fc2ブログ

能海寛生誕150周年記念国際シンポジウム(予報6)

続・新聞報道

 今日もまた新聞報道がありました。山陰中央新報が鳥取版・島根版の両方で広報してくれています。ありがたいことです。しかししかし、わたしのパワポはまだできません、とほほ・・・

1129山陰中央新報(能海)

能海寛生誕150周年記念国際シンポジウム(予報5)

1127毎日新聞(能海シンポ) 日本海 シンポ 記事


新聞報道

 ひどい週末でした。例のベーシスト問題です。ゲーリー・ピーコックさ。ジャスト・ライク・ウォーターです。正露丸はもちろん抗生物質も効かない。3日めの日曜日に姪の結婚式が京都であったんですが、代打隼を送り、一日中ソファで横になっていて、4日めで癒えたかと思ったが、またぶりかえしてきた。ここに至り、ウィルス性の腸炎だと気づいた次第です。 いまは治っています。
 ブログが溜まっていましてね。1110摩尼トレック、1114琴浦家相図調査、1120たくみ21等等。週末にこなす予定でしたが、体が動かない。シンポの準備はままならぬが、昆明や倉吉からは矢継ぎ早にデータが送られてきます。わたしは校正マシーンだ。

 週があけ、吉報あり。毎日新聞にシンポジウムの長い紹介記事がでたんです(↑左)。鳥取版なんだけど、書いたのは大阪総局の方です。何度も電話がかかってきたし、今枝先生は直接インタビューを受けられてコメントが掲載されています。
 地元紙の記事(↑右)は、24日にでたようです。どういうわけか、わたしの署名が入っていますが、会長の仕業です。文章はたしかにわたしが書いたものですが、それがそのまま署名入りででるとは予想しておりませんでした。
 他紙でも告知してくれているはずですが、紙面をキャッチできていません。

次第の微細な変更

 さて、シンポジウムの構成に若干変化がありました。赤字が変更部分です。

12:30 開場                                   
13:00 開会の辞  趣旨説明 眞田 廣幸  
13:10 第一部 能海寛の風景                         
1.基調報告 岡崎 秀紀(能海寛研究会会長)
  「山陰から世界へ-能海寛と河口慧海の時代」               
2.招聘講演 何 大勇(中国 雲南民族大学教授)           
  「チベットをめざして-能海寛の歩いた四川と雲南-」         
3.森 彩夏(公立鳥取環境大学)                      
  「奇跡の雪山-能海最期の地をめぐる旅」


14:40 <ティーブレイク&スライドショー>

15:00 第二部 能海寛の思想                         
4.浅川 滋男・森 彩夏(公立鳥取環境大学)               
 「能海寛を読む-世界に於ける仏教徒-」  
5.講評と質疑 60分                             
 [講評] 今枝 由郎(京大こころの未来研究センター特任教授)                     
 [質疑] 山田 協太・赤井厚生他     
17:00 閉会の辞


(最終)mani_ sainokawara_FINAL_確認用4_02web (最終)mani_ sainokawara_FINAL_確認用4_01doc

おまえはラッパーなんかじゃない(2)

1118神戸03 1118神戸03sam


サッカー選手として

 岡村との付き合いには二つの側面があります。ひとつはサッカーでして、わたしはこうみえても大学のサッカー部の監督をしておりました。岡村のポジションはセンターバックです。ストッパーとも言います。ディフェンダーの最終ラインにいる中央の選手でして、ストッパーが抜かれてしまうとゴールキーパーしかいないわけですから、失点の可能性がきわめて高くなります。まさにチームの土台というべきポジションですが、責任が重過ぎるので、ほとんどの選手があまりやりたがりません。岡村はその面倒なポジションを黙々とこなしました。沈着冷静というか、メンタルにぶれが少ないので、苦境に陥ってもドタバタしない。安定感のある良いディフェンダーだったと思います。


1118神戸01


廃材でつくる茶室

 もうひとつは、ゼミの生徒としての係わりです。彼はちょっとかわった経緯をもってわたしのゼミに移ってきました。元は建築デザインのゼミに籍をおいていたのですが、3年次が終わるころ、突然、木造建築/和風建築に興味が湧いてきたといって、私どもの「建築史・保存修復」のゼミに移籍してきたのです。そして、数奇屋の大工になりたいと言います。しかし、それは最終目的ではなくて、建築デザイナーに将来なるために、大工を経験しておきたいという高尚な夢を抱いていたのです。
 岡村はわたしの誇りでした。学業成績が優秀だったということは決してありません。わたしが講義を始めると、30分以内には確実に居眠りを始めます。ただ、卒業研究ですごいことをやってのけてくれたのです。新田辺の数奇屋大工のもとで一ヶ月の修行をしながら、学内では「廃材でつくる茶室」プロジェクトのリーダーとして活躍します。大学の裏山に廃材だけで茶室をつくろうという卒業研究であり、20人以上の同級生・下級生を巻き込んでの大掛かりな企画を進めていったのです。条件はただひとつ、「材料を買ってはいけない」。材料はだれかにもらうか、廃材の再利用しか認めなかったのです。わたしは岡村、ヤンマー、タクヲなどと軽トラックに乗って工務店の廃棄物置き場をまわりました。汚くなって腐臭のする材料を荷台に山盛りに積んで帰り、大学の水道場でゴシゴシ洗って使用可能な材に戻していきました。


1118神戸02 1118神戸04sam


おまえはラッパーじゃない

 岡村棟梁の造作した茶室は、いまも大学裏山に建っています(5年前にいちど大きな修復をしました)。その後、彼は新田辺の工務店に就職し、数奇屋大工としての途を歩みはじめます。わたしは奈良北端の高の原に住んでいて、新田辺とは車で半時間以内の距離にあるので、年に2~3回現場に行って彼の仕事ぶりをみる機会がありました。岡村の仕事姿たるや、それはもう格好いい。職人というのは寡黙で、黙々と仕事をこなしていく。カンナ削りで1mm以下のレベルの調整などに真剣に取り組んでいる姿には惚れ惚れします。
 数奇屋大工として彼は茶室など何棟かの木造建築の普請をてがけ、順調に職人としての途を歩んでいるようでしたが、諸々の事情があり、その工務店は解散してしまいます。その前後からインテリアの仕事に移ったと聞きますが、かれが新田辺を離れてから会う機会はなくなってしまいました。
 今から4年前、この前の席にいるタクヲの挙式があり出席したところ、ひそひそ挨拶にくる男がいる。いったい誰だろうと不審に覗き込むと、それが岡村でした。髪型がドレッドヘアーっていうんですか、ヒップホップだかラップだか知らないけれども、職人時代の面影とあまりにもかけ離れており、本人の識別に時間がかかりました。とりあえず「これからもがんばれよ!」と応対しましたが、あまりのチャラさに、心の底で「もう口きいてやらん」と思ったものです。そのときの心境はこうです。

   おまえはラッパーじゃない!
   おまえはストッパーだ!!


1118神戸04 


続きを読む

おまえはラッパーなんかじゃない(1)

1118鶴林寺03太子堂02web 1018鶴林寺02


刀田山鶴林寺

 兵庫県加古川市にある山号を刀田山(とたさん)鶴林寺は天台宗の古刹で、本尊は薬師如来である。聖徳太子建立七大寺の一つともいうが、創建の事実は詳らかでない。兵庫県最古の建造物とされる太子堂をはじめ、国宝2棟、重文4棟、県指定3棟を含む歴史建築の宝庫であり、11月18日に訪問した。ここだけの話なんすが、私、初の参拝です。日本建築史を教えながら、こんな重要なお寺に来ていなかった。折衷様と縋破風の教材としておおいに活用しようと思います(サムネイルを多数貼り付けておきます)。


1118鶴林寺02本堂01web 1118鶴林寺02本堂02sam


本堂
 入母屋造本瓦葺き平入平屋建。桁行7間×梁間6間。堂内の宮殿(くうでん=厨子)の棟札銘から応永4年(1397年)の建築とされる室町時代の建築である。和様に禅宗様を加味した折衷様建築の代表作で、桟唐戸を多用する。内部の宮殿には秘仏の本尊「薬師三尊」像と二天像を安置する。組物は二手先とし、中備は蟇股と双斗(ふたつと)を組み合わせた特殊なものである。


