陳従周先生生誕百周年(5)
3.回想1984-華南放浪
魯般尺法の原流
1983-84年の年末年始は福建(廈門→泉州→福州)と江西(南昌)をまわった。閩南~閩北方面の民居/古建築を訪問することが大きな目的ではあった(図13)が、民間大工技術書『魯班経』『魯般営造正式』の引用する『事林廣記』の古い版本を福建省図書館で閲覧することが課題の一つであった。『事林廣記』は南宋の陳元靚が編纂した日用百科全書であるが、すでに宋代の原本は失われ、元代至順年間(1330-33)の影印本が中華書局より復刻されている(1963)。別集を含む全7冊により構成され、第6冊巻6に「算法類」があり、大工の寸法体系を複数記す。『魯班経』『魯般営造正式』が引用しているのは「魯般尺法」の部分である(句読点は筆者による/〓は不鮮明な漢字)。
魯般尺法: 淮南子曰。魯般即公輸般、楚人也。乃天下之巧士、能作雲梯之械。
其尺也以官尺一尺二寸為準。均分為八寸、其文曰財、曰病、曰離、曰義、曰官、
曰劫、曰害、曰吉。古乃北斗七星與輔星主之。用尺之法従財字量起〓、一丈十丈
皆不論、但丈尺之内量取吉寸用之。遇吉星則吉、遇凶星則凶。亘古及今公私造作
大小方直皆本乎。昇作門尤宜子細。又有以官尺一尺一寸、而分作長短寸者但改吉
字作本字・・・
官尺(曲尺)の1尺2寸を魯般尺(魯班尺)1尺として財・病・離・義・官・劫・害・吉の八寸に等分する。そして丈より短い寸の単位ではできるだけ、吉寸(財・義・官・吉)を用いるようにするというわけである。『魯班経』『魯般営造正式』では、こうした魯般尺法とともに、1・6・8の3つの数字を重視する曲尺法もあって、両者を併用するよう指示している。しかしながら、わたしが浙江省の座談会等で聞いた限りでは、大工はおしなべてそうした尺法を知らず、地方独自の吉凶の判断をしていた。
四川・雲南・貴州・広西・海南島など
浙江に続く江蘇省調査は3月からと決まったので、江蘇行の前後に華南各地をまわった。いずれも一ヶ月近いツアーになった。
1月23日~2月20日: 同済大学留学生のツアーに加わって、昆明と桂林を訪れた。桂林で留学生は解散となり、わたしは広州経由で香港にわたり、さらに海南島に飛んだ。当時の海南島は北端の海口のみ外国人に開放されていたが、幸運が重なって通什と三亜を訪問することができた。帰りは海口から船で広西チワン族自治区の湛江に渡り、南寧、長沙を経由して上海に戻った。
5月3日~5月30日: いったん西安まで北上し、その後、成都経由で昆明を再訪。大理まで足をのばして昆明に戻り、貴陽から重慶へ。重慶からは長江を下って武漢に至り、南京経由で上海に戻った。
後の研究に影響を及ぼした点は以下のとおり。
①昆明では、雲南省博物館で青銅器時代の「銅屋」をはじめてみた。大学院時代に「銅鼓にみえる家」という論文を書いていて、報告書等はよく読んでいたが、実物を目のあたりにして驚喜したのである。
②昆明の街にはまだ古い住宅が多く残っていて、翠湖南路などで二階建ての民家を何棟か調査した。また、路南県の名勝「石林」に近い五果樹村ではサニ族の民家を実測した(図13)。漢化した住まいではあったが、西南少数民族と接する初めての機会となった。
③桂林では漓江下りの際、遊覧船が埠頭をでてまもなく、竹筏にのった鵜匠が近づいてきた。鵜飼でとれた淡水魚を売るためである。そこからさらに遡上していくと、陽朔の近くで家船(住宿船)が群をなしており(図14)、周辺に竹筏が散在している。かれらは内水面で船上居住する蛋民であることが分かった。2000年以降、おもに東南アジアをフィールドにして進める水上居住研究の発端となる出来事であった。
④海南島では通什周辺でミャオ族の集落を見学した。藁を巻かない木舞に粘土を塗りつけた素朴な平屋の建物に住む。一方、三亜では主屋と炊事小屋を分離する二棟型住居を発見。沖縄やオセアニアの住まいと似ているが、居住者は漢族であり、次に述べる成都などのL字形平面住居の分散型と考えるべきと予測した。三亜では、沿海地域に広東方面から移住してきた蛋民たちが水上高床住居の群落を形成していた。
⑤成都盆地では散居村にL字形平面の茅葺き民家が点在する(図15)。漢族に特有な閉鎖中庭型ではなく、竹林に囲まれた開放外庭型であり、日本の農家と非常に近しい外観を有する。こうした民家も1990年代になると大きく改造されていく。
⑥大理は南詔・大理国以降の伝統をよく残し、洱海周辺の風景もすばらしく、衝撃的な印象をうけた(図16)。のち1990年代中ごろに住宅総合研究財団の助成により本格的な調査をおこなうことになる。
⑦貴州省の花渓で石葺き屋根の民家(図17)と大きな石板を真壁にする水車小屋をみた。こちらは1980年代後半の貴州省少数民族調査に受け継がれていく。
