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頭塔再考(5)

6.浄土と伽藍の距離

(1)境内とストゥーパの位置関係
 要するに、良弁は東大寺の1km南に巨大なストゥーパを造営したかったのだというのが本稿の結論である。それを日本の中期密教とはまったく無関係とされるチベット仏教(後期密教)の実例を拠り所にして筆者は論じようとしている。こうした考え方は歴史学的にみれば論外だとして排除されるかもしれないが、チベットとインドネシアに類似する方形段台型仏塔が存在するという事実は、東南アジアの上座部仏教にも密教の波動が及んだことを暗示している。その波動の震源はもちろんインドにあった。インドを震央として一方はチベット、一方はインドネシア、一方は日本にまでその激震が伝わったのだとすれば、日本が密教を受容した7~9世紀ころの中国にも方形段台型仏塔が建立されていた可能性があるのではないだろうか。かりにそうしたモニュメントが中国に存在しなかったとしても、インド所在の原型に係わる情報は、遣唐留学僧や日本に招聘されたインド僧・中国僧によって8世紀の日本にもたらされていたであろう。筆者がかつて述べた「汎アジア的な宗教的波動」[浅川2001・2013]とはこうしたイメージによるものである。
 以上を踏まえたうえで、まずはチベット・ブータン地域における仏教僧院境内とストゥーパ(群)の位置関係について整理しておく。両者は約150mから1km以上離れていて、ストゥーパ(群)は基本的に上円下方の多宝塔形式であり、1)1基単独、2)5基程度の並列、3)高い基壇に5~9基を対称配置(金剛宝座塔風)、4)広大な方形区画に多数群集、5)方形段台型仏塔、の5パターンに分けられる。あえて強引に分類するならば、3)4)は金剛界系の立体マンダラ、5)は胎蔵界系の立体マンダラと言えるかもしれない。ただし5)については、上円下方を呈する多宝塔系ストゥーパの最終進化形としても理解できる。頭塔が5)タイプだとするならば、五重をたんなる伏鉢状構造物とみなした筆者の復元案は失格であり、楊鴻勛先生の方案1・2がやはり優れた復元案だと評価すべきだが、五重の遺構は思いのほか小さめであり、心柱抜取以外は削平されている点が気にかかる。

(2)浄土との距離を投影する水平軸
 伽藍の正門対面に建つ以上のストゥーパ(群)は、境外にあって境内を浄化し守護する役割を担う尊格(群)の象徴と推定される。とすれば、もっと境内に近い位置にあってもよいであろうに、実際にはどのパターンにおいても伽藍とストゥーパ群の間には結構な距離がある。むしろ両者は距離を隔てる必要があったと考えるべきであり、筆者はこの水平距離を垂直距離の代替概念として捉えている。
 頭塔の段台壁面の仏龕に納められた44体の石仏については、すべてが同定されたわけではないけれども、毘盧遮那仏浄土、阿弥陀浄土、釈迦浄土、多宝仏如来、過去仏如来、弥勒浄土などを描いていることが明らかになっている。このほか削平された最上層にもおそらく1体の仏を祀っていただろうから、おそらく45体の尊格によって構成される複合的な浄土を頭塔は表現するモニュメントだと考えてよかろう。良弁は東大寺境内の守護を彼岸あるいは天上にある浄土の世界に託したのではないだろうか。彼岸/天界は此岸から遠い場所にある。そうした宇宙観を二次元的に表現するために頭塔=立体マンダラ(複数の浄土世界)を造営し、天-地(彼-此)の垂直軸(あるいは遠距離性)を南門-頭塔の水平軸に投影させたように思うのである。

 最後に大野寺土塔の意味についても触れておきたい。大野寺の土塔もまた巨大なストゥーパであった。土塔・頭塔のいずれも戒壇状の段台ばかりに注目が集まるけれども、それはストゥーパの下層=初重部分であって、土塔の場合、12段のテラスに直接葺かれた瓦屋根の全体が木造多宝塔の裳階に相当する。一方、東大寺頭塔では段台が戒壇状になり、壁面の仏龕に石仏を安置し、その石仏群を保護するように瓦直葺きの小庇をめぐらせた。それは青海省ゴマル寺の立体マンダラに設けられた仏像保護のための短い軒に相当する。頭塔の瓦葺き小庇はそうした短い軒の日本的表現であり、技術的には大野寺土塔で行基が独創的に採用した瓦直葺きを継承したものと理解すべきであろう。頭塔は東大寺開山の祖、良弁が弟子の実忠に命じて造営させたと言われるが、それは行基の遺志だったのかもしれない。【完】

《付記》
 本稿は2018~2020年度科学研究費基盤研究(C)「ブータン仏教の調伏と黒壁の瞑想洞穴 -ポン教神霊の浄化と祭場-」及び2019年度公立鳥取環境大学特別研究費「四川高原カム地区のチベット仏教と能海寛の足跡に係る予備的調査研究」の成果の一部である。


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頭塔再考(4)