1118鶴林寺02本堂03sam 1118鶴林寺02本堂04sam 1118鶴林寺02本堂05sam 本堂


太子堂
 本堂の手前右方に建つ平安建築。壁画に聖徳太子像を描くことから太子堂と呼ばれるが、元は「法華堂」であり、本堂手前左方の常行堂と対をなす。宝形造檜皮葺きの方三間身舎の前側に孫庇(礼堂)を付した形式になり、縋(すがる)破風の代表作でもある。屋根板の墨書から天永3年(1112年)の建築と判明。縋破風のついた檜皮葺き屋根の造形は洗練されており、平安期の寝殿を彷彿とさせる。

1118鶴林寺03太子堂04web 1118鶴林寺03太子堂05sam
↑↓太子堂
1118鶴林寺03太子堂03sam 1118鶴林寺03太子堂02sam 1118鶴林寺03太子堂01sam


続きを読む

『公立鳥取環境大学紀要』第16号掲載論文をめぐる問題

 昨年10月末日に投稿した紀要論文がようやくネット上にアップされました。公立大学に即した新しい紀要のシステムだそうで、なんと『紀要』という学術雑誌を発行せず、まずはWEB上に論文をアップする。とりあえず、以下のサイトをごらんください。今のところ、わたしを含めて2本の論文しかアップされていません(もうお一方は退官記念のエッセイです)

http://www.kankyo-u.ac.jp/about/publication/bulletin/016/

  浅川滋男・大石忠正(2018)
   「西ブータンの崖寺と民家―ハ地区を中心に―」
   『公立鳥取環境大学紀要』第16号:pp.PR1-PR17

 新しい紀要の制度になってから、事実上「論文」をネット上にアップしたのは私一人ということになります。論文がたまっていけば、製本するのだそうです。一年以上経ってこのありさまですから、雑誌になるのはいつのことやら・・・ひょっとしたら永遠にないかもしれませんね。
 他の大学でもこういうシステムでやっているところがあるから、それを参考にしたのでしょうが、そもそも雑誌形式を回避する点、文献に対する愛着の無さがにじみでている。これだけ投稿論文が減ったのは、製本された学術雑誌にならないことに対するアレルギーがあるのだとみてよかろうと思います。
 まぁ、揉めました。わたしのやり方が良くない点もあったことはみとめますが、査読については、どうしても納得できないところがある。「西ブータンの崖寺と民家―ハ地区を中心に―」と題する論文は、①ブータン(及びチベット)仏教・文化の側面と②建築学的側面の両方を含んでいます。内容比からいえば、①が30~40%、②が60~70%であるにも係わらず、差読者は2名とも①を専門分野とする学外の研究者でした。投稿申請用紙には、所属学会・専門分野を記入する欄があり、「建築学会」であることを明記しましたし、建築学会に所属する学内の教員は複数名います。そうした建築系研究者を査読にあてることもなく、学外2名のチベット仏教系研究者に査読させたのです。わたしは、その意図を読み取っていました。ある人物に「チベット語・ゾンカ語・サンスクリットを読めないのが私の弱点であり、心配な点だ」と吐露していたからです。この弱点を突いてきた、としか考えられません。そうすれば、「不採用」にできる可能性がある。しかし、差読者2名の評価は決して低くはありませんでした。1名の方の評価はオール5(5点満点)、もう1名の方は3.5であり、いずれも「微細な修正で掲載可」であったのです。
 それにしても、こうした差読者選定の偏りについて疑問が払拭できないので、何度も以下の質問を紀要委員長に投げかけました。



続きを読む

ヒマラヤの魔女(7)

チベット死者の書(2)

密教修行者ンガッパと49日の読経
 このDVDは初め、サンフランシスコのダイイング・プロジェクトを紹介している。ダイイング・プロジェクトは、カミングホーム・ホスピスという施設のエイズ患者や末期ガン患者と死について考え話し合うものである。その中で語られる死への明るいイメージは、チベットの死者の書である『バルド・トドゥル』が元になっている。
 次に舞台はラダック(西チベット)に変わり、ゴンパ村やタール村でおこなわれている死に係わる風習と考え方を紹介している。ラダックの人びとは、毎年正月に五体投地の巡礼に出る。五体投地とは、両手・両膝・額を地面に投げ伏せる礼拝方法である。五体投地は仏教の最も丁寧な礼拝方法の一つであり、この世の生命すべてが輪廻の苦悩から救われることを願う祈りの行である。仏教の根本的な立場はこの世に産まれることを苦しみと捉えている。生きている間は病や老いなどの苦痛を経験し、死ぬとまた生まれ変わる。その輪廻が苦しみの根本的な原因であると信じられている。そのため、ラダックの人びとは輪廻の輪から抜け出し、生と死を超越すること、つまり解脱することを望む。『バルド・トドゥル』は、8世紀末にインドからチベットに仏教を伝えたパドマサンババによって書き記された経典であり、一度失われたのち15世紀に再発見された埋蔵経であると伝えられている。ラダックでは人が死に臨む時、ンガッパという密教行者が死後49日間にわたり、この経典を死者に語り聞かせる。この49日の間、死者はバルド(死の瞬間から次に生まれ変わるまでの期間)の世界でさまざまな体験をする。ンガッパはバルド・トドゥルを読むことでそれらの体験の意味を解き、死者の意識を解脱に向かわせる。この経典によると、生命の本質は心であり心は純粋な光であるという。死は、その光が肉体から解放される時であり、解脱するための最大の機会でもあるのだ。
 バルド・トドゥルは学者の手によってヨーロッパにも伝わり英訳版が出たことによりヨーロッパ人にも注目されることになった。後半の場面では、サンフランシスコの余命半年と宣告された末期エイズ患者がダイイング・プロジェクトと死について語り合い、死に向き合い受け入れている様子が紹介されている。チベット死者の書は、このグループができたきっかけであり拠り所にもなっている。

思い描いていた死とは真逆のイメージ
 私は最近、死に関して深く考えたことは無かったが、幼いころから病弱であったため入院や手術の経験があり、その頃は死について考えたこともあった。生死にかかわるような病状になったことは今まで一度もない。それでも、病棟にいる間に死について考えて不安になっていたのは病気や病院というものが死に関係している存在であり、日常生活より死という概念を身近に感じられるものであるからだと思う。その頃の私は、死んだら意識もなくなり、何も感じることのない暗闇を漂うという悪いイメージを勝手に作り出して怯えていた。それと同時に、入院中や術後の苦痛に悶えている時は死んだほうが楽になれるのではないかと脳裏によぎったこともあり、そのような思考に至る自分を嫌うこともあった。結局、その頃の私にとって「死」は「悪」でしかなく、何故こんな概念がこの世にあるのか疑問に思っていた。しかし、このDVDの中では私が思い描いていた死とは真逆のイメージで死について語られていた。ラダックの人びとは死のイメージを悪いものではなく、生の一つであると考え、死を前向きに捉えていた。また、生前から、死を解脱するための最大の機会と捉えて修行や礼拝をしているため、死に対して恐怖心もない。死についてにこやかに語っている村人たちの映像からも、彼らにとって死とは身近なものであり、現代の日本人にとっての死とはかけ離れた概念であると感じ取れた。ラダックの人びとが信じている死に対する考え方は、「死」とは何かという問いに対する正しい答えの一つだと思った。このような考え方は今まで自分の中になかったため、衝撃を受けるとともに少し羨ましいとさえ感じられた。このDVDを見て今まで知らなかった死に対する一つの向き合い方を知ることができたため、私も数十年後に来るであろう死期が近くなったらこの考え方を思い出し、穏やかな気持ちで潔く死を迎えたいと思った。(環境学部1年SM)

【参考サイト】
・精神世界の叡智 
http://spiwisdom.com/tag/%E3%83%90%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%88%E3%83%89%E3%82%A5%E3%83%AB
2018年11月14日参照


続きを読む

ヒマラヤの魔女(6)

チベット死者の書01表紙


チベット死者の書(1)

 11月8日(木)のプロジェクト研究は、1・2年合同でDVD『チベット死者の書』を鑑賞した。1993年9月23日にNHKスペシャルとして放送されたドキュメンタリー(1)「仏典に秘めた輪廻転生」、翌24日放送の同(2)『死と再生の49日』、さらに同年2月にダラムサラでおこなわれたダライ・ラマ単独インタビュー「チベット仏教の叡智を語る―瞑想・死・輪廻転生・日本人へのメッセージ―」の3部構成からなる2枚組DVDのうち、ドキュメンタリー(1)のみを視た。その感想文のうち早く届いた2作を掲載する。いずれも力作である。


