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座談会「遺跡整備とオーセンティシティ」(1)

 2016年1月16日(土)に「さとに千両」で開催した研究会の記録を連載します。録音文字化データの第一次整理は、昨年度前期にゼミ活動にご参加いただいてた山村さんにお願いしました。山村さんの校正テキストをさらにASALABで校閲したものを掲載します。


      遺跡整備とオーセンティシティ
         -建築考古学の周辺-



最後の発掘

 司会(中原) それでは「遺跡整備とオーセンティシティ-建築考古学の周辺-」と題する研究会を始めます。皆様、よろしくお願いいたします。では、まず平城宮跡との係わりについてご説明いただきましょう。
 浅川  1987年、30歳のときに奈良国立文化財研究所(奈文研)に入所しました。研修の現場が長屋王邸(平城京左京三条二坊一・二・七・八坪)です。そごうデパート建設の事前発掘調査でした。一ヶ月ほど長屋王邸にいて、その後、平城宮兵部省を巽さんのマンツーマン指導で掘りました。長屋王邸は当時大変な時期で、奈文研が3年がかりで約3万㎡掘っていました。初めて接した発掘現場が大規模開発にともなう行政発掘だった。ベルトコンベヤーが何十台も連なり、作業員も60人以上いる広大な現場でした。それがわたしの発掘初体験であったわけですが、驚き、怖れおののいた一方で、あまり良い印象ではなかったですね。土木建築の基礎工事となにが変わるのか、と思ったほどです。それに対して平城宮兵部省は閑静としていた。行政発掘と学術調査のちがいを知りました。


図02長屋王邸の復元模型_02 図1


 その後、1989年に総担当者として平城宮西池宮を掘ります。指導係の担当室長は毛利光さんでした。今の佐紀池が奈良時代の「西池」の名残なんですが、その南側に、朝堂のように長大な桁行21間の建物跡をみつけました。視察に来られた工藤圭章さん(故人)から「一度目にあたったヤツはずっとあたる」と言われて、嬉しいような悲しいような気分になった記憶があります。さらに1993年に2度目の総担当として平城宮造酒司を掘ります。こちらの指導は再び巽さんでした。石敷の大きな井戸と地下に埋もれた造酒甕が建物の内部に規則正しく配列されていて、とても思い出深い現場です。
 平城宮跡発掘調査部に14年間いて総担当はこの2回でした。それ以外は、平城京の現状変更が多かったですね。みなさん、あまりご存知ないでしょうが、わたしは国指定名勝「大乗院庭園」の発掘を何回か連続してやっていたんですよ。
 真鍋  そう、そうでしたね。
 浅川  大乗院庭園が懐かしくて、記憶によく残っています。奈良ホテル南側の現場まで一人で通い、外部の作業員を使って掘っていたのですが、洲浜のいちばん底から真っ黒な瓦器の破片を1点探しだし、石敷きの護岸整備が鎌倉時代までは遡りうることを確認したのです。今日ご出席いただいている松尾さんから出雲大社境内遺跡に呼ばれたのは、奈文研最後の発掘の最中でした。
 松尾  2000年の秋でしたね。
 浅川  平城宮第一次大極殿基壇縁石の再発掘を、やはり一人でやっていました。第一次大極殿の寸法計画を精査するために、据付痕跡しか確認できてなかった基壇縁石の溝状遺構から抜き取り痕跡を識別しようとしていたのです。とても見えにくい遺構だったのですが、わたしはある日の夕暮れ、西陽の光のなかで、据付溝の内側に溝状の抜取り遺構がみえたと思いました。それをまず井上さんが確認に来て鼻で嗤う。全然みえない、というわけです。その後、岩永さんもみに来た。岩永さんはうぅ~んと唸っている。みえるような、みえないような・・・それから二日後、断ち割りで断面観察していると、推定「抜取り」の中から凝灰岩の破片がでてきた。基壇地覆石の残骸です。さっそく撮影し、ラベルを書いて、ビニール袋に遺物を納めました。凝灰岩は湿気のためまもなく粒化しましたが、抜き取り遺構の決め手になり、基壇規模が確定したのです。これが私の平城宮最後の発掘調査になりました。
 眞田  発掘は楽しかったですか?
 浅川  いや、いや(笑)・・・こうして14年間、平城宮・平城京の発掘調査に携わったのですが、発掘調査は好きではありませんでしたよ。好きでないから技術も向上しない。座談会「民族建築その後」の冒頭で述べたように、建築も中国もミスマッチであったわけですが、発掘もまたミスマッチでした。できればやりたくないが、飯を食っていくためにはやらざるをえない。もちろん発掘を経験したことでずいぶん恩恵がありましたが、自分の居場所ではないことは承知していたので、故郷の大学に転出するとき嬉しくてしかたなかった・・・ほんと、すいません。


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男はつらいよ-ブータン山寺放浪記(3)

0326愛媛01法蓮寺0本堂外観01web 上林の棚田


酔って候

 3月26日(日)、曇。明らかな二日酔い。最終日はJRで伊予大洲を訪ねる予定にしていた。シリーズ第19作『寅次郎と殿様』(1977)の舞台となった城下町である。前日の講演で「寅次郎と殿様、ご覧になりましたよね?」と客席に問いかけると、ほぼ全員が首を縦に振った。トリスバーのマスターから「嵐寛寿郎最後の映画」だと教わっていたので、そのまま科白を拝借。講演で知ったかぶりした。また、「大洲までJRで行くなら鈍行に限る、風景がいいから」というアドバイスもいただいた。講演後には、会場に残った男性が「大洲に行くなら菜の花の綺麗な道がある」ことも呟いておられたが、「JRで行きます」と告げると、「それじゃ無理だ・・・」と残念そうに口を濁された。


0326浄瑠璃寺01本堂01 浄瑠璃寺(46)


 二日酔いで朝から苦しい。嘔吐感もある。どうしたもんか、と思案にくれているところにMさんからの電話が鳴る。

  「おぉい、パソコン、忘れとるで・・・」

 充電器(ACアダプター)についてはしっかり確認したのだが、まさかパソコン本体を忘れてしまうとは・・・、とほほ。Mさんは昼まで法要があるから、そのあと空港までパソコンをもっていってあげようと提案された。もちろん、そんな恥ずかしいことはできない。伊予大洲行きは諦めるしかない。レンタカーを借りよう。法蓮寺までパソコンを取りに行って、そのあと札所をまわればいい。
 そう決めても、まだ体は鈍かった。なんとかシャワーを浴び、トヨタ・レンタリースへ。いつも運転している軽自動車ではなく、ハイブリッドの普通車をあてがわれた。カーナビに法蓮寺の電話番号を入力して出発。途中、手打ち饂飩の店に立ち寄り暖簾をくぐるも「準備中」。開店時間(十時半)まであと数分だった。朝からなにも食べていない。すでに嘔吐感は消えていた。今日もまたコンビニで朝飯だ。


0326浄瑠璃寺01本堂02 0326浄瑠璃寺01本堂03sam
↑ 四国八十八霊場第46番札所「浄瑠璃寺」 本堂  ↓同左「仏の足跡」
0326浄瑠璃寺02仏の足跡01 0326浄瑠璃寺02仏の足跡02sam


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男はつらいよ-ブータン山寺放浪記(2)

0325さくらの銅像01web 0325さくらの銅像02


さくらの銅像

 3月25日(土)、雨。軽い二日酔い。ホテル対面のセブン・イレブンで朝食を仕入れる。目の前にみえる松山城跡を散策しようと思っていたが、雨で気が進まない。講演準備に専心し、一息ついてテレビを点けると、我らが智弁学園(奈良)が9回攻撃中。0-5から一点返して1-5としたが、そのままゲームは終了し、連覇の夢が絶たれた。昨年は床屋で優勝の喜びを分かち合ったが、二匹目の泥鰌はなかなかいない。そのままニュースに切り替わり、葛飾柴又駅前の広場に「さくらの銅像」が竣工し、山田監督と賠償千恵子さんがお祝いの言葉を述べているシーンが映された。講演の日にあわせた縁起のよい報せであり、急ぎデジカメを取り出してTV画面を撮影した(↑)。講演パワポにさっそく挿入。
 午後3時半ころ、Mさんがお迎えに到着。そのまま東温市の法蓮寺をめざす。


0325愛媛02法蓮寺02チラシ02web 0325愛媛02法蓮寺01


第18回法蓮寺文化講座 

 到着後、ただちに境内門前で記念撮影を(↑)。なにぶん滞在証明がうるさい今日このごろ、陽の高いうちに「文字」を写し込んでおく必要があった。門からみおろせば、中山間地域の風情を堪能できる。佐治の津野あたりに似ているが、暖かい分だけこちらのほうが長閑な印象をうける。
 門の内側正面に会場となる客殿が閑静なたたずまいをみせる。茅葺き鉄板被覆の明治建築なのだが、まもなく建て替えになると聞いて少々さみしい気持ちになった。奥の庫裡に上がり、奥様の手料理をご馳走になった。奥様はフィンランドの方である。北京留学中にMさんと知り合い、そのまま日本に嫁いでこられた。フィンランド料理を期待しているところもあったのだが、純然たる日本料理に驚き、舌鼓を打つ。
 午後7時講演開始。これまで何度も講演・講義してきた「ブータンの崖寺と瞑想洞穴」に寅さんフレイバーを散りばめたものである。構成は以下のとおり。

    男はつらいよ-ブータン山寺放浪記

   0.寅さんの風景
   1.雷龍の彼岸 -不丹的淺村先生(2012)
   2.ドラフ巡礼 -西ブータンの洞穴僧院を往く(2013)
   3.中央ブータンの瞑想洞穴と鳥葬場
   4.遊牧民と仏教の無常観(2014-15)
   5.男はつらいよ-ハ地区の進撃(2016)


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↑法蓮寺客殿(明治中期)


 

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男はつらいよ-ブータン山寺放浪記(1)

0325愛媛01アパホテル松山城西02web 0325愛媛01アパホテル松山城西02


トリスバー 露口

 昨年10月15日の予定でありながら延期した法蓮寺文化講座のため、3月24日(金)松山入りした。午後3時にはホテルにチェックインし(↑)、まもなく眠りに落ちる。夕方に目ざめるも先輩のMさんは、この夜、送別会があるため、ホテルに来られるのは8時半を過ぎるとのこと。
 当日午前、鳥取城跡第40次発掘調査でみつかった「車井戸矢板」の放射性炭素年代測定結果がメールで送られてきた。掘形の出土遺物から幕末期の年代が予想されていたが、19世紀に下る場合、科学的年代測定では複数の年代候補が出る。結果はまさにその典型であった。2δ暦年代の信頼限界が約60%を示す以下の年代の可能性が高いと思われる。

   天保6年(1835)~明治26-27年(1893-1894)

 文政5年(1822)に井戸大修理の記録があるというが、上の年代に含まれていないので、わたしはむしろ明治前半における陸軍の井戸改修を候補として残しておくほうが無難ではないか、という返信をした。いずれにしても、今回出土した矢板は19世紀のものなので、考古学的にみれば、 享保5年(1720)当初の掘形と19世紀の掘形が重複して検出されるはずであり、今後の課題となるであろう・・・なんていうメールを書いていると、Mさんがあらわれた。


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 それから二番町へ。3軒まわった。「最近わたしはもっぱらハイボールで始めます」と1軒めでお知らせしたところ、「ハイボールのおいしい店があるんや」ということで、2軒めに案内されたのが「トリスバー 露口」である。開業58周年。鴛鴦夫婦で経営されているカウンターバーで、もちろんハイボールをいただいた。あらっ、味が全然ちがう。角の13%?だと聞いた。 このお店、ハイボール発祥のバーである。四国の文化人がたむろし、福山雅治や佐治社長がお忍びでやってくるらしい。
 ジム・ホールが流れていた。ポール・デズモンドのバックを務める全盛期のジム・ホール。ジム・ホールの話でずいぶん時間を費やした。もう出ようとしているところに、これだけ聴いて帰ってと言われ、席を動けなくなった。
 アランフェス協奏曲-8分待った。【続】


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↑↓おつまみはポップコーンだけ
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東照宮紀行(三) 紀州篇

20170309 ② 20170309 ① 図1・2


鳥取東照宮の面影

 最終日となる9日(木)、紀州東照宮を訪れた。その面影が鳥取東照宮と重なってみえた瞬間を今でも覚えている。日光・久能山と比べて、控えめな荘厳ではあるけれどもっj、随所に葵御紋を飾り、風景に溶け込むのように佇む姿は、鳥取東照宮と通じるところがある。拝殿への立ち入りは禁止され、境内に深く踏み入ることはできなかったものの、どこか懐かしさを覚える素朴な東照宮であった。


20170309 ③ 図3 楼門


楼門の邪鬼

 急な階段を登ると、日光・久能山と同じく見事な楼門が参拝者を迎える。一つだけ異なる点を挙げるとすれば、狛犬・獅子を伴っていなかったことである。その痕跡はないものだろうかと楼門の細部や周辺をつぶさに観察する。
 門を入ったり出たりを繰り返してるうちに、楼門屋根の隅木の下に力士のような小人像を発見した。ひょっとすると、これが狛犬の代替品かもしれないなと現地では思ったのだが、帰宅して調べてみたところ、「邪鬼」であることを知った。
 邪鬼とは、文字通り、人に災いをもたらす悪童鬼だが、仏教寺院においてしばしば四天王像に頭を踏まれて懲らしめられ、苦悶の表情をみせる。四天王像の代わりに隅木で邪鬼の頭を押さえつけているのは、隅木が最も屋根の重みを受ける材であるからだろう。狛犬・獅子が境内を守護する正義の霊獣であるとすれば、邪鬼は仏法を犯して境内を攪乱するヒール霊の象徴だと言える。ちなみに邪鬼の代表格は、世界最古の木造建築「法隆寺金堂・五重塔」だという。


20170309 ⑤
↑↓図4・5・6・7 楼門の邪鬼  
20170309 ④  20170309 ⑥  20170309 ⑤ 


最高の四日間

 3月初旬の4日間、三つの東照宮を弾丸ツアーした。巡礼した一つひとつの東照宮の思い出は、私の中で強烈なものとなった。恥ずかしながら告白すると、わたしは自分の卒論を好んでいる。愛着がある。今回の紀行で、東照宮に絡んだ卒論に取り組めたことを一層誇りに思えるようになった。 【完/武田】


*図1 東照宮拝殿  図2 石鳥居   図3~7 (本文参照)

東照宮紀行(二) 久能山篇

20170308 ① 20170308 ② 図1・2


久能山東照宮-神仏分離

 三日目となる3月8日(水)、静岡市の久能山東照宮を訪ねた。静岡駅からバスで日本平へ、日本平からはロープウェイに乗って久能山をめざす。空は快晴、道中から富士山がよくみえた(↑左)。
 久能山に着いて、さっそく東照宮境内へ。最初に目に入ったのが五重塔跡地である(↑右)。徳川家光の建立にかかる五重塔は高さ30メートルに達したが、維新後の神仏分離政策によって明治6年に取り壊されてしまう。鳥取市立川の大雲院が樗谿の因幡東照宮境内地から立ち退きを命じられたように、久能山でも神仏習合の空間構成は神道に純化?されていったのである。当時の「神仏分離/廃仏毀釈」運動が如何に強烈なものであったかを窺える。


20170308 ④ 図3


日光と久能山

 日光と同じく、豪華絢爛な荘厳が境内を飾る久能山東照宮だが、とりわけ目を引かれたのは極彩色の拝殿である。日光東照宮は、陽明門や唐門等に代表されるように、胡粉の白を基調にしていたが、久能山は黒漆を基調にしつつ落ち着いた淡い青・緑・紅が印象的であった。


20170308 ⑤ 図4


 こうした色彩を比較しても、日光と久能山は対照的な霊廟だと感じた。塗装彩色にとどまらず、境内の雰囲気がとても対照的に思えた。煌びやかなで賑やかな荘厳の日光東照宮は、神格化した東照大権現を祀る政事(まつりごと)の舞台としてふさわしい。一方、木漏れ陽が「奥社」を照らし、雄大な駿河湾を望む久能山(図6)には、自然の中でゆったりと時が流れる家康の「眠り」の場である。これほど素敵な安息の地もないであろう。天下をとってほどなく駿府に隠居し、そこで生涯を終えた家康の地元愛を理解できたような気がした。


