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科学的年代測定と建築史研究(1)

1.建築年代と科学的年代測定

(1)年代判定の三角形
 建築年代を知る手がかりとして、文字(及び画像)史料・様式・科学的年代測定データの3種の資料がある。文字史料のなかで「棟札」は突出して高い価値を有する。建物の造営時に屋根裏の部材に貼り付ける祈祷札であり、そこに記された年代は建築年代そのものを反映するからである。同じ文字史料でも、縁起書・家伝書・地方志などは、執筆時から隔たるほど、記載内容の信頼性が薄弱になる。また、建築細部の「様式」によりおおよその建築年代を推定できる。たとえば社寺建築の場合、虹梁・木鼻・蟇股などの建築細部の形状や線刻模様(絵様)などの変動を通時的に把握し、当該の遺構と比較して建築年代を判定する。考古学における土器型式の編年のようなものである。ただし、細部様式により推定された年代の幅は30~50 年あり、年代の特定が可能なわけではない。こうした建築年代の曖昧さを克服するため、科学的年代測定の手法を建築部材に適用しようという動きが1980年代から活発になってきている[浅川・原島編2014, 2015]。

(2)放射性炭素年代測定と年輪年代測定
 科学的年代測定のうち放射性炭素年代測定(radiocarbon dating)は古くから先史考古学の分野で多用されてきた。有機物に含まれる炭素14(14C)の半減期(5,568年)を利用した年代測定法であるため誤差が100年以上に及ぶほど大きく、石器時代遺物の年代判定にはある程度有効だが、歴史考古学・建築史学には不向きであると長く認識されてきた。なお、14C半減期については、1947~1950年に放射性炭素年代測定法を開発したウィラード・フランク・リビー(Willard Frank Libby)博士が採用した5,568年を現在も採用している。リビーの半減期は過去の大気中の14C濃度が一定であったという仮定のもとに算出されたが、その後、過去の大気中の14C濃度は必ずしも一定ではなかったという説が有力視され、より確からしい半減期として5,730年が示されネット上でもこの値をよくみかける。しかし、半減期の値が変わるたびに14C年代を書き換えるという混乱を避けるため、半減期は5,568年を使うことが国際的に決定して今に至る。 
 放射性炭素年代の曖昧さを乗りこえるため、奈良文化財研究所(奈文研)年代学研究室はおもにドイツ考古学の影響のもとに、年輪幅の変動により年代を特定する年輪年代学(dendrochronology)の技術的向上に邁進してきている。気候条件のほぼ一定なエリアにおいて古今あらゆる時代の木材をできる限り集成し、年輪幅の平均値から標準年輪曲線を作成する。これが基準となって、新たな対象材の年代を測定する場合、その年輪幅の変動曲線を標準年輪曲線と対照することで、一年刻みの正確な年代を知ることができるのである。ただし、測定対象となる材種はスギ・ヒノキ等一部の針葉樹に限られ、また木材年輪が少なくとも100 年以上(できれば200年程度)残存し、しかも年輪が幅1~2mm程度の密度をもってほぼ均等に並ぶことを必要条件とする。また、年輪年代測定に取り組む研究機関が奈文研だけであったため、測定結果のクロスチェックができない、という批判にも晒されてきた。

(3) 出雲大社境内遺跡の年代測定
 近年、放射性炭素年代測定は加速器質量分析法(Accelerator Mass Spectrometer = AMS 法:1点計測)とウイグルマッチ法(wiggle-matching = 年輪の暦年較正による年代補正:3点計測)の開発によって精度をおおいに高めている。2000~2001年におこなわれた出雲大社境内遺跡(島根県)の発掘調査はこうした高精度の放射性炭素年代測定の評価に画期をもたらした。出雲大社境内遺跡の大型本殿跡では3本の丸太を束ねた直径約3mの柱材が3ヶ所で発見され、まず辺材を含む2本の柱根と柱穴に含まれる落葉の放射性炭素年代が測定され、以下の暦年代(cal)を得た[浅川2005, 2013, 浅川編2013]。

  ①宇豆柱(棟持柱)南柱材:1215~1240 cal AD
  ②心柱北柱材:1212±15 cal AD(以上、ウィグルマッチ法 国立歴史民俗博物館測定)
  ③宇豆柱の柱穴から出土した落葉:1242~1280 cal AD(AMS法・名古屋大学測定)

 ①②は木材の伐採時に近い年代を示すのに対して、③は建設中(立柱の過程)の年代を反映している。①~③はすべてスギ材で、年輪数は130層前後を数え、材種・年輪数の基本条件を満たしているが、年輪の幅に粗密がありすぎて、年輪年代測定には不向きであると判断された。一方、心柱の下側から発見された礎板(柱の不同沈下を防ぐ板状の材)は、年輪が280層に及び、ほぼ均等かつ密に並んだ辺材型であることから奈文研は年代測定に取り組み、最外層が1227年であることを明らかにした。上記①②と同じく、樹皮に近い辺材の年代であることから、1227年より若干遅れた時期に伐採された材であることが分かる。従来は測定年代に100年前後の開きがあった年輪年代と放射性炭素年代がみごとに整合し、当時の関係者は驚嘆の眼差しでこの結果を受けとめたことを生々しく思い出す。そして、③柱穴中落葉の年代を重視するならば、出雲大社境内遺跡の大型本殿跡(推定高40m以上)は文献史料に多出する平安時代後半(11~12世紀)の遺構ではなく、鎌倉時代に入ってまもない宝治二年(1248)造営の本殿である蓋然性が一気に高まったのである。
 出雲大社境内遺跡大型本殿跡における科学的年代測定の結果は、年輪年代と放射性炭素年代双方の信頼性をおおいに高めた。とりわけ、歴史考古学・建築史学の分野には不向きとされてきた放射性炭素年代は、AMS法とウィグルマッチ法という高精度測定手法の開発により、以後、歴史的建造物の年代判定の有力手段となっていく[中尾2009・2011、上野・中尾2012、浅川編2013bなど]。
 


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魏志倭人伝を読む(2)

 正式に輪読と口語訳が始まりました。10月24日(木)は1年生が後漢書倭伝を3名が読みました。以下に訳文を掲載します。


後漢書倭伝(一)

