fc2ブログ

鯉に願いを-ネコノミクスの街(3)

惻隠の心は仁の端なり

 アトレチコ無念・・・終始ゲームを支配していたのに、延長ドロー(1-1)のすえPK戦で敗れてしまった。敗因はなにか。終始ゲームを支配したことではないかな。前半15分に失点して、ゲームプランは大きく崩れた。攻めるべきチームが守り、守るべきチームが攻める。リズムが狂う。軌道修正のチャンスが後半早々訪れたが、アントワーヌ・グリエーズマンがPKを外し、ここで試合は決していたのかもしれない。守るべきチームは後半になっても攻め続けねばならなかった。
 ジダンが「攻めるな」という指示を出していたのかどうか知らないが、クロース、ベンゼマを下げた段階で守備固めを意識したのは間違いないだろう。その直後、ベルギー代表のヤニック・カラスコが一矢を報いる。ロナウドもベイルも足を痙攣させるなかで、カラスコの韋駄天ぶりに目をみはった。
 延長になってもアトレチコは攻め続け、そして、PK戦で散る。シメオネは辞意を仄めかしているらしい。アトレチコを5年指揮してその限界を悟ったのか、要は飽きたのだろう。行く先はインテルだという噂も流れている。レアル、バルサ、バイエルンを打ち負かすアトレチコのようなチームをまた一から別の国で作ろうのというのか。


公民館便り28年6月号_02up 公民館便り28年6月号_01


 久しぶりに河原町公民館便りが届いた。6月号で6月1日の配布だそうだが、一足に先にお届けしましょう。鱒添的小官僚に対して惻隠の情を以って記事を書いたのだそうです。


めだかづく日々(4)

0004靴02


それゆけ、バーディ

 アトレチコ対レアルのCL決勝を待っている。もちろん私はアトレチコのサポーターさ。今年のサッカー界は、一にレスター、二にアトレチコだ。マネーを使わなくとも強くなれることをこの2チームが証明してくれた。雑草のような選手たちが戦略的かつ有機的に動けばスター軍団を蹴落とせる。バイエルンとバルサを粉砕したアトレチコに期待している。
 ついでに言っておくと、ユーロ2016の優勝予想はイングランドにした。3月27日のベルリンでの親善試合でイングランドは0-2からドイツに逆転勝ちしている(3-2)。活躍したのは、レスターのバーディと、ケインらトッテナム勢だ。その前には開催国フランスにも勝っているのだが、3月30日のオランダ戦では、ホームのウェンブリーで敗れている。ドイツ戦の疲れがあったのかもしれない。幸い、オランダは予選敗退なので、ユーロには出場しない。正直なところ、イングランドという国を応援したことはないのだが、どうにもレスターの優勝が嬉しくて、そのままイングランドに賭けることにした。プレミアの1・2位が代表で機能すれば、優勝もありえないことはないと信じている。


0004メダカ02


かげもめだか

 さて、加西パークのメダカ売りについて一つ書き忘れていた。シュープリーズのマダムに加西パークでメダカを売っていたことを告げると、「あっ、それ、ケーキ屋さんがやってるの」と言うのだ。嘘かホントか知らないが、たしかにそう言われた。その直後、こんどはシュガー・ナックル・ボクシングジムの男性コーチが「あっ、加西で売ってた、売ってた」と反応する。コーチは盆祭りの金魚を産卵させ育てた経験があるという。雄が雌をおっかけまわしていると思ったら、タマゴが水草に絡んでいて、鉢をメッシュで間仕切りし、タマゴと稚魚を隔離して育てたそうだ。加西パークの店員がまたメダカにくわしく、鉢に棒状の材をつっこんでおくと、そこにタマゴを産むので、別の鉢に移して産卵させるのだと教えてくれた。そしてまた、当方のブログを読んだ河原町のドクトル・マッド・アマノまでが「かげもめだか(影もメダカ)」なる自由律の俳句に係わる体験譚を送ってこられた。みな、メダカや金魚には思い入れが深い。


0004メダカ01


 つまり、わたしは加西パークでまたメダカを買ってしまったのだ。高いのは5尾で3000~4000円するが、やはり手が出ない。弥生町に行くのを一回控えれば済むことなのだが、メダカ5尾に3000円が払えない。買ったのは、前回と色違いの5尾1000円セット。しかし、今度は睡蓮鉢ではなく、室内で飼育することにした。じつは息子が部屋のなかでみたいと先週語ったので、それを実現したくなっただけのことである(奥は不機嫌)。小さな水槽を買い、極小のポンプを水中に納めた。ポンプはあってなきがことし。極小のポンプには水槽がついていない。汚れた水の濾過機能がなく、スポンジに微生物がたまらない。糞尿を解毒浄化する微生物が多く育たないのである。だから、1週間に一度ぐらいのペースで水替えしなきゃならない。ポンプがなくてもほぼ同じペースで水を換えるようだ。だから、ポンプは、なんというか、お守りのようなものだね。だれかがまちがって水替えを忘れても、ポンプがあればしばらくメダカが生きてくれるのではないか、という淡い期待の賜であります。


靴の細部名称


ニューバランス

 ジョギング・シューズを新調した。長年履いたニューバランスのアウトソールが剥がれてしまったのだ。イオンの靴屋に行った。まずアディダスを薦められた。長さはちょうど良いがやや横幅がしまる感じがする。次にナイキ。これはもっと横幅が狭いですよ、と店員が説明する。わかってるさ、そんなこと。サッカーシューズを何足買ったと思ってんの。いちばん窮屈なのはプーマだ。プーマとナイキはしまりがよすぎてスケッチしそうになる。アディダスは日本人の足型にあっている。しかし、色が気に入らない。今年にふさわしい色は赤だ。そこでニューバランスが目に入った。アディダスよりも4000円高い。履きにくいが、履いてみると、仰天である。なんの違和感もなく足にフィットしている。しかも、靴自体が軽くて、そのまま走り出したくなるほどだ。いまや、トレックとジョギングの分野において、ニューバランスは悟りを開いたレベルに達しているのではないか。
 かくして、ジョギング・シューズはニューバランスに舞い戻ったのである。


0004靴01


大雲院と鳥取東照宮(ⅩⅩ)

160524 随神門と手水舎 随神門と手水屋


鳥取東照宮 随神門・中門の実測演習

 5月24日(火)。4年・院生ゼミで鳥取東照宮建造物の実測・測量演習をおこなった。ケントさんが先行してスケッチを進めていた屋根伏図の測量と中門・随神門の平面実測である。鳥取東照宮の拝殿・幣殿と唐門・本殿は重要文化財に指定されているが、それらに付属する中門・随神門・手水屋等は未指定・未登録であり、調査されていない。将来の指定・登録にむけた基礎情報を得るための基礎調査を兼ねての演習である。


0524測量01


 調査の概要は以下のとおり。

1.屋根伏図測量(吉田・キム3号)
 権現茶屋横の中門から本殿に至る境内の測量。ケントさんの屋根伏スケッチは相変わらず見事だが、先生は「重要文化財指定にともなう図面がすでにあるのではないか」と言われていた。ASALABが培ってきたインパルス測距計によるものである。


0524中門02 160524 中門の扉と柱位置


2.中門-切妻造平屋建本瓦葺平入(石田)
 変形の八脚門で柱は六本のみ。三間一戸の六脚門である(↑)。主柱と控柱で男梁を支え、男梁上の笈形で棟木を支えるシンプルな構造をしている。男梁先端木鼻のウズ絵様は彫りが太く、幕末~明治の建築と思われる。絵様を比較する限り、随神門・手水屋より一段新しいようにみえるのだが、後述する天保の年代観でおさまる可能性がないとは言えない。化粧垂木の野地板や本瓦が新しく見える。近年の改修であろう。構造がシンプルなので、次回は断面を作図することになった。


0524中門01 160524 男梁のウズ



続きを読む

めだかづく日々(3)

0523メダカ01稚魚02


 週末の夜、夕食後一時間ばかり下宿で仮眠をとり、午後8時半ころからジムに行く。もちろんシュガーナックル・ボクシングジムである。昨年11月に患った椎間板ヘルニアのせいで、5ヶ月に及ぶジム中断があり、その間、腹部はどんどん膨らんで、大変なことになっていたのだが、ようやく週2~3回のペースでジムに通えるようになってきた。
 ジムを終えて午後10時、風呂に浸かって着替え、下宿から奈良の自宅に向かう。体は軽い。眠気などまるで感じることなく深夜の高速を突っ走る。体調が良いと、休憩をとりたいという欲望が湧いてこない。それでも、一度は休んで厠などしたり、給油したり、ということで、加西パークに立ち寄ったところ、メダカを売っている。黒メダカは少なく、色つきのもの、改良品種が多い。ここでは欲望を抑えることができず、1箱1,000円のセットを買ってしまった。白・黒・紅などいろんなメダカを数尾納めたセットである。


0523メダカ01稚魚03九尾


 帰宅するや否や「メダカ買ったよ」というとヤな顔をされ、しばらくして「また産まれているよ」との報告をうけた。あたりは真っ暗だが、加西で仕入れたメダカはただちに軒下の大きな睡蓮鉢に移す。翌朝、木陰の小さな睡蓮鉢を凝視すると、たしかに小さな糸状の生物が動いている。さっそく柄杓ですくいあげ、軒下の睡蓮鉢に設けた養魚槽へ。それから2日ばかりしてまた糸状の物体を木陰の睡蓮鉢で確認した。再び養魚槽へ。
 かくして、養魚槽には現在、9尾の稚魚が隔離されている。緋メダカの稚魚である。嬉しくてしかたない。数も増やしたいし、成長した姿を早くみたい。


0523メダカ01稚魚05九尾


 こうした喜びをかみ締めている別の人物とであった。シュープリーズのマダムである。「ねぇ、みてみて」と言われて、小さな小さな金魚鉢を覗く。それがよく見えない。我が家の養魚槽の稚魚のほうが活き活きしている。シュープリーズには別の金魚鉢が二つあり、そこには黒メダカの父母がいた。母の腹はまるでわたしの腹のように膨れ上がっていた。4日に1回のペースで水替えするそうだ。
 人にみせたくなるほどメダカの産卵が嬉しい。その気持ちがよくわかる。ただし、人のことはどうでもよいね。気になるのは我が家のメダカばかりなり。


0523メダカ01稚魚06遠景



続きを読む

ツェゴ-命の着物(3)

