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寅さん埴輪(4)

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寅さんの風景を求めて

 記念館をでると中庭があり、入口にむかって左側にひろい休憩室(兼パネル展示室)を設けている。テーブルと椅子がぎっしり詰まっていて、たぶんこの部屋は講演会場にでもなるのだろうと思った。広い休憩室だが、中にいたのは二人のおじさんのみ。一人は背をむけて坐っていて顔はみえないが、穏やかで低い声をしている。対面に坐った方が長い時間まくしたてるように高い声で話し続けていた。どうやらインタビューらしい。無口なインタビュアーはさておき、饒舌なほうは、そうだな、やや若返った森川信が神経質な顔立ちになったような風貌をしてるんだが、不似合いなことに、ポニーテールで長髪を束ねている。
 LABLOGの愛読者ならご存じのように、わたしはちょっとしたポニーテール馬尾)フェチなんですが、オヤジのポニーテールには興味がない。中高年男性のポニーテールとは何の象徴なのだろうか。すくなくとも、普通の会社員でないことは確かだね。大学の先生なら有りかもしれないが、実際に見たことはない。自由業・・・芸術・芸能関係の人だろうか?

  「もうね、趣味とかいう段階じゃないと思うんですよ。たんに寅さんが好きで、
  その撮影場所を訪れるっていうレベルじゃなくて、学(学問)として、こういう
  作業を積み重ねる時代がやって来ようとしている・・・」

 似たようなことを今年のゼミで学生に話したことがあるものだから、鏡に映る自分をみているような気がしてイヤになり、いったん休憩室をでたのだが、自動販売機でデミタスコーヒーを買ったあと腰掛ける場所もないので休憩室に戻った。


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 馬尾さんはよくしゃべる。寅さんの撮影場所を執拗に探し回って、自分のサイトにアップし続けているようだ。同士を求めている。ネットワークを組んで、組織的に寅さんの風景を解剖したいみたいだ。今でも、そういう仲間は各地にいるのだが、旅行気分で探し方がルーティーンになっており、甘いんだとこぼしている。自分と同じだけの執拗さをもって風景を追いかけてくれないと困る、というのだ。
 アマチュアにそこまで期待できないよね。そうだな、科研の基盤Bぐらいで資金を確保し、調査マニュアルを確定させながら研究協力者を動因してやりでもしなければ、一定の成果をあげるのは難しいでしょう。ところが、そういう「調査」の成果はあまりおもしろいものにはならないんだな。学術風ではあるけれども、無味乾燥の典型に陥る危険性がある。一人でこつこつやれる範囲のことをやればいいんだ。


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寅さん埴輪(3)

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寅さん埴輪

 展示の最後に、寅さんが帽子をかぶっている写真と埴輪の写真が横並びになっているパネルがあります。そうか、山田洋次監督は埴輪の帽子をモデルにして寅さんの帽子をデザインしたんだ・・・と気楽にパネルを読み始めて、仰天した。あまりに強烈な記事なので、ここに転載させていただきます。まずは山田洋次監督の感想から。

「寅さん埴輪」について思う
 正倉院に保存された戸籍帳によると、今から約1,300年前の奈良時代、この柴又の地に「トラ(孔王部刀良)」という男と「サクラ(孔王部佐久良売)」という女がいたそうです。なんたる偶然かと、ぼくは苦笑したものですが、今回寅さんと同じ帽子をかぶった珍しい埴輪が発掘され、顔つきがどことなく似ている上にその日は渥美清さんの命日だと知ったときには驚きました。
 ぼくは霊魂などは信じない人間ですが、ここまで偶然が重なるとなにか不思議な気分にとらわれるのです。はるか昔、万葉の頃に生きていたトラさんという強烈な個性の持ち主が、ぼくに命じて寅さんを主人公にした映画作らせたのかもしれませんね、もしかして!    山田 洋次


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 埴輪についても下の方に解説してあります。

柴又八幡神社古墳
 柴又八幡神社古墳は、古墳時代後期の6世紀後半、今から1400年以上前に築かれたものです。(略)
 葛飾区郷土と天文の博物館では、東京低地の古代をさぐるべく地元の協力をえて、柴又八幡神社古墳の学術調査を博物館考古ボランティア「葛飾考古クラブ」とともに平成10年度から行ってきました。
 写真は、帽子をかぶった埴輪の頭部破片で、このような埴輪は、東京湾湾岸ではきわめて珍しく、学術的にも重要な資料です。この埴輪は、平成13年度の第5次調査の際に出土したもので、出土した日は奇しくも渥美清さんの命日の8月4日でした。


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 どうですか、みなさん、開いた口がふさがらないでしょう。たんなる偶然では済まされませんよね。不肖、私の父イチ太郎が11月11日になくなった、というレベルではありませんわ。
 柴又の地霊と化したアナホベノトラとアナホベノサクラメが山田洋次・渥美清・倍賞智恵子の3名に憑依したのかもしれません。【続】


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寅さん埴輪(2)

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映画セットのオーセンティシティ

 河川敷と土手を歩き、「寅さん記念館」へ。寅さん記念館と山田洋次ミュージアムが道路に相対して建っています。
 さて、文化財を専門の一つとする身ではありますが、私、博物館や美術館のたぐいがあまり得意ではありません。ガラスケースの向こうに遺物・宝物が陳列され、読みにくい展示解説がしてある。休みの日まで勉強はこりごりだ。勉強よりなにより、ミュージアムショップで図録とグッズを買い、カフェで休憩したいのね。博物館より町歩きの方が100倍楽しい・・・と言いながら、写真をパチパチ撮る以外は、やはりカフェでの休憩を求めている。否、よいカフェを探しながら町並みを彷徨っている、と言ったほうがいい。


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 「人生はお茶の時間のためにある」というモットーの下、博物館展示を走馬観花してきた私が「寅さん記念館」には心酔し、ずいぶん長居をしてしまいました。映画のセットとは凄まじいものですね。考古学とか考現学とか、偉そうに学問づらして詳細な実測図をとり、ジオラマをつくる。そうした仕事をこなしてきたし、見てもきました。しかし、そがいなもの、映画のセットに比べればアマチュアの仕事でしかありませんね。これだけ写実的な空間に仕立て上げる大道具・小道具さんたちの能力というか、力量はなんなんだ!? いったいどれだけの調査をし、なにをどうしてこういうセットを作り上げてしまうのでしょうか。
 このセットで「男はつらいよ」全48話が撮影されてきたのか、と思うと、まさに感無量でありました。


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↑渥美清の階段芸は見事の一言。 


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寅さん埴輪(1)

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よろめきの柴又

 週末の関東出張、いきなり羽田のモノレール切符売り場の段差に躓いて足を挫いてしまい、なんと申しましょうか、アキレス腱固めか、スピニング・トーホールドか、ヒールホールド並みの激痛が走りました。上野のホテルにチェックインし、食事にでかけた帰りに薬局に立ち寄り、サロメチール臭い安価な古典的湿布薬を買って足首に貼り付け、靴下でホールドしたのです。つまり炎症を冷却させるべく努力した。
 ご存じのとおり、私の制服はモンベルのアンダーシャツとベスト、靴はカジュアルシューズのかかと部分を踏み砕いて使っています。ああいう恰好ならこの傷害はおこらなかった。学外の会議に出席するというので、入試面接官のごときジャケットを羽織り、足に革靴を履いた。この結果、段差に躓いたわけですが、炎症発生後も、革靴は患部にぐいぐいくいこんできます。


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 こんな状態で、翌朝、上野公園を一周したの。なんでかというと、京成電鉄上野駅に行きたかったからです。分かるでしょう? 懲りもせず、またしても葛飾柴又をめざしたわけです。
 前回の訪問から半年半月が過ぎている。あのときは時間がなくて、40分ばかり参道を歩き、とらやで草団子を食べ、Tシャツやら腹巻きやら買い込んだんですが、写メしか撮れなかった。今回は重た~い一眼レフを首にぶら下げての本格的な視察でありました。