バルド・トドゥル-死にゆく人との対話
 インドのラダック地方は長いあいだ排他的な文化を保っていたので、チベット仏教の教えがそのまま残っている。「バルド・トドゥル」とは「死者の書」という意味。バルドとは「死」から「生」までの間を意味する言葉である。死んだ者は49日間バルドをさまよい、解脱をするか六道のうちのいずれかに入る。
 死にゆく人たちだけでなく、生きている人に対しても説かれている。解脱への祈り・教え。ラダッタでは、遺骨(古い肉体)は古くなって捨てられた服と同じようなもので、それに執着することはない。そのため、墓は存在しない。「チベット死者の書」を原点としたダイイング・プロジェクト(Dying Project)がアメリカに存在する。余命宣告された人たちと積極的に「死」への会話を行い、彼らが「死」に向き合えるよう、「バルド・トドゥル」の教えを説く。

教えを説くのは「最後」が一番有効
 チベット仏教では、科学・医学の発達した現代社会とは逆の考え方をしていると感じた。私たちは「死」を恐ろしいもの、避けるべきものとして扱っているが、チベット仏教を信仰している人たちの中に死を恐れている人はいなかった。それどころか、死を待ち望んでいる人さえいた。彼らにとっての「死」は、身近なモノの一つであり、「来世」への通過点でしかないからである。日常生活から「死」が隔離されている現代社会では、私たちがそれについて考える機会はあまり多くない。身近な人が死んだときに、初めて「人は必ず死ぬ」という現実を突きつけられるのである。それほどまでに、私たちは「死」になじみがない。そもそも、日本人には特定の宗教を信仰している人が少ないため、よその国よりも死後のことに興味をもつ機会が少ないのではないか。
 このDVDを視て、私たちも彼らのようにもっと「死」と向き合うべきだと思った。生きとし生けるものはいつか必ず死んでしまうのだから、「これは他国のことだ。私には関係ない」と、「死」から目をそらしていてはいけない。そのためにも、ダイイング・プロジェクトを広めるべきである。
 宗教に関心の薄い日本人に対して教えを説き、チベット仏教に引き入れるのは難しい。たいていの人が「そういう考え方もあるのだな」と思うだけである。そこから何かを感じたとしても、「死」から隔離された社会の中にいては、ほとんどの人がすぐに忘れてしまうだろう。そこでこのダイイング・プロジェクトである。布教活動をするのではなく、自分と向き合う過程の中で「死者の書」の教えを感じてもらう。これならば、布教活動のように警戒されることなく、すんなりと受け入れてもらえるはずである。「死」から隔離された社会で生きる私たちにとって、常に「死」と向き合うことは容易ではない。だから、教えを説くのは「最後」が一番有効であり、それだけで十分なのではないか。最後に残された短い時間だけでも「死」と向き合い、「死」に備えていれば、彼らのように死を恐れず待ち望めるようになるのではないか。死を恐れるのではなく、「もうやり残した事は何もないから、早く死にたい」と言えるようになれたなら、どれだけ幸せな気持ちでこの世を去れるだろうか。
 「死者の書」の教えからしてみれば、「延命」など何の意味もないように思える。わざわざ古い服を着続けているようなものだから。しかし、私は医学で寿命を引き延ばすことが悪いとは思わない。失い、悲しむことになるのは必ず「残された方」なのだから、死んでいく人の家族や友人の気持ちを考えたら、延命もある意味「救い」と呼べるのである。(環境学部1年SE)



続きを読む

浜湯山センチメント

 紅葉の摩尼山トレック終了後、関係者に御礼のメールを送信した。ご返信いただいたメールのなかに心を揺さぶられるものがあったので、ここに転載させていただきます。*( )グレー部分は私の補足です。

- -
 先日はお世話になり、ありがとうございました。
 昔の友人も、偶然参加していました。

 私は、福部町湯山に実家があり、作業中にラッキョウ畑
から眺める摩尼山方向に、以前亡父から聞いた奥の院を
都度、想い浮かべておりました。
 父の「摩尼山には子供の頃に、メジロを獲りに行っていた。
奥の院には大きな岩があってすごいところだ。」との言に
(聞いていた遺跡を)目の当たりにして、
「まさにすごいところだ。」と感じました。

 昨日(11日)はラッキョウ畑より、立岩方向を望みながら
これから冬になり、石(積み供養)塔の上に雪が静かに積もるんだなと
センチメンタルになりながら、防除(消毒)作業をしておりました。

 ありがとうございました。


1110石塔001



続きを読む

ペルセポリスの夜(2)

1111撫子007 1111撫子002


祝鹿島ACL優勝!

 われらが11月11日の午前0時、10万人のサポーターで溢れかえるアザディ・スタジアムでキックオフの笛がなった。鹿島での試合とは異なり、ロングボールの往来する原始的な展開で試合は進んでいった。ハリルの大好きな縦に早いサッカーだが、裏を返せば、イングランド流のキック&ラッシュが少しだけ現代的になったものであって、ドイツの組織、オランダーのトータル・フットボール、バルサのチキタカに親しんでいる我々には前近代的としかいいようのない蹴球スタイルである(イタリアのカテナチオにはもう少し守備とカウンターの美学がある)。


1111撫子001


 日本はこういうロビングゲームを得意としない。しかし、今回の鹿島の守備には、二人の韓国代表経験選手がいる。ベルギーに移籍した植田の穴を埋めるCBチョン・スンヒョンと全北現代で二度のACL制覇の経験があるGKクォン・スンテである。韓国選手はこういうゲームに強い。とりわけ、クォン・スンテは日本のGKにはない抜群の安定感があり、ちょっとやそっとのことでは点をとられる気がしなかった。このレベルのGKが日本にいたであろうか。全盛期の楢崎がやや近い気もするが、ロシアW杯のGKがもしクォン・スンテであったなら、日本代表は冗談ではなく、ベスト4まで勝ちあがっていた可能性が高いと思われる。結局試合は0-0で終わり、MVPには鈴木優磨が選ばれたが、わたしが選考委員だとしたら、クォン・スンテに1票投じたであろう。
 鹿島を常勝軍団に導いたジーコは、日本代表監督で失敗し、世界各地を遍歴したが、やはり鹿島が似合う。セルジーニョという得点源を鹿島にもたらしてくれたことをおおいに感謝したい。しかし、韓国の2選手が特別な働きをしたことも忘れてはいけないだろう。


なでしこimg024 1111撫子003


バードスタジアム-撫子対ノールウェイ
 
 その日の午後2時からバードスタジアムで、なでしこJAPANとノールウェイ代表の試合があった。自家用車での来場は禁止されており、わたしは徒歩でスタジアムをめざした。下宿のある大覚寺から蔵田神社の向こうにあるスタジアムまで40分ばかり。前日の摩尼山一周に続いて、父の命日でもまたよく歩いた。
 蹴球酒場で、ホームスタンド側のカテゴリー2のチケットを購入していた。カメラの逆光を避けるため南側に陣取ったら、ノールウェイ・ベンチの裏側だったので、練習からポニーテールの金髪女子たちに親近感を覚えた。ともかく背が高い。170~180cmの選手がごろごろいる。日本最大の弱点である「高さ」をもつチームであり、良い練習相手だと思った。


1111撫子101


続きを読む

ペルセポリスの夜(1)

1110茶屋001


よみがえれ、源平茶屋

 摩尼山「賽の河原」トレックから下山して、ひとり会計を済ませ、3年ぶりに門脇茶屋の喫茶店で珈琲を飲んだ。話題は源平茶屋に及ぶ。源平茶屋が店を畳んでしまったこと、おばちゃんもおじちゃんも残念がっている。参拝者の数は決して衰えていないというし、翌日、門前を再訪した際にはちょうど昼時で人出が多く、紅葉にも恵まれ、門脇茶屋は賑わっていた。若いカップルが「満席だ」と断られているのをみて、正直、驚いた次第である。
 こうした参拝客数の維持もしくは増加が、「日本最大の登録記念物」になったことと関係あるのかどうか分からないが、山寺や茶屋が観光資源として決して見過ごせない潜在力をもっていることを軽くみてはいけないと思う。おばちゃんは言うのだ。「源平茶屋には店をもういちどあけてもらいたい」と。おじちゃんも言う。「やっぱり二軒が門前で競争しとるようじゃないといけん」と。せっかく登録記念物になって勢いを取り戻そうとしているときに、一方の茶屋が店を畳むなんてイメージに悪影響を与えかねない。