160523 命の着物 p22 160523 命の着物 p23 p.22-23


アウム・ワンモは村の仕立屋*3アプ・ナドーをたずねます。
ナドーは地面に布きれをならべ
 ハサミを
     スニップ、
           スニップ、
                 スニップ
とうごかしながらほほえみます。
「ジャムヤンぼうやのためにツェゴをぬってあげましょう。」
アプ・ナドーはいいます。
「そうすれば、ぼうやは100年以上なが生きするよ。」
「100年以上もね、ソヤラ・・・」
村の女たちはうたいます。


160523 命の着物 p24 160523 命の着物 p25 p.24-25


とつぜん、デチェンにアイデアがうかびました。
女の人がわけてくれる少しばかりの糸をもらいにいこう。
デチェンは虹のような色をした糸をあつめます。
イロリの火のようにかがやく赤をひとまき、
ゆうひのようなオレンジを少々、
麦のたばのようなきいろをひとにぎり、
新緑の草のようなみどりをふたふさ、
冬めいた空のような青をひとたば、
湖のそこのようなあい色を1本、
そしてむらさき色はたくさん。


160523 命の着物 p26 160523 命の着物 p27 p.26-27


かんぺきな糸まきになるように、
デチェンはみじかい糸をつないでいきます。
そしてうたいます。「ソヤラ・・・」
デチェンはハタをおりながら
  テック
      テック
          テック
                         【内田】




続きを読む

ツェゴ-命の着物(2)

160501 命の着物 p10 160501 命の着物 p11 p.10-11


デチェンは、はたおりがいやになっているのですが、
そのいっぽうで、赤んぼうのジャムヤンを
おかあさんといっしょにあやすのがすきなんです。
デチェンは、ジャムヤンぼうやが
おかあさんのひざからとびあがろうとするのを、
身をのりだしてみつめています。
さあとぶよ、ジャンプ、ジャンプ、ジャンプ、
そらとぶよ、ジャンプ、
あわだてきの中であわ立つバター茶のように。
くうくうないて、ぺちゃくちゃおしゃべり、
村ぜんたいでも、こんなにたのしげな赤んぼうはいません。
赤んぼうのドルジはやかましく、
赤んぼうのペマは泣きじゃくり、
赤んぼうのタンはわらうまえにねむってしまいます。


160501 命の着物 p12 160501 命の着物 p13 p.12-13


「ジャムヤンぼうやをいちどだけだかせてくれませんか?」
デチェンはたのみます。
「あなたのうでは、それだけでジャムヤンを
 ささえられるほどまだ強くないのよ。
 わたしが赤んぼうをだいているあいだ、
 あなたはこの子をなでたり、キスしたりすればいいの。」
アウムワンモは言います。


160523 命の着物 p14 160523 命の着物 p15 p.14-15


デチェンはジャムヤンぼうやをやさしくなでてキスします。
「アイエモー、もっと大きくなってうでがつよかったらなあ」
とデチェンは思うのです。    【牧野】


続きを読む

講演会のお知らせ

中国観音霊場先達合同研修会講演

 めずらしく前期から講演の依頼がありました。以下の日程・会場等でスピーチします。

1.日時: 2016年6月14日(火)午後3時~
2.会場: ホテルモナーク鳥取 
3.主催: 中国観音霊場先達会
4.対象者: 中国観音霊場先達会会員、中国観音霊場会所属寺院
5.講演題目: 「摩尼寺の文化遺産-登録文化財から登録記念物へ-」

 ちなみに、鳥取県内の中国観音霊場は以下の6ヶ寺です。いずれも天台宗の古刹ですが、摩尼寺のみ札番がなく、「特別霊場」となっています。宗派も唯一の安楽律院法流です。

  第29番 角磐山 大山寺 (十一面観音菩薩)西伯郡大山町大山
  第30番 打吹山 長谷寺 (十一面観音菩薩) 倉吉市仲之町
  第31番 三徳山 三仏寺 (十一面観音菩薩)東伯郡三朝町三徳
 特別霊場 喜見山 摩尼寺 (帝釈天・千手観音菩薩)鳥取市覚寺
  第32番 補陀洛山 観音院 (聖観音菩薩) 鳥取市上町
  第33番 乾向山 大雲院 (千手観音菩薩)鳥取市立川町


居住環境実習・演習(Ⅱ)中間報告会

 いま調査中の大雲院は第33番、町並み調査の中継点にあたる観音院は第32番です。これらの調査研究は3・4年及び大学院ゼミおよび居住環境実習・演習(Ⅱ)として取り組んでいます。前期恒例の居住環境実習・演習(Ⅱ)中間報告会も近づいてきました。以下の日時・会場は確定しています。発表内容が固まりましたら再度お知らせします。

1.日時: 2016年6月8日(水)午後2時40分~
2.会場: 公立鳥取環境大学デザイン演習室(教育研究棟1階)  


立川~樗溪の町並み調査(2)

生垣 生垣の


小路-ヒューマン・スケールの町並み

 こんにちは。初めてブログを書かせていただく新3年生のみひろです。
 先週ゼミの時間内に撮影できなかった調査ブロックは、週末を利用し、3・4年生が手分けしてほとんど撮影を終えました。
というわけで、5月18日(水)は町並みのうちAブロックの残りと新たに設定したK~R7ブロックの撮影をに取り組みました(他に4年生2名は大雲院美術品の多重撮影、院生のケント先輩は東照宮建造物のスケッチをされたようです)。今回の対象は、路地(小路)の町並みと久松山(鳥取城跡)が視野に納まる町並みです。
 今までの活動は天候にあまり恵まれなかったのですが、この日は晴天でした。しかし、晴れていると逆光になって、思ったより撮影に苦戦しました。女子陣は日焼けが気になるとのことで…少しくらい日に焼けたほうが健康的に見えて私は好きです(笑)


植栽 逆光


 3年生は2人ずつ3組に別れてA・K・LブロックとMブロックの残りを担当しました。N・P・Q・Rブロックは4年生の先輩が撮影してくださいました。A・Kブロックからは久松山の山頂が正面に見えます。久松山頂には鳥取城天守閣が建っていました。今の県庁のような行政の中心施設です。Lブロックを調査中、通りがかりの近所のおじいさんから、Lの通りは鳥取城の土手があった場所と教えていただきました。Mブロックは小路になっており、道が細いので車の通りが少なく、人が歩きやすいスケール感があります。教授から、小路に入ると落ち着いた気持ちになるのは、「ヒューマン・スケールの空間だから」という指摘をうけました。最近の都市保全計画でも、小路を見直す動きがあるそうです。ヒューマン・スケールとは、人間の知覚や行動に適合した規模の空間のことを言います。小路には古い家も新しい家もあり、道沿いの植栽が人を癒してくれます。小路の撮影中、車が角を曲がって入ってくる場面に遭遇したのですが、なんとも曲がりにくそうな印象を受けました。車にとってふさわしい道ではないということですね。


写り込む久松山 地図
↑(左)鳥取城天守跡のみえる位置 (右)調査範囲 



続きを読む

大雲院と鳥取東照宮 (X Ⅸ)

大雲院美術品作業風景20160518


 5月18日(水)。PhotoScanによる3次元モデル制作のため、大雲院調度品・法具・什器等の多重撮影を先週に引き続いておこないました。今回撮影したのは「経机」「密壇脇机」「東館家紋入り椀」「西館家紋入り椀」「菓子器」「金属製の献茶碗」「木製の献茶碗」の7点です。


大雲院美術品①20160518


経机と密壇脇机

 経机(↑)と密壇脇机(↓)の撮影からスタートしました。いずれも現在なお使用されている仏具であり、大雲院造営期の1650年頃にご神体とともに江戸から授かったと伝えられています。2点とも薄い黒漆をベースとし、経机は格狭間(こうざま)にくすんだ青・緑・赤の彩色を施しています。東照大権現厨子や磬架と通じる彩色と言えるでしょう。とくに金具の芸術性が高いと感じました。金具には徳川家の三葉葵御紋が細かに彫られており、すべての御紋の大きさや形に若干の違いが認められます。


大雲院仏教美術品②20160518


二つの献茶碗

 金属製と木製の二種類の献茶碗です。本尊に献茶します。どちらの椀にも三葉葵御紋が彫られており、金属製の献茶碗全体には御紋のほかに細かな模様をあしらっています。木製は梨地漆の風合いが独特です。撮影にあたっては、細かな模様を再現できるよう気をつかいました。


大雲院美術品③20160518
献茶碗(↑金属製 ↓木製)
大雲院美術品④20160518



続きを読む

大雲院と鳥取東照宮(ⅩⅧ)

160517-やまびこ館


長岡安平「 樗谿公園設計圖 」

 5月17日(火)。樗谷公園の権現茶屋でまずミーティングをしました 。その後、2班に分かれました。やまびこ館(鳥取市歴史博物館)に所蔵されている長岡安平資料の閲覧班と立川~樗谷の町並み踏査班です。わたしはやまびこ館の閲覧・撮影を補助しました。過去に事故を起こした経験のある自分としては史料の扱いということで緊張を隠せませんでした。


DSC0970jpg長岡 160517-ミーティング


 今回閲覧したのは、日本初の造園家として知られる長岡安平の設計図書です。樗谷公園の計画を長岡が手がけているのですが、いわゆるアンビルドで終わった幻の計画案のようです。具体的には以下の史料から構成されています。
  1)「樗谿公園設計圖」: 長岡直筆の設計図明治45年)
  2)同上模写(昭和29年)
  3)「豫僃參考圖」 : ベンチなど多くのエクステリアのイメージパース
  4)「鳥取市樗谿公園設計書 (全園ニ通スル部、工事參考圖)」: 1)の仕様図書

 1)は見事な大図面ですが、傷みが激しかったので、昨年の表装などの修復作業がおこなわれたばかりと聞きました。建物や広場の配置の他に新規で植樹する樹木を彩色していたり、それらの間を縫うような遊歩道やベンチの配置が精密に描かれていました。また、設備の設計資料も含めて完成後や現在のものとはとはだいぶ異なっており豫僃參考圖に描かれた備品、施設の数々もそのほとんどが実際に作られることがなかったとのことです。