 倭は三韓【注1】の東南側の大海にあり、山(の多い)島に住まいを構えて暮らしています。およそ百余国あまり。前漢の第七代武帝(在位 前140-87)が朝鮮を滅ぼしてから、使者や通訳【注2】を送ってきて交流のある国は三十国ほどになりました。
 倭の諸国はどこでも王と称する者がおり、世襲しています。その(リーダーである)大倭王は邪馬台国にいます。楽浪郡(今のピョンヤン周辺)は邪馬台国から一万二千里、倭の西北境にあたる狗邪韓国(後の加羅・任那)から七千里あまり離れています。その地は、おおむね会稽東冶【注3】の東にあたります。朱崖・儋耳(今の海南島)とも互いに近いので、法や習俗も似たところが多いのです。
 倭の土壌は禾稲(かとう=イネ)、麻紵(まちょ=アサ)【注4】や養蚕用の桑に適しています。機織りを知り、絹布を作っています。白い真珠や青玉(ヒスイ)を産出し、山には丹土(赤土顔料)があります。気候は温かで穏やか、冬も夏も野菜が採れ、牛・馬・虎・豹・羊・コマガラス(高麗烏)【注5】はいません。武器には矛・楯・木弓・竹弓があり、鏃(やじり)は(鉄製だけでなく)骨製のものもあります。
 男子はみな顔と体に刺青(入墨)しており、体の刺青の左右の位置と大きさで身分の高低を区別します。男子の衣服は、横幅の広いもので【注6】、布を結び束ねています。女は髪を束ね髷を結います。衣服は単衣(ひとえ)で、頭の部分に穴をあけて(頭を貫き出し)着ています【注7】。みな赤い顔料で化粧していますが、それは中国で白粉(おしろい)を使って化粧するようなものです。
 村を囲む柵と地上建物【注8】があります。父母と兄弟は住むところを別にしています。ただし、寄合所の場合は男女を別にしません。飲食には手を使い、高坏(たかつき)を用います。習俗は、みな裸足。膝をついて中腰(蹲踞)でもてなし、敬意を表します。人は生まれつきの酒好きです。多くは長寿で、百歳以上の人もたくさんいます。国には女子が多く、高位者は妻が4~5人、それ以外の者でも妻が2~3人います。女は淫らでなく嫉妬しません。盗みを働く人はなく、訴え事も少ない。 罪を犯した者は妻子を没収し、罪の重い者は一族すべてを滅ぼします。
 人が死ぬと、喪に服すること十日あまり、家人はわめき泣き続け、酒食を控えます。その後、親類縁者がやってきて、歌舞し音楽を奏でます。骨を焼いて占いをし、吉凶を判断します。旅に出たり海を渡るときには、一人の人物を選び、髪を梳くことも沐浴することもさせず、肉も食わせず女性を近づけさせません。この人を持衰(じさい)といいます。もし道中にご利益があったとすれば(持衰に)褒美を与え、もし病気になったり災いが生じたりすると、「持衰が禁欲しなかったから」だとして、みなで持衰を殺してしまいます。


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『鳥取県の民家』(39)

0916 新聞№16 奥本家右側から


失われゆく古民家(4)-用瀬編

 新聞No.16奥本博家  国府町から用瀬町へ向かいました。二件調査をしたのですが、両家とも家の方とお会いできませんでした。代わって近くの正覚寺に向かい、住職さんがヒアリングに応じてくださいました。用瀬のまちなかに位置する奥本家は新聞掲載時と変わらないたたずまいをみせています。外観の保存状態があまりにもよく、45年前から時間が止まったようです。今でも奥本さんが住んでおられるようなので、今度またアポを取りお会いできたらと思います。


0916 新聞№16 奥本家 当時写真
↑新聞(1974)↓現在(2019)
0916 新聞№16 奥本家 現状民家


 用瀬は上方往来(参勤交代路)の宿場町として繁盛した町で、旧道全体の町並みに往時の面影を残していたと新聞には記載されており、現在でも、そう大きな変化はないように思います。農村の民家では土間と部屋の境に板戸を建てますが、商家では土間を広くして、境の板戸を建てない場合もあったようです。この家も例外ではなく、大戸口の開口を広く、また土間庭も広くとっていました。奥座敷は書院造の標準型であり、座して眺める庭園と一体化しています。明治時代の建築で、十畳の間に似つかわしい空間をとるため二階を犠牲にし、天井を高くとったと新聞に記されています。民家変容パターンはE-3と考えられます。



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『鳥取県の民家』を訪ねて(38)

0916 新聞№20 岡本家 木原の現状


失われゆく古民家(3)-国府町編

 新聞No.20岡本善造家  9月16日(月)、市内国府町と用瀬町の民家を一人で再訪しました。新聞No.20岡本家をめざして鳥取市国府町木原を訪れたところ、今回はいつもの調査と雰囲気が違います。どの民家からも音がせず、人影が見えません。村全体が静寂に包まれているのです。歩いていると、一人の女性が目に入ったのでお話しを伺いました。
 現在、国府町木原にはこの奥様のお母様一人だけが住んでおられるようです。木原に民家は何軒かあったものの、奥様のご実家以外すべて空き家になっていて、奥様は現在市内にお住まいで、お母様のお世話をするためたまに木原に戻ってきているとのことです。お母様は95歳のご高齢であり、直接お会いすることはできませんでした。


0916 新聞№20 岡本家 当時写真  新聞(1974)


 新聞掲載当時はまだ国府町木原には10~15世帯が住んでいて、子供も居たそうです。次々に市内へ引っ越しする人が増え、今はお母様一人となってしまったのです。この村には岡本姓の家がたくさんありますが、奥様曰く岡本善造という名前は聞いたことがない・・・茅葺き民家が多かったため、新聞の写真を見せてもどの家かわからないとおっしゃいます。もしかしたらお母様がご存知だったかもしれません。今回は調査に行ったものの新聞掲載民家が特定できなかった例です。
 新聞には豪農ではなく、平凡な庶民の素直なすまいであったと記載されています。三間取り広間型の入母屋づくりで、ザシキに一間柱が遺されている昔からの姿をそのままにしていた民家であったとあります。国府の村は破風を小さく作るなど、同じ因幡でも地域により相違がみられることが載っていました。


