予稿初稿(3)

2.邪馬台国への途
南北方位の反転
日本の弥生時代は朝鮮半島からの渡来系稲作文化の伝来によって北部九州では前10世紀ころに萌芽し、前5世紀ころに環濠集落が成立するとされる。しかし、そのころの他の地域はいまだ縄文時代晩期にあたり、前3世紀~後3世紀が弥生文化の存続期であって、中国における漢の時代にほぼ併行している。漢魏の時代、西日本は「倭」と呼ばれていた。倭という地名に関する最古の記載は『漢書』地理志まで遡るが、生活文化に関する具体的な描写を含む最初の記載は『三国志』魏書・東夷伝の倭人の条、いわゆる「魏志倭人伝」である。『三国志』は後漢滅亡 後、魏・呉・蜀が鼎立した時代(220~265年)の正史であり、晋の陳寿が280年ころに編纂したものである(『後漢書』編纂は5世紀前半までくだる)。その時代は、西日本で弥生時代が終焉し、前方後円墳をメルクマールとする古墳時代がまさに始まらんとする時代であった。陳寿は朝鮮半島の付根に漢魏が置いた楽浪郡・帯方郡の集積した情報を書き写したものと推察される。倭を支配した女王、卑弥呼がいた邪馬台国の所在地については九州説と畿内≒大和(奈良)説の両説が激しい論争を繰り広げてきた。魏志倭人伝の冒頭部分を以下に抜粋して引用する。(以下、おもに小路田泰直氏の新説に従って記述する)
倭人は帯方の東南、大海の中にあり。 山島によりて国邑をなす。 旧百余国、
いま使訳通ずる所三十国。帯方郡より倭に至る。海岸をめぐりて水行し、韓国をへて、
あるいは南し、あるいは東し、其北岸、狗邪韓国に至ること七千余里。
始めて一海を渡ること千余里、対馬国に至る。また南に一海を渡ること千余里、
一支国に至る。また一海を渡ること千余里、末盧国に至る。東南のかた陸行五百里にして、
伊都国に至る。東南のかた奴国に至ること百里。東行して不弥国に至ること百里。
南のかた投馬国に至る。水行二十日。五萬余戸ばかりあり。南のかた邪馬台国に至る。
女王の都する所なり。水行十日陸行一月。七万余戸ばかり。

投馬国「出雲」説
朝鮮半島南端にあったであろう狗邪韓国から南に水行し、対馬国(対馬)、一支国(壱岐)、末盧国(松浦半島)まではほぼ同定できる。その次にあらわれる伊都国が糸島半島であるのもほぼ間違いないが、方位に矛盾があらわれている。末盧国から「東南のかた陸行五百里にして伊都国に至る」とあるけれども、実際の地理関係をみると、糸島半島は松浦半島の東南ではなく、東北に位置している。かくして魏志倭人伝に記された日本列島の方位認識は南北反転の可能性を読み取れるわけだが、東アジアを広域的に描く「混一疆理歴代国都之図」(1402・龍谷大学蔵)に日本列島が南北反転して表現されていることからも、倭人伝にいう「南」は「北」を意味する可能性が高いと思われる。
さて、伊都国が糸島半島にあり、その「東南」(じつは東北) にある奴国が「漢委奴国王印」出土の志賀島あたりとみるのは妥当であるとして、その次に記される不弥国、投馬国については所在地に諸説あり、これを九州とみれば邪馬台国は九州中南部に存在し、これらを瀬戸内の諸国とみれば邪馬台国は畿内(近畿)に所在することになる。こうした九州説と畿内説の論争は、後に詳述するように、奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡で2009年に超大型建物群が発見されるに至り、纒向周辺を邪馬台国とみなす考古学者がかなり多くなってきている。その場合、北九州から奈良に至る経路については、従来推定されていた瀬戸内海よりも日本海が重視され始めている。対馬・壱岐は東シナ海の北限であると同時に日本海の西限でもあり、日本海自体が古代極東地域の地中海であって、交通と流通の幹線とみなされるからである。楊先生もこの点を強調されている[浅川編1998]。