160517-公園を通る水路


イノシシに怯える公園

 資料の撮影を終えた後、やまびこ館内の売店で多数の図録を買いました。これまでASALABは鳥取城下町を対象とした調査研究をしていません。しかし昨年度より、樗谿と大雲院に係わる建造物・美術品の調査を開始し、今年度は立川~上町・中町~樗谷お町並み調査にも着手しました。やまびこ館発行の図録類は避けて通れない先行研究となっています。逆の見方をすれば、ASALABがついに近世鳥取のどまんなかを主題とする研究に踏み込んできたということでしょう。


160517-柵


 その後、樗谷公園や周辺の家屋の撮影をおこないました。昨年度の大雲院本坊指図の復元研究であきらかになったように、樗谷公園には藩政期大雲院の遺跡が眠っています。この位置を確定するために、将来的には試掘をおこなう可能性もあり、公園の現状を理解しておく必要があるのです。参道付近を通る樗谿公園内の水路は長岡計画図には描かれていません。そこはただの運動場になっています。運動場のひろい範囲に本坊が存在したはずですが、いまでは水路によって分断されています。うねりまがる水路が
本坊の遺構を破壊している可能性は高いでしょう。発掘するとなれば、トレンチをどこにあけるべきか、慎重に判断しなければなりません。


160517-柵の中のベンチ


 公園については、金網の柵が園路の際にべた~っと連続しており、緑地を市民が使うのは不可能になっています。緑地にはベンチなどもおかれていますが、実際にそれを利用するのは不可能になっているのです。柵そのもののデザインも殺風景で、緑地公園の景観を大きく阻害しています。なぜこんなことをするのか理解に苦しんでおりましたが、あとでイノシシ防御のためであることが分かりました。野生イノシシによって芝生が荒らされるのです。され、これで仕方ないとするべきか、柵を高い生け垣などに替えるべきか、悩むところですね。


続きを読む

平成27年度 科学研究費 実績報告

 科研最終年度(2015)の実績報告です。

1.研究題目: チベット系仏教及び上座部仏教の洞穴僧院に関する比較研究
2.種目・課題番号: 基盤研究C 25420677
3.補助事業期間: 2013~2015年度
4.研究費総額: (直接経費)4,000,000円  (間接経費)1,200,000円

実績概要

 本研究は上座部仏教の洞窟僧院、チベット系仏教の洞穴僧院を研究対象としている。前者については、科研採択前の2011年におこなったラオスとミャンマーでの踏査をふまえ、2年度(2014)にミャンマーのピンダヤ及びシュエウーミン洞窟僧院を視察した。いずれも小型の鍾乳洞をおもに礼拝窟とするもので、夥しい数の寄進仏を窟内に安置するが、その一部に瞑想窟を含む場合もある。一方、チベット仏教ドゥック派を国教とするブータンでは、瞑想場としての崖寺(Drak Geompa)が各地に造営されており、中心的礼拝施設ラカン(本堂)から離れた崖の洞穴に瞑想施設(ドラフ/チャムカン)を営む。規模の小さい洞穴を利用し、その正面に懸造の掛屋を設けるだけの素朴な施設だが、密教修行の根幹をなす瞑想の場として現在なお重要な意味を担っている。そもそも、ドゥック派が全土を制圧して国家形成がなされる17世紀以前、瞑想場に本堂ラカンは存在せず、ただ瞑想洞穴だけがあって、僧侶たちは長期間の瞑想修行に没頭していたとされる。現在でも、若手の僧侶は修学時に3年3ヶ月3日の瞑想を窟内で続けることが必須とされる。一日の睡眠時間は5時間前後、軽食を2回とる以外はひたすら瞑想に集中する。この修行を終えることで一人前の僧侶とみなされるが、その後、長期の瞑想を継続する場合も少なくない。
 こうした瞑想と瞑想洞窟の実態を理解するため、初年度(2013)は西ブータン、2年度(2014)は東ブータンと中央ブータン、3年度(2015)は中央ブータンと西ブータンで計15ヶ寺の調査をおこなった。昨年度の対象はダカルポ・ヨウト寺(パロ)、ケラ尼寺(パロ)、タンディネ寺(ティンプー)、レモチェン寺(タン)の4寺である。ブータンでは仏堂の内部の撮影等が原則禁止されているので、前年(2014)までと同様、おもに崖寺境内の屋根伏配置図の測量をメインにおき、必要に応じて、内部の略測等もおこなった。2014年までと異なるのはヒアリング内容である。従来は崖寺の縁起等の聞き取りにとどまったが、昨年は瞑想体験を中心とする僧侶のライフヒストリーについての長時間の聞き書きをおこなった。こうした情報収集を今後も続けていきたい。
 このほか、ソンツェンガンポ王による吐蕃建国時(7~8世紀)に造営したと伝承される中央ブータンのジャンバラカンで、本堂内陣中央柱から放射性炭素年代測定サンプルの採取に成功した。その成果は1632-1666 cal AD (信頼限界74.4%)である。吐蕃の年代ではなく、ドゥック派による国家形成期を示した点、大変興味深い。かりに瞑想場としての成立が吐蕃時代にまで遡るにしても、現在の本堂は国家としてのブータンが誕生して以後のものである可能性が高まった。
 2014年からはクンサン・チョデン女史のブータン民話に係わる著作の翻訳にも着手している。クンサン女史はブータン初の女性作家であり、民話研究の第一人者である。2015年9月にはウゲンチョリンの実家(現在は民俗博物館)でクンサン夫妻に面会し、翻訳成果を謹呈した。現在、正式な出版にむけて準備中である。民話の解読をとおして、元は遊牧民であった人びとの世界観と仏教の無常観との係わりを導きだしたいと思っている。


研究成果

1.論文

 吉田健人・浅川滋男(2015)
 「ブータンの崖寺と瞑想洞穴」『公立鳥取環境大学紀要』第14号:pp.51-70

2.発表

 大石忠正・武田大二郎(2016)
 「ブータン第4次調査速報」
 第1回 仏ほっとけ会(摩尼寺・大雲院仏教講座)
 2016年2月21日 @大雲院本堂

3.図書

 クンサン・チョデン(浅川研究室訳 2015)
 『メンバツォ -炎たつ湖』公立鳥取環境大学保存修復スタジオ

 クンサン・チョデン(浅川研究室訳 2016)
 『心の余白 -私の居場所はありませんか?』公立鳥取環境大学保存修復スタジオ

4.web

 「スケッチ・オブ・ゴンパ -第4次ブータン調査」(1)~(10)
 公立鳥取環境大学保存修復スタジオのブログLABLOG 2Gに掲載。
 http://asaxlablog.blog.fc2.com/


めだかづく日々(2)

0515緋メダカ稚魚01 軒下


緋メダカ産卵

 玄関の水槽に泳ぐ9尾の金魚はすでにして非常食のレベルに生育している。東日本大震災を被災したからなのか、東京に住む娘は帰省するたびにそうした感想をもらす。2年前の盆祭りで掬いあげた金魚たちである。水があえば魚は死なない。伝説の「金魚掬い」からはや3年半、いったい何尾の金魚とメダカをあの世に送ったのだろうか。それだけ水づくりが下手だったということである。
 このたびはじつに上手くいっている。酸素供給は新しいポンプに委ね、古いエアーポンプのスポンジ部分をボックスからとりださずに、そのまま水槽の底においたのだ。金魚の糞を解毒し浄化する微生物が古いスポンジにいついている。おかげで、カルキ抜き水道水はまたたくまに金魚の棲みやすい生活水に変わったのだろう。微生物さえ適切に育てば、じつはエアーポンプすら要らない。
 庭に大中二種類の睡蓮鉢をおいている。こちらにはポンプをいれていない。それぞれの鉢で数尾の緋メダカが冬をこした。小さいながらも完璧なビオトープがここに成立している。睡蓮鉢のうち一つは軒下、もう一つは玄関ゲートに近い木陰にある。水の減り方がちがう。軒下では日射が和らぐが、雨水が振り込まない。木陰は日射が強いが、雨水をまともに受ける。後者の水は減らない、前者はたちまち水かさを少なくする。少なくなると、カルキ抜きした水道水を足してやる。GW後半以降の走り梅雨で、木陰睡蓮鉢の水は溢れんばかりになっていた。ある朝、その水面を動くなにかを確認。針のように細く、しかし短い物体が微かにみえる。


0515緋メダカ稚魚02 軒下up


 緋メダカの稚魚であった。長さ5mmばかりになっている。かつて、シュープリーズのマダムが店内でメダカの稚魚を飼育していた。親メダカから隔離して別の小さな水槽にタマゴと稚魚を移している。稚魚用の餌があり、ポンプはなし。水替えを頻繁におこなう必要がある。ネットで飼い方を調べたところ、シュープリーズの方法は間違っていない。
 しかし、自信がなかったので、ホームセンターのペットショップを訪ねて相談にのってもらった。そこで素晴らしい道具を発見した。浮きのついた小さなイケスである。ビオトープ化した睡蓮鉢に稚魚用のイケスを浮かべる。これで餌をやる必要はなく、水替えの必要もない。
 いま2尾の稚魚を確保した。水藻にまとわりつくタマゴらしきものもイケスにいれた。藻には、タマゴなのか水泡なのか識別しがたい物体がまとわりついている。なんだか嬉しい。そんな週末を過ごした。


0515緋メダカ稚魚03
↑緋メダカが産卵したのは木陰の睡蓮鉢。ここの稚魚とタマゴをすくい取り、軒下の大きな睡蓮鉢に移して隔離した。

天の鳥(2)

The Heavenly Birds p14 The Heavenly Birds p15 p.14-15


 まもなく10月のおわりになろうとしていました。
 オグロヅル*2がチベット(夏の住まい)から谷へ
 とんでいこうとするきせつです。
 ポブジカ谷の人びとはワクワクしていました。


The Heavenly Birds p16 The Heavenly Birds p17 p.16-17


 チュン、チュン、チュン
 ツルたちは谷にたどりついてよろこび、
 その声がこだましています。
 ツルたちは谷にやってきて
 ガンタ寺のまわりを3回くるくるまわり、
 それから、ゆるやかなカーブをえがいて
 いちわずつ地上におりていきます。


The Heavenly Birds p18 The Heavenly Birds p19 p.18-19


 地上におりたつやいなや
 ツルたちはまぁるくならびました。
 としおいてみえるいちわのツルが
 まえにふみだしました。
 ツルのリーダー(長老)です。
 この谷で冬の何ヶ月かをすごし、
 そのあと、冬がおわろうとするころ
 チベットにもどろう。
 話しあいでそうきめたのです。     【藤堂】