1110茶屋003 1110茶屋004sam


 行政が動かなければいけない、と思う。後継者がいないとすれば、企業誘致と同じで、全国的に公募をかけ、後継者を誘致する必要があるのではないか。公募すれば必ず人は集まる。集まった人に対して、できれば審査会のような組織を設けて、新しい経営者がどのようなビジョンをもって古い茶屋を再生させるのか、そのビジョンを示してもらい、最もふさわしい方を経営者にするか、あるいは経営陣のリーダーになってもらえばよいのではないかな。
 ともかく、このまま捨て置けない問題である。わたしはいま記念物の整備について少々落胆しているところがあり、あとは行政に任せようと思っているのだが、むしろ源平茶屋の再生こそが生命線になりつつあるように思えてしかたない。


1110ダウラ001


ハロウィーンと赤鬼

 喫茶店を離れ、そのままダウラに移動した、もちろん一人で。キームンとタルトタタンを注文した。窓際の席で、ずっとトレックの写真を整理し続けた。地蔵尊の仮装をあそこまで凝るなら、赤鬼の衣装も高木ブーの雷さんぐらいまでもっていくべきでしたね。鬼の仮面は3枚がイオンの節分豆まきのおまけで、1枚のみアマゾンでなまはげの面を取り寄せたのだが、子どもたちは全然怖がらなかった。むしろ、1名の中学生女子が地蔵を気味悪がりましてね。なんどか説得したのですが、ついに地蔵との記念写真に応じませんでした。その母親も「夢にでてきそう」と嘆いてましたから、遺伝なのでしょうか。日本の伝統社会においては、獅子舞の獅子やナマハゲが怖くて泣く子供は幸運に恵まれて成長するとよく言ったものですが、その中学生に地蔵を近づけようとすると、父親のほうが「怖がってますから(やめてください)」という。少し複雑な気持ちになりました。
 考えてみれば、ハロウィーンが大流行する時代ですからね。ハロウィーン当日にはできないかもしれないけれど、来年は「紅葉の摩尼山ハロウィーン・トレック-賽の河原で地蔵祭り」のようなイベントを開催すればブレイクするかもしれません。じつはネタも尽きたし、今年で摩尼山イベントも主催者としては最後にしようか、と考えていたのですが、本心を打ち明けますと、今年のイベントがこれまでで一番良かった。さしてお金をかけたわけでもないのに、参加者はみんなとても喜んでくれたと思っています。こういうイベントは続けたほうがよいのではないかと思う次第です。


1110賽の河原04web 1110賽の河原01

【連載情報】
大学HP
紅葉の摩尼山トレック-「賽の河原」石積み塔づくりレポート
http://www.kankyo-u.ac.jp/tuesreport/2018nendo/20181212/
LABLOG
ヒマラヤの魔女(8)~(10)
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-1947.html
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-1954.html
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-1960.html
浜湯山センチメント
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-1944.html
ペルセポリスの夜(1)
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-1942.html



続きを読む

能海寛生誕150周年記念国際シンポジウム(予報4)

ばかなーる from Mad AMANO


バカナオールの朝

 トレック前夜の9日、倉吉の瘋狂聖からバカナオールなる妙薬が送られてきました。それを頭にひとつけ、ふたつけしたボクは自分でセットした朝八時の目覚ましを無視して布団にくるまり続け、気がつけば9時15分。学生たちには、9時45分までに門前の茶屋集合と命令していたのに、これは大変だと大急ぎで車に乗り込んだものの、まもなく愛用の登山靴を玄関に置き忘れたことに気づきました。取り急ぎ路肩に車を停めて荷台を確認すると、ブータン~雲南で履いたトレック・シューズがあったので難を免れたのですが、45分ぎりぎりにすべりこんで確認すると、おやつの詰まったリュックまで家に置き忘れている。おまけに、ザキオは広間で配布予定の新刊パンフを路上で配っているし、広間にあがって資料を配ろうとすると、あれだけ苦労して作った「西院(さい)の河原和賛」口語訳資料を八木部長は演習室に置いてきてしまっているし・・・ぜんぜんバカナオラナイではないの!
 というわけで、10日(土)のスタートははらほろひれはれしておりましたが、天気は快晴、紅葉真っ盛りの摩尼山トレックを48人で堪能しました。鷲ヶ峰の「賽の河原」は仮面舞踏会の様相を呈し、笑いの絶えぬ愉快なイベントになりましたが、詳報は数日お待ちください。学生レポートのなかから優秀作品を掲載しますので。
 いちばん最後に驚いたのは出雲のエース、M神官夫妻が門前にあらわれたことです。松江からのご来場で出発時間にはまにあわず、我々の後を追ったのだそうです。3年ぶりの再会でした。感激!!

 さて、頭を切り替えて、12月1日(土)の【明治150年】能海寛生誕150周年記念国際シンポジウムの準備に本気で取り組まなければなりません。すでに県教委文化財課と大学のHPに広報が掲載されました。

・県教委文化財課
https://www.pref.tottori.lg.jp/dd.aspx?menuid=280776
・環境大学
http://www.kankyo-u.ac.jp/news/2018nendo/20181106/
・LABLOG先行記事
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-1894.html
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-1912.html

 そういえば、シンポに先んじて20日(火)には「たくみ21例会」もあります。
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-1924.html

 ついでに以下もみて笑ってください。さて、鹿島対ペルセポリスをみるべ。
https://www.youtube.com/watch?v=S_u0hZ0ydfg


(最終)mani_ sainokawara_FINAL_確認用4_02web (最終)mani_ sainokawara_FINAL_確認用4_01doc

ヒマラヤの魔女(5)

fig02TASHIDELEK「Stupa」_05


ブータンの宝塔(2)

 文殊のルーツたるタントラでは、自らの手でストゥーパを建設することで体に執着する五つの深い罪(五逆罪)を浄化するであろうと述べられています。五逆罪は、人の親や羅漢を殺す破壊者であり、教団を分断し、菩薩に危害を加えるようなことを引き起こします。『秘宝篋経』において、釈尊は金剛菩薩に語りました。釈迦の説法を書き残し、それをストゥーパ内に納めることで、あらゆるタサガサ(ブッダの精神)の本質を具現化することができるであろう、と。『法華経』には、ストゥーパの前でひれ伏し祈る者なら誰でも最高位の悟りを得るだけのご利益があるだろう、と(書いてあります)。
 『プラセーナジット王の求め』という経典には、ストゥーパを漆喰で白く塗る者は長寿と富を楽しみ、心身の病いから解放されるであろうとしています。ストゥーパの前で鐘を鳴らせば、その人は権威や名声と語り合い、喜びの声を授かり、前世を思い出すことができるでしょう。さらに、ストゥーパの前で信心深く静かに祈りを暗唱する者は、賞賛に値して幸運な者の中で最優位の存在になるでしょう。
 歌を奉納する者はだれでも勇気があって雄弁であり、純粋な心のある知識と名声が生まれるでしょう。絹の王冠でストゥーパを飾りつけるなら、大いなる至福と完璧な智恵の理解がもたらされるでしょう。ストゥーパを清掃したものは、輪廻の欠陥を免れ、見事な肉体をもって生まれ変わるでしょう。


ボダナート・ストゥーパ ボダナート・ストゥーパ(ネパール)


事 例
 7~70mの長さに及ぶマニ・ダンリム(壁のように長い宝塔)は、(宝物探しで有名な)タートン・ぺマリンパ(1450-1521)とドゥク派第4代座主デシ・テンジン・ラブゲ(1638-96)の時代にブータンで初めて建設されました。規則正しい方向と高さの壁の中に石を乱積みにして、ガンダーラ様式で造られたのです。その表面は装飾され、石と石の隙間は削られた石片で埋められています。ケマールと呼ばれる赤いひもをストゥーパの腰のくびれに巻きつけるのですが、それには神聖なフレーズ「オン・マニ・ペメ・フン(六字大明呪)」がプリントされます。摂政ミギュル・テンパ(1613-80)はチョルテン・ダンリンマ、チョルテン・カンニマ、リスム・ゴンポイ・チョルテン(文殊・聖観音・執金剛の三位一体菩薩の宝塔)など多くの種類のストゥーパを、山径・道路・四つ辻に沿って建設しました。
 聖人や歴史的な(高僧の)偶像を記念し建てられたストゥーパもあります。18世紀に高僧ガワン・ロドロによってによって築かれた、タシ・ヤンツェのチョルテン・コラはネパールの有名なボダナート・ストゥーパ(↑)をモデルにして造られました。伝説によれば、インドのアルチャル・プラデシュから嫁いできた信心深いダキニ王女が、すべての感覚ある生き物の幸福を願って瞑想するために自らを墓(ストゥーパの地下)に入れたということです。
 三つの尾根がぶつかりあう、不吉な占いの出た地点にストゥーパは建てられました。高僧ゲスプ・ツェリン・ワンチュクはガラ地方の恐ろしい魔女を鎮めるためにトンサにチェンデブジ・ストゥーパを造営しました。そのストゥーパはベンジ・チョルジによって寄進された遺品とガンテ・トゥルク・テンジン・レクパイ・ドゥンドゥップ2世の頭蓋骨が祭られています。首都ティンプーのメモリアル・チョルテンは街のランドマークであり、第3代国王ジグミ・ドルジ・ワンチュク(1928-72)を讃えて1974年に建設されました。
 いくつかの2008年ストゥーパは、2015-16年から我らが第4代国王ジグミ・シンゲ・ワンチュク陛下の還暦を祝うために国中で改修されました。 【完】