20170308 ⑥ 図5


*図1 日本平から富士山を望む  図2 五重塔跡地    図3・4 久能山東照宮拝殿 
 図5 久能山東照宮「奥社」  


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東照宮紀行(一) 日光篇

20170306 ③ 20170306 ④ 図1・2 


石鳥居と階段の遠近法

 先生たちが東欧を旅しているころ、わたしは3月6~9日の4日間、日光・久能山・紀州三ヶ所の東照宮を巡礼してきました。初日は日光東照宮を目指して、新幹線等を乗り換え、栃木県の日光駅に到着したのは午後3時です。
 日光駅から大谷川に沿って歩くこと半時間、東照宮境内の参道に到着。参道手前の石鳥居の圧倒的な大きさを前にして、思わず感嘆の息が漏れる。江戸時代に作られた鳥居の中では最大級で、九州の大名・黒田長政が寄進したものという。伝承では、九州からわざわざ日光まで運ばれたものであり、巨大な石塊が運ばれる様に人びとは大層驚いたそうな。
 鳥居に続く石段も見どころの一つである。石段はあわせて10段あるが、最初の段から最後の段にかけて、階段幅が徐々に狭まっている。最上段に構える石鳥居を大きく見せるための遠近法が意図的に施されているのだ。何気なく敷かれている階段にも、職人たちの徹底した技術と知恵が垣間見える。参拝時間の関係上、この日は石鳥居周辺までにとどまったが、翌日への期待が膨らんだ。


20170306 ⑤
↑図3 日光東照宮仁王門の狛犬と獅子  ↓図4 (左)狛犬 (右)獅子
20170307 ⑥ 20170307 ⑦ 


仁王門の狛犬と獅子

 翌朝8時に宿舎を出て、再び日光東照宮の境内へ。いちばん外側の仁王門をくぐると、私の卒論に深く関与した狛犬・獅子が門脇に安置されていた。何回も画像を見てきたが、いざ実物を目にすると、感無量だ。しみじみと魅入るばかり。狛犬・獅子は思いのほか大きく、群青・緑青が鮮やかに鬣を彩る。表情は柔らかで、愛くるしさすら感じさせる。三間一戸脇室正面側は阿吽の仁王像が険しい表情で参拝者を迎える。一方、後室の狛犬・獅子は、参拝から帰る人達を優しく見送っているように思えた。仁王門だけでなく、その先の境内の荘厳も立派なものであったので、特に印象的なものを以下に紹介する・


20170307 ⑧ 図5 


南蛮鉄灯籠

 境内にある灯籠の全ては、全国の諸大名が奉納したという由緒がある。石造の灯籠が並ぶなか一際目につくのが、陽明門石段の下に並ぶ南蛮鉄灯籠である。伊達正宗が寄進したものである。当時としては珍しく鉄で造られた燈籠で、わざわざポルトガルから鉄を取り寄せて作らせたものである。一説によると、正宗が西洋列強との繋がりを誇示することを目的としたものではないかと言われている。奉納後わずか数年で錆びてしまったらしいが、正宗由来と相まって、大きくそびえる異質な鉄灯籠の存在感は強烈である。
 陽明門は日光東照宮の代名詞とも言うべき豪華絢爛な門である。白(胡粉)を基調に金箔や黒漆で彩り、唐獅子・龍馬・麒麟などの多くの神獣を飾る。残念ながら、この日はまだ門は修復中であり(現在は修復済み)、全貌を写真に収めることはできなかったが、まばゆいばかりの内部の装飾もまた、十分に一見の価値がある。


20170307 ⑨
↑図6 修復中の陽明門  ↓図7 陽明門の組物(左)と龍の天井(右)
20170307 ⑩ 20170307 ⑪

*図1 石鳥居と石段   図2 石鳥居の銘文 図3・4・5(本文参照)
 図5 伊達正宗寄進の南蛮鉄灯籠  図6・7(本文参照)



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仏陀-水とペチカとパリンカと(2)

0304バンスカ01 図9


 ここで吉田健人君のことを少々述べさせていただこう。吉田君は私学時代の建築・環境デザイン学科最後の入学生の一人であり、2年前に大学院修士課程に進学して同科最後の在校生となった。わたしが本気で建築を教えた最後の学生でもある。学部2年後期(2012)からゼミに在籍し、手始めに摩尼山のルートマップを作成した(今も門前茶屋で配布されている)。3年からはブータン調査に参加し、卒論は「フィールドワークに基づくブータン洞穴僧院の基礎的考察」に取り組んだ。当人は倉吉の長谷寺などで調査を積み重ねていたので、日本の社寺建築で論文を書くことを望んだが、その場合、2年先輩にあたる中島俊博君の修士論文との重複が大きくなる。結構な時間を割いて、ブータンの論文に切り替えるよう説得した。幸か不幸か、吉田君の卒論は建築・環境デザイン学科最終年度(2014)の学科賞金賞を受賞し、以来、ブータン調査に不可欠の存在に成長していく。結果として、かれは第2次(2012)から第4次(2016)に至る4度のブータン調査すべてに係わった。


0306ホーロッケー村(民家レストラン)02web 図10


 ブータン以外でも、2015年9月には中国青海省(アムド)のチベット仏教寺院と遊牧民の予備調査に同行した。わたしと二人の修行の旅であった。昼のフィールドワークに加え、毎夜、かれの卒論の大改訂に取り組み、大学の紀要に投稿しようとしていたのである。吉田君は実測作図能力に優れ、仕事のスピードも速く、総合的にみれば能力の高い学生なのだが、唯一の弱点は文章表現力であった。卒論文章の校正はとても骨の折れる仕事であり、わたしも大変だが、指導を受ける側がきついのは言うまでもない。

 そして、このたび4年半におよぶ研究室活動への貢献に感謝し慰労するために、スロバキア・ハンガリーの町並みと木造建築(大半は世界遺産)をめぐるツアーを企画し、同行してもらった。


0306ホーロッケー村の町並み(世界遺産)web 0306ホーロッケー104web 図11-12


 ブラチスラバの中世都市と城郭、フロンセクの純木造教会(17世紀)、バンスカ・ビストリッツアァとバンスカ・シュテアヴニツァの鉱山都市の町並み、ホーロッケーの農村、ブダペストの町並みなど、どれもこれもが刺激的な歴史遺産である。その前提として風土がなにげに山陰地方と似ている。雪深い丘陵地域であり、小麦など穀物栽培に向いているとはいえないので、洋梨・林檎・プルーン・アプリコットなどの果実栽培、豚・牛・羊などの飼育が盛んである。これらの果実を活かして、土地の人びとは果実酒をつくる。ワインのような醸造酒ではなく、グラッパのような蒸留酒である。芋や麦を材料とするのではなく、果実そのものを蒸留してスピリッツ(焼酎)を生産するのだ。日本の場合、果実酒は、果実と氷砂糖を焼酎につけ込んだ甘い酒だが、果実そのものを蒸留する東欧の果実酒は甘みがほんのりと芳ばしく残る程度で、甘すぎることは決してない。普通のウォッカよりも優雅な香りと味がする。ハンガリーではこういう果実焼酎をパリンカといい、おしゃれな瓶にいれて結構な値段で売っている。


0304蒸留蔵02カストロ 0304(パリンカを注ぐ)セベチェレビィ村01 図13-14


 定年退職した男性は別荘兼用の蒸留蔵を構え、そこでの酒造りを晩年の生き甲斐とする。酒造りにはみな一家言をもっている。玄人はだしの蘊蓄である。バンスカ・ビストリッツアァに近いセベチェレビィ村の酒蔵を訪れ、客間で試飲させていただいた。試飲はたちまち宴会に格上げされる。わたしたちのホストはカストロ元首相によく似ていた。饒舌なカストロさんは銀色の顎髭をなでながら、アルコール度数52度の洋梨パリンカを次々飲み干し、わたしたちのグラスにも注いでくる。酒のアテは皿盛りのチーズとハム。もちろんお手製である。こいつぁとても敵わないと即断したわたしは、吉田君に日本代表の座を委ねることにした。かれは酒が強いので、顔色が変わらない。洋梨パリンカを5杯以上飲んだだろう。その後は半ば意識を失い、車中で風景を楽しむこともなく、ひたすら酔眠を貪った。


0304蒸留蔵02web 図15


*図9 世界文化遺産「バンスカ・シュテアヴニツァ」(1993登録)。
    スロバキア最古の鉱山都市(銀山)
 図10 世界文化遺産「ホーロッケー」(前出、ハンガリー)の民家レストランにて
 図11・12 世界文化遺産「ホーロッケー」のパローツ様式民家
 図13・14 セベチェレビィ村(スロバキア)の別荘兼酒蔵でのもてなし
 図15 蒸留機?



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仏陀-水とペチカとパリンカと(1)

0302ブラチスラバ03 図1


 2016年。元旦から364日後の大晦日を意識していた。還暦がめでたいものかどうか、よく知らない。しかし、前年(2015)秋から時空がねじまがり始め、年が明けて2月21日に迎えた第1回仏ほっとけ会(ほとけほっとけぇ)のころから目眩を覚えるほどになっていた。親族にその状況を吐露すると、厄年だからではないかという。そのとき還暦とは厄年であり、59が前厄、60で本厄、61にしてなお後厄というトリプルパンチのど真ん中にいることを知った。新しい年度を控え、夫婦ともども神社で厄払いをしてもらったおかげがあったのか、2015年からの継続にあたる学内特別研究費助成「大雲院の建造物と仏教美術に関する予備的研究(2)」が採択された。この報告書は助成研究成果の一部をなすものである。
 6月に朗報がもたらされた。1月に申請していた「摩尼山」の登録記念物(名勝地関係)の申請に対して文科大臣への答申が決まったのである。史跡指定された大山寺と登録記念物になった摩尼山について県内では大々的に報道がなされ、わたし自身ひさしぶりにNHKのニュースでコメントをさせていただいた。その後、10月には官報告示があり、名勝地「摩尼山」は正式に日本最大の登録記念物(面積約37万㎡)となったのである。


0302ブラチスラバ04城01 0302ブラチスラバ04城02ドナウ川 図2・3


 かくして摩尼山・摩尼寺の活動は一段落を迎えつつあったのだが、大雲院の調査研究はなお試行錯誤の繰り返しであった。研究費でフォトスキャンというソフトを購入し、美術品等の多重撮影をおこない3次元モデルを作成しようとしたのだが、できあがったCGは写真より精度の劣ることを知り、またドローンを購入して上空から建造物や遺跡の撮影をするのだが、境内などを例外として許可がおりにくいことも知った。ドローンに至っては、ブータンまで持ち込んで崖寺の上空撮影を試みようとしたのだが、出国前に確認しておいたにも拘わらず、現地入りしてみると、航空管制局から撮影不可のお達しを頂戴した。春に中国人が王宮や議事堂などを上空から撮影しまくったことで政府が激怒し、以後ドローン撮影はいっさいの許されなくなったのである。

 秋には大きなイベントを控えていた。11月3日(文化の日)、中国観音霊場開創35周年記念合同大法要が摩尼寺で営まれることになり、その記念事業として、善光寺如来堂の阿弥陀如来像がじつに八十数年ぶりにご開帳することが決まった。公開は法要の前後2週間におよび、閉帳前日の11月12日にはフリーアナウンサーの吉川美代子さんを招いて「摩尼山」登録記念物決定記念イベントを如来堂で開催した。後期に入って順調にイベントの準備を進めていたのだが、ご存じのとおり、10月21日に鳥取県中部地震が発生し、県民は動揺した。摩尼山や大学を含む県東部の被害は少なかったものの、中部の被害は大きく、倉吉や湯梨浜などをメイン・フィールドにしてきた研究室にも衝撃が走った。さらに個人的な話題で恐縮ながら、わたしは地震に先立つ10月12日に母を亡くしており、精神的な痛手が治まらないまま11月のイベントを迎えることになった。めでたいはずの還暦が一瞬にして服喪の立場となり、本厄の一年であることを思い知らされたのである。しかしイベント自体は、4回生の武田大二郎君と石田香澄さんが大勢の聴衆の前で見事な民話の朗読を聴かせてくれた。堂々とした朗読であり、二人に救われた気がした。


0302ブラチスラバ02ワイン店01 図4

 *図1 スロバキアの首都ブラチスラバの旧市街地(3月2日)  図2 ブラチスラバ城(3月3日)
  図3 ブラチスラバ城から望む旧市街地とドナウ川  
  図4 旧市街地の洞窟風レストラン(ワインを試飲)


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WBCタラレバ準決勝

 8回表、4連続三振を奪っていた千賀が連打され、1死2・3塁のピンチを招いた。「敬遠」の二文字が頭をよぎる。前日(21日)の蘭黎戦11回タイブレイクを思い起こしたのだ。両チームともバントで1アウト2・3塁の得点機をつくり、守備側は敬遠して1死満塁とした。結果、先攻のオランダは二ゴロ併殺で無得点、後攻のプエルトリコは中犠飛から3塁走者が生還し死闘を制した。
 日米決戦において8回の攻防はタイブレイクに等しい。9回には最上級のクローザーが出てくるわけだから。

 日本は1アウト2・3塁から、A・ジョーンズを敬遠して1死満塁とすレバ、次打者3番イエリッチとの勝負になる。4回に菊池のエラーを誘う強打を放った左打者だが、内野ゴロを打たせることができタラ併殺チェンジ、もしくは本塁封殺(タッチ不要)により失点を防ぐことができた。この可能性に賭けるべきだったのではないだろうか?

 日本ラウンドで不安を露呈した侍投手陣は、日米決戦に限っては素晴らしかった。ダルもマー君も必要ない。むしろ攻撃陣がメジャーの投手陣に幻惑され、手も足もでなかった。イチローが欲しい。イチローがいタラと何度も思った。ベース近辺で激しく動くメジャーの変化球にイチローほど慣れている選手はいないだろう。否、イチローレベルのバットコントロールがなけレバ、あんな癖球は打てない。40歳を過ぎたといっても、大活躍中のベルトラン(黎DH)と年齢差はわずかであり、コンディションでは大差ない。1番ライトで先発させ、疲労が目立つようならDH、代打、代走、代守なんでもできる。マーリンズのような使い方をすレバ良かったのだ。
 9回にイチローが代打で出ていタラ、あんなにスライダーを振ったでしょうか?

嬉し恥ずかし懐かしトカイ

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 東欧ツアーの最後、ブダペストに2泊した。トカイ・ワインをなんとしても買いたかった。30歳で就職を決めたとき、ある大家からお祝いにいただいたのがトカイ・ワインだった。現地語のスペルは TOKAJI なので、当時はトカジと発音されていた。よく知られているように、十勝ワインはトカジワインをもじったブランド名である。そうしたこともあって、どうしてもトカイ・ワインを買って帰りたかった。
 土産物店で酒類はすこぶる高く、酒の専門店を探した。繁華街の小路でみつけた店でトカイ・ワインとパリンカ(果物焼酎)を買い込んだ。なかなかいい値がする。
 トカイ・ワインにはスィートとドライの両種があり、もちろん私は後者を欲した。店主が最初紹介したのは14,000フリント(6,500円)の最高級ドライだった。パリンカ2本とあわせると、手持ちのフリントがたりなくなった。結果、半額のトカイ(2000年)に差し替えるしかなかった。普段3,000円以上するワインなど飲むことがないので、大事にあつかった。衣服とビニール袋とタオルでぐるぐる巻きしてスーツケースに納め、カタール航空のチェックインではフラジャイル(割れ物注意)の赤札をつけてもらった。
 おかげで無事日本にもって帰ってきたのだが、帰宅後、ケントのトカイと私のトカイが入れ替わっていることに気づく。わたしのは2000年、ケントのは2003年で私の半額であった。大学で交換した。


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 3連休の中日、東京&大阪タラレバ娘を引き連れ、グランマルシェへ。山羊チーズ、サラミ、パンを買い込んだ。すべてはトカイ・ワインとの相性を考えてのことである。夕食のはじめに自ら栓を抜く。乾杯後、口に含み、唖然とした。甘い。上品な甘さでタラレバたちは美味しいと誉めてくれたが、わたしと息子は困惑した。息子は「食前酒としてはいいよ」とフォローしてくれたが、わたしは納得できなかった。あの懐かしい味が微塵も感じられない。
 一杯だけ飲んだ後、男たちはスロバキアのボロヴィッカ(Borovicka)に切り替えた。ジュニパーベリーを数粒放り込んだウォッカで、むしろジンに似た味と匂いがする。息子はこのスピリッツを気に入っている。必ずソーダ割りにする。老夫婦は、東欧の慣習にしたがい、グラスお猪口(ショット・グラス)にストレートを注ぎ、チェイサーに炭酸水をつける。
 最後は、いつものブラックニッカ・・・ではなく、ブラックニッカのリッチブレンドでハイボールにした。たまたまグランマルシェでみつけた「ブラックニッカ誕生60周年」記念ボトルである。値段は角瓶より少しだけ高い。飲んだ感想はというと、なぜか普通のブラックニッカに哀愁をおぼえてしまう。B級の味はせつない。


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↑右はホーロッケー村(ハンガリーの世界遺産)で仕入れた酒瓶

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↑半年遅れで赤くなった珈琲豆

【速報】卒業式

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大学院総代

 3月18日(土)、卒業式がとりおこなわれました。
 結構いろんなことがあったな。まずケントが大学院環境・情報学研究科修士課程最後の卒業生の総代として壇上に上がりました。修了生はわずか3名ですが、堂々と胸を張って生きていってほしい。この2年間、ほんとによく頑張ってくれました。そこいらの大学院生に比べて、はるかに質が高く濃い学業を持続させ、突出した成果を残してくれた。
 「こんな大学の大学院に行くなんて意味がない・・・」という評価をする教員(とくに幹部系)や学生が結構いるけれども、決してそんなことはない。偏差値が高ければ高いほど大学院に向いているという考えは間違いです。地方の公立大学は、地方自治体に人材を送り込むことが重要なミッションであるけれども、学部卒ではなかなか実現に至らない。学部・修士をあわせた6年教育によって専門性を高め、ようやく、その目標を成し遂げうる。そう考えて大学院生の指導をしてきた。研究者になるための大学院ではなく、地方自治体の公務員をめざす大学院教育があっていいはずです。この意義に気づいていない大学関係者がかなりいる。ケントは故郷に近いI市の建築専門職員になります。研究室の伝統をみごと引き継いでくれたことに、改めて感謝!


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正男悠々

 学部に分かれた学位授与式では、どうしたことか、正男くんの姿がみえない。まさかマレーシアに行ったなんてことはないだろう、とラインで確認をとったところ、「思いっきり爆睡してしまった」との返信あり。最後の最後に黒い皮ジャンを来てあらわれ、北朝継承者としての面目躍如でした。しかしヤツはラッキーだった。どうしようもなくだらだらして長いだけの祝辞を聞かされなくて済んだんだから。「地球は病んでいる」んだそうです。高校生環境論文コンテストレベルの話を、よくもまぁ卒業生や父兄の前でするもんだ・・・結構毛だらけ猫灰だらけ、鞆の口から嘘だらけ、ときたもんだ(寅)。


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 地元の3年女子2名がガーベラ・ブーケとお祝いの品をもってきてくれたので、ホワイエで贈答式をやりました。みんな幸せそうだった。そのあと全員で記念撮影をして、祝辞など述べることもせず、「これにて解散。〆切を過ぎた書類作成があるので謝恩会には行きません」と告げ、階段を下りたところで、エアポート夫妻を発見。奥さんのお腹が大きくなっている。
 エアポート夫妻も大学院修士課程まで進み、いまT市の公務員だからね。さっそく後輩たちを呼び寄せ、再び記念撮影した。、


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おきざりにした旅鞄

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 3月17日(木)、大快晴。報告書の修正済み全データを再送信し、学内〆切を過ぎた某申請を急がねばならなかったが、卒業式前日とあらば先んじておこなうべきことがある。午後から因久山へ。前日、正男と選んだ焼物を受け取り、反転して大学へ。
 1階のホワイエに入ると、数名の見知らぬ学生たちがニヤニヤこちらをみて話しかけてきた。

   「あの・・・A SA KA WA センセでは?」
   「はい、そうですけど、なにか?」
   「駐車場にスーツケースがおいてありましたけど・・・」
   「えっ、どんな色? グレーっぽい青??」
   「あっ・・・そんな感じでした。」
   「それ、院生のだ。おれのは赤で、いま奈良にあるの(笑)」


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 男女2名に連れられ、停車したばかりの駐車場に戻って、青灰色のスーツケースをうけとった。結構重い。

   「これ、ほんと、おれのじゃないんだけど、どうして名前が分かったの?」

と問えば、スーツケースに絡まったラゲッジ・シールをみせられた。たしかに ASAKAWA の名を確認できる。そうか、ブダペストで荷物を預ける際、二人分の鞄が私の名義になっていたんだ。


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*このサイトの写真はすべてブダペスト東駅(バロス)です。3月5日撮影。冷戦時、東西ドイツの親戚・知人はこの駅で面会することができた。そんな哀愁が建築に染み込んでいる。



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『公立鳥取環境大学紀要』第15号 刊行!

ライカ・ローリング・ストーン

 学報の次は紀要です。艱難辛苦の途を乗り越え、論文2本書き上げました。思い出すだけで身震いがする障害が多々ありましたが、こうして日の目をみたのだから、まずは良しとせねばね。耐えることで勝ち取った成果でした(どんな気がする?)。学生に感謝するしかありません。その紀要論文(↓)ですが、2本とも研究室のメンバー4名の連名としました。最大の功労者はケント、次に内蔵助です。この二人も、まもなく卒業だ。お疲れ様でした。

  吉田健人・高後敬太・木村鴻汰・浅川滋男(2017)
    「旧大雲院本坊指図の考証と復元」『公立鳥取環境大学紀要』第15号:pp.47-62
  浅川滋男・大石忠正・武田大二郎・吉田健人(2017)
    「ブータンの崖寺と瞑想洞穴(2) -第4次調査の報告-」第15号:pp.63-81

 【図書情報】 公立鳥取環境大学紀要 第15号
   発行者:  公立鳥取環境大学情報メディアセンター運営委員会
   発行所:  公立鳥取環境大学
   印刷所:  勝美印刷株式会社
   発行日:  2017年3月31日  

   
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↑ハンガリーのノーグラード県の世界文化遺産「ホッローケー」(1987登録)の民家レストランにて。入母屋造平屋建白壁の農家建築や上の民族衣装は「パローツ様式」と呼ばれる。

被災した未指定・未登録文化財に支援を!

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『環境大レポート』第28号から

 ひさしぶりに大学の広報誌、公立鳥取環境大学学報『環境大レポート』に記事を書きました。たしか私学開学の年に「茶室とバラック」なる随想を寄せた記憶があります。だから十数年ぶりのことか。8ページに鳥取県中部大地震の特集が組まれており、旧建築系のメンバー2名とともに短文を寄稿しました。
 以下は校正前の原稿です。
 
 浅川「被災した未指定・未登録文化財に支援を!」『環境大レポート』第28号:p.8、2017年3月7日
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 県中部は文化遺産の宝庫であり、本学開学以前から歴史的建造物の調査に携わってきた。湯梨浜町の「橋津の藩倉」「尾崎家住宅」、倉吉の伝統的建造物群(町並み)などがその代表であり、調査後、多くは国や自治体の指定・登録を受けている。今年度は国登録文化財申請をめざして倉吉市河原町・鍛冶町にたつ2軒の町家に焦点を絞り、研究室をあげて調査研究に取り組んでいる。その矢先に中部地震が発生し、町家の土蔵(空家)で白壁が崩落し、瓦屋根がずり落ちてしまい、今はビニールシートに覆われている。こうした調査の中途段階で被災すると、国や自治体の救済措置の対象とならない。そこで、私たちは講演会等を利用して被災建造物に係わる報告書を販売し、売上金を対象家屋の所有者に直接寄付する活動を始めた。ところが、被災の影響で所有者は動揺しており、寄付を受け取られはしたが、いったん逡巡されたのである。破損は大規模ではないが、修理代は安価なわけではない。修理すべきか撤去すべきか、悩ましいと思われている。私たちは今後も支援活動を持続し、修復保全の道筋をつけたいと願っているが、なにより行政は、保全が担保された文化財建造物だけでなく、未指定・未登録の価値ある遺産にも目を配り、歴史都市「倉吉」の未来を再構想すべき好機と考えるべきであろう。


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↑クリックすると拡大します

後記-グルリンポチェがやってくる

 年末に還暦を迎えた2016年もまたブータンを堪能した。夏休みに5回目の調査をしたから、というわけではない。出国から帰国まで9日間の短い調査である。2名の学生を同行したフィールド演習の延長だと言われても仕方ない。それでも、ブータンを満喫した感覚に充たされるのは、1・2年生の演習(プロジェクト研究1~4)で前後期ともブータン民話(絵本)の翻訳に取り組んだからだ。以下の民話絵本を翻訳した。

  【前期】
   ペマ・ギャルツェン『天の鳥』
    (Pema Gyaltshen, The Heavenly Birds, 2014)
   クンサン・チョデン『ツェゴ-命の着物』
    (Kunzang Choden, Tshego -The Garment of Life-, 2013)
  【後期】
    リンジン・リンジン『ヤクと野牛の物語』 
    (Rinzin Rinzin, The Story of the Yak and the Buffalo, 2014)
   クンサン・チョデン『グルリンポチェがやってくる』 
    (Kunzang Choden, Guru Rinpoche is Coming, 2015)

 例年、半期2作を1冊の和訳本(内部資料)として印刷・製本してきたが、2016年度は研究費が少なく、前期2作分の原稿・データ一式を印刷会社に送付した後、考えを改め、いったん印刷を保留した。そして後期の2作を翻訳後、懐具合をみなおした結果、年度予算では2作の印刷が限界であることが明らかになり、迷わずクンサン・チョデンの作品2本を選択した。いずれも2年生の担当作になってしまったが、クンサン・チョデンの作品はそれだけ他を圧している。


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↑学内WEB表紙-「天の鳥」と「命の着物」色糸の複合イメージ(中前作画)


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君の名は。

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 伊丹から羽田、ドーハと乗り継いでウィーンに辿り着き、クリムトと再会しました(↑)。カタール航空28時間の空の旅です。カタール航空に乗ったなら、もう映画をみるしかない。4本みましたよ。最初が『君の名は。』。畏れ入りました。じつによく出来ている。興業成績は歴代日本2位を記録したそうですが、私個人の感想を述べるならば、1位の「千と千尋・・・」よりも面白かったな。男女の入れ替わりがなくなる中盤以降、画面に釘付けになるので、伏線がいっぱい潜んでいる前半をみなおすため、ただちに2回めを視聴したくなる。リピーターが多いわけだ。
 宗教民俗と宇宙科学の裏返しの複合性については、しばしば指摘されるところで、これからもこういう主題の芸術表現が増えていくでしょう。とくに巨巌の岩陰に御神体を祀るところなど、ASALABとして放置するわけにはいかない。阿蘇がそうであるように、火山の火口そのものが御神体とみなされますしね。
 もうひとつの主題は「夢」です。ほんと夢とは不思議な世界だ。なぜあのようにリアルな世界が毎夜毎夜繰り返されるのか。人間の深層心理を反映するなどというちょろい説明では納得できない。わたしたちは夢のなかでしばしば4次元的世界に迷い込んでいるのではないか、といつも思うのですが、その夢から醒めれば夢の記憶は途端になくなってしまう。
 そして「純愛」。空港や飛行機内にタラレバ世代やタラレバ予備軍がうようよいて、その騒ぎっぷりにげんなりしていたところに、あの純愛ストーリーだからね。ころりとまいります。「君の名は。」の次にみた土屋太凰の「青空エール」、ケントが隣でみていた広瀬すずの「四月は君の嘘」も青春純愛モノだ。生殖的映像はネットでみあきてしまったのか、それともタラレバに辟易した結果なのか?

 というわけで、なんとかウィーンまでやってきて、さきほどから空港のカフェにしけ込んで、ウィンナ珈琲を啜っています。ケントはウィーンの街に出たいみたいだけど、今回の目的地は東欧なので、これから空港リムジンバスに乗り、スロバキアの首都ブラチスラバをめざします。一時間で着くらしい。
 ただいま現地時間で、3月2日12時39分です。日本との時差-8時間。


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↑我在维也纳的珈琲店
プロフィール

魯班13世

Author:魯班13世
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魯班(ルパン)は大工の神様や棟梁を表す中国語。魯搬とも書く。古代の日本は百済から「露盤博士」を迎えて本格的な寺院の造営に着手した。魯班=露盤です。研究室は保存修復スタジオと自称してますが、OBを含む別働隊「魯班営造学社(アトリエ・ド・ルパン)」を緩やかに組織しています。13は謎の数字、、、ぐふふ。

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