続きを読む

大雲院と鳥取東照宮(ⅩⅦ)

0511本堂01


仏教美術品の多重撮影と外陣柱年輪撮影

 5月11日(水)。ゼミのメンバー全員が立川町並みの正面を撮影したわけではない。一部のゼミ生はPhotoScanによる3Dモデル作成のための大雲院所蔵美術品の多重撮影に取り組んだ。休憩を挟んで、町並み調査班が3人×3班から2人×4班に組織変更されたため、3年の1名が大雲院に残り、外陣柱年輪の撮影をした。 
 去る4月5日、3名が大雲院を訪問し、研究申請のための準備として、未調査の美術品・調度品をポラロイドで撮影し、基礎的な情報を整理した。それらの多くは池田光仲による東照宮勧請期(1650年前後)に遡るものである。今回はPhotoScanによる初めてのCG制作の第一歩として、小型の調度品・仏具を多重撮影した。今回撮影した美術品は「香炉」「角香炉」「柄香炉」「鶴亀の燭台」「磬(けい)と磬架」の5点であり、いずれも本堂の阿弥陀三尊正面で使用されている調度・仏具である。いずれの品にも徳川家三葉葵御紋が施されており、大雲院所蔵美術品と徳川家との係わりの深さを感じさせる。 
 PhotoScanはさまざまな角度から撮影した写真データを重ねあわせることで自動的に3Dモデルを作成するソフトである。より精巧なモデルを作成するためには多くの角度、距離からの写真撮影が必要になるのだが、自分はどうもピントを合わせるのが下手で、せっかく良いカメラを使わせていただいたにもかかわらず、近距離撮影で骨を折った。今後もできるだけ多くの美術品の3Dモデルを作成し、大雲院仏教美術品データベースの充実に役立てていきたい。


撮影した美術品

①香炉:  オーソドックスな形状をした金色の香炉。左右対称で、凹凸少なく、撮影しやすかった。

160511-香炉

②角香炉:  蓋に龍の装飾の付いた角香炉。細やかな龍の部分は今後の追加撮影を検討したいところである。また、この手の口の空いた龍の装飾には珠をはめることが多いのだが、本品には付いていない。

160511-角香炉  160511-角香炉家紋アップ

③香入:  蓋の部分に大きく三葉葵紋をあしらう。シンプルなデザインで撮影しやすかった。

160511-P05.jpg

④鶴亀の燭台:   亀の上に鶴が乗り、鶴が蓮の花を銜える。縦長の造形で全景を収めるにはやや離れて撮影する必要があり、細部を表現するために全景とは別に細部ごとに撮影していった。

160511-鶴亀の燭台全体  160511-鶴亀の燭台家紋アップ

⑤磬と磬架:   磬(けい)は仏教とともに日本に伝わった法具で中央の板を打ち鳴らして使用する。教授によれば、殷代青銅器にこの種の儀器はすでにあるだろうとのこと。磬架は彩色、金具が見事で、多数の三葉葵御紋をあしらう。彩色はくすんだ紅、緑、群青に特徴があり、東照大権現厨子に通じる。
  
160511-磬(けい)  160511-磬アップ


    

続きを読む

立川~樗溪の町並み調査(1)

追加①
 

 こんにちは。ASALAB新3年生のきびたろうです。いよいよ5月を迎えました。GWはとても風が強く、吹き飛ばされそうな天候が続きました。おかげで、前々回のゼミで植えたきゅうりの苗が全滅してしまいました。3年一同協力し、土日も欠かさず水やりをしていたので、とても残念でした。他の苗がすくすく育ってくれることを祈るばかりです・・・


追加⑥


まちあるきルートを探せ!

 5月11日(水)。ゼミのメンバー全員で大雲院周辺の立川の町並み連続写真を撮影してきました。「東照宮と大雲院」という主題で昨年から調査研究を続けてきました。樗溪には、池田光仲が勧請した鳥取東照宮(重文)があり、立川には、旧東照宮別当寺「大雲院」が境内を構えています。すでに何度も報告されているように、大雲院には藩政期の古文書・指図・絵画・仏像・仏具などの文化財が数多く保管されています。さらに樗溪と立川の中間に位置する上町には、観音院庭園(国指定名勝)もあります。これら東照宮-観音院-大雲院をつなぐエリアの歴史的町並みを精査し、「まちあるき」ルートをみちびきだすことが今年度の課題の一つになりました。3年生は倉吉河原町の土蔵調査とともに、立川~樗溪の町並み調査に携わることになりました。

写真①

 11日の調査に入る前、GW中の宿題として、このエリアの下見レポートが課され、3年全員と4年のゆめみしさん、院生のケントさんがレポートを提出しました。その成果を総合し、今回は「山の手通り」を幹線として、南半は立川稲荷に接する山麓の旧道を回遊する上↑のルートを対象に調査しました。このエリアを下↓のA~Jブロックに分け、建物に一棟ずつ番付しつつ全景を撮影していきました。

写真②

 この日はまず大雲院に集合した後、4年生一人と3年生二人の計3人で1チームを作り、チームでエリア分担をして、現地の建物一棟一棟の撮影を行いました。建物を撮影する前にまずラベルに基礎情報を書きこみ、カメラで写します。次に建物を3枚程度撮影します。1時間ばかり調査して、3年生が仕事をおぼえたので、休憩後は2人一班の4班で活動しました。


写真③
↑ラベル  ↓ラベルに相当する建物
写真④



続きを読む

秋里遺跡の焼失住居跡

20160510 秋里遺跡 20160510 秋里遺跡2


全国初の焼失掘立柱建物?

 5月10日(火)。教授が調査指導を依頼されている鳥取市の秋里遺跡(松下地区)の焼失住居跡の発掘現場を見学しました。この調査は、県立中央病院の病棟建て替え工事に伴い、鳥取県埋蔵文化財センターにより昨年9月から実施されています。
 秋里遺跡は弥生時代から中世までの遺構を残す集落遺跡です。現在までに二十数回の発掘調査がおこなわれ、弥生時代後期から古墳時代中期を中心とする掘立柱建物跡や溝跡、土器溜まりなどがみつかっています。今回の調査区所は遺跡の西側外縁部にあたります。このたび見学した焼失住居跡は、弥生時代後期から古墳時代初頭の包含層の最上部で検出されました。
 焼失住居跡は一般的に竪穴住居、もしくはその湿地帯でのバリエーションである登呂型の平地住居に復元されるのですが、発掘担当のTさんは、今回の遺構をいわゆる掘立柱の平地式建物と推定しています。 というのも、遺構には竪穴の落ち込み痕跡も周堤のたちあがり痕跡も確認できず、床面は旧生活面を残しているからです。建物跡の壁際には炭化した板が数枚残しており、土屋根を支える板状垂木の痕跡かとも思われたが、Tさんはこれを縦板壁の倒れ込みとみなしています。平地式掘立柱建物の焼失遺構だとすると、全国でも初例になる可能性があるそうです。まだ確証は得られないものの、これからの調査に期待が高まります。


20160510 秋里遺跡3 壁溝と壁付柱?


 では、現時点で焼失住居跡について確認されている事項をいただいた資料を参考にして整理しておきます。

 (1)遺構平面はいわゆる隅丸方形を呈しており、やや楕円形に近い形状をしている。平面の規模は南北5.8m以上、東西6.1m以上。
 (2)壁溝を東辺と南辺で検出。幅約40㎝、深さ約25㎝を測る。
 (3)壁溝に近接する位置で小さなピットを2ヶ所で確認。壁付柱の痕跡か。主柱は未確認(床面に遺物等が堆積しているため)。
 (4)床面中央近くに地床炉(焼土)と中央ピットを設ける。
 (5)中央ピット内および中央ピット周辺に古墳時代初頭の土器が集中。
 (6)床面上焼土粒・炭化物・被熱礫片が広く分布。
 (7)長さ約140㎝・幅約30cmの炭化板材が東辺と南辺でまとまって検出。縦板壁あるいは板垂木の痕跡か。


20160510 秋里遺跡5
↑中央ピット周辺の土器(古墳時代初頭)



続きを読む

座談会「民族建築その後」(その9)


幽霊会社

 宮本  ブータン第3次調査(2014)では、先発隊(眞田・宮本・浅川)と後発隊(中島・吉田)が中央ブータンのブンタンで合流しました。
 清水  学生は東ブータンには行かなかったんですか。
 浅川  うん、メラッ・サクテン調査はブータン農林省の招聘という体裁だったんですが、オフィシャル・ビザが学生に出せないとか、グアハチ空港のあるアッサムが政情不安だとか、いろんな問題があって、学生は通常のツアー・ビザでパロからブンタンに向かうことにしたんです。
 清水  オフィシャル・ビザとツアー・ビザはどうちがうんですか。
 浅川  2014年の春、大学でブータン農林省の高官にあいました。他の先生の招聘者で、私と面識はありません。その高官が会いたいということで、お目にかかったところ、いきなり「農林省のオフィシャル・ビザを出すから来てほしい。一日100ドルでいい」と言われたのね。ブータンは旅費が高いですからね。社会人だと230~250ドル/日、学生は学割で190ドル/日です。運がまわってきたと思ったんだ(笑)。
 栗原  そんなに高いんですか。
 浅川  国の政策です。ブータンの自然環境と文化遺産を保護するため入国者を制限している。バックパッカーは許されません。すべての入国者・団体にガイドが必要です。だから高いんです。それが、農林省のオフィシャル・ビザで半額以下になるというのだから、目も眩む誘惑でしたよ。もちろんメラッ・サクテンにも興味があったしね。ところが、出国前からおかしな予兆が連続してあった。旅費の振り込み先の変更とか、出国直前に届いたのがオフィシャル・ビザではなく、ツアー・ビザだったりして。
 清水  結局、オフィシャル・ビザは発行されなかったんですか。
 浅川  おまけにツアー・ビザを発行したのは幽霊会社だったんだ。
 清水  どういうことですか。
 浅川  東ブータンの調査に同行してくれた連中はヤラマ旅行社の名刺をもっていた。しかし、かれらはみな農林省の役人で、高官の部下だったんですよ。
 清水  公務員が民間の会社を経営しているのですか。
 浅川  いや、会社そのものが存在しない。これ以上言わないけれど察してほしい。
 宮本  東ブータンの旅はきつかったですが、それなりの成果もありましたし、ヤラマの人たちはみなよくしてくれましたからね。
 清水  その高官は同行されていなかったのですか。
 浅川  どういうわけかネパールにいて、逐一ヤラマのメンバーに指示を出していた。ヤラマも被害者だったのかもしれません。

ブータンでの測量

 宮本  中央ブータンの調査は順調でしたね。
 浅川  ガイドが馴染みのウータンさんに戻ってほっとしたよね。民間の旅行社は高くつくけど、、やはり信頼関係がいちばん大事だと思いました。前年の西ブータン調査は標高2,500m前後の崖寺でしたが、中央ブータンの崖寺は標高3,000m級でね。東ブータンで高地に順応し始めていたので、高山病もでなかった。崖寺4ヶ所を調査して良いデータが集まりました。
 栗原  どんな調査をされているのですか。
 浅川  ブータンでは、原則として、僧院内部での撮影や調査が許可されないんです。とくに仏像まわりの撮影はできないし、瞑想洞穴の内部に入室できることは例外的にしか認められません。だから、実測・測量は外回りの調査が中心になります。境内配置図の測量、地形断面を含む建物の連続側面図の作成などです。こうした調査データにより、崖寺全体の空間構成の把握をめざします。急峻な高山の崖に沿ってたつ山寺の測量には、ハロン湾で活躍した「DGPS+レーザー距離計のシステム」が復活していますよ。岡野の遺産です。岡野は調査の前にいちど大学に指導に来てくれました。ブータンでは中島がこの技術を受け継いでくれました。いまは吉田ですね。吉田はすごく険しい崖寺の全体配置図を描くのが速くて、レーザー距離計で光線を飛ばして、座標をどんどん入れていきます。そういえばインパルス社の新しい距離計・方位計を昨年買ったんです。ハロン湾時代の計器は距離の上限が700mだったんだけど、新しい計器は2,500mまで伸びています。ところが、目盛りが粗くなってしまった。
 吉田  はい。古い方は10㎝単位ですが、新機種の測定目盛りは1m単位です。
 浅川  ブータンの場合、どちらが適しているの?
 吉田  崖寺の測定範囲は広いので、新機種のほうが適していると思います。



続きを読む

座談会「民族建築その後」(その8)


窟の建築化

 浅川  国内では六郷満山を中心に九州各地の霊山を視察し、国外では大乗仏教の伝播ルートを遡行していきました。当初の興味は「岩窟と木造建築の関係」であり、雲岡石窟・麦積山石窟や敦煌莫高窟・楡林窟などで窟檐・懸造・礼堂の取り付き方に注目していたの。それを類型化すると、大分の岩窟仏堂は華北の石窟寺院に近く、山陰の岩窟仏堂は福建省甘露寺のあり方に近いという見通しを得たんです。しかし、東トルキスタンやインドの石窟寺院をみて、ぜんぜん発想が変わってしまった。
 栗原  どうしてですか。
 浅川  東トルキスタンのキジル千仏堂(3世紀~)などは砂漠の中にある初期の石窟寺院ですが、木部のないアーチ式洞穴ばかりです。周辺に住んでいるトルコ系ウィグル族の土造アーチ式民家が土の中に埋めこまれたようなものでして、ときにラテルネンデッケ(隅三角持送り天井)がアーチについている。調べてみると、ラテルネンデッケはパミール高原の民家にあるようなんですが、もとは木造でしてね。木造の天井を模倣して石窟で表現しているわけです。平地式建物の構造が石窟に影響をしているんだと感じました。次に西インドのアジャンタ、エローラなどを訪れました。古いものは1世紀(I期)、新しいものは5世紀(Ⅱ期)くらいですか。平地寺院の装飾的な細部がごっそり石窟に持ち込まれている。そして、木部なんてありゃしません。こういう事実を目にして、むしろ「窟(いわや)の建築化」という視点が有効であろうという考えに至ります。石窟寺院に共通するのは礼拝窟に仏像を安置し祀ることですが、その空間が近隣の平地寺院の影響を受けて建築化していく、という捉え方です。こうした見方をすれば、アジア各地に展開した石窟寺院/岩窟仏堂の多様さを説明できるんです。
 清水  中国や日本もそういう見方で説明できるのですか。
 浅川  雲岡石窟では、岩窟の外側を木造建築で覆い、内側は木造建築の細部(三斗や人字形の中備)をレリーフで表現している。あれも、石窟の内部空間を平地の木造寺院化しているんですよ。日本の場合どうか、というと、岩窟に彫刻・彩色する力がないから、岩屋を窟(いわや)の中に納めてしまうんです。
 山田  なるほど。
 浅川 日本の岩窟仏堂は華北の石窟寺院や華南の懸造寺院のミニチュアであり、平安中期~鎌倉時代前期に造営され始めた。これは磨崖仏の年代と重なるんですが、北宋末~南宋の時代の影響かもしれません。岩窟内に木造建築を取り込む構造はアジア的にみると特異ですが、日本型の「窟の建築化」だと考えれば理解できる。OUV命題に対する答えになってないかな?

上座部仏教の洞窟僧院

 浅川  ところで、タクヲさんは計4回の海外出張がすべて中国だったの?
 清水  そうです(笑)。
 浅川  そりゃ申し訳ないな。
 清水  いえいえ。
 浅川  君を中国に同行させていたわけですが、わたしは2011年からラオス、ミャンマー、ブータン、インドを単独訪問しているんです。中国とインドは厳しいよね。ラオス、ミャンマー、ブータンはいいですよ。何度でも行きたくなる。とても過ごしやすい国々です。
 栗原  「石窟寺院への憧憬―岩窟/絶壁型仏堂の類型と源流に関する比較研究―」科研の一部としてそれらの国々を訪問されたということですね。
 浅川  トルコのカッパドキアまで行きました。キリスト教の遺産ですが、洞穴に人が住み、教会を築いている。地下都市まであります。
 栗原  それらは、もちろん次の科研申請の下準備というような意味合いがあったのでしょう?
 浅川  そのとおりです。2013年から今に至る「チベット系仏教及び上座部仏教の洞穴僧院に関する比較研究」につながりました。
 山田  上座部仏教とチベット系仏教ではどういう違いがあるのでしょうか。
 浅川  厳密にいうと、ラオスやミャンマーなどの上座部仏教では「洞窟僧院」ですね。迷路のような鍾乳洞のひろい範囲を僧院にしています。洞窟内にはまれに瞑想のための小洞穴も含みますが、ほとんどが礼拝窟でして、寄進仏が片寄せ、せめぎあうほどぎゅうぎゅう詰めに並んでいる。何千もの仏像ですよ。

ブータンの崖寺と瞑想洞穴

 浅川  一方、チベット仏教のブータンでは、急峻な岩山の洞穴を木造懸造の掛屋で塞いで瞑想窟としています。ブータンでは、今でも瞑想が密教修行の根幹でして、一人前の僧侶になる前に3年3ヶ月3日の瞑想をする必要がある。瞑想の場所が洞穴なんですね。大乗仏教の石窟寺院では、岩窟は仏像を安置する礼拝窟として崇拝されたわけですが、西インド初期の石窟寺院に礼拝窟はなく、瞑想窟(僧坊窟)だけで構成されていた。北インドで仏教が出現した紀元前6~5世紀のころまで遡ると、経典も仏堂も仏像も存在しなかった。瞑想修行に勤しんでいたんでしょうね。菩提樹の下や岩陰や洞穴が瞑想の場所だったんじゃないでしょうか。ブータンの瞑想場は、そうした古い仏教のあり方を彷彿とさせます。ブータンで礼拝窟にあたるのは、仏像を祀る本堂ラカンなんですが、本堂が僧院に建立されるのは国家形成期の17世紀にまで下ると言われています。こうした「瞑想」あるいは「瞑想洞穴」の研究に没頭しているところです。
 栗原  もちろん学生さんを率いての調査なんですよね。
 吉田  ブータンは第2次調査(2013)から学生が加わりました。中島さんがリーダー格です。第2次調査は教員・学生あわせて13名の大所帯でしたね。
 浅川  みんな喜んで感動してくれたと信じたいけど、調査人数としては多すぎたね。なかばコントロール不能に陥りました。恋愛厳禁の掟は破るし・・・
 吉田  すぐに別れましたから(笑)。



続きを読む

座談会「民族建築その後」(その7)


躍動する建築考古学

 山田  2000年代後半は研究室活動が活発でしたね。
 浅川  5期生の岡垣と今城が -いまは夫婦なんですが- 2005年度に入学して2010年度に修士課程を終えるまでの数年間が無双でしたね。前後に宮本・岡野(2期)、大城(3期)、嶋田(4期)、木村(5期)、大給(6期)、吉川(7期)、檜尾(8期)が重なっている。清水(1期)も非常勤職員として2009年に大学に戻り、修士号を取ります。
 山田  岡垣くんが脚光を浴びたのは、安土城総見寺再建学生コンペ(2008)からでしょうか。
 浅川  あれは危ないコンペでね、わたし自身、腰がひけて、何度かやめようと提言したんですが、岡垣はねばり強かったね。
 山田  みごと銀賞(全国2等)を獲得しました。
 浅川  本当は金賞なんですよ。普通の審査員がまともに審査したら、岡垣が勝ったでしょう。建築史の中谷礼仁氏が総評で「金賞は浅川研だ」と明言しましたからね。あれで少しだけ溜飲がおりた。なんていうのかな、日韓ワールドカップのポルトガル~イタリア~スペイン連敗を彷彿とさせる、プロレス的な超アウェイの審査会で、岡垣はみごと銀賞に輝いた。ほんと、立派です。
 栗原  総見寺本堂復元も「建築考古学」の一環とみていいですか。
 浅川  えぇ、もちろん。建築考古学については、奈文研時代よりも環境大移籍後のほうがはるかに重要な仕事をしているんです。2005年で出雲大社境内遺跡の大型本殿跡が一段落し、相前後しつつ青谷上寺地遺跡の仕事にシフトしていきました。7,000件に及ぶ弥生時代の建築部材の分析と復元を2008年度まで続け、2009年には纒向(まきむく)遺跡の復元に展開していきます。
 清水  毎年のようにマスコミを賑わしていましたね。わたしは2009年の纒向から加わりましたが、メディアの仕事って、なんてハードなんだと思いました。報道ステーションとか、雑誌の『アエラ』とか、超有名なメディアと絡んで、ときどきギスギスしたところもありましたが、良い経験になりました。
 浅川  青谷については、嶋田が「弥生時代最長の垂木」による大型建物の復元で2007年度に卒業論文を書くのですが、復元図はほぼ岡垣が描いていました。纒向の復元は岡垣が修士1年次の中間報告会で発表したのですが、ある教授が「これ以上なにをするのか?」と質問するので、わたしが代わりに答えたんです。「岡垣が本当にやりたいのは仏教建築だから、修士論文では仏教建築を別にやらせます」と。
 大給  会場がシーンとなりましたね。よく覚えています。

