源ではなくて命なのだ、と。猫もそうですね。だから、この問題は難しいのではないでしょうか。ジビエの問題がもう一つ盛り上がらないのは、やはり鹿の目を見たら可愛いのですよ。夜の10時を過ぎたら国道29号線にいますからね。若桜鉄道は線路でよく鹿にあたるのだそうです。通り道だから。なかなかこれは難しいというのが私の本音です。命なのでね。


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プロフィール

魯班13世

Author:魯班13世
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魯班(ルパン)は大工の神様や棟梁を表す中国語。魯搬とも書く。古代の日本は百済から「露盤博士」を迎えて本格的な寺院の造営に着手した。魯班=露盤です。研究室は保存修復スタジオと自称してますが、OBを含む別働隊「魯班営造学社(アトリエ・ド・ルパン)」を緩やかに組織しています。13は謎の数字、、、ぐふふ。

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