座談会「遺跡整備とオーセンティシティ」(1)
2016年1月16日(土)に「さとに千両」で開催した研究会の記録を連載します。録音文字化データの第一次整理は、昨年度前期にゼミ活動にご参加いただいてた山村さんにお願いしました。山村さんの校正テキストをさらにASALABで校閲したものを掲載します。
遺跡整備とオーセンティシティ
-建築考古学の周辺-
最後の発掘
司会(中原) それでは「遺跡整備とオーセンティシティ-建築考古学の周辺-」と題する研究会を始めます。皆様、よろしくお願いいたします。では、まず平城宮跡との係わりについてご説明いただきましょう。
浅川 1987年、30歳のときに奈良国立文化財研究所(奈文研)に入所しました。研修の現場が長屋王邸(平城京左京三条二坊一・二・七・八坪)です。そごうデパート建設の事前発掘調査でした。一ヶ月ほど長屋王邸にいて、その後、平城宮兵部省を巽さんのマンツーマン指導で掘りました。長屋王邸は当時大変な時期で、奈文研が3年がかりで約3万㎡掘っていました。初めて接した発掘現場が大規模開発にともなう行政発掘だった。ベルトコンベヤーが何十台も連なり、作業員も60人以上いる広大な現場でした。それがわたしの発掘初体験であったわけですが、驚き、怖れおののいた一方で、あまり良い印象ではなかったですね。土木建築の基礎工事となにが変わるのか、と思ったほどです。それに対して平城宮兵部省は閑静としていた。行政発掘と学術調査のちがいを知りました。
図1
その後、1989年に総担当者として平城宮西池宮を掘ります。指導係の担当室長は毛利光さんでした。今の佐紀池が奈良時代の「西池」の名残なんですが、その南側に、朝堂のように長大な桁行21間の建物跡をみつけました。視察に来られた工藤圭章さん(故人)から「一度目にあたったヤツはずっとあたる」と言われて、嬉しいような悲しいような気分になった記憶があります。さらに1993年に2度目の総担当として平城宮造酒司を掘ります。こちらの指導は再び巽さんでした。石敷の大きな井戸と地下に埋もれた造酒甕が建物の内部に規則正しく配列されていて、とても思い出深い現場です。
平城宮跡発掘調査部に14年間いて総担当はこの2回でした。それ以外は、平城京の現状変更が多かったですね。みなさん、あまりご存知ないでしょうが、わたしは国指定名勝「大乗院庭園」の発掘を何回か連続してやっていたんですよ。
真鍋 そう、そうでしたね。
浅川 大乗院庭園が懐かしくて、記憶によく残っています。奈良ホテル南側の現場まで一人で通い、外部の作業員を使って掘っていたのですが、洲浜のいちばん底から真っ黒な瓦器の破片を1点探しだし、石敷きの護岸整備が鎌倉時代までは遡りうることを確認したのです。今日ご出席いただいている松尾さんから出雲大社境内遺跡に呼ばれたのは、奈文研最後の発掘の最中でした。
松尾 2000年の秋でしたね。
浅川 平城宮第一次大極殿基壇縁石の再発掘を、やはり一人でやっていました。第一次大極殿の寸法計画を精査するために、据付痕跡しか確認できてなかった基壇縁石の溝状遺構から抜き取り痕跡を識別しようとしていたのです。とても見えにくい遺構だったのですが、わたしはある日の夕暮れ、西陽の光のなかで、据付溝の内側に溝状の抜取り遺構がみえたと思いました。それをまず井上さんが確認に来て鼻で嗤う。全然みえない、というわけです。その後、岩永さんもみに来た。岩永さんはうぅ~んと唸っている。みえるような、みえないような・・・それから二日後、断ち割りで断面観察していると、推定「抜取り」の中から凝灰岩の破片がでてきた。基壇地覆石の残骸です。さっそく撮影し、ラベルを書いて、ビニール袋に遺物を納めました。凝灰岩は湿気のためまもなく粒化しましたが、抜き取り遺構の決め手になり、基壇規模が確定したのです。これが私の平城宮最後の発掘調査になりました。
眞田 発掘は楽しかったですか?