続きを読む

ヒマラヤの魔女(4)

図06フライングファルス_04  ボーイング社B-52(右)B-52米軍がベトナム戦争で使った爆撃機


続・空飛ぶファルス

 私たちが朝食を終えようとしているとき、村の芸術家、カルマは、カラフルで飛行機の形に似た何かを携えてキャンプ場にやってきた。より近づいて観察すると、カルマは私の前腕と同じぐらい長くてピンク色に塗られたファルスを彫っていたことが分かった。ファルスづくりの最終工程として、色あせた黄色の布切れをファルスに付け足した。その布はおそらく国中どこでもみられる祈りの経典旗へのオマージュ(敬意)なんだろうけれども、悪魔に対抗する射精を表現しているようにも思われた。彼はまた木製の剣をつくり、ファルスと直交するように釘で打ちつけた。その姿は、手作りで未完成のB-52爆撃機(↑右)のような風貌にまあまあ似ていた。私たちの友人にしてトレック・ガイドのタシ・ナムゲは説明した。ファルスは魔除けであり、木製の剣は無知を切り裂き、知恵に向かう第一歩となるものだと。


図07フライングファルス_04


 わたしのフランス人の妻は男性メンバーに対して、フランスの俗語をつかい、そのファルスを「フライング・ジジ(空飛ぶちんちん)」と名づけてみせた。わたしたちは水田の真ん中に境内を構える素朴な寺院に「空飛ぶちんちん」をもって行った。本堂の管理人を兼任している平信者のドルジを急いでさがした。そのファルスを供養するように頼んだとき彼は尻込みせず受け入れてくれた。
 わたしは訊ねる。
  「このファルスはどんな魔物にでも太刀打ちできるの?」
  「本当はね、すごく強い魔物にはもっと強力な何かが必要なんだ」
とタシは答えた。私たちの愚問に対して動揺することのない忍耐を示し、センスの良い皮肉を仄めかすことで気持ちを制御している。
  「たぶんもっと大きなファルスでしょ?」
  「いや、全然ちがうよ。僧侶の裸踊りさ」
 わたしたちの困惑した顔をみて、タシは説明した。「最寄りの車道から一日歩いてやっとたどり着く、この小さな村は重要なファルス現象の震央なんだ」と。
 複雑な伝説を単純化するために、ナブジ村の檀家たちは1棟の寺院を建設しようとしていた。かれらは毎日炎天下のもと働いたが、労働者が眠りにつく夜になると、いつでもいたずら好きな邪教の魔物が聖なる建物を壊してしまった。ついには、ドルジ・リンパという僧侶が悪魔をけ散らすために、夜間に裸のダンスを踊るようになった。その戦略は成功した。やがて暑い日中の労働と寒い夜中のダンスの結果として寺院は完成したのである。


図08フライングファルス_05


 2010年5月、タイに帰国するやいなや、バンコク市民は赤シャツ派(タクシン首相派)と黄シャツ派(反タクシン派)の間で緊張が高まっていた。軍の介入は確実だと思われた。1キロ離れたところで武装した兵士が集まり、和解しがたいデモ参加者との対決に備えつつあった。
 私たちは「空飛ぶちんちん」の梱包を慎重にとき、それをタイ式庭園の空中に吊るした。
  「これはバンコクで機能するだろうか?」
 このお守りを買うとき私はカルマに訊ねていた。その種の質問はカルマにとって漠たるものでしかない。村の少年はブータンの首都ティンブーすら一度も訪れたたことがなかったのだから。彼は肩をすくめてみせた。それは「問題ない」という返事のように思われた。
 そして、彼は正しかった。バンコクの中心街が軍事介入による衝突で燃え盛るなか、小さなソイ(小路)での生活は比較的平穏が続いた。我が家の前でラーメン屋を営む男は店を開けたままだったし、焼鳥屋の女将(おかみ)、野菜の売り子、三輪タクシー(トゥクトゥク)の運転手も同じように開業していた。猫は平穏に居眠りしていた。剣が無知を切りさいて智恵を得たかは分からないが、少なくともファルスを恐れた悪魔がどこかに逃げてしまったと十分確信している。 【完】



続きを読む

奇跡の雪山-ブータンとチベットの七年間(3)

5 梅里雪山 ―2018年9月

 関空水没  そんなブータン調査から帰国したのが九月二日。一週間後の九日には、中国雲南省に飛び立つことになっていました。2015年に青海省(アムド)、2017年には青海経由でチベットのラサとツェタンを訪問していたのですが、今回は西北雲南の旧チベット領カム地方をめざしていたのです。カム地方はブータン国教ドゥク派の開祖パジョの出身地であるとともに、四年女子あやかめさんの卒論とも深く関わる地域です。あやかめさんは、能海寛(ゆたか)というチベット仏教求法僧に関わる研究に取り組んでいました。明治中期、能海は鎖国中のチベット一番乗りをめざして中国に渡ったのですが、明治34年(1901)、雲南省大理で消息を絶ちます。最後の手紙には、西北に進むと書いてあるので、大理から麗江を経由して金沙江を渡り、旧チベット領の中甸(ギャルタン)~徳欽(ジョル)あたりで横死した可能性が指摘されており、今回の調査はその道程を追跡するものでもあったのです。
 帰国の二日後、台風21号の猛威により関西国際空港が水没してしまいます。急ぎ手を打ち、旅行社に電話して岡山か広島からの出発に切り替えるよう頼んだのですが、事態は予想以上に深刻でした。わたしたちにあてがわれた代替チケットは「十二日の新潟空港発」だったのです。大袈裟ではなく、気が遠くなりそうでした。学生二名には苦労をかけました。鳥取から夜行バスで東京に移動し、北陸新幹線で新潟まで北上、そこから飛行機に乗って上海で入国。国内線に乗り換えて雲南省都の昆明に着いたのは十二日の深夜のことでした。
 神の山―梅里雪山  昆明入りの翌日、能海が付人に手紙を託した大理に一泊し、そのまた翌日には金沙江を越えて中甸に至りました。海抜3,150m。案内役を務めた何大勇教授(雲南民族大学)は能海がこの地まで来た可能性は低いと思っています。明治期には金沙江の畔に関所があり、日本人が突破できたはずはないと言うのです。翌日、つづら折の山道をさらに北行し、海抜4,000mの峠(白馬雪山1号トンネル)を越えて、夕方、徳欽の市街地に到着しました。宿泊地には六キロ郊外にある飛来寺の町(海抜3,300m)の高層ホテルを確保しました。梅里雪山を遥拝するに条件のよい場所に陣取る必要があったからです。
 1991年の正月、日中合同の学術登山隊17名が梅里雪山の初登頂をめざしていました。登山は順調に進んでいたのですが、一月三日から突然の降雪があり、翌四日、主峰カワクボ(6,740m)に近い第3キャンプ地で雪崩の直撃を受け、登山隊は全滅しました。中国登山史上最悪の遭難とされています。山麓のチベット族は「神の山」への冒涜だとして登山に強く抵抗しており、聖山を汚す者は死に至ると予言しており、結果はそのとおりになったのです。
 不機嫌な雪山  9月16日(日)。運命の一日を迎えました。ロビーの案内板に書かれた「日出 AM 6:57」にあわせて全員が屋上にあがり、日の出を待ちながらカメラを構えていました。七時前になって、山と反対の方角が赤らんできたのですが、肝心の雪山は雲に巻かれたまま山容を露わにしません。いつも雲に隠れて姿をみせない聖山に落胆しながらも、それは想定内の出来事でもありました。ここに至るまでの車中で、旧友の運転手ラオルオは「運がよければ雪山がみえる」と繰り返していたからです。雲南省の知事は三度訪れて一度もみていないし、北京在住の友人は四度挑戦したが、ついに遥拝が叶わなかった。況や、我々をや・・・
 朝食を済ませ、約50km離れた阿東というチベット族の農村をめざします。昼前に到着し、まずは村政府(役場)にむかうのですが、あやかめさんの姿がみえません。動物好きの彼女は、牛の群れの撮影に熱中していたのです。牛追いに追われて町並みを走りすぎる牛たちは純粋なヤクではなく、ヤクとカウの混血種と思われます。カウベルの音がやわらかで微笑ましい。
 役場で挨拶した後、少し上手の崖に建つプソナヨン寺を訪問しました。マニ車を手にもつ老女三名が僧院をなんども周回しています。輪廻のための供養なのかもしれません。役場でも僧院でもあやかめさんは大人気です。いつもニコニコ笑顔を絶やさず、だれとでも気軽に記念撮影してくれるから(写真8)。ポラロイドでスナップを撮影し差し上げるとチベット族のみなさんはとても喜びます。漢族とチベット族の緊張緩和を彼女が担ってくれているようでした。


