ズージャ 山下清展を見終え、こんどは市内安部にあるジャズ喫茶「ズージャ」で一休み。ネット上で隠れ家的な場所にあるという情報を得ており、方向音痴のわたしは不安にかられた。果たして道に迷ったので電話をかけたところ、髭の生えた主人が玄関先まで出迎えてくれた。カメラをもった一見さんの訪問に訝しく思われている節もあり、「メディアでもなんでもありません。ただ、ジャズ喫茶が好きなだけなので写真を撮らせてください」とお願いした。すぐに流れている音楽についても質問したが、「これです」と言ってパソコンの画面をぶっきらぼうに指示された。近寄ってみたが、目がわるくなっていて小さな字が読めない。現代的なモードの演奏だったように記憶するが、ジャズ喫茶でパソコンには驚いたね。やっぱりLPをかけてほしい。アナログの世界でライブ感を再現してほしいものだと勝手に思う。
カウンターに腰掛ける。ここもジャズ喫茶らしく、メニューは究極的にシンプルである。珈琲、チャイ、ジンジャーエールの3種だけ(すべて400円)。熱い1日だったので、冷たいジンジャーエールにしようとも思ったのだが、糖質制限している身としては、さきほどのシフォンケーキがすでにして規則違反であり、これ以上甘いものはとれない。チャイを注文した。
日本ぶらりぶらり チャイを待つあいだ、ミュージアムショップで購入した山下清の『日本ぶらりぶらり』(1958)を読み始め、まもなくわたしは山下の文体の虜になった。なんだろう、この文学・・・言語学的にみれば、文法のおかしなところが結構あり、「・・・ので、・・・ので」の反復も、村上春樹流にいうならば「文章のスタイリストではない」ことになるが、スタイリストであろうとなかろうと、文意は通じやすく、独特のリズム感に惹きつけられる。校正マシーンを自称して、学生の卒論等をケチョンケチョンに書き直す我が身の指導のあり方を再考させられた。
本文はもちろんたいした言語芸術だが、その解説がまたおもしろい。初版本に「あとがき」を書いた式場隆三郎(精神病理学)は冒頭で「旅行記は、清のかいたものに私が手を入れたり、清の口述を私が筆録したものである」と公表している。本書は好評を博し受賞までしているが、一部には「添削や筆録がうますぎて、清らしくない」という批評もあったようだ。これに対して式場は、ゴッホの作品が弟テオとの合作であったように、清の文章・陶芸・素描などは山下と式場の合作であることを認めてほしい、と反論している。自分の推敲があったからこその受賞だという自負が式場にはあったのだろう。
ところが、あとがきに続く解説「山下清の文章とその魅力」を著した寿岳章子(国語学)の見方は全然ちがった。山下清の自筆日記3冊を研究室をあげて手仕事で模写・分析し、一冊のガリ版の報告書をつくりあげ、その結果からこう述べている。
世に「山下清の文章」としていろいろ出ている本は、率直に言って私たち
には少々不満である。やっぱり生の彼の文章はべらぼうに面白い。
マリアージュのチャイ 『日本ぶらりぶらり』に唸っていると、チャイがテーブルに運ばれてきた。甘いチャイだった。甘いチャイを飲んだ経験がないわけではない。スリランカの茶畑労働者が飲むチャイは甘い。かなり甘い。一般家庭で振る舞われたチャイも甘かった。熱帯で働く労働者のエネルギー補給のため、つまり血糖値上昇のため甘いチャイが必需品なのである。一方、ムンバイ周辺のホテル等で飲んだチャイはミルクティに多めのガラムマサラを振りかけたものであり、シュガーは原則まぜない.。いや、店の人はシュガーが要るか否かを問うてきたかもしれない。結果として、入れるわけはない。わたしは息子との二人旅で、このチャイが大好物になり、大量のガラムマサラを仕入れて帰ってきてすでに数年経つがまだ、そのときのガラムマサラが若干残っている。茶葉にはアッサムCTCを使う。鍋底に少々水を浸してアッサムCTCを多めに入れ、牛乳を大量に注いでゆっくり沸かしていく。この段階で生姜を混ぜてもいい。沸騰したらガラムマサラをふりかける。これでインド風のほぼ完璧なチャイができあがる。
ズージャのチャイは男性化粧品のような芳香がした。おそらく
マリアージュのマルコポーロ系の茶葉を使ってミルクティを煮出し、砂糖をいれたのでしょう。糖質制限中だから言うわけではないけれど、これは邪道です。インドの本物のチャイではないし、そもそも芳香剤つきの紅茶はインド人もスリランカ人も飲みません。新鮮な茶葉のないフランスで発展した偽の紅茶文化だとわたしは思ってます。少なくとも、チャイに関しては、我が家のほうが美味い。間違いありません。 【続】