fc2ブログ

楽々はがき

 症状が激変しないことを祈りつつ、きのう賀状を片づけました。この際だから、枚数はどかっと減らしたの。それと、写真屋に頼むのもやめた。バージョンアップしたソフト「楽々はがき」を使って、さらりとデザインしたのですが、愚妻には好評です。今年の賀状は凄くいい、と言ってくれるので、ひそかに喜んでおります。

 「楽々はがき」は十年以上前から使ってるんですが、ソフトはXP対応のもので、ほとんど壊れたVAIO(XP)を解体してしまったため、2016バージョンをセブンにダウンロードしたのですが、便利になってますねぇ。はがきの表裏を一度に印刷できるし、一人ひとりメッセージを付け足せる。メッセージぐらい自筆でやれ、とのお叱りもうけそうですが、なにぶん字が汚いからねぇ、パソコン文字のほうがましだと思います、私の場合。

 そうそう、寅さんのフジTVバージョン(1968-69)DVDが届き、昨夜みました。モノクロには味があるね。渥美清という役者さんは、若いころからたいした演技力だ。長山藍子(さくら)も佐藤オリエ(マドンナ)も綺麗だし、寅さんの原点に触れられて幸せです。

 というわけで、誕生日なのね。59歳。まだまだだとは思います。下のジョー・パスなんか聞いていると、芸術家が羨ましい。歳を重ねて益々磨きがかかってるものねぇ。元気づけていただいたってことにして、さて、仕事しよう。


 数多いギタリストのなかでいちばんたくさんCDをもっているのがジョー・パスですが、また4枚注文しました。


続きを読む

59歳のプレゼント(2)

1128中島01 1128中島02sam


井桁堂SC

 28日の午後、アマゾンから大きな段ボールが届きました。寅さんのDVDにしてはでかすぎるな、と思いつつ、しばらく放置していたのですが、これまた開けてびっくり、大きなギフト袋にメッセージ・カードがついている。

   「お誕生日おめでとうございます。ますます素敵に年を重ねてください。」

 白帯くんからのメッセージでした。プレゼントは井桁堂 のスティックケーキ。さっそくアールグレイを淹れて、ピスタチオとラズベリーをいただきました。美味しいね!


1128中島03猫01


 最後に会ったのは、4月12日(日)の「米子八幡神社の春季例大祭にともなう講演会」です。その後、かれは環境大学で新規建設中の実験棟の現場に係わるジョイント・ベンチャーの一員として働いていたのですが、わたしとはついにニアミスすることがありませんでした。しかし、電話とメールで連絡をとりあっていて、新年1月16日(土)の第5回れきまち研究会にも参加してくれることになっています。白帯くんが、この会に出てくれること、私はほんと喜んでいます。他のOB諸君には申し訳ないけど、近くて遠いところにいる白帯くんと再会できることが、いちばん嬉しかった。


1128中島03猫02


 さっそくお礼の電話をしました。職場にも慣れてきて、みんな親切にしてくれて、楽しくやってます、とのこと。結構毛だらけ、ネコ灰だらけ・・・そうそう、米子八幡神社の神像と狛犬が市の文化財に指定されたことも報告しました。かれの修士論文のおかげですからね。
 というわけで、災禍に曇っていた私の心は晴々となったのでした。いつも、いつでも学生諸君に支えられている。くりかえし感謝します。みんな、よい新年を迎えてください!


1128中島03猫04 1128中島03猫03
ネコ灰だらけ・・・

1128猫02

59歳のプレゼント(1)

1128大石03


イッタラ/アラビア

 12月28日(月)、我が家に大直禰子(おおただのねこ)が降臨し、異常でけがれた状態をただしなおしてくれました。じつは、クリスマス・イブにテロ紛いの事件が勃発していたのです。クーデター紛い、と言ったほうがいいか。それを仕掛けられたのは、11月13日、わたしが秋田に飛んだ日だということも、まもなく明らかになりました。当時、職場の責任者は入院中であり、これらを見計らっての仕業であったと思われます。
 週末は事態の展開が不透明で、異常をきたしておりましたが、仕事納めの月曜日、一気に決着を迎えました。生活世界が浄化され、安寧を取り戻したのです。この正月は大神神社に初詣し、大直禰子に御礼しなければなりません。


1128大石02

 
 さらに良いことが続きました。ちいさな小包が届いたんです。送り主をみると、3年生の内蔵助くんになっている。大丸の包装紙を開けてびっくり、ゼミ生からの誕生日プレゼントでした。フィンランドの有名なブランド、イッタラ/アラビアのペア・カップです。ごらんのとおり、ムーミンのあしらわれた可愛い陶磁器。
 あと1年で還暦の爺には若すぎるデザインですが、家内や子どもたちは喜んでいます。ゼミ生のみなさん、本当にありがとうございます。
 さらに午後には、アマゾンから大きな段ボールが届きました。これについては、また明日。【続】


1128大石01


1128猫01 1128猫03sam
↑オオタダの猫?

第5回れきまち研究会のお知らせ(3)

 第5回れきまち研究会の参加者に1名追加がありました。ハンドルネーム「部長」さんです。2000年代後半、「部長」「ひら」「エアポート」が活躍した時代がありました。最近は育児に追われているようですが、参加者名簿をみて懐かしくなり、聴講したくなったそうです。
 当方も大歓迎です。じつは、問題を抱えているOBが八頭町にあと1名います。これについては、いずれまた。

 第5回れきまち研究会
  「倉吉小鴨川外周域の史跡と文化的景観の保全」(仮題)

 鳥取県環境学術研究費の助成による「倉吉打吹山麓の歴史的風致に関する総合調査」は、一昨年に長谷寺と打吹山、昨年に鍛冶町・河原町の町並みと祭礼を調査研究してきました。今年度は、旧市街地に点在する茅葺民家に焦点をあてた町並み研究と小鴨川外周域に点在する古代史跡群(伯耆国庁・伯耆国分寺・法華寺畑遺跡等)及びその周辺に展開する農地景観の保全に関わる研究を進めています。こうした活動の中間成果を報告するとともに、「遺跡整備と復元建物」「建築考古学」「文化財と地域振興」についてひろく討議する研究会を下記の日程・会場で開催します。


   日時:  2016年1月16日(土)11時~15時
   会場:  医食同源「さとに千両」
        〒680-0935 鳥取市里仁312-1
         http://satoni.jp/ ℡0857-50-0613
   司  会: 中原 斉(鳥取県埋文センター所長)
   副司会: 眞田 廣幸(倉吉文化財協会会長)
      同: 浜田 竜彦(鳥取県立むきばんだ史跡公園) 
      同: 山田 協太(京都大学地域研究統合情報センター) 
   話題提供・討論参加者: 
        浅川 滋男(公立鳥取環境大学)
        松尾 充晶(島根県立古代出雲歴史博物館)
        佐々木孝文(鳥取市教育委員会文化財課)
        茶谷  満(鳥取県教育文化財団)
        真鍋 建男(空間文化開発機構・代表取締役)
        檜尾   恵(空間文化開発機構・研究室OB)
        清水 拓生(大田市教育委員会建造物係・研究室OB)
        岡野 泰之(日本住宅パネル工業協同組合・研究室OB)
        今城  愛(鳥取市都市整備部建築住宅課・研究室OB)
        岡垣 頼和(鳥取市都市整備部建築指導課・研究室OB)
        中島 俊博(大和建設株式会社・研究室OB)
        吉川 友実(研究室OB)
   記録・事務局: 公立鳥取環境大学保存修復スタジオ(吉田・菊池・流郷)
             hozonshufuk@yahoo.co.jp