5.後期密教と立体マンダラ
(1)後期密教とチベット・ブータン地域
 インドで8世紀以降に流行する密教が「後期」にあたる。ヒンドゥ教のシャクティ(女性の性的な力)の影響をうけて信仰にセクシャルな側面が顕在化し、また『大日経』が衰退して『金剛頂経』系の密教に偏向したこともあって邪教視される傾向もあり、後期密教と日本の密教はいっさい関係がないと指摘されてきた。
 チベット・ブータンは後期密教を信仰する代表的地域である。8世紀後半、北インドの僧パドマサンバヴァ(Padmasaṃbhava 中国名「蓮華生大師」)がこの地に密教をもたらした。「吐蕃」王朝の時代のことである。吐蕃の初代王ソンツェンガンポが7世紀にネパールから妃を迎えて仏教に帰依したことでこの地に仏教は萌芽するが、次第に衰退の兆しをみせはじめ、ティソン・デツェン(Khri srong lde brtsan 742-797)王が仏教再興の肝入としてパドマサンバヴァを招聘したとされる。パドマサンバヴァはボン教系の「魔女」や「悪霊」を調伏し仏教側の護法尊として取り込みながら、インドの後期密教を巧みに変容させてチベット仏教の基礎を築いた。この最初期の宗派をニンマ派(古派=紅教)という。パドマサンバヴァはティソン・デツェン王の支援の下、サムイェー寺(bsam yas、中国語「桑耶寺」)の創建に携わり、寺は771年に落慶法要を迎える。広大な円形平面の中心に高層の楼閣式本堂を据え、その周囲にストゥーパなどの堂塔を対称形に配する「立体マンダラ」式の伽藍である。その源流はインドにあり、後にはモンゴル、清朝北京、熱河などにも同形式の僧院が波及した。このように、チベットにおいては8世紀後半に立体マンダラと呼びうる伽藍が誕生しており、ストゥーパ(宝塔)やマンダラなどの密教的要素も当然招来されていた。
 ここまで通説に従い、初期・中期・後期の年代順に密教を概説してきたが、受容する側からみた場合の年代差はさほど大きくない。上にみたように、中国の中期密教は7世紀に導入され、8世紀になって成熟する。一方、チベット周辺で仏教は7世紀に胎動し始め、8世紀後半になって後期密教が根付いてゆく。つまり、中国中原周辺とチベット周辺ではほぼ同時期に密教を受容したことに注目したい。遅くとも8世紀後半までには、両地域にストゥーパ(宝塔)やマンダラが伝わっていたと考える所以である。

(2)ブータンの崖寺とストゥーパ
 2012年以来、毎年ブータンを訪れ、おもに崖寺と瞑想洞穴(中国語の「修行洞」)の調査を続けてきた。それと併行して、西蔵自治区および青海・四川・雲南の蔵族自治区もこの5年で4回訪問している。今年(2019)の調査では、本稿を意識してストゥーパ(群)と仏教僧院との位置関係に注目した。なお、チベット・ブータン地域におけるストゥーパは仏舎利塔ではなく、個別の尊格を描いた小さなパネル状の画像を壁面ないし仏龕内に貼りける宝塔/多宝塔の類である。
 山野の宝塔群: ストゥーパは必ずしも仏教僧院と複合するわけではない。山野の聖域に独立もしくは群として建設される。たとえば、二つの川の合流地点や峠は地方の境域にとどまらず、天地の境界とみなされ、悪霊が跋扈するのでストゥーパによって浄化するのである。この点、仏法による調伏の機能と似ている。たとえば、ティンプー川とパロ川の合流地点には、向かって左からネパール式、チベット式、ブータン式の三塔が並列され、その前側にはラダック式の小塔までも設置している。上記三塔のうち、ネパール式は上円下円、チベット式は上円下方、ブータン式は上方下方の二重構造になっており、日本語に訳すならば「多宝塔」がふさわしい。しかし、ブータンでストゥ-パが二重になるのは例外的であり、正方形もしくは長方形平面の単層構造が主流である。この場合、日本語では「宝塔」と訳すべきかもしれない。要は、宝塔/多宝塔の区別はなく、これらのストゥーパは一様に現地の言葉ではチョルテン(chorten)と呼ばれている。首都ティンプーからプナカへ至る途中のドチュラ(dochura)峠には長さ約38mのマニ・ダンリム((Mani danlim 壁のように長いストゥーパ)があり、プナカからポプジカに至る途中のラワラ(Lawala)峠には大基壇上に9基のストゥーパを群集させるチョルテンがある。中国の金剛宝座塔を髣髴とさせる造形だが、ストゥーパはいずれもチベット式で、中心の大塔にパドマサンバヴァ、周囲の小塔には釈迦如来、無量光仏、文殊菩薩などを祀り、規則的に配列されたこれらの尊格群=マンダラによって場所を浄化しているものと思われる。
 伽藍正門から離れて建つストゥーパ: 今年の主要調査地となったポプジカ(popjikha)谷の奥まった山腹に境内を構えるクブン(Kubum)寺は小さな山寺ではあるけれども、ブータンにおいてボン教と係わる唯一の僧院であり、特筆すべき存在である。実際にはニンマ派(古派)仏教と習合しているが、縁起は7世紀に遡る。クブン寺のほぼ正面、およそ150m離れたところに小振りのストゥーパを1棟構えている。参道はなく、ストゥーパのまわりの草原に踏み分け道ができている。このように境内の正面南側に宝塔を配する例は、ブータンでもチベットでも少なからず確認できるが、クブン寺の場合、山間斜面に視覚的な障害物がいっさいないおかげで、本堂/境内とストゥーパの位置関係を鮮明に意識できる。ストゥーパ(群)は中心堂宇からかなり離れている門前正面の境外に建つ。この立地上の特性は本稿にとってきわめて示唆的である。
 同じポプジカのケワン(Khewang)寺は平地に境内を構えるニンマ派の寺院である。この寺の場合、門前正面ではなく、僧院背面の村落と境内を両方見通す草原に5つのストゥーパを並列させる。五大如来を祀るチベット式宝塔群であり、その中心仏は大日如(Vairocana)であるとインフォーマントは説明した。このストゥーパ群も門前から220mばかり離れた位置にある。
 ポプジカ最大の寺院で仏教大学や瞑想センターを附属させるガンテ(Gangtay)寺の場合、伽藍南門から約400m離れた参道の行き止まり、三叉路の位置に壁式チョルテンを置く。中国の照壁/影壁をイメージさせるかもしれないが、ブータンの壁式チョルテンは進路と同方向を向き周辺にロータリーができる。ガンテ寺の壁式チョルテンの長さは約21m、その両端にチベット式ストゥーパを置く。壁式チョルテン自身も中央と両端部を平柱状に厚くしており、中央部には正面側に釈迦過去仏・釈迦・弥勒、背面側に文殊・観音・金剛の三菩薩を祀り、壁面には真言を反復して記す。