山岳信仰と文化的景観

 栗原  青谷から纒向という凄まじい復元研究をされながら、ハロン湾の文化的景観にかかわる調査もされていた。
 浅川  それだけじゃなくて、科研のハロン湾調査の裏で、同時期に国内の文化的景観研究に取り組んでいたんです。2008-09年度、県の学術研究費の助成をうけて「文化的景観の解釈と応用による地域保全手法の検討-伝統的建造物群および史跡・名勝・天然記念物との相補性をめぐって-」を進めていた。主題は二つあってね。一つは「限界集落と文化的景観」、もう一つは「山岳信仰と文化的景観」です。
 栗原  スモール・ベースボールですね(笑)。
 大給  わたしは「山岳信仰と文化的景観」に係わっていましたが、「岩窟/絶壁型の懸造仏堂」の系譜が卒論の主題でして、山岳信仰と文化的景観」そのものについては今城さんが修士研究で取り組まれていました。「限界集落と文化的景観」の方はキム姉さんの卒論ですね。
 浅川  「山岳信仰と文化的景観」研究の締めとして、2010年2月に「大山・隠岐・三徳山」という大きなシンポジウムを倉吉未来中心で開催するんです。招聘講演者は楊鴻勛先生(中国社会科学院考古研究所名誉研究員・中国建築史学会長)です。世界文化遺産になったばかりの五台山の建築遺産と文化的景観についてお話しいただきました。
 山田  同じ文化的景観でも、水上集落からいきなり山岳信仰に飛ばれた理由は何だったんですか。
 浅川  2006~07年に世界遺産暫定リスト入りをかけた国内選考がありましてね。鳥取県は「三徳山とその文化的景観」で申請したのですが、惨敗だったんです。文化庁の審査結果はカテゴリーⅡ。最低の評価でね。「顕著な普遍的価値」を証明する必要がある、と書いてある。
 清水  アウトスタンディング・ユニバーサル・ヴァリュー(Outstanding Universal Value)、略してOUVですね。
 浅川  いったいどちら様が審査なさってるのか知らないけれども、先行して世界遺産に登録された高野山とか中尊寺の「顕著な普遍的価値」をだれが証明したというのですか。だれも証明していないし、これからも証明できない。高野山や中尊寺は「顕著な普遍的価値」とは別の論理で世界遺産に推薦されたんだよ。私は三仏寺投入堂のフリークじゃありませんが、山陰には岩窟・岩陰と複合する懸造の仏堂が多いので、その系譜を解き明かしてやろうという野心を抱いたわけです。高野山とか中尊寺で証明できていないOUV命題に、一か八か、山陰の岩窟仏堂を材料にして挑んでみようということで、科研に申請したのが「石窟寺院への憧憬―岩窟/絶壁型仏堂の類型と源流に関する比較研究―」です。



続きを読む

座談会「民族建築その後」(その6)


スモール・ベースボールの精神で

 栗原  京大人環の客員助教授時代と、鳥取環境大学に移られてからを比較すると、やはり京大時代は個人指導で、鳥取では研究室活動になっていったのですか。
 浅川  研究室というほどの組織はなかなか成立しなかったよね。開学したばかりの大学だから、1期生の清水拓生くんたちが4年生になって卒論に取り組むあたりまで、実質的に研究室は存在しなかった。たとえば、2002~03年に倉吉の町並みの基礎調査を私一人でやっているんですね。途中から、当時のタクオさんの彼女をバイトで雇ったりして助けてもらいましたが。
 清水  それはオフレコで。
 浅川  では、オフレコにしよう(笑)。環境大学に移ってよかったのは、中国以外の海外に行けるようになったことですね。ベトナムから始まって東南アジアのほぼすべての国を踏破したし、シベリア、ロシア、ヨーロッパにも行けるようになって、中国の比重が一気に下がった。東南アジアやヨーロッパは居心地がいいね。
 山田  海外出張の原資はやはり科研費ですか。
 浅川  そうです。ただし、大きな科研は狙わない。地方の私学で、小さな小さな大学でしょ。有名大学の研究室と本気で競いあっても太刀打ちできない。地方の弱小大学は科学研究費の採択率が低いんです。ですから、無謀な挑戦はできないと判断したの。移籍後しばらくして、ある著名な考古学者から「焼失住居跡」とか「大型掘立柱建物」をテーマにして基盤Bの代表者をやってくれ、という依頼が届いたこともあったんですが、断りました。基盤Bや基盤Aを申請して惨敗を喫し、科研費がゼロ円になるのはなんとしても避けたかったからです。地方の私学なら基盤Cでも通ればマシです。ただし、それを連続してとりたいと考えていました。贅沢を言わなければ基盤Cはわるくない。研究分担者がなしでも申請できるから、全額一人で使えます。交付額をすべて海外旅費につぎ込むこともできる。振り返ると、2007-09年度の「文化的景観の水上集落論-世界自然遺産ハロン湾の地理情報と居住動態の分析-」だけが挑戦的萌芽研究で、それ以外はみな基盤Cなんです。幸い連続して採択されています。出版助成も一度いただきました。
 山田  すごいですね。
 浅川  いえいえ、そんなことはないです。ただね、田舎にいて「ホームランかっ飛ばしてやろう」という発想は間違いだと思うのね。単打を繰り返し、着実に加点していくスモール・ベースボールの精神でいくしかない。塵も積もれば山となります。鳥取県には、鳥取県環境学術研究費という助成金の制度があります。私学時代は申請すれば必ず通る状態でした。公立化後、採択率が落ちていますが、こちらにも毎回申請してほとんど通ってきました。ほかに、公立鳥取環境大学学内研究費というのもあります。こういう小型の研究費を積み重ねれば、基盤Bぐらいの規模になりますからね。
 山田  なるほど。ただ、採択数が多いと、報告書の数も多くなって大変ですね。
 浅川  そうそう、しょっちゅう申請書を書いて、年度末には3冊前後の報告書を編集したり、大学の紀要に投稿したり。でも、結局は学生の卒論・修論の改稿バージョンですからね。学生たちの踏ん張りが研究室を支えてきたわけで、とても感謝しています。報告書の数はすでに30冊を超えていますよ。

東南アジアの水上居住

 栗原  環境大学最初の海外調査はどちらでしたか。
 浅川  2002年春休みのベトナムですね。ホーチミン(サイゴン)から入って、ダナンとフエを経由し、ハノイまで北上した。山形真理子さんというベトナム考古学専攻の研究者にいろいろ情報をいただきまして、たしかサイゴンでも一日ご一緒していただいた記憶があります。
 栗原  調査はされたのですか。
 浅川  奈文研で大仕事をやった後、ちょっと息抜きをしている状態でして、あまりガツガツしていなかった。世界遺産を視察し、その周辺で水上集落をたくさん発見しています。一年目は実測していないけれど、フエなどでベトナム人研究者と会って、水上居住に関するベトナム語の論文を提供していただきました。それを山形さんに訳していただいて報告書『東アジア漂海民の家船居住と陸地定住化に関する比較研究』(2004)に掲載しましたね。
 山田  学生は連れていかれましたか。
 浅川  社会人入学の1期生、細谷幸希君を連れていきました。愛称をゴルゴ18と言います。細谷くんは翌年のシベリア調査にも同行しています。
 山田  まったく実測されていないのですか。
 浅川  2002~03年にタイ内陸のウータイタニとピサノロークで川に浮かぶ筏住居、カンボジアのトンレサップ湖で家船、筏住居、陸上の小型高床住居を実測しています。
 栗原  中国にも蛋民がいるわけですが、中国ではなく、東南アジアをフィールドにされた理由は何だったんですか。
 浅川  南方中国の蛋民は1990年代以降、共産党政府の強い指導もあって、「陸上がり」が顕著になってきたんです。。一方、東南アジアはどこにいっても、水上居が健在でしてね。活力ある水上集落を至るところでみることができる。民族学的な資料を得るなら、東南アジアが圧倒的に有利だと思った次第です




続きを読む

座談会「民族建築その後」(その5)


実測技術の功罪

 山田  大学院で中国に留学し調査していた時代の図面がひどかったという話をお聞きしました。しかし、奈文研の採用試験には実測作図の「実技」もありますし、とくに採用後は鍛えられたのではありませんか。
 浅川  奈文研に入ると、図面が下手だとか言ってられませんから。建築の図面も大変だけど、発掘調査の遺構図の実測はさらにやっかいです。石とかごろごろでくるでしょう。それを、上から見た状態で描かなきゃいけないわけです。腰が痛くなりますよ。
 山田  発掘調査の組織はどうなっていたのですか。
 浅川  当時の平城調査部は6室に分かれていて(今は5室)、考古3室、史料、建築、造園から一人ずつ選抜されて、計6人で現場班を構成してました。日々、学際的研究ですね。年に3ヶ月間の発掘ですが、こんなに理想的な組織で調査しているところはほかにないでしょうね。
 山田  雰囲気はどんな感じでしたか。
 浅川  和気藹々です。休憩時間のナポレオンが懐かしい。
 吉田  お酒飲んでたんですか?
 浅川  (絶句して)トランプ・ゲームのナポレオンさ。
 山田  (笑)・・・強かったんですか。
 浅川  弱いよ・・・内面が顔にでてしまうタイプだから。
 山田  清書作図のほうも大変だったんじゃありませんか。
 浅川  奈文研には主婦のアルバイトさんがたくさんいて、トレーサーをやってくれるので、たいへん助かりました。当時、頼りにしていたのは北野陽子さんという方でね。『住まいの民族建築学』以来、ずっとパースを描いてもらいました。
 栗原  内観パースですよね。
 浅川  おもに内観だね、カマドと台所のパースが印象深いかもしれません。
 栗原  朝鮮族やツングースのときも、すごいパースが報告書で描かれていました。
 浅川  現場で実測図はイヤになるほどとりましたが、図面の仕上げは、奥様たちに任せていました。はっきり言って、わたしよりはるかにうまいから。トレース検定1級とか2級をもっているようなスタッフが揃っていたんでね。烏口やガラスペンを使える技術者たちだったんです。
 大給  和歌山県文化財センターで、いま苦労しています。重要文化財建造物の実測図は烏口仕上げですから。
 浅川  CADの図もわるくないけれども、やっぱり烏口で描く線は綺麗だよね。ああいうのができる人たちが脇を固めてくれていたわけです。