浅川 いや、いや(笑)・・・こうして14年間、平城宮・平城京の発掘調査に携わったのですが、発掘調査は好きではありませんでしたよ。好きでないから技術も向上しない。座談会「民族建築その後」の冒頭で述べたように、建築も中国もミスマッチであったわけですが、発掘もまたミスマッチでした。できればやりたくないが、飯を食っていくためにはやらざるをえない。もちろん発掘を経験したことでずいぶん恩恵がありましたが、自分の居場所ではないことは承知していたので、故郷の大学に転出するとき嬉しくてしかたなかった・・・ほんと、すいません。
遺跡整備とオーセンティシティ
-建築考古学の周辺-
最後の発掘
司会(中原) それでは「遺跡整備とオーセンティシティ-建築考古学の周辺-」と題する研究会を始めます。皆様、よろしくお願いいたします。では、まず平城宮跡との係わりについてご説明いただきましょう。
浅川 1987年、30歳のときに奈良国立文化財研究所(奈文研)に入所しました。研修の現場が長屋王邸(平城京左京三条二坊一・二・七・八坪)です。そごうデパート建設の事前発掘調査でした。一ヶ月ほど長屋王邸にいて、その後、平城宮兵部省を巽さんのマンツーマン指導で掘りました。長屋王邸は当時大変な時期で、奈文研が3年がかりで約3万㎡掘っていました。初めて接した発掘現場が大規模開発にともなう行政発掘だった。ベルトコンベヤーが何十台も連なり、作業員も60人以上いる広大な現場でした。それがわたしの発掘初体験であったわけですが、驚き、怖れおののいた一方で、あまり良い印象ではなかったですね。土木建築の基礎工事となにが変わるのか、と思ったほどです。それに対して平城宮兵部省は閑静としていた。行政発掘と学術調査のちがいを知りました。

その後、1989年に総担当者として平城宮西池宮を掘ります。指導係の担当室長は毛利光さんでした。今の佐紀池が奈良時代の「西池」の名残なんですが、その南側に、朝堂のように長大な桁行21間の建物跡をみつけました。視察に来られた工藤圭章さん(故人)から「一度目にあたったヤツはずっとあたる」と言われて、嬉しいような悲しいような気分になった記憶があります。さらに1993年に2度目の総担当として平城宮造酒司を掘ります。こちらの指導は再び巽さんでした。石敷の大きな井戸と地下に埋もれた造酒甕が建物の内部に規則正しく配列されていて、とても思い出深い現場です。
平城宮跡発掘調査部に14年間いて総担当はこの2回でした。それ以外は、平城京の現状変更が多かったですね。みなさん、あまりご存知ないでしょうが、わたしは国指定名勝「大乗院庭園」の発掘を何回か連続してやっていたんですよ。
真鍋 そう、そうでしたね。
浅川 大乗院庭園が懐かしくて、記憶によく残っています。奈良ホテル南側の現場まで一人で通い、外部の作業員を使って掘っていたのですが、洲浜のいちばん底から真っ黒な瓦器の破片を1点探しだし、石敷きの護岸整備が鎌倉時代までは遡りうることを確認したのです。今日ご出席いただいている松尾さんから出雲大社境内遺跡に呼ばれたのは、奈文研最後の発掘の最中でした。
松尾 2000年の秋でしたね。
浅川 平城宮第一次大極殿基壇縁石の再発掘を、やはり一人でやっていました。第一次大極殿の寸法計画を精査するために、据付痕跡しか確認できてなかった基壇縁石の溝状遺構から抜き取り痕跡を識別しようとしていたのです。とても見えにくい遺構だったのですが、わたしはある日の夕暮れ、西陽の光のなかで、据付溝の内側に溝状の抜取り遺構がみえたと思いました。それをまず井上さんが確認に来て鼻で嗤う。全然みえない、というわけです。その後、岩永さんもみに来た。岩永さんはうぅ~んと唸っている。みえるような、みえないような・・・それから二日後、断ち割りで断面観察していると、推定「抜取り」の中から凝灰岩の破片がでてきた。基壇地覆石の残骸です。さっそく撮影し、ラベルを書いて、ビニール袋に遺物を納めました。凝灰岩は湿気のためまもなく粒化しましたが、抜き取り遺構の決め手になり、基壇規模が確定したのです。これが私の平城宮最後の発掘調査になりました。
眞田 発掘は楽しかったですか?
浅川 いや、いや(笑)・・・こうして14年間、平城宮・平城京の発掘調査に携わったのですが、発掘調査は好きではありませんでしたよ。好きでないから技術も向上しない。座談会「民族建築その後」の冒頭で述べたように、建築も中国もミスマッチであったわけですが、発掘もまたミスマッチでした。できればやりたくないが、飯を食っていくためにはやらざるをえない。もちろん発掘を経験したことでずいぶん恩恵がありましたが、自分の居場所ではないことは承知していたので、故郷の大学に転出するとき嬉しくてしかたなかった・・・ほんと、すいません。