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頭塔再考(3)

3 頭塔の系譜と造立背景

(1)「発想源としての塼塔」説
 楊鴻勛先生が短時間のうちに描きあげた 3 つの復元案のうち、伏鉢状の構造物を最上層に据えた方案 1 と方案 2 に強い衝撃を受け、筆者はそのバリエーションとして自らの復元案を呈示したが、正直に告白するならば、今でも楊先生の復元案のほうがはるかに優れていると思っている。楊先生と筆者の復元案は頭塔を「立体マンダラ」として捉える発想に基づいているが、日本建築史の常識としてみれば、マンダラも宝塔・多宝塔も平安初期(9世紀)以降の密教と複合するものであり、当時の奈文研ではむしろ「塼塔」起源説が優勢であった。中国考古学を専攻する町田章氏がその代表であり、古代瓦研究の第一人者であった上原真人氏も「大野寺土塔・頭塔が瓦葺であるから南方系ではありえず、中国の塼塔の影響を受け、それを低平に表現したものにあたる」[岩永2019:p.376]とみなしていた。発掘調査報告書[2001]の編者である岩永氏も同様であり、新著の第10章「頭塔の系譜と造立事情」において、A「日本の類例」、B「南方起源説」、C「朝鮮半島の類例」、D「中国系の考え方」を細かに検討し、E「中国塼塔が発想源か」という結論を導いている[岩永2019:pp.367-381]。A~Dのうち最も否定的にとらえられているのは西村貞[1929]、石田茂作[1958・1972]、森薀[1971]、斎藤忠[1972]ら諸先学がそろって主張したB「南方起源説」である。東南アジアの上座部からの影響については、大仏開眼会のために招聘されたインド僧菩提僊那が中国経由で来日していることにより排除され、ボロブドールの建立年代も8世紀末~9世紀前半に下り、カンボジアやミャンマーに盛行する方形段台の仏塔はさらに年代が下るので、「問題にならない」として排除している。要するに、段台に瓦屋根を葺いているか否かが岩永氏の判断基準となり、その帰着として「中国の塼塔を発想源とみるのが最も妥当であろう」という結論に至る。要するに、塼を使わない段台遺構を塼塔起源だとみなしているわけだが、その短所は岩永氏自身も承知しており、
  ただし、(略)日本でも塼は多用しており、塼塔そのものを造りえたにもかかわらず、
  大野寺土塔では土のみ、頭・塔では土・石で築いており、決して塼塔ではないのが
  この説の難点である。
と断ったうえで、
  しかし、素材は異なるものの、軸組ではなく素材の単純な積み上げで造る工法、
  瓦を葺くものの軒の出がほとんどない形状、木造塔の場合より明瞭に現れる
  各層のセットバック、などから発想源として塼塔を考えるのは無理ではあるまい。
とまとめている。

(2)塼塔起源説に対する違和感
 中国建築史研究の末端を汚す一人として、筆者は、塼を使わない段台状遺構に塼塔の残影を感じることができないでいる。塼塔について筆者が単純に抱くイメージは、北魏登封の嵩岳寺塔以来、唐代まで塼塔の主流は密檐式多層塔であり、五代以降、塔身のまわりに木造瓦葺きの軒を模倣した腕木や組物を塼造で表現するようになる、という変化のプロセスである。おそらく唐代にあっては木造楼閣式多層塔と密檐式多層塔が併存しており、前者が後者に影響を与えて塔身まわりに木造瓦葺きの軒を石造で表現した塼塔に変容していくのであろう。8世紀中期の頭塔が「塼塔を発想源」にしたというからには、モデルとなった塼塔は密檐式であったはずだが、密檐式塼塔の短い軒は瓦葺きではなく、壁と同様の塼造とするのが一般的である。かりに木造の軒を伴う塼塔が唐代以前に遡るとしても、その軒は腕木に支えられた比較的長いものであり、壁面の外側に半尺程度しか出ない頭塔の瓦屋根とは異なる。
 そもそも五重の塼塔であるならば、当時の日本の技術力をもってすれば建設できないわけはなかったであろうし、木造で塼塔に近い意匠の構造物を模造することもできたはずである。しかも、東大寺境内には天下無双の七重塔が屹立していた。そうした七重双塔がありながら、なぜ1km離れた南大門の正面に塼塔(を発想源とする仏塔)を造らなければならなかったのか。岩永氏は、頭塔の位置が東大寺の南北軸と新薬師寺の東西軸が交差する点に近いことから、両寺の造営に係わった光明皇太后(母)の病気平癒を願う孝謙天皇(娘)の意思を読み取ろうとしている。しかしながら、塼塔と病気平癒にいったい何の因果関係があるというのであろうか。
 