一日一山

 山田  建造物調査の組織はまたちがうのですか。
 浅川  建築のメンバーが3人一組でね。調書1名、写真撮影1名、実測1名。入所直後は近世社寺建築調査の最盛期でして、1日8ヶ所の社寺を調査するの。
 栗原  1日8ヶ所!?
 浅川  1ヶ所の調査時間は50分です。お寺さんがコーヒーを出してくれるでしょう、飲んだふりをして、さっと捨てて次のところへ行く。1週間、5泊6日で50ヶ所以上になるんです。そういう鍛えられ方をした。たとえば小さい流造の本殿なら、スケッチから採寸まで15分でやれと言われた。
 栗原  それは断面も……。
 浅川  平面だけです。
 栗原  平面だけですか(すこしは安堵)。調査の雰囲気はどんなもんですか。
 浅川  殺伐としてましたよ。人間は機械じゃないからね。汚い図面をたくさん描いて、歪んだ写真を撮って、調書に殴り書きしてるだけだから、おもしろいなんて感覚はない。
 栗原  海外調査に影響しましたか。
 浅川  こんな調査をしちゃいけない、っていう反面教師であったはずなんですが、西北雲南調査の際、一日のノルマを4ヶ所と決めたんです。近世社寺の半分だからいけると思ったんですが、他大学の研究者からクレームを頂戴した、「ガツガツしすぎてる」って。たしかに、そうなんですよ。一日のノルマを決めること自体間違っている。だれかが事前にアポをとっているわけでもないですから、まずは交渉から始めないといけないし、断られる場合だってある。移動の時間が長くて疲れるから、のんびり休憩だってしたくなる。そういう交渉、移動、休憩のすべてがフィールドワークですからね。民家を何棟実測するかが重要ではないんですよね。



続きを読む

座談会「民族建築その後」(その4)


酒と薔薇の日々

 栗原  調査時に書いたフィールドノートとか、実測された野帳などをまとめたり、あるいは図面を起こしたりというのは、その日の夜にやられるのですか。
 浅川  ブータンを例にとりましょうか。今年(2015)、いま記録係をやっている二人の3年生をブータンに連れていきました。初日は疲れていてね、ホテルに帰ってすぐにビールを出しちゃった。そうすると、一人がすごく飲むんだ。飲んだらもう笑い上戸がとまらない・・・
 栗原  あっ、そうなのですか(笑)
 浅川  酔っぱらって、笑い出して、とまらないんです。それで、初日、データ整理をしないまま爆睡してしまった。2日目からおおいに反省しまして、データ整理が終わるまでビールを出さない、と決めたの。
 栗原  調査中の飲酒規制は厳しいんですか。
 浅川  飲むべきときに飲めばいいんです。晩酌程度ならいいですが、毎晩大酒を飲む必要はない。酒と薔薇には要注意だね。人生ばかりか、調査が狂う。いちばんひどかったのは西北雲南調査です。女子2名が調査に加わって、深夜3時ぐらいまで酒を飲んで男女が語り合う。恋が芽生え、もつれ始める。それで体調を崩すメンバーもでてくる。海外フィールドでは体調の維持が重要ですから、調査隊長としては早寝早起きしてもらいたいのですが、いくら注意しても、修正しきれなかった。ブータンにも女子学生を連れていく機会があり、予め「恋愛禁止」を厳命していたのですが、カップルが一つ誕生しました。
 吉田  すぐ別れましたね(笑)。
 浅川  川喜田二郎さんが新書で書いていますが、フィールドワークは午後4時に終わらなきゃいけないんだってね。4時に終わって、それから2~3時間たっぷりノートを書く。うちの場合、そこまで徹底してはいませんが、夕方、みんなで整理します。清水くんや大給くんを中国に連れて行ってたころは、その日の夜のうちに活動記録をブログにアップさせましたが、あれは無茶だった。書くほうも大変ですが、校正する私の体がもたない。いまは帰国後、研究室のブログに紀行文を連載します。雑文ではありますが、こうした活動記録は非常に重要です。あとで効いてくる。論文を書いたり、報告書を編集したりするとき、ブログにアクセスすれば、当日の記録と写真が掲載されているわけですから。ノート形式の調査日誌だと、限られた人しか閲覧できないけれど、ブログだとだれでも読めるしね。野帳はカラーコピー1枚、白黒コピー1枚とる。
 吉田  最近はpdfにして、関係者全員に配信します。調査地では、一眼レフカメラで野帳類を撮影しますね。フラッシュなし1回、フラッシュあり1回の計2回。これで仮のバックアップになります。
 栗原  中国でフィールドワークされたときはどうでしたか。
 浅川  それはもう中国のビージーベン(笔字本)にびっしり記録を書きましたよ。下手くそなスケッチも添えてね。あの笔字本がなくなるとショックですね、奈良の家に保管してますが、バックアップとってないな(笑)。

為人民服務

 栗原  当時の中国だと、調査中に公安が入ってノートを没収されたりとかあったみたいですね。
 浅川  あった、あった。あれは無錫だった。小さな都市住宅に入って実測とヒアリングをしていた。そうしたら、白い服を着た公安(警察官)が入ってきて、もう終わりかと思ったのですが、その人はすごくいい人でね、「何か手助けしましょうか」と言われてセーフでした。人の話ですが、考古学の仲間でGPSを持って地形測量したら捕まって3日間収監されたとか、聞いています。君は大丈夫ですか。
 栗原  ぼくは大丈夫でした。現地の人より貧しいと言われていたぐらいで、すごくぼろぼろの服を着てはだしで歩いていたので、公安に目をつけられることはなかったです。1990年代でしたし、80年代に比べたら全然楽だったと思います。
 浅川  尖閣以降、また危なくなってるよ。80年代はお店でモノが買えなかった。たとえば靴が欲しいと店員に言っても、しばらく無視されて、そのあと商品の靴をぼーんと投げてくる。ひどいのになると、おつりまで投げてくる。
 山田  そうなんですか。
 浅川  タクシーに乗って、お金を払った後におつりをぽっと投げてくるんですよ。村松伸さんが一緒に乗っていて、本気で怒り出したことがあった。
 栗原  それ、日本人だからということですか。
 浅川  日本人は今より好かれていたような気がするな。しかし、外国人に対する嫉妬はあったね。中国人同士でも、かなり揉めていたけど。
 栗原  サービスというのが全くありませんでしたね。
 浅川  ないですよね。
 栗原  壁に「服務(サービス)」と書いてあるのですが・・・
 浅川  為人民服務。人民のためにサービス(服務)せよと書いてあるんですが、その実態や如何に(笑)。


続きを読む

座談会「民族建築その後」(その3)


認識人類学の影響

 栗原  じっさいに南方中国では、どのような調査方法でフィールドワークをされたのでしょうか。
 浅川  文化人類学の専門家がみたら、調査とはいえないとお叱りを受けるでしょうね。なぜかというと、当時の中国では農村に行くのがやっとのことで、農村の民家に寝泊まりしながら参与観察なんてことは絶対許してもらえない。ミクロネシアではホームステイしていましたよ。中国では、各地のホテルか招待所に泊まって、そこから調査地に通うわけです。測れるものを測って、聞き取りできるものを聞く。私の場合、言語学から展開した認識人類学の影響を受けていたから、現地の言葉を方言レベルで集めることを極力やりました。たとえば台所の展開図を描くとすると、そこに描き込まれた民具の呼称をすべて方言で集める。漢字も書くし、読み方も書く。読み方は片仮名でもいいからとにかくノートしました。たとえば、カマド(竈)は北京語ならザオと発音しますが、上海語だとツォッでしょう?
 栗原  そうなのですか。
 浅川  そういう現地語の漢字表記と音声をできるだけ体系的に集めたんですね。それはもう露骨に認識人類学の影響でした。
 栗原  なぜ認識人類学だったのでしょうか。
 浅川  文化を内側から理解し記述する方法として有効だと思ったからです。関東は知らないけれども、少なくとも京大や民博などの関西では認識人類学一色になっていて、ミクロネシアの調査研究を進めるなかで影響を受けないわけはない。認識人類学の方法をきっちり理解していたわけではないですが、とにかくフィールドに入ったら現地の言葉を極力集めるしかない、と思ってました。とくに重要なのは、似た言葉ですね。たとえば、コップとグラスの違いはなにか。両者を分類している弁別素はなにか、っていうのを考える。その場合、語彙そのものだけではなく、語彙素にまで踏みいらないと分からない。じっさいにどれほどのことができたか自信はありませんが、そういう気持ちで調査に臨んでいました。
 栗原  1980年代ですよね。松井健先生が書かれた『認識人類学論攷』(昭和堂)が1991年に出版されて、私も総合研究大学院大学(民博)の課題図書としてまず与えられました。松井先生って僕の高校の大先輩なんです。
 浅川  ああ、そうですか。
 栗原  直接面識はないですが……。実測作図のほうはどんな感じでしたか。
 浅川  実測図はひどいもんです。人前に出せない。壁なんかシングルラインで、厚みがないんだから(笑)。ただ、デザイン・サーベイやってたわけじゃないからね。歴史民族学の大林太良先生がおっしゃてましたが、「民族学者の描く図面は建築学者のような図面でなくていい。空間構成がわかればいいんだ」と。わたしの実測図もその程度のレベルです。ただし、家具配置は徹底的に描きましたね。そして、家具の名称を全部書き込んだ。それは一生懸命やりました。