sam写真6(44頁)阿東プソナヨン寺での記念撮影(2018年9月) 写真8 阿東プソナヨン寺での記念撮影(2018年9月)


 トラック・バック  村の小さな食堂で辛い方便麺(カップラーメン)をたいらげ、午後の民家調査に向かうため車に乗ります。わたしと学生二名を乗せた1号車は後続の2号車を待つため、集落内道路の下り坂に車を停めていました。正面に大きなトラックが停車しています。荷台には高さ三メートル以上もトウモロコシの茎束が積載されており、荷物の上に五人の農民が坐り込んでいます。その山積みトラックが突然、バックを始めたのです。背後に2号車が控える1号車は袋の鼠。運転するラオルオは、クラクションを何度も強く押しました。しかし効果はまったくなく、トラックは後進をやめるどころか加速する一方であり、助手席のわたしは叫び声をあげながら両手で頭を抱えました。トラックのバンパーが乗用車のボンネットを破壊したところでもう駄目かと覚悟したのですが、荷台満載のトウモロコシ束がクッションとなり、フロントガラスは割れませんでした。九死に一生を得るとはこのことです。
 運転手のラオルオはただちに110番に通報しました。同時に、村の農民が続々と現場に集まってきます。多勢に無勢。ここは我々のホームではない。完全アウェイの状況です。わたしは事故直後から帰国のことを考え始めていました。四人の日本人はどのようにして帰国すればいいのか。ともかく日本人だけでも早めに飛来寺のホテルに戻って対策を考えようということになりました。


続きを読む

奇跡の雪山-ブータンとチベットの七年間(2)

3 ダカルポ僧院のミルクティ ―2013年9月
 
 学生とともに初調査  こうしてブータンに魅了されたわたしは、翌13年に十名の学生と二名の教員を引きつれてブータンを再訪しました。これが実質上、ブータン調査の始まりです。プナカ、パロ、ティンプーのの僧院/崖寺で測量や写真撮影などに取り組んだのです。学生のリーダー格は大学院修士課程の白帯くんと四年次のケント君であり、わたしはかれらとともに調査地に先行して乗り込んでいました。ブータンの僧院では、仏堂内部の撮影や実測が原則として許可されていません。そのため、調査の重心は建物の外回りになります。山の崖に建ち並ぶ本堂(ラカン)、瞑想場(ドラフ/ツァムカン)、僧坊長屋(ジムカン)などの施設配置を周囲の山水や境内の植栽とともにすばやくスケッチし、レーザー距離計・方位計で基準点(BM)からの距離と方位を読み取り、図面の余白に書き込んでいきます。白帯くんとケントくんはこうした図面作業に長けていました(写真3)。


sam写真3(38頁)ゾンドラカ寺での測量風景(2013年9月) 写真3 ゾンドラカ寺での測量風景(2013年9月)


 輪廻転生の教え  パロの山嶺中腹(海抜二五〇〇メートル前後)にダカルポ僧院群と呼ばれる一連の崖寺が点在しています。国教ドゥク派の開祖、パジョ・ドゥゴム・シクポが十三世紀に開山したと伝える修行場ですが、本堂が築かれたのは国家形成の十七世紀以降と思われます。2013年はシャバ村の真上にあるダカルポ―ゴムドラ寺を調査しました。ごく普通の鄙びた山寺です。この日は二山めの訪問であり、一時間の山登りにふらふらになってしまったのですが、魔法瓶に入った暖かいミルクティーで全員がもてなしを受けました。脂っこくて塩辛いバター茶ではなく、ほんのりとした甘みのある薄味の紅茶に体が癒されます。
 驚いたことに、一人の尼僧がツァムカンと呼ばれる施設で瞑想中であり、できるだけ静かに行動することを指示されました。コロツェマと呼ばれる別の施設もあります。チベット仏教では死者の書「バルド・ドドゥル」がよく知られています。死にゆく人に対して輪廻転生の方法を諭す経典であり、これにより信者は死を怖れることなく往生していくのです。ブータンでも輪廻転生の考えは息づいています。浮世をリタイアした老人たちは、山寺のコロツェマに籠もって読経三昧の生活を送ります。そうして徳を積み、再び人間に生まれ変わると信じているのです。
 ゴムドラ寺の子どもたち  住職は四十過ぎの穏やかな方でした。不思議なことに、お子さんが二人いる。妻帯を認めないブータン仏教で僧侶に子どもがいるのは異例のことです。事情を訊ねてみると、その二人は住職の姉の子であることが分かりました。姉一家は大変な過疎地に住んでいて、子どもを小学校に通わせられない。だから預かって、山下の小学校に通学させているですが、寺から学校まで片道一時間半以上かかるといいます。目の前にいる二人の子どもは毎日往復三~四時間かけて寺と学校を往復しているのです。そして、崖に建つ山寺には水道がないことに気づきました。大勢の日本人客にふるまわれた紅茶の水は住職や子どもたちが山下の湧水地から運んできたものだったのです。なんだか、ものすごく恥ずかしい気持ちになりました。
 帰国を翌日に控えた日の午後、わたしたちはこの寺を再訪しました。大瓶のペットボトルを男子は二本、女子は一本抱えて山を登り、お菓子とともに仏壇に寄進したのです。寺には二人の子どもの友だちが続々と集まってきます。寄進と補足調査を終えて山を下りるとき、集まった子どもたちはみな道路の近くまで見送ってくれました。忘れがたい想い出です(写真4)。
 さて、初めてのブータン調査は楽しいものでしたが、参加者数の多さには反省するところもありました。フィールドワークにはその中身にふさわしい調査者の数を設定すべきであり、この年の調査は数名で十分だったのです。人数が多いと、交通手段も面倒になります。大型のバスでは山道を走り難いし、小型の車だと何台か用意する必要があり、経費が増してしまいます。さらに男女混合で大人数の場合、ときに「恋愛問題」が発生し、他の参加者を混乱させることにもなりかねません。その後の調査はわたし以外の参加者を3名以内に限定し、一台のヴァンで移動できるようにしました。


sam写真4(39頁) さよならゴムドラ寺(2013年9月) 写真4 さよならゴムドラ寺(2013年9月)



続きを読む

奇跡の雪山-ブータンとチベットの七年間(1)

1 投入堂からブータンへ

 三徳山三仏寺投入堂  鳥取県中部の三朝町に三仏寺投入堂という建造物があります。凝灰岩層と玄武岩層が積み重なる絶壁の境界に深い岩陰があり、そこに小さな木造の仏堂が組み上げられていて、得も言われぬ緊張感と神秘性を醸し出しており、多くの参拝者を集めています(写真1)。投入堂は平安時代後期(西暦1100年頃)まで遡る年代の古さに加えて、アクロバティックな立地の特異性が評価され、県内唯一の国宝建造物に指定されています。鳥取県は2006~07年に投入堂を中心とする史跡名勝「三徳山」の世界文化遺産暫定リスト入りをめざして活動しましたが、結果はあえなく落選。その理由は「顕著な普遍的価値の証明ができていない」というものでした。日本国内はさておき、世界的にみた場合の抜きん出た文化財価値を証明せよ、というわけです。とてもいじわるな政府からの要求ではありましたが、他の関係者に比べればはるかに多くの海外フィールドワークをこなしてきたわたしは、この課題に応えるべく、投入堂を「日本の石窟寺院」と定義しつつ中国、中央アジア、西インドなどに類例を探し求め、気がつけばブータン高地に行き着いて、今に至ります。


sam写真1(34頁)三仏寺投入堂記念写真(2008年11月) 写真1 三仏寺投入堂記念写真(2008年11月)