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 12時過ぎに柴又に着いて、まずは昼飯を食べることに。柴又と言えば川魚料理が有名です。「男はつらいよ」でも鰻丼の出前を頼む場面がなんどかでてくる。でも、やっぱり高いねぇ。鰻丼も鰻重も鯉のあらいも高い。おまけに、高タンパクで痛風にわるいから、あっさり諦めて、好物の蕎麦屋へ一直線。そば処「やぶ忠」が参道の奥の方にあります。団体客で賑わっておりました。何を注文したかって? もりの大盛りに決まってるでしょ。とらやでもそうでしたが、この店の壁は寅さんのポスターだらけ。いや、嬉しくて、写真をばんばん撮りました。


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↑とらや。今回は入りませんでした。


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上方往来を描く-用瀬宿の町並み(3)

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背戸川沿いの町並み

 10月20日(火)は、上方往来の裏通りにあたる背戸川沿いの町並みを描きました。本来、土蔵が軒を連ねる蔵通りであるはずですが、多くの建物が撤去されており、歯抜け状態になっています。それでも、ここがいちばん人気スポットだそうで、大きなカメラを携えた写真家がよくやってくるそうです。
 話を聞いた古老(さして年齢は変わらないけど)によりますと、子どものころは鮎、ハエ、フナなどがたくさん泳ぐ川だったそうです。いま魚はあまりいなくなってしまいましたが、用瀬の背戸川は川幅がひろく、流れが急でして、ひょっとしたら、もう少し淀みのある小川のほうが魚は棲みやすいのかもしれません。しかし、波を立てて川下に急ぐ背戸川の清涼感はたいしたもので、伝統的建造物群にはならないかもしれませんが、歴史的風致としての価値は十分高く、こういう風情を保全する行政的な手段を工夫する必要があるでしょうね。いつか河原宿や用瀬宿が「上方往来・背戸川の風情」などという称号を授与され、景観保全の対象になったりしたら、学生たちの描いた連続立面図は重要な資料になるでしょう。


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 さて、今年の演習の特徴は、コンベなどの測量器具をいっさい用いず、すべて歩測と目分量でスケッチしたことです。実り大きな試みでした。コンベや高さ測り機があると、採寸に時間をとられ、肝心のスケッチがいい加減になってしまいます。適当に寸法をはかって写真を撮り、演習室で仕上げるよりも、現場で良い図を描くことがなにより重要です。メジャーを使わず、身体感覚で建物をとらえることはとても大切な作業であることを教える側も再確認できました。
 では、今回の成果も南から分割して掲載します。


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↑↓妻入と平入の土蔵が入り混じっています。
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上方往来を描く-用瀬宿の町並み(2)

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上方往来の連続立面図

 毎年、2年次の居住環境実習演習(Ⅰ)で町並みの連続立面スケッチを作成してきましたが、今年は上方往来の中継点、用瀬(もちがせ)をフィールドにすることは「上方往来・用瀬宿の町並み(1)」で報告したとおりです。
 以後、ばたばたばたの連続でレポートできませんでしたが、活動の足跡は以下のとおりです。

  10月13日(火): 用瀬宿上方往来の町家スケッチ(27名)
  10月20日(火): 用瀬宿背戸川沿いの土蔵等スケッチ(27名)
  10月27日(火): 雨天のため、智頭宿石谷家住宅の見学(28名)
  11月 4日(火): A~D班に分かれ連続立面図貼り合わせ(28名)


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 居住環境実習演習(Ⅰ)を始めて3年目ですが、今年の2年生がいちばん真面目に取り組み、いちばんよい成果物を提出してくれました。指導していて爽やかでした。背戸川の急流がみなの気持ちを浄化したのかもしれません。公立大学になって3~4年経過し、教育する側も、ようやく授業を楽しめるようになってきた。それを実感しています。
 以下、北から南にむけて3分割した連続立面図です。


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樗谿グランドアパート

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進駐軍が妄想した南方のバルコニーかも?

 11月20日(金)、先生ほか計4名で樗谿(おうちだに)グランドアパートを見学しました。この建物は「県民の建物百選」に選定されており、昨年(2014)鳥取市が建造物調査をおこなっています。今回の訪問では、調査した一級建築士の方と市文化財専門員の方にご案内いただきました。
 樗谿グランドアパートは昭和2年に着工、同5年(1930年)に竣工しました。その後、増築・改修をなんどか繰り返し、いまは織物デザイナーのアトリエとして増築部分が使われています。上の写真の向かって左が昭和5年の当初部分で玄関とバルコニーに擬洋風の意匠が集中しており、落棟を隔てて、右の増築部分は1階ベランダに立つメキシカン・オーダーの柱が印象的です。

 グランドアパートの歴史的価値は、まず①擬洋風の意匠が重文「仁風閣」に次いで古いものである点ですが、②それが終戦後、進駐軍の駐留住宅として利用されるにあたって増築・改修がなされている点です。上に述べたメキシカン・オーダーの部分が進駐軍滞在のための増築部ですが、あえてメキシカン・オーダーを使ったのは何故か、と先生は問われていました。『鳥取の近代化遺産』報告書(1998)にメキシカン・オーダーという用語がつかわれているのですが、この本の編集に関わられた先生でさえ「メキシカン・オーダー」という柱頭様式のことがよくわからないそうで、類例もよく知らないそうです。帰学後、ネットで検索してみましたが、たしかに解説や類例をみつけることはできませんでした。


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 ただ、椰子の葉を思わせるだらりとした(ややだらしない)柱頭デザインは南の温かいリゾート地を連想させるものであり、当初・増築の全体にあしらわれた粗い吹付の壁意匠もまた南方の荒壁をイメージさせるものではないか、というのが想像をたくましくされた先生の感想ですので、ここに紹介しておきます。とすれば、進駐軍の軍人たちはマイアミとかメキシコのリゾート地にたつバルコニー建築を意識してグランドアパートを改装した可能性があるでしょう。かつてダンスホールとされていた正面中央の洋室の壁にはフレスコ画風の半裸美女が描かれており、こちらも南方のリゾート地を彷彿とさせます。


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 さて、玄関から入っていくと待ち受けているのは、木製の螺旋階段です。これもまた仁風閣をイメージさせますが、じつは先行して存在した病院から寄贈されたものだそうで、「いわくつきの階段」と俗称されています。玄関の右側の洋室は当初の洋式天井がしっかり残っています。戦後はダンスホールとされ、裏側の和室と一体化されていたのだそうです。
 建物の平面は1・2階とも表側と裏側に分かれており、表側が洋室、裏側が和室になっています。裏側の和室は欄間・床の間などがおかしな意匠になっているところもあり、進駐軍の趣味がでているかもしれないみたいです。


1120グランド05螺旋002 1120グランド05螺旋
↑螺旋階段  ↓織物アトリエ(増築部分)
1120グランド06織物01


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摩尼寺墓地の調査

歴代住職の墓石 場所


 11月18日(水)のゼミで、バス男くんの摩尼寺庫裏展開図・立面図に測り漏れのあることがわかり、急ぎ補足調査をすることになりました。摩尼山の記念物登録をめざすわたしの論文でも、門前墓地の調査がでていなかったので、二人あわせて19日午前9時より摩尼寺に赴きました(ケントさんが車で送ってくださいました)。


継子落としの滝 継子落としの滝2


継子落としの滝

 今まで何度か「継子落としの滝」をみつけようと試みていましたが、今回ようやくその場所を確認できました。摩尼寺関係資料では「継子(ままこ)落としの滝」と書かれていましたが、ネットでは「児落(こおとし)の滝」とあります。その滝の場所は、国道9号線から摩尼寺へ至る坂道を登り、高架橋をくぐった先の摩尼川岸右側です。その滝の周りには、資料と同じように、石仏が安置されており、ヒアリングとの整合性からみても、「継子落としの滝」であるのは間違いないと思います。門前からかなり遠い位置にあるので、字単位での登録を構想している関係上、摩尼山と一体的な資産登録は難しいかもしれません。


2代目栄春の墓石 2代目栄春墓


摩尼寺 歴代住職の墓石調査

 摩尼寺住職の墓地は門前の東北対面にあります。大雲院=鳥取東照宮の成立した17世紀中期以降、18世紀の初めまで、大雲院の住職は高齢になってその職責を引退して後、摩尼寺の住職になり、摩尼寺で一生を終え、摩尼寺の墓地に埋葬されました。墓地の表側に大きな墓石が集中して立っていますが、さらに奥へと続く道があり、少し気になってその道をと進んでみると、数十基の小ぶりの墓がありましたが、明治や昭和のものが大半でした。
 墓石の年号を調べました。明治、昭和など近代のものと、文化、安和、安永、明和、享保、天明、寛政、享和、文政、寛保、嘉永など江戸時代のものもたくさんあります。


3代目廣海の墓石 3代廣海墓


 田尻住職作成の「大雲院年表」によると、元禄3年(1690)に大雲院二代栄春が荒廃していた摩尼寺の復興に着手したが、明暦3年(1657)死去し、摩尼寺に埋葬。三代廣海も延宝2年(1674)に摩尼寺で死去し、埋葬。元禄2年(1689)四代観海が大雲院から摩尼寺に隠居して、30年がかりで堂舎・仏像などの整備を進め、享保3年(1718)に死去したようです。今回の調査で、二代栄春、三代廣海、四代観海の墓石を確認した。檀家のないことで知られる摩尼寺だが、『因幡志』の著者、小泉友賢の墓もこの地にある。特別な人物のみ埋葬することを許したのだろうか。
 これらの墓石にはまだ読み切れないところもあるので、撮影してきた写真を精査し、摩尼山資産構成範囲図に活かしたい。(Norbody)


4代目観海の墓石
↑4代観海墓 ↓裏に淳光院(大雲院の旧名)の文字を刻む墓石
裏に淳光院の文字のある墓石

秋のブータン食祭り(3)

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1年のブータン料理

 1年生が担当したケプタン(蕎麦粉のパンケーキ)については、以前に報告しましたが、そのレシピを示しておきます。

ケプタン(khur-le)のレシピ
(Punap Ugyen Wangchuk Authentic BHUTANESE COOKBOOK, 2010)
 【材料】
  そば粉 7カップと2分の1
  卵 5個
  塩 スプーン1杯と2分の1
 【作り方】
  そば粉と卵を混ぜて、適度なかたさの生地を作るために、若干の冷水を加える。
  あなたが選んだ器具を使って、パンケーキと同じような方法でクレを作る。


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日本風そば粉のパンケーキのレシピ
 【材料】
  A(そば粉400グラム ベーキングパウダー大さじ2杯と2分の1 
    塩小さじ1と4分の1 砂糖大さじ5)
  卵 5個
  豆乳 1L
  水 250ml~500ml
  サラダ油 少々
 【作り方】
(1)ボウルにAを入れ、泡立て器でよく混ぜる。卵と豆乳を加えてよく混ぜる。卵と豆乳を加えて混ぜ、水を徐々に加える。フライパンに自然に広がる硬さになるまで調整する。
(2)フライパンを温めてサラダ油をひき、(1)の6分の1を流しいれ、中火で両面を焼く。同様にして残りを焼く。
 *食フェスタのケプタンはどちらもそば粉を300gの分量にした。


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↑ブータン赤米のみ3合
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↑若桜つくよね白米3合+ブータン赤米2合
*赤米のくせがあまりなかった。3年前はもっと強い匂いがした。


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秋のブータン食祭り(2)

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2年のブータン料理

 11月19日(木)4限、私たち2年生は、保存修復スタジオ内でエマダッツィを作りました。エマダッツィは、日本人に食べやすい日本風とオリジナルのブータン風の二種類を作りました。前日までに試作していた段階で、辛さが足りないという意見が出ていたので、当日は唐辛子の量を増やしました。


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 イタリア風の見栄えでしたがとてもおいしくできあがり、周りの学年の人たちからの評価も高かったです。1年生の料理はケプタン(そば粉のパンケーキ)で、いちばん最初に食べ始めたときには少しずつでしたが、激辛料理を食べ始めると、その辛さを和らげるためにいっせいにケプタンに群がっていました。


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 3年生のエマダッツィは全員一致で辛すぎると顔をしかめていました。あれだけ唐辛子が入っているのですから、予想以上に辛く、のどが締め付けられるようでした。他にも麻婆豆腐は後からくるからさが特徴的でしたが、先生が焚いてくれた赤米ご飯とともに食べると絶品でした。ブータン農家手作りの焼酎アラックも舐める程度に飲ませていただきました。私には少し酒精度が高く感じましたが、沖縄出身の学生は「泡盛より飲みやすい」と感想を述べていました。
 ASALA上級生のみなさんも優しくサポートしてくださいまして、初対面にもかかわらず楽しい時間を過ごすことができました。
 ありがとうございました。(環境学科2年O.F)


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秋のブータン食祭り(1)

秋のブータン食フェスタ!!_01


3年のブータン料理

 11月19日(木)。ついに「秋のブータン食祭り」が開催されました。今回のフェスタは、1・2年生のプロジェクト研究の一環として企画されたものですが、ブータン調査を経験した上級生を巻き込んでいるため、先生はプロ研直前の講義「歴史遺産保全論」(3年以上を対象)は、いきなり上のスライドから始まりました。じつはスライドの番宣だけではありません。わたしは秘かにオーバージャケットの下にブータンの民族衣装ゴをまとっており、先生の紹介にしたがって教壇まで歩み寄り、エンジのコスチュームを履修生(79名)の前で披露したのでした。


フェスティバル画像③ 


 先生が解説されます。

   「これがチベット仏教ドゥック派、つまりブータン仏教の色彩です。」

 さらに、上のスライドの「民族衣装のダンスあり」を強調しながら、

   「この人、酔っぱらうとすぐに踊り始めますんでね、乞ご期待!」

 この番宣の甲斐あってか、麗しい2名の女子学生(他ゼミ)もフェスタに参加してくれました。


フェスティバル画像⑦ フェスティバル画像⑤


 本場ブータンの味を知るくらのすけと私を始めとするASALAB3年ゼミ生も、本場の味を1・2年生に体感させるべく、今回の食フェスタに参加しました。我々3年生は以下のメニューを用意しました。

   ・激辛エマダッツィ(↓左)
   ・ピリ辛ケワダッツィ
   ・激辛麻婆豆腐
   ・ブータン風ピリ辛おつまみ


フェスティバル画像④ フェスティバル画像②
(左)エマダッツィ。ブータン唐辛子、八東唐辛子をバターで炒め、ヤク牛チーズを絡めます。(右)ピリ辛おつまみ
フェスティバル画像①
手前がケワダッツィ、奥がエマダッツィ。



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第5回れきまち研究会のお知らせ

 一昨年は長谷寺と打吹山、昨年は鍛冶町・河原町の町並みと祭礼を調査研究してきました。今年度は、旧市街地に点在する茅葺民家に焦点をあてた町並み研究と小鴨川外周域に点在する古代史跡群(伯耆国庁・伯耆国分寺・法華寺畑遺跡等)及びその周辺に展開する農地景観の保全に関わる研究を進めています。こうした活動の中間成果を報告するとともに、「遺跡整備と復元建物」「建築考古学」「文化財と地域振興」についてひろく討議する研究会を下記の日程・会場で開催します。

 第5回れきまち研究会
  「倉吉小鴨川外周域の史跡と文化的景観の保全」(仮題)

   日時:  2016年1月16日(土)11時~15時
   会場:  医食同源「さとに千両」
        〒680-0935 鳥取市里仁312-1
         http://satoni.jp/ ℡0857-50-0613
   司 会: 中原 斉(鳥取県埋文センター所長)
   参加者: 浅川 滋男
        県内(眞田・茶谷・浜田・佐々木)
        県外・島根(松尾)
        県外・近畿(真鍋/空間文化開発機構)
        研究室OB(岡垣・岡野・檜尾・中島・清水他)
   記録・事務局: 公立鳥取環境大学保存修復スタジオ
             hozonshufuk@yahoo.co.jp

 原則としてクローズドのセッションですが、参加希望者があれば受け入れます。事務局までご連絡ください。
 

「秋のブータン食祭り」にむけて(3)

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明日いよいよ「秋のブータン食祭り」!

 11月18日(水)。明日4限から開催予定の「秋のブータン食祭り」に向けて最後の準備をおこないました。
 まずは「ケワダッツィ」と「エマダッツィ」で使用する材料の準備から。明日は先生の3限講義講「歴史遺産保全論」終了後すぐに炒め物ができるように、あらかじめ材料を切っておきました。
 また、ブータン調査最終日のホテルで調査班が食したおつまみを再現すべく、大豆とピーナッツを、唐辛子とブータンで購入した辛み調味料で炒めてみました。これが美味しい。唐辛子が入っているため当然辛いですが、病みつきになる辛さと味付けでした。調理した3年ゼミ生で好評だったので、そのまま明日の分も作り置きすることにしました。その完成品を先生にも試食してもらいましたが、評判は上々です。


1118 ブータン料理試作 02


 明日はいよいよ「秋のブータン食祭り」の本番です。3年ゼミ生は「ケワダッツィ」と「エマダッツィ」、ブータンの唐辛子を使用した「麻婆豆腐」を調理します。また、1年のプロジェクト研究受講者がケプタン(そば粉でつくられたパンケーキ)を持ってきます。また先生が現地の赤米を炊き、その米と現地のそばの乾麺を使用して松茸入りそば飯を調理します。
 おいしい料理を満喫しましょう! (ゆめみし)


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↑再現されたピリ辛ピーナッツ


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続・奇跡の発見

01圧縮2015_11_14浅川先生現地指導 (18) 記者発表


記者発表から現説まで

 片貝家ノ下遺跡の現地説明会は14日(土)・15日(日)両日午後開催された。わたしは14日午前9時に現場入りし、さっそく遺跡をご案内いただいた。注目の埋没竪穴住居SI3については、まず断面に残る黒色土層の勾配に目がいった。向かって左(東側)の勾配は45度に近く、常識的には草葺き屋根の傾斜角である。ただし、向かって右(西側)の勾配はやや緩い。これについては、断面ラインが住居を半分割する東西軸から振れているためであろうと教えられた。担当者によれば、屋根勾配はさらにきつくなる可能性が高いという。
 黒色土層をわたしは草葺きの垂木の痕跡であろうと解釈した。厚さが10㎝程度で、しかも、黒色土層上面のところどころに突起が残っており、それは垂木上の木舞の痕跡であろうと思ったのである。さらに一部には、その上にもう一層の黒色土層が重なりあっている部分があった。それは草葺きの痕跡ではないか、と今のところ推定している。


00圧縮2015_11_14浅川先生現地指導 (15) 現説


 秋田県埋蔵文化財センターはこれらの出土状況を土屋根の痕跡としてとらえ、すでに記者発表していた。全国の焼失竪穴住居を視察し、大半のケースを「土屋根」だとわたしは解釈してきた。もちろん、それなりの根拠がある。焼失竪穴住居の場合、

  1)垂木などの炭化した構造材
  2)屋根下地と推定される炭化物層(西日本の弥生住居では茅が多い)
  3)屋根土の層

がセットで検出された場合、その蓋然性が高まる。片貝家ノ下遺跡は「焼失竪穴住居」ではないから、この3原則が必ずしもあてはまる必要はないのだが、今のところ、明瞭な「屋根土の層」が確認されているわけではないし、屋根勾配45度は、土屋根(もしくはその下地)として想定し難い数値である。また、一般的に土屋根の厚さは均一ではない。頂部で0~10㎝、周堤に近い底部で30~40㎝を測る。ところが、SI3の断面に残る黒色土層は厚10㎝前後でほぼ均一であり、2層構造になっているところでも厚20㎝程度であり、これを屋根土とみるのはやや難しいように思われる。


00圧縮2015_11_14浅川先生現地指導 (14) 現説


 この問題を考えるにあたって重要な意味をもつのは、昨日も指摘したように、降下火山灰であろう。①降下火山灰が火熱を帯びていた場合、屋根の葺き草は焼け、垂木や木舞は炭化するであろう。②土屋根であったなら、屋根の木材等は炭化せず土壌化し、土屋根の層は明瞭に痕跡を残したであろう。降下火山灰が火熱を帯びていない場合、③屋根の木材等は炭化せずに土壌化し、土屋根ならその層を残し、草屋根なら消滅したと思われる。こうした降下火山灰の問題は、私の力量の及ぶところではなく、火山灰の専門家に解釈を委ねたい。


ブログ01片貝家の下遺跡見学会資料_04 現説資料より


 わたしはあくまでも、建築考古学の立場で意見をのべるしかない。繰り返しになるかもしれないが、

  ①45度を超える屋根勾配
  ②黒色土層の上面に残る木舞状突起の痕跡
  ③2層構造の場合、炭化した葺き材の堆積層と推定される丈(せい)の短い黒色層
  ④明瞭な屋根土層が未だ確認されていない点
  ⑤斜めの黒色土層が周堤にさしこまれ、それら全体を降下火山灰(草屋根?)の層が覆っている点

などを勘案した結果、記者発表と一般来場者用の説明の両方において、「草葺きの可能性が高い」と発言した。


ブログ02片貝家の下遺跡見学会資料_04 現説資料より


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奇跡の発見

1114片貝家の下05


屋根の形状を残す埋没家屋

 先週の水曜日だから、11月11日の父の命日だったんだな。ゼミ終盤の時間に携帯電話が鳴る。ゼミと言っても「秋のブータン食祭り」の準備中だったので、知らぬ番号だが電話にでた。秋田在住の若い考古学者からの連絡であった。その研究者が送ってくださった11月6日付けの新聞報道を下↓に掲載する(クリックすると画像が拡大します)。


秋田魁新報1106_片貝家ノ下doc 秋田魁新報11月6日


 火山灰で覆われた10世紀の建物跡に屋根の痕跡が残っている。その屋根は地面に崩れ落ちたものではなく、ほぼ原位置で3次元的に形をとどめているという情報に仰天した。衝撃的な発見である。それから電話とメールでなんどかやりとりが続き、まもなく鳥取と秋田の県埋文Cもまきこんで、あれよあれよというまに、週末の現地説明会にあわせて秋田へ飛ぶことになった。


1114片貝家の下10池田01 プレハブにて


 11月13日(金)、正午の飛行機で羽田へ。半時間のトランジットで秋田へ飛び、片貝家ノ下遺跡のある大館市まで空港から2時間半車を走らせた。秋田は懐かしい県である。今から25年前、日本最初の「近代化遺産調査」をおこなったのが秋田県で、その調査担当者がわたしだった。秋田県教委の担当者は池田さんという博学無比の歴史家であり、かれの導きで1週間×5回の調査を実施し、報告書を刊行した。わたしが34歳、池田さんは45歳であったと記憶する。大館までの車内で、わたしは近代化遺産調査の想い出ばかり話していた。運転された小林所長(埋文C)から、池田さんが14日の現説に来られることをお聞きし、気持ちが引き締まった。上の写真↑は14日(土)午前の控え室での記念撮影である。


1114片貝家の下06


片貝家ノ下遺跡

 大館市の片貝家ノ下遺跡は、工業団地造成の事前調査(試掘)でみつかった。今年度の試掘により、シラス洪水前に廃絶した家屋とシラス洪水で覆われた埋没家屋の両方があり、集落は少なくとも二時期にわたって続いたことが明らかになっている。シラス洪水に襲われた遺跡は、米代川とその支流に沿って点在しているという。片貝家ノ下遺跡は、米代川支流の旧引欠川岸に形成された自然堤防上に立地する。標高58m。ここで平安時代の竪穴住居跡が10棟以上発見され、そのうち3棟は、915年に噴火した十和田火山の火山灰(To-a)が火山泥流となって押し寄せたシラス洪水の堆積物で2m以上も埋もれていた。いわゆる埋没家屋である。
 この埋没家屋の1棟(SI3)が屋根をほぼ原位置に残した状態で検出された。焼失竪穴住居跡で屋根の構造材が床面に崩落してみつかる例は多々知られているけれども、屋根が当初の勾配を維持しつつ、3次元的に姿をとどめる例は知られていない。全国初の発見である。


1114片貝家の下01 
↑SI3の東側断面。周堤は凹んだようにして残っている。傾いた黒色の層が垂木、それを覆う降下火山灰の層は周堤の上までひろがっており、草屋根の痕跡のようにみえる。



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窯元を訪ねて(2)

151113 薪をくべる職人さん 151113 温度計


 11月13日(金)夕方、一昨日ゼミの時間に下見した因久山焼窯元を再訪しました。水曜日はまだ露取りの段階ですが、金・が焼きのピークということで、ブータン組3名でちょっとのぞいてきた次第です。この日は、7人の職人さんが薪をくべていました。みなさん普段は違う職業をお持ちで、仕事を終えて直接来た方も中にはいらっしゃいました。


151113 窯元を側面から151113 窯元正面


 因久山焼の窯元は現在、年に1回の火入れをしています。以前は何回かおこなっていたそうです。お聞きした話では、6月など湿度の高い時期に火入れすると器に良い色が出ないと言われております。これは湿度が関係しているそうです。ここの登り窯は全部で7つの部屋に分かれています。いちばん前の部屋が酸化・還元の反応バランスが良く、良い質のものができるとのことです。登り窯を側面から見てみると、上部と下部にそれぞれ穴があります。


151113 いろみとくべ口、 いろみとくべ口


 上の部分は、いろみと言って、さや(陶器を焼く際、これに入れる)の焼け具合を見るものです。このさやがとろりとした色をし始めたら大丈夫というサインだそうです。下の穴は薪をくべる焚き口です。火が燃え上がってくるのを防ぎながら薪を中に投入していきます。だいたい1200℃に到達したところで次の部屋に薪をくべていくのですが、これがまあ大変。薪を投入した際、気化熱というもので薪を燃やすために部屋の熱を奪われます。そのため、一度温度が30℃ほど落ちます。薪が燃えるとだんだん温度が上昇し、50℃ほど上がります。30℃↓ ⇒50℃↑という流れで20℃ずつ部屋の温度が上昇していきます。薪をくべる時間は15分ずつ、2時間で次の部屋に移っていくそうです。


151113 いろみをのぞくと いろみをのぞく


【感想】  私は途中で力尽きてしまいましたが、職人さんたちは眠気などに負けず黙々と作業をおこなっていました。立派な作品ができるまでにはこのような苦労が裏ではあるのかと圧倒されました。水曜日と金曜日では火の勢いが全然ちがいました。比べ物になりません。薪がバチバチと音をたてながら燃え、窯元の後方では煙がモクモクと上がっていました。何から何まで初めて見た光景であり、私は今何を見ているのだとあっけにとられてしまいました。出来上がった作品は21日からの3連休に販売を始める予定とお聞きしました。あまり貯金はありませんが、ぜひとも新作を買ってみたいなあと思いました。(くらのすけ)


151113 燃える様子

「秋のブータン食祭り」にむけて(2)

151112 ケプタン試食会 151112 ケプタン試食会2 [ドキュメントsiz]


ブータン食祭り、迫る!

 11月12日(木)。P2&P4「初級英語で読むブータンの絵本」は2年生輪読の順番の日でしたが、1週刊後に「秋のブータン食祭り」を控えているため、1~3年全員が最初にミーティングをおこないました。

【1年生の活動】
 11月11日(水)、女子メンバー3人が住むマンションでケプタン(そば粉のパンケーキ)の試作を行いました。調理したのは山岡・尾崎・野間・福島の4名です。11日に試作品を4人で食べてみたところ、大学院生のケント先輩がブータンで買ってきた英語本『オーセンティック・ブータニーズ・フード』に掲載されているケプタンのレシピに基づいて作った試作品よりも、日本のそば粉のパンケーキのほうがおいしいという意見で一致しました。日本のそば粉のパンケーキのレシピには牛乳と砂糖とベーキングパウダーが入っていることからであろうと考えられます。
 翌12日のゼミの時間では、残りの1・2・3年生・院生と先生にも試食していただきました。この夏休みにブータンに出張された3年生2名・ケントさん・生は、英語本のレシピによるケプタンの試作品が「ブータンの方に近いが、ブータンほどの苦みがない」とコメントされました。日本バージョンはやわらかくて美味しいかもしれないが、蕎麦の風味が消えているとのことです。ブータンバージョンは、そのままでは淡泊でぱさついた味ですが、青海省御用達の蜂蜜をつけると美味しいと2年のKさんはおっしゃいました。なお、18日(水)に同じマンション内でケプタンを作る予定です。日本風15枚、ブータン風15枚を予め焼いておいて、当日19日はレンジでチンすることになりました。


パンケーキ試食 パンケーキ試食


【2年生の活動】
 来週の秋のブータン食祭りに向けた2年生の活動予定を話し合いました。
11月16日(月)夜頃: 狩俣、金日、大岡、河部の4人が狩俣宅でエマダッツィを試作。
11月17日(火)昼休み: 2年生全員で前日4人が作った料理を学食にて試食。
11月19日(木)3限: 東、形部、佐藤の3人が紙コップ等を買い出し。

 翻訳を終えた、Room in Your Heart のパワーポイント発表の役割分担です。

  表紙・裏表紙・トビラ・p.2-3・p.32・・・大岡
  p.4-7・・・金日
  p.8-11・・・狩俣
  p.12-15・・・河部
  p.16-19・・・東
  p.20-23・・・形部
  p.24-27・・・岸田
  p.28-31・・・佐藤


調理風景1 3年調理風景(スタジオ)



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窯元を訪ねて(1)

茶室の窯 ブログ用 茶室のカマド


窯元の露落とし

 11月も中頃となってきました。山の木々たちが赤や黄、オレンジ色に色づいてきれいなコントラストを表す模様となってきました。葉の色も変化してきたことで立冬を迎えたのかなと感じるようになったこのごろであります。本日は3コマにわたり活動をおこないました。3限はくらのすけと4年生、4限から他の3年生も合流し、以下ののような流れでゼミ活動をおこないました。

3限【茶室のチェック・金魚の水槽掃除】
 来週の木曜日(19日)にブータン食祭りをおこなう予定です。茶室で開催する予定でしたので、付近の掃除・準備をおこないました。電子機器を使うためドラムが何個必要かなど話し合いました。また、金魚の水槽を掃除しました(↓)。


水槽の掃除 ブログ用


4限【因久山焼窯元の視察】
 因久山焼は、鳥取藩の御用窯として使用されていたものです。窯元は八頭町の久能寺という場所にございます。本日11日(水)は、窯元の火入をおこなう日ということで視察に行きました。窯元を見た後は、作られた陶器の展示してある場所へ行きました。そこで一品ずつ見ていき、気に入った物を購入させていただきました。

5限【ブータン食祭りの話し合い】
 繰り返しになりますが、来週の木曜日(19日)にブータン食祭りをおこなう予定です。ゼミの活動として、ブータンへ崖寺と瞑想洞穴の調査に行きました。その際、現地の料理を味わいました。プロジェクト研究2&4の時間でブータン料理を堪能しようというお祭りです。それに向けて話し合いをおこなった次第であります。


1111窯元0011


【感想】
 3限の時間、裏山の「廃材でくる茶室」へ向かいました。「秋のブータン食祭り」の会場にする場合、茶室を電化する必要がありますが、ドラムがどれだけ必要か、実際に延ばしながら測っていきました。茶室の周りや内部をきれいに整え、食祭りが開催できるように準備をおこないました。雑草が生い茂っているのかなと思っていたのですが、思っていた以上に生えてなくて、短い時間で作業が終了しました。その後、保存修復スタジオへ行き、金魚の水槽をきれいにしました。掃除をしてみると、ごみがたくさん出てきました。いや、この緑のごみに微生物が住んでいて、金魚やメダカが住みやすい水環境になっていたのかもしれません。水替えが吉とでるか、凶とでるか?


因久山焼窯元 ブログ用



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第4回れきまち研究会速報!

1108れきまち0401


 7日午後3時半、鳥取砂丘オアシス広場で「紅葉の巡礼トレッキング」は解散し、三々五々帰途につきました。わたしは、とりあえず下宿でひとっ風呂と思ったのですが、考えてみみれば、翌8日に迫った第4回れきまち研究会の資料をまだ複写していなかった。それに気づいて、ただちに進路を大学に変更しました。
 さきほどまで山や砂丘を歩いていた学生の多くは研究室に戻っていました。急ぎコピー室で資料を作成し、こんどこそ下宿に戻って、ともかく風呂です。こんな日は温めのバスロマン「ヒノキ浴」がなにより気持ちいい。服を着替えてしばらくすると、ケントが迎えにきた。ヤツもあわててシャワーを浴びたみたい。
 夕食会の会場は味暦「あんべ」です。初めてのお客様4名は目を白黒させながら親ガニ丼をほおばってありました。前日が親ガニ漁の解禁日ですからね。うまく予約がとれたもんです。それから3軒はしごです。結論をいうと、ニール・ヤングね。

    



 そうそう久しぶりにミッキー・ロークの「ナインハーフ」が話題になりました。

 翌8日午前11時、郡家のカフェ黒田集合。あわせて2時間以上話を聞いていただきました。長谷川きよしのコンサートを皮切りに、小さな還暦記念事業が少しずつ動きだしています。
 第4回の終了と同時に第5回の準備に着手しています。詳細は「続き」に。


1108れきまち0402



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紅葉の巡礼トレッキング(3)

巡礼トレッキングブログ⑨ 巡礼トレッキングブログ⑩


摩尼寺から山湯山へ

 樗谿からの山歩きを終えて摩尼寺門前にたどり着くと、二軒のお茶屋さんが暖かい甘酒で迎えてくださいました。山歩きで疲れた体に甘酒が染み渡ります。甘酒を堪能した後、参加者はニ軒の茶屋に分かれて特製「精進弁当」をいただき、次のトレッキングにむけて活力を蓄えました。
 大雲院から始まった巡礼トレッキングも、いよいよ摩尼寺~砂丘オアシスの最終区間へと突入しました。門前から摩尼寺境内の裏側に続く坂道の途中で、まず摩尼寺の墓地について説明しました。大きな墓石があり、それは大雲院と摩尼寺で住職を務めた17世紀末~18世紀初の僧侶のものです。墓地の少し先にT字路があり、そこを左に折れると、砂丘へ続く林道となります。最初は草木が繁茂する舗装のない道ですが、まもなく舗装された林道に変わりました。コースを彩る落葉広葉樹の葉は、赤や黄を帯びており、一段と深い秋を感じさせています。また、これまでのトレック区間と比べて比較的緩やかな下りの坂道であり、山道から望める風景に見とれている参加者も少なくありませんでした。


巡礼トレッキングブログ⑦ 巡礼トレッキングブログ⑥
↑林道の紅葉  ↓山湯山の梨園
151107 Cコース 梨園



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紅葉の巡礼トレッキング(2)

151107 巡礼トレッキングB③ 151107 巡礼トレッキングB④


樗谿から太閤平まで

 樗谿公園からのショートコースB参加者と合流後、全員の点呼をとり、いよいよメインイベント「樗谿~太閤平~摩尼寺」トレックがスタートしました。おそらく、ですが、かつて大雲院の住職が引退し摩尼寺の住職となる際に通られた道だろうと思われます。樗谿公園から太閤ヶ平までの遊歩道は、通信施設の管理道路でもあって舗装されており、非常に歩きやすい道です。月に一万人の利用者があるともいう市民憩いの小径であり、大半の方は慣れた足取りで駆け上がっていかれました。


151107 巡礼トレッキングB⑦ ←太閤平


 ただし、参加者の歩行速度の差が出てしまい、先頭集団と最後尾で大きく差が開いてしまいました。途中、久松山(鳥取城跡)を望む地点で休憩がてら前後の距離の調整をいったんとり、樗谿~摩尼寺の中間地点に位置する太閤ヶ平に到着しました。太閤ヶ平は、かつて羽柴秀吉が天正9年(1581年)の鳥取城攻めの際に築いた陣城です。敵兵の襲撃を想定した空堀と土居を設けています。鳥取城と太閤平が一体として国の史跡に指定され、綺麗に整備されています。 (ゆめみし)


151107 巡礼トレッキングB⑥ 151107 Bコース 荒れ果てた山道




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紅葉の巡礼トレッキング(1)

151107 Aコース3


大雲院参観

 11月7日(土)。長谷川きよしさんのソロ・コンサートからはや2週間経って、待ちに待った巡礼トレッキングの開催日を迎えました。数日前から天気予報と睨めっこで、昨夜の予報では、7日午後の降水確率が60%でしたが、一夜あけて30%まで下がり、夕方まで天気はもつだろうと期待がふくらみました。参加者は計40名、スタッフを加えると50名のトレックになりました。
 今回のトレッキングは大雲院~砂丘オアシス広場のロングコースのほかに、ショートコースA(大雲院参観のみ)、同Bコース(樗谿~摩尼寺門前)、同Cコース(摩尼寺門前~鳥取砂丘オアシス広場)に分かれており、3年生3名でその記録を書きます。


151107 Aコース151107 Aコース2


 大雲院から参加された方(ショートコースA・ロングコース)は24名で、全員が大雲院を参観しました。「巡礼トレッキング」というタイトルだけあって、普通のトレッキングとはオープニングがひと味違います。まず、本堂内に一同集合し、ご住職より挨拶を頂戴し、続いて、大雲院の由緒、を語るとともに、霊光院本尊「阿弥陀三尊」と「西国三十三観音」、大雲院本尊「千手観音」、「浄土曼陀羅」などについて解説されました。また、今回の巡礼コースである「大雲院・樗谿・摩尼」の三つの寺院の関係性についてもご説明いただきました。参加者の方々は皆真剣な顔つきで話に聴き入っており、時には感嘆の声をあげられました。ご住職の話を聴き、全員今回の「大雲院・樗谿・摩尼」といったコース編成の意味をご理解いただけたと思います。

 本堂から元三大師堂まで一通り参観した後、いよいよトレッキングがスタートしました。ロングコースで最初に目指すべき地点は樗谿(おうちだに)です。大雲院から樗谿までの距離は1.5キロメートルほどであり、町中の街路を歩くので、たいした道のりではありません。参加者はピクニックにでも行くかのような雰囲気で、和気藹々とおしゃべりを楽しみながら歩いていました。道行く人への挨拶を清々しく済ませ、樗谿に軽い足取りで鳥居前にゴールしました。ここで先生や残る参加者の方々と合流しました。さて、続いて目指すは摩尼寺です。(そにどり)


151107 Aコース4

ねずみのおばさん(5)

Aunty Mouse [p28] Aunty Mouse [p29] p.28-29


 娘はわくわくしすぎて、ねむれませんでしたが、なんとか目をとじました。
 まもなく、娘はかみになにかをかんじたので、とっさにちらり見するきもちを
 おさえきれませんでした。
 娘はなんびゃくものねずみがチューチューなき、おしゃべりしながら、
 かみの上でなにかしているのをみてしまいました。
 朝までまつことができなかったのです。

 よく朝、めざめるとすぐに娘は手を頭にやりました。
 ところが、宝石や高価な石ではなく、すべてのかみの房(ふさ)に
 ねずみのふん、小えだ、コケがじゅずつなぎにまきついていました。


Aunty Mouse [p30] Aunty Mouse [p31] p.30-31


 娘ははらが立ち、ねずみのおばさんがつつみを手わたそうとしたとき、
 どなりそうになりました。
 「羊のもとにかえるまで、これをあけてはいけませんよ。」
 と、おばさんは言いました。教えられたとおり、お金もちの娘は目をとじると、
 とつぜん強い風にふかれたような気分になって、
 巣穴の外にもどっていることに気づきました。

 「どうして羊のところにかえるまでまたなきゃいけないの?」
 と娘は思いました。
 「私はお金もちよ。やりたいことは何でもできるわ。」
 そう思って、娘は地面にすわりこみ、つつみをひきさいたんですが、
 あらわれたのは、さらに多くのふん、小えだ、コケだったのです。


Aunty Mouse [p32] p.32


 お金もちの娘はとてもはらが立ったので、つつみの中身をなげすて、
 家にかえるまでずっと泣いていました。
 娘はねずみのおばさんがタシ・ドマにはあんなにしんせつだったのに、
 自分にとてもいじわるだったのが、なぜだかわかりませんでした。

 あなたにはわかりますか? 【山田】


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ねずみのおばさん(4)

Aunty Mouse [p22] Aunty Mouse [p23] p.22-23


 それからまもなくして、村に住むお金もちの娘(むすめ)が
 タシ・ドマのすばらしい話を耳にしました。
 娘はひそかにかんがえました。
  「まずしくて身よりのない少女があんなにたくさんの
  宝石を手に入れたのだから、きっとわたしなら、
  もっとたくさんの宝石をもらえるでしょう。」

 娘はタシ・ドマのところへ行き、甘くささやきました。
  「きょうは休んでいいのよ。わたしが羊の世話をしてあげるから。」
  タシ・ドマはよろこんでうなづきました。そして、お金もちの娘は、
  羊を草原へつれていきました。
  タシ・ドマがいつも羊に草を食べさせているところです。


Aunty Mouse [p24] Aunty Mouse [p25] p.24-25


 娘は草原につくと、ランチクロスにくるまれたケプタンをほうり投げました。
 ケプタンは
     下へ、下へ、下へ、
 と山のしゃめんをころがりおち、
 ねずみの巣穴(すあな)に入ってしまいました。
 はたして、ねずみのおばさんは娘を穴のなかへまねきます。、
 すると、とつぜん強い風にふかれたような気がして、気づいたときには
 娘はねずみのおばさんのおうちにいたのです。
 ねずみのおばさんが夕ごはんになにが食べたいのか、
 たずねると、娘はこたえました。
  「私はいちばん良いものしか食べないの。あなたの食べもののなかで、
  いちばんよいのをだしてちょうだい。」


Aunty Mouse [p26] Aunty Mouse [p27] p.26-27


 うんざりしたことに、ねずみのおばさんは
 冷めたカブのシチューをナベのままだしました。
 うわぁ!
 それから、ねずみのおばさんはたずねました。
  「どんな寝床(ねどこ)を用意しましょうか?」
  娘はこたえました。
  「私はシルクの上でしか寝たことがないの。
  いちばんよいものを用意してちょうだい。」 
 ねずみのおばさんは古くてすり切れた羊の毛皮と
 何枚かのぼろきれを地面におきました。

  「さぁ、おねむりなさい。」おばさんは言いました。
  「でもね、夜に何かがあなたのかみの毛を引っぱる
  ように感じたなら、ほかにどんなことをしてもいいけど、
  目だけはあけないでね。」


bhutan宝石
↑ブータン・チベットで宝飾品に使われている石は、トルコ石や、翡翠、カーネリアンなど多彩である。


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「秋のブータン食祭り」にむけて(1)

ブータンの食材 集合写真 現地で買い込んだ食材


11月19日「秋のブータン食祭り」開催!!

 4日のゼミの最後には、「秋のブータン食祭り」の準備段取りについても打ち合わせしました。このお祭りは1・2年のプロジェクト研究2&4に伴うものですが、3年生にも、ブータンを訪問したり、絵本を訳したりした学生がいるので、先生から全面的にサポートの依頼があったのです。まず曖昧なままだった日時を確定させました。メニューは以下のとおりです。

    日時: 11月19日(木)14:40~ 【会場未定】

 メニュー
  ①ほかほか赤米ごはん(教師)
  ②エマ・ダッツィ
    【バージョン1】ブータン産激辛唐辛子とヤク牛チーズを使用(3年)
    【バージョン2】日本産シシトウと鷹の爪、とろけるチーズを使用(2年)    
  ③ケプタン(蕎麦粉のパンケーキ)
    【バージョン1】日本の蕎麦粉を使用(1年)
    【バージョン2】ブータンの乾麺蕎麦を粉にして使用、あるいは麺料理を再現(3年)
  ④ブータン農家本格仕込みアラック(焼酎)→笑上戸専用
  
 興味のある方は是非お越しください。ただし、激辛エマ・ダッツィは必ず食べてもらいます・・・
(キム・サンコン)


ブータンで買い込んだ食材  
*画像をクリックすると拡大します。

DSC00909.jpg 赤米 アップ 赤米(ブンタン市街地)
エマダツィ アラック 
左:赤唐辛子 右:アラック(ゲムジャロ村農家の手作り焼酎:原材料は裸麦)

ヤク参考画像 ヤクのチーズ 
左:ヤク 右:ヤクのチーズ

らっきょう畑をつきぬけて(4)

151105 大師堂 秋葉大権現厨子 大師堂 秋葉大権現厨子


「大雲院・樗谿~摩尼寺・砂丘 巡礼トレッキング」大会、迫る!
 
 11月4日(水)。3限に上級生とくらのすけ君が大雲院で建築型厨子の調査をしたようです。4限から全員が揃い、3日後(11月7日)に迫った「大雲院・樗谿~摩尼寺・砂丘 巡礼トレッキング」大会の役割分担などを決めました。
 今回のトレッキングでは参加者の出発地点、解散地点が自由に選択できることになっており、まずその整理から始めました(ゆめみし君がエクセルで綺麗な一覧表にしてくれました)。
 難しかったのは配車です。会長さんのワゴンを含めて5台の車がありますが、それらを砂丘オアシス広場(1台)、摩尼寺門前(1台)、樗谿公園(2台)、大雲院(2台)に振り分けます。まる手品かあみだくじのように車と人員が割り振られていきました。詳細は「続き」を参照してください。なお、当日小雨の場合は、樗谿~摩尼寺山門が危険なためそこを割愛することになるでしょう。その結果、
  1)ロングコース → ショートコースA+C
  2)ショートコースB → ショートコースC
などの圧縮と振り替えをおこなうことになりました。これからは天気予報とのにらめっこになりますが、現在の予報は「曇り 降水確率40%」です。
 今日の大仕事は電話係のくらのすけ君です。教授室の子機を使ってロングコースの選択者に電話し、解散地点(砂丘オアシス広場)から市街地に戻る交通手段をどうするか、聞こうとするのですが、なかなか繋がりません。そこで、メールも併用することになりました。選択肢は、以下の3つです。
  1)マイカー[予め1台をオアシス広場にとめておくとか、迎えにきてもらうとか]
  2)砂丘会館まで歩き、バスで市街地に戻る
  3)参加者でタクシーを乗り合いにする(事務局が予約します)


最終サムmaniトレック

(キム・サンコン)


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心のなかの部屋(3)

Room in Your Heart [p22] Room in Your Heart [p23] p22-23


  ふたりの男はおばあさんがポットでつくった
  夕食を分けあうのにぎりぎりまにあいました。
  おばあさんはポットの中身をすくいます。
  ひとりはカブの葉を一口食べ、
  もうひとりは小さなほねのかけらを少し食べ、
  もうひとりはスープなどを一口のみました。

  客人たちは夕食をゆっくり味わい、
  お皿までなめあげて、きれいにしてしまいました。
  おなかいっぱいになって、休めたので、
  客人たちはおばあさんに ありがとう と言いました。


Room in Your Heart [p24] Room in Your Heart [p25] p24-25


  あなたのおうちはこんなに小さいのに、
  客のみんなをなんとかつめこむことができましたね。
   「どうやっったらそんなふうにできるのですか?」
  みんなはふしぎにおもってたずねました。

  おばあさんは明るく
  ほほえみました。



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心のなかの部屋(2)

Room in Your Heart [p14] Room in Your Heart [p15] p14-15


  バラのようにあかいほっぺをした女の人が
  ヤクの毛皮のマント*1を身にまとい
  戸口に立っていました。


Room in Your Heart [p16] Room in Your Heart [p17] p16-


  おばあさんはよろこんで
  その女の人をむかえいれ
  たなの下のスペースを
  かたづけました。

  女の人はかんしゃしながら
  あいたところにすわりました。
  やっとこさ、おばあさんは
  夕食をだすじゅんびをおえたのですが、

  戸口でまたべつの声がします。


Room in Your Heart [p18] Room in Your Heart [p19] p18-19


   「ロバが一歩たりともうごくのをいやがっています。
   わたしたちは長いあいだ、ロバをいっしょけんめい
   おしてきたのですが ロバのみすぼらしくて
   老いた足はすでにつかれきっています。
   ここで一夜をあかさないといけません。
   ネィポ ション マ?
   (わたしたちの居場所はありますか?)」


 

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遊牧の彼岸-アムド高原の青い海(Ⅵ)

150920 タール寺 境内のチベット式ストォーパ 150920 タール寺 僧侶の集団


タール寺-ゲルク派開祖生誕の地

 9月20日(日)、青海省での活動も最終日となった。青海湖を後にし、空港のある省都西寧へ向かう。
 タール(塔爾)寺は西寧市湟中県の蓮花山にあり、チベット仏教ゲルク派の大寺院である。ニンマ派の「紅教」に対して、ゲルク派は「黄教」ともいう。ゲルク派の開祖ツァンカパの生誕の地としても知られ、寺院は約300人もの僧侶を抱えているという。この時期になると、タール寺では大法要をおこなっている。中国側の「法会」、インド・ブータン側の「プージャ」の最大規模のものである。同仁などの諸寺に僧が少なかったのは、タール寺の法会に参列していたからだろうと聞いた。僧だけではない。青海省内外の各地からチベット(l蔵)族をはじめトゥ(土)族、モンゴル(蒙古)族、漢族などさまざまな民族が集い、僧侶と観光客でごった返している。そこは民族と宗教のるつぼと化しているのだ。


0920タール寺01 0920タール寺02サム01


 境内は都市のように広い。縦横に参道がめぐり、それに面して多くの仏殿院が軒を連ねる。平時ならば、顕教のエリアは参拝可能である。しかし、法会にあっては、門をくぐれない。参拝者は参道を回遊し、ときに門内に導かれ、パンなどの施しを受けることがある。山の斜面に境内を構えているため、参道の高低差は激しく、距離が長いので、なかなか歩き疲れた。もちろん境内奥には密教エリアがある。入口の門に「密宗教院」と書かれており、チベット語と英語の訳が付されていた。チベット語は読めないが、英語では「TANTRIC DEPARTMENT」となっている。
 裏山に行くべきだった。修行洞があるかもしれないからだ。しかし、時間に余裕がなかった。午後からは西寧の青海省博物館をご案内いただくことになっていたのである。


150920 タール寺 150920 タール寺 ディテール
↑大金瓦殿


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らっきょう畑をつきぬけて(3)

らっきょう畑新ルート


因幡の文化的景観を歩く

 10月28日(水)。先生、ケントさん、3年生と私は、先生が新たに発見されたらっきょう畑のルートを視察しました。その新しいコースは、山湯山農業センターから「愛の小径」をつらぬき、らっきょう畑に入る所まではこれまでと同じですが、畑の中の農道を砂丘オアシス広場の手前のT字路を右に折れます。その道は大きく馬蹄形のカーブを描いています。その先端まで行くと、最高の写真が撮影できます。日本海に浮かぶ鯨島と紫色の花咲き誇るらっきょう畑を一望にできるのです。ただし、11月7日の巡礼トレッキング大会では、ラストスパートの区間であり、全員が疲れているでしょうから、ここでも少し手前のT字路を左折れして、海岸沿いの遊歩道まで歩き、海岸沿いをオアシス広場にむかうルートを採用することになるでしょう。


151028 らっきょう畑3 151028 らっきょう畑2

 
 これまで構想していた原ルートでは、雑草抜きが進み、やや興ざめのエリアもあったので、上に述べた新ルートの方がよりらっきょう花の景観を楽しむことができるでしょう。また、農道のT字路からはトレックの中継地点である摩尼山の全容を一望にできます。今回のイベントは大雲院から樗谿を経由して摩尼寺の歴史を遡りますが、摩尼寺門前から砂丘まではむしろ因幡の「文化的景観」を堪能できます。山湯山の山麓には梨園が広大に展開しており、浜湯山の砂丘エリアではさらに広大ならっきょう畑が展開しています。こうした風土・生業の景観を地元の方々ばかりでなく、県外の訪問者にも味わっていただきたいと願っています。(Nobody)


イラストマップ(最終)圧縮01  最終サムmani_flyer_ura4_FIX_01 

 
 トレックの詳細は「続き」に詳しく掲載しています。↑右のチラシをクリックすれば、申し込み用紙があらわれます。面倒くさいかたは、 

   【WEB申し込み専用フォーム】  http://prt.nu/0/mani

が圧倒的に便利です。

 以下も参照してください。

   http://tkserv.kankyo-u.ac.jp/news/2015nendo/20151024/ 



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魯班13世

Author:魯班13世
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魯班(ルパン)は大工の神様や棟梁を表す中国語。魯搬とも書く。古代の日本は百済から「露盤博士」を迎えて本格的な寺院の造営に着手した。魯班=露盤です。研究室は保存修復スタジオと自称してますが、OBを含む別働隊「魯班営造学社(アトリエ・ド・ルパン)」を緩やかに組織しています。13は謎の数字、、、ぐふふ。

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