予稿初稿(4)

3.日本海の真珠
異端の弥生集落-青谷上寺地遺跡
弥生時代の山陰地方(鳥取・島根)に環濠集落は少ない。中期の段階で田和山(松江市)や妻木晩田洞ノ原地区の山上で環濠がみつかっているけれども、それらは住居群を包囲するものではなく、天空に近い神聖な領域の結界として機能している。言わば、社稷を守る環濠である。いわゆる倭国争乱の時代にあって、北部九州や近畿などの先進地では渡来系の環濠集落と松菊里型住居が広域的に普及する一方で、山陰や北陸など日本海側では山に住む高地性集落が一般的であり、そこに営まれた住まいは縄文系の土屋根竪穴式が主流を占めた。弥生後期の妻木晩田遺跡が高地性集落と土屋根居住地の代表である。
そのような山住みの集住形態が普遍化する弥生中後期の山陰にあって、鳥取市の青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡は圧倒的に異端の風情を誇示している。それは環濠集落ではあるけれども、北側に日本海が近接し、他の三方ははじめ湿地帯であり、後に水田化する。当初のイメージは入江内に浮かぶ小島のようであり、出土品は内陸側の集落と大きく異なって多彩多量かつ豪華であり、故に遺跡は「弥生の正倉院」と呼ばれている。

なにより日本人の耳目を驚かせたのは弥生人の脳の出土であった。水分を多く含む溝の中に2000年前の人の脳が残っていたのである。鏃が突き刺さった人の腰骨や結核によって変形した脊髄も出土した。海外との交流を示す遺物も少なくない。王莽(新王朝)の時代の銭貨や銅鏡、斧や刀子(とうす)などの鉄器、ひび割れ状態で吉凶を占う卜骨、朝鮮半島系の土器などである。国内品も鳥取産にとどまらず、能登(石川)、近畿、岡山、九州北部などの木製品や土器が数多くみつかっている。こうした国内外との交流を示す出土品の多さは、青谷上寺地がたんなる定住集落ではない「交易」の拠点としてのイメージを強化している。

ここで唐突かもしれないが、2016年春にバルカン半島を旅した際の印象を語っておく。アドリア海に面するクロアチアのドゥブロヴニクやトロギールは、ヴェネチアと覇権を争った中世の海洋都市国家であり、当初は出島のような性格をもつ租界島であった。そこは大陸に近接しつつ海で隔てられた自然の環濠集落であり、強力な防御性を備える一方で、開かれた海外交易の拠点でもあった。海から運び込まれる物資と陸で生産される物資が島で入れ替わる。島と陸は交流を望みながらも、互いに警戒する間柄だったので、両者の結節には橋を使ったが、日の入りとともに橋は引き上げられる。その後、島と陸の関係が融和するとともに海岸線を埋め立てし、島を陸地側に取り込んでいった。こうした海洋港湾都市のあり方は、出島(長崎)やマカオ(澳門)、アモイ(厦門)などの近世~近代租界都市にも似ているが、わたしは現地において、弥生集落として圧倒的に特異な座標にある青谷上寺地に想いを馳せた。ドブロクニクが「アドリア海の真珠」ならば、青谷上寺地は「日本海の真珠」と呼びうる人工島だと感じたのである。青谷上寺地が「租界」と「交易」の拠点だったと断言できる段階に未だあるわけではない。しかしながら、篠田健一らの分子人類学研究グループが青谷人骨からDNAの分析を開始しており、その結果次第では上の憶測に一定の裏付けを得られるかもしれない。
楼観と屋室-七千点の建築部材から
青谷上寺地の環濠より内側のエリアでは、小規模の建物跡が少数みつかっているにすぎない。にも拘わらず、環濠の内側に投棄された建築古材や溝の護岸に転用された建築材が大量に出土している。あるいは当時の人びとは環濠に隔された「島」の中ではなく、内陸側の山沿いに住んでいて、海の彼方からやってくる交易者と「島」で交流していたのかもしれない。【続】