(3)新しい仏教の波動
 筆者は発掘調査報告書[2001]に掲載する頭塔上層の復元案を描き終えた後、塼塔起源説に対する懐疑がさらに増幅していった。方形段台の壁面に多数の仏龕を配し、その中央に円形(もしくは正多角形)の伏鉢状構造物を配する姿は、立体マンダラと表現すべきモニュメントであり、直接的な系譜関係を想定しえないにしても、ボロブドールに代表される上座部仏教の方形段台型仏塔との親縁性を完全に否定するのは行き過ぎだと感じるようになっていたのである。実際、東南アジアの上座部仏教圏に限らず、新疆の北庭高昌回鶻仏寺遺址(10~13世紀)、西蔵ギャンツェ地区白居寺菩提塔(1414)などの大乗仏教圏にも類似のモニュメントが存在しており、それより古い遺構が存在しなかったと確定しているわけではない。現存する塔の内側に古い時代の遺構が隠されている可能性もあるし、なにより新疆から西蔵に至る地域は広大であり、古式の遺構がみつかっていないだけであって、存在しないと断言できる状況には未だないことを知っておくべきである。わたしは発掘調査報告書[2001]の論考を以下のように締めくくった(拙著『建築考古学の実証と復元研究』[浅川2013]に再録するにあたって修正・加筆している)。

  上座部仏教の立体マンダラとしてボロブドールが誕生した8 世紀、インドからチベット
  周辺に仏教が伝播して「ラマ教」と呼ばれるようになり、また日本には土塔や頭塔が
  築造されている。そうした汎アジア的な宗教的波動の一波として、東大寺大仏開眼と
  係わるインド僧菩提僊那や林邑僧仏哲などが日本に招聘され、当時としては最も
  革新的な「立体マンダラ」としての仏塔が日本にも出現したと考えるべきではないだろうか。
  時代は前後するが、東寺旧蔵本の法華経曼荼羅には、伏鉢に似た宝塔を中央に描き、
  周辺の方格部分に多数の仏像を配して宝塔を荘厳している。こういう空間構成を立体化
  したのが頭塔であり、だからこそ「立体マンダラ」という仮称を与えているのだが(略)、
  革新的立体マンダラとしての仏塔は日本に根付かなかった。私見ながら、真言密教とともに
  伝来したとされる宝塔や多宝塔がそれに取って代わったのだろう。とりわけ宝塔に裳階を
  つけた多宝塔は「上円下方」の構造を有しており、最小の立体マンダラというとらえ方も
  できなくはない。そういう見方は大胆すぎるという謗りを免れえないにしても、奈良時代後半の
  立体マンダラから平安時代の宝塔・多宝塔への展開という道筋を想定することは決して
  無益でないと考えている。



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頭塔再考(2)

2.頭塔の遺構解釈と先行復元案

(1)頭塔の遺構
 頭塔は上下2層の遺構が確認されている。いずれも版築構造の段台である。下層遺構はいびつな台形平面を呈する三重の段台であり、各辺が緩く蛇行し基壇上面が水平ではないなどの建築的欠陥を伴い、仏龕は東面中央でしか発見されていない。また、上層遺構によって大きく削平・撹乱されているため、完成/未完成の判断は微妙だが、報告書ではいちおう完成をみたと推定している。年代については、下層遺講が古墳を破壊している事実が正倉院文書「造南寺所解」の記事と関連付けられることから、大仏殿竣工直後の天平宝字4年(760)ころの着工とみなされる。四聖のうち菩提僊那がこのころ逝去し、聖武上皇、行基はすでにこの世にない。良弁が頭塔造営の主体であった。
 本論で復元考察の対象とする上層遺構は、基壇規模が東西長32.75~33.0m(110.5~111.5尺)、推定南北長31.8~32m(107.4~108.1尺)を測り、1 辺110尺前後の方形平面に復元される(天平尺=29.6cm)。基壇を含めて版築のテラスが 7 段確認されており、奇数壇からたちあがる壁面に仏龕を設けて石仏を安置している。石仏の数は、初重が5体、三重が3体、五重が2体、七重が1体の計11体であり、四面で計44体を数える。また、奇数壇は水切り勾配程度の傾斜(5~10°)を有するが水平に近くて比較的長く、偶数段は勾配(25~30°)が奇数段よりも強くて幅が短い。すなわち、奇数段のテラスはほぼ水平で、それに接して直立する壁面に仏龕を設け石仏を納めており、偶数段は短い傾斜面に瓦を葺き下側の壁面と石仏を保護していたと推定される。この場合、瓦葺き裳階(もこし)状の小庇の軒桁を受ける柱が奇数壇上に存在したか否かが問われるであろう。しかしながら、掘立柱の掘形や抜取穴はまったく検出されていないので、柱が立っていたとすれば、テラス石敷に柱の直置きか、土台建のどちらかを想定するしかない。前者の場合、柱下端のアタリ痕跡が確認されているわけでもないし、かりにその構法を採用していたとしても、庇を受ける構造はきわめて不安定なものだったであろう。一方、後者の場合、柱の土台建基礎構法が古代まで遡る証拠はなく、石敷テラス上面に土台のアタリ痕跡はやはり検出できていない。とすれば、瓦は短い斜面に粘土をおいて直接葺いたものであったと推定される。その場合、垂木も粘土で緩斜面に固定し、先端に瓦座を配したのであろうが、構造上、壁面からの瓦座の出は半尺(約15cm)程度、もしくはそれ以下でなければ納まらなかったはずである。なお、頂部には心柱の抜取穴があり、その底部に心礎を残す。
上層の年代について岩永氏は、天平宝治末年から天平神後ころに着工して、『東大寺要録』『東大寺別当次第』の記す神護景雲元年(767)に竣工、長岡宮期に廃絶したであろうと推定している。

(2)発掘調査開始以後の頭塔復元案
 奈文研A案・B案:  奈文研の発掘調査開始後、最初に頭塔上層図の復原案を描いたのは細見啓三氏(当時主任研究官)である[巽 1989]。細見氏はすべてのテラスに瓦を葺く七重案(奈文研A案)と偶数段のみ瓦を葺く五重案(奈文研B案)の両案を描いた。いずれもテラス上に柱を立てて瓦屋根を受ける構造としている。日本の建築らしい軒の深さを表現した美しい外観に仕上がっているが、上にのべたように、奇数壇上に柱を立てた痕跡は皆無であり、偶数壇はすこぶる狭く、テラスが前方に傾いている。これを七重案(A案)とすれば、石仏が壁に立つ奇数段もそれがない偶数段も屋根で覆われるという矛盾が露呈し、肝心要の石仏が外から視界に納まりにくいという難点がある。一方、五重案(B案)は石仏との関係からみれば妥当な解釈だが、深い軒を支持していた柱の痕跡がテラス上にないという問題をクリアできていないのはA案と同じである。
 当時の奈文研平城宮跡発掘調査部の雰囲気を回想するならば、従来のボロブドール風南方起源説を否定して、中国の、おもに中原・華北に卓越した「台榭建築」もしくは「塼塔」を頭塔の源流とみる考えに傾いており、細見案はとりわけ前者をイメージしたものだと聞いている。しかしながら、戦国時代~漢代に盛行した台榭建築はすでに初唐の段階でほぼ消滅しており、塼を使わない方形段台を塼塔の塔身の変形だとみる見方についても全面的な支持を得ていたわけではない。
 杉山信三の戒壇説復元案:  以上の奈文研A・B案に対して、杉山信三氏(当時京都市埋蔵文化財研究所長)は頭塔を「戒壇」とみて五重案を呈示した[杉山1991]。杉山案発表後に心柱跡が検出されたので戒壇説はありえないけれども、復元された構造・意匠は奈文研B案に近いものである。ただし、柱の基礎を土台としている。すでに述べたように、土台の圧痕がテラスに残っていたわけでもなく、その前提として、奈良時代建築に土台が使われていたという証拠があるわけでもない。
 楊鴻勛の立体マンダラ復元案:  その後、1993年に画期が訪れる。奈文研の招聘によって中国社会科学院考古研究所.(考古研)の楊鴻勛先生が来日されたのである。楊先生は建築考古学の大家であり、筆者が1992年に考古研を主たる受入機関として学術振興会特定国派遣研究員の課題「中国早期建築の民族考古学的研究」に取り組んだ際の指導教官であった。楊先生は筆者の案内で短時間ながら頭塔の現場を視察し、その直後に頭塔の復元図を描かれた。奈文研遺構製図室のドラフターと 4 Hの鉛筆を使って、半時間ばかりの間に 3 つの「方案」を仕上げられたのである[浅川 1994]。3 案のうち「方案之三」は奈文研B案や杉山案に近いものだったが、他の2案の発想には仰天させられた。「方案之一」は五重塔最上部に巨大なストゥーパを建てる案、「方案之二」は最上層を多宝塔形式にする案である。チベットや中国西域に現存する方形段台型仏塔=立体マンダラの姿を脳裏に焼きつけているが故の発想と思われるが、その時点まで、日本人研究者の誰一人として円形構造物を最上層に設置するアイデアを示していない。頭塔の最上層は心柱の抜取穴が確認されるのみで、旧遺構面は削平されていたから、楊先生のエスキスが発表されてから後も日本建築史研究者は伏鉢状円形構造物を「何の証拠もない」として斥ける暗黙の反応が共有されていたように記憶する。
 しかしながら、まもなく大野寺土塔(大阪府堺市)の発掘調査が進み、十三重塔の最上層に円形構造物の基礎とみられる粘土ブロックが発見され[堺市教育委員会 2007(報告書)]、楊先生の「方案之一」「方案之二」を裏付ける結果となった。ちなみに、大野寺は行基49院の一つであり、土塔は出土瓦銘により神亀四年(727)ころの築造が確定している。土塔の遺構は十三重塔に復元でき、緩傾斜のテラスに瓦を直に葺いたことが明らかになっている。楊先生の頭塔復元案は瓦の直葺きを想定して軒を短くしており、軒支柱を立てていない。日本建築の常識を逸脱しているという誹りを免れ得ないかもしれないが、遺構との整合性については日本人研究者の復元案以上に高く評価せざるをえないだろう。


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頭塔再考(1)

