頭塔再考(5)
6.浄土と伽藍の距離
(1)境内とストゥーパの位置関係
要するに、良弁は東大寺の1km南に巨大なストゥーパを造営したかったのだというのが本稿の結論である。それを日本の中期密教とはまったく無関係とされるチベット仏教(後期密教)の実例を拠り所にして筆者は論じようとしている。こうした考え方は歴史学的にみれば論外だとして排除されるかもしれないが、チベットとインドネシアに類似する方形段台型仏塔が存在するという事実は、東南アジアの上座部仏教にも密教の波動が及んだことを暗示している。その波動の震源はもちろんインドにあった。インドを震央として一方はチベット、一方はインドネシア、一方は日本にまでその激震が伝わったのだとすれば、日本が密教を受容した7~9世紀ころの中国にも方形段台型仏塔が建立されていた可能性があるのではないだろうか。かりにそうしたモニュメントが中国に存在しなかったとしても、インド所在の原型に係わる情報は、遣唐留学僧や日本に招聘されたインド僧・中国僧によって8世紀の日本にもたらされていたであろう。筆者がかつて述べた「汎アジア的な宗教的波動」[浅川2001・2013]とはこうしたイメージによるものである。
以上を踏まえたうえで、まずはチベット・ブータン地域における仏教僧院境内とストゥーパ(群)の位置関係について整理しておく。両者は約150mから1km以上離れていて、ストゥーパ(群)は基本的に上円下方の多宝塔形式であり、1)1基単独、2)5基程度の並列、3)高い基壇に5~9基を対称配置(金剛宝座塔風)、4)広大な方形区画に多数群集、5)方形段台型仏塔、の5パターンに分けられる。あえて強引に分類するならば、3)4)は金剛界系の立体マンダラ、5)は胎蔵界系の立体マンダラと言えるかもしれない。ただし5)については、上円下方を呈する多宝塔系ストゥーパの最終進化形としても理解できる。頭塔が5)タイプだとするならば、五重をたんなる伏鉢状構造物とみなした筆者の復元案は失格であり、楊鴻勛先生の方案1・2がやはり優れた復元案だと評価すべきだが、五重の遺構は思いのほか小さめであり、心柱抜取以外は削平されている点が気にかかる。
(2)浄土との距離を投影する水平軸
伽藍の正門対面に建つ以上のストゥーパ(群)は、境外にあって境内を浄化し守護する役割を担う尊格(群)の象徴と推定される。とすれば、もっと境内に近い位置にあってもよいであろうに、実際にはどのパターンにおいても伽藍とストゥーパ群の間には結構な距離がある。むしろ両者は距離を隔てる必要があったと考えるべきであり、筆者はこの水平距離を垂直距離の代替概念として捉えている。
頭塔の段台壁面の仏龕に納められた44体の石仏については、すべてが同定されたわけではないけれども、毘盧遮那仏浄土、阿弥陀浄土、釈迦浄土、多宝仏如来、過去仏如来、弥勒浄土などを描いていることが明らかになっている。このほか削平された最上層にもおそらく1体の仏を祀っていただろうから、おそらく45体の尊格によって構成される複合的な浄土を頭塔は表現するモニュメントだと考えてよかろう。良弁は東大寺境内の守護を彼岸あるいは天上にある浄土の世界に託したのではないだろうか。彼岸/天界は此岸から遠い場所にある。そうした宇宙観を二次元的に表現するために頭塔=立体マンダラ(複数の浄土世界)を造営し、天-地(彼-此)の垂直軸(あるいは遠距離性)を南門-頭塔の水平軸に投影させたように思うのである。
最後に大野寺土塔の意味についても触れておきたい。大野寺の土塔もまた巨大なストゥーパであった。土塔・頭塔のいずれも戒壇状の段台ばかりに注目が集まるけれども、それはストゥーパの下層=初重部分であって、土塔の場合、12段のテラスに直接葺かれた瓦屋根の全体が木造多宝塔の裳階に相当する。一方、東大寺頭塔では段台が戒壇状になり、壁面の仏龕に石仏を安置し、その石仏群を保護するように瓦直葺きの小庇をめぐらせた。それは青海省ゴマル寺の立体マンダラに設けられた仏像保護のための短い軒に相当する。頭塔の瓦葺き小庇はそうした短い軒の日本的表現であり、技術的には大野寺土塔で行基が独創的に採用した瓦直葺きを継承したものと理解すべきであろう。頭塔は東大寺開山の祖、良弁が弟子の実忠に命じて造営させたと言われるが、それは行基の遺志だったのかもしれない。【完】
《付記》
本稿は2018~2020年度科学研究費基盤研究(C)「ブータン仏教の調伏と黒壁の瞑想洞穴 -ポン教神霊の浄化と祭場-」及び2019年度公立鳥取環境大学特別研究費「四川高原カム地区のチベット仏教と能海寛の足跡に係る予備的調査研究」の成果の一部である。