 原則としてクローズドのセッションですが、参加希望者があれば受け入れます。事務局までご連絡ください。
 

続きを読む

寅さんに支えられてきた

 26日はクリニックの梯子。クリスマス&バースデイ・プレゼントの如く、たんまり薬を頂戴してきました。控え室は長蛇の列です。ソファがいっぱいで、ストゥールをもってきてもらった。控え室には週刊誌がある。『アエラ』の12月7号(№54)をめくっていて、「寅さんに支えられてきた-寅さんサミット初開催」なるコラムを発見。寅フェチとしてはコレクションに加えておきたい。ガラケーで誌面を撮影するも写りがよくないので、看護婦さんにコピーをお願いしたら、やってくれたのですが、ブスッとしている。この忙しいのに余計なことさせないで、って顔してました。

 BSジャパンの「土曜は寅さん」が終わって、気が抜けてしまった。仕方ないので、テレビドラマ版「男はつらいよ」 のDVDを注文しました。映画化される前のフジテレビ・バージョンでして、全26話のうち奇跡的にビデオテープが残っていた初回と最終回を収録したものです。



↑TV版寅さんの最終回には批判殺到。それがきっかけで映画の制作が始まったそうです。 

米子八幡神社 狛犬・神像の指定

151226八幡神社(日本海)web 日本海新聞12月26日


 会長から新聞記事がメールの添付資料として送られてきました。米子八幡神社の狛犬と神像7体が米子市の文化財に指定された模様です。記事に「こま犬は安土桃山~江戸初期、神像は平安中期~鎌倉初期の作とみられる」とあるのは、白帯くんの修士論文を基にした報告書『近世木造建造物の科学的年代測定に関する基礎的研究』(2015)の成果によるものであります。
 またひとつ研究室に勲章が増えた、ということにしておきましょう。

 狛犬と神像の指定は結構なことですが、問題は拝殿の蟇股ですよね。神像とほぼ同じ平安後期~鎌倉前期にまで遡りうる刳り抜き蟇股が2体、17世紀の蟇股は14体あって、前者は重要文化財クラス、後者でも県指定クラスと思われます。これを単独指定するか、本殿・拝殿の登録(もしくは指定)と一体にするか、難しいところでしょう。本殿・拝殿ともに昭和40~41年の日野川改修にともない曳家されて、境内での位置を変えており、そのさい建造物本体の改修も少なからずおこなっているからです。
 あとは県教委と市教委の行政手腕に期待するだけです。


151226八幡神社(日本海)doc ←クリックすると画像が拡大します。


年越し蕎麦×2

 25日。昼は「たかや」で冬季限定「牡蠣なんばん」をたくりました。今年は例年ほど「たかや」に通えなかった。蕎麦が一番からだに良いのですが、今年は家内が大覚寺で過ごす時間がやや増えた関係で、ペースノートのモーニングとハンバーグ・ランチの比重が大きくなった一年でした。
 昼食後、ケントと内蔵助に手伝ってもらって、教員室の大掃除をしました。まっ、凄まじい物量です。廃棄物を出して出して、部屋自体はかなり綺麗になったんですが、ダンボール箱におさまった書籍や資料がうんざりある。新年に本箱を2台入れようと思います。
 そして夕刻、今度は卒論組を引き連れて「ばりうま」で年越し中華蕎麦。わたしは「ブシウマ」を注文したんですが、チャーシューはテングサに譲りました(痛風対策)。

 その後、Sugarへ。シャノワールのクリスマス・プレゼントを渡した上で、オーナーとコーチに事情を説明しました。せっかく新品のサウナスーツを購入したばかりだというのに、椎間板ヘルニアですからね。翌日、奈良の整形外科に相談したところ、ジムでの運動として、エアロ・バイクを推奨されました。負荷を落として30分やってください、とのこと。それなら十分いけます。エアロ・バイク以外では水泳が良いそうです。プールをゆっくり歩いたり、泳いだり。でも、しばらくは運動を控えませう。



↑摩尼寺でこういうの弾いてくれないかなぁ。

総クリボッチ

Merry Christmas!_01


 24日、若干1名?を除いて総クリボッチ状態です。わたしも夕方、会議があり、さらにまたクリスマスの大掃除を予定しているので、イブを鳥取で過ごしました。
 夕食は南海飯店へ。摩尼山の資産構成資料を完成させたNobody君の慰労会を開催しました。プロセスは??でしたが、結果オーライです(↓下2枚)。噂によると、テングサやケントがサポートしたみたいだけど、サポートしてくれる同級生や先輩がいるということは、それだけ人望があるんでしょうね。
 それにしても、我がゼミの野郎どもは揃いにそろって皆クリボッチで、女友達と聖しこの夜を過ごす色男が一人もいない。ヤンマーとかガーヤマなどのように聖欲の塊みたいな学生がいませんねぇ。


151220(校正)摩尼山構成資産分布図_02web


 そんなクリボッチ状態であるにも拘わらず、クリスマス・プレゼントはじつに16個も買いそろえました。できれば女子学生に捧げたかった??のですが、世の中は甘くない。イブの日に「歴史遺産保全論」講義の第13回がありまして、いつものことながら、前回BRDの解答および10点満点の学生発表からスタートしました。これが毎度の掴みです。なにぶんイブなもので、わたしも気をきかせて満点学生に対して景品を用意したわけです。それはなにかって? (一番上のスライドに書いてあるよね)
 スライドには3桁の数字を並べています。これが満点獲得者の学籍番号(下3桁)です。色がちがうでしょ。赤が女子です。2名だけなんだ。残りはぜんぶ男子です。これまで私の講義は女子が圧倒的に強かったんですが、今回はあきらかに男子優勢です。難しくなればなるほど男子が強い。おかげさまで、クリスマス・プレゼントは野郎どもにどっと流れたのでありました。

 夕方、本来ならばジムに行って、CONTなどの面を浮かべながら思い切り左フックを振り回したいところでしたが、依然として椎間板ヘルニアの症状は快方にむかっていないので、卒論に関係ない学生を引き連れて弥生町に繰り出しました。人がいないのね。イブはみなどこかにしけこんでいるふりをして、じつはクリボッチの男が多いのだそうです。


151220(校正)摩尼山石仏分布図_02web
 

卒アル写真

1223卒アル01


 12月23日(水)。天皇誕生日ですが、ゼミを開催しました。ここでやんないと、1月中旬までないんです。ひと月あいてしまう。ひと月もあけば、普通は海外に出てしまうところですが、今年は駄目。年賀状を出せるかどうか、まだ微妙な状態です。
 ゼミの前に記念撮影をしました。卒業アルバムのための写真です。じつは、Nobody君がNowhere状態で枠入りになるかもしれないのですが、倉吉の河原町から頂戴したフラワーアレンジメントが綺麗なうちに撮影したかったので、カメラは中橋研のゼミ生にお願いして、とりあえず撮っちまいました。
 詳しいレポートは「続き」に3年生が報告してくれます。


1223卒アル02 1223卒アル03
↑倉吉の生花の下はホカノ君からのお歳暮です。ありがとう! ↓ゼミ後はキームンで年忘れ。
キームンR0018187

続きを読む

アンダーテック

 ポストはペースノートかユーで読む。週刊誌など消耗品だからいちどめくれば十分だが、11.27/12.4合併号と1.1/8合併号はちらり眺めた後コンビニに直行した。前者は1軒めで売り切れていた。さもありなん。あれは売れます。2軒めでゲットし、下宿の本棚に保管していて、その続編に今朝驚喜した。
 理由はなにかって。それは、お~ばさんです。

   「君はぼくのおばさんです!」

では怒り心頭に達してしまうが、

   「君はぼくのお~ばさんです!」

だと賛辞になるのです。メリークリスマス・・・あたたっ・・・

 それにしても、椎間板ヘルニアですよ。対策としてパッチを買おうとしたら、ユニクロで通じなかった。「アンダーテックですか?」だって。ワゴンセールのアンダーテックを2つ買いました。効果はあるね。それ自体あたたかいけど、外側から懐炉を貼り付けると、さらに効果がある。
 明日はジムに行って事情を説明しよう。こんな体でなにかトレーニングする術はあるのか、ないのか。ないなら、サンタさんの贈り物を渡して帰るだけ。メリークリスマス!!