魯般尺法の原流
1983-84年の年末年始は福建(廈門→泉州→福州)と江西(南昌)をまわった。閩南~閩北方面の民居/古建築を訪問することが大きな目的ではあった(図13)が、民間大工技術書『魯班経』『魯般営造正式』の引用する『事林廣記』の古い版本を福建省図書館で閲覧することが課題の一つであった。『事林廣記』は南宋の陳元靚が編纂した日用百科全書であるが、すでに宋代の原本は失われ、元代至順年間(1330-33)の影印本が中華書局より復刻されている(1963)。別集を含む全7冊により構成され、第6冊巻6に「算法類」があり、大工の寸法体系を複数記す。『魯班経』『魯般営造正式』が引用しているのは「魯般尺法」の部分である(句読点は筆者による/〓は不鮮明な漢字)。
魯般尺法: 淮南子曰。魯般即公輸般、楚人也。乃天下之巧士、能作雲梯之械。
其尺也以官尺一尺二寸為準。均分為八寸、其文曰財、曰病、曰離、曰義、曰官、
曰劫、曰害、曰吉。古乃北斗七星與輔星主之。用尺之法従財字量起〓、一丈十丈
皆不論、但丈尺之内量取吉寸用之。遇吉星則吉、遇凶星則凶。亘古及今公私造作
大小方直皆本乎。昇作門尤宜子細。又有以官尺一尺一寸、而分作長短寸者但改吉
字作本字・・・
官尺(曲尺)の1尺2寸を魯般尺(魯班尺)1尺として財・病・離・義・官・劫・害・吉の八寸に等分する。そして丈より短い寸の単位ではできるだけ、吉寸(財・義・官・吉)を用いるようにするというわけである。『魯班経』『魯般営造正式』では、こうした魯般尺法とともに、1・6・8の3つの数字を重視する曲尺法もあって、両者を併用するよう指示している。しかしながら、わたしが浙江省の座談会等で聞いた限りでは、大工はおしなべてそうした尺法を知らず、地方独自の吉凶の判断をしていた。
四川・雲南・貴州・広西・海南島など
浙江に続く江蘇省調査は3月からと決まったので、江蘇行の前後に華南各地をまわった。いずれも一ヶ月近いツアーになった。
1月23日~2月20日: 同済大学留学生のツアーに加わって、昆明と桂林を訪れた。桂林で留学生は解散となり、わたしは広州経由で香港にわたり、さらに海南島に飛んだ。当時の海南島は北端の海口のみ外国人に開放されていたが、幸運が重なって通什と三亜を訪問することができた。帰りは海口から船で広西チワン族自治区の湛江に渡り、南寧、長沙を経由して上海に戻った。
5月3日~5月30日: いったん西安まで北上し、その後、成都経由で昆明を再訪。大理まで足をのばして昆明に戻り、貴陽から重慶へ。重慶からは長江を下って武漢に至り、南京経由で上海に戻った。
後の研究に影響を及ぼした点は以下のとおり。
①昆明では、雲南省博物館で青銅器時代の「銅屋」をはじめてみた。大学院時代に「銅鼓にみえる家」という論文を書いていて、報告書等はよく読んでいたが、実物を目のあたりにして驚喜したのである。
②昆明の街にはまだ古い住宅が多く残っていて、翠湖南路などで二階建ての民家を何棟か調査した。また、路南県の名勝「石林」に近い五果樹村ではサニ族の民家を実測した(図13)。漢化した住まいではあったが、西南少数民族と接する初めての機会となった。
③桂林では漓江下りの際、遊覧船が埠頭をでてまもなく、竹筏にのった鵜匠が近づいてきた。鵜飼でとれた淡水魚を売るためである。そこからさらに遡上していくと、陽朔の近くで家船(住宿船)が群をなしており(図14)、周辺に竹筏が散在している。かれらは内水面で船上居住する蛋民であることが分かった。2000年以降、おもに東南アジアをフィールドにして進める水上居住研究の発端となる出来事であった。
④海南島では通什周辺でミャオ族の集落を見学した。藁を巻かない木舞に粘土を塗りつけた素朴な平屋の建物に住む。一方、三亜では主屋と炊事小屋を分離する二棟型住居を発見。沖縄やオセアニアの住まいと似ているが、居住者は漢族であり、次に述べる成都などのL字形平面住居の分散型と考えるべきと予測した。三亜では、沿海地域に広東方面から移住してきた蛋民たちが水上高床住居の群落を形成していた。
⑤成都盆地では散居村にL字形平面の茅葺き民家が点在する(図15)。漢族に特有な閉鎖中庭型ではなく、竹林に囲まれた開放外庭型であり、日本の農家と非常に近しい外観を有する。こうした民家も1990年代になると大きく改造されていく。
⑥大理は南詔・大理国以降の伝統をよく残し、洱海周辺の風景もすばらしく、衝撃的な印象をうけた(図16)。のち1990年代中ごろに住宅総合研究財団の助成により本格的な調査をおこなうことになる。
⑦貴州省の花渓で石葺き屋根の民家(図17)と大きな石板を真壁にする水車小屋をみた。こちらは1980年代後半の貴州省少数民族調査に受け継がれていく。