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今年も、衝撃の科学的年代測定結果

ブータン版築壁は14世紀以降!?

 今夏のブータン調査でも科学的年代測定用のサンプルを採取しました。帰国後、AMSによる年代測定を依頼していたところ、12月初旬にパレオラボより以下の速報が届きました。

パロ地区シャヴァ村建物跡ポイントB(壁中の炭化材)
 1312-1359 cal AD (信頼限界59.5%) および1387-1415 cal AD (35.9%)
  →14世紀前半~15世紀前半
 調査状況は以下のサイトを参照してください。
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-1891.html 

 この建物跡(廃墟B)は2016年に大石・吉田健がサンプル採取した建物跡(廃墟A)から数百メートル離れた位置にあります。廃墟Aの壁土から採取した炭化木片は辺材型で以下の年代結果が得られました。
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-1432.html

【試料No.3 シャヴァ村建物跡(廃墟) サンプルA】
  1420-1460 cal AD (信頼限界95.4%) →15世紀前半~中頃
【試料No.4 シャヴァ村建物跡(廃墟) サンプルB】
  1490-1603 cal AD (同75.3%)、1612-1644 cal AD (同20.1%) →15世紀末~17世紀中頃

 今回の廃墟Bの壁中に含まれる木片は廃墟Aよりおよそ1世紀古い年代を示していますが、サンプルは(おそらく)心材型なので、「14世紀前半~15世紀前半」以降という見方しかできません。したがって、廃墟Aより古い可能性もあれば、廃墟Bと同時期以降の可能性もあるということになります。常識的には、(僧院跡?が)国家形成期以前に遡る可能性がさらに高まったという見通しを得たと言えるかもしれません。



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年末ゼミ(2)

1219ゼミ写真01 卒アル写真


めだかづく師走

 一夜あけて12月19日(水)、2018年最後のゼミ活動があり、演習室等の大掃除をおこないました。ザキオ先輩は咽頭結膜炎の疑いありとのことで、診療のため医院に行きましたが、控室が大渋滞状態で欠席されました。病状が心配です。
 さて、11月半ば、演習室の窓際にメダカ20尾が仲間入りし、学生の癒しになっていました。なんとこの日、倉吉の会長さんが大きな水槽とさらに20尾ばかりのメダカを持ってきてくださいました。水槽は以前と比べて3倍ほどの大きさです。


メダカ1


 大掃除では、taskさんが先生の部屋の手伝いに行っていたので、他の3・4年女子でメダカの水槽を綺麗にしました。26日から大学は冬休みに入ります。メダカの世話が心配でしたが、家が大学に近いゼミ生(コロポックルズ)や、車を持っているゼミ生が餌やりのシフトを組んでくれたので、安心です。水草もたくさん水槽に入れました。春になって卵が生まれ孵化しないか、今から楽しみです。

 さて、メダカの水槽の引っ越しに時間を割きましたが大掃除は順調に進み、無事に新年を迎えられそうです。この日のお茶の時間には会長さんが倉吉のお店で買ってきてくださったおいしいシュークリームを頂きました。
 なお、3年生は、冬休みの宿題で、インデザインの練習の一環として「正月料理」をテーマにレポートを書くことになりました。東北・関東・関西・内モンゴルと出身がさまざまなので、冬休み明けが楽しみです。(もなか)


メダカ2 シュークリーム



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年末ゼミ(1)

1218黒田02実測演習01


 12月18日(火)。火曜午後はほんらい4年の卒論ゼミの日なのですが、年末の追い込みということもあり、指名された3・4年数名が活動報告をおこないました。会場は郡家のカフェ黒田。発表順は以下のとおりです。

 1)谷「ブータンの魔女とファルス信仰
 2)野表「魔力と戦うフライング・ファルス(翻訳)」
 3)佐々木「河本家住宅の家相図(卒論中間報告)」
 4)岡崎「倉本家住宅の家相図」=病欠
 5)佐藤「環オホーツク海諸民族の罠技法の比較研究(卒論中間報告)」

 発表後は、新年に控える稲常西尾家住宅の実測の事前演習として、黒田家間取りの実測・採寸にも取り組みました。


1218黒田02実測演習02


ブータンのファルス信仰について 

 まずブータンのファルス信仰について、3年生の谷さん、野表くんが発表しました。チベット周辺のヒマラヤ山麗地域ではボン教の魔女が支配していて、それを中世の高僧ドゥクパ・クンレーが各地の谷筋を遍歴しつつ自らの金剛によって調伏し、仏教側の守護神として再生していったという谷さんの話は、私は初めて聞く文化情報でありとても面白そうだなと感じました。特にブータン特有のファルス信仰にはかなり驚かされました。谷さんは実際に夏休みにブータンに教授と調査にいっており、その時の活動の様子も聞くことができました。現地での雰囲気や文化の差、ファルス信仰についての現地人の認識など生で実感できていることがすごく良いことで、羨ましいと思いました。
 野表君はブータン王立航空(ドゥク・エアー)の機内誌『タシデレク』(2017)に掲載されていたエッセイを夏休みあけにみずから和訳しており、さらにプロジェクト研究2&4で1・2年生と教授が翻訳したテキストをパワポでまとめて発表してくれました。著者は1947年ニューヨーク生まれのポール・スペンサー・ソチャチェフスキーというジャーナリストです。英語、インドネシア語、フランス語、タイ語を使いこなし、現在はタイに住んでいます。エッセイのタイトルは「魔力と戦うフライング・ファルス」。ブータンのファルス信仰がタイでも通用したか否かを軽妙に描いた随想です。翻訳されたテキストは結構直截的な表現が多く面食らう場面もありましたが、独特の信仰に興味を惹かれました。ブータンの人びとはファルスを魔除けとして家の外壁に描き込んだり、彫物を軒先に吊るしたりということも珍しいと思いましたが、特にファルスより魔除けの力が強いのは僧侶の裸踊りだという部分は面白かったです。またブータンの魔除けであるファルスが、結局バンコクのソイ(小路)でも効果があったというオチは、著者の人柄を感じさせてくれました。3年生は二人ともレベルの高い発表であり、それを聞いてタジタジしながらも、4 年生はそれぞれ卒業論文の現状報告をしました。


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メリークリスマス!