1.東大寺と頭塔

(1)東大寺と毘盧遮那大仏
 聖武天皇(702-756)は天平13年(741)、仏教による国家鎮護のため、日本全土六十余国に国分寺建立の詔を発した。翌年、大和(奈良)の国分寺を若草山麓にあった金鐘寺(こんしゅじ)と定め、寺名を金光明寺と改める。ただし、このとき大和=平城京は日本の首都ではなかった。皇室は恭仁京(現京都府木津川市)、天皇は紫香楽宮(現滋賀県信楽町)にあり、天平15年(743)に毘盧遮那大仏造立の詔を発している。この時点では、紫香楽の甲賀寺で大仏の鋳造が進んでいた。
 天平17年(745)、都は平城京にもどる。還都後、大仏鋳造事業は天平19年ころから大和国分寺で再起動し、金光明寺は「東大寺」と呼ばれるようになる。大和国分寺が六十余国の国分寺を統括する総国分寺として大化けした瞬間と言ってよかろう。艱難辛苦の末、毘盧遮那大仏が完成したのは天平勝宝4年(752)、そののち毘盧遮那仏を覆う金堂、すなわち大仏殿が竣工をみたのは聖武天皇没後の天平宝字2年(758)に下る。東大寺でとりわけ大仏創建に尽力した聖武天皇、良弁(初代別当)、行基(大僧正)、菩提僊那(インド僧)を「四聖」と呼んで崇拝している。このうち本稿と深く係わるのは後二者であり、頭塔の宗教的性格を考察する上で避けて通れない人物である(後出)。東大寺は華厳宗の大本山でもあるが、宗派という概念が日本仏教に定着するのは中世以降のことであって、奈良時代の華厳宗・法相宗・律宗・三論宗・成実宗・倶舎宗はいずれも学派に近いものであり、ほとんどの大寺が複数の学派を修学しており、東大寺の場合も「六宗兼学の寺」とされた。
 東大寺の境内はすこぶる広大であり、中心となるのはもちろん大仏殿院である。伽藍配置は形式上、薬師寺とともに一金堂二塔式に分類されるが、薬師寺では東西の三重塔が回廊の内側にあるのに対して、東大寺では東西の七重塔が回廊外に配されていた。高大な双塔ではあるけれども、伽藍の中心はあくまで大仏殿(金堂)であり、仏舎利を象徴する七重塔は毘盧遮那を荘厳する脇役であったとみなさざるをえない。大仏殿は法隆寺金堂に代表される二重入母屋式のスタイルとは異なり、『周礼』考工記にいう「四阿重屋」のような中国式の構造をしており、その形式は現存する再々建の大仏殿に受け継がれている。すなわち、九間四面の寄棟造平屋建の本体に裳階(もこし)をめぐらせており、二階建の外観にみえるが、じつは平屋の建物である。明清紫禁城太和殿の構造とじつによく似ている。
 こうした独特の構成からなる8世紀の伽藍も、12世紀末の平家の焼き討ちにより、ほぼ灰燼に帰す。8世紀とみなされる唯一の遺構は法華堂の正堂部分のみである。じつは、この小さな堂宇こそが、金鐘行者の異名をもつ若き日の良弁に聖武天皇が与えた羂索院であり、金鐘寺の母胎となった。平家による焼き討ちの直後、無名の僧、重源(1121-1206)が伽藍復興の総合プロデューサ、すなわち大勧進聖に任命される。通説によると、入宋三度の経験をかわれての大抜擢であり、たしかに重源は中国福建省の建築技法を大胆に取り入れ、鎌倉幕府の支援のもと伽藍の復興をなしとげる。ここに中世「大仏様」が誕生したのである。こうして整備された中世東大寺の伽藍も、永禄10年(1567)の三好一族対松永氏の抗争により再び灰燼に帰す。その後、毘盧遮那大仏の修理は元禄4年(1691)に完了し、再々建大仏殿は宝永6年(1709)に竣工した。ちなみに、重源が再建に係わった東大寺境内の建造物は南大門、法華堂礼堂、開山堂内陣の三棟のみ現存する。ただし、鐘楼も鎌倉時代の遺構であり、大勧進聖の職を重源から受け継いだ栄西(1141-1215)の遺作である。栄西もまた二度の入宋経験のある留学僧であり、日本に臨済禅を招来した。結果として、東大寺鐘楼には大仏様と禅宗様の様式が交錯している。

(2)頭塔の調査
 本稿の主題は上に述べた東大寺境内の建造物ではない。東大寺南大門から南へ約 1 ㎞のところに所在する「頭塔」について再考しようとするものである。大仏殿竣工の9年後にあたる神護景雲元年(767)、初代別当良弁が弟子の実忠に命じて造らせた「土塔」がこれにあたり、平安時代末ころから奈良時代の遣唐留学僧、玄眆の首塚とする伝説がひろまって訛音し、「頭塔」という呼称が定着したとされる。
 頭塔は戒壇状を呈する方形段台の壁面に44体の石仏を配した特殊な塔であり、戦前・戦後の昭和を通して注目を集めてきた。西村貞[1929]や石田茂作[1958]は行基が大仏開眼のために招聘したインド僧菩提僊那、林邑僧仏哲などの来日の影響に伴うインド風ストゥーパ、雛壇式塔(方形段台型仏塔)の影響を指摘し、斎藤忠(1972)は堺市大野寺の土塔、岡山県熊山遺跡とともにインドネシア・ジャワ島の仏教遺跡ボロブドール(8世紀後半)との類似性を説いて頭塔の南方起源説を展開した。とくに石田茂作の示した復元案は傾斜の強い偶数段に直接瓦を葺く特殊な外観をもつものであり、日本建築の常識から逸脱した豪快かつ朴訥な意匠によって異彩を放っている。
 奈良国立文化財研究所(奈文研)は、1987年度より頭塔の本格的な発掘調査に着手し、1996年度までに北半全域・東南隅・頂部の調査を終え、2000年度末に正式な調査報告書を刊行した[奈文研2001]。このときの編者が岩永省三氏(現九州大学総合研究博物館教授)であり、わたしは上層遺構の復元を担当した。報告書刊行後も岩永氏は頭塔に係わる論考を発表されており[岩永2003・2007]、このたび頭塔の論考二篇を含む大著『古代都城の空間操作と荘厳』[岩永2019]を上梓され、ご寄贈いただいたので、その内容に触発され、ここに頭塔の復元に係わる問題について再考しようと思い立った次第である。なお、以下に記載する頭塔の発掘調査成果は基本的に奈文研[2001]を要約したものであるが、岩永氏の新著[岩永2019]からも若干補っている。 【続】

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風の谷 ポプジカ紀行(1)-第8次ブータン調査

0905ネーフック遺産001 ネーフック遺産中心施設


初めての海外旅行-ブータンへ

 9月4日(水)。ブータンに向けて出発するため、午後2時ころ関西国際空港に集合しました。私は海外に行くのは初めての経験だったのですが、他の学生はみな海外旅行の経験があったので出国手続きのやり方などを教えてもらいました。とても頼もしく感じました。手続きを終えて午後5時半ころ関西国際空港を離陸、6時間ばかりのフライト後、タイ時間の21時半にスワンナプーム国際空港に着陸しました。例年はこのまま空港内で早朝の飛行機を待ってブータンにトランジットしたそうですが、今年はタイムテーブルが突然改変されて午後発となり、初日の夜は空港近くのホテルで一泊しました。簡単な打ち合わせの後、翌日に備えて就寝しようとしましたが、男3名は冷蔵庫の缶ビールに手がのびて・・・ 


0905ネーフック遺産002 0905ネーフック遺産003sam


 9月5日(木)。朝食はホテルのプールサイド・レストランでいただきました。初めて食べるタイ米と生姜の味が強い肉野菜炒めがとくに印象に残りました。どちらもとても美味しかったです。朝食後、リムジンバスでスワンナプーム国際空港へ戻りました。ボーディングまでの時間を利用して、日本円の両替の仕方について先輩方に教えてもらいました。午後1時ころ飛行機は離陸し、約3時間フライトの後、ブータン時間の15時ころパロ空港に着きました。鉄筋コンクリートの空港のデザインがブータンの伝統的な建物のデザインを踏襲しており、改めてブータンに来たのだと実感しました。空港を出ると、ガイドのウゲンさんとドライバーのドルジさんが待ち構えて迎えてくださいました。ウゲンさんは鹿児島で4年間も仕事をされていた経験があり、日本語を流暢に話されます。英語が苦手な私はとても安心しました。車に乗るとまもなくウゲンさんのブータン概説が始まり、ICレコーダーをまわします。とくにブータンでは自然保護のため工業などによる経済発展策はとらず、自然を維持したまま発展を目指しているというお話が印象に残りました。


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ネープック遺産

 そのような興味深いお話の後、最初の目的地に着きました。シャヴァ(SHAVA)村にある ネープック遺産(NEYPHUG HERITAGE) です。この場所は2016年まで版築壁の廃墟がぽつんと残る空き地であり、2016年に壁跡の中心部から皮付木片(辺材)を採取して帰国後、炭素14年代を測定したところ、15~16世紀に遡る可能性が高まりました。その翌年(2017)、版築壁跡は改修・増築されて屋根がかかっており、その状況は昨年(2018)もほぼ同様でしたが、この春から多機能施設としてオープンされたようです。


0905ネーフック遺産006 売店内部 階段


 この日はオーナーの僧侶が来店されており、事情をうかがったところ、土地を所有する農民が近くに境内を構えるネープック(NEYPHUG)寺に廃墟ごと不動産を売却し、18世紀に再建されたネーフック寺本堂の建て替えにあたって古寺の部材を再利用して版築壁廃墟を2階建の楼閣に再生させ、周囲に平屋のカフェやファーマーズ・マーケットを設置したとのことです。楼閣入口の階段側壁にはネープック遺産の大きなサインボードが立てかけてあります。ネープック遺産とは「明るい未来のための教育と自力更生(エンパワーメント)」の施設であり、以下の諸施設を包含しています。赤字が楼閣に含まれる機能です。

   カフェ (your cafe) 売店(your shop)  ビジネスセンター(business centre)
   ギャラリー(art gallery)  静養所(retreat cetre) 足マッサージ(foot reflexology)

   農家直売場(farmers market)


0905ネーフック遺産005 YourCafe前の売店 外観


 この複合施設の営業収益は寺の運営、とくに修学僧の教育経費に供されるとのことです。ネーフック寺の僧侶は、壁跡の有機物から得られた科学的測定年代が15世紀に遡りうるという情報に大変驚かれました。ネーフック寺の縁起伝承が開山を16~17世紀としており、おそらく同時代の僧院跡だろうと推定されていたからです。
 わたしたちはパロ川の棚田に面する your cafe で窓外の景色を楽しみながら、今回の旅で最初のミルクティーをいただきました。とても美味しかったです。その後、廃墟から再生した楼閣内部をひとめぐりしました。古い版築の壁とネーフック寺本堂の古材がごく自然にとけあっており、階段も古式につくりあげたそうです。


0905ネーフック遺産004 YourCafeでいただいたミルクティー
your cafe


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ブータン公用語のセミナーに参加します

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『アジア文化塾』 ゾンカ語セミナー

 11日の朝、ブータンからバンコクを経由して関空に戻りました。短い滞在でしたが、今年もまた収穫が大きかったですよ。たとえば、ブータン唯一のボン教寺院を見学したり、ガンテ寺仏教大学の校長先生に長時間インタビューしたり、『ブータンの歴史』の著者カルマ・プンツォ博士と昼食をとったり、最後の最後には空港でREADブータンのスタッフと情報交換したり・・・これらの記録は3人の学生が分担で報告してくれることになっています。わたしとザキオ君は四川高原のレポートを書かなきゃなんないんだけど、以下のように、17日から21日まで京大で開催されるゾンカ語セミナー(初級)にバレーさんと参加することになっており、なかなか筆が取れませんね。とりあえず、ザキオくんから書き始めてくださいね。

 さて、ゾンカ語というのはブータンの公用語であり、チベット語の方言の一つであろうと認識しております。58歳のころ、周辺の研究者に「チベット語を学ぶんだぁ!」と宣言していたのに実践できないまま時が過ぎていきましたが、ようやくその足がかりをみつけることができました。
セミナーの概要を示しておきまs。

  京都大学こころの未来研究センター上廣部門 ブータン学研究室主催
  『アジア文化塾』ゾンカ語セミナー(初級)
   http://kokoro.kyoto-u.ac.jp/dzongkha_20190917_21/

講師:今枝 由郎 (京都大学こころの未来研究センター 特任教授)
コーディネーター:熊谷誠慈(同上特定准教授)

▽日時:
 2019年9月17日(火) 13時~18時(12:30開場)
 2019年9月18日(水)~21日(土) 10時半~17時

▽場所:
 京都大学稲盛財団記念館1階 京都賞ライブラリーセミナー室

▽教科書:
 『ゾンカ語口語読本』(今枝由郎著、大学書林、2006年)
 『旅の指さし会話帳81 ブータン(ゾンカ語)』(西田文信著、情報センター出版局、2013年)

 こうしてまた今枝先生のお世話になります。還暦の手習いですが、なんとかバレーさんについていきたいと思っております。それにしても、まだ教科書がアマゾンから届きません。ちょっと焦ってます・・・

摩尼寺護摩焚き・止観・回峰行-ボクシングジムの密教修行

0901摩尼山 護摩焚き01 0901摩尼山 護摩炊きサムネ


護摩焚き体験

 9月1日(日)、シュガー・ナックル・ボクシングジム主催の「摩尼寺護摩焚き・山道巡り」に山道案内係として参加してきました。教授がこのジムに通われているご縁もあり、教授と院生ザキオさんは四川高原からの帰国直後であるにも係わらず、イベントに駆けつけられ、わたしも補助役を務めさせていただいたのです。参加者は20名あまりでしたが、ほとんどは子どもさんと父兄です。
 摩尼山に登るのは昨秋の「賽の河原」トレック以来のことです。

 午前10時、本堂に集合し、最初に本堂で護摩焚きを体験しました。護摩木に願いごとと氏名を書き、副住職の居川さんが呪文を唱えながら、それをすこしずつ焼いていくのです。教授は同じ密教の別宗派であるチベット仏教の呪文である「オンマニペメホンシュー(観音様は心のなかに)」と書かれました。わたしは・・・


0901摩尼山 登山02 山門跡での説明


ミニ回峰行

 護摩焚きの後は登山です。茶屋の精進弁当を受け取り、いつものとおり、摩尼川源流に沿って古参道を歩いていきます。要所要所で教授から摩尼山に残されている遺跡や、摩尼寺の縁起に関する説明がありました。「奥の院」に着いてからお昼ご飯に精進弁当をいただきました。あいかわらず田楽やテンプラなど、優しい味でおいしかったです。
 その後は、立岩のある鷲ヶ峰をめざしました。足元が滑る岩場などの難所もありましたが、昨年の経験もあり、子どもたちの体と大人の体をロープで結びつけるなどして切り抜けることができました。鷲ヶ峰では、湖山長者の伝説、賽の河原の物語などを聞いた後、立岩脇の帝釈天の鎮座する高所から海のほうを見渡しました。あいにくの霧雨で湖山池だけが遠くにみえ、日本海を望むことはできませんでした。


0901摩尼山 登山01


止観修行

 下山後、ジムの子どもたちは阿弥陀如来堂でさらに止観修行を体験しました。禅宗の「座禅」を密教では「止観」というのです。わたしたちは9月4日からブータン調査を控えているので、ここは短い取材と撮影だけにして、先に下山させていただきました。
 今回のイベントは研究室の主催ではなく、あくまでボクシングジムの主催であり、おもに子どもとその父兄を対象としたものでした。ボクシングという格闘技にとっての精神修養の機会となったとすれば嬉しい限りです。登録記念物「摩尼山」を舞台とする、この種のイベントが今後も引き続きおこなわれることを期待しています。
 雨予報でしたが、何とか天気も持ち、心地よい気候の中で登山ができました。今度は秋に研究室関係者で「賽の河原」石積みトレックをおこなう予定だそうなので、今から楽しみにしています。(バレー)


0901摩尼山 座禅 止観


プロフィール

魯班13世

Author:魯班13世
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魯班(ルパン)は大工の神様や棟梁を表す中国語。魯搬とも書く。古代の日本は百済から「露盤博士」を迎えて本格的な寺院の造営に着手した。魯班=露盤です。研究室は保存修復スタジオと自称してますが、OBを含む別働隊「魯班営造学社(アトリエ・ド・ルパン)」を緩やかに組織しています。13は謎の数字、、、ぐふふ。

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