カマド神とのめぐり逢い

 栗原  カマド神についても分析されていましたよね。
 浅川  江南のカマドにははまりました。住居というのは、そもそも「火」を守る小屋、という意味なのかもしれない。火(ヒ)という言葉と家(イヘ)のヘが似ているでしょう。トラック諸島だと、家がイームで、炉がウームなのね。竪穴住居を考古学的に分析していくと、火(炉)を中心に男女の融合と対立が表現されている(浅川「竪穴住居の空間分節」、都出・佐原編『古代史の論点2 女と男、家と村』小学館・2000)。火に着目して家を考えると、いろんなことが見えてくる。中国江南では、カマドがおもしろいんだ、圧倒的に。まずカマドそのものの意匠がすばらしい。そして、カマド神の信仰がカマドに映し出されている。柳さんという優秀なガイドがいたんです。柳さんがいろんな昔話を聞かせてくれた。私の中国語のレベルが低いんで、柳さんは、原稿用紙に文字で書いてカマド神の伝説を教えてくれたんです。それを訳して論文にしたの(浅川「カマド神と住空間の象徴論-続“竈間”の民族誌-」『季刊人類学』18巻4号 :p.107-145、1987)。
 栗原  そのガイドさんは地元の方だったのですか。
 浅川  紹興の人、外事弁公室の主任でした。1983年11月19日、紹興で調査中に鳥取で長女が生まれたんです。電報が柳さんのところに届いたの。「女児誕生 母子共健康」。みんなでお祝いしてくれました。調査中ずっと、とてもよくしてくれて、数年後に日本にいらっしゃったときには宴会でおもてなししましたよ。
 栗原  そういう物語とか口頭伝承とかに目をつけるのも、人類学とか神話研究の影響ですか。
 浅川  民話や伝承は文化をとく鍵になりますよね。神話学のレベルまでは達していませんけどね。ヒアリングやっていたら、そこまでいっちゃったみたいなところだと思います。いまもブータンの民話をせっせと翻訳しています。


続きを読む

座談会「民族建築その後」(その2)


五月蝿いハエのように

 栗原  1992年、学位請求論文「住まいの民族建築学的考察」で京都大学博士(工学)の学位を授与されますね。その2年後、初の単著『住まいの民族建築学-江南漢族と華南少数民族の住居論-』(建築資料研究社・1994)を出版なさいます。その本の前書きで、「中国学のメインストリームの周りを飛ぶ五月蝿いハエのようなもの」と自分の業績を評価されていますが、あれはどういうことなんでしょうか?
  浅川  世界の中国研究の三大拠点は京都とパリと北京と言われています。京大の中国学はものすごく分厚い伝統があり、世界有数の学者を綺羅星のごとく輩出してきた。吉川幸次郎、貝塚茂樹、宮崎市定とか、名前をあげるだけでくらくらするでしょう。人文科学研究所(人文研)東方部ではね、「漢文が読めなければ人ではない」と言われるのだと田中淡さんがよくこぼしておられました。別の言語学者は、「中国服を着て中国語をしゃべって、日本人とばれたら罰金取られる」とも言ってました。そういう水準の高い重厚な学問的世界のなかで、わたしといえば、少数民族地域とか江南漢族の農村地域をぶらぶらしているだけですからね。本流の人から見ると、ハエですよ、五月蝿いハエ。わたしの場合、本流にはどうしても乗っかれない。田中淡さんみたいにはなれないと、最初から予感がありました。
  栗原  なぜ上海を選んだのですか。
  浅川  南方の少数民族、江南漢族の住居をやりたいと留学の申請書に書いていましたからね。ただ、大学のリストには北京の清華大学しかなかったんじゃないかな。だから、いちおう清華大学を希望したんですが、蓋をあけたら上海の同済大学になっていた。
 栗原  ああ、そうだったのですか。
 浅川  中国教育部はきわめて適切な判断をしてくれたと思います。南方の住居文化を研究したいのだから、北京より上海を拠点にするほうがいいに決まっている。北方と南方で文化が全然違いますから。
 栗原  中国をやるのだったら南方をという判断をされたからなのですね。
 浅川  ほんとうは東南アジアをやりたかった。ただ、東南アジア・オセアニアでは食べていけない。だから、中国に転向することになった。しかし、やはり南が恋しい。東南アジア・オセアニアに連続する文化を相手にしたかったわけです。
 栗原  上海留学中のメーン・フィールドについて教えてください。
 浅川  研究テーマは「長江下流域における明清代住宅調査」でした。指導教官は陳従周先生(庭園史)です。先生や同済大学外事弁公室がいろいろ手配してくださって、浙江・江蘇・安徽を2ヶ月調査してまわりました。これは本当にいい経験でしたね。
 栗原  農村でも調査されたんですよね。
 浅川  当時、外国人が許可証なしに行ける都市は30だけでした。ほとんど省都レベルの大都市ばかりです。でも、そこから先は進入禁止。国内でもヴィザが要る。江南の場合、紹興とか寧波などの中心的都市で調査することはできましたが、周辺の農村に入ることは普通できない。それを、同済大学の配慮でやらせてもらっていた。あのころとしては画期的だったんです。農村に入ってデータをもって帰ってきたこと自体が奇跡だった。少数民族地域になると、さらに厳しい。雲南省のシーサンパンナは特別な許可証がないと入れない秘境でした。昆明でなんども交渉したのですが、ついに許可がおりなかった。仏教の聖地、五台山も同じです。中国建築史を勉強しに来ているのだから五台山ぐらい行かせてくださいと申請書を出すんですが、留学中2年間全却下でした。
 栗原  全却下ですか。
 浅川  学内でも進入禁止の場所が多かった。同済大学建築系の図書室に開架と閉架がある。最初のころ、開架にも入れてもらえなかったんです。交渉してなんとか入れるようにしてもらいましたけれども。なぜこうなのか、というと、留学生は半分スパイと思われていますから。国費留学生の制度があるのですが、お互いスパイを送り込んでいると思ってますからね。それと、留学生は「精神汚染」だというキャンペーンが張られたこともありましたよ。
 栗原  江南以外にもフィールドに出られましたか?
 浅川  もちろん出てました。江南の調査前後も全国各地に出たり戻ったりの繰り返しです。
 山田  どれぐらいの頻度でフィールドに出られていたのですか。
 浅川  1ヶ月上海にいて、次の1ヶ月は旅に出る。バッグパック担いでね。5万円あれば一月旅行できた。2年間中国にいて、青海・寧波・吉林以外のすべての省・自治区を回りました。
 栗原  ああ、すごいな。
 浅川  古い建築を実際に見た数でいうと、田中淡さんより多いんです。田中さんは、東南大学(旧南京工学院)に留学されていたんですが、滞在期間は1年(1981-82)でしたから。



続きを読む

ツェゴ-命の着物(1)

160419 命の着物 表紙[web ver.] p.1 (表紙)

          ツェゴ -命の着物-

   テキスト(創話): クンサン・チョデン    イラスト: 石上 陽子


160501 命の着物 p3(トビラ) p.3 (トビラ)

           ツェゴ -命の着物-

   テキスト(創話): クンサン・チョデン    イラスト: 石上 陽子

160501 命の着物 p5 p.5

出版: リャン・ブックス(2013年)
ISBN 978 99936 899 4 2
タイプセット(活版写植): センチュリースクールブック
印刷: レプリカ・プレス

【作者おぼえがき】
 1970年代のはじめごろまで、ワクチン接種や免疫付与はブータンであまり普及していなかった。その結果、幼な子はさまざまな病気の危険にさらされ、乳幼児の死亡率はとても高かった。中央ブータンのわたしの村では幼な子の生存を確保し、長寿を授けると考えられていた風習があった。幼な子はツェゴ、すなわち「命の着物」として知られる衣服をしばしば着ていたのである。そのような着物は、幼少期を生き抜き、高齢まで生きのびた老人たちが分けあたえる布切れを縫い合わせて作られていた。このように、ツェゴは老人たちから若者に与えられた長寿をねがうおくりものである。
 
  *      *      *
 
 「攪拌器のなかで泡立つバター茶のよう」というフレーズは、以下のことを表現するのによく使う。
すなわち、赤んぼうが、大人に抱きかかえられながら、足で立ち上がりはじめ、飛び上がったり
降りたりしようとしている姿である。
 
  *      *      *
  
 ソヤラ(So ya ra)は多くのブータンの歌で用いられるリフレインだが、特別な意味はない。
 
  *      *      *
  
 アイエーモ(Aiee mo)は悲しみの表現である。


続きを読む

『大雲院仏教美術品目録』刊行のお知らせ

 本書は平成27年度公立鳥取環境大学特別研究費助成研究「大雲院とその末寺群の伽藍構成及び仏教美術に関する予備的研究」の成果の一部です。大雲院の仏教美術品については、写真集『大雲院』(池本喜巳撮影・1996)が輝かしい嚆矢ではありますが、それはあくまで写真集でして、本書こそが最初の研究成果と呼ぶべき業績です。ただし、昨年度の調査研究も「予備的」でしかありませんので、「内部資料」として刊行した次第です。今年度末には、なんとか「定本」をお届けしたいと願っています。
 さて、本書の構成ですが、第1章は仏ほっとけ会での発表概要を掲載してます。第2章は三島さんが卒業論文として取り組んだ大雲院仏教美術品、第3章は山本さんが卒業論文で取り組んだ摩尼山石仏の目録・データベースです。味気ない資料集のようにみえますが、文化財保護の側からみれば、目録・データベースほど役に立つものはないでしょう。第4章は大雲院及びジャンバラカン(ブータンの寺院)で採取した試料の放射性炭素年代測定結果を掲載しています。

 今年は徳川家康(東照大権現)の没後400年の年であり、鳥取東照宮勧請にかかわる大雲院の文化財が元旦から大きな記事になるなど注目を集めています。しかし、鳥取県内において、なお大雲院の美術品・建造物の重要性が巷間に流布しているとは言えません。今後も調査研究に勤しみ、目録・データベースを完成させることがASALABに課された課題だと考えています。(キム3号)


表紙mokuroku_web


  図書情報

 書名:      大雲院仏教美術品目録 (内部資料) ASALAB報告書 第34輯
 編集:      浅川 滋男
 発行:      公立鳥取環境大学保存修復スタジオ
 装幀・編集補助: 石川デザイン
 印刷:      冊子印刷社
 発行日:      2116年3月31日
 総貢数:     127貢


続きを読む

プロフィール

魯班13世

Author:魯班13世
--
魯班(ルパン)は大工の神様や棟梁を表す中国語。魯搬とも書く。古代の日本は百済から「露盤博士」を迎えて本格的な寺院の造営に着手した。魯班=露盤です。研究室は保存修復スタジオと自称してますが、OBを含む別働隊「魯班営造学社(アトリエ・ド・ルパン)」を緩やかに組織しています。13は謎の数字、、、ぐふふ。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カレンダー
04 | 2016/05 | 06
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 - - - -
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR