予稿初稿(2)


紫竹院の茴香餃子
その後も楊先生は京大人文研や奈文研の招聘によりしばしば来日されることとなり、ときに我が家で夕食のおもてなしをした。96年の12月には奥様の王秀蘭先生を同伴され、我が家でクリスマスイブを過ごされた。忘れがたい幸福な想い出である。一方、私は90年代以降、年に1~3度のペースで中国を訪問するようになり、出張の始めか終わりに楊先生にお目にかかるようにした。楊先生はしばしば北京市紫竹院のご自宅に私を招かれ、奥様の手料理でおもてなしくださった。とくに茴香の餃子が私のお気に入りであった。セリ科の茴香(フェンネル)は消化や血行を促進し、ダイエットにも効ある漢方薬の一種であり、「良薬口に苦し」の諺のとおり、それ自体にはえぐ味があるけれども、豚肉のミンチに擦り込むと油気をそいであっさりした苦味が仄かに残る。ビールによくあう最高の餃子だが、残念なことに、日本で食べることのできる場所を寡聞にして知らない。王秀蘭夫人手作りの茴香餃子は、私にとって懐か しい中国料理の代表である。


↑楊先生自宅での茴香餃子夕食会(1997年12月)
大山・隠岐・三徳山シンポジウム
私は2001年に奈文研を退職し、故郷に新設された公立鳥取環境大学に転職して今に至る。奈文研を辞したのは、なにより平城宮の発掘と整備に疲れたからとしか言い様がない。とくに後者については、朱雀門・東院庭園・大極殿の復元事業が併行して進んでいたことによるが、建築考古学を専攻する者にとっては極楽ではないかと誤解されている節がないわけではなかろう。敢えて説明しておくと、両者は基礎研究の部分では重なりあうが、実践的には似て非なるものである。発掘調査を経ているとはいえ復元の根拠となる痕跡はきわめて限定的であり、その結果、復元には不確定性がつきまとうため権力者の意見が通りやすい。また、大地震に耐えうる構造補強が尋常なレベルではなくなるので本来の伝統構法から大きく遠ざかり、その構造と施工の複雑さゆえにゼネコンに支配される度合いが増す。政治世界における右傾化が復元事業の背景にあることも一研究者にとって耐え難い苦痛であった。
かくして故郷の鳥取に職場を移したわけだが、それを機会に私自身の研究的関心は東南アジア(主に水上居住)、シベリア(狩猟・漁労民住居)、東ヨーロッパ(木造建築)等へとひろがる一方で、訪中の機会は著しく減っていった。北京五輪が開催された2008年、北京で日中韓建築学会合同の「第7回アジアの建築交流国際シンポジウム(7th ISAIA)」が開催され、ハロン湾の水上居住に関する発表をした。そのときももちろん楊先生に連絡をとり、8年ぶりの再会が実現した。宴席の会場は景山公園前の「大三元」である (↓)。