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猫とカーリングポット

 いつまでたっても子供たちにサンタさんのプレゼントを買ってしまう親ばかな冬休み、みなさまがたは平成最後の聖誕節、いかがお過ごしでありましょうか。

 さて、鹿島とアルアインが完敗してCWCはレアルの3連覇があっさり決まってしまいました。いまや大会の存在意義が薄れてしまいつつあるCWCですが、開催国枠出場チームが南米代表を食ってしまうことに衰退の一因を求めうるでしょう。今年のアルアイン、一昨年の鹿島がその例です。アジアの開催国が南米代表クラブに勝利するなど、以前は考えられぬことでしたが、なにぶん南米の優秀なアスリートは欧州に流れてしまうので、欧州>南米の優劣が際立つようになり、ついには、欧州>アジア開催国>南米の序列化まで派生させた結果、優勝は欧州代表に決まりきってしまった感が否めません。
 少なくとも欧州からは2チーム出場させることを検討したほうがいいですね。前年度CWC優勝チームと当該年度UEFACL優勝チームの両方さ。今年のように、両者同じチームならUEFACLの準優勝チームに出場権を与える。こうすれば出場国が8チームとなってトーナメントも組みやすくなる。レアル、バルサ、ユーヴェ、バイエルン、PSG、チェルシーなどの強豪による決勝をみることができるでしょう。


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 まぁ、それはどうでもいい。問題はカーリングです。ついに北海道銀行が動きましたね。小笠原が退団し、スキップ吉村、サード小野寺の体制が確立した。遅きに失した感はありますが、このチームは強いよ。LS北見も枕を高くして眠れなくなるかもしれません。で、ごらんくださいませ。我が家にカーリングポットが届いたんです。いつもならサロマ湖の牡蠣ですが、今回はミント・キャンディがいっぱいつまったカーリングポットの陶器が常呂から送られてきたの。さっそく電話して御礼したのですが、なっ、なっ、なんと注文殺到につき半年待ちの状況だったんだとか。感謝感激!


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ヒマラヤの魔女(12)

 今宵は2年生が翻訳した民話絵本です。書籍情報は以下のとおり(書名以外は昨夜と同じ)。くりかえしになりますが、READブータンという組織の活動の一環として、若いスタッフが年配者から民話を聞き書きし、英語とゾンカ語で絵本を出版したものです。

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書名原題: Akhey Gyem - A Legend from Haa -
執筆編集: READ(Rural Education and Development Bhutan) 2017
登録ナンバー: 1000000434
資金提供: ジョン・ロバート・グレッグ財団(NYコミュニティ信託内)
印刷: クエンセル株式会社、ティンプー
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アケ・ゲム -ハのむかしばなし-

 むかしむかし
 ハ地方の谷すじに
 ルニェ・ツェリン・ドルジという名の
 わかくて かおだちのよい おとこ が
 くらしていました。

 タクチュ寺のうらてにある
 ルニェ村の おとこ だから
 そうよばれていたのです。

 ルニェ・ツェリン・ドルジは
 とおいサムツェ谷のテンドゥ村にすむ
 アケ・ゲムという名の
 わかくて きれいな おんな のことを
 耳にしました。

 ある日、ドルジはアケ・ゲムにあうため
 タンドゥ村まで くだっていきました。
 アケ・ゲムはドルジがこれまで目にしたなかで
 もっともうつくしい おんな でした。
 ドルジはアケ・ゲムをおよめさんにしたい
 とおもいました。

 ルニェ・ツェリン・ドルジは
 テンドゥ村のアケ・ゲムに
 ざいさん とゆたかな せいかつ を
 やくそく しながら
 プロポーズをはじめました。

 「わたしの いえ のまわりの まきば には
  くさをはむウマがたくさんいるし
  1かいにはあふれんばかりのウシがいて
  上のかいはヒツジとヤギが
  ひしめいており
  だいどころの とぐち にはメンドリやヒヨコが
  うようよいるんだよ」

 とドルジはじまんします。


02アケゲム10


 アケ・ゲムは
 ルニェ・ツェリン・ドルジが
 じぶんの「いえ」だと
 よんでいるところにたどりついて
 ひどくがっかりしました。
 いえ のそとに くさ をはむウマはいないし
 1かいがウシであふれている
 わけでもなく、上のかいに
 ヤギとヒツジがやすんでいることもなく
 メンドリやヒヨコが とぐち に
 うようよいるわけでもなかったからです!
 
 かわりにアケ・ゲムがみたものは
 ほらあな でした。
 からっぽのほらあな。
 みあげれば空をふさぐ やね はなく
 みおろせば土をかくす ゆか も
 ありません。



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ヒマラヤの魔女(11)

 1・2年生のプロジェクト研究2&4では、短いブータン民話(英文)の和訳にも取り組んでいます。いずれもREADブータン(農村教育開発局)という組織による活動成果であり、スタッフの若者が年配者から民話を聞き、英語とゾンカ語で絵本を2017年に出版しています。READはもちろん「読む」という意味もあり、読書による過疎地域の活性化をめざしているようです。第4代国王の最年少王妃が組織した財団法人であろうという情報も得ています、確認はできていません。わたしたちは、今夏の調査時にティンプーの書店で購入しました。以下、基礎情報です。

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書名原題: How TURNIPS came to Haa - An etiological tale from Haa -
執筆編集: READ(Rural Education and Development Bhutan) 2017
登録ナンバー: 1000000434
資金提供: ジョン・ロバート・グレッグ財団(NYコミュニティ信託内)
印刷: クエンセル株式会社、ティンプー
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 今夜は1年の中間成果から紹介します。


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カブはどのようにしてハにもたらされたのか
    -その ゆらい をさぐる-


 むかしむかし
 アシ・ジャサという
 インド人のおひめさまがおりました。

 おひめさまはまほうの かがみ をもっていました。
 その金の かがみ をのぞきこむと
 どんな人でもじぶんの うんめい がうつしだされます。

 ある日、アシ・ジャサがかがみをみると
 かがみは うんめい をうつしだしました。

 うんめい はとおいチベットにありました。
 かみの毛は ゆき よりもしろく
 はぬけの おとこ と めおと になっていたのです!

 アシ・ジャサはぞっとしました。

 かがみをてにとり、ちかくの川になげすてました。

 なぜ水が すがた をうつしだすのかわかりますか。
 アシ・ジャサのかがみが
 水のなかのどこかにしずんだままになっているからです。


01アシジャサ02


 アシ・ジャサはかがみの よげん をうれしくおもっていませんでしたが、
 チベットにいくことをきめました。
 王と王妃(おうひ)はむすめの けっしん に はんたい し、
 チベットにいかないよう たのみました。
 しかし、アシ・ジャサのきもちはゆるぎません。
 がんこなむすめにいかった王と王妃は

  「もしおまえがチベットにいくのなら、おやこのえんをきるよ!
  おまえとわたしたちはなんの かんけい もなくなるからね」と

 おどすようにいいました。


 

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稲常西尾家の調査(1)

1215ドローン不調(稲常西尾家)02 1215ドローン不調(稲常西尾家)03プロペラ破損


ドローン・ワズ・ノット・アンダー・コントロール

 稲常と言えば、昨年(2017)の人間環境実習・演習Aで連続立面図を作成した集落ですが、四辻東北の角地に建つ西尾家住宅(旧河原町長宅)は門前のエノキとともに主屋が18世紀に遡るということで、いつか調査をしなければと思って時間が過ぎていきました。11月から、とりあえず、空撮だけでもしたいと思い、ドローンの出動準備をしておりましたが、12月3日(火)は大雨で中止、その後も天候がすぐれず延期の連続となりました。


1215西尾家02 1215西尾家01


 12月15日(土)、ようやく晴天があらわれ、わたしと院生の2名で西尾家を訪ね、ご主人に挨拶した後、いざドローン PHANTOM 3 STANDARD を組み立て。ところが、ワイファイの接続にとても時間がかかり、ようやく離陸したかと思うと、低空でいきなりノット・アンダー・コントロールの状態に陥って水平飛行を始め、主屋の基壇部分に衝突してしまいました。ここでプロペラ4枚を交換し、再度ワイファイに接続したところ、ドローンはコントローラーの指示どおり上昇し、約80枚の撮影に成功しました。しかし、電源不足の赤信号が灯ったのでいったん着陸。電源をいれかえ、今度は座敷まわりの庭から飛び上がらせようとしたのですが、またしてもワイファイの接続が不調になり、元の玄関前の位置に戻してしばらく接続を試みたところなんとか成功したのですが、離陸とともに再びノット・アンダー・コントロールの状態に陥り、低空飛行のまま水平に移動し、庭石にぶつかりプロペラを破損してしまいました。ここで調査の中止を決断しました。


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古代ミステリー 出雲大社 巨大神殿はあったのか?

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BS11 歴史科学捜査班

 BS11 (イレブン)の番組「歴史科学捜査班」で新年早々、出雲大社がとりあげられることになり、去る12月3日(月)午後、出雲大社境内と島根県立古代出雲歴史博物館でロケがあり、不肖わたくしが説明役を務めました。大社境内では、まず八足門の基壇上から出雲大社境内遺跡の所在地を見下ろしつつ発掘調査の状況を振り返り、さらに八足門をくぐって瑞垣のなかに入り、側面から玉垣越し本殿を望みつつ大社造本殿の建築的な特色を説明しました。
 その後、島根県立古代出雲歴史博物館に移動し、五人の建築史家が復元を競い合った鎌倉時代初期の大型本殿の復元根拠を説明しました。

 番組のオンエア情報は以下のとおりです。

放送日時: 2019年1月7日(月)午後7時~8時(再放送の可能性あり)
放送局: BS11
番組タイトル: 歴史科学捜査班「古代ミステリー 出雲大社 巨大神殿はあったのか?」
出演者: 宮本隆治(元NHKアナウンサー)他


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【リンクサイト】環境大学HP
http://www.kankyo-u.ac.jp/news/2018nendo/20181220/

奥出雲そば紀行

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三度目のサテンドール

 12月といえば出雲である。また今年も師走に出雲を奔走した。シンポ翌日(2日)に家を発ち、途中、倉吉に寄った。河原町でメダカを仕入れるためである。奈良からもってきたフタ付のバケツ2杯に40尾ばかりメダカ(白・緋)を移し、きっちりと梱包してもらって、いまメダカたちは奈良の睡蓮鉢を泳いでいる。
 そして、一路出雲へ。松江ではなく、あえて出雲に泊まるのは、いまの自分にとって、伊勢宮の色艶よりも、ウェザーリポートよりも、サテンドールのほうが恋しいからである。
 この夜も、カルバドスから始めた。ブラー(Boouland)のXOとVSOPを飲み比べてみたが、前者が圧倒的に美味い。DVDは、アラブ人みたいな名前のサックス吹きが流れていて(名前が思い出せない)、まもなくアニタ・オディのボーカルに変わった。1980年代のアニタ・オディ。すでにおばあちゃんになっているが、やはり一流のオーラがある。グラッパを挟んで、珍しくジンをロックで飲んでみた。クリスチャン・ドルーアンのル・ジン(Le Gin)。ちょっと甘い風味がして・・・スコッチにすればよかったとすこっち後悔し、最後は定番デュワーズのハイボールで締めた。


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二度目の再仕込み醤油

 3日は某BSのロケを出雲大社でおこなうことになっていたが、午後3時からの収録ということで、長い自由時間が生まれてしまった。また平田を訪ねた。今春と同じ岡茂一郎商店で利き醤油をし、醤油アイスを食べ、ミニボトルの醤油とポン酢を買った。そこから反転し、奥出雲をめざす。


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純そば一風庵 

 遠い昔、出雲の岩屋堂めぐりをしていて、最後に奥出雲の蕎麦を食べにいった記憶がある。タクヲに電話して確認したところ、その店は仁多郡奥出雲町大呂にある「山県そば」であった。ブログも確認した。2012年10月9日、旧横田町の別格本山岩屋寺(廃寺)を訪ねたあと蕎麦をたくったのである。メンバーは他に白帯とヒノッキーがいた。思い起こせば、平田の町並み調査に精をだしていたころだから、このたび平田経由で奥出雲に向かったのも運命だったのかもしれない(大げさだね)。
 しかし、「山県そば」には行かなかった。さらにネットで「奥出雲 蕎麦」を検索したところ、最も高い評価を得ていたのは「純そば一風庵」という店だったので、そちらに足を運んだのである。平田から60キロの旅であった。

    純そば一風庵
    〒699-1822 島根県仁多郡奥出雲町下横田89−2
    電話: 0854-52-9870


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能海寛生誕150周年記念国際シンポジウムの報告(4)

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学生の感想文(2)-1年生

 今夜は一年生の感想文です。

仏教本来の在り方を示唆する大内青巒の序文
 能海寛は、明治元年(1868)に島根県浜田市の浄蓮寺に生まれた。当時の仏教界には、廃仏毀釈政策やキリスト教の侵入などさまざまな課題があった。それと同時に「入蔵熱」の時代でもあり、明治から昭和戦前にかけて10人の日本人がチベット入りした。能海寛はその10人のうちの一人である。能海は、インドで失われた経典の忠実な翻訳と推定されるチベット大蔵経を日本に持ち帰るため、チベットにむかった。その探検中も能海寛は、仏典研究や地誌記録を継続している。地誌記録の大きな特徴として、当時の風景などのスケッチが挙げられる。三峡の絵や当時の西北・西南中国の風物を描写した観察記録は、後の民族学研究にとって貴重な先駆的資料になっている。また、能海寛の行方については、諸説あり現在も明確にはなっていない。一説によると雲南省阿東の「屏風岩」が能海終焉の地とされているが、それよりも手前の金沙江を越えることはできなかったという推察もあり、いずれにしても能海の行方は定かではない。能海寛がチベット大蔵経を日本に持ち帰ることは叶わなかったが、道中で盗難などの苦難に遭いながらも、研究や記録を続ける能海寛の向上心や記録をまとめる力を見習いたいと思った。
 能海寛の著作『世界に於ける仏教徒』(1893)には「宇内一統宗教」に関する壮大な構想が示されている。一方、ほとんどの章においてキリスト教に対して異常なほど批判を繰り返している。また、事実と能海寛の考えの間には矛盾がある。まず、明治相当期(19世紀後期)の欧米が本当に宗教大変動の時代であった具体的な証拠が記されていない。その他、偏見にも似たキリスト教批判が数多く記されており、最終的に仏教はキリスト教より優れているという結論を下している。これらの能海の考え方は、仏教徒らしい寛容さが欠けており、宇内一統宗教(世界統一宗教)としての新仏教を強調するあまりに争いの火種になる危険性がある。これに対して大内青巒は「世界に於ける仏教徒」であろうとする能海寛とは対照的に、「個人の生活世界に眼を見開け、聞き耳を立てよ」と訓じて、国にあっては国の因縁にふさわしい願行があるべきだと主張している。私は、能海寛より大内青巒の考え方の方が平和的であり、仏教本来の在り方であるように感じた。(環境学部1年S.M)


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俗化した日本の仏教
 まず、能海寛がとてもキリスト教を批判していて驚きました。キリスト教は「科学に反対し、文明の害となって、進歩を妨げてきた」とか「哲学以下である」と述べていて、キリスト教を全面的に認めていないのだと感じました。また、批評を聞いていて、日本の仏教徒や僧侶は世界的に見て堕落しており、全く修行に熱心ではなく、仏教における世界のリーダーにはなり得ないという話にも納得しました。たしかに日本の僧や信者は仕事としてやるべきことをこなしているだけであり、戒律を守った修行生活を送っていないのだと改めて思いました。加えて、「仏教とキリスト教の優劣を決めるべきではない」という意見に私も賛成します。やはり、宗教は戦争の種であり、原因となり得るので、優劣を決めてはいけないと思います。それぞれに信じるものがあって、一概に何が良いかを断じることはできないと感じました。(経営学部1年S.A)



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能海寛生誕150周年記念国際シンポジウムの報告(3)

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学生の感想文(1)-2年生

 能海寛生誕150周年国際シンポジウムには、プロジェクト研究2&4「ヒマラヤの魔女」班の1・2年生15名が出席しました(1名欠席)。第2部「能海寛の思想」は必修聴講として百点満点で採点、第1部「能海寛の風景」は自由聴講として加点制度を適用しました。大半の学生は能海の排他的で過激な発言に否定的であり、「宗教に優劣はない」というヤスパース的理解を支持しています。以下、そうした一般解以上の感想を記した優秀作を選抜してお届けします。なお、誤字等の部分については教師が訂正しています。今宵は2年生の感想文から。


東西の宗教離れをさぐる
 能海寛は排他的な考えが強く、キリスト教を敵対視する傾向が目立っているのに対し、仏教徒への期待は大きなものであった。能海の発言の中で「キリスト教の衰退」とあったが、それが真実なのか気になって調べてみた。

  「キリスト教社会」の欧米で信徒が減少、影響広がる
   (2015年キリスト教世界、教会十大ニュースから)

 最近のニュースではあるが、信徒の減少に関する記事や論文は数多くある。なかでもカトリック国圏内での信徒の高齢化や若者の教会離れは深刻な問題のようだ。
 近年公になったオランダのカトリック教会の未成年者へ性的虐待という問題がある。1945年から2010年までに「数万人の未成年者」が神父・修道士ら教会関係者から性的虐待を受けていたとする報告書を同国の独立調査委員会が発表した。1950年代から2000年代までをガーディアン紙(英)は「キリスト教の旗色がこれほど悪くなったことはない」と述べており、「司祭と長老にとって1950年から2000年は最悪の50年だった」とまとめている。また、科学の発達に伴って人間の知性が最高度に啓発された結果、現代人はすべての事物に対して科学的な認識を必要とするようになり、旧態依然たる宗教の教理には、科学的な解明が全面的に欠如していると感じる人びとが増え、宗教離れにつながったといえる。
 ただ、これは海外のキリスト教だけでなく、ほかの宗教にも当てはまる。日本でも少子高齢化、後継者不足などのため、現在約7万7000ある寺院のうち、25年以内に約4割にあたる2万7000ヶ所の寺院が閉鎖されると予想されている。これは日本仏教の深刻な問題である。
 能海は「日本仏教が世界のリーダーになるべき」とも主張していたが、どうやら日本仏教の衰退も深刻らしい。なお、排他的な考えをもつ能海寛に対し、その兄弟子にあたる大内青巒は対照的な考えを『世界に於ける仏教徒』の序で語っている。(略)
 私は宗教に優劣を求めることに否定的な意見をもっている。現在、完璧な宗教というものが存在せず、宗教の優劣を測る物差しは存在しない。また、宗教とはそれぞれの考えに従ってできたものであり、信者にとってはそれが真理なのだろう。それを他人が、ましてや他宗教の人間が評価することはできないだろう。であるならば、仏教家の能海の意見をたいして仏教の知識を持たない私が否定するのも無理な話である。大内青巒が能海寛を明確に否定しなかったのも複雑な理由があるのかもしれない。(経営学部2年M.H)


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マインドフルネスとヒッピー文化
 能海寛は主著『世界における仏教徒』で「欧米の知識人たちは仏教を高く評価している。欧米でキリスト教が衰退している今、キリスト教よりも優れる仏教が世界統一宗教となる」と述べた。それを現代的視点で見ると、思想としての危うさがあり、客観的に正しさが疑われる部分もある。まず、気になったのは「仏教は知識人の間に広まっているので優れており、世界統一宗教となる」という部分だ。残念ながら現在、仏教は世界統一宗教になっていないが、(略)欧米のビジネスパーソンの間でマインドフルネスがブームになったり、数十年前には、ヒッピー文化の大流行で東洋思想が見直されたりと、能海さんが生きていた頃よりは、欧米で仏教が評価されているのではないかと思った。また、仏教は他の世界的宗教より穏やかで、排斥などがないイメージをもっていたが、やはり、少しはあったのだと分かった。宗教相互の争いは現在でも問題になっているし、「私たち」という明確な共同体ができた時の人間の必然なのだろうかと考えた。(経営学部2年I.K)


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『建築フィールドワークの系譜』 刊行!

建築フィールドワークの系譜(表紙)_01web アマゾン


民族建築その後

 日本建築学会から『建築フィールドワークの系譜-先駆的研究室の方法論を探る-』が刊行されました。海外での住居集落系フィールドワークを積み重ねてきた14の代表的研究室の活動を紹介しています。本学環境学部浅川研究室が14研究室に含まれており、建築系でありながら、最も民族学寄りの研究室として評価されています。

01 住居集合論 原広司(東大) 
02 デザイン・サーヴェイと設計 八木幸二(東工大) 
03 日本の住宅と住宅地を変えるために 服部岑生(千葉大) 
04 空間研究と高密度高複合都市研究 古谷誠章(早大) 
05 集まって住む 畑聡一(芝工大) 
06 住まいの伝統技術 安藤邦広(筑波大) 
07 すべての地域に世界を読む 布野修司(滋賀県大) 
08 住まいをめぐる価値の研究と実践 髙田光雄(京大) 
09 日常性、ふるまい、ネットワーク 塚本由晴(東工大) 
10 都市の歴史を掘り下げる 陣内秀信(法大) 
11 全球都市の分析手法を開発する 村松伸(東大)
12 アジアへの視線 乾尚彦(学習院女子大) 
13 屋根裏のコスモロジー 佐藤浩司(民博)
14 民族建築その後 浅川滋男(公立鳥取環境大学) pp.120-127

 本書は、研究室の主宰者/先達が自らの活動を自ら説明するのではなく、弟子が師匠の研究手法と業績を紹介するという体裁をとっています。浅川研究室の場合、OBの清水拓生さん(大田市教育委員会)が執筆を担当しました。研究室紹介の内容は以下のとおりです。

  14.民族建築その後 pp.120-127
   1 方法論-認識人類学と考現学・考古学
   2 世界自然遺産ハロン湾の水上集落調査
   3 摩尼寺からブータンへ-瞑想の周辺
   4 民族建築再び-チベット仏教の調伏

 【書籍情報】
   日本建築学会編『建築フィールドワークの系譜-先駆的研究室の方法論を探る-』
   昭和堂(B5版 136ページ)、2018年12月8日(税込¥ 3,024 ) 

【関連サイト】大学HP
http://www.kankyo-u.ac.jp/news/2018nendo/20181217/
 

能海寛生誕150周年記念国際シンポジウムの報告(2)

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第二部 能海寛の思想

 第一部が終わり、ティーブレイクを挟んで、いよいよ能海の思想に踏み込む第二部に入りました。ASALABの演題は「能海寛を読む-世界に於ける仏教徒-」 です。まず私が能海の主著『世界に於ける仏教徒』の概要を説明し、教授が批評していく流れでした。パワポは著書の概説なので短いものですが、内容をしっかり理解していなければまとめられないので、パワポづくりには結構苦戦してしまい、発表の直前ぎりぎりまで先生と調整していました。しかし、そのおかげで自分でも納得するものができたと思います。


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 教授は『世界に於ける仏教徒』の中に出てくる思想の核心部分や過激な文章を抜粋し、一つひとつ批評していきました。今までの研究会等で、能海の著書が俎上にのってこのレベルまで批評の対象になることはおそらくなかったでしょう。能海研究会のメンバーをはじめ聴衆の反応が気になるところですが、私の概説だけでは伝えきれない深い部分や、『世界に於ける仏教徒』にどのような表現で能海の思想が表現されているかを鮮明に伝えられたと思います。


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 最後に今までの発表の内容をふまえ、今枝先生に講評をしていただきました。今枝先生は能海を、早熟で、能力も高く、最新の情報に敏感であるという点において評価する一方で、『世界に於ける仏教徒』をそのまま口語訳して公刊するとなると、現代と明治時代とでは倫理感覚が異なるため、難しいであろうとおっしゃいました。ただ、能海は「未完の人」であり、現代の私たちが、能海の主張した「旧仏教を新仏教に改革する」という意思を継ぐことが大切だと結ばれました。


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 7月8日に島根県浜田市で開催された能海記念シンポジウムに参加しましたが、そのときは能海は偉人だという前提で議論が続けられ、その内容を聞くだけで終わってしまいました。しかし今回は、4月から取り組んできた『世界に於ける仏教徒』の口語訳の成果を初めて発表し、能海の思想の危うさについても伝えることができたと思います。そして今回のシンポジウムは今後卒論を仕上げていくにあたってとても刺激になりました。このシンポジウムで得た能海の評価すべき部分と、そうでない部分について、さらに考察していきながら、卒論に大いに役立てたいと思いました。(あやかめ)


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↑能海研究会のメンバーから「ふつう本の批評をするなら七割は誉め、三割貶すものなので違和感がある」とのコメントを頂戴しました。七割誉めるどころか、口語訳を公刊すること自体不可能な内容だというのが当方の読後感であり、今枝先生も同じ意見をおもちであることを質疑で確認しました。



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能海寛生誕150周年記念国際シンポジウムの報告(1)

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 神戸製鋼のトップリーグ優勝(日本一)と鹿島アントラーズの世界クラブカップ1回戦突破を、この場を借りてお祝い申し上げます!

シンポイブ

 12月1日(土)、能海寛150周年記念国際シンポジウム「雲南に消えたチベット仏教求法僧-能海寛の風景と思想-」が開催されました。シンポ前日(11月30日)午後に会場設営と決めていたのですが、突然学務課からアコギ・グループの演奏会が入っているとの通達があり、予定が大きく攪乱されました。一方、松江から岡崎会長、倉吉の眞田会長、中国雲南から大阪経由で何大勇教授が続々と前日に大学入りされ、研究室周辺はざわめいていきます。何さんは4409演習室を使い、二人の会長と嘎嘎嘎さん(内蒙古出身の留学生)がつきっきりでリハーサルを繰り返しおこなったのですが、日本語の講演だけに不安は拭えません。一方、研究室側は、あやかめさんのパワポが完成をみたものの、本人はなお不満であり、睡眠不足のなかさらに向上をはかることになりました。


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 夕方6時半、今枝先生ご夫妻が鳥取駅に到着されました。眞田会長とともに出迎えし、ホテルにチェックイン後、夕食会を兼ねた打ち合わせをさっそくおこないました。会場は「なまはげ騒動」の余韻がのこる割烹たくみです。ここに発表者全員が集結し、相互の内容や時間配分について協議しました。リハーサルの結果、当初60分を予定していた何さんの講演がその半分程度で終わることが確定したため、基調講演の岡崎会長は15分延長、さらに何さんの後にあやかめさんが「たくみ21」でスピーチした「奇跡の雪山」を15分挿入することが正式に決まったのです(ある程度予想はしていました)。
 この変更をうけて、シンポジウムの構成は以下のようになりました。

13:00 開会の辞  趣旨説明 眞田 廣幸  
13:10 第一部 能海寛の風景                         
1.基調報告 岡崎 秀紀(能海寛研究会会長)
  「山陰から世界へ-能海寛と河口慧海の時代」               
2.招聘講演 何 大勇(中国 雲南民族大学教授)           
  「チベットをめざして-能海寛の歩いた四川と雲南-」         
3.森 彩夏(公立鳥取環境大学)                      
  「奇跡の雪山-能海最期の地をめぐる旅」

15:00 第二部 能海寛の思想                         
4.浅川 滋男・森 彩夏(公立鳥取環境大学)  
  「能海寛を読む-世界に於ける仏教徒-」  
5.講評と質疑 60分                             
 [講評] 今枝 由郎(京大こころの未来研究センター特任教授)                     
 [質疑] 山田 協太・赤井厚生・中原斉 

 シンポ当日(1日)午前は、全員が10時から集合して、設営に大わらわ。筑波から山田准教授(元本学助教)も加わって、椅子・テーブルの移動や展示を急ぎました。以下、あやかめさんのレポートです。


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琴浦町倉長家の家相図調査

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海風に流されたドローン

 琴浦町の重要文化財「河本家住宅」の裏手にある倉長家で幕末の家相図がみつかり、11月13日(火)に町教委と会長が実見することになったんで、研究室メンバーも同席しないか、とのお誘いがありました。本来ならば、卒論で河本家家相図に取り組んでいる小次郎さんが調査すべき対象ですが、就職内定関係の所用とかで参加できず、先生・院生・わたしの3名が赤崎に赴きました。
 当初、①家相図の概要調査に加えて、②ドローンによる屋敷地の空撮、③主屋の間取り実測、④屋内外の写真撮影の4種を想定していました。到着後、学生班はまずドローン撮影を実行しようとしたのも束の間・・・この日は海風が強く、ドローンが風に流されて一時行方不明になってしまいました。幸い、スマホの画面を頼りにして見つけ出しましたが、100メートル以上風に流されたようです。実をいうと、 つい先日の摩尼山「賽の河原」トレック後の撮影では、鳥に狙われもしたのですが、それよりも肝を冷やす経験となってしまいました。高をくくっていたわけではありませんが、ドローンを扱うときは弱い風でも侮れないことを痛感しました。


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幕末家相図の方位観

 ドローン空撮がなくなったため、ただちに屋内での作業になりました。最も重要な仕事は家相図の撮影ですが、河本家と同様、家相図のサイズが大きいため(1215×1580mm)壁につるすことができず、今回もまた数十枚の写真を斜め方向から重ね撮りし、フォトスキャンでオルソ写真を合成することにしました。この重ね撮りは先生が担当し、会長さんはひとり黙々と関係文書の解読作業を進めていました。
 倉長家の家相図は慶応元年(1865)に瑞穂舎(川合清丸)という家相師によって制作されたものです。主屋の平面は広間型五間取りであり、現状と同じなので、主屋の建築年代は慶応元年以前であることが分かります。


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 方位は広間のイロリ近くに中心点をおいて八角形を描き、一辺を3方位に分けているので、全周としてみれば24方位に区分されていることになります。この点、嘉永七年(1854)制作の河本家家相図と共通しますが、河本家ではイロリまわりの24方位はおもに屋内の施設配置を規定し、屋外(とくに屋敷地背面)は裏庭を基点とする八方位を基準としているのに対して、倉長家はイロリまわりの方位観が外構にまで及んでおり、この点が河本家と大きく異なるようです。


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「たくみ21」盛会-女子学生たちの研究発表

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麻婆鍋をかこみながら

 11月20日(火)。鳥取市栄町のたくみ割烹店で「たくみ21」の11月例会が開催され、ASALABの3名が今夏のブータン及び西北雲南の調査成果を披露しました。公益財団法人鳥取民藝美術館の主催するたくみ21は「鳥取の文化や民藝などについて楽しく学び、食事をしながら講師を交えて楽しく交流する」ことをコンセプトにした小さな研究会で、毎月第3火曜日に開催されています。11月例会の講演題目などはすでにお知らせしていますが、若干変更もありましたので、あらためて記しておきます。

  話題提供者: 浅川滋男・森 彩夏・谷 愛香
  演題と構成:  奇跡の雪山-ヒマラヤの魔女とファルス信仰
          1.ブータン調査の七年間(浅川)
          2.チベット族の神の山-梅里雪山(森)
          3.魔女と戦うファルスの信仰(谷)   


181120たくみ01 森発表

           
 学生2人は初の学外での発表でしたが、愛嬌のある楽しいスピーチを聞かせてくれました。教授の講演はブータン仏教の核心に迫るところが多く、一部の聴衆から「ちんぷんかんぷん」との評を受けていましたが、森さんの梅里雪山の遥拝体験は驚きをもって拍手を集め、谷さんはファルスについての勇敢な説明が聴衆をひきつけました。私も2人を見習いたいと思います。
 会場は割烹料亭の1階を貸切でしたが、聴衆は満席状態です。常連客が大半を占め、講演後は、なごやかな会話が続いていきました。ちなみに、この夜のメニューは「麻婆鍋」。麻婆豆腐のエッセンスを薄めて味わう鍋料理をシェフが初めてトライしたものですが、薄味ながら山椒の粉をかけて具材を食べるとたしかに麻婆豆腐の風味がするので驚きました。学生はみな大喜びで鍋を頬張りました。
 2次会にも誘っていただきました。そこでは女子学生2名の人気が凄まじく、とくに「麻婆鍋」発案のシェフがハイテンションになり、ゲストスピーカーの教授を「なまはげ」呼ばわりしたりして、女子学生を笑わせました。ちょっとうるさい酒ではありましたが、全体としてみれば楽しい一夜であり、オブザーバーの私(院生)も楽しい経験をさせていただき感謝しています。(ザキオ)


181120たくみ02 谷発表

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【関連サイト】大学HP
http://www.kankyo-u.ac.jp/tuesreport/2018nendo/20181214001/

登録記念物「摩尼山」リーフレット刊行!

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 摩尼山の南半が国の登録記念物になったのは2016年10月に遡ります。面積約37万㎡におよぶ日本最大の登録記念物(名勝地関係)が鳥取県内に誕生したのです。昨年度は山の3ヶ所にサインボードを設置し、今年は案内板のデータに基づきながら、登録記念リーフレットの作成に取り組んできました。
 去る11月11日にリーフレットを刊行しました。初お披露目となったのは、刊行日の前日(10日)におこなわれた「紅葉の摩尼山トレック」事前ミニレクチュア(於門脇茶屋大広間)においてです。さらに細かいことをいうと本学に納品されたのはトレック前日の9日午後であり、まさに発刊ほやほやのお披露目となったのです。後期からわたしと東京のデザイナーが協同でリーフレットの編集デザインに取り組んでおり、また社長の経営するmts一級建築設計事務所も「賽の河原」周辺の2枚の復元CG作成に挑んでおりました。またしても細かいことになりますが、入稿直前の段階でようやく2枚目のCGが完成し、紙面を大きく変更して再調整し、10日のイベントにまにあうか危惧されたのですが、なんとか摩尼寺門前で初お披露目の運びとなった次第です。おおいに喜びました。


摩尼山CG-02web 摩尼山CG-01web


 なお、本リーフレットは、平成30年度公立鳥取環境大学学内特別研究費助成「登録記念物『摩尼山』の景観整備に関する基礎的研究-賽の河原と地蔵堂の復元を中心に-」の成果の一部をなすものです。

 以下、基礎情報です。

  国登録記念物(名勝地関係)登録記念リーフレット
   B5版 8ページ 一部英訳付
  編集: 浅川 滋男+QTC
  協力: 摩尼寺・鳥取市教育委員会・mts一級建築市設計事務所
  発行: 公立鳥取環境大学保存修復スタジオ
  発売日: 2018年11月11日

 入手希望の方は本ブログにコメントください。


2018摩尼パンフ02裏表紙MAP01web トレックマップ(裏表紙)


【関連サイト】大学HP
http://www.kankyo-u.ac.jp/news/2018nendo/20181213001/

ヒマラヤの魔女(10)

00摩尼01登り道06立岩02塔づくり1年01 00摩尼01登り道06立岩02塔づくり4年02記念撮影


摩尼山「賽の河原」石積み塔づくり 感想文之参

摩尼山とは
 摩尼山は鳥取砂丘に近接しており、県中西部の大山、三徳山とならぶ天台宗の霊山として信仰されてきた。中腹の境内地は仁王門・本堂などの歴史的建造物が立ち並んでいる。周辺には原生林が広がり、平成28年10月3日に登録記念物となった。(参考 摩尼山 国登録記念物登録記念リーフレット)


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体験レポート
 当日は晴天で登山道も比較的歩きやすく、山肌も赤や黄に色づいていた。摩尼山の登山道は人ひとりが何とか通れるような場所も多く、非常に滑りやすい岩場もあり、誰もが気軽に来れるような場所ではないな、と感じた。トレックの途中で、門の跡や昔の金銭(寛永通宝)が見つかり、当時の時代や様子を想像できた。摩尼寺は最澄の弟子である円仁が建てたとされているが、江戸時代の伝承なので起源は不詳。15世紀以降の「奥の院」に境内があったのは確実だから、江戸時代に流通した寛永通宝が摩尼山で見つかったのも納得がいく。


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 一時間半ほど歩き立岩、賽の河原に到着した。『西院(さい)の河原和賛』には、「早くに亡くなった子が親との別れを悲しんで石を積み、塔をつくった。だが、そこに鬼が現れ子どもが作った石の塔を崩してしまう。鬼は、再び積み上げるように言った。すると、地蔵菩薩が現れ子供たちを鬼から救い、あの世へ連れて行った」という記述がある。この記述に基づき、賽の河原で参加者が四つのグループに分かれ供養塔(ケルン)をつくり、一度壊して再びつくりあげた。     
 このケルンは伯耆大山の河原でも確認できる。伯耆でも亡くなった子の供養塔としてつくられていた。大山も摩尼山と同じように信仰の対象であり、多くの僧侶が修行の場としていた。そのため山の河原を賽の河原と見立てた仏教の考えが根付いているのであろう。鳥取県以外の霊峰にも同じようなものがあるのか気になった。(環境学部2年M.J)


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↑↓4年生
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ヒマラヤの魔女(9)

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摩尼山「賽の河原」石積み塔づくり 感想文之弐

摩尼山の歴史と賽の河原
 摩尼山は鳥取市覚寺(かくじ)に位置する喜見山(きけんざん)摩尼寺(まにじ)の山号である。摩尼山(まにさん 標高357m)は、大山・三徳山と並ぶ天台宗の拠点的霊山として信仰を集めてきた。旧参道と歴代住職等墓所、山腹の境内地に建立された堂宇群、自然環境などから構成された風致景観が良好に保全されており、巨巌・岩窟等からなる「奥の院」の奇景に優れている。山内に点在する多くの石仏群も独特の風致を添え、日本海・鳥取砂丘等を一望する鷲が峰の立岩(たていわ)はこの地域を代表する展望地点として親しまれてきている。現在はPM2.5の影響で遠くの景色までは一望できないが、昔は大山が見えるまできれいだったようである。平成28年10月3日には「意義深い名勝地」として評価され、国の登録記念物となった。


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 摩尼山鷲ヶ峰にそり立つ立岩は、帝釈天降臨の霊地とされている。「平安時代の初め頃、高草郡の産見長者が摩尼山に登ると、立岩に宝珠を持った帝釈天が降臨し、今よりこの峰に鎮座して衆生を救い、なかんずく五障の身である女人を済度しよう」と告げた。長者はこの地に精舎を建て、それを承和年間に慈覚大師(円仁)が再興したのが摩尼寺の起こりと言われている。しかし、最近の発掘調査によって、これはあくまでも架空の話で伝承に過ぎないという可能性が高くなった。その後、豊臣秀吉の焼き討ちに遭い寺は荒廃していたが、江戸時代初期に鳥取藩の藩祖池田光仲、その後見役の池田光政により、鳥取城の鬼門にあたる現在の山裾に再建された」と、縁起には記載されている。


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 摩尼山・摩尼寺の摩尼という言葉は古代インドのサンスクリット語に由来し、「宝石」「宝珠」を意味している。「宝石」「宝珠」は仏教において秩序や慈悲、思いやりなど悟りを開くための吉祥の要素を意味している。摩尼山には立岩の正面側に平場があり、明治期には平場と立岩の間に地蔵堂と鐘楼が建っていた。明治後期に撮影された写真や明治45年の「因幡国喜見山摩尼寺略記」によると、地蔵堂・鐘楼2棟が建っているのを確認できる。しかし、昭和18年の鳥取大地震によって地蔵堂は崩れてしまったようだ。現在は地蔵堂の基壇や鐘楼の礎石・建築部材が当初の状態で残っている。そこは、「賽の河原(西院の河原)」と呼ばれており、幼くして死んでしまった子供たちが父母の供養のために石を積んで等をつくる三途の川とされている。鬼が子供たちの作った塔を壊しにやってくるだが、地蔵尊に救われ、天国へ行くことができるという。


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摩尼山に登った感想
 行きに登った道と帰りの下山の道が違ったが、行きの道のりは整備が行き届いてない岩道・山道で、これを一人で登るのは本当に難しいと感じた。一人で登ることは修行になるが、命の危険もあるくらい危ない道であったので、修行僧の人たちを尊敬する。もし、一人で登れと言われたらあきらめてしまう。
 「賽の河原」と聞くとオドロオドロしい暗い場所なのかと思っていたが、景色もよく暗いイメージが吹っ飛んだ。灯篭や石仏群があり神秘的で、立岩の勇ましさも感じられるところであった。自然と人工物がなす神聖な場所であった。
 摩尼寺に参拝して帰ったが、本堂の立派な建物に魅力を感じた。もし、「奥の院」の平場に本堂が残っていたらもっと神秘的な場所になっていただろうと感じた。
 賽の河原で石積みし塔をつくったが、石一つひとつの形がバラバラでバランスがとれず、崩れやすかった。天へのぼる前に幼い子供たちが父母を思いながら積み鬼に壊されまたつくると考えると、苦行を強いられていると改めて感じた。(経営学部2年M.S)


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ヒマラヤの魔女(8)

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摩尼山「賽の河原」石積み塔づくり 感想文之壱

 ひと月遅れになってしまいましたが、11月10日に開催した「紅葉の摩尼山トレック-『賽の河原』石積み塔づくり」に参加した1・2年生のレポート優秀作を掲載します。当日は快晴、紅葉も最盛期であり、険しいながらも楽しいトレックを楽しめました。参加者は計48名(定員30名)。学生・教員等と学外者の比率はほぼ半々でした。
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1.摩尼寺門前から奥の院へ

 午前9時、環境大学に集合し、点呼を済ませ、バスに乗車。摩尼寺門前に到着後、門脇茶屋2階の大広間で先生からミニレクチャー、新パンフレット、山菜弁当を受け取りトレックに向けて準備を整えた。10時半過ぎに麓を出発した。前日の雨の影響で山道の足元が濡れており、とても滑りやすくなっていた。古参道は人ひとりが安全を確保して通るのがやっとの道幅であった。少し歩くと一本の丸太に平たい板を被せたような板橋が現れた。道案内の立て看板があったが、道はそれ以外に人の手は加えられておらず自然そのものであるように感じた。さらに歩くと平たい石が点在し少しだえ開けた空間が現れた。この石敷きは建物の礎石や基壇などの跡である可能性があるものだという。
 「賽の河原」での塔づくりの材料となる積み重ねやすい石を道沿いの川際で選び、ネット袋に収めていった。そこから20分ほど登ると先ほどよりも開けた平場の休憩場所に着いた。摩尼寺「奥の院」遺跡である。ここにも平たい礎石がいくつか数おおく露出していた。「奥の院」は斜面に沿って聳え立つ巨巌がとても印象的であった。17世紀の初めに巨巌を隠すほどの楼閣が2棟も建立されていたという先生の解説を聞きつつ、私はおやつとして持ち込んだドーナツを頬張った。


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2.鷲ヶ峰で賽の河原の塔づくり

 奥の院から鷲ヶ峰へのラストスパートでは、重さ5キロほどの石の入ったネットを左手にぶらさげ、空いた右手でで崖際のロープを手繰り寄せながら、急斜面の岩盤を登った。途中、巨巌の上段に人工的にえぐられた岩窟があり、その奥に五輪塔が安置されていることが確認できた。12時ごろ、目的地である鷲ヶ峰の賽の河原に到着した。摩尼寺では「西院(さい)の河原」とも呼ばれている。それはあの世とこの世の境(三途)でもある。幼くして死んでしまった子供たちが、娑婆にいる父母を偲んで石を積み塔をつくったように私たちも塔をつくる。鬼役の先生や先輩の方々が鬼に扮して塔をいったん崩した後、2年生でより頑丈で大きな塔(↑↓)を一基つくった。


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3.感想-新刊パンフレットの素晴らしさ

 摩尼山トレックでとても印象に残っていることが一つ。それは先生と東京のデザイナーQTCさんが協力して編集・制作されたパンフレットである。摩尼寺「奥の院」遺跡や鷲ヶ峰の歴史的価値のある建造物は災害および時間の経過による劣化によって廃れてしまい、実物を見ることはできなかった。だが、復元CGによって当時建っていた地蔵堂等の形、大きさ、位置が表現されていることで境内のイメージがしやすかった。トレッキングコースの注意点を記載したMAPがあったことは小さいお子さんを連れたお母さん方に配慮されていたと思う。英語訳がされていた点からは観光で鳥取を訪れた外国人が景観を楽しみつつ、鳥取ならではの文化にも触れてほしいという作り手のねらいも感じられた。摩尼山に対して興味を持つきっかけになり得る手書きのデザイン、分かりやすい説明が載せられている点も素晴らしかった。(環境学部2年YM)




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プロフィール

魯班13世

Author:魯班13世
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魯班(ルパン)は大工の神様や棟梁を表す中国語。魯搬とも書く。古代の日本は百済から「露盤博士」を迎えて本格的な寺院の造営に着手した。魯班=露盤です。研究室は保存修復スタジオと自称してますが、OBを含む別働隊「魯班営造学社(アトリエ・ド・ルパン)」を緩やかに組織しています。13は謎の数字、、、ぐふふ。

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