 自然と溶け合う仏国土  ブータンはチベット仏教ドゥク派を国教とするヒマラヤ山脈南麓の小王国です。国民総幸福量(GNH)の高い「幸せの国」としてのイメージが強いでしょう。たしかに経済力は低いですが、国民の民度は日本以上に高いと感心させられることがままあります。それは国民のほぼすべてが敬虔(けいけん)な仏教徒であることと決して無関係ではないでしょう。そこはまさに「仏国土」と呼ぶべき聖地ですが、金色(こんじき)の煌びやかな伽藍にまぶしさを覚えることはありません。僧院の多くは渓水に面した山の斜面に穏やかなたたずまいをみせています。とくに岩崖に修行場を設ける崖寺(ドラク・ゴンパ)が多く、境内のなかで最も重要な施設はドラフと呼ばれる瞑想洞穴です。
 さて、瞑想とは何でしょうか。仏像の姿を思い起こしてください。胡坐(あぐら)のような坐り方をして目を半開き(半眼)にし、手のひらと指で印を組み、内面の平穏をあらわそうとしています。あれこそ高僧が瞑想する姿を写し取ったものです。瞑想は今でも東南アジアやチベット・ブータンの仏教の根幹をなす修行です。ブータンの場合、若い学僧は三年三月三日に及ぶ瞑想修行を洞穴の中で成し遂げることで一人前の僧侶とみなされます。修行の場となるドラフには洞穴をふさぐ木造の掛屋(かけや)を築くのですが、岩陰・岩窟と掛屋の複合する姿だけみると、三仏寺投入堂とよく似ています。しかし、その利用法は異なっています。ブータンのドラフはあくまで人が修行する場であるのに対して、日本の岩窟・岩陰仏堂は仏像をまつる祀堂です。石窟寺院の用語を借りるならば、前者は僧坊窟(あるいは瞑想窟)、後者は礼拝窟であり、礼拝窟は僧坊窟から展開したものとみられますので、ブータンの方が圧倒的に古式を残していると言えるでしょう。



続きを読む

ヒマラヤの魔女(3)

サンチ サーンチ・ストゥーパ群


ブータンの宝塔〈1〉

 今年(2018)のブータン調査で驚いたのは、パロ空港から土産物店が一掃されていたことである。数軒の店舗が民芸品などの販売を競いあっていたのが嘘のように鎮まり返っていて、ただ一軒だけが蕎麦粉のパックを棚に並べているだけだった。空港内で何か良くないことがあって、政府の介入があったとしか思えない。空港では、外国人むけの図鑑や絵本をみるのを楽しみにしていたので、とても残念な気持ちになった。
 ブータン王立航空(ドゥク・エアー)の機内誌『タシデレク』を今年も持ち帰った。ブータンの文化に係わる4ページ程度のエッセイが数本掲載されており、そのうち1~2本は教材として使えるだろうと気楽に考えた。その後、P2&P4「ヒマラヤの魔女」のテキストをゼミ生とともに話し合ったのだが、そういえば、ストゥーパ(宝塔)に関する作品が含まれていたので、あれがいいということになって、あっさり決まったのだが、読んでみると、なかなかの難物であった。英語以前に仏教の基礎用語を学ぶ必要がある、とは思う。しかし、仏教用語を使えば使うほど、苦労して訳した日本語テキストの意味は理解しにくくなっていく。だから、あえて漢字塗れの難読仏教用語を使う必要はないのかもしれない。書籍情報は以下のとおり。


fig00TASHIDELEK「Stupa」_0102


   Kezang Namgay
   “Stupa: anchoring the mind to the truth ”
   TASHIDELEK July-August, 2018:pp.60-63, Drukair


     ストゥーパ: 真実にむかう心のよりどころ
                              
                   ケザン・ナムゲ

 歴史的に初めて悟りを開いたブッダ、すなわち釈尊に信者がたずねました。「どうしたら、あなたがお亡くなりになった後、あなたを忘れないでいられるのでしょうか」と。釈迦は黙したまま上着(シャムサ)を脱いで四角に折りたたみ、地面の上に置きました。それから、自分の托鉢(ルンザ)をひっくり返して衣の上に置き、鉢の中軸線上に茎の棒を垂直に立ち上げたのです。心の師へ捧げるマンダラ修行において、ブッタの精神(タサガタ)を表現するためにストゥーパ(宝塔)のミニチュアを奉納するのです。
 ストゥーパ(宝塔)は五大要素からなる仏教精神の立体的な宇宙観、すなわちマンダラを三次元的に表現するものです。その五大要素は人体と相互依存の関係にあり、物体が融合するにあたって、互いに溶けあっていきます。その四角い基礎は硬い「地」(大地)を表しています。水の雫(しずく)のようにみえる球体は「水」を象徴しています。三角形は「火」を表しています。三日月は反転したアーチ形の「天」を象徴しています。先細になる円は「宇宙」を表現しています。


fig01TASHIDELEK「Stupa」_03


 釈尊の涅槃(入滅)の後、彼の遺体はブッダ(如来)の記憶を共有するため、8基のストゥーパ、すなわちチョルテン・デゲに分配し奉納されました。(訳注:これを「八分起塔」と言い、以下はその説明。その形状については最下段の図をクリック)

1)蓮華の宝塔
 積み重なった蓮の形をしており、吉兆を示し奇跡的な釈迦の誕生を象徴しています。誕生後、釈尊は蓮華の咲いた四つの方位の内側で七歩あるきました。その四方位は、四つの限りない愛、すなわち、優しさ、哀れみ、喜び、平静を象徴しています。

2)悟りの宝塔
 この悟りのストゥーパは、ブッタガヤのマガタ国でマラ(無知・欲望・嫌悪から生じる精神的な苦悩・混乱・二面性)を克服した釈迦を祝福しています。

3)多くの門戸をもつ宝塔
 悟りを得た後、釈尊は6月4日にベナレスのサルナートの鹿野苑(ろくやおん)で初説法(初転宝輪)しました。その説法とは四諦(四つの高貴な真実*1)、六波羅蜜(六つの完全な徳*2)、八正道(八つの尊い道*3)のことです。

4)転生の宝塔
 42歳のとき、ブッダは、その場所で輪廻転生した母の優しさに報いるため、兜率天界の法輪を転じ(説法し)ました。このストゥーパに固有な特徴は各辺に3段の梯子を有するところです。

5)大いなる奇跡の宝塔
 ブッタは知的な論議と奇跡を演じることで、マラと異教徒を打ち負かしました。このストゥーパは勝利の記念碑としてリチャヴィ王国に建設されました。

6)調停の宝塔
 マガタ王国のサンガ(信者)の間で起きた論争を解決した釈尊の技と智恵を記念しています。このストゥーパには四辺に同等の八角階段を設けています。

7)完全勝利の宝塔
 釈迦は80歳のとき、涅槃に入る決意をしました。信者たちの願いによって3カ月長生きしました。

8)涅槃の宝塔
 釈尊はウッタルプラデシ州のクシナガラで80歳のとき涅槃に入られました。ストゥーパを建設し、それを周廻して、塔にひれ伏し願いをかけることのご利益は古代の説法で述べられています。釈迦はブッダ・ストゥーパ(如来宝塔)の建設には18の利点があると説いています。①王子または王女として生まれ、幸運な人物として完璧な②身体、③美貌、④鋭い知性ある包容力をもつ。⑤名声、⑥富、⑦長寿を楽しみ、⑧立派な使用人の側近を伴う⑨首長となる。⑩他者に援助を与え、⑪明晰な声は全方面で賞賛されて⑫神の祝福をうけ、⑬万能の君主による王国や、大なり小なり⑭ブッダの特徴を伴う金剛杵のような身体を獲得する。そして、高位の世界で⑮⑯⑰三度輪廻転生し、⑱すばやく涅槃に至る。【続】


fig03TASHIDELEK「Stupa」_04 八分起塔の図



続きを読む

ヒマラヤの魔女(2)

