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ここまでわかった!「日本人の起源」講演のお知らせ(1)

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FCセクストン東西対抗 オフサイド講座

 突然ですが、FCセクストンの盟友、篠田謙一さん(国立科学博物館研究ディレクター)が来鳥することになり、「大学をみせて欲しい」という依頼があったものだから、いつもの通り調子に乗って、とんとんとんと講演していただくことと相成りました。篠田さんといえば、DNA分析による日本人起源論の第一人者ですが、じつは先月21日(土)同窓会の東西対抗血戦で靱帯を断裂され、いまも松葉杖生活を送っておられます。ところが、青谷で出土した人骨研究のため再来鳥されることになり、急遽講演会を催す運びとなりました(そのころには快癒の見通しです)。日時等おお急ぎで決めました。取り急ぎ第一報をお知らせします。

 1.イベント名称
  FCセクストン東西対抗 オフサイド講座
  篠田謙一氏講演会「ここまでわかった! 日本人の起源」

 2.日時
  2017年12月8日(金)10:40~12:10

 3.会場  
  公立鳥取環境大学 第14講義室 【定員80名】*聴講希望者が多い場合、100講義室に変更します。
   〒689-111 鳥取市若葉台北1-1-1
 
 4.スケジュール 
  ①FCセクストンとは何か 10:40~10:50 
  ②前座(WEST) 浅川 滋男 10:50~11:10    
    古墳時代前期の大型倉庫群
     -松原田中遺跡の布掘掘形と地中梁から                 
  ③真打(EAST)  篠田 健一 11:10~12:10 
    ここまでわかった! 日本人の起源

【主催・事務局・問い合わせ】 公立環境大学保存修復スタジオ  
      ℡&FAX 0857-38-6775   E—mail: hozonshufuk@kankyo-u.ac.jp  
      *参加希望者はメールかFAXでご連絡ください。 

【出演者略歴】
 篠田 謙一 (しのだけんいち)  1955年、静岡県生まれ。1974年、京都大学理学部入学後、FCセクストンCB、佐賀大学を経て、現在は国立科学博物館研究ディレクター。分子人類学専攻。DNAからみた日本人起源論の第一人者。インカ帝国の調査も進める。主な著書は、『日本人になった祖先たち』(NHKブックス・2007)、『化石とゲノムで探る 人類の起源と拡散』(別冊日経サイエンス・2013)、『DNAで語る 日本人起源論』(岩波現代全書・2015)など。
 浅川 滋男 (あさかわしげお) 1956年、鳥取県生まれ。1974年、京都大学工学部入学後、 FCセクストンRB、奈文研平城サイトスを経て、現在は公立鳥取環境大学教授。歴史遺産保全論/建築考古学専攻。ブータン・チベット地域の仏教遺産について調査中。おもな著書は『住まいの民族建築学-江南漢族と華南少数民族の住居論-』(1994)、『出雲大社の建築考古学』(2010)、『建築考古学の実証と復元研究』(2013)など。


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↑篠田氏@カンプノウ

男はつらいよ-倉吉長屋物語(2)

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五軒長屋の3Dモデルにむけて

 11月22日(水)、今年度初めて倉吉を訪れました。山陰道(高速)工事のため鳥取からずっと地道をとおり、交通渋滞まであって、河原町に到着したときはすでに午後4時半を過ぎていました。河原町のMAD AMANOさんとは第2回仏ほっとけ会以来の再会です。種苗店の奥にある食堂で珈琲をごちそうになりました。ありがとうございます。
 今回の訪問は、卒論の進捗にあわせて、「寅さんの風景」の倉吉版再現撮影とフォトスキャン用の多重撮影を目的としていましたが、午後から雲行きが怪しくなり、一部のメンバーを研究室に残して町並み選抜組での予備調査的なものになりました。


171122 長屋群


 雨の中まず八橋往来を歩きました。町並みは「河原(かーばら)宿」並みに劣化しつつあるように感じました。河原町(かわらまち)のかーばら化が進んでいる。そんななかで、小川酒造本宅とその対面の五軒長屋はあきらかに八橋往来の町並みの核であると再認識されました。長屋の取り壊しは相変わらず実行待機状態のようであり、最悪の事態を想定し記録保存としてフォトスキャンによる3Dモデルを作成しようと現場に乗り込んだのですが、あいにくの雨で多重撮影できませんでした。しかし、撮影の範囲を決めることはできました。五軒長屋だけでなく、その周辺2軒程度までは撮影し、再現可能にしておこうと決めました。そもそもこういう仕事は、取り壊しを構想している市教委文化財課がおこなうべきですが・・・なんの動きもありません。私たちが作業を急ぐ以外にありません。


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小倉家土蔵の現状

 一方、この地区のもうひとつの景観の核である五叉路と鉢屋川流域については、やはり被災した旧小倉家の土蔵が目につきました。屋根にはブルーシートを被せ、白い壁の一部は崩落したままです。この場所の問題を簡単に振り返っておきましょう。五叉路の辻に建つ東地蔵はコミュニティ祭礼の中心としていまも活き活きと機能しています。その背面にあたる小倉家土蔵を駐車場にする構想が一年半前に浮上しました。その際、「河原町の文化を守る会」と所有者の間で協議がなされ、登録文化財申請に向けて主に今の4年生が3年時に調査を開始しました。しかし、昨年10月21日の県中部地震のため活動が頓挫していました。ASALABは、毎回講演会等で募金活動を続けています。登録文化財申請の活動は地震以来中断していましたが、今年の夏休みころから再開しており、先生は会長さんに申請を急ぐよう繰り返しお願いされていました。現在、「河原町の文化を守る会」が構想中の磯野長蔵記念館を実現するためにも、登録文化財申請を急がなければなりません。会長さん、よろしくお願いします。
 小倉家・大鳥屋を中核とする町並みも、もちろん重要なフォトスキャンの対象地であり、大鳥屋からさらに鍛冶町の茅葺民家群までを範囲として想定しました。


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↑見学 ↓寅次郎の告白(00:46:32)
44寅00:46:32(地蔵通り)sample


鳥の杜

 旧小倉家に隣接する大鳥屋さん(IJU大学)はご不在でした。最近、白壁土蔵群に支店?を出されたと聞いて、あとで確かめたところ、それは魚町の「旧山市洋服店」でした。旧山市洋服店は研究室の先輩たちが2010年に調査され、昭和レトロカフェへの転用案を示されました。その実測図と基本構想に基づいて、所有者が一級建築設計事務所に実施設計を委託され、2012年に「あかり舎 cafe」として開店したのですが、紅茶通にとって鳥取の紅茶が美味しいわけはなく、先行き苦しいだろうと予感していたところ、果たしてまもなく閉店。その後、みやげ物店に転じていましたが、そこもまた閉店となって、いまは大鳥屋=IJU大学の管理運営する「鳥の杜」となったのです。重伝建というブランドもってしても飲食店の経営は難しいと思い知らされる事例であり、ジャズ喫茶を構想中の先生も慎重に構えざるをえないと思われたようです。


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↑(左)鳥の杜  (右)環境大OBが経営する陶芸品店



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民家のみかた調べかた(2)

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 11月21日(火) 4~5限。4班に分かれた2回めの人間環境実習・演習Aです。『民家のみかた調べかた』班は、郡家(こうげ)の古民家カフェ黒田で、テキスト第1章~第2章(途中まで)を音読で輪読しました。以下、わたしなりの内容理解です(野口)。

どういう民家が古いのか

 第1章では、どのような民家が古いのか?を主題に、多方面から民家の歴史について考察している。
 庄屋や名主から自作、小作農家及び借家人まで幅広い階層があり、家主によって民家の様式や規模は大きく異なるため、同じ時代でも異なる建築方法で建てられた住居が存在している。このため、単純に建築方法から年代を推測することは非常に難しい。そこで当時使われた道具や道具が普及した地域、そこでの文化、家主の階級などの点から民家をとらえることで、より細かく年代を推測することができる。 以下、民家の古さを見るポイントについてまとめる。

  A 手斧(ちょうな)仕上げとかんな仕上げの違いから民家の年代を推測。人目に付くところが手斧仕上げになっている民家ほど古く、細部までかんな仕上げをしている民家ほど新しい。また手斧に関しては、蛤刃を使用した材と平刃を使用した剤の二つがあり、蛤刃の方が古く、平刃で大まかに削られている材ほど新しい。
  B 草葺き、板葺き、本瓦葺きなど、屋根材料の違いから民家の年代を推測。しかし、今は瓦葺きを使用しているが昔は草葺きだったものや、庇のみ瓦葺きに変えた場合もある。また、瓦も本瓦と桟瓦、ろうそく桟瓦などの違いがある。近畿などでは瓦屋根の普及が早かった。「大和棟」の落棟は全国的にみても例外的な本瓦葺きになっている。
  C 軒の高さによって年代を推測。軒が低い場合は古い民家であることと推測できる。軒が低く壁が大壁だと竪穴住居にイメージが近い。中世住居はこのタイプが多い。時代が進むとともに民家内の採光をはかり、軒が高くなる。また、元は軒が低い民家であったが、勾配の緩い瓦葺きの庇を付けて、屋根が複数の素材で構成されている民家もある。
  D 独立柱と差鴨居の関係、大黒柱があることで開放的な空間を作ることができることを学んだ。古くは1間(6尺)ごとに柱を立てたが、土間境などでは、一部の柱を省略するため、大黒柱を太くして対応した。また、土間の中に独立柱があると古い民家と考えられる。


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懐かしい、青谷の豆腐

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川六を訪ねて(1)

 「寅さんの風景」講演会で、わたしは軽はずみにも稲常や河原樋口神社の石灯籠を川六かもしれないという可能性を示唆した。ところが、講演においでになった財団の氷下魚さんは、わざわざ先々回の校正(松原田中)の際、あおや郷土館の図録『没後150年記念 川六-因州が誇る幕末の名石工-』(2016)をお持ちになり、河原や稲常の石灯籠に署名がないことから、川六とはちがう別の石工の作ではないか、と仰るのであった。
 図録をざっとみせていただいて、たしかに川六の作風は異才の趣きがあり、樋口神社などとはちがうのかもしれないと思い始めた。ただ、多様な石造物のなかで石灯籠だけは、自然石を多用する河原、稲常、紙子谷のそれに似ていないことはなく、いかんせん署名の刻印がないところに憾みがある。それにしても、なぜ氷下魚さんはこれほど石造物に詳しいのか、その理由はきっちりお聞かせいただいたが、ここでは書かないことにする。


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 週末、わたしは青谷まで車を走らせ、郷土館で図録を入手した。さっそく付近の川六作品をみてまわろうと思ったのだが、霰の飛び散る厳冬のような日で、潮津神社の狛犬と専念寺の地蔵尊だけみて早くもリタイアし、ようこそ館にしけ込んで珈琲を啜りつつ校正を終えた。そして、青谷の豆腐を2丁買った。こんにゃくや味噌も買った。そしてそして、夕食は湯豆腐になった。こんにゃくはその日で3日めの煮物にぶっこんだ。少し痩せたような気がする。


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 懐かしいよね・・・「青谷の豆腐」、そして「続・青谷の豆腐」。倉庫番をしていたキャッツアイの森三中は、いまや岐阜在住で、様式的には復元的傾向が認められるという微かな情報もえているが、その実態は詳らかでない。


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1119潮津神社05 潮津神社

ブッダが説いたこと(五)

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今枝先生来鳥講演速報!

 11月18日(土)、第3回仏ほっとけ会(ほとけほっとけえ)として今枝由郎先生(京都大学こころの未来研究センター特任教授)の講演会「ブッダが説いたこと」が県民ふれあい会館講義室で開催され、約80名の聴衆が来場ました。地元鳥取だけでなく、島根、広島、岡山、兵庫など県外からの参加者がかなり含まれています。
 今枝先生は、まず池上彰の著書『仏教って何ですか』(飛鳥新社・2014)を取り上げられ、池上氏が日本の仏教を非常にネガティブで暗い宗教であるという先入観をもっていることを前提として述べられました。池上氏だけでなく、一般的な日本人も同様のイメージを抱いていると思われます。ところが、西欧の知識分子たちはむしろ仏教を非常にポジティブな知的財産としてとらえています。以下の3名を例にあげられました。

  フリードリッヒ・ニーチェ (1844-1959)
    仏教は歴史が我々に提示してくれる、唯一の真に実証科学的宗教である。
  アルベール・アインシュタイン(1870-1955)
    仏教は、近代科学と両立可能な唯一の宗教である。
  アンドレ・ミゴ(1892-1967)
    ブッダは、信仰を知性に、教義を真理に、神の啓示を人間の理性に置き換えた
    最初のインド人である。


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 こうした日本(および中国?)と西欧の認識の異なりは、どこから来るのでしょうか。それは「お経」にあるのではないか、と先生は考えられたようです。若いころから、いろいろなお寺を訪ねて住職に訊ねる。「このお経の文章はどういう意味なのでしょうか」と。それに答えられる僧侶は一人としていない。それが日本(や中国)の実態なのです。ブッダが逝去してから今に至るまで長いながい時間が流れ、伝承としてのブッダの言葉は成文化し、注釈され、考察され、漢訳されて難解な経典に変わりました。難解になりすぎて遂には意味のとおらないものにまでなったしまったのです。だから、どんな高僧も、お経になにが書いてあるのか、分からない。


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 これに疑問を覚えた先生は、サンスクリット語やパーリア語で書かれた古代インドの仏典を自ら読みこみ、その意味を理解しようと考えられ、最古の仏典とされる『スッタニパータ』『ダンマパダ』を日常の用語だけ使って(仏教用語は排除して)自ら翻訳されています。そこに書いてあることは決して難しくない。たとえば、このたび購入させていただいた『スッタニバータ』の「犀の角の経」には、以下の一節があります。

   じつに朋友を得るのはよいことである。
   自分よりすぐれ、あるいは自分と同等な朋友に親しむべきである。
   こうした朋友が得られなければ、罪や過ちのない生活を楽しみとし
   犀の角のようにただ独り歩め。(今枝訳 2014:p.30)




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アポカリプス

哀悼 真鍋建男さん

 スウェーデンに敗れて六十年ぶりにワールドカップ出場を逃したイタリア国民がアポカリプス(世界の破滅)だと悲嘆にくれているという。ドイツの組織、ブラジルの芸術、オランダの自由な攻撃以上に、わたしはイタリアの守備を愛してきた。だから悲しい。だけど、ワールドカップ出場に値する選手の数が足りなかったのだろう。そしてまた、タレントの不足を補える、コンテのような監督ではなかったのだろう。ジパングと似ていますよね。いまの日本代表であるならば、敢えて、、、まぁそんなことはどうでもいい。些末なことです。わたしの場合、アポカリプスは影から突然現れた。11月10日(金)、卒業後まともに連絡などくれたことなどないヒノッキーからのメールを受信した。

  ご無沙汰しております。
  代表取締役 真鍋建男が病気療養中でございましたが
  11月10日午前5時59分、67歳をもって永眠いたしました
  ここに生前のご厚誼に感謝し謹んでご通知申し上げます
  
 その後、研究所のH君、文化庁のH君からも立て続けに報せがあった。そういえば、ヒノッキーのイニシャルもHだな・・・3H・・・2日後の夕刻、京都市北区の公益社でしめやかに通夜が執り行われた。ヒノッキーは受付でずっと泣いていた。すぐに研究所のメンバーなどから声をかけられた。多くの弔問客が焼香を待って隊列を組んでいる。
 ひょっとすると、江口一久さんのときのように、棺の蓋を開けて拝顔できるかもしれないと期待したのだが、叶わなかった。人が多すぎる。香炉の前で笑顔の真鍋さんの写真を遥拝し、ただ手をあわせた。
 本当にお世話になりました。人生の大恩人のひとりです。大学の先輩なのに、生意気ばかりで、ずいぶんご迷惑をおかけしました。何十年も空間文化開発機構をひっぱってこられたこと、ただ偉大というしかありません。ヒノッキーの涙がとまらない理由は身にしみて分かります。心よりご冥福をお祈り申し上げます。
 
 江口さんと田中淡さんが66歳、真鍋さんが67歳で旅立たれた。他人事ではない自分がいる。仕事はいい加減控えようと思う。真剣にそう思っている。

民家のみかた 調べかた(1)

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古民家カフェで古典を輪読

 2年次の「居住環境実習・演習(1)」を衣替えした「人間環境実習・演習A」も後半に入りました。稲常の連続立面図はみごとなものになりましたが、版が大きくなりすぎて、ここに掲載できるような画像データをまだ作成していません。ひとつの障害となっているのは2年のスケッチに3年のスケッチを絡ませる点でして、若干の時間を要します。
 後半は教員ごとの課題に対応させるやり方にしましたが、これは方法として間違いであったと今は反省しています。まず第一にプロジェクト研究1~4との差別化が難しい。第2に、3年次からのゼミ選択期と重なってしまったからです。わたし個人は、実習・演習はスキルを学ぶ場だと思っています。複数の教員からそれぞれのスキルを少しずつ吸収する。そういう場に変えていきたいと思っています。


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 さんざん悩んだんですが、後半の担当で、民家調査法を概説する古典的名著『民家のみかた 調べかた』(第一法規・1966)をテキストとして輪読しつつ、民家平面図の実測に取り組もうと決めました。『民家のみかた 調べかた』は古本でも入手が難しく、1冊1万円を超えている時期もありました。それが、最近ダンピングされてきて、わたしは1,500円台の古本を2冊購入できた・・・と書いてアマゾンを検索したところ、あなおそろしや、古本は\25,000と\15,000の2冊だけになっています。ひょっとして、わたしが学内で宣伝しすぎて、みんな安い古本を買いあさったのではないか?

 民家の調査法を教えたいと思ったのは、3年次から卒業論文にむけて民家・町家・空家などを調査研究する学生が増えていくのですが、発表を聞くかぎり、なかなか低調なレベルでして、いつも冷ややかなコメントをしてきたわけです。しかし、その背景を考えてみると、本学の学生は民家の調査方法について、基礎を学ぶ機会がまったくない。そういう講義も演習も存在しなかった。一回基礎を教えてみようと思うに至ったゆえんです。


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写真はすべて福田家住宅


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サテンドール(ⅩⅩⅥ)

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十月桜の記憶-農村カフェ

五時を過ぎると日の暮れも早く、上方往来(因幡街道)に沿ってたつ長屋門の入口に設えられた灯籠のあかりがまぶしくきらめいているのが見えた。あかりを注視すると、

   因幡街道 平福宿
     
     農村カフェ 記憶
        播州平福本陣
            神吉氏別庭跡庭園
             (旧田住邸)


と書いてある。「農村カフェ」とはまた有触れたようで、少し間をおくと、新鮮な呼び方に思えてきた。「記憶」という店名も、気持ちはよく分かる。髭のマスターに誘われるまま、そそくさと中に入った。どうやら、宮本武蔵が幼少期に母と暮らしたところであるらしい。農村カフェという言葉どおり、民家の内部は大きく模様替えなどしていない。庭を隔てて長屋門の対面にある奥座敷が喫茶室になっている。経営者のご夫妻はIターン者で、7年前からここに住みついてカフェを始めた。ご主人は、地域振興文化研究所の代表でもあり、限界集落遊休資産再生、国際交流事業計画、CATV企画・制作なども手がけられている。
 予約すれば割烹料理を食べさせてただけるが、普段のメニューは自家製羊羹と柿を添えたコーヒーセットのみ(500円↓右)。


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 座敷から庭を覗きみると、梅のような花が満開になっている。奥様が「十月・・・」と答え、矢継ぎ早にわたしが「・・・桜」と続けた。平福で「十月桜」の仇を取った。十月桜の咲き乱れる用瀬総合グラウンドでFCセクストンの東西対抗血戦はおこなわれるはずだった。それが台風で消滅した。こういう桜があの土手に咲いていたんだな。


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 ご主人はわたしより何歳か上の方で、東京住まいが長かったと聞く。いまは姫路にも家があるようで、平福のこの家は別荘兼カフェのようなものかもしれない。いつもの御託で、土蔵を転用したジャズ喫茶をやりたい、と告白した。オーディオ機器とインテリアで一千万円ぐらいかかるかな、と思っていたのだが、その半分以下でいけるというアドバイスを頂戴した。そして、土蔵もいいが、長屋門は如何かということで、去り際に長屋門の内部をみせていただいた。たしかに、15席ぐらいのこじんまりとした店に衣替えできそうだね(↓)。
 黄昏流星群風にいうとですね、儲からなくてもいい。自分を取り戻したいだけなんだ・・・


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上方往来-峠をこえて(2)

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川面に映る平福の町屋群-兵庫県景観形成重要建物

 午後4時頃に大原宿を出発し平福へ。道の駅で先生、かっきーさん、のんちゃん(別名きびたろう)と合流しました。平福まで大原から車で10分ほどの距離ですが、今でこそ高速が整備され近く感じるだけで、少し前までは山の裾野をぐるぐる巡る道のりだったと聞いています。平福は戦国時代の山城、利神城(りかんじょう・国史跡)の外濠にあたる佐用川の外側に形成された宿場町です。


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 上方往来に沿う町並み(町家群)だけでなく、佐用川に沿う土蔵群の川並みが見事です。河原宿や用瀬宿の背戸川に沿う土蔵群とはまた全然異なる風情を楽しめるのです。川に流れを堰とめる岩などのがないため、波の立たない穏やかな水面をしています。それはまるで大きな鏡のようでした。土蔵のファサードが対称に映し出されるのです。天神橋のたもとに「川面に映る平福の町屋群-兵庫県景観形成重要建物」の案内板がありました。3棟の土蔵を含む町屋が景観形成に貢献する県指定の文化財建造物になっているのです。夕暮れの川面に映る土蔵は幻想的なほど綺麗でした。土蔵下側の歩道と石垣がコンクリートになっていたのは残念ですが、景観全体をコントロールしようという努力は感じられました。


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↑↓兵庫県景観形成重要建物の景観
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佐用町街並み保存地区

 大原が岡山県の「町並み保存地区」であるのに対して、平福は佐用町の「街並み保存地区」(1982)になっています。川面に映る土蔵の景観だけでなく、上方往来に沿う町並みの整備も進んでいます。平福に本陣そのものは残っていませんが、本陣跡があります。車で前を通るだけになってしまいましたが、その内側は神社の御旅所になっていると聞きました。町並みは歴史的建造物の修理・修景だけでなく、交番などの新しい施設も伝統的な外観でデザインされていました。一般的な新しい住宅でも町家風にデザインされており、格子窓が付いていたり、表側だけ町家風で奥の方が普通の現代建築であったりしていました。国道53号線の向こうの高台にたつ介護施設まで伝統的なデザインになっています。佐用川の対岸から土蔵群など裏の町並みをみる際、巨大な介護施設は借景になるので、効果はとても大きなものだと感じました。そういえば、最初に訪れたJR平福駅も町家風のデザインにしていました。町からJR駅を望むとその背景に利神城の遺跡がみえます。伝統的なデザインにしたのは大正解だと思いました。利神城と平福の町並みの報告書が修復スタジオにあるらしいので、探すついでに大掃除をしようと思います。


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↑上方往来  ↓記念撮影
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上方往来-峠をこえて(1)

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智頭宿-石谷家と上町の町並み

 11月10日(木)。上方往来を南行し、智頭・大原・平福を訪れてまいりました。上方往来の中でも町並みの保全に力を入れている県内外3つの宿場の見学です。この街道は、鳥取から姫路に上る場合は「上方往来」、逆に姫路から鳥取に下る場合は「因幡街道」と呼ばれています。大原(岡山)と平福(兵庫)は県外ではありますが、鳥取自動車道の無料区間内に位置しているので、平福まででも鳥取から車で40分ほどあれば着きます。
 気温が市内で13度ほどになるらしいので、山間の集落となればもっと寒くなるだろうと予測し、結構着込んでいったのですが、予想以上に冷えました。


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 午後一でぱでぃさんと2人、智頭宿に向かいました。智頭宿は池田侯が参勤交代で鳥取を出発し一番初めに泊をとる宿場町です。鳥取から智頭に至るまでに河原宿や用瀬宿もありますが、いずれも宿場というよりは御茶屋=休憩所でした。智頭宿は2年前に居住環境実習・演習(Ⅰ)でいちど訪れており、本陣の石谷家住宅(重文)と上町の町並みを見学しています。石谷家住宅はいつみても圧倒的な存在感を放っています。今回、智頭宿では石谷家住宅周辺の町並みのフォトスキャンを作成するための多重撮影をしました。石谷家の向かいには重厚な趣の米原邸があり、その奥には一度焼失し明治期に建てられた塩屋出店がありました。塩屋出店の庭とその一角に建つ西村克己映画記念館は見学無料だったので、少しだけ中に入りました。庭園と和風の建造物、その中にたたずむ洋風建築は和洋折衷の不思議な空間です。11月になり道端にも紅葉が見られ、秋を感じます。


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ブッダが説いたこと(四)

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 11月11日は市さんの命日です。どういうわけか、この日の11時から大谷翔平選手のMLB移籍記者会見がおこなわれました。それはそれとして、11月11日(土)、ようやく今枝先生の講演「ブッダが説いたこと」が新聞報道されました。やはりメディアの威力は大きく、すぐに何件かの申し込みがありました。記事の執筆は我らが会長によるものです。以下にテキスト原文を転載します。

秋の仏ほっとけ会(ほとけほっとけ

 「幸せの国」ブータン。豊かな自然に抱かた敬けんな仏教徒の国です。ブータン寺院の調査研究に公立鳥取環境大学浅川研究室が取り組んでいます。三徳山の投入堂や摩尼寺など、山陰地方の山岳信仰と文化的景観の研究を端緒に始まった活動で6年になります。調査の成果は、仏ほっとけ会(ほとけほっとけえ)と題する研究会で発表されています。
 今年はチベット・ブータン仏教の専門家、今枝由郎教授(京都大学特任)をお迎えします。今枝教授は、チベット語やサンスクリット語など多くの言語を習得され、仏教を多言語的に比較できる世界有数の研究者です。フランス国立科学研究所で長く研究され、フランス国籍を取得されましたが、昨年から京都大学こころの未来研究センターで古典チベット語を教えられています。
 講演は、自ら翻訳された『ブッタが説いたこと』(岩波文庫)に基づいて、ブッダ本来の教えをやさしく解説していただきます。後世の注釈や漢訳などに惑わされず、古代インドの文献のみによってブッダの思想にアプローチしようという刺激的な講演にご期待ください。

  日時: 2017年11月18日(土)午後1時30分~(開場午後1時)
  場所: 県民ふれあい会館講義室
  問合せ先: 公立鳥取環境大学保存修復スタジオ
         鳥取市若葉台北1-1-1 
         hozonshufuk@kankyo-u.ac.jp または hozonshufuk@yahoo.co.jp
         ℡&Fax 0857-38-6775  (電話は繋がりにくいので、できるだけ
         メールかファックスで申し込みください)

今枝(表)2017mani圧縮 今枝(表)2017mani_7_4_01 チラシ表

今枝(裏)2017mani圧縮 今枝(裏)2017mani_7_4_02 チラシ裏 
*裏面の予約申込書に記入の上、送信いただくと助かります。
 

登録記念物-摩尼山の歴史性と景観の回復(5)

1108摩尼山asa001 1108摩尼山asa003sam


賽の河原のファルスの意味

 「奥の院」遺跡からさらに200mばかり山道を歩き続け、鷲ヶ峰の立岩に再会しました。このあたりの平場一帯を「賽の河原」とも呼びます。今回の調査内容は以下のとおりです。

  ①インパルス(測距・測角儀)で測り残した部分の補足測量
  ②立岩の全景、とくに背面側のドローン撮影
  ③賽の河原のレベル測量
  ④鐘楼跡の実測


171108 摩尼山 調査風景① 171108 摩尼山 レベル②


 3年生は今回初めての測量実習でした。まずは先生の指導の下に、③賽の河原のレベル測量をおこないました。ちなみに「賽の河原」とは、幼くして死んでしまった子どもたちが父母の供養のため石を積んで塔をつくる三途の河原です。鬼がそれを壊しにやってくるのですが、地蔵菩薩に救われて子どもはまた石を積む。賽の河原に沿って地蔵堂を配するゆえんですね。参考までに述べておくと、英語で賽の河原を Children's Limbo というそうです。子どもをはっきり示しているところが興味深い。Limboの意味は「辺土」。だから、 Children's Limbo とは「子どもの辺土」。天国にも地獄にも行けない子どもたちがいる排除された境界の場所です。一方、日本語の「賽」は、賽の神から来ている。賽の神もまた境界の神ですが、いわゆる道祖神ですから、ファルスと結びつく。ながく摩尼山につきあってきて、あの屹立した巨大木彫ファルスの意味がようやくわかりました。
 それはそれとして、レベル測量のデータは等高線の作成のために使います。


1108摩尼山asa004 1108摩尼山asa005


 3年生がレベルに苦闘している間、4年生は①インパルスの補足測量を進めており、レベル終了後に3年生もインパルスの測量に合流しました。午後4時を過ぎたあたりから雲行きが怪しくなってきましたが、風はさほど強くなく、だっしょ君は②ドローンの飛行に着手。きびたろうは④鐘楼跡の実測に作業を切り替えました。


171108 魔尼山山頂 補足データ① 171108 魔尼山山頂 補足データ②
↑インパルス補足データ  ↓ドローンで撮影した立岩
171108 ドローン撮影① 1108摩尼山asa007sam



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登録記念物-摩尼山の歴史性と景観の回復(5)

171108 巨巌 1108摩尼山4


わたしのシーギリヤ・ロック                            

 11月8日(水)。鷲ヶ峰の立岩(たていわ)・賽河原(さいのかわら)の補足測量をするため、3年2名・4年3名と先生で摩尼山に登りました。行きの天気は晴れていて、気温も暖か く、まさに登山日和といった感じでした。(帰りにあんなことになるとは…) 測量機材をみんなで分担して持ちながらの登山でかなり疲れましたが、運動不足の私(あやかめ)に は久々の良い運動になった気がします。この日は門前から「奥の院」を経由して立岩に向かいました。最初は順調に歩いていましたが、「奥の院」の手前あたりから険しい道になっていきました。「奥の院」経由の道はみな初めて登る道だったのですが、こんなに険しいとは思って いませんでした。
  門前から歩き始めて10分ほどすると、「慈覚大師の開山」伝承を記す案内板を発見。鳥取東照宮からの自然歩道とつながる三叉路の辻です。慈覚大師(円仁)の開山は伝承にすぎず、史実ではないと先生に教えられました。その後まもなく、路面に平たい形状をした石が数多く集中する場所を確認できました。これらの平石は礎石であった可能性が高く、因幡民談記(1688)に描かれた「山門」の可能性があるそうです。
 途中、十ヶ所以上で写真のような手書きのサインボードを見つけました。国交省や県が制作した正式な道標に書かれている距 離データが実際と異なりすぎる、ということで、卒業された先輩たちが巻尺を使って正確に測った距離が示してあります。とてもきれいな字で書いてあって、わかりやすい看板でした。


171108 摩尼山登山
↑慈覚大師の案内板  ↓(左)山門跡? (右)研究室制作の道標
171108 摩尼山 道中 礎石 1108摩尼山3


 急峻で曲がりくねる山道を登りきると「奥の院」の遺跡があり、目の前に巨巌が現れまし た。とても迫力があり、思わず見入ってしまいました。先生は以前ここで発掘調 査をした際、こういう場所で食べるお弁当がおいしかったと言っていたので、そ れに倣ってみんなでお菓子を食べながらしばし休憩をとりました。
 そのとき先生が、ここは「私のシーギリヤ・ロック」だと仰いました。シー ギリヤ・ロックについて何も知らなかったので、後でインターネットで調べてみると、 スリランカにある世界遺産の遺跡で、世界七大文化遺産にも選ばれています。195mの岩山の頂上には、シンハラ王朝の5世紀、父を殺害し王位を奪ったカッサパ1世が築いた王宮の跡が残っています。これまでLABLOGでもなんどか記事が掲載されています。

   ・シーギリヤロック -スリランカ仏教紀行Ⅲ
   ・続 スリランカの獅子
   ・続々 スリランカの獅子
   ・そしてまた、スリランカの獅子

 「奥の院」の巨巌を眺めてみると、特徴的な凹凸の激しい形状で、所々の不自然な窪みは自然のものではなく、人工の堀削によるものだそうです。巨巌は岩窟・岩陰を形成しており、内部には千手観音・阿弥陀如来・地蔵菩薩など多数の石仏を祀っています。巨巌を登りきると、小さな岩窟が掘削されており、中には五輪塔がひっそりとたたずんでいました。五輪塔 は無縁仏を供養するための小さな塔で、五輪塔のかけらを蹴っとばしたり する と、運気が落ちるといわれて、以後、気をつけました。【続】


171108 摩尼山 五輪塔
↑岩窟仏堂内の五輪塔


ブッダが説いたこと(三)

今枝(表)2017mani圧縮 今枝(表)2017mani_7_4_01 今枝(裏)2017mani_7_4_02


大学HPに広報記事をアップしました。

 激動の3週間が過ぎました。還暦の秋、FCセクストンの東西対抗血戦から故郷での凱旋講演までアドレナリンは溢れ続け、脳梗塞寸前のところまで体は喚いていたのです。嘘ではありません。講演前日の健康診断において、体重-4.5kg、ウェスト-9cmという朗報の代償として、血圧が前年比+50という驚異的な計測値を示していました。ダイエットには、澱粉カットと歳相応の軽い運動が最適であり、血圧の薬はそうした体質改善にあたってネガティブに働くという情報を信じて断薬した結果です。
 すぐさま放置しておいた血圧の薬を大量に服し、講演に臨みました。おかげで体調は快方に向かっています。その後の1週間がまたハードでした。科研申請の締切を迎えていたからです。自慢じゃないが、毎年、科研が書けん、わけです、締切日からが勝負でして、締切を過ぎてようやく体に鞭打ち本気になって書く。血圧のコントロールさえできれば、なんとかなるだろう。そういえば先月、「ブッダが説いたこと」講演の打ち合わせが京都駅であり、調子にのって今枝先生にアドバイスを求めたんです。そのとき「調伏」という概念を教示されました。たしかに「調伏」で点が線、線が面へとつながっていく。なんとか花開いてほしいものです。
 余談はさておき、今枝先生の講演が十日後に迫っています。肝心の先生はいまブータンでして、帰国はたしか2~3日後のはず。広報も最後の力を振り絞っています。新聞報道はたぶん来週になってからでしょうが、昨日は大学のホームページにお知らせをアップしました。以下のサイトをご参照ください。

     http://tkserv.kankyo-u.ac.jp/news/2017nendo/20171031/
 または
     http://www.kankyo-u.ac.jp/news/2017nendo/20171031/

 明日もまた100通以上のDMを発送します。駄目押し、駄目元です。このシリーズの広報をまだまだ続ける予定です。



反戦歌を歌っていたころの自分を回顧しているんだろうか?

Ah , but I was so much older then , I'm younger than that now.
嗚呼、でもね、あのころの俺はずいぶん年老いていて、
今はあのころよりも若いのさ。



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稲常の町並み(5)

171101 c


移動図書館を横目にみながら

 11月1日(水) 晴れ。今回は町並みで卒論に取り組んでいる4年生二人に連れられ、3年生二人が稲常の民家をスケッチしました。澄んだ空で陽がぽかぽかと暖かく、絶好のスケッチ日和でした。3年生が稲常に来るのは2度目です。1度目は、稲常を東西南北のエリアで分け、民家に番付しながら写真撮影をしていきました。私は西区のW-01-2建物、あやかめさんはW-06-2建物のスケッチを担当しました。わたしの場合、担当の2年生が2回欠席したため、その補完的役割を果たすことになったようです(そうしなければ「町並み」は完成しません)。あやかめさんは、2年生が描いた西区西端の隣にたつ建物です。
 W-01建物はとても大きいので、スケッチの範囲をW-01-1とW-01-2の二つに分けています。スケッチしていると、家の方が話しかけてきてくださいました(寅さん講演を聴きに行かれたそうです)。この建物は築120年ほどで、屋根の小屋組にはケヤキ材を使用しているそうです。稲常にはゼミや実習・演習で何度も環境大学生が訪れているため、気さくに話しかけてくださり、椅子も貸していただきました。いつもありがとうございます!


171101 稲常スケッチ1 
W-01-2
171101 稲常スケッチ3 171101 佐々木スケッチ


 私とあやかめさんは今回初めての民家スケッチでした。メジャーなどは使わず、歩測など身体感覚でスケールを測っていきます。まず、一歩1mの感覚を覚え、大またで歩きながら寸法を略測します。一歩1mを方眼紙の1cmにして絵を描くと、図面は約1/100になるのです。しかし、少し遅れて指導に来られた先生によると、女子の場合、1歩1mは無謀だそうです。たとえば、1歩85cmの学生の場合、野帳を85%縮小コピーすれば1/100スケールになるので、無理に大股で測らないほうがよいとの指導を受けました。
 歩測によって全形のアウトラインを描き、その後細部に移ります。屋根の装飾や瓦の模様など特徴的なところは方眼紙の空白部に引き出して大きな絵にするのです。ところで、建物を見たまま描こうとするとあおった状態になってしまいます。遠近法で高い位置にあるものは小さくみえるのです。長方形の建物なら台形にみえるということです。今回必要なのは正面図ですから、建物を真正面から見た立面図にしなければなりません。遠近法を使ってはならないので、それが難しかったです。たとえば、屋根を描くとき、はじめは遠近法でみえるとおり斜めに描いてしまっていたのですが、地面に対して垂直に描くのが正しいということなどが分かりました。
 この日は良い天気で、昼間はとても暖かかったのですが、16時を過ぎたころになると「つるべ落とし」で急に寒くなりました。日もくれてしまい、私は時間内に細部まで書き込むことができなかったので、家に持ち帰って清書します。

 稲常の村にたまたま移動図書館の車が来ていました。スケッチの途中で子供たちが元気に遊んでいる姿を見ました。移動図書館のおかげで子供たちは気軽にいろんな本に触れることができ、遊びも勉強もすることができているのだと思いました。(小次郎)


171101 稲常スケッチ10 W-06-2
W-06-2
171101 稲常スケッチ4 171101 森スケッチ

「寅さんの風景」講演会 満員御礼!!

171028講演11 171028講演2


マイ・バック・ページ

 10月28日(土)、河原町文化祭40周年記念講演「寅さんの風景」の日がついにやってきました。あいにくの雨でしたが、台風の影響は先週ほど大きなものではなく、客席はほとんど埋まっていました。先生の故郷、旧八頭郡河原町での凱旋講演で、同級生や親戚関係の方など沢山来られていたようです。ちゃんと準備できたのか心配になるぐらい、先生は開演前から会場内を行ったり来たりで大変です。会場は河原町コミュニティセンター(旧公民館)の大講堂で、事務局によると、来場者の数は150名を超えていたであろうとのことです。たしかに、椅子20席ばかりが途中で最後列に付け足されました。
 25日(水)のゼミでは有志数名が準備のために会場入りし、設営を終えているはずでした。私は当日初めて設営後の会場を見ました。今まで1年半ほど研究室にいていろんな会場をみてきましたが、数ある講演会の中で一番大きな会場でした。ところが、当日になって机の位置を変えるだとか、音楽を流すだとか、いろいろやることがあり、学生も事務局も右往左往です。人手が足りないので、私は音響係に急遽任命され、操作のために舞台脇の2階から講演会を見守ることとなりました。
 講演の構成は以下のとおりです。
 

20171028ブログ寅さんの風景_01圧縮

 
        寅さんの風景
   千代河原と上方往来河原宿の遷ろい
 
  0.私の寅さん-マイ・バック・ページ
  1.上方往来と河原(かーばら)
  2.2017前期プロジェクト研究1&3「寅さんの風景」
  3.第44作「寅次郎の告白」(鳥取篇・1991)
  4.ロケ再現撮影カチンコ勝負
  5.私の「渡良瀬橋
  6.寅さんは文化庁に先行する

 講演のイントロ「私の寅さん-マイ・バック・ページ」で使われた最後のスライドが↑です。寅さんの映像カットから始まったパワーポイントはいつしか河原の町並みになり、最後に背戸川の洗い場で遊ぶ先生の幼少期の写真になりました。寅さんを学ぶことは自分の過去を振り返ること、自分のルーツを探ることと重なりあった。つまり、「マイ・バック・ページ」を編集することであった、河原町40周年文化祭において自分の還暦記念講演をおこなえることはこのうえない幸せなことだと述べられて、本論に入られたのです。


20171028ブログ寅さんの風景_05圧縮 20171028ブログ寅さんの風景_03圧縮


私の渡良瀬橋

 講演会の間、古写真や昔話などを懐かしむ声や笑いなどでどっと沸き立つ瞬間が何度もありました。やはり地元が舞台の話になると客席も舞台に釘付けでした。とくに印象深かったのは、森高千里の「渡良瀬橋」を自ら口ずさみながら、千代川の出会橋を「私の渡良瀬橋」だと仰ったシーンです。森高千里や松浦あやの「渡良瀬橋」を聴くたびに出会橋の風景が思い浮かぶそうです。皆様の渡良瀬橋はどこにありますか?


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 これと関連して、映画「男はつらいよ」における江戸川の風景の意味について、何度も言及されました。物語の後半に登場する江戸川の河川敷は寅さんが恋愛などの問題で思案にくれる場面の舞台となっています。江戸川の流れをみつめることで、寅さんは精神を浄化され、冷静になって本来の自分を取りもどします。川が場面の転換点になって物語はフィナーレに向かっていくのです。鳥取を舞台とした「寅次郎の告白」の場合、江戸川の代わりに八東川や千代川がその役割を果たしています。あるはずのない出会橋の袂に停留所を設けて別れの場所にするのも、そうした効果を狙っているのだと指摘されました。


20171028ブログ寅さんの風景_04圧縮
↑中道秀俊氏撮影(1991) 


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十月桜(4)

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FCセクストン東西対抗血戦

 佐治小に着いたのは午後2時ころ。他のメンバーはすでに青(東軍)と白(西軍)のユニフォームに着替えアップしていた。わたしたちを待つ必要などなく、先にはじめておいてくれれば良かったのに・・・律儀な人たちです。わたしは東西対抗血戦のユニフォームが青・白ということさえ知らなかった。平城サイトスの赤・緑のイメージをひきづっていて、バルサのバッグの中には赤・緑・青のシャツやジャージをしのばせておいたが、白の着物はない。なんとか代用になりそうなのは、葛飾柴又で買った寅さんTシャツ(うす水色)しかなく、それを着ることでなんとか西軍のアイデンティティを確保した。それにしても、秋のイベントで寅さんTシャツは毎年活躍しますね(翌週はステージ衣装にまでのぼりつめる)。


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 東西対抗血戦のため7月に買ったアンブロのサッカーシューズと4号球はついに穿くことも蹴ることもなくこの日を迎えていた。ティンプーでのパジョディン登山以来、まともな運動はしていない。週末夕刻のブラブラブ散歩と週1度未満のボクシングジムでの軽いトレーニングだけで、サッカー狂いの爺どもに適うはずもなく、動きは後手後手にまわった。ボールをもっては失い、しばしば失点の源になる。戦術を馬鹿蹴りに変更した。よく言えば、ダイレクトパスさ。しかし、それにしても、他の爺どもはよく動くぞ。なるほど芝生のグラウンドでやりたがるわけだ・・・などと感心しているところで、東軍の左サイド1名がコートに倒れ動かなくなってしまった。靭帯損傷(後に断裂→手術と判明)。車から湿布薬をとってきて貼ってもらった。だから言ったでしょ、無理しちゃいけないって。気持ちだけは若いが、みんな歳を重ねているんだからね。
 友人の怪我をみて、わたしはますますのんびりサッカーしようと思うにいたった。リラクシンが奏功したのか、右のアウトフロントでひっかけたダイレクト・シュートがゴールを割った。1点取ったんだ。みたか、ざまぁみろ! と調子にのって、左サイドを駆け上がろうとしたところで、あっさり前倒れ。危ない転び方だったが、九死に一生をえた(大袈裟)。もう駄目だと自覚し、以後は疑惑のレフェリーに徹しました。


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↑還暦記念品贈呈(私じゃないよ) 


 

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十月桜(3)

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芝生か体育館か

 ウィーケンド台風が続いてますね。2週連続でイベントを抱えていて、ほんと、頭を抱えてしまった。わたしはこんな雨男ではなかったのに、いったい誰の仕業なのか。
 10月20日(金)、球友たちとの久方ぶりの対面を控え少々緊張していたのか、いざ眠ろうとして眠れず、あることに気づいたのね。○○がない。その○○がなんだったか、いま思い出せないのだけれど、その○○を探しに深夜、大学まで行った記憶があります。結果、その○○はみつからなかったのだけど。

 21日(土)、10時起床。風呂に浸かっていざ出陣。空港をめざした。同時に雨がポツリポツリとフロントガラスを濡らす。少々安堵した。これで納得してくれるだろうと思ったからだ。四月に用瀬総合グラウンドを予約確保していたのだが、10日ばかり前から天気予報は悪化の一途を辿っている。火曜日のみ例外的に晴れ、稲常での町並みスケッチ演習を実施できたが、他の日は雨ばかり。秋雨前線だけでも鬱陶しいのに、台風が近づいてきて、21日午後の降水確率はついに80%に達していた。15日をすぎて、用瀬の芝生Gでサッカーできない可能性が高いと思い始め、フットサル会場を確保しようと決めた。しかしながら、21~22日は総選挙のため小中学校の体育館は軒並みアウト。なんの必要もない総選挙のためにフットサル会場から締め出されるなど言語道断ではないか。おまけにホームであるべき大学は学園祭で吉本芸人が席巻しているらしい。これも必要な・・・(失言注意)。このヘルプレスな状況を救ってくれたのが佐治小学校だった。


1021佐治01


 最後の最後、用瀬から10分ばかり川上にある佐治小学校に駄目元で電話したところ、あっさり快諾され、拍子抜けしたほどであった。優しい校長先生の指示に従い、大至急で使用許可書を書いて、正式に使用許可を頂戴した。東京の幹事に何度もメールで連絡した。こんどの土日は台風の影響で雨の確率が高い。芝生グラウンドでのサッカーは難しい。代わりに佐治小学校の体育館を確保したので、今回はフットサルにしよう、と。しかし、返事はいつも肯定的ではなかった。結果、「小雨決行」でいったん落着するのだが、地元サイドとしては山陰の雨の嫌らしさにげんなりしているので、納得できないでいた。どうして、地元の意見を毎回跳ね返すのか、と不満が大きくなり、いちど強めの反論をしてしまった。

  小雨なら(芝生でサッカーするのも)いいが、みんな60過ぎているんだから、大雨の場合、
  無理すべきじゃないでしょう? 佐治小学校まで行ってフットサルしたほうが賢明だと
  私はおもいます。用瀬は雨のなか、更衣室もシャワーもないのだから。(略)
  私個人の意見を述べておくと、怪我もしたくないし、風邪もひきたくない。さっきまで
  ジムでトレーニングしてて、コーチとそういう話をしていたんですよ。


1021佐治02
↑寅さんTシャツが私。


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プロフィール

魯班13世

Author:魯班13世
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魯班(ルパン)は大工の神様や棟梁を表す中国語。魯搬とも書く。古代の日本は百済から「露盤博士」を迎えて本格的な寺院の造営に着手した。魯班=露盤です。研究室は保存修復スタジオと自称してますが、OBを含む別働隊「魯班営造学社(アトリエ・ド・ルパン)」を緩やかに組織しています。13は謎の数字、、、ぐふふ。

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