(1)境内とストゥーパの位置関係
要するに、良弁は東大寺の1km南に巨大なストゥーパを造営したかったのだというのが本稿の結論である。それを日本の中期密教とはまったく無関係とされるチベット仏教(後期密教)の実例を拠り所にして筆者は論じようとしている。こうした考え方は歴史学的にみれば論外だとして排除されるかもしれないが、チベットとインドネシアに類似する方形段台型仏塔が存在するという事実は、東南アジアの上座部仏教にも密教の波動が及んだことを暗示している。その波動の震源はもちろんインドにあった。インドを震央として一方はチベット、一方はインドネシア、一方は日本にまでその激震が伝わったのだとすれば、日本が密教を受容した7~9世紀ころの中国にも方形段台型仏塔が建立されていた可能性があるのではないだろうか。かりにそうしたモニュメントが中国に存在しなかったとしても、インド所在の原型に係わる情報は、遣唐留学僧や日本に招聘されたインド僧・中国僧によって8世紀の日本にもたらされていたであろう。筆者がかつて述べた「汎アジア的な宗教的波動」[浅川2001・2013]とはこうしたイメージによるものである。
以上を踏まえたうえで、まずはチベット・ブータン地域における仏教僧院境内とストゥーパ(群)の位置関係について整理しておく。両者は約150mから1km以上離れていて、ストゥーパ(群)は基本的に上円下方の多宝塔形式であり、1)1基単独、2)5基程度の並列、3)高い基壇に5~9基を対称配置(金剛宝座塔風)、4)広大な方形区画に多数群集、5)方形段台型仏塔、の5パターンに分けられる。あえて強引に分類するならば、3)4)は金剛界系の立体マンダラ、5)は胎蔵界系の立体マンダラと言えるかもしれない。ただし5)については、上円下方を呈する多宝塔系ストゥーパの最終進化形としても理解できる。頭塔が5)タイプだとするならば、五重をたんなる伏鉢状構造物とみなした筆者の復元案は失格であり、楊鴻勛先生の方案1・2がやはり優れた復元案だと評価すべきだが、五重の遺構は思いのほか小さめであり、心柱抜取以外は削平されている点が気にかかる。
(2)浄土との距離を投影する水平軸
伽藍の正門対面に建つ以上のストゥーパ(群)は、境外にあって境内を浄化し守護する役割を担う尊格(群)の象徴と推定される。とすれば、もっと境内に近い位置にあってもよいであろうに、実際にはどのパターンにおいても伽藍とストゥーパ群の間には結構な距離がある。むしろ両者は距離を隔てる必要があったと考えるべきであり、筆者はこの水平距離を垂直距離の代替概念として捉えている。
頭塔の段台壁面の仏龕に納められた44体の石仏については、すべてが同定されたわけではないけれども、毘盧遮那仏浄土、阿弥陀浄土、釈迦浄土、多宝仏如来、過去仏如来、弥勒浄土などを描いていることが明らかになっている。このほか削平された最上層にもおそらく1体の仏を祀っていただろうから、おそらく45体の尊格によって構成される複合的な浄土を頭塔は表現するモニュメントだと考えてよかろう。良弁は東大寺境内の守護を彼岸あるいは天上にある浄土の世界に託したのではないだろうか。彼岸/天界は此岸から遠い場所にある。そうした宇宙観を二次元的に表現するために頭塔=立体マンダラ(複数の浄土世界)を造営し、天-地(彼-此)の垂直軸(あるいは遠距離性)を南門-頭塔の水平軸に投影させたように思うのである。
最後に大野寺土塔の意味についても触れておきたい。大野寺の土塔もまた巨大なストゥーパであった。土塔・頭塔のいずれも戒壇状の段台ばかりに注目が集まるけれども、それはストゥーパの下層=初重部分であって、土塔の場合、12段のテラスに直接葺かれた瓦屋根の全体が木造多宝塔の裳階に相当する。一方、東大寺頭塔では段台が戒壇状になり、壁面の仏龕に石仏を安置し、その石仏群を保護するように瓦直葺きの小庇をめぐらせた。それは青海省ゴマル寺の立体マンダラに設けられた仏像保護のための短い軒に相当する。頭塔の瓦葺き小庇はそうした短い軒の日本的表現であり、技術的には大野寺土塔で行基が独創的に採用した瓦直葺きを継承したものと理解すべきであろう。頭塔は東大寺開山の祖、良弁が弟子の実忠に命じて造営させたと言われるが、それは行基の遺志だったのかもしれない。【完】
《付記》
本稿は2018~2020年度科学研究費基盤研究(C)「ブータン仏教の調伏と黒壁の瞑想洞穴 -ポン教神霊の浄化と祭場-」及び2019年度公立鳥取環境大学特別研究費「四川高原カム地区のチベット仏教と能海寛の足跡に係る予備的調査研究」の成果の一部である。