0916 新聞№18 山本家 神護の村jpg


国府町 神護

 新聞No.18 山本徳松家  国府町神護の土地の起伏が激しい山腹に家の点在する村です。屋根が道路より低い家、道路から数10m上にある家など、新聞の記載通りの景観で、家々へのアプローチも非常に難しく、ヒアリングが難航しました。歩いている方々に電話をつないでいただき、山本さんの奥様と娘さんのお婿さんからお話をうかがうことができました。
 神護は殿ダム建設とともに戦後の歴史を歩んできました。昭和30年ごろから殿ダムの話は出ており、新聞掲載当時の国府町は反対運動が盛んな時期で大変であったようです。そして殿ダム建設が決まり、15年前ダム建設に伴う河川改修が行われ、山本家を含め神護川に沿って軒を連ねる4軒の茅葺民家は立ち退きを要請されます。この時期は環境大学(私立)開学の時期と重なりあい、学長公舎に神護の空き家民家(明治30年ころ)の古材を転用することから接点ができ、4軒の保存運動に係わった先生も苦い想い出しかない、と聞いています。
 奥様も新聞掲載時の茅葺き民家にずっと住んでいましたが、立ち退きにあたって、撤去した茅葺民家の代わりに、山側上流の敷地(元は田んぼがあった)に新居を建てられ、現在、家族はそこに住まわれています。撤去した材は県が回収し、「かやぶき交流館」に再利用したようです。4件の茅葺民家の跡地には砂防能力の高い水路が流れ、橋がかかっています。


0916 新聞№18 山本家 跡地 ←山本家跡地



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風の谷 ポプジカ紀行(8)-第8次ブータン調査

0910ホテル03外観・集合写真(朝) 0910ガンテホテル01門前の宝塔02sam


早朝のガンテパレス

 9月10日(月)早朝、ホテルの方に用意していた朝弁当を受け取り、いざ出発・・・というわけにはいかなくて、ガンテパレスの外観しゃしんを大急ぎで撮影しました。玄関から数十メートル離れた正面にチョルテンが建っています。寺院だけでなく、宮殿もまた門前から離れてストゥーパを設け、宮殿の守護を願っているのでしょう。

邂逅-READブータン

 パロ空港に着いて、ガイドのウゲンさん、運転手のドルジさんに別れの挨拶をしているとき、ウゲンさんがおしゃべりしていた友人はREADブータンのスタッフだったのです。READとは Rural Education and Development Bhutan の頭文字をとった農村教育開発局の略称ですが、もちろん「読書」の掛詞になっていて、読書の文化を築くことで農村コミュニティの変革をめざしています。昨年のP2&P4「ヒマラヤの魔女」で翻訳した「アケ・ゲム」「カブはどのようにしてハにもたらされたのか」の刊行母胎でもあります。その翻訳について触れると、スタッフは大変驚かれました。帰国後まもない15日、先生のところに、READブータンのカントリー・マネージャー、ケサン・チョデンさんからメールがあり、さらに4冊の民話絵本の刊行準備を進めていることなどが伝えられました。先生は、この春に刊行した『ラジャ-天の鳥』をEMSで送り寄贈されました。来年のブータン訪問の際には面談しようということになったそうです。


190910リードブータン


今年もジム・トンプソン旧宅へ

 バンコクまで三時間程度のフライトでしたが、途中乱気流にでもぶつかったのか機体が大きく揺れ、元々飛行機があまり得意ではないのもあって本当に怖かったです。八度目のブータンである浅川先生も「こんなにも揺れたのは初めて。命の危険を感じた」とおっしゃるほど不安なフライトでした。
 無事、昼過ぎにバンコクに到着。初日ぶりのバンコクは変わらず湿度が高く、ブータンと比べて標高の低さに驚きました。次の大阪へのフライトまで半日ほどあったため、バンコクの観光をすることになり、今年もパトゥムワン区にあるジム・トンプソン旧宅を訪れることにしたのですが、先生は少々反省されていました。半日あるなら、世界遺産のアユタヤ遺跡を訪問することができたのに、気付かなかった・・・というのです。おそらく来年はアユタヤを訪問することになりそうです。


0910ジム・トンプソン邸01外観


 ジム・トンプソンは第二次世界大戦中にタイに派遣され、終戦後も残って財を成したアメリカ人建築家です。タイ・シルクの事業化・発展に大きく貢献した人物であり、骨董品の収集家でもありました。タイのチーク材を使った六件の赤い壁の家は、東南アジアの数奇屋というべき風情を備えています。さらに建築家ならではの工夫として熱さ対策の大理石の床や高い敷居(赤子用の柵の役割)、収集家ならではのミャンマー、カンボジア、中国などの石像・茶器等のコレクションを見ることが出来ました。
 日本、とくに鳥取では普段接することのない熱帯植物やド派手な赤い壁の家、所々においてある水瓶のピラニアや金魚のような小魚、大量の鯉…など日本ともブータンとも違う世界を楽しむことができました。



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風の谷 ポプジカ紀行(7)-第8次ブータン調査

0909古民家仏間01正面


パロ古民家仏間の調査

 9月9日午後(続)。ティンプーからパロに移動し、パロ地区シャリ村P家の調査を行いました。古民家は二階建であり、二階が居住空間になっています。二階にあがるのに梯子を使うのですが、梯子の本体と手すりとの幅の長短である程度の新旧がわかるそうです。P家の梯子は手すりと梯子が離れているものの、その間は狭く、古い方の梯子と思われます。ヒアリングによると、この民家は約300年前に建築されたものだそうです(そのまま鵜呑みにはできません)。


0909古民家仏間02タンカ 仏間のタンカ(一部)


 仏間は内陣・外陣に分かれており、内陣にある仏間の中心にはグルリンポチェ(Guru Rinpoche)、向かって右には無量寿仏アミターユス(Amitayus)、左にはシャブドゥン(zhabdrung)を祀っています。この三体の下には無量光仏アミターバ(Amithaba)の浄土を表した壁画があります。両側には脇侍のダキニ(DAKINI)を描いています。右側には黒い扉で閉ざされた中に、写真撮影禁止の守護神が祀られています。壁に掛けられたタンカはシャブドゥンやグルリン・ポチェ、ブッダ・ツリー、タラ等を描いていました。
 今回訪問したいくつかの民家は、すべて高位の豪農であり、以前の一般農家とは異なって仏間の撮影や実測を嫌う傾向があり、残念でした。
 仏間の調査を終え、民家の外に出ると白い猫がうろついています。その猫の近くには石積みのルゥ(Lu)、すなわち小型のチョルテンをみつけました。ルゥは地下の大魔王ルモを封じ込めるための蓋のようなモニュメントです。


0909古民家仏間04ルウ



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風の谷 ポプジカ紀行(6)-第8次ブータン調査

プナカ・ゾンと男川・女川


プナカゾン再訪
 
 9月9日(月)、ブータン調査最終日です。ホテルを出てまず向かったのはブータンの城のなかでも随一の美しさを誇るプナカゾン(Punakha Dzong)です。17世紀にシャブドゥン・ガワン・ナムゲルによって建設された要塞(城郭)兼役所兼寺院の複合施設です。男川ポチューと女川モチューの合流点の中洲に造営され、行政の中心機関ばかりか、僧侶の修行でもありました。中にあるマチェ寺の内部には創始者であり、ブータンに最初の国家を築いたシャブドゥン(行政と宗教の合一的リーダ)の遺体が納められており、その祭場には国王や大僧正、管理者のみが入場を許されています。
 今回は時間が少なく、プナカゾンの内部には入りませんでしたが、最初に男川と女川の合流地点がよく見えるポケットパークから遠望し写真撮影しました。川の中洲にあるプナカゾンと対岸を繋ぐ屋根付橋までは行くことができました。橋から見たプナカゾンはとても美しく、マチェ寺も上部だけですが見ることができました。


0909プナカ・ゾン02(近距離)


ドチュラ峠のチョルテンを測る

 プナカからティンプーに戻る道中、6日にも訪れたドチュラ峠に行きました。標高は3040mで、かなり肌寒いです。プナカもティンプーもこの日の天気は晴れでしたが、ドチュラ峠は相変わらず雲のなかにあるのです。霧が晴れやすくなるのは11月で、その時はドチュラ峠からブータン最高峰のガンカル・ピンスム山を眺めることができるそうです。
 二度目のドチュラ峠では、2003年造営の群集ストゥーパの歩測組(先生・三年生2名)とそれに近接する古い壁状チョルテン(マニ・ダンリム)の平面図のスケッチ組(院生・四年生)に分かれて調査をおこないました。
 歩測では三段になっている群集ストゥーパの最上段及び最下段の縦×横(幅×長さ)を計測しました。最上段ではレーザー距離計を、最下段では歩測で測った結果、最上段は約46×13m、最下段の全長は約54×23mであることが分かりました。この丘陵状の場所に108棟の宝塔が同心円状に並んでいるのです。


0909ドチュラ峠02壁ストゥーパ真言
↑壁式チョルテンの真言  ↓アミターユス(Amitayus)
0909ドチュラ峠03壁ストゥーパ・アミタ―ユス


 壁式チョルテンにはゾンカ語で書かれた七文字の真言「オン・マニ・ペネ・ホン・クリー」が繰り返し記されています。「オン・マニ・ペネ・ホン」はチベット仏教の中で最も唱えられることの多い真言(マントラ)であり、中国側のカム地方(四川高原)では「オン・マニ・ペネ・ホン・シュー」の真言がメジャーであり、ブータンの「クリー」は先生も初耳のようで、ブータン独自の真言なのかもしれません。ガンテ寺門前の壁式チョルテンにも同様の真言が刻まれていましたが、ドチュラ峠の方が規則性のあるカラフルな文字でした。壁チョルテン両端の方形ストゥーパには無量光仏アミターユス(Amitayus)を祀っていました。


0909dochura壁チョルテン岡崎01


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風の谷 ポプジカ紀行(5)-第8次ブータン調査

ケワンラカン03 アーチェリー01


ケワン寺と門前のストゥーパ群

 9月8日(日)。ブータンでの調査も折り返しです。道を車で走っていると、ブータンの国技であるアーチェリーをしている人たちに出会いました(↑右)。村ごとで戦うそうです。
 この日ははじめに、ポプジカにあるケワン寺(Khewang Lhakhang)を訪ねました。ケワン寺は、少年僧の学校も設けています。ここで修学した少年僧たちは、適齢になると、ガンテ寺仏教大学に進学し、さらに修行を重ねるのです。


ケワン寺外観a ケワン寺02少年僧01


 ケワン寺は15世紀ころに開山したニンマ派の寺院です。寺ができる前は湖があった場所で、この地域で水を意味する"ケ"という言葉が寺の名前の由来になっているそうです。寺の手前の建物は新しく修復されたものでしたが、本堂自体は古く、歴史を感じます。案内してくださった僧侶のRinzin Dorjiさんは28歳と若く、現在は3年間の瞑想に向けて準備をしているとのことでした。


ケワン寺外観07


 本堂の外陣にはカンリン(Kang Ling)という人の膝骨で出来ている棒状のものがありました。ガイドのウゲンさんによると、これがあるのはチベット仏教だけだそうです。本堂の中なので写真は撮れませんでしたが、紅白に彩色されていました。本陣には釈迦過去仏、釈迦、弥勒菩薩が祀られていました。ブータンでよく見られる過去・現在・未来の釈迦の姿を現したもので、「リスムサンゲ」と言われています。この寺の仏像はスサ混じりの土で作られた塑像であることが特徴的です。他にもタラ菩薩の像がいくつかみうけられましたが、これは近所の民家から寄進されたもので、偶然タラが多くなったそうです。


ケワン寺03外観03 ケワン寺外観06 ケワン寺外観04 ケワン寺外観05


 本陣には壁画もあり、もともとは別の場所で布に描かれたものが壁に貼られていました。8大菩薩やグルリンポチェだけでなく、タンディン(Tamdin)という護法尊が描かれていました。日本語では馬頭観音と言い、元々はインド神話に出てくる悪魔だったようです。やはり、護法尊は壁画やタンカに描かれることがあっても、偶像として存在することはなかなかありません。これまで私たちの研究室の調査で発見した、チメラカンの魔女アムチョキムやナギリンチェン崖寺のギュンダップとツォメン、八地区民家の赤鬼ジョーと青鬼チュンドゥは語法尊が偶像になっている極めて例外的な存在であることを実感しました。


ケワンラカンとストゥーパ02 ケワン寺06ストゥーパ02


 ケワン寺の門の斜め前、約220m離れたところに5基のストゥーパが並列していました。修復工事の直後であったため、わってすぐのようで、仏龕に仏像は飾られていませんでしたが、ウゲンさん曰く、祀られているのは、アシュク仏(Ashobyak)、無量光仏(Amitaba)、法相如来(Ratna Sambhava)、不空成就如来(Amoghasiddni)、大日如来(Vamocaua)の五大如来だろうとのことです。中央の1基がもちろん大日如来です。


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風の谷 ポプジカ紀行(4)-第8次ブータン調査


ガンテ仏教大学02


白黒の表裏

 9月7日(土)。ガイドのウゲンさんが、高僧へのヒアリングをセッティングしてくださったので、ガンテ仏教大学へ行きました。お話してくださったのは、この仏教大学の校長先生をしているケンポー・ワンチュクさん(43)です。中央ブータン出身で15歳の時に出家、ガンテ寺仏教大学や、南インドのマスリにある大学院で学んだのち、仏教学校の教師先生になり、1年ほど前からガンテ仏教大学に戻ってきたそうです。大変お若いのに校長を務められているエリートですが、3年3か月3週間と3日の瞑想はガンテ大学内のメディケーションセンターで行ったため、崖寺の瞑想洞穴ではしていないとのことでした。
 仏教大学につくとすぐにジンジャーチャイと飴で絡めたポン菓子でもてなしていただきました。そういえば、今年はバター茶を飲んでいません・・・


ガンテ仏教大学01


 その後、食堂からジムカン(僧坊)へ移動してお話を伺いました。
 黒の瞑想洞穴は悪霊の調伏のため、白の瞑想洞穴は悟りに至るための瞑想をする、と私たちはこれまでのヒアリングで理解してきました。しかし、校長先生は、仏教では黒と白の洞穴に区別はないとおっしゃいます。黒は厳しさ、白は優しさを表しています。そしてこの「厳しさ」というのは、怒りを以て厳しくするという意味ではなく、優しい気持ちがあるからこそ厳しくするというもので、優しさと厳しさは実は同じなのだと教えていただきました。黒の洞穴で悪霊の退治のために祈るのも、その悪霊の魂を極楽(仏教世界)に送るためにすることなのだそうです。校長先生の場合、白と黒を「善なる仏教尊格」と「邪悪なボン教悪霊」という図式でとらえているではなく、人間個人の性を善良な部分(仏性=白)と邪険な部分(黒)で理解し、じつは両者は表裏一体のものなのだが、後者を浄化し「憤怒尊」として極楽に送ることを意味されているように思いました。これまで仏堂や仏間の壁画でみてきた歓喜仏などはみな憤怒の顔をしていますが、これは人間の邪悪な部分の表現なのかもしれません。調伏による「護法尊」と人間の悪性を浄化した「憤怒尊」は明瞭に識別しなければならないのです。
 ボン教についてどう考えているかうかがうと、チベットで始まったのがボン教で、インドで始まったのが仏教なのだが、始まりは同じくらいの時期ではないか、また、白ボンは仏教と似ているが、黒ボンは自然崇拝的で動物を殺すから仏教と似ていないなどとお話しくださいました。釈迦の創始した仏教はボン教より起源が新しいと考えられています。それが、癪にさわるのか、仏教の側は釈迦以前の「過去仏」をある時期から重要視するようになります。釈迦の過去仏もあれば、多宝如来なども過去仏の一つです。そうした過去仏の存在により、仏教の起源をボン教と同等の古い時期まで遡らせようとしている気がしました。先にのべたように、白と黒は表裏一体で大差ないとのことでしたが、ボン教の白と黒の違いなどの点から、ボン教の仏教への影響に関して、さらに考察する余地があると思いました。

 校長先生は初めて日本人に話をしたそうで、大変張り切ってお話をしてくださいましたが、全体的に、お話の内容は難解であり、私はメモを取ることで精いっぱいでした。


ガンテ仏教大学集合写真01 ガンテ仏教大学集合写真02



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風の谷 ポプジカ紀行(3)-第8次ブータン調査

0906ワンディーポダン城01 遠景 0906 ワンディーポダン城 改訂版 遠景01 


ワンディーポダンゾン

 9月6日(金)午後、昼食を終えた私たちが次に訪れたのは、ワンディーポダン城 WANGDUE PHODRANG DZONG とその濠のように流れる川に架けられた橋の見える場所です。ウゲンさんによると、この城は最近火災で焼けてしまったのですが、多くの人びとからの寄付を受けて再建されたそうです。日本からも千人以上の方から寄付をいただいたとのこと。


0906ワンディーポダン城03 船型の橋


 その橋の橋脚はよく見ると独特な形をしています。先生によると、それは船の形であり、かつて船を横並びにして上に板を渡し橋にしていたため、その橋脚にその名残があるということです。ワンディーポダンゾンがある一帯にはサボテンが多く生えていることが分かりました。これも、外敵からの防御の役割を担っていたそうです。


0906 ワンディーポダン城 道中 糸状のコケ 改訂版01 0906 ワンディーポダン城 道中 ウマエレナ 改訂版01


 ワンディーポダンゾンの見学を終えて車に乗り、高度はぐんぐん上がっていきます。海抜2500mをすぎるころから窓外の樹林にトロロ昆布のような植生が増えていきます。先生によると、それは高地性の苔であるということでした。また、地面に生えている黄色いきれいな花もたくさん見ることができました。先生によるとこの花はウマエレナといい、数多く生えていますが、牛や馬などの家畜は匂いを嫌って決して食べないということでした。


0906ラワラチョルテン01 外観01 0906 ラワラチョルテン 遠景 改訂版01


ラワラ・チョルテン

 まもなくラワラ峠に到着しました。そこにはラワラ・チョルテン(LAWALA CHORTEN)という中型の群集ストゥーパが道の真ん中に建っています。です。このストゥーパは、かなり昔からあり、それを修復して新しくみせているようです。中心ストーパ1、周囲のストゥーパが8基で、計9基が高い基壇上に対称をなして建っています。小ストゥーパの中には文殊菩薩、釈迦如来。無料鉱物などを納めており、大ストゥーパはニンマ派の開祖グルリンポチェ(↓左を祀っています。ここではチョルテンの平面寸法を計測しました。基壇は長辺18m×短辺11mの規模でした。
  峠は天地の境であり、悪霊がいるのでそれを浄化するためにチョルテン(群)を造営するという説明もありました。さらに先生のお話では、このようなストゥーパはマンダラを立体化したものであり、複数の尊格によって構成された仏教的宇宙を表現しているということです。


0906ラワラチョルテン03 グルリンポチェ01 0906 ラワラチョルテン 遠景 改訂版02



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風の谷 ポプジカ紀行(2)-第8次ブータン調査

0906シムトカゾン01遠景


シムトカゾン

 9月6日(金)、ブータン2日目 。朝食はホテルのレストランでいただきました。先生が大好きだという蕎麦粉たパンケーキを出していただいたのですが、一般的な甘いパンケーキと違い、ほのかな苦みがハチミツと非常にあっていて美味しかったです。
 朝食後、8時半ころホテルを出発。最初に訪れたのは、シムトカゾン Simtokha Dzong() という山城のビューポイントです。ガイドのウゲンさんによると、ゾン Dzong とは、防御的機能を備えた行政施設だそうです。シムトカゾンはブータン最古の山城=行政府であり、初代シャブドゥン、ガワン・ナムゲル(1594 - 1651)が造営したものです。現在では僧侶育成の学校として利用されているそうです。
 この場所からは谷奥の方向の山の上に大仏を見ることができました。ガイドさんのお話では、生きる人すべての世界平和を願って国内外からの寄付をもとに長い年月をかけて最近建立された大仏で、現在も周りの施設などの建設が行われているとのことでした。大仏や寺院に対して寄付を惜しまないブータンの人の信仰のあつさを感じました。

0906ドチュラ峠01 ストゥーパ群全景


ドチュラ峠の群集ストゥーパ

 シムトカゾンを後にして、次に訪れたのはドチュラ Dochula 峠です。ここには、小高い丘陵にストゥーパ(ブータン型チョルテン)が群集しており、さらに壁状の長いストゥーパもありました。3000mを超える高地ということで雲(霧)に包まれ、視界はよくありませんでしたが、群集ストゥーパの数を正確に数えることになりました。先生とザキオ先輩は配置図を描きながらのカウント、私はスケッチなしで数だけをカウントしていきました。私の記録ではストゥーパ群は3重構造になっていて、頂点にある大ストゥーパをのぞくと、総数108という結果が出ました。事前にガイドさんは108だとおっしゃっていましたし、インド人の観光客は「数えているのか? 108に決まっているだろ」と呆れていましたが、予想どおり108基+1基のストゥーパがそこに群集していたのです。そして3重の割り振りは、下段が45(9×5)基、中段が36(9×4)基、上段が27(9×3)基であることも分かりました。総数108基は12期×9となり、すべて9の倍数になっているのです。現物を前にして、実際に自分で数えて記録を取ることはとても貴重な経験になりました。


0906ドチュラ峠04 小ストゥーパ02 0906ドチュラ峠 docxサイズ ストゥーパ01


 数える時にストゥーパを初めて近くで見ることができたのですが、一つ一つのストゥーパに仏が入っているのが特に印象に残りました。この時にはストゥーパ群についてはこの時は比較的新しいものであるということしかわかりませんでしたが、後日ガイドさんが2003年に反乱勢力との戦争があり、その犠牲者の供養のために国王のお妃様がストゥーパ群をつくったということを教えてくださりました。
  群集ストゥーパの次に調査したのは、マニダンリム(壁状チョルテン)です。先生によると、群集ストゥーパよりもはるかに古いものだということでした。このストゥーパにはアミターユス(無量寿仏≒阿弥陀仏)が入っていて、壁の部分には真言が反復的に書かれています。ウゲンさんによると、その真言は「オンマニペニホンクリー」と読みます。8月に先生とザキオさんが調査された四川省の旧カム地区では「オンマニペメホンシュー」と書かれるのがそうで、2つの発音の違いに先生は驚かれていました。


ドチュラ峠05 壁状ストゥーパ01 全景
↓真言オンマニペニホンクリー(左)と無量寿仏アミターユス(右)
0906ドチュラ峠07 壁状ストゥーパ03 呪文 0906ドチュラ峠08 壁状ストゥーパ04 仏様


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『鳥取県の民家』を訪ねて(37)

0904 新聞№22吉村家 両家


失われゆく古民家(2)-鳥取市立川吉村家住宅

 鳥取市立川町にある新聞No.22吉村家住宅です。新聞掲載後四半世紀を経て国の登録有形文化財(1998)になりました。鳥取市最初の登録文化財です。現地を訪れると、外観が新聞掲載当時のままだったのですぐに分かりました。ただ、茶色ジの瓦屋根と青黒い瓦屋根の立派な民家が二軒続いており、どちらが新聞掲載の建物なのかが分かりませんでした。ベルを鳴らして出てきてくださった男性にお話を聞くことにしました。茶色の瓦屋根が本家であり、青黒い瓦屋根は分家であり、その男性は本家の管理係(留守番)だそうです。しかし、本家の今のご当主が内部公開及び個人情報の開示はNGだそうで、分家についてと民家の変容ついてお話ししてくださいました。


0904 新聞№22 吉村家 分家 当時写真
 ↑新聞(1974)↓現在(2019)
0904 新聞№22吉村家 分家正面


 新聞によると、吉村家は富豪の代表的な一族であり、民家は明治16年頃の建築であるとされています。このころは廃藩に伴い大工たちが仕事を失うことが多く、江戸の掟が解禁されたタイミングも相まって、大工たちの腕を振るう一大仕事で建てられた民家であったと記されています。道路の拡張、鳥取地震の被害にも揺らがず、往時の威厳を両家ともそのまま現代に伝えています。また、茶室を別棟にせず、主屋内の一部屋にしていた点など、鳥取の上流町家であったことがうかがえます。品格のある土蔵造の瓦葺き民家で、本家・分家とも10年以上前に瓦を葺き替え、壁の塗り直しをおこなったとのことです。現在、分家のご当主は関東にいらして、年に数回戻ってきているいるけれども、通常は空き家になっているとのことです。
 せっかく登録文化財になったのに、内部の公開・活用が一切なされていないことを残念に思いました。民家変容パターンはE-1類ですが、厳密に言うと、E-1類は「指定」民家ですから、このパターンの名称を変更する必要がありそうです。



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『鳥取県の民家』を訪ねて(36)

0903 新聞№25 中島家 跡地


失われゆく古民家(1)-岩美町大谷の大屋敷

 この日(9月3日)の調査から、新聞連載「失われゆく古民家」(1973-74)掲載49件のうち県東部の民家も追跡調査することにしました。この日むかったのは岩美郡岩美町大谷に所在する新聞No.25中島家住宅です。事前調査では住所が分からなかったので、現地でのヒアリングから始めました。近所の方曰く、「中島さんは知らないけど大きな家があったことはわかる、龍岩寺に聞いてみれば良い」とのことで、龍岩寺に足をむけました。お寺を訪ねると、中島家のことをよく知っている住職さんがとても丁寧に質問に答えてくださいました。龍岩寺の奥の間に通していただき、おいしいコーヒーをいただきながらお話を伺います。


0903 新聞№25 中島家 当時写真新聞(1974)


 中島家と龍岩寺は昔から深い関係があったそうです。中島家は代々大庄屋であり、殿様も立ち寄るほど核の高い屋敷でした。1974年当時の民家は茅葺屋根鉄板被覆であり、役人を迎え入れる式台のある四間取りであったと新聞には記載されています。大谷村は駆馳山峠を越えて海岸に位置するため、風から民家を守る防風林を持つ家が多いそうで中島家も例外ではありませんでした。
 住職さんもおよそ20年前に龍岩寺に着任されたらしく、民家はその時から無住状態であったため人づての話ですけども・・・と断りながらお話しされます。当時の新聞にも、中島さんは東京に居るとの記載がありますので、少なくとも45年前から無住であったと思われます。時々留守番の人がいたみたいですが、建物の劣化・損傷が激しく、近隣住民の要望で取り壊しが決定したそうです。現在の空き地を案内してもらいました。民家変容パターンはD-1類です。



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『鳥取県の民家』を訪ねて(35)

0903 ⑮№039原田家 正面写真 0903 ⑮№039原田家 当時写真 1 0903 ⑮№039原田家 当時写真 2


湯梨浜町を訪ねて

 9月3日(火)。いままでの調査は先生や先輩に助けていただいて成り立っていたのですが、9月の東部調査は私単独でおこなってきています。この日は中部よりの湯梨浜、岩美、国安、立川の民家計6件を調査しました。まずは湯梨浜町にある2件を紹介します。
 No.039⑮原田家住宅 湯梨浜町方面の民家です。『鳥取県の民家』(1974)掲載の原田家は比較的新しく、明治期に建立された物件です。在方の庄屋を務めた原田家は調査当時、入母屋造茅葺で、庇を瓦葺にしていました。古図には元治元年(1864)のものがあり、明治に改修されて報告書時の姿になったようです。報告書の復原平面図には6間取りとされていました。


0903 ⑮№039原田家 玄関 0903 ⑮№039原田家 復原平面図復原平面図


 ご主人がヒアリングに応じてくださいました。現在のお宅は35年前の新築で、報告書掲載の民家は取り壊してしまい、旧主屋跡地に新居を建てたそうです。ただし、新居にも前身建物の古材をところどころ使用しています。基礎となる土台はそのままで、立派な欄間や掛け軸、玄関近くの大きな柱などは往時のままだそうです。新築ではあるけれども、どこか昔の家を感じられる、とご主人はおっしゃっていました。現在お子様は関東の方へ住んで居られるそうで、奥様と二人暮らしされています。「子供の意思にはゆだねているけども、これからどうなるか分からない」とのことでした。
 民家変容パターンの分類はD-2類となります。


0903 ⑮№039原田家 欄間と掛け軸 0903 ⑮№039原田家 玄関の材
昔の木材を使用した玄関


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「寅さんの風景」2コマだけ復活!

人間環境実習・演習AでDVD鑑賞とバスツアー

 何日か前にも述べましたが、今年は前期のプロジェクト研究が免除のローテにあたり、後期に「寅さんの風景」のフィナーレを飾ろうと思っておりました。しかし、既報のとおり、諸般の事情によりP2&P4は「魏志倭人伝を読む」に変更しました。ほかでもない私が変更したのですから、何も言い分けする必要はないのですが、今年は映画「男はつらいよ」50周年にあたり、年末に第50作(新作)「お帰り寅さん」が上映されることが心のどこかにひっかかっておりました。50周年第50作のリリースにあわせて何か活動できないものか、と思案していたのですが、残念ながら、ロケ地再現撮影として残された砂丘と国鉄山陰本線は来年度以降に先送りになります。ただし、「寅さんの風景」を人間環境実習・演習A(2年次)で2コマだけ復活することにしましたので、お知らせします。

10月8日(火)4・5限 @14講義室
 DVD鑑賞 第44作「寅次郎の告白」(鳥取篇)

10月15日(火)14:40~ロータリー集合
 大型バスツアー(席に余裕あり)
 行程: 上方往来河原宿~八東川堰堤(片山)~若桜鉄道安部駅

 参加希望の方はご一報ください。

    困ったことがあったらな、風にむかって俺の名前を呼べ!



『鳥取県の民家』を訪ねて(34)

0919No.071㉗森田家01 外観 0919No.071㉗森田家02 報告書01 


淀江町の民家を訪ねて

 No.071㉗森田家住宅  森田家は淀江町中西尾の民家です。庄屋を務めた古い家柄であり、もとは醤油やみその醸造を生業としていました。報告書刊行時(1974)、その生業はやめており、醤油醸造場や味噌部屋などは解体され、露地門や裏手の土蔵2棟を残すのみだったそうです。主屋は切妻造瓦葺中二階建、間口9間×奥行6.5間の六間取りです。その当時の主屋は棟札により天保元年(1830)の再建と知られ、この幕末期に茅葺きから瓦葺きに替えられたようです。


0919No.071㉗森田家02 報告書02 0919No.071㉗森田家02 報告書03 


 報告書刊行時(1974)の世帯主さんが昭和50年頃に亡くなってから空き家となり、平成16年(2004)、森田家本家から、分家にあたる現世帯主さんが購入したそうです。現在は、旧建物群はすべて解体し、主屋を新築しています。古い建物をなにかに活用しようと考えたこともあったそうですが、費用の問題や息子夫婦と同居することなどをクリアするため建て直したそうです。


0919No.071㉗森田家01 外観02 
新築 
0919No.071㉗森田家03 空撮



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『鳥取県の民家』を訪ねて(33)

0919No.106㊳生田家01 跡地 0919No.106㊳生田家03 跡地空撮


伯耆町の民家を訪ねて
 
 No.106㊳生田家住宅 生田家は溝口町(現伯耆町)三部の民家です。報告書刊行時(1974)は寄棟造茅葺平屋建、主屋は間口8間×奥行6間の六間取りで、主屋背面には附属屋2棟を配していました。主屋は県の保護文化財に指定されていました。しかし平成3年(1991)に県指定が解除され、現在は旧主屋跡の奥側に切妻造瓦葺平屋建の住まいを新築されています。報告書当時の世帯主の息子さんが一人住まいされていて、お話をうかがうと、当時、県指定の規制が厳しく、建物内部の改装も認められなかったので、不便に過ぎ、茅葺屋根を維持するのも難しくなったことから、指定解除を申請したそうです。民家変容のパターンではA-3(指定解除)にあたります。

 
0919No.106㊳生田家05 新築主屋 新築された主屋
↑生田家跡地 現状(2019)   ↓報告書(1974)
0919No.106㊳生田家02 報告書外観 0919No.106㊳生田家04 配置図


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魏志倭人伝を読む(1)

漫画と文献で読む魏志倭人伝

 10月3日(木)、早くも後期のプロジェクト研究2&4(1・2年生の必修演習)が始まりました。前期のP1&P3は免除でしたので、一年ぶりのプロ研です。前期までは「寅さん50周年」を記念する企画も考えていたのですが、そちらは人間環境実習・演習A(2コマ)にまわします。田中章介先生の新考に刺激された、というのが本音でして、魏志倭人伝の輪読に挑むことを決断しました。以下、シラバスを抜粋します。

 <概要> 「魏志倭人伝」は私の趣味の一つです。日本に関する最古(3世紀)の文献であり、邪馬台国や卑弥呼の描写にわくわくしてきました。これをみなさんと一緒に読んでいこうというプロジェクトです。畏れる必要はありません。魏志倭人伝の文字数は約2,000字、ワード入力すれば2ページ余りです。これだけでは量が少ないので、魏志倭人伝を模倣したとされる後漢書倭伝(5世紀)と宋書倭国伝(6世紀初)もあわせて読みます。以上を1・2年で分担します。2年生が魏志倭人伝なら1年生は後漢書倭伝・宋書倭国伝を担当し、口語訳を完成させるのです。各学年数名で分担すれば3回以内に読み終わるでしょう。テキスト(石原道博『新訂 中国正史日本伝〈1〉』)は読み下し文を使うので、難しくはありません。また、石ノ森章太郎『マンガ日本の歴史2』をホームワークで読んでもらいます。イメージがふくらむはずです。
 山陰との係わりとしては、とくに投馬(つま)国=出雲・伯耆説について重点的に考察する予定です。こうした文献解読だけでは物足りないでしょうから、遺跡関係施設訪問ツアー、弥生土器による古代米(赤米)炊飯実験、魏志倭人伝シンポジウム聴講などのイベントも組み込んでいます。

 <授業計画>
① 10月03日 オリエンテーション【1・2年合同】
② 10月10日 後漢書倭伝・宋書倭国伝01【1年2コマ】
③ 10月17日 魏志倭人伝01【2年2コマ】
④ 10月24日 後漢書倭伝・宋書倭国伝02【1年2コマ】 
⑤ 10月31日 魏志倭人伝02【2年2コマ】
⑥ 11月07日 【休講01】*中国建築学会招聘講演のため(北京) 
⑦ 11月14日 【休講02】*中国科学技術史学会招聘講演のため(福州)
⑧ 11月21日 後漢書倭伝・宋書倭国伝03【1年2コマ】
⑨ 11月28日 魏志倭人伝03【2年2コマ】
⑩ 12月05日 青谷上寺地遺跡関係施設ツアー【1・2年合同=大型バス】
⑪ 12月12日 パワーポイント作成(1)・講演会準備【1・2年合同】

【補講⑥⑦】12月14日(土)「魏志倭人伝の新しい解釈-田中章介先生講演会」聴講

⑫ 12月19日 パワーポイント作成(2) 弥生土器による古代米(赤米)炊飯実験【1・2年合同】
⑬ 01月16日 発表会リハーサル(1)【1・2年合同】
⑭ 01月23日 発表会リハーサル(2)【1・2年合同】
⑮ 発表会


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重要文化財「河本家住宅」秋の公開にともなう講演のお知らせ

河本家秋の公開に係る講演のチラシ_01web 河本家秋の公開に係る講演のチラシ_01

『鳥取県の民家』その後

 重要文化財「河本家住宅」恒例の秋の公開が10月19日(土)~25日(土)におこなわれます。期間中4回の文化講演会が準備されていますが、Asalabも10月23日(水)午後に発表させていただくことになりました。以下に詳細を示します。

  日時: 2019年10月23日(水) 13:30~(75分)
  会場: 河本家住宅ハナレ座敷  〒689-2544 鳥取県東伯郡琴浦町大字箆津393
  主催・問い合わせ先: 河本家保存会 ℡0858-55-0498
  講師: 公立鳥取環境大学浅川研究室(8名による分担発表)
  演題と構成:
        
        『鳥取県の民家』その後
     -河本家・倉長家の幕末家相図の分析を含めて

1.序-昭和49年刊『鳥取県の民家』を訪ねて
  1-1 報告書『鳥取県の民家』について(井上)
  1-2 新聞連載「失われゆく民家」(藤井)  
  1-3 COC麒麟マイスター助成研究採択(野口)
  1-4 昭和40年代後半の日本と鳥取(蔵田)                      
2.河本家と倉長家の幕末家相図を読み解く
  2-1 河本家住宅の幕末家相図とその復原(浅川)
  2-2 倉長家住宅の幕末家相図とその復原(岡崎)
3.『鳥取県の民家』その後-中間報告
  3-1 在方農家の変容パターン(沼野)
  3-2 町方町家・武家の変容パターン(岡崎)
4.民家から見通す鳥取県の変動
  4-1 過疎と指定解除(佐藤)
  4-2 特殊な事例(佐藤)
  4-3 指定文化財民家と公開・活用(浅川)
  4-4 民家終活の時代-反「空き家活用」論(浅川)
  
  昨年から今年にかけて取り組んでいる民家研究の中間報告になります。
  皆様のご来場をお待ち申し上げます。

【関連サイト】
大学HP:重要文化財「河本家住宅」秋の公開にともなう講演のお知らせ
http://www.kankyo-u.ac.jp/news/2019/20191003/
河本家住宅家相図の研究(1)
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-1864.html
河本家住宅重要文化財答申記念講演のお知らせ
http://asalab.blog11.fc2.com/blog-entry-2362.html
河本家住宅報告書の刊行
http://asalab.blog11.fc2.com/blog-entry-87.html

プロフィール

魯班13世

Author:魯班13世
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魯班(ルパン)は大工の神様や棟梁を表す中国語。魯搬とも書く。古代の日本は百済から「露盤博士」を迎えて本格的な寺院の造営に着手した。魯班=露盤です。研究室は保存修復スタジオと自称してますが、OBを含む別働隊「魯班営造学社(アトリエ・ド・ルパン)」を緩やかに組織しています。13は謎の数字、、、ぐふふ。

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