カルマ・チョデン「ファルス」表紙


空飛ぶファルス

 昨年(2017)の9月、ブータン調査の帰国日にパロ空港の土産物売店でカラフルな書籍をみつけた。表紙に写実的なファルスの木彫が大写しになっている。ブータンの民俗文化を理解する上で避けて通れない貴重な情報源であり、大変興味を抱いたのだが、ヌルの残金が少なく、購入を断念した。ところが、ブータン王立航空(ドゥク・エアー)のフライトに搭乗し、座席前のポケットに入っていた機内誌『タシデレク』のページをめくってまもなくあるエッセイに目を奪われた。

   Paul Spencer Sochaczewski
   “FLYING PHALLUS FIGHTS FORCES OF EVIL”
   TASHIDELEK September-October, 2017, Drukair

 調査隊の学生リーダーだった公爵にそのエッセイをみせたところ、卒論でブータンを主題にすることを決めていた彼も興味を抱き、二人とも機内誌を一冊ずつ日本に持ち帰った。その後、一年が経ち、三つのグループが翻訳に取り組んでいる。一人は英語好き3年生Taskの夏休みホームワーク、残りの二組は後期P2&P4「ヒマラヤの魔女」の翻訳グループだが、このたび2年生(P4)に先んじて1年生(P2)が翻訳を終えたので、ここに校閲し連載を開始する。


図01フライングファルス_02


   魔力と戦う フライング・ファルス
 男性器は"元気よく、やや傾いていて、ときに泡立ちながら" どのようにして村人を守っているのか?
                  ポール・スペンサー・ソチャチェフスキー

トンサ地区ナブジ村

 「大丈夫、新しいファルスを作ってあげるよ。」
 「でも、明日の朝には旅立つんだ。」
 「まぁ、任せておいてください。」

 バンコク自邸の厄除けの力を少し高めようと考え、私は中央ブータンに住む村の芸術家、カルマに「宙に浮く(木彫の)ファルス」を注文した。これは、アジアの世帯主が家の守りのためになす実用的で経済的なやり方のようだ。木製のファルスが、かりにタイに輸入されたとして、内陸の伝統国ブータンで効果を発揮しているように、同様の魔よけの効能を示す保証はない。しかし、それは10ドルの投資に値すると思われた。
 いろいろあるけれども、ファルスはふつう素朴で定型化しているが、しばしば華麗で写実的に表現され、ブータンの多くの家を飾っている。ブータンはすばらしい平和主義の国で国民は大いに満足しているし(つまり、これが国民総幸福量GNHなんだが)、内陸の王国はアジア諸国を悩ませているやっかいな内紛とは無縁なわけだから、これらのファルスは良い仕事をしているに違いない。


図04フライングファルス_03


 念のため言っておくけれど、(ファルスがなくとも)私はすでに十分な幸運を得ていた。
 我々の小グループはジグメ・シンゲ・ワンチュク国立公園内にあるナブシ~コープ遊歩道をトレックしていた。ほんの一握りのトレッカーだけが公園内の6つのキャンプサイトで宿泊することが許されていたので、そこはまるで私たちの私有地のように感じられた。私は川端の岩に腰かけ、銅青色のカワセミが清らかな渓流に飛び込んでいくのを見つめていた。アジアで最も魅力的で美しい自然保護区域の一つで、一人きりでね。
 しかし、こうした小さな運気に恵まれるならば、(ファルスによって)さらに多くの運気と加護がもたらされるあろう。


図05フライングファルス_04 


続きを読む

虹をみたかい

二重虹4198web 二重虹4198


 キャンパスに同心円をなす二重虹がかかりました。嘎嘎嘎さんの撮影です。
 吉兆ではないか、と思ってネットを彷徨するに、なんと地震の前触れだという情報が氾濫している。嘘だよ。地震は予知できない、と帝国大学のゲラー先生はふにゃふにゃ言ってたぞ。ナマズが暴れると地震がおこるとか、カメムシの多い年は豪雪になるとか、そういうたぐいのフェイク・サイエンスだ。
 吉兆だよ、きっと良いことがある!


【追記】 翌日(2日)16:54 エリアメールで緊急地震速報。
紀伊水道で地震発生。強い揺れに備えて下さい(気象庁)。
若葉台と紀伊水道の相関性や如何に?


続きを読む

紅葉の摩尼山トレック-「賽の河原」石積み塔づくり(8)

 今週から新聞各紙で告知が始まっているはずです。確認はしていませんが、担当記者さんを信じるしかありません。とくに期待しているのはボクシングジムのコーチも兼ねるエドガー鷹です。先週は帰宅を1日遅らせて、ヤツに酒を飲ませカラオケさせて調略しましたからね。ご利益があるだろうと信じております。じつは、私個人はリーフレット編集を東京の業者と二人三脚で進めてまして、さて11月10日に間に合うかどうか。いまB5版でいくかA4版にあげるか最終調整で悩んでいます。
 一方、ゼミでも臨戦態勢に入りました。10月末日のゼミでは、参加者名簿づくりのほか、先日翻刻した「西院(さい)の河原和讃」の口語訳にも3年生2名が挑みました。ここに校閲して掲載します。


西院の河原和讃(口語訳)
                   帝釋天王出現霊場・中国観音特別霊場 摩尼寺

これはこの世の事でなく  死出の山路の裾野にある
西院(さい)の河原の物語  聞くにつけても憐れです
二つ三つ四つ五つ  十にもならない乳飲み子が
西院の河原に集まって  父恋し母恋し
恋し恋しと泣く声は  この世の声とは様変わり
悲しさ骨身を通します
かの乳飲み子のなすことは  川原の石をとり集め
小石で回向(えこう)の塔を組み  一重組んでは父の為
二重組んでは母の為  三重組んではふるさとの
兄弟我が身と想いつつ  昼は一人で遊べども
たそがれ時のそのころは  地獄の鬼が現われて
「やれおまえらは何をする  しゃばに残る父母は
追善座禅もしないまま  明けても暮れても嘆くだけ
惨(むご)や可愛や不愍(ふびん)やと
親の嘆きはおまえらが  苦患(くげん)を受ける種となる
我を恨む事なかれ」と  はがねの棒をのばしては
積まれた塔を押し崩す
また積め積めと責めるなら  乳飲み子あまりの悲しさに
まこと優しき手を合わせ  許したまえと伏し拝む
おまえら罪なく思うのか
母の乳ぶさが出ないので  泣く泣く胸を叩くとき
八万地獄に響きます
母はひねもす(終日)疲れはて  父が抱こうとする時は
母を放れず泣く声は  天地奈落に響きます
言いつつ鬼は消え失せる

峰の嵐の音すれば  父かと思って走せ登り
谷の流れを聞く時は  母かと思って走せ下り
あたりを見れども母はなく  誰が添い乳をできようか
西や東をかけまわり  石や木の根につまづいて
手足を血潮に染めながら  幼な心はせつなくて
砂を敷きつつ石枕  泣く泣く眠る折りからに
また冷たい風吹けば  みな一同に起き上がり
ここやかしこと泣き歩く  

そのとき能化の地蔵尊  体をお揺すりなりながら
「なにを嘆くの幼な子よ  おまえたち命短くて
冥途の旅に来たんでしょう 父さん母さん しゃばにあり
しゃばから冥途はほど遠い
わたしを冥途の父母と  慕って朝晩頼りなさい」
幼い子どもを御衣(みころも)の  裳(もすそ)の中に掻き入れて
憐れみたまうぞ、ありがたや  いまだ歩けぬ幼な児を
錫杖の柄に取り付かせ  忍辱(にんにく)慈悲の御肌へと
抱き抱えて撫でさすり  大悲のお乳を与えつつ
泣く泣く眠る憐れさは  たとえようのないお涙を
袈裟や衣に浸しつつ  助けたまうぞ地蔵尊

プロフィール

魯班13世

Author:魯班13世
--
魯班(ルパン)は大工の神様や棟梁を表す中国語。魯搬とも書く。古代の日本は百済から「露盤博士」を迎えて本格的な寺院の造営に着手した。魯班=露盤です。研究室は保存修復スタジオと自称してますが、OBを含む別働隊「魯班営造学社(アトリエ・ド・ルパン)」を緩やかに組織しています。13は謎の数字、、、ぐふふ。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カレンダー
10 | 2018/11 | 12
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 -
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR