第二の人生
中村元記念館東洋思想文化研究所 研究員
無事、辞令交付を終えました。今年度より中村元記念館東洋思想文化研究所の研究員を兼業することになったのです。
快晴の中、大山の全景が車窓に映り、第二の人生のスタートを祝福してくれているようにみえて上機嫌になりました。大学に戻ると、新しい名刺が2箱届いている。名刺を刷るのはもうやめよう、と思って私学時代の残りの名刺を使いまわしていたのですが、この2ヶ月あまりの間に考えが少しずつ変わりましてね。還暦を迎える前後、なにやら妙に気分が老けてきて、自ら「引退」を仄めかすようになっていたのですが、考えてみれば退任はまだまだ先のことです。これまでのような研究室活動を継続するのは容易いことではありませんが、周囲に迷惑をかけぬよう晩年にふさわしい研究を進めたいと思うに至り、新しい名刺を刷ることに決めた次第です。
3年の厄年を終え、平和千点和了の効があったのか、今年はいろいろ新しく懐かしい依頼が届いています。以前のような仕事三昧の生活を送ることはできなくなっていますが、なんとかご期待に添えるよう分相応の活動をしていきたいと思っておりますので、なにとぞよろしくお願い申し上げます。
大根島は良いところです!
【研究課題】
1.岩窟・岩陰と複合する懸造仏堂
鳥取県が世界遺産暫定リスト入りをめざして国に申請した「三徳山とその文化的景観」(2006-07)は厳しい評価を受け、断念を余儀なくされた。三仏寺投入堂(国宝・三朝町)を申請の中核に据えたものだが、対象の「顕著な普遍的価値」を証明する必要があるとの批評を受けたので、山陰地方に卓越する「岩窟・岩陰と複合する懸造(かけづくり)仏堂」の起源を解明すべく、2010~12年度科学研究費基盤研究(C)「石窟寺院への憧憬 -岩窟/絶壁型仏堂の類型と源流に関する比較研究-」を申請し採択された。三仏寺投入堂以外にも、不動院岩屋堂(鳥取県若桜町)、鰐淵寺浮浪滝蔵王堂(島根県出雲市)、焼火神社本殿(島根県)等はすべて岩窟・岩陰と複合する懸造であり、国内では六郷満山等の類例を訪問し資料を集成して懸造仏堂を類型化した。また、鳥取市の摩尼寺「奥の院」遺跡を発掘調査し、岩陰と複合する懸造仏堂の存在を明らかにした。さらに、中国華北・華南・西域、西インドなどで重要な遺構を視察した結果、以下の事柄が明らかになった。
①岩窟・岩陰と複合する懸造仏堂は平安中期~鎌倉初期に日本にもたらされる。大分などで磨崖仏が出現する年代とほぼ重なりあう。②石窟・岩窟と木造建築部の関係に注目して類型化すると、山陰の懸造仏堂は華南に類例があり(福建省甘露寺・南宋)、大分の懸造仏堂は華北の石窟寺院の構造と近似する。③東トルキスタン(西域)や西インドなどの石窟寺院では木部がほとんどなく、むしろ周辺の平地寺院の細部意匠を多く取り入れている。こうした特徴は「窟(いわや)の建築化」という枠組で説明できる。崖や巌(いわお)を掘削して窟(いわや)を造り内部に仏像を安置するが、その岩窟に建築的な装飾を加えることで、素朴な窟(いわや)は平地寺院に近似した岩屋に変貌する、ということである。④「窟の建築化」という視点で木部の多い東アジアの石窟寺院・岩窟仏堂も説明可能である。たとえば華北の場合、石窟の内部に木造建築の細部を浮彫で表現しつつ、正面に木造の壁面を立ちあげて全体を木造建築仏堂に近づけようとしている。日本の場合、岩窟そのものを加工し装飾することはないが、懸造仏堂を岩窟の中にすっぽり納めることで窟(いわや)は岩屋となる。
以上みたように、インド・西域から中国・日本に至るまで石窟寺院・岩窟仏堂のあり方は多様だが、「窟の建築化」という視点でほぼ説明可能だという見通しを得るに至った。今後は紀元前に遡る最古級の石窟寺院を視察し、「窟の建築化」のあり方を見極めたい。
無事、辞令交付を終えました。今年度より中村元記念館東洋思想文化研究所の研究員を兼業することになったのです。
快晴の中、大山の全景が車窓に映り、第二の人生のスタートを祝福してくれているようにみえて上機嫌になりました。大学に戻ると、新しい名刺が2箱届いている。名刺を刷るのはもうやめよう、と思って私学時代の残りの名刺を使いまわしていたのですが、この2ヶ月あまりの間に考えが少しずつ変わりましてね。還暦を迎える前後、なにやら妙に気分が老けてきて、自ら「引退」を仄めかすようになっていたのですが、考えてみれば退任はまだまだ先のことです。これまでのような研究室活動を継続するのは容易いことではありませんが、周囲に迷惑をかけぬよう晩年にふさわしい研究を進めたいと思うに至り、新しい名刺を刷ることに決めた次第です。
3年の厄年を終え、平和千点和了の効があったのか、今年はいろいろ新しく懐かしい依頼が届いています。以前のような仕事三昧の生活を送ることはできなくなっていますが、なんとかご期待に添えるよう分相応の活動をしていきたいと思っておりますので、なにとぞよろしくお願い申し上げます。
大根島は良いところです!
【研究課題】
1.岩窟・岩陰と複合する懸造仏堂
鳥取県が世界遺産暫定リスト入りをめざして国に申請した「三徳山とその文化的景観」(2006-07)は厳しい評価を受け、断念を余儀なくされた。三仏寺投入堂(国宝・三朝町)を申請の中核に据えたものだが、対象の「顕著な普遍的価値」を証明する必要があるとの批評を受けたので、山陰地方に卓越する「岩窟・岩陰と複合する懸造(かけづくり)仏堂」の起源を解明すべく、2010~12年度科学研究費基盤研究(C)「石窟寺院への憧憬 -岩窟/絶壁型仏堂の類型と源流に関する比較研究-」を申請し採択された。三仏寺投入堂以外にも、不動院岩屋堂(鳥取県若桜町)、鰐淵寺浮浪滝蔵王堂(島根県出雲市)、焼火神社本殿(島根県)等はすべて岩窟・岩陰と複合する懸造であり、国内では六郷満山等の類例を訪問し資料を集成して懸造仏堂を類型化した。また、鳥取市の摩尼寺「奥の院」遺跡を発掘調査し、岩陰と複合する懸造仏堂の存在を明らかにした。さらに、中国華北・華南・西域、西インドなどで重要な遺構を視察した結果、以下の事柄が明らかになった。
①岩窟・岩陰と複合する懸造仏堂は平安中期~鎌倉初期に日本にもたらされる。大分などで磨崖仏が出現する年代とほぼ重なりあう。②石窟・岩窟と木造建築部の関係に注目して類型化すると、山陰の懸造仏堂は華南に類例があり(福建省甘露寺・南宋)、大分の懸造仏堂は華北の石窟寺院の構造と近似する。③東トルキスタン(西域)や西インドなどの石窟寺院では木部がほとんどなく、むしろ周辺の平地寺院の細部意匠を多く取り入れている。こうした特徴は「窟(いわや)の建築化」という枠組で説明できる。崖や巌(いわお)を掘削して窟(いわや)を造り内部に仏像を安置するが、その岩窟に建築的な装飾を加えることで、素朴な窟(いわや)は平地寺院に近似した岩屋に変貌する、ということである。④「窟の建築化」という視点で木部の多い東アジアの石窟寺院・岩窟仏堂も説明可能である。たとえば華北の場合、石窟の内部に木造建築の細部を浮彫で表現しつつ、正面に木造の壁面を立ちあげて全体を木造建築仏堂に近づけようとしている。日本の場合、岩窟そのものを加工し装飾することはないが、懸造仏堂を岩窟の中にすっぽり納めることで窟(いわや)は岩屋となる。
以上みたように、インド・西域から中国・日本に至るまで石窟寺院・岩窟仏堂のあり方は多様だが、「窟の建築化」という視点でほぼ説明可能だという見通しを得るに至った。今後は紀元前に遡る最古級の石窟寺院を視察し、「窟の建築化」のあり方を見極めたい。