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鯉に願いを-ネコノミクスの街(2)

公民館便り28年5月_01web 公民館便り28年5月_01


 昨夜報告した27日の視察時、新刊の報告書『地蔵盆を未来へ-倉吉の歴史まちづくり(Ⅱ)-』を70冊ばかり地元に置いてきました。さっそくお配りいただき、さらにはまた「河原町自治会公民館便り」83号に紹介していただきました。上の右側の小さな画像をクリックすると公民館便りが拡大し、文字が鮮明に読めますので、ぜひともご閲覧ください。

 昨日も述べましたが、「旧小川酒造に集中する」というお上のやり方に冷気が拡散しつつあります。記念館で何をどうするつもりなのか、地域住民に対する情報公開すらなされていません。旧小川酒造はたしかに河原町・鍛治町の町並みの拠点であり、その保全整備を否定するつもりはありませんが、五叉路周辺は明倫地区の町並みのもう一つの拠点であり、さらにまた点在する茅葺き民家や伝統的町家の文化財価値はとても高いものです。
 文化財を専門職として給料(税金)をもらっている人たちが、一部の文化遺産を贔屓にして、他をないがしろにしているとすれば、そこには何か癒着や利権めいたものが絡んでいるんじゃないか、とさえ勘ぐりたくなります。そもそも文化財の保護とは、行政が独断で決めるものではありません。複数の学識経験者の評価を踏まえ、地域住民の意見を十分に汲み取りながら進めていかなければならないものです。どうもこのあたり、平田にしても倉吉にしても、実権を握る人物が勘違いしており、文化財保護のあるべき姿から日々遠ざかっているように思えてなりません。
 今夜はこの程度で控えますが、場合によっては、当方もモードを切り替えざるをえない時がくるかもしれない。そうならないことを祈っております。

鯉に願いを-ネコノミクスの街(1)

0426小倉01 160427 鉢屋川まえにて


地蔵のそばの土蔵を守れ

 4月27日(水)。ASALAB一同、倉吉市河原町へ赴き、旧小倉商店の主屋と土蔵、および周辺の町並みを視察しました。天気は生憎の雨でしたが、これまで雨に煙る河原町の風景を目にしたことがなく、自分自身どこか新鮮な気持ちで河原町を見学できたと感じております。雨の日には雨の日の良さがある。
 なによりまず旧小倉商店の見学です。この2月、土蔵を取り壊して駐車場にする話がもちあがり、関係者がスクランブルで集合しました。なにぶん東地蔵の背景となる町家の土蔵ですから、町並みに与える影響も大きいし、地蔵盆だってやりにくくなります。あれは2月10日のことでした。ASALABからも有志4名がかけつけ、会長ともども「河原町の文化を守る会」と対策を練りあげたのです。鳥取県環境学術研究費の助成を受けた「倉吉打吹山麓の歴史的風致に関する総合調査」は最終年度の最終段階を迎えたころで、報告書の編集を残すばかりであり、今年度は大雲院に係わる調査研究に集中しようとしていた矢先の出来事でした。そのときの打ち合わせには所有者さんも顔を出され、思いのほか順調に話が進んだようです。そして、代表者が市教委に陳情書をもっていかれたのですが・・暖簾に腕押し、糠に釘・・・OGRは棚にあげ、OGWの話ばかりだった、とか・・・「OGWのことしかしない」は今年の流行語大賞の候補になりそうな勢いで人口に膾炙しつつあります。


image2.jpeg 160427 旧小倉商店 土蔵②


 土蔵は2階建ですが、いわゆる中2階形式で、高さをおさえた建物になっています。1・2階とも内部をベニヤ板張りにしているため、壁付の柱や小屋組の束が隠れてしまっているのですが、先生はすばやく特色を察知し、「これ、古いんじゃない」と仰いました。古いと言われる理由は以下の通りです。

  1) 和小屋と登り梁を併用する古式の構法
  2) 材そのものの風蝕・劣化など
  3) 2階を低くしていること自体、明治期以前の建物であることを示唆。


image1.jpeg 和小屋と登り梁


 ところが、所有者さんは、主屋が昭和7年(1932)で、土蔵はその後に造られたと言われます。土蔵が仮に昭和戦前の建物であるとすれば、2階を高く造り、小屋組は木造トラス(洋小屋)にしたはずなので、大きな疑問が生じます。ここで所有者さんは、「土蔵は造り替えかもしれない」と発言されました。つまり昭和7年以降に古材を残して修理したか、再建したか、のどちらかの可能性が高いと思われます。これには会長も驚かれたようです。近い将来、部材の放射性炭素年代測定がおこなわれることになるかもしれませんね。


0426小倉03 0426小倉02



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平成27年度 公立鳥取環境大学特別研究費 実績報告

申請題目  大雲院とその末寺群の伽藍構成及び仏教美術に関する予備的研究
経  費  995,000円


研究概要

 鳥取市立川の乾向山大雲院(天台宗山門派)は、慶安3年(1650)に鳥取藩主池田光仲が勧請した鳥取東照宮の別当寺であった。大雲院は東照宮勧請と同時に神社の隣接地(現在の樗谿公園)に創建され、東照宮を管理・運営した。大雲院は、鳥取藩領内天台宗の触頭として諸寺を管轄した。鳥取の摩尼寺、三朝の三仏寺、倉吉の長谷寺などはすべて大雲院の末寺扱いされていた。ところが、明治元年の神仏分離令により、別当寺の廃止が命じられ、大雲院は東照宮奉仕をやめて境内を引き払い、明治3年(1870)に立川にある末寺霊光院に仏具等一式を移した。摩尼寺と大雲院の関係も東照宮勧請直後まで遡る。
 元禄3年(1690)に大雲院の二代栄春が荒廃していた摩尼寺の復興に着手したが、明暦3年(1657)死去し摩尼寺に埋葬。三代廣海も延宝2年(1674)に摩尼寺で死去し埋葬。元禄2年(1689)四代観海が隠居して約30年に及ぶ堂舎・仏像などの整備を進め、享保3年(1718)に五代観洞が山上「奥の院」から山腹に移設された新生摩尼寺の初代住職となった。大雲院は山門派であるにも拘わらず、このとき摩尼寺は宗派を安楽律派に変更し、比叡山横河の安楽律院から輪住が派遣されることとなる。こうした歴史的背景を踏まえ、以下のような調査研究等に取り組んだ。
 1)大雲院の建造物について予備的実測調査を進め、図化を完了。
 2)大雲院所蔵仏教美術品のうち仏像・位牌・建築厨子など125点の概要を調査。
 3)大雲院(旧霊光院)本堂の年代を確認するため、棟札の翻刻、霊光院第一文書の分析、建築部材の科学的年代測定を進める。
 4)「大雲院本坊指図」(18世紀)の分析から樗谿に所在した藩政期の大雲院本坊の平面・配置を復元。
 5)名勝地としての摩尼寺の価値を確認するため、文化資産分布図・石仏分布図等を作成。
 6)摩尼寺の山門より内側の境内で年代が最も古い庫裡の詳細調査をおこなう。
 7)比叡山横川飯室谷に所在する安楽律院(すでに廃絶)の遺構配置を略測。
 8)摩尼寺本堂等国登録有形文化財官報告示を記念して本堂斜め前に案内板を設置し、10月24日に摩尼寺紅葉コンサート(長谷川きよしSolo)を開催。120名の聴衆を集める。
 9)11月7日、大雲院~樗谿~太閤平~摩尼寺~砂丘の巡礼トレッキングを開催。参加者53名。
 8)活動成果の報告会として、2016年2月21日、第1回仏ほっとけ会(摩尼寺・大雲院仏教講座)を開催。吉田「大雲院の建築と建築厨子」、高後「樗谿所在旧大雲院の本坊に関する基礎的研究-平面の復元を中心に-」、三島「大雲院所蔵美術品の整理と分析」、浅川「摩尼山・摩尼寺の保全にむけて」を発表し、討議。コメントは眞田、佐々木。来場者75名。


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天の鳥(1)

160419 天の鳥 表紙[Web ver.] p.1(表紙)

          天の鳥

      テキスト: ぺマ・ギャルツェン
      イラスト: チャンダ・S・スッバ


The Heavenly Birds p03[トビラ] p.2-3


第4代ギャルポ・ジグメ・シグイェ・ワンチュク国王陛下の
還暦記念祝賀に本書をささげます。


The Heavenly Birds p04 The Heavenly Birds p05 p.4-5(トビラ)

       謝辞

 本書を世界中の子どもたちにささげます。
 おじのリンチェン・ドルジには援助に対して、
 息子にはいつも発想の源になってくれていることに対して、
 感謝いたします。


           天の鳥
      テキスト: ぺマ・ギャルツェン
      イラスト: チャンダ・S・スッバ


The Heavenly Birds p06 The Heavenly Birds p07 p.6-7

おおくの湿地(しっち)をふくむ、
ゆたかでうつくしい緑の牧草地(ぼくそうち)が、
ポブジカ(Phobjikha)谷にありました。 
ワンデュ・ポダン((Wangdue Phodrang)*1
から、およそ60キロはなれたところです。
 【森下】



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平成27年度 公立鳥取環境大学教育研究特別助成 実績報告

申請題目  中国青海省におけるチベット仏教系寺院の予備的調査研究
経   費  860,000 円
 

 2015年度で終了する科研基盤(C)「チベット系仏教及び上座部仏教の洞穴僧院に関する比較研究」を前進させ、2016年度の科研基盤(B)海外分野で申請するための予備的調査として、2015年9月15~22日、中国青海省を訪問した。参加者は2名。まず、青海省文物考古研究所を表敬訪問し打ち合わせをした。そこで青海省の瞑想洞穴に関するデジタル データの提供をうけ、アドバイスに従って互助県の白馬寺(唐代開山)を視察。瞑想洞穴の遺構を確認した。その後、タール寺、ラブラン寺、センゲマンゴ寺などの重要な顕密教併習寺院を見学。夏河のラブラン寺には背後の山の斜面に30棟以上の屋宇で覆われた瞑想洞穴を確認した。残念ながら、密教のエリアには進入禁止であり、 今回は瞑想洞穴の遠景写真の撮影にとどまった。その後、青海湖に移動。中国最大の塩水湖周辺(標高3200m)にはチベット族がいまもヤク牛と羊の遊牧をしており、そのテントでもてなしを受けた。また定住化した半農半牧民の民家・集落の視察もした。さらに青海湖から南山の峠に移動し、青海湖の全景を撮影。峠は天地の境として宗教的に重要な意味があり、五色旗タルチョが棚引き、視察時には活仏(生き仏)の参拝もあり、僧と信者で賑わっていた。最終日は西寧に戻って青海省博物館を視察。先史時代から中原方面との文化交流が密にあったことを考古資料により確認した。
 2016年2月21日(日)に「第1回仏ほっとけ会-摩尼寺・大雲院仏教講座」を開催し、第一部で前園実知雄氏(奈良芸術短期大学教授・愛媛県埋蔵文化財センター理事長・橿原考古学研究所指導研究員)に「チベット仏教成立前後の考古学-もう一つのシルクロード(青海路)の調査から」と題する講演をしていただいた。コメントは中国考古学専攻の茶谷満氏(鳥取県教育文化財団)。


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座談会「民族建築その後」(その1)

 昨年(2015)の11月8日(日)にカフェ黒田で開催された座談会の記録をこれから連載します。録音文字化データの第一次整理は、今年度からゼミ活動に参加いただいている山村賢治さんにお願いしました。山村さんの校正テキストをさらにASALABで校閲したものを掲載します。


建築嫌い

 栗原  日本建築学会の比較居住文化小委員会で『フィールドワークの系譜』(仮)という書籍の出版を企画しています。公立鳥取環境大学浅川研究室でこれまでやってこられた海外での調査研究の方法についても、その本で取り上げたいと思っています。比較居住文化小委員会は、学会のなかでフィールドワークをアイデンティティーとしているところに最大の特色があります。3年ほど前には『フィールドに出かけよう! 住まいと暮らしのフィールドワーク』(風響社・2012)という概説書を出しています。今回は『フィールドワークの系譜』ということで、各大学の建築系研究室が取り組んできたフィールドワークの方法に焦点をあてた出版企画です。一口にフィールドワークと言いましても、それぞれの研究室によって独特のスタイルがありまして、手法としてのフィールドワークに焦点をあてて、他の研究室のスタイルをちょっとのぞき見したいという気持ちがあって、このような出版企画に至りました。全国で18の研究室を取り上げることになっています。
 浅川  私個人の立場から申し上げますと、来年(2016)の大晦日で還暦を迎えるものですから、その記念に小さな本を出したいなぁと漠然と思っています。これまでは1万円以上するような学術書ばかり出してきたわけですが、もっと気楽で安価な本にしたい。巻頭に座談会の記録をいくつかもってきて、あとは紀行文や随想をずらっと並べる。私の研究活動は「民族建築」「建築考古学」「地域貢献(鳥取学)」などに分かれているのだけれども、まずそれらに係わる座談会を5~6本集めて、自分の業績を振り返ろうと思っていたところです。このたび栗原さんから研究室の民族建築研究に係わる紹介記事の執筆依頼があり、その条件が、私ではなく、私の弟子筋にあたる若手が書くということなので、この機会を活用させていただこうと思ったのね(笑)。この際ですから、関係者にお集まりいただき、私と研究室の履歴を語っておこう、と考えた次第です。
 栗原  松原弘典先生の『未像の大国 日本の建築メディアにおける中国認識』(鹿島出版界・2012:pp.368-376)のインタビュー「日本建築界で中国をみてきた専門家たち(9)」と重複するかもしれませんが、まず浅川先生の主題の一つである「民族建築」の世界に入るきっかけから、お話を始めてください。
 浅川  私は1975年に大学の工学部建築学科に入学したのですが、正直なところ、建築が好きで選んだわけではありません。建築学科に4年通ったのですが、とうとう好きになれなかった。サッカーを同好会でやっていて、親しい仲間たちは理学部や文学部にいる。理学部・文学部の連中は工学部をバカにしていました。じっさい、かれらの方がよほどおもしろいことをやっていると私も思っていました。ともかく建築という分野はしんどかった。他学部・他学科で半期2単位の科目が建築では1単位ですからね。取得単位数は多いし、物理系の科目はついていけないし、設計は下手だし、候補として残ったのは歴史系しかない。
 栗原  1979年に修士課程に進学されていますね。
 浅川  同級生の大半は大手ゼネコンに就職していきましたが、自分は絶対無理だ。故郷に戻って高校の教師でもやるか、留年して教職でもとろうか、と考えたりしていてね。べつに大学院に上がりたいとは思っていない。建築を続けたいという意欲が湧かない。だから、進学についても、就職を2年先にのばせればいいや、という程度の感覚でした。そういう根性なものだから、先生によく叱られました。

クロスロード

 浅川  進学早々、教授室に呼ばれましてね。「夏休みに2ヶ月間ミクロネシアのトラック諸島へ行かないか」と誘われます。嬉しいような悲しいような心境でね。海外旅行など珍しい時代で、家族のハワイ旅行以外は海外に出たこともなかったですから、恐怖感が先走りました。初めての海外調査がミクロネシアで、2ヶ月間一人で暮らすというのだから、不安は膨らみます。現地へ行って、遺跡の中に伝統的な集会所を建てるプロセスを2ヶ月間記録して、民族学(文化人類学)的な仕事はおもしろいものだなと思いました。
 山田  ミクロネシアに行け、と言われることになった背景には、どのような事情があったのでしょうか。たとえば、JICAとか、あるいは文化財保存の方面からの要請などがあったのでしょうか。
 浅川  西川先生のところには遺跡関係の整備に係わる国際協力の依頼などがいろいろあったんだと思います。その一つに、ミクロネシアの山城遺跡の整備があって、伝統的な集会所を復元するからだれか派遣して記録をとってくれという仕事の依頼があったんでしょうね。
 山田  ミクロネシアの「山城」と言いますと?
 浅川  太平洋の島々は大きく火山島とサンゴ島に分けられます。火山島で山城を営む時代があった。500~600年前、島相互の戦争が激化していたんです。日本統治時代に連合艦隊の基地が置かれたミクロネシアのトラック環礁にトル島(水曜島)という比較的大きな火山島があります。その山頂で山城の遺跡がみつかっていました。それを、アメリカの指導のもとに史跡公園整備しようという事業が動き出していたんです。整備そのものはアメリカが指導したんですが、集会所建設の記録だけは日本に依頼してきたということです。わたしの調査研究の出発点は民族学と考古学が交差している。フィールドは民族学的な場所(オセアニア)なんですが、仕事の内容は遺跡整備なんだから。結果論でしかありませんが、自分の人生を方向づける2つの分野と初めからつきあっていたということに自分でも驚いてます。
 栗原  そのとき研究室に院生が何人いらっしゃいましたか。
 浅川  数名ですね。
 栗原  それで、浅川先生お一人で行かれたのですか。
 浅川  一人です。
 栗原  西川先生はなぜ浅川先生を指命されたのですか。
 浅川  わからない。いま振り返ると、私より向いている人はいたと思います。ちなみに、先生はトラックに1週間ばかり滞在された後、ポナペのナンマドール遺跡を視察されて帰国されました。



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晴耕雨読(Ⅴ)

GPS銀①苗植え中


 こんにちは。今回から新3年生もブログを担当させていただきます。ちなみに、3年のゼミ生は6名(男2名・女4名)ですが、居住環境実習・演習(Ⅱ)を受講している男子学生1名も加わって、前期は3年生7名がいっしょに活動します。

 みなさん、野菜食べてますか。「忙しいから今日はコンビニでいっか」とか思っていませんか? 体は資本、野菜も食べましょう。

 ということで、4月20日(水)。今年度の3年ゼミは昨年に引き続き野菜作りで幕を開けました。畑は大学裏山の「茶室」のそばにあります。本日の作業は畑の開墾および野菜の苗植えです。ケントさんに協力してもらって、ピーマン・ナス・トマト・キュウリ・キャベツ・ゴーヤ・アスパラガス・トウモロコシの8種類15株の苗が用意されました。いまから収穫がとても楽しみです。


GPS銀②準備物 160420浅木カメラ 苗


 苗や堆肥・農具を手に草をかきわけ、畑に向かうと、それだけで少し汗ばんできました。朝晩の冷気がウソのような陽差しのなか、作業が始まりました。まずは土を耕すところからです。途中木の根に阻まれたりもしましたが、手伝っていただいた先輩たちは手慣れたもので、次々と木の根を引き抜いていました。さすがです。今回は畑に十分な量の土が残っていたので、土は足さずにそのまま堆肥の混ぜ込みをおこないました(↓)。ちなみに、化学肥料を用いない有機農業となっております。耕した土で畝を作ったら苗を植え、初めての水やりで本日の作業は終了です。


160420GPS銀①堆肥の混ぜ込み


 今回は4年生の先輩方に手を貸していただけたので、とてもスムーズに作業を進めることができました。3年生には農業高校出身の学生もいるのでみんなで頑張っていきたいと思います。

 おいしい野菜が採れるといいな!早く食べたい。(だっしょ)


GPS銀①デューク更家のウォーキング
↑水撒き  ↓作業完了
160420GPS銀①苗植え後1

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訃報

 4月18日(月)、演習室の電話が何度か鳴って、内蔵助が対応し、メールで連絡してきた。中国人女性からの電話で、その人の名はリーさんという。確認すると、携帯にも着信があった。リーさんは『営造法式』で博士学位を取った若手研究者で、旦那さんのS君も中国建築史を専攻している。中国研究から縁遠くなった私にいったい何の用なのか。
 しばらくして、携帯が鳴った。神妙な声で、彼女は呟く。

   楊鴻勛先生がお亡くなりになられました。

 楊鴻勛先生は中国留学期における私の指導教官の一人である。最初に同済大学(1983-84)で陳従周先生(庭園史)に学び、その後、中国社会科学院考古研究所(1992)で楊鴻勛先生(建築考古学)に教えをうけた。このあたりの事情については、「楊鴻勛先生と語る(Ⅰ)」をご参照いただきたい。
 最後にお目にかかったのは、2010年3月4日の大山・隠岐・三徳山シンポジウムであった。振り返るに、招聘しておいて本当に良かったと思う。あのころは田中淡さんもご存命だった。いまごろ、二人の巨匠は天国で再会されているのかもしれないね。
 北京の王秀蘭さん(楊夫人)からリーさんに電話連絡があったそうだ。楊先生は胃癌を克服して大著『大明宮』を出版されたが、その後、癌が大腸に転移したらしい。1931年のお生まれだから、享年85歳。夫人は「浅川さんに伝えて」と仰ったそうである。夫人の携帯番号を教えていただいたが、なかなか電話する気力が湧いてこない。怖ろしい。少し気持ちを整理し、話すべきことをノートにでも書き連ねてからでないと、電話しても意味がないような気がしている。

  中国建築史・建築考古学の大家、楊鴻勛先生のご冥福を心よりお祈り申し上げます。



20091203022909f89.jpg
↑北京のレストラン「大三元」にて(2008年秋)。右端が楊先生、中央が王夫人。

ブータン民話 『心の余白 私の居場所はありませんか?』 刊行!

160419心の余白表紙 160419心の余白背表紙


 昨年度(2015)後期のP2&P4「初級英語で読むブータンの絵本」の和訳成果を、大学の内部資料として刊行しました。
 本書の構成は以下の通りです。

     1.心の余白-私の居場所はありませんか?
        コラム1 「参考写真」 コラム2 「解題」

     2. ねずみのおばさん
        コラム1 「参考写真」

      スケッチ・オブ・ゴンパ-第4次ブータン調査-2015年8月29日

 原著の図書情報は こちら を参照してください。訳本の図書情報は以下のとおりです。

     書 名: 心の余白 私の居場所はありませんか?
          (ASALAB報告書第32集)
     編集・発行: 鳥取環境大学保存修復スタジオ
     印刷所: 株式会社 矢谷印刷所
     発行日: 2016年3月20日
     総頁数: 76ページ

 さて、本書は前作『炎たつ湖』についで2冊目となるブータン民話絵本の和訳本です。じつは、『炎たつ湖』の翻訳には私自身P4のリーダーとして携わり、言葉選びに四苦八苦したのを覚えています。なにしろ絵本ですから、子どもたちに通じる優しい言葉を用いる必要があります。また、時々ゾンカ語や、ブータン仏教・チベット仏教の専門用語が出てくるので、翻訳サイトなどでは容易に訳せません。きっと後輩たちもこういった面で苦労したことでしょう。しかし、私の携わったころもそうであったように、授業風景は穏やかでしたから、気楽に取り組めたのではないでしょうか。そういえば、「秋のブータン食祭り」もこのプロジェクト研究の際に行いましたね。皆、旨辛い思い出が残っていると思います。(ソニドリ)

黄昏交差点(3)

0416しだれ桜02



 4月第1週に遊びすぎてしまって、後遺症に苦しんでおりました。酒と薔薇は麻薬ですね。麻薬を絶つには,、奈良に帰るがいちばんよい。ここには平和な世界がある。
 それにしても、授業の準備も研究申請もままなりません。iPadばかり覗いている自分がいる。スマホを批判しつつ、iPadを覗く自分は何なんだ。しかし、募金は済ませましたよ。JALがマイレージの寄付を募っている。1口3000マイルだというので、できる限りのことはしました・・・そして、いつものヤフー知恵袋へ。このサイトには怖ろしい情報が詰まっている。知恵袋で日常生活の世界観がかなり修正されました。

 奈良ではまだ花見ができます。近くの公園にしだれ桜が咲き乱れているのです。結構おおきなアズマヤがあって、そこで遅めのランチをしました。カフェ漁りより風雅です。六十過ぎたら、こういうスローライフを九州か四国でおくりたいと思っていました。夢だね・・・現実は厳しい。



 

『地蔵盆を未来へ―倉吉の歴史まちづくり(Ⅱ)―』刊行!

倉吉の歴史まちづくり、3冊めの報告書

 2013-2015年度鳥取県環境学術振興事業(環境部門B1301)に採択された「倉吉打吹山麓の歴史的風致に関する総合調査-歴史まちづくり法による広域的景観保全計画にむけて-」の3冊めの報告書が刊行されました。1冊目は『「長谷寺要用書記」翻刻』(2014)で、2冊目は講演記録集『倉吉の歴史まちづくり』(2015)です。そして、今回の報告書が最終のレポートになります。

 3冊めの報告書『地蔵盆を未来へ―倉吉の歴史まちづくり(Ⅱ)—』は、2014年度の河原町・鍛治町2丁目の町並みと地蔵盆の調査成果を中心にして、昨年度(2015)の国府に関する研究や都市の茅葺き民家に関する研究を盛り込んでいます。さらに、付録として第2回・第3回れきまち研究会の記録と旧山岡家住宅建築部材放射性炭素年代測定のレポート、「男はつらいよ」町並み画像データベースを含んでいます。また目立ちませんが、巻末に掲載された教授による「後記-ネコノミクスの街」は最近のバルカン紀行を記したものでして、これがどのようにして倉吉に結びつくのか、ぜひともご一読ください。

 さて、私は「編集長」を命ぜられ、報告書の編集業務に初めて携わりました。旧4年生から年度末に業務を受け継いだとき、第1章~第5章の原稿レイアウトがバラバラであり、それらのフォント・サイズ・行間・マージンなどの原則を決めて整理するのに時間を費やしました。また、報告書とは別なんですが、同時期に某委員会でクラブ紹介冊子の編集業務にも携わっていたため、試し刷りなどで莫大な印刷ポイントを消費してしまったのは、苦くて楽しい思い出です。
 以下、図書情報です。

   書 名: 地蔵盆を未来へ―倉吉の歴史まちづくり(Ⅱ)—
   編 集: 浅川 滋男
   発 行: 公立鳥取環境大学保存修復スタジオ
   印刷所: 山本印刷株式会社
   発行日: 平成28年3月31日
   総頁数: 94ページ

  報告書の入手は可能です。ご希望のかたはブログにコメントいただければ対応させていただきます。
  目次は「続き」に掲載します。ご参照ください。(ゆめみし)



倉吉報告書表紙



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『鳥取環境大学紀要』第14号 刊行!

ブータンの崖寺と瞑想洞穴

 昨年度末、 『公立鳥取環境大学紀要』第14号が刊行されました。例年ASALABから2本の論文を投稿してきましたが、昨年の夏休みは長谷川きよしさんの招聘に係わる準備で忙殺されたり、編集事務局の担当官が〆切を融通してくれなかったり、いろんな条件が重なって1本仕上げるので精一杯でした。審査をパスした「ブータンの崖寺と瞑想洞穴」は私の卒業論文を元にしていますが、先生からは日本語になっていない、ということでお叱りをうけ、大改稿することとなりました。結果、昨年9月の青海省調査では夜な夜なテキスト改訂と図版集成に勤しんだ次第です。内容は2012年から2014年までおこなった第1次~第3次ブータン調査の成果報告ですが、一部に昨年の第4次ブータン調査と青海省調査の成果を盛り込んでいます。なお、紀要論文は大学のホームページからダウンロードできますので、ご活用ください。以下、図書情報です。(ケント)


 吉田健人・浅川滋男(2016)
  「ブータンの崖寺と瞑想洞穴」『公立鳥取環境大学紀要』第14号:p51-70

  雑誌名: 『公立鳥取環境大学紀要』第14号(110p.)
  発行日: 2016年3月31日
  発行者: 公立鳥取環境大学(情報メディアセンター運営委員会)
  印  刷: 勝美印刷株式会社

命の着物-初級英語で読むブータンの民話

2016年度プロジェクト研究3(2年)

 続いて、2年のテーマと概要をお知らせします。

<テーマ> 命の着物-初級英語で読むブータンの民話
<概要> これまで1・2年生とともにクンサン・チョデンというブータン女性作家の絵本(民話)を訳してきました。今回はその最終回にあたります。民話のタイトルは“Tshego -The Garment of Life-”(ツェゴ-命の着物)。ブータンの田舎では乳幼児の死亡率が高かったため、幼い子どもにツェゴを着せる習慣がありました。ツェゴは長生きしたお年寄りの着物の切れ端をぬい合わせたもので、老人から長寿を願って子どもにプレゼントされたのです。そんな時代の一人の少女を描いています。
 クンサンさんの絵本といえば必ずペマ・ツェリンという画家がイラストを担当していましたが、この絵本のイラストは石上陽子さんという日本人が描いています。ブータンで仏画を学ぶ留学生だそうです。素朴で可愛らしいイラストに癒されます。
 “Tshego -The Garment of Life-”はブータンの小学生向けに英語で書かれた絵本です。このプロジェクト研究は、“Tshego -The Garment of Life-”を日本の小学生向けの絵本として翻訳し、製本しようというものです。英語そのものはぜんぜん難しくありませんが、日本の小学生が読みやすい日本語訳を考えるのはそんなに簡単ではないかもしれません。しかし、文章作成力の向上にとても役立つ作業だと思います。ぜひとも挑戦してみてください。


160419 命の着物 表紙[web ver.]


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天の鳥-初級英語で読むブータンの絵本

2016年度プロジェクト研究1(1年)

 4月14日(木)、今年度前期のプロ研が始まりました。まず1年のテーマと概要からお知らせします。

<テーマ> 天の鳥-初級英語で読むブータンの絵本
<概要> これまで1・2年生とともにクンサン・チョデンというブータン女性作家の絵本(民話)を訳してきました。今回はペマ・ギャルツェンという男性の著した絵本“Heavenly Birds”を訳します。チャンドラ・S・スッバの描く水彩画に寄せてギャルツェンさんの英文がやさしく語りかけます。
 オグロヅル(black necked crane)を主役とするこの物語がどのような内容であるのか、わたしもまだよく知りません。オグロヅルという鳥がブータンの文化にどのように溶け込んでいるのか、いっしょに学びましょう。
 “Heavenly Birds”はブータンの小学生向けに英語で書かれた絵本です。このプロジェクト研究は、“Heavenly Birds”を日本の小学生向けの絵本として翻訳し、製本しようというものです。英語そのものはぜんぜん難しくありませんが、日本の小学生が読みやすい日本語訳を考えるのはそんなに簡単ではないかもしれません。しかし、文章作成力の向上にとても役立つ作業だと思います。ぜひとも挑戦してみてください。


160419 天の鳥 表紙[Web ver.]


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黄昏交差点(2)

 LABLOG 2Gではなく、先代LABLOGの2007年11月18日の記事「やさしく歌って(Ⅲ)」にコメントを頂戴しましてね。30年ぶりにギターを再開されようとしている方からです。「やさしく歌って」のコード進行かTABを教えてほしいと書いてある。コメントの投稿は3月22日まで遡るのですが、なにぶんLABLOGのほうだから気がつきません。それにバルカン出張中だったから。3日ばかり前コメントを知ったんです。
 9年前にはたしかエレクトーンの楽譜を使った記憶があって、A♭キーの譜面を半音さげてGで演奏したんだ。元の楽譜集がどこにあるのか分からないけど、私も少々進歩しておりますので、2時間ほどギターに触ってみれば、当時のアレンジを復元できました。良い曲だねぇ。コード進行は理に適っているし、メロディはうまいことコードの構成音から離れて綺麗なテンションになっている。こういう良い曲を若い人たちはすでに知りません。「ネスカフェのCM音楽」と説いても、すでに通じませんから。
 ギター好きの方と交流できたこと、とても嬉しく思っています。ただ、どうやら、わたしのこと勘違いされているんだな。動画をみて感動した、とか書かれているんですが、わたし、自分の演奏録画を投稿したことありませんしねぇ・・・

 先週「黄昏交差点(1)」で報告したように、16ヶ月ぶりに人前でギターを弾きました。20曲ぐらい弾いたんだから。久しぶりに弦を張り替えるかな。いやまて、まずは授業の準備と研究申請だ。張り替えはGWにしよう。
 


大雲院と鳥取東照宮(ⅩⅥ)

160409 大雲院密檀実物 本堂密壇


葵御紋の調度品をポラロイド撮影 
  
 7日(木)、午前に1年生のガイダンスがあり、午後からは新3年生のミーティングもありました。少しずつ新年度が動きはじめています。
 3年生とのミーティング終了後、教授のお声かけで、ケントさんと私の計3名で大雲院を訪問しました。今年度の研究費申請のため下調べが必要とのことです。全員2月21日開催の「仏ほっとけ会―大雲院・摩尼寺仏教講座―」以来の訪問です。
 昨年は本堂など建造物のほか、仏像・位牌・厨子などの美術品を調査しましたが、お寺には法要に係わる調度品など、明治の神仏分離に伴って東照宮から排除された仏具系の 美術品が多々所蔵されています。その呼称が複雑です。これを間違いなく理解するために、ポラロイドカメラを用いることになりました。これまでブータンなど、おもに海外の調査で多用してきたポラロイドの使い方は以下のとおりです。

  1)まず調度品をポラで撮影する。
  2)現像された写真の余白に油性マジックで呼称を正確に書き込む。
  3)呼称を書き込んだポラを一眼レフなどで撮影する。
  4)その後、一眼レフなどで調査対象の調度品を撮影する。


160409 大雲院資産ポラロイド① ポラロイド(撮影後)


 この作業を繰り返します。普通はノートに名称・概要などを書き込みますが、そのすると、どの画像と一致するのか不詳ですし、ノートなどが紛失した場合、再調査が必要になります。しかし、文字を書き込んだポラロイドをデジカメで撮影することで、情報は複数のパソコンに保管されることになるのです。
 仮調査の対象品は以下のとおりです。

  【本堂】 密壇 礼盤 香炉 柄香炉 磬(と磬架) 鶴亀の燭台 三具足 経机
  【元三大師堂】  懸仏  前机  釣灯籠

 畏るべきことに、これらのほぼすべてに三葉葵の御紋がついています。徳川家ゆかりの調度だということです。それぞれ非常に重要な意味をもつものですが、詳細については、正式な調査後、報告することになるでしょう。


160409 大師堂懸仏実物 大師堂懸仏 


 ところで、先月末、ASALABの大雲院調査を大きく取り扱う記事が読売新聞に掲載されました。なんでも、教授によると、バルカン半島を旅しているあいだ、ずっと校正していたそうです。正月から、日本海、毎日、読売などが続々と記事にしてくれており、「忘れられた寺院」である大雲院も少しずつ市民に認知されてきたことでしょう。
 今年度は特殊なソフトと器材を用いての調査になるそうです。今から楽しみにしています。(ゆめみし)


160328 大雲院仏教美術品 (読売新聞)
↑読売新聞 2016年3月28日

南斯拉夫紀行(Ⅲ)

0323モスタルgps011黒い雨01 0323モスタルgps011黒い雨03


モスタルの黒い雨

 モスタル訪問では、夕刻から黒い雨にたたられた。古橋の石段は滑りやすく、石畳の道に雨水が溢れた。カフェで雨宿りするしかない。スピーカーからブルースが流れていた。いつものように、熱いミルクを添えたエスプレッソを注文する。気づくと、奥の席にもうひとり客がいて、煙草を燻らせながらエスプレッソを啜っていた。人なつこい顔をした青年で、かれの方から声をかけてきた。日本人だよ、と答えると、かれはパレスチナ人だと自己紹介した。

  「16日かかって、やっとここまで来たのに、この雨さ・・・」

 パレスチナから16日を要してボスニア・ヘルツェゴビナにたどり着いたのだ。「難民」という言葉が頭を掠める。たしかにバルカンは、中東からトルコを経由して西欧に至る移動ルートの一つである。とりわけボスニアは、歴史的にみればオスマン・トルコの飛び地のようなものであり、中東のイスラム勢力にしてみれば、西欧寄りにある安息の地なのかもしれない。


0323モスタルじどり01 モスタル


シベニクの半旗

 このたびのバルカン渡航に家族は反対していた。3月13日にトルコの首都アンカラ、19日にはイスタンブールで自爆テロがあった。トルコでのテロは昨年末から何度も繰り返されている。わたしたちの搭乗するターキッシュ・エアラインは往路・復路ともにイスタンブール空港を経由することになっていた。そして、訪問地のバルカン半島自体が避難民の重要な移動ルートである。外務省から渡航不可の通知があったり、旅行社から催行中止の伝達が届いても不思議ではない。家族の不安は募る。「少し危なっかしいぐらいが面白い旅になるんだよ」と説き伏せはしたが、正直に告白するならば、少々不安なところもあり、旅行保険の額をかなり引き上げた。そして、アルバニアに到着した22日、ブリュッセルで悲惨な爆破テロ事件が勃発する。


0325シベニク003聖ヤコブWH01 0325シベニク001離島01


 ガイドは一連のテロ事件に言及するのを控えていた。しかし不問に伏したままでいられるわけはない。3月25日のシベニク(クロアチア)で重い口をようやく開いた。駐車場から世界文化遺産「聖ヤコブ大聖堂」に向かう途中に市庁舎があり、門前に国旗・州旗・市旗が掲揚されていた。本来それらはポールの上まで押し上げて強い風に棚引かせるものだが、市庁舎の旗はポールの中間にとどまって、弱々しく頭を垂れている。これを「半旗」という。反旗を翻すの「反旗」ではなく、半旗を掲げるの「半旗」である。「弔旗」と言い換えてもいい。クロアチア政府と人民がブリュッセルの被害者に対して哀悼の意を表しているのである。


0325シベニクgps03 0325シベニクgps02
↑シベニク市庁舎前の半旗


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南斯拉夫紀行(Ⅱ)

0323ドゥブロ02海01 ドゥブロヴニク


アドリア海の真珠

 アドリア海に面するドゥブロヴニクやトロギールは、ヴェネチアと覇権を争った中世の海洋都市国家であり、当初は出島のような性格をもつ治外法権的居住区であったと思われる。そこは大陸に近接しつつ海で隔てられた海上の環濠集落であり、強力な防御性を備える一方で、開かれた海外交易の拠点でもあった。海から運び込まれる物資と陸で生産される物資が島で入れ替わる。島と陸は交流を望みながらも、互いに警戒する間柄だったので、両者の結節には橋を使ったが、日の入りとともに橋は引き上げられる。その後、両者の関係が融和するとともに海岸線を埋め立てし、島を陸地側に取り込んでいった。ドゥブロヴニクのメインストリート(↑)から西側が旧島嶼部分、東側が埋め立てされた海岸域である。こうした都市のあり方は、出島やマカオなどの近代租界都市にとどまらず、弥生集落として圧倒的に異端の姿を残す青谷上寺地遺跡の成立・展開・性格を考えさせるものである。


0323ドゥブロ01 ドゥブロヴニク


 ドゥブロヴニクはボスニア領に飛び地として存在するクロアチア南端の古都である。その町並みは「アドリア海の真珠」と謳われるほど美しく、1979年に世界文化遺産に登録されている。現地のガイドはいう。

  ドゥブロヴニクは日本で言えば、京都のような町です。第2次世界大戦にあって
  米軍は文化遺産の集中する京都への空爆を回避しました。クロアチア側は、セル
  ビアも当然ドゥブロヴニクを攻撃しないであろうと予想していたのですが、その
  期待はあっさり裏切られました。

 1991年、セルビア・モンテネグロ連合軍は非武装化していたドゥブロヴニクを7ヶ月間包囲して砲撃を繰り返し、世界遺産の市街地に甚大な被害をもたらした。いま訪れると、城門を入ってまもなく、何枚かのパネルが壁に貼り付けられており、戦禍による家屋の被災状況を図示している。分布図(↓右)の凡例(↓左)をそのまま引用しておこう。

  ▲ roof damaged by direct hit(直撃弾によって損壊した屋根)
  ■ Burnt Down Building(焼け落ちた建物)
  △ roof damaged by shrapnel(爆弾の破片によって損壊した屋根)
  ● Direct hit on the pavement(敷石歩道への直撃弾)

 焼け落ちて全焼した家屋は9軒にとどまるが、直接・間接の被弾で屋根を損壊した家屋は優に200軒ばかりあり、ペイヴの被弾箇所も損壊屋根に劣らぬ数にのぼる。戦後四半世紀を経て修復が一段落し、今では地中海クルーズ船を始めとして、おびただしい数の旅客がこの町を訪れる。しかしながら、よく観察すると、石壁や扉などに被弾の傷跡を残している。なにもなかったとして済ませるわけにはいかない。おそらく、そういう意気地が、完全なる復原、つまり戦禍の隠滅を拒否する姿勢となってあらわれているのだろう。

0323ドゥブロヴニク01分布図02凡例01 0323ドゥブロヴニク01分布図01
↑ドゥブロヴニクの被災・被弾分布図(右)と凡例(左):画像クリック

0324トロギールGPS01
↑トロギール



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南斯拉夫紀行(Ⅰ)

0322コトル01 コトル


南のスラブ人

 東欧には哀愁がある。共産主義と資本主義の狭間にあって前者の側に取り込まれたばかりに経済が停滞し、人々は貧困に苦しんだ。そのおかげもあって、歴史的景観が驚くほど良好に保全されている。そういう話をかつてプラハで聞いたが、現実はそれほど単純ではないように思える。多くの都市で戦禍が町並みを蝕み、ときに崩壊させてしまったからだ。その悲しみを執拗な復元によって乗りこえたのがワルシャワ(ポーランド)やドレスデン(旧東ドイツ)である。ドナウ川源流域のチェスキークロムロフ(チェコ)は、ナチスに占領されてゴーストタウンになり、戦後のジプシー流入が荒廃に拍車をかけた。この20年ばかりの修復でチェスキーの街はよみがえり、今ではお伽話の世界のような中世の町並みを訪れる旅客が跡を絶たない。共産主義で経済が立ち後れ、町並みが保全された場合もたしかにあるけれども、積極的な修復や復元によって戦前の町並みを再現している場合も少なくない。その事実を知るべきであろう。


0324スプリット03ギター スプリット


 このたび訪れたバルカン半島は、共産圏という現代史の構図だけでは捉えきれない複雑な史的背景を有する。そこはイスラム教とキリスト教の狭間にあって、大半は後者の側に落ち着いたが、ひとりボスニア・ヘルツェゴビナだけはオスマン・トルコの遺伝子を受け継ぎ、いまなおイスラム教徒が過半を占める。ボスニアは旧ユーゴスラビアを構成する6国の一つであり、1991-92年の内戦後、独立した。
 ユーゴスラビアとは「南下したスラブ人の国」を意味する。恥ずかしながら、中国語の「南斯拉夫(ナンスラフ)」がその直訳であることに最近気づいたばかりである。ユーゴの中心地がセルビアであり、他の5国のうちモンテネグロだけがセルビアと友好関係を築いていた。クロアチア、スロヴェニア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、マケドニアはセルビアの支配に反発し、チトー大統領の死後、民族主義が高揚して独立の気運がたかまった。この独立運動を鎮圧するためセルビア軍がアドリア海側の諸国に侵攻し、内戦が勃発したのである。ソ連軍がチェコに侵攻したプラハの春(1968)を彷彿とさせる悪夢の出来事であった。


0324スプリット04サッカー スプリット(クロアチア)


ベオグラードの赤い星

 1992年、わたしは北京の初夏を過ごしていた。幸運にも、そこで初めてサッカーのヨーロッパ選手権(ユーロ'92)をライブで視る機会を得る。もちろん中国中央電子台の映像を通してである。ユーロ'92の優勝候補はオランダだった。ACミランに所属するフリット、ファンバステン、ライカールトのオランダ・トリオが国際舞台で躍動した最後のトーナメントである。とりわけライカールトの好調ぶりに目を瞠った。W杯では不調をかこつライカールトが本来の力を発揮してグラウンドを縦横無尽に走り回り、数々の決定機を演出して自らもゴールを奪った。ライカールトこそが世界最高のセントラル・ミッドフィールダーだという信念を目前の映像が証明してくれている。長安大街にある民族飯店の一室で、夜な夜なその勇姿にみとれ、心躍らせたものである。


0322コトル04
↑↓最初に訪れたのはモンテネグロの世界遺産「コトルの自然と文化歴史地域」(1979年登録)。モンテネグロはセルビアと民族的同一性があり、内戦ではセルビア側についた。しかし、2006年に独立。
0322コトル03


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プロフィール

魯班13世

Author:魯班13世
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魯班(ルパン)は大工の神様や棟梁を表す中国語。魯搬とも書く。古代の日本は百済から「露盤博士」を迎えて本格的な寺院の造営に着手した。魯班=露盤です。研究室は保存修復スタジオと自称してますが、OBを含む別働隊「魯班営造学社(アトリエ・ド・ルパン)」を緩やかに組織しています。13は謎の数字、、、ぐふふ。

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