倉吉打吹山麓の歴史的風致に関する総合調査(ⅩⅩⅩⅡ)

お地蔵様 作業①


冬の地蔵祭

 12月20日(日)。倉吉市河原町でおこなわれた「冬の地蔵祭」に笑上戸、くらのすけと私の3人が参加してきました。12:30からもちつき&炊き出し(豚汁とおしるこ)と市の出店、13:30から紙芝居1回目、16:00紙芝居2回目とから炊き出しその2、そして16:30分からイルミネーションの点灯という次第になっています。


やきいもの屋台


 本日の作業として主にイルミネーション設置の手伝いをするということで、13時前に河原町に向かいました。(くらのすけは少し遅れるとのことで一足先に笑上戸と2人で)さっそく会長さんと合流すると、昼食を用意してくださっており、炊き出しの豚汁とおしるこをいただきました、両方とも大変美味しく、体の芯から温まりした。そしてなにより、つきたておもちのおしるこは食べごたえがありました。腹ごしらえをした後は機材が届くまで祭りを楽しみました、お地蔵様にお祈りしたり、焼き芋を食べたり、町民の方々の写真を撮ったり、名物の大粒ピーナッツに舌鼓をうったりと充実した時間を過ごしました。その後、紙芝居”きつねのごはん”をみた所でNKさんと(電飾・企画担当、本業はまさかの料理人)が電飾セットを持っていらしたので、地元の子どもたちと一緒にイルミネーション作りに取り掛かりました。これがなかなか難儀なもので、鉄線の輪っかを輪ゴムでとめて球状にしたものに電飾を絡ませる簡単な仕事にみえて形にするのがなかなか難しかったです。


作業②
↑↓イルミネーション設置作業 ↓紙芝居
紙芝居



続きを読む

記念物の特徴および評価(案)

 鳥取市覚寺の摩尼山は大山、三徳山と並ぶ天台宗の拠点的霊山(標高357m)で、 山頂と「鷲が峰」が馬の頭と背の如く二段になる山容に特徴がある。周辺の山林から山の全景を捉えにくいが、砂丘側(福部町浜湯山)のラッキョウ畑から遠望できる。地質は新第三紀安山岩質の岩脈・岩頸の複合体をなし、山頂周辺に凝灰岩の巨巌や岩肌が露出する。山域全体に落葉広葉樹と照葉樹の混交する原生林的植生がひろがるが、造林公社による杉植林地が一部を占める。
 摩尼山の摩尼(マニ)とは、真言タントラ(六字大明呪=南無観世音菩薩)を構成する梵字の一つに由来する。マニは「宝珠」もしくは「宝石」を意味し、秩序、慈悲、思いやりなど悟りを開くための要素であって、とりわけチベット系密教で重視されている。汎アジア的にみて、後期密教に特有な概念である。
 縁起書(1683)によると、唐より帰国した円仁(794-864)が八葉の蓮弁のように峰分かれしている山頂に注目し、天台宗の拠点と定め、摩尼寺を開いた。山号を喜見山という。仏教世界の中心に聳える須味山の頂に喜見城があり、そこに住む帝釈天が摩尼宝珠をもって鷲ヶ峰の立岩に降臨したと寺伝にいう。「鷲ヶ峰」なる峰名は古代インドの「霊鷲山」に因むものと思われる。
 ところで、円仁開山伝承のある寺院は全国で600以上を数え、その大半の由緒は後世の附会とみなされる。摩尼山においても、発掘調査により「奥の院」の敷地造成は10世紀後半以降であることがほぼ明らかになっている。残念ながら、円仁開山伝承の信頼性は高くないが、遅くとも平安時代後期に喜見山摩尼寺は開山しており、以来、「因幡(鳥取県東部)に住む民は死後いったん霊魂が摩尼山に滞留し彼岸に逝く」と信仰されてきた。
 構成資産のうちとくに注目すべきは摩尼寺「奥の院」遺跡であろう。立岩(鷲が峰)から約60m下ったところに巨巌が聳え、その正面に2段の平場(加工段)が展開している。巨巌は下段を大きく抉って掘削し、岩陰の仏堂としており、木彫仏(上層遺構対応、帝釈天か)のほか、阿弥陀如来・千手観音・地蔵菩薩・不動明王・虚空菩薩などの石仏を祀る。巨巌の上段では小規模の岩窟を掘削し、五輪塔を祀る。上段と下段をつなぐ石段の遺構もみつかっている。2010年にⅠ区(下の加工段)・Ⅱ区(上の加工段)・Ⅲ区(巨巌岩陰)・Ⅳ区(巨岩岩窟)で発掘調査がおこなわれた。Ⅱ区の上層では8間以上×8間以上の総柱建物跡SB01、Ⅲ区では岩陰直下で掘立柱掘形が検出され、それらは小泉友賢の著した地誌『稲葉民談記』(1688)に描かれた2棟の重層建物(楼閣式仏堂)に対応する蓋然性が高まった。民談記に描く手前の建物がⅡ区検出のSB01、奥の建物が巨巌の岩陰仏堂・岩窟仏堂・石段に密着して建つ懸造の建物と推定される。また、Ⅱ区の下層では凝灰岩盤に掘削された正方形のピットが7尺等間に並ぶなど平安後期の建物跡SB02も検出されている。全国的にみても、「奥の院」の発掘調査は稀少であり、平安密教山林寺院の特殊例として注目される。なお、旧参道には平な石敷が残っており、『稲葉民談記』にみえる平屋の門(山門?)の可能性がある。
 「奥の院」と「鷲が峰」は近接しており、一体の遺跡群として捉えるべきであろう。「鷲が峰」の立岩に降臨した帝釈天を祀る聖域の下側に行場として「奥の院」があったとも考えられる。立岩からの眺望はみごとなものである。日本海・鳥取砂丘・湖山池などを一望にでき、天候の条件が良い場合、大山の頂を望むこともできる(最近はpm2.5の影響で霞んでいる)。



続きを読む

右足首のコペルニクス的転回

Sugar 09

 先月末の関東出張の際、モノレール乗り場の段差で足を挫いてしまい、藤原喜明に踵固めを決められたような激痛が走った。44歳までサッカーの現役を続けたが、グラウンドであれほど酷い捻挫をした覚えがない。それほど強烈な痛覚であった。その後、市販のパテックスを貼って急場を凌ぎ、1週間後には奈良に帰ってホームドクターに症状を説明し、大量の湿布薬を頂戴した。
 しかし、痛みがやわらぐことはなかった。くるぶしが小さな牌乙のように腫れあがっているので、日に2~3度湿布薬を貼り直した。そういう生活を続けていて、立っていたり横になっているとほとんど痛みはないのだが、椅子に坐ると、えもいわれぬ疼痛が右足に襲いかかる。痛風とはまた異質の感覚である。くるぶしだけでなく、膝の裏側がとくに痛くて、そこにも日に2回湿布を貼るようになった。先週の火曜日にはひさしぶりにジムに行ってエアバイクを漕ぎ、腹筋し、シャドウ・ボクシングもしたが、用心してリングにはあがらなかった。
 そのあとまた痛みがひどくなった。そして、木曜日に雪が降る。ジムに通おうという意欲が薄れた。早く志戸坂峠を越えないと、路面がアイスバーンになってしまう。そんな寒い夜、峠をこえて中国縦貫道を走ったのだが、途中で20分ばかり右足の全体(とくに裏側)で痛みが納まらなくなった。それまで車を運転していて、これほどまでの症状はなかったのに。翌朝目ざめると、くるぶしから膝どころか、おしりの下まで痛みが線状につながっている。食卓の椅子に腰かけると、また激痛が走った。整形外科に行くしかない。





続きを読む

【翻訳】歴史的木造建築の保存修復(1)

Larsen and Marstein(2000)表紙 Larsen(1994)


 いままさに講じている「歴史遺産保全論」の前身は、私学時代の「建築の保存と修復」である。その前身講義は、クヌット・アイナー・ラールセン(Knut Einar Larsen)の著書 ARCHITECTURAL PRESERVATION in JAPAN(『日本建築の保存修復』イコモス木の委員会、1994↑右)を概説し批評するものであり、その骨子は現在の「歴史遺産保全論」に受け継がれている。とりわけ第8~9講「復原-意匠のオーセンティシティ」から第10講「再考-ヴェニス憲章と日本」のあたりで、ラーセンの結論及び奈良ドキュメントに対して詳細な検討を加えており、本講義のピークをなす。
 私は早くから ARCHITECTURAL PRESERVATION in JAPAN を全訳していたので、いつか良いタイミングを狙ってラールセンが盟友ニルス・マールスタインとともに著した「続編」を翻訳したいと思い続けてきた。今年の「歴史遺産保全論」第7回で、その続編を紹介し、「翻訳してみたいと思う人がいたら感想欄に書いてください」と控えめに問いかけたところ、ほかならぬ我がゼミのソニドリ嬢が手をあげたので、卒論に係わりのない3年生と院生の6人で翻訳に取りかかろうということになったのである。
 まずは書名から。上左の写真が続編の表紙です。

   Knut Einar Larsen and Nils Marstein (2000)
    Conservation of Historic Timber structures -An Ecological Approach
     Butterworth-Heinemann Series in Conservation and Museology

 これを和訳しておきましょう。

   クヌット・アイナー・ラールセン&ニルス・マールスタイン (2000)
     『歴史的木造建築の保存修復 -エコロジカル・アプローチ』
     バタワ-ス・ハイネマン出版社 保存修復・博物館学シリーズ
 
 昨日くらのすけ君は、目次の見出しに詩人ジョージ・ハーバートのフレーズが引用されていることを記しているが、ソニドリさんはさらに複数の文学者の引用が認められることをあきらかにしています。「続き」に目次を完訳掲載しますが、目次だけでなく、注にも目をむけてください。(教師)


続きを読む

ジョージ・ハーバートの詩集を探せ!

151216 翻訳現場 明るさ修正


笑上戸20酩酊記

 16日のゼミでは4年生の卒論指導と3年生の洋書(英語)翻訳をおこないました。ぼくたち3年生の翻訳は始まったばかりで、目次をようやく読み終えました。この後、Introductionなどを経て本の内容に突入していく予定です。翻訳を続けていくとなかなか面白いなあと感じる部分もありました。目次のタイトルが日本語に訳すと妙な文章になってしまう箇所が少なくなかったのですが、調べてみたところ、ジョージ・ハーバートという17世紀に活躍したイギリスの詩人の作品の一節を引用していることが判明しました。ジョハーバートさんはキリスト教信仰をテーマにした詩を数多く残しているそうです。この詩人について情報を集めることが翻訳の前提になり、ますます翻訳活動に気合が入る次第であります。


151216 絡む武田 151216 忘年会での一幕


 ゼミ終了後、教授と会長さん、ゼミの4年・3年・ゲスト1名を加えた忘年会を開催いたしました。会場は昨年度と同じ「たけちゃん」という焼肉屋さん。ここの店長はもともとスペイン料理をやっていたそうです。そこからどのようにして焼肉の道に走ったのか、気になるところであります。たくさんのお肉を食べさせてもらい、とても感謝しております。ただ、先輩を差し置いて私はご飯を2杯食べてしまいました。ご飯のお会計まで教授と会長さんに支払わせてしまい、本当にすみませんでした。お酒もすすみ楽しい宴となりましたが、若干1名、酒にのまれて危うい状態になった者が3年の中に1名いました。彼は中央ブータンのまちブンタンの路上で寝たという武勇伝もあり、ゼミ史上、稀にみる”強心臓”の持ち主です。宴会後、彼や先輩方とともに大学に戻ったのですが、すぐに机の下の寝袋に忍び込んでぐぅぐぅ寝ておりました。彼は「もう酒は飲まない」と大学に戻ってきてからずっと言っていました。あれ?ブータンでも同じセリフを5日連続で聞かされた記憶があるのですが…。真実はどうでしょうか。新年会の続報をご期待ください。(くらのすけ)


151216 忘年会後の武田


ラウンドハウス(2)

0831flagfen01ブログ


 ラスキンの国、イギリスでも先史時代の遺跡ではラウンドハウスの上部構造を復元している。フラグフェンはピーターズボロにある青銅器時代(約3500年前)の集落遺跡で、archeological park として遺跡を整備している。
 ラウンドハウスは壁建ちで、円錐形の屋根を芝土が覆う。たしか北米先住民の住居にも芝土を被せる例があったように記憶している。その点、リアリティはあるのだが、商売柄、防水処理が気になってしかたない。文化庁や地方自治体の要求はきついのですよ。テントとか竪穴住居のような素朴な構造物を少なくとも10年もたせると命じられる。先史の時代にありましては、そんなにもつははずはないだろうと思うのですが、これを実現するためには、屋根・壁・床をしっかり防水処理しなきゃならないわけです。
 これでずいぶん失敗してきましたが、いま私はノウハウをもっている。ここには書きませんがね。フラグフェンでは、どうしているのだろうか。芝土の湿気で垂木が腐ったら、また屋根を作り直すのだろうか。


0831flagfen02ブログ

南谷大山遺跡

 1991年といえば、研究所に入所して4年目か。34~35歳だから、考古研への短期留学とか、秋田県の近代化遺産調査とか、北海道常呂町の史跡整備指導委員への就任とか、結構画期をなす年だった。博士号を取ったのも、この年じゃないかな。
 鳥取からも呼ばれたんです。羽合町の南谷大山遺跡で弥生終末期~古墳初期の焼失竪穴住居跡がでたので指導してほしいとの依頼だったんですが、竪穴住居を掘ったこともなく、私で役に立つだろうか、とおそるおそるでかけて衝撃を受けた。翌年(1992)の発掘調査報告書に特論を書かせていただいて、私の焼失竪穴住居研究はスタートしたのである。
 まだ平城宮の復元事業(朱雀門・東院庭園・大極殿)が本格的に始まっていなくて、比較的のんびり研究できていたころだった。しかし、まもなく赤紙が届く。前線に送り込まれても、焼失竪穴住居の研究を捨てなかった。平城宮の想像復元とは根本的に異なる実証的復元に取り組むことで意地をみせたかったのである。建築史の先達たちはわたしの仕事に関心を示さなかったが、考古の世界からは歓迎されたようで、その後、焼失住居が出たといえば現場に呼ばれるようになる。しかし、まもなく、その仕事もマンネリ化してしまう。

 いま焼失住居跡について建築の立場からコメントできる専門家は、全国で私ひとりになってしまった。だから、秋田まで呼ばれるのである。単純だと思っている人は甘いですよ。土層の反転現象がしばしばおこるので、なかなかやっかいなことになっている。そんなこんなで、先週から講義資料集めをしていて、南谷大山遺跡の写真が欲しくなったのだが、なにぶんデジカメが普及していない時代なので、古いハードディスクにもデジタルデータは残っていなかった。
 あっ、そうだ・・・保存修復スタジオにパネルを展示していたはずだ。この春、スタジオはケントのアトリエに改装された。大掃除したケントに尋ねると、「みつかりました」という。それが下の写真です。さっそくスキャンして、講義パワポに挿入したところです。


南谷大山ASI01ブログ

ラウンドハウス

 月曜は移動日で大学に戻らなければならないのだが、石洲会を見舞ったあと体調がすぐれず、ソファに横になって眠りに落ちた。患者は身を案じ、今夜帰るのを控えるように私を諭す。幸い、火曜日の実習・演習が輪番制になっていて、わたしの当番ではないので、休むことに問題はない。ゼミ生の選考も終わったので気楽なものである。
 それにしても、講義の準備はなかなか進まない。散在していた2004年のイングランド、2005年のスコットランド訪問のスライドを集成した。あの視察はとても有意義だった。遺跡整備に関して、あれ以上成果のある旅はなかったように思う。英国の場合、「復元」しないという原則を維持してはいるが、先史遺跡だけはラウンドハウス(円形住居)をしばしば再建している。伏屋でもないのに、屋根には芝土をかぶせたりしている点、興味深い。これが想像復元のレベルかというと、そうであるようで、そうでもない。鍵を握るのはクラノグだ。ケルト系の水上住居である。水中考古学の調査によって大量の建築部材が湖底から引き上げられている。あの部材をしっかり分析すれば、青谷上寺地に近いレベルでの復元が可能になるだろう。

 昨日の続きになってしまうけれども、史跡の整備を建築史の専門家が主導するのはよくないと思う。復元すべきかどうか、という大前提のハードルをあっさりスルーして、「どうすれば実証的な復元が可能か」という課題を第一義としてしまうからだ。復元しないほうが良い整備になる可能性が高いという認識がまず建築サイドにはないし、国立競技場の問題でまた露呈しているように、建築家やゼネコンや族議員は儲けたいのである。
 整備を主導すべき人材は、まず国際的な視野をもって、先進地がどのようなコンセプトによる整備をおこなってきたのかを知っていなければならないし、その前提としてヴェニス憲章や世界遺産条約についても熟知していなければならない。そして、それ以上に、「人の心を動かすもの」についての深い洞察が必要であろう。
 いろんな遺跡でいろんな整備がおこなわれているが、成功と呼べる例は数少ないわけだから、成功している例がなぜなのかをしっかり見極めないと、また同じ失敗を繰り返すことになる。すでにわたしは蚊帳の外だから、こうして批評していればよい。気楽なものである。


0828 Butser Ancient Farm02press
↑バスター古代農場(サセックス)。ケルト文化の農村と農園を復元し、積極的に活用している。

東院庭園再訪、あるいは再考

0press1211東院庭園01築山01遠景01 


 この週末、こんどは東院庭園を訪れた。先週の資料館と同じく、講義資料の作成のためです。
 残念なことに、中央建物は修復中であったが、目的は復元建物ではなく、築山である。平城宮跡の場合、遺構検出面に+80㎝盛土し、その地表面上にいろんな遺構表示をする。東院庭園では「池」を表現しながら、池に張り出す建物(中央建物)や橋を復元しなきゃならなかったので、盛土は一般部と異なり、復元建物基盤で+40㎝、園池で+10㎝としている。建物と遺構のあいだの40㎝の客土部分に基礎を納める一方、洲浜や池底部では遺構上に新しい小石を敷き詰めて洲浜を再現し、両者をすりあわせた。これで問題が片づいたようで、じつはそうでないことが最後の最後に露呈し、結構な騒動となった。
 築山石組と立石である。


0press1211東院庭園01築山01近景01


 園池の汀の何ヶ所かに築山石組と立石が残っている。それらの石たちはほとんどが倒れた状態でみつかっていた。さて、これらの倒れた石を立てるか、そのままにするか?
 内部で意見が分かれた。幹部および建築班は「立てる」のが当たり前だと思っていた。すでに中央建物、北東建物、隅楼などを復元建設している。建てたくて建てたわけではないが、文化庁の命令(予算)によって粛々とその仕事をこなしてきたし、池にしても本物を露出しているわけではない。ニセの洲浜を遺構上に再現してきた。全体が復元・再現の方向をむいていたのだから、築山石組と立石を例外とするわけにはいかない。遺構の出土状況をきっちり写真にとり、その記録を証拠として残した上で、倒れていた石を立てようという発想は事業の方向性からして誤っていないであろう。しかし、庭園班は反論する。石を立てるにも、どのように立っていたのか分からない。復元する人によって立て方が変わってしまう。


0press1211東院庭園01築山01遠景02


 どこかで聞いたような意見ではないか。建築の復元だって同じことだ。設計者が変われば復元の姿は大きく変わる(おそらく今もそうなっているだろう)。こういう仕事を長くやっていると、その現実を受け入れるしかない、という悟りに至るので、他者の復元案については、(飲み屋で悪口を言うことはあっても)公の立場で発言するのを控えるようになる。これは暗黙の了解なのだが、このことを知らない禿鷹は、平気で自分の案を正当化し、他者の案を批判するのである。自分も若いころはそうだったが、白髪になったり禿げてなお、そういう発言をするのは、「素人だから」と言うほかないであろう。素人を相手にしてはいけない。


0press1211東院庭園11中央建物修復01 




続きを読む

続・メリークリスマス!

151212_173819.jpg


 ノエルなシーズンになりました。クリスマス・プレゼントをせっせと運んでいます。先週のクマさんはどこにいったんだ。まさかナースの胃袋におさまったんじゃないよね!?
 今年のクリスマスは長崎で、と思っていたのですが、とりあえず年内の長崎行は中止にしました。年賀状がだせるかどうか、微妙な状態です。息子は賀状を買うべきだ、と言います。生きる意志を感じるからだ、と。
 明日午前、ひとつ話し合いの場をもちます。

 液晶がひび割れしていたiPadが修理から戻ってきて、また「知恵袋」に嵌ってます。J.D.サウザー爺に関する知識を吸収しているうちに眠りに落ちる。では、お休みなさい。




ガーヤマ病

 最近、古いパソコンをまとめて修理したり、処分したりしている。こういう場合、データのバックアップをなにより優先すべきだが、たとえばOSがXPなどの古いパソコンになると、バックアップも面倒くさいので、パソコンを解体しハードディスクを取り出してもらうのが手っ取り早い。それを新しいパソコンにつなげば、データをそのまま使えるわけで、便利です。
 ただし、以下のような接続機器が必要になる。3000~4000円で購入できます。

http://paso-parts.com/products/detail.php?product_id=520&gclid=Cj0KEQiAnJqzBRCW0rGWnKnckOIBEiQA6qDBajx9aFr-GZ6zPKtT1Wvb15HLAlfeVMH3SA1B0DXF-KgaAtYj8P8HAQ


 すでに研究室に届いているのだが、ケントが先んじて使うこととなった。先週8日からケントのパソコンが動かなくなってしまったのである。みな「ガーヤマ病」だろう、と言う。一年前、ガーヤマ(別名ポール)の机にはおかしな画面のあらわれるパソコンがおきっぱになっていて、みな「感染でしょ?」といじるのだが、ガーヤマはそれを否定しない。「そうです」としか言わないので、みなそのパソコンに近づかなくなった。なにぶん毎晩なのだそうである。新宿歌舞伎町で11万円ぼったくられるのも無理からぬところでしょうね。

 1年経って、ケントのパソコンが動かなくなった。嗚呼、ケント、御前もか、と問いつめるに、最初は「いえいえ」と否定し続けた院生ではありましたが、話し込んでいくと「毎日ではありません」と言う。なるほど、蔓谷発奮街のぼったくりが1万円で済んだのもまた道理があると言えば言えましょう。


続きを読む

来年度ゼミ(3年)配属投票結果

 例年、年明けの1~2月におこなわれてきたゼミ選択投票がどういうわけか今年から12月となり、その結果が送信されてきました。ASALABの希望者は6名です。公立化以後の変化をみると、6名(2014)→5名(2015)→6名(2016)ですから、例年並みと言えばそうですが、今年の学生の動きは例年とちがっていました。
 昨年まではヒアリングを希望する学生が2~3名程度だったのですが、今年は続々希望者があらわれ、最終的には9名を数えました。ヒアリングを希望する学生はふたつのタイプに分かれます。まず第一希望の教員に会って、シラバスを確認するタイプ。今回は3名であったと思われます。残りの6名は教員候補が2名いて悩んでおり、直接教員にあって、どちらにするか決めようとするタイプです。この6名のうち2名が私を選びました。ヒアリングの際、学生の話にあわせるのが得意ではありませんが、無理に演技しても来年苦労するだけですからね。残りの1名はヒアリングもなにもなしで私を指名しました。但し、いままさに居住環境実習・演習(Ⅰ)で指導中の学生です。



続きを読む

衝撃の放射性炭素年代-速報

旧山岡家住宅の部材

 今年度もまた科学的年代測定のお世話になっています。まず、倉吉市福吉の旧山岡家住宅(すでに解体)のウィグルマッチングが10月15日の速報で届いた。試料の最外年輪の年代は2σ暦年代範囲において、

   1731-1777 cal AD(24.6%)
   1855-1895 cal AD(53.9%)
   1906-1945 cal AD(16.9%)

という測定の結果がでた。約54%の信頼性で、西暦1855-1895年ということなので、幕末~明治期の部材である可能性が高く、最も古い場合でも18世紀でとどまる。あらっぽいチョウナはつり痕跡が残っており、17世紀以前に遡る可能性もあると思っていたが、存外、新しい材であった。


大雲院とジャンバラカンの柱材

 昨日、大雲院本堂ジャンバラカン(ブンタン)の部材の放射性炭素年代測定の結果も届いた。2σ暦年代範囲で以下の測定結果である。

   大雲院 内陣入側柱【ウィグルマッチング】
     最外年輪年代(辺材部)・スギ
     1670-1686 cal AD (95.4%)

   ジャンバラカン本堂内陣2本柱【AMS単体】
     最外年輪年代(部位不明)・樹種不明
      1526-1555 cal AD (16.3%)
      1632-1666 cal AD (74.4%)
      1784-1795 cal AD ( 4.7%)

 大雲院本堂の柱は面取角柱であり、年輪観察でも辺材部を確認している。したがって、伐採年代を西暦1670-1686年+αとみることができる。伐採年代はおそらく1695~1705年ころであり、その後、乾燥→加工→組立の時間を考慮すると、享保六年(1721)の棟札年代に整合する。享保六年の旧霊光院本堂部材の可能性とともに、焼失した前身建物の部材の可能性も浮上してきたと言えるだろう。霊光院第一文書によると、享保二年(1717)に建立された当初の霊光院には四間四面の「弥陀堂」と七間×五間半の「観音堂」が並存していたと考えら、享保五年の石黒火事で境内の堂宇は全焼するが、享保六年棟札の段階では弥陀堂と観音堂の合体した七間×六間の「本堂」が成立した可能性がある。内陣入側柱は四間四面「弥陀堂」のいちばん外側にあたる部分であり、あるいは享保六年棟札以前の弥陀堂の部材であるかもしれない。いずれにしても、霊光院本堂をひきついだ大雲院の本堂が、鳥取東照宮(1650)に次ぐ鳥取市内最古級の建造物である可能性がさらに高まったと言える。

 一方、吐蕃の王ソンツェンガンポが7世紀に創建したと伝承されるブンタン(ブータン)のジャンバラカン本堂内陣の2本柱(のうちの1本)は、最外資料が17世紀であり、7~8世紀の材ではないことが確定した。これには二つの解釈が可能である。一つは古代に遡る本堂が17世紀以降に「再建」された可能性である。しかし、それは「再建」ではなく、本堂「創建」の可能性もある。ウタムさんの持論である「国家形成期(17世紀)以前に本堂はなかった」ことを裏付ける資料としても理解しえるのである。ブータンでの放射性炭素年代測定の結果はパロのダカルポ-ゲムジャロ寺に次いで2ヶ所めであり、いずれも17世紀以降の年代を示している点は注目してよいだろう。来年度以降もデータの積み重ねができることを願っている。

倉吉打吹山麓の歴史的風致に関する総合調査(ⅩⅩⅩⅠ)

20151207水害写真1 河原町の古写真


明治26年水害写真と現在の町並み

 11月29日(日)。25日の卒論ゼミで進捗状況を報告した際、資料の中にあった明治26年時の倉吉水害写真資料と現在の町並み風景の比較分析に必要な現状の写真を撮影に行くべきとのご指導をうけ、会長さんの案内により、ココアくん・テングサくんとともに町並みの撮影をした。
 明治26年時の倉吉水害写真は鍛治町・河原町をはじめ、東仲町や魚町などの重伝建地区を含む広大なエリアの記録として貴重なものである。横倒しの建物や、屋根が崩落しているものなど、水害時の悲惨な状況が映しだされている。これらの写真は20枚ほどあり、いまなお写真と同じ外観をとどめているものが少なく、場所を判別するのが困難であったが、会長さんに手伝っていただいたおかげでなんとかノルマをこなすことができた。撮影の範囲が広いため、テングサくんは鍛治町・河原町周辺、ココアくんは東岩倉町・西町周辺、私は重伝建地区周辺に分かれて町並みを撮影した。


20151207水害写真2 20151207鍛治町
(左)明治26年時の鍛治町   (右)現在の鍛治町


 現状の町並みを撮影し古写真と比較することで、それぞれの場所での景観変化を理解できた。上の場合、左は明治26年の鍛治町の写真であり、切妻造妻入の茅葺き民家が軒をつらねている。この茅葺き民家には瓦葺きの下屋がついている。右は現在の鍛治町の町並みであり、位置が少しずれているが、同じ地区内の写真である。右の写真をみると、平屋建の建物はほとんど残っておらず、大半が2階建の建物に変わったことがわかる。
 だが、河原町・鍛治町には茅葺き民家が4棟残っている。この4棟は茅を鉄板で覆っているものや前面を看板建築で隠しているもの、前面を町家風に変えているものなど多彩だが、元が茅葺きであったことは確実であり、明治26年の段階から存在していた可能性が高いだろう。つまり、これらの茅葺き民家は、明治26年以降のある時点で、茅葺き民家の前面を看板や2階建の町家風に変えたものと推定できる。さらにまた、いまは普通の町家にみえる2階建の建物も、もとは茅葺き民家であり、2階を付加する改造をおこなった可能性も十分考えられる。
 テングサくんやココアくんが撮影した写真からも多くの変化を捉えうる。今後、これらの写真をデータベース化し、古写真との比較分析を深めていきたい。


20151207赤嶋こうじ荒物店 20151207ひろせや
(左)赤嶋こうじ荒物店 (右)ひろせや


続きを読む

リアリティ

1206資料館01机01 研究員の机


 何年ぶりか分からないが、資料館を訪問した。歴史遺産保全論の第11回講義「史跡の復元」に関わる教材を集めようとしてのことだが、正直がっくりした。展示も図録も代わり映えがしない。20年前から何か進歩したのだろうか。
 上は「研究員の机」と題する展示である。ひどいでしょ、これ。リアリティが全くない。歴史遺産保全論の用語に倣うならば、オーセンティックでない。机の上に数冊の報告書とわずかな文具・パソコンを並べてるだけの研究員てのは、どれだけ勉強してなくて、暇の固まりで、つまらないやつなのか?
 実際の机はもっと雑然として資料やゴミが散乱している。発掘調査部で研究者一人に与えられたスペースはとても小さいから、本も報告書も置き場がなくて、本棚の上で平積みになっているのがごく普通だ。なんでこんなこと書くのかというと、寅さん記念館で映画のセットをみてしまったからである。下の写真は再録ですが、どうですか、上下を見比べてみてくださいよ。


1127寅博11 朝日印刷の机


 あれはナベサダ京都公演の日だったから、4日(金)の朝か。山田洋次監督がTVに出演していて、「映画にはリアリティがなくちゃいけない」と語気を強めておられた。そのリアリティというのは、大道具・小道具だけでなく、その時代の意識だとか、仕草だとか、そういう全ての要素を役者が理解して演技しなければいけないということだ。 
 「研究員の机」と題する展示をしたいなら、だれかの机をまるごともってくる覚悟でやんなきゃ意味がない。そういう拘りと勢いのない中途半端な展示になんの意味があるだろうか。展示する側は、この曖昧なディスプレイでなにを訴えたかったのか。


1206資料館02復原01


 上下は同じ資料館に展示してあった「奈良時代貴族の館(の部屋)」である。これもまたリアリティがない。ただし、こちらは「復元」だから細部に拘り難い点、理解できないわけではない。「(8世紀のことなので)分からないものは展示しようがない」という発想であるとしたら、それは許容されるべきだと思う。不透明な対象にリアリティを与えようとして、想像力を働かせすぎると、吉野ヶ里「高殿」の内部空間のようになりかねないだろう。あそこまでいくと「捏造」の域に踏み込んでいて、そこにいることがイヤになってしまう。現状の「再現」には拘りつくす必要があるけれども、過去の「復元」ならばこれぐらいでとめておくのが賢明かもしれない。


1206資料館02復原02

1206資料館02復原03

続きを読む

大直禰子をどう読むか

 3年次対応の講義「歴史遺産保全論(2年前まで「建築の保存と修復」)は第10回「再考-ベニス憲章と日本」でピークを迎える。第9回で大直禰子神社(奈良県桜井市)と法華経寺祖師堂(千葉県市川市)、第10回で唐招提寺金堂(奈良市)の解体修理を概説し、3か所の修復結果とベニス憲章の理念との遠近を測るという試みをしている。
 昨年から、すべての講義で「学生さんの質問に答えます」コーナーを設けるようになった。前週の講義の感想欄に書かれた学生のコメントで優れたものを選び、それに答えるだけなのだが、準備には結構時間がかかる。しかし、これに採用された学生は嬉しそうにしてくれる。
 第9回のレポートに「大直禰子の読み方として、おおただねこ○、おおたたねこ× だと思われます。」というコメントがあった。「おおただねこ」が正しいと書いた女子学生に真意を尋ねたところ、直は「ただ」と読むからだと答えた。まことにもって正論である。自分でも気になっていた問題なので、少し調べてみることにした。
 大神(おおみわ)神社の摂社「大直禰子」神社は大神神社の神宮寺「大三輪寺」であったが、明治の廃仏毀釈で神社に変えられた。その祭神「大直禰子」とはいったい何者なのか。『古事記』では意富多多泥古(オオタタネコ・男)、『日本書紀』では大田田根子(オオタタネコ・女)となっている。だから、「タタ」が正しいとは言えない。濁音省略の可能性もあるからだ。読み方はさておき、由緒は大物主命と関係している。記紀で若干内容が異なるようだが、由緒のあらましは以下のとおり。

   崇神天皇が天変地異や疫病の流行に悩んでいると、夢に大物主があらわれ、
   「これは私の心境です。オオタタネコを呼んで、わたしの御魂を祭らせれば、
   かんしゃくもおきなくなるので、国は安らかに平らぐでしょう。こういうお告げが
   あった。天皇は早速オオタタネコをさがしだし、三輪山(大神神社)で祭祀を
   おこなわせたところ、天変地異も疫病もおさまったという。以来、オオタタネコは
   大神神社の神主となった。
 
 桜井市の大神神社に電話したところ、電話番の女性から禰宜らしき男性に変わり、大直禰子の読み方は「おおたたねこ」で間違いないという。名古屋市中区にも、同名の大直禰子神社があり、名古屋では「おおただねこ」と読むようですとお伝えすると、「はぁ、そうなんですか」とのこと。そこで、名古屋の大直禰子神社にも電話した。「大和一の宮・大神神社の初代神主である大直禰子(大田田根子)を祭神とする」としながらも、読みかたは「おおただねこ」で間違いないという。桜井市の大直禰子神社では「おおたたねこ」と読むようです、と説明すると、やはり「はぁ、そうですか・・・」との反応。
   

続きを読む

ナチュラリー

 北山の京都コンサートホールは格調高い現代建築で、もっぱらクラシック音楽の公演につかわれるようだが、われらがナベサダは別格扱いであり、クリスマス・コンサート2015の初日をここからスタートさせた。
 ブラジルから招聘した5名のリズムセクションに8名のストリングスを加えた大編成である。長谷川きよしのソロ・コンサートを終えてしばらくしたころ、ナベサダがジャキス・モレンバウム(チェロ)と共演した新作『ナチュラリー』がリリースされており、そのレコーディングメンバーのツアーがあることを知った。幸運なことに、拘束のない週末に京都公演がある。さっそく、チケットをローソンで確保した。まもなくCDも購入した。そのときもまだあることに気づかないでいた。

 ジャキス・モレンバウムはCD『ナチュラリー』のプロデューサーであって、チェロのソロもとっているが、今回のツアーに同行していない。あの清澄なチェロの音とナベサダのアルトの交錯する世界に浸りたいと願っていたのだが、京都コンサートホールの編成にモレンバウムのチェロは含まれていなかったのである。結果として感想を述べるならば、美しすぎるサンバとボサノバの反復を堪能できたことに喜びを覚える人だけではなく、クリスマス用のイージーリスニングに堕しているという批判が、ひょっとすると、一部からは聞こえてきそうな予感もしている。

 渡辺貞夫が80歳を過ぎてビッグバンドを組織したり、かつて心酔したブラジル音楽と邂逅しなおしたりという「前を向いた」姿勢に徹している点、ますます尊敬の念を強くする。とりわけ『ナチュラリー』に含まれる楽曲はほぼすべてが自身の新作であることは驚異というほかない。その信じがたい作品群をライブで聞く機会を得たことは感銘の極みだが、しかし、新作オンパレードのライブは大きなリスクを伴うのもまた事実であろう。
 たとえば、長谷川きよしのライブに足を運んだとする。そこで「別れのサンバ」や「黒の舟歌」が選曲から漏れ、最新作『心震える時』の組曲ばかり演奏されたとしたら、どうだろうか。いくら名曲の数々であるとはいえ、追っかけレベルのファンでさえ落胆を隠せないのではないか。渡辺貞夫の作る曲が美しいメロディとコード進行をしているのはだれもがわかっていることだが、どんな天才でさえ癖がある。その結果として、楽曲のムードやアドリブが似かよってくる。覚えのない類似した楽曲の繰り返しに高揚の萎える聴衆も少なからずいるだろう。
 アクセントがほしかった。芸術家は前をむいているだけでよいのかもしれないが、聴衆の多くは過去を懐かしむために会場に足を運んでいる。「カリフォルニア・シャワー」や「モーニング・アイランド」のようなヒット曲、あるいはまたパーカーの古典などがブラジル音楽に時折挿入されると、ハッとして目が覚めるだろうと思うのである。







続きを読む

第5回れきまち研究会のお知らせ(2)

 第5回れきまち研究会の陣容がほぼ固まりました。片貝家ノ下遺跡のこともあり、秋田から一人考古学者を呼ぼうとしたのですが、日程を調整できず断念(私の方は再訪することになりました)。また、久しぶりにスギボーの招聘も考えましたが、センター試験という共通の悩みをかかえており、こちらも断念しました。「助教に人権はない」とかなんとか申しておりました。
 最高の朗報は白帯くんの参加が確定してことです。さらに、我らが国防軍のエース、どんべえさんも前向きに出席を検討中です。ただし、まもなく異動があるとかで、しばし日程調整に入っています。
 大所帯になります。楽しみですね。

 第5回れきまち研究会
  「倉吉小鴨川外周域の史跡と文化的景観の保全」(仮題)

 鳥取県環境学術研究費の助成による「倉吉打吹山麓の歴史的風致に関する総合調査」は、一昨年に長谷寺と打吹山、昨年に鍛冶町・河原町の町並みと祭礼を調査研究してきました。今年度は、旧市街地に点在する茅葺民家に焦点をあてた町並み研究と小鴨川外周域に点在する古代史跡群(伯耆国庁・伯耆国分寺・法華寺畑遺跡等)及びその周辺に展開する農地景観の保全に関わる研究を進めています。こうした活動の中間成果を報告するとともに、「遺跡整備と復元建物」「建築考古学」「文化財と地域振興」についてひろく討議する研究会を下記の日程・会場で開催します。


   日時:  2016年1月16日(土)11時~15時
   会場:  医食同源「さとに千両」
        〒680-0935 鳥取市里仁312-1
         http://satoni.jp/ ℡0857-50-0613
   司  会: 中原 斉(鳥取県埋文センター所長)
   副司会: 眞田 廣幸(倉吉文化財協会会長)
      同: 浜田 竜彦(鳥取県立むきばんだ史跡公園) 
      同: 山田 協太(京都大学地域研究統合情報センター) 
   話題提供・討論参加者: 
        浅川 滋男(公立鳥取環境大学)
        松尾 充晶(島根県立古代出雲歴史博物館)
        佐々木孝文(鳥取市教育委員会文化財課)
        茶谷  満(鳥取県教育文化財団)
        真鍋 建男(空間文化開発機構代表)
        檜尾   恵(空間文化開発機構・研究室OB)
        清水 拓生(大田市教育委員会建造物係・研究室OB)
        岡野 泰之(日本住宅パネル工業協同組合・研究室OB)
        岡垣 頼和(鳥取市役所・研究室OB)
        中島 俊博(大和建設株式会社・研究室OB)
        吉川 友実(日程調整中・研究室OB)
   記録・事務局: 公立鳥取環境大学保存修復スタジオ(吉田・菊池・流郷)
             hozonshufuk@yahoo.co.jp

 原則としてクローズドのセッションですが、参加希望者があれば受け入れます。事務局までご連絡ください。
 

倉吉打吹山麓の歴史的風致に関する総合調査(ⅩⅩⅩ)

151129国造焼3 国造焼窯元


社地区の窯元を訪ねて

 昨日レポートしたように、29日(日)の主目的は古代の景観をしのばせる農村・農地・山川の景観を撮影することであったが、その途中にある窯元の訪問を副次的な楽しみとした。倉吉の社地区には5つの窯元がある。「国造焼」「上神(かづわ)焼」「上神山焼」「福光焼」「黒見焼」で、今回は「国造焼」「上神山焼」「黒見焼」の窯元を訪れた。
 初めに訪れたのは国造焼窯元である。所在地は不入岡(ふにおか)で、県の無形文化財になっている。三代目の山本浩彩さんと会い、お話しすることができた。陳列されていた花器や壺は色のグラデーションが特徴的で、とても印象的だった。


151129国造焼 151129国造焼2 国造焼

 
 次に訪れたのは上神山(かづわやま)焼の窯元である。所在地は上神であり、上神(かづわ)焼の窯元に近い。お目にかかったのは上神山窯元三代目の山根芳子さんで、いろいろお話を伺うことができた。辰砂(しんしゃ)による赤色が特徴的で、山根芳子さんは2009年に鳥取県伝統工芸士に認定されている。また、体験教室を主宰したり、や毎年社小学校を訪れるなどの活動をされているようだ。


151129上神山3 
↑↓上神山窯元
151129上神山2  151129上神山



続きを読む

倉吉打吹山麓の歴史的風致に関する総合調査(ⅩⅩⅨ)

151129不入岡 不入岡集落


不入岡から上神へ

 11月29日(日)。25日(水)の卒論でパワポ発表し、そのあとに会長さんの講演を聴いた。そこで浮き彫りになった問題点をクリアするため、倉吉市社地区の古代国府にかかわる風土を見てまわった。10月18日にも同じように、社地区を訪れたが、今回はその補足調査と位置づけている。主に農村・農地の景観と伯耆国府の痕跡を課題とし、会長さんにご案内いただいた。
 最初に訪れたのは不入岡(ふにおか)である。古代の倉庫群跡だとされている「不入岡遺跡」や、安山岩の自然石を少し加工した「不入岡の石仏」などが知られているが、今回は農村・農地の景観に焦点を絞り、和田という土地に近い場所から撮影した。写真は、国造焼の窯元を背後に撮影したものである。「不入岡」という珍しい地名は「権力が立ち入れない岡」という意味だそうだが、律令時代まで遡るものではないらしい。


151129不入岡2 不入岡周辺の農地


 続いて訪れたのは上神(かづわ)集落周辺だった。河原町の巨匠アマノさんの持論によれば、「上神(かづわ)」とは「上ツ神(みわ)」の訛りであるという(北条町には「下神(しもつわ>しもつみわ)という地名もあるとのこと)。背後に四王寺山を望める。今回は上神集落を見渡せるような高い地点から俯瞰写真を撮影した。建物が密集している場所と、農地が広がっている場所がはっきりしていて興味深かった。


151129上神 上神集落(右奥が四王寺山)


兵庫谷の景観
 
 その後、移動してから国庁碑がある場所を案内していただいた。字「大境」の周辺で、国分寺集落から程近い。東の方角に打吹山、西の方角に四王寺山があり、四王寺山を越えた地点には字「兵庫谷(ひょうごだに)」がある。「兵庫谷」とは、文字通り、武器庫のおかれた谷筋のことである。古代の国庁周辺には武器庫や倉庫などの関連施設が存在したため、このような地名から当時の景観を考えることもできよう。


51129国庁碑の東  151129国庁碑
↑国庁碑から西(山の向こうが兵庫谷)                    ↑国庁碑



続きを読む

プロフィール

魯班13世

Author:魯班13世
--
魯班(ルパン)は大工の神様や棟梁を表す中国語。魯搬とも書く。古代の日本は百済から「露盤博士」を迎えて本格的な寺院の造営に着手した。魯班=露盤です。研究室は保存修復スタジオと自称してますが、OBを含む別働隊「魯班営造学社(アトリエ・ド・ルパン)」を緩やかに組織しています。13は謎の数字、、、ぐふふ。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カレンダー
11 | 2015/12 | 01
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 - -
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR