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魏志倭人伝を読む(5)

 11月28日(木)、2年生が魏志倭人伝の2回めの輪読をしました。ついに卑弥呼が登場します。また、下線を施した「収租賦有邸閣 國國有市」(原文)は、とくに12月14日の講演会と深く係わる部分です。学生諸君はくれぐれも注意して、ここの意味を考えてください。


魏志倭人伝(二)

 その風俗は淫らではありません。男子はみな(帽子などの)冠り物をかぶらず、木緜(絹布)を頭にかけます。衣服は幅広の布を結び束ねているだけで縫うことをしません【注19】。女性は髪を束ねて髷を結い、衣服をつくるときは、反物の中央に穴をあけ、そこから頭を出して着ています【注20】。禾稲(いね)や紵麻(あさ)を植え、桑の木に蚕を飼って絹を織り、細紵(ほそあさ)やかとりぎぬ【注21】・木綿を生産します。その地には、牛・馬・虎・羊・高麗烏(コマガラス)【注22】はいません。武器には矛・楯・木弓を用います。木弓は下を短くして上を長くし、竹の矢は鉄鏃のものもあれば、骨鏃のものもあります。これらの特産品【注23】は儋耳・朱崖(今の海南島)と同じです。
 倭の地は温暖で、冬も夏も生野菜を食べます。みな裸足。地上に建物があり、父母と兄弟の住むところは別々にしています【注24】。朱丹(赤い顔料)を体に塗りますが、それは中国人が白粉(おしろい)を塗るようなものです。
 飲食には高坏を用いて、手でモノを食べます。人が死ぬと棺に納めますが、(棺を納める)木槨はなく、土を盛り上げて塚【注25】をつくります。人が死んでから十日あまり喪に服し、そのときは肉を食べず、喪主はわめき泣き続けますが、その他の人たちは歌い踊り酒を飲みます。死者を埋葬したあとは、一家全員で水に入り、練沐【注26】のように体を洗い清めます。
 旅立って海を渡り中国に向かう際、必ず一人の人物を選びます。その人物には髪を梳かせもしなければ、シラミを取らせず、衣服を垢で汚れさせ、肉を食べさせず、女性を近づけさせず、喪中の人のように扱います。この人を「持衰」と呼びます。もし、道中にご利益があったとすれば、褒美や侍者を与え、もし病気になったり、厄害にあったとすれば、みなで持衰を殺してしまいます。持衰が禁欲しなかったからと考えるからです。
 真珠・青玉(碧のヒスイ)を産出します。山には丹土(赤い顔料の原料)があります。樹木には、枏(クス)、杼(トチ)、予樟(クスノキ)、楺(ボケ)、櫪(クヌギ)、投(スギ)、橿(カシ)、烏号(ヤマグワ)、楓香(カエデ)があります。竹には、篠(シノダケ)、簳(ヤダケ)、桃枝竹があります【注27】。薑(ショウガ)、橘(タチバナ)、椒(サンショウ)、蘘荷(ミョウガ)はありますが、それらの調味料を使って食べ物の味をよくすることはできません。サルと黒キジがいます。
 その習俗では、何かをしたり、どこかへ行ったりするときに云々するところがあれば、すぐに骨を灼いて吉凶を占い、まず占いの内容を告げます。令亀の法【注28】のように、火熱によってできた骨の裂け目をみて兆し(近未来)を占い、メッセージを発するのです。会合や着座には、父子・男女で差はありません。人びとは生まれつきの酒好きです。貴人に(平民が)敬意を表すところをみたのですが、ただ手を叩きます。それで跪拝の代わりとします。
 倭人は長寿で、100歳とか80~90歳の者もいます。その習俗では、貴人はみな4~5人の妻をもち、平民でも2~3人の妻がいます。女性は淫らでなく、嫉妬しません。盗みはなく、訴えごとも少ないです。その法を犯すと、罪が軽いものは妻子を没収し、罪の重い者は一家一族を殺してしまいます。身分に序列があり、(下位の者が)上位の者に服従して秩序が保たれています。租(物品税)と賦(人頭税)を納めます。邸閣(倉庫・武器庫群、管理施設・客館などの複合施設)があります。国々には市場があり、諸国の特産物を交易します。「大倭」という役人が市を管理しています。邪馬台国より南【注29】には「一大率」という役職を置き、諸国を検察させます。諸国はこれを畏れています。一大率はつねに伊都国にいて、(その国を)統治しています。魏の国の「刺史」のようなものです。倭の王が使者を魏の都(洛陽)や帯方郡、三韓諸国に派遣したり、帯方郡の使者が倭国に赴くたびに、(一大率は)港に出向いてチェックした上で、文書や贈物を女王に伝送し届けるので、ミスは許されません。
 平民が貴人と道路で出会ったときは、後ずさりして草むらの中に入ります。貴人がお言葉を伝え、物事を説明する際には、うずくまったり、ひざまづいたりして、両手を地につけ、恭敬の意を表します。平民の返事の声は「はい」と言います。中国でいう然諾(せんだく)のようなものです。
 倭国はもともと70~80年ばかり男子を王としていました。倭国は戦乱が続き、何年も互いに攻撃しあいました。そこで、諸国が共同で一人の女子を立てて王としました。名は卑弥呼と言います。鬼道(シャーマニズム的宗教)に仕え、民衆を惑わすことができました。【続(未完)】



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『鳥取県の民家』を訪ねて(44)

1113 ㉔№060 高田家 正面2


米子市の茅葺き民家

 11月13日(水)の続きです。

 No.060㉔高田家住宅: 米子市福万に所在する高田家は『鳥取県の民家刊行』直後の1974年に県の保護文化財に指定されました。代々庄屋を務めてきた家柄であり、主屋だけでなく長屋門や蔵など付属屋を今でも残している寄棟造茅葺で、九間取に復原できます。建築年代は江戸中期以降(~末期)。13代当主と14代のご子息にお話をうかがいました。


1113 ㉔№060 高田家 長屋門(当時) 1113 ㉔№060 高田家 復原図
↑報告書(1974)↓現状写真(2019)
1113 ㉔№060 高田家 長屋門


 ドローンでの空撮許可について訊ねると、警察の方から防犯上ドローン等飛ばさないよう強く言われているとのお返事でした。また「見学者を装い泥棒を企てる人もいるかもしれない」とお考えのようで、敷地内に他人を入れることに強い抵抗感があるようです。高校や大学、学術機関などが調査に入ることに対しては若い人たちの勉強になるならと協力的な感じでしたが、一般のお客様に向けた民家の公開等については、今まで無礼な人や失敬な人も少なくなかったため拒否反応があるようです。民家の撮影についても「家というプライベートな空間を撮影するのはおかしいんじゃないか」とおっしゃっており、その背景には外部の人を入れない方が民家の保存状態を維持できるというお考えをもっておられました。


1113 ㉔№060 高田家 庭2 1113 ㉔№060 高田家 庭


 庭はかなり手入れがされており、枯山水の砂模様もきれいでした。池の鯉はご当主の足音で水面から顔を出すようです。茅葺き屋根も非常に立派でした。これは職人さんが青森から質の良い茅を取り寄せてきたものだそうで、隙間なくきれいにしっかり詰まっていました。前回茅を葺き替えた際、使用済みの茅をご当主の意向によりむきばんだ遺跡へ寄付したそうです。また、県指定文化財であるため修理費などは負担してくれるが、それでは遅いと感じられており、長屋門など個人で改修している建物も多いようです。今後は、15代目が民家を継ぐ予定だとお話しされていました。住み続けることが民家を守ることであり、不必要に外部の人を家にあげないことであるというのが持論のようです。
 民家変容パターンはA類のA-1 現地保存です。


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『鳥取県の民家』を訪ねて(43)

1113 ⑭№038 尾崎家 空撮


2度目の重文「尾崎家住宅」

 11月13日、水曜ゼミの時間を使って、会長さん、3年生5名とともに『鳥取県の民家』第3次調査対象民家39件最後の調査をおこないました。まずは湯梨浜町の重要文化財「尾崎家住宅」へ。私は2年生の人間環境実習・演習Aで尾崎家住宅を訪問したことがあり、今回約2年ぶり2度目の尾崎家となりました。ASALABは2005~06年度に調査に取り組み、2007年に『尾崎家住宅―建造物調査報告書―』を刊行しました。その成果をもとに、2011年にまずは県指定保護文化財の指定を受け、2013年に国の重要文化財に格上げ指定されました。


1113 ⑭№038 尾崎家 当時写真 1113 ⑭№038 尾崎家 復原図
↑報告書(1974)↓現状写真(2019)
1113 ⑭№038 尾崎家 正面


 No.038⑭尾崎家住宅: 18世紀中期の豪農民家。入母屋造茅葺民家、背面の庇周辺のみ桟瓦葺きとしています。主屋は広間型五間取りに復原され、国名勝「松浦園」の作庭と主屋の建造はほぼ同時期とみなされています。
 『鳥取県の民家』報告書刊行当時の45年前はまだ薪を割って燃やしている時代であり、尾崎家にある薪小屋を地域の人達が自由に使い、尾崎家もまた地域の人が取ってきてくださった薪の元木を利用していたそうです。稲木を置く場所もあり、これもまた地域の人達が自由に出入りし、地域の人との交流の場であったそうです。尾崎家と宇野集落のもちつもたれつの関係があった45年前から現在、各家庭にガスが置かれ、農家にはコンバインが普及し、生活スタイルが変化していきました。このようにだんだん、地域の交流の場を利用する人が減ってきたとのことです。


1113 ⑭№038 尾崎家 庭 1113 ⑭№038 尾崎家 窓


 ご当主は45年前と現在について、最も大きな変化は「地域の人達が急速に高齢化したこと、このような大きな家に興味がなくなっている人が増えたこと」とおっしゃいました。「活用してほしい、公開してほしい」と文化庁から言われるのですが、本来活用というのは住み続ける事である、と考えておられました。住み続けることは大変で、冬場は寒く、エアコンをつけたとしてもサッシ窓でないためなかなか暖まりません。不便も多い中、現在はお母様と二人で暮らしていらっしゃいます。このように大きな家を家人だけで維持管理していくのは難しいものです。尾崎家が宇野の方々と共に歩んできたように、これからも住み続けて少しでも地域の人とかかわりを持ち、支えてもらいたいとのことです。
 民家変容パターンはA類のA-1 現地保存です。(八木部長)


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魏志倭人伝の新しい解釈-田中章介先生講演会(予報1)

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税制から読み解く邪馬台国の国家観

 来たる12月14日(土)、田中章介先生(1935-)の講演会を開催します。先生は2001年度鳥取環境大学開学時から4年間、環境政策学科の重鎮として大学の運営に指導的役割を果たし、その後も客員教授として大学院生の指導にあたられました。このたびは先生がご専門とされる税制論の立場から、邪馬台国の時代の国家観を語っていただきます。みなさまのご来場をお待ち申し上げます。

  魏志倭人伝の新しい解釈
  -田中章介先生講演会-

日時: 2019年12月14日(土)13:00~
会場: 公立鳥取環境大学 100講義室(定員200名 先着順)
主催: 公立鳥取環境大学
後援: 鳥取県・中国税理士会鳥取県支部連合会・新日本海新聞社

次第:  13:00 開会挨拶(小林朋道)・趣旨説明(浅川滋男)
 13:15 田中章介先生講演(1)
      魏志倭人伝「収租賦有邸閣」の解釈
 14:00 コメント: 茶谷 満(鳥取県立博物館・中国考古学)
      中国考古学からみた邸閣のイメージ
 14:30 休憩
 14:50 田中章介先生講演(2)
      魏志倭人伝に係る、もう一つの解釈-邪馬台国位置論に関連して-
 15:40 コメント: 中原 斉(鳥取県文化財局長・考古学)
      倭人伝にみえる投馬(つま)国と山陰の関係遺跡
 16:10 質疑応答
 16:30 閉会

司 会:浅川滋男(建築史) 
副司会:眞田廣幸(考古学)・政田孝(税制論)
事務局・お問い合わせ先: 公立鳥取環境大学保存修復スタジオ
  *できるだけメールでお問い合わせください。連絡先はチラシを参照。


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魏志倭人伝を読む(4)

 11月21日(木)は1年生が後漢書倭伝の後半を口語訳し、同伝の輪読を終了しました。

後漢書倭伝(二)

 初代光武帝の建武中元二年(西暦57年)、倭の奴(な)国が貢ぎ物をもって朝賀(皇帝に面会)しました。使者は自ら大夫(国の大臣)だと名乗りました。倭の諸国のいちばん南の境界です。光武帝は(奴国の使者に)金印を授けました【注9】
 第六代安帝の永初元年(西暦107年)、倭の国王、師升らが60人の奴隷を献上し、皇帝への朝賀を願い出ました。第11代桓帝から第12代霊帝にいたる間(西暦147~189年頃)、倭国はおおいに乱れ、国々が入れ替わるように戦いあい、そのあいだずっと国王はおりませんでした。卑弥呼という名の一人の女性がいました。年をとっても嫁がず、鬼神の道(シャーマニズム的な宗教)につかえ、妖術で民衆を惑わします。
 ここに及んで、(倭の諸国が)共同で卑弥呼を倭の王としたのです。侍者や奴婢は千人。卑弥呼をみた者はほとんどいません。ただ男子が一人いて、食事や飲物を運び、卑弥呼のお言葉を伝えました。(卑弥呼)の住んでいる宮室・楼観(ものみやぐら)・城柵(囲塀)【注10】はみな武器を持って守衛し、法と慣わしは厳格でした。
 女王国から東【注11】方向に海を千里あまり渡れば、狗奴(くな)国に至ります。狗奴国の人たちも倭種ではありますが、女王には服属しませんでした。
 女王国から南【注12】に四千里あまり行くと朱儒国(小人国)に至ります。身の丈は三~四尺。朱儒から東南へ船で一年進めば、裸国・黒歯国に至ります。使者や通訳【注13】がやってくるのはこのあたりが限界です。
 会稽(今の浙江省紹興)の海の外に東鯷人【注14】がおり、二十国あまりに分かれています。また、夷洲および澶洲【注15】があります。(これらの島々については)、「秦の始皇帝が、方士(神仙の修行者)である徐福【注16】を派遣して、老若男女数千人をひきつれて海に入り、蓬莱島の神仙をもとめさせたが、それを見つけることはできなかった。徐福は誅殺をおそれて帰国することはせず、結局その島にとどまった」という伝説があります。
 徐福の末裔の人びとは会稽に出向く時もあり、交易をしました。会稽郡の東冶(とうや)の県人【注17】で、海に入り風にあおられ、澶洲に着岸する者もいます。徐福らの所在地は気がとおくなるような僻遠にあり、往来できるようなところではありません。【完】


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『鳥取県の民家』を訪ねて(42)

1101 ㉘№072 山本家


静かな長田の村

 次は大山町長田で㉘No.072山本家住宅を調査しました。あまりにも人の気配がなく、村が静かであったため恐るおそる山本家の戸を叩くと、中から奥様が出てきてくださいました。山本家はこの村で最も古く、寛政年間(1789~1800)に庄屋の建物を移築したものらしく、茅葺寄棟造の広間型三間取に復原できます。今でも梁はそのままで、大きく改装した形跡は見られませんでした。奥様曰く、だいぶ前から山が枯れ茅を確保するのが難しくなり、日野町の方から「鉄板が良いよ」とのうわさを聞き、主屋の茅葺屋根を鉄板で覆ったそうです。いつごろ鉄板被覆にしたのかをうかがっていたはずなのですが、気づいたら、ひと月前に亡くなった柴犬るるちゃんの話になっており…奥様は涙を浮かべて「賢くて良い犬だった」と思いをはせていました。鉄板被服にした年は本当に覚えていないそうでした。


1101 ㉘№072 山本家報告書写真
↑報告書(1974)↓現状鉄板被服と鉄板被服内部(2019)
1101 ㉘№072 山本家 細部 1101 ㉘№072 山本家 鉄板の中


 奥様は現在一人でお住まいになられており、お子様も戻っては来ないかもしれない、とおっしゃっていました。長田の村は現在50件ほど民家があり、そのうち数件は空き家だそうです。お一人で住んで居られる奥様を心配して近所の人が見回りに来てくれていらっしゃるようで、安心しました。民家変容パターンはB類:未指定だが、茅葺き屋根を維持のB-2 茅葺き鉄板被覆に分類されます。


1101 ㉘№072 山本家 正面


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『鳥取県の民家』を訪ねて(41)

1101 ㉙№074 門脇家正面


門脇家住宅 秋の一般公開

 国の重要文化財に指定されている大山町門脇家住宅が4日間の一般公開を行うという情報を聞き、11月1日、大山町へ向かいました。まず所子にある㉙No.074 門脇家住宅から。ちょうど昼時で一般のお客様が居られないタイミングであったため、ご主人にお時間を頂戴し、門脇家住宅を案内していただきました。


1101 ㉙№074 門脇家 報告書写真 1101 ㉙№074 門脇家 復元図
↑報告書写真と復原図


 主屋の建築年代は江戸時代中期と推定され、茅葺寄棟造で整型九間取に復原されます。『鳥取県の民家が刊行された』昭和49年(1974)、門脇家住宅は国の重要文化財に指定され、所子の集落は平成25年(2013)、大山町所子重要伝統的建造物群保存地区に選定されます。重伝建の範囲には県指定・登録文化財の門脇家分家などが含まれます。門脇家の歴史については、初代当主と2代目が財力を付け、3代目から6代目まで大庄屋を務めたそうです。地主をしつつ役人もしており、今でも家の至るところに火消し道具の鳶口や泥棒を捉える袖絡などが置かれております。しかし、農地改革により10代目で農地を没収され、門脇家は経済的な基盤を失うこととなります。そこから大庄屋としてではなく、門脇家独自の道を歩んでいきました。


1101 ㉙№074 門脇家 案内の様子 1101 ㉙№074 門脇家 鳶口等役人道具
↑案内の様子 鳶口等当時の道具


 11代目は各地に出向いて古い民家を数多くまわり、利活用の方法を参考にすべく視察を続けてきたそうです。愛知県明治村など移築保存の例も見に行ったそうなのですが、あまり賛成ではなかった様子。「家は人が住んでこそのもの、住める限り住みたい」と述べておられたそうです。12代目の現当主も同じ意見でした。現在の生活スタイルは庭にある建物と主屋の2つの家を行き来し、奥様と二人暮らしで生活スペースとしながら保全しているようです。重要文化財に指定され国、県、町の補助を受けてはいるものの、補助はあくまで補助であり、自己負担の額は小さくないようです。茅葺屋根は最近だと2015年に葺き替えたようで、ご主人が茅葺文化協会に所属しておられ、この手伝いがないと葺き替えの職人さんや葺き材などは見つけることができなかった、とのことです。庭は年に一度植木屋さんに剪定してもらう、とおっしゃっていました。茶室もきれいにされており、今回は入れませんでしたが、庭園と調和してあり一体感がありました。


1101 ㉙№074 門脇家中庭3 1101 ㉙№074 門脇家茶室


 前半はご主人に案内していただきましたが、後半は奥様に案内してもらい、奥様の博識ぶりに驚くばかりでした。奥様は「嫁に来たからには民家について勉強しない」という考えを持っておられ、専門家ばかりの県のヘリテージ講座を受けに行くなど民家の保全に対して積極的に学んでおられます。一般公開に伴い、土間のテレビでは「門脇家住宅2015年茅葺屋根葺き替え工事
」のドキュメンタリービデオが流れていたのですが、それもすべて奥様が編集作業をされたとのことです。20分ほどのビデオでしたが、私はてっきり業者委託の作品だと見間違うほど完成度の高いものでした。
 今年3月に退職されたご主人は「先代と同じよう、これからを考えていかなければならない」とおっしゃっておりました。門脇家保存協会の会員数は現段階で60数人、近所の人から親族の方々、米子あたりから来られる方もいるそうです。今の時点で大切にしていることは、色々な人に門脇家を見てもらい、門脇家住宅を知ってもらうこと、とおっしゃっておりました。
 門脇家調査後には所子重伝建の町並みをフォトスキャン用に撮影しました。会長さんが事前にアポとドローンの許可を取ってくださり、非常にスムーズに調査を進めることができました、ありがとうございます。
 民家変容パターンはA類:指定による民家の保全のA-1 現地保存に分類されます。


1101 ㉙№074 門脇家と重伝建の町並み ←所子重伝建の町並み


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2週連続 中国で招聘講演

中国建築学会建国70周年記念シンポジウム

 いま1本めのパワポの日本語バージョンがほぼ完成しました。まだ科白の中国語訳が残っています。中国語の論文はすでに送信済み。いつものとおりのメモ代わりです。手帳を使わない人間なので、ブログに書いておくのが間違いないの。
 
  11月07日(木) 休講 出張準備
    08日(金) 出国(CA928 関空 13:50/北京 16:10)
           楊昌鳴先生、張之平先生 楊新先生 出迎え
           中国工業大学建国飯店 宿泊
    09日(土) 中国建築学会建築史分会シンポジウム「近70年建築史学研究と歴史建築保護
           -中華人民共和国建国70周年記念」での招聘講演 @北京工業大学
           演題:東大寺頭塔の復元からみた宝塔の起源
              -チベット仏教の伽藍配置との比較を含めて-
    10日(日) 北京→蘇州 世界遺産「蘇州古典園林」視察(1) 蘇州泊
    11日(月) 世界遺産「蘇州古典園林」視察(2) 蘇州→上海 上海泊
    12日(火) 帰国(上海浦東11:40/関空15:00)

中国科学技術史学会建築史専業委員会国際シンポジウム

 こちらは日本語の論文が完成して、中国側に翻訳を依頼し作業してもらっているところです。

  11月14日(木) 休講 出張準備
    15日(金) 出国(MF836 関空 18:30/福州21:05) 福州泊
    16日(土)  中国科学技術史学会建築史専業委員会主催国際シンポジウム
            「木構造営造技術の研究」での招聘講演 @福州大学 福州泊
            演題:科学的年代測定と建築史研究
              -日本の木造建築部材とブータンの版築壁跡の分析から-
    17日(日) 中国科学技術史学会出席 @福州大学 福州泊
    18日(月) 福州→アモイ コロンス島(鼓浪嶼)視察 アモイ泊
    19日(火) 午前:アモイ大学
           午後:帰国(アモイ14:25/関空18:20)

予定変更して
    18日(月)に福州から直接帰国します。
          
   

魏志倭人伝を読む(3)

 10月31日(木)からは2年生が魏志倭人伝の口語訳に着手しました。

魏志倭人伝(一)

 倭人は帯方郡【注1】東南側の大海の中におり、山(の多い)島にあって国や邑(むら)を形づくっています。昔は百国あまりでした。前漢のとき朝見する者がいました【注2】。今は使者や通訳を遣わして交流のあるところは三十国。帯方郡から倭に至るには、海岸に沿って船で進み、韓の国【注3】を経て南に行ったり東に行ったりして、(倭の)北岸にあたる狗邪韓国【注4】に至るまで七千里あまりです。最初に海をひとわたりして千里あまり進むと対馬国に至ります。長官はヒコ(卑狗)といい、副官をヒナモリ(卑奴母離)といいます。人びとが暮らす場所は絶壁の島で、四方の一辺は約四百里あまりでしょう。土地は山が険しく、深い林が多く、道路は獣径(けものみち)のようです。世帯数は千戸あまり。良い水田はなく、海産物を食べて自活しています。船に乗って南北(の国々)と交易しています。さらに南の海をひとわたりして千里あまり進みます。この海峡を「瀚海」【注5】といいます。一支(壱岐)国に至ります。長官はやはりヒコといい、副官をヒナモリといいます。四方の一辺は三百里ばかりで、竹薮や叢林が多い。三千戸くらいの家があります。少しばかり田畑はありますが、田を耕しても住民を養うにはなお足らないので、やはり南北(の国々)と交易しています。
 さらに海峡をわたって千里あまり進むと末盧国【注6】に至ります。世帯数は四千戸あまり。山と海(の地形)にあわせて暮らしています。草木が繁茂し、歩いて行っても前の人が見えません。魚や鰒(あわび)を採るのを好み、水が深かろうと浅かろうとみな潜水して魚貝を採取します。東南方向に陸地を五百里行けば伊都国【注7】に至ります。長官をニキ(爾支)といい、副官をシマコ(泄謨觚)、イモコ(柄渠觚)といいます。世帯数は千戸ばかり。代々王がいますが、どの王も女王国に服属していました。帯方郡の使者が(邪馬台国と)行き来する際、常にこの地で宿泊します。東南方向に百里行けば奴(な)【注8】に至ります。長官をシマコ(兕馬觚)、副官をヒナモリといいます。二万戸ばかりの家があります。東方向に百里行けば不弥国【注9】に至ります。長官をタモ(多模)、副官をヒナモリといいます。千戸ばかりの家があります。
 南方向に二十日水行すれば投馬(つま)【注10】へ至ります。長官をミミ(弥弥)、副官をミミナリ(弥弥那利)といいます。五万戸ばかりの家があります。
 南にある邪馬台国、すなわち女王の都する所まで行くには、船に乗って十日水行し、さらに陸を歩いて一月かかります。長官はイキマ(伊支馬)、次官はミマト(弥馬升)といい、さらにその次席の役人をミマワケ(弥馬獲支)といい、さらにそのまた次席をナカデ(奴佳鞮)といいます。七万戸ばかりです。女王国より北【注11】については、戸数や距離をおおまかに記載できますが、それ以外の周辺の国々は遠すぎて詳しくはわかりません。
 (女王国より南側は)まず①斯馬国があり、以下②己百支国、③伊邪国、④都支国、⑤弥奴国、⑥好古都国、⑦不呼国、⑧姐奴国、⑨対蘇国、⑩蘇奴国、⑪呼邑国、⑫華奴蘇奴国、⑬鬼国、⑭為吾国、⑮鬼奴国、⑯邪馬国、⑰躬臣国、⑱巴利国、⑲支惟国、⑳烏奴国と続き、最後に奴国に至ります。奴国が女王国の境界が尽きるところです。

 奴国の南に狗奴(くな)【注12】があり、男子を王としています。その長官にキクチヒコ(狗古智卑狗)がいます。女王に服属しません。帯方郡から女王国までの総距離は一万二千里あまりです。男子は地位の高低にかかわらず、顔や体に入墨【注13】をしています。昔から倭の使者が中国にやってくると、みな大夫(国の大臣)だと自称します。夏后少康【注14】の子孫が会稽(今の浙江省紹興)に領地を与えられていますが、(その越人たちは)髪の毛を短くし体に入墨して【注15】、蛟龍【注16】を追い払います。いま倭の水人は潜水して魚や蛤を採るのを好み、入墨して大魚・水禽を遠ざけます【注17】。だんだん入墨は飾りになってしまいました。(倭の)諸国の入墨はそれぞれ異なり、体の左にする者もあれば右にする者もあり、大きな入墨もあれば小さい入墨もあって、それで地位の尊卑を示しています。倭まで距離を計るとそこは会稽東冶【注18】の東にあたるはずです。


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『鳥取県の民家』を訪ねて(40)

1015河本1005こうえん01 1015河本1001大勢


古民家「終活」の時代

 10月2日(水)に予報したとおり、10月23日(水)に重文「河本家住宅」秋の公開にともなう講演会をおこなった。以下のように、発表の内容と分担には若干の変更があった。

 1.序-昭和49年刊『鳥取県の民家』を訪ねて
  1-1 報告書『鳥取県の民家』について(井上)
  1-2 新聞連載「失われゆく民家」(藤井)  
  1-3 COC麒麟マイスター研究採択(野口)
  1-4 昭和40年代後半の日本と鳥取(蔵田)             2.河本家と倉長家の幕末家相図を読み解く
  2-1 河本家住宅の幕末家相図とその復原(浅川)
  2-2 倉長家住宅の幕末家相図とその復原(岡崎)
 3.『鳥取県の民家』その後-中間報告
  3-1 在方農家の変容パターン(沼野)
  3-2 町方町家・武家の変容パターン(岡崎)
 4.民家から見通す鳥取県の変動
  4-1 過疎と指定解除(佐藤)
  4-2 指定文化財民家と公開・活用(浅川)
  4-3 民家終活の時代-反「空き家活用」論(浅川)


河本講演様子DSCN9371 1015河本1001


 平日の午後に開催した講演会であり、当然のことながら、人は集まりにくい。それでも保存会のメンバーや、江津の松本さん兄妹、さらに研究室OBの社長さんとタクヲさんなどが駆けつけてくださって、総勢約30名の会になった。こじんまりとはしているが、続き間のハナレにふさわしい人数であったと思う。そして、思いのほか反響は大きかった。以下に保存会のメンバーから会長さんのところに届いたメールを転載する。

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Subject: 講演会の反響
 (略)昨日の講演を聞かれた保存会の方から、次のような電話がありましたのでお伝えいたします。 「学生さんの発表態度、講演の内容は非常に良かった。話の内容がよく分かり、民家が置かれている現状と問題点が把握できたと思う。奥さんも講演の内容に強い関心を示され、民家の終活についてのシンポジウム的なことが出来ないだろうかと言っておられました。」  反響がかなりあったと思われます。
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1015河本1005コメント01 客席からのコメント


 このメールにみるように、「民家の終活」に最も注目が集まったようで、現場でコメントされた№029⑨松本家(鳥取市江津)の方も「うちは重文ではないけれど茅葺き民家に住む身として、民家の終活についてのお話がとくに興味深かった」とコメントされた。講演後、「今度はお宅でやりましょう」と先生が提案されると、「はい、やりましょう」とのことであり、もしその種の会が東部で実現するなら、空き家対策の専門家などとのセッションにするのがよいのではないか、と先生は構想されているようです。
 学生は院生の先輩をのぞくと、初めての対外的な発表会であり、みな大変緊張したが、それぞれ力を尽くすことができたと思う。「緊張したけど見ている人が反応をくれたり、資料にメモをしているのを見て嬉しくなった」、「調査に行った民家の方が来てくださって嬉しかった。半年間学んでいたが聞きに来てくれた人の方が詳しかったりして気づかされることも多かった」、「練習通りにできた。聴講者が興味を持ってくださって嬉しかった」などの感想があがった。


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客間の公開展示



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「寅さんの風景」2コマだけ復活(2)

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河原宿での出会い

 10月15日(火)、30名近い学生を引き連れて寅さんツアーにでかけてきました。その1週間前にはもちろんDVD「寅次郎の告白」を視てもらいましたが、14講義室での視聴時はシ~ンとしていて、これはやっぱり世代の差かなぁ~と観念したものですが、いざフィールドに出ると、学生たちは活きいきと躍動しました。
 昨年までの連続立面図作成は準備が大変なのでやめることとし、DVD鑑賞感想文の最後に現場でのスケッチ希望か、ヒアリング希望かのアンケートをとり、各自の希望に即して河原宿での実習では、スケッチ班を3班(新茶屋・背戸川・森下医院)、ヒアリングを4班(A~D区)編成して実働1時間の作業に取り組みました。


1015河原宿002背戸01寅02 1015河原宿002背戸01寅01
 

 スケッチ班の活動は予測可能でしたが、ヒアリングは初めての試みであり、私も学生もどうなることか、と案じてはおりました。しかし、学生たちは勇猛果敢に民家の戸口を叩いて家人に話を聞いたり、通りすがりの方に話しかけたりして、大いに盛り上がったのでありました。総じて河原宿の住人たち(高齢者)は「寅次郎の告白」(1991)のことをよく覚えていて、写真や冊子・タオルなどの記念品を気前よく提出してくださいました。なかには翌日も話を聞きにきてという嬉しい依頼もあり、わたしがアッシーになり、学生3名とそのお宅を再訪したところ、なんと丹波笹山在住の姉の同級生だったりして・・・わたしは大学に戻りましたが、学生たちは道の駅でオムライスをちゃっかりご馳走になったようです。D班の学生1名の感想文を抜粋して転載します。

  (略)最初に話しかけた方がとても良い方で、さらに当時役所で働いており、寅さんの担当を
  していたと聞いて、とても幸運だった。一日ではすべて聞くことができず、次の日もおばあちゃん
  のところへ行った。まったく苦ではなく、むしろおばあちゃんに会いたい気持ちが大きかった。
  本当にいい出会いをした。先生のご家族とも知り合いで、縁ってすごいと思った。パッチワーク
  が好きで、私達にもいくつか作品をくださった。大切にしたい。最後に道の駅でとてもおいしい
  オムライスと焼き芋をご馳走していただき、さらに大学まで車で送ってくださった。寅さんの映画
  に出てきた(倉吉の)駄菓子屋のおばあちゃんのように、鳥取は温かい人ばかりだと思った。
  初めて会った私たちにこんなに良くしてくれて感謝しかない。また、集合場所へ向かうとき小学生
  の帰りの時間と重なり、みんな「こんにちは」とあいさつしてくれた。温かくいい町だった。
  とても楽しい実習だった。ヒアリングを選択してよかった。必ずまたおばあちゃんに会いに行きたい。


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科学的年代測定と建築史研究(3)

3.ブータン仏教僧院本堂の成立時期を探る

(1)チベット・ブータンの国家と仏教
  チベット・ブータン地域に最初の統一王朝「吐蕃」を建国したソンツェンガンポ(Srong btsan sgam po、中国名「松贊干布」581- 649頃)はネパールから妃を迎えて仏教に帰依した。それ以前のヒマラヤ山麓地域では自然崇拝に基礎をおくボン教(笨教)がひろく信仰されていたが、仏教はこれを邪教視し、とりわけボン教の女神を「魔女」とみなした。そして、大地を支配する魔女を浄化し地下に封じ込めるため、チベット・ネパール・ブータンに12の仏教僧院を築いたと伝承される。それを絵画として表現するのが、17世紀以降の作と推定される「魔女の磔(はりつけ)」図である。この図では、魔女の胴体がチベット、右足がネパール、左足がブータンにあたり、ブータンではブンタンBumthangのジャンバラカン(Jambay-lhakhang)寺とパロParoのキチュラカン(kichu-lhakhang)寺がソンツェンガンポ創建の僧院として描かれる。
 こうしてチベット・ブータンの地に仏教は萌芽するが、次第に衰退の兆しをみせはじめ、ティソン・デツェン(Khri srong lde brtsan 742-797)王が仏教再興の肝入としてパドマサンバヴァを北インドから招聘した。パドマサンバヴァはボン教系の「魔女」や「悪霊」を調伏し仏教側の護法尊として取り込みながら、インドの後期密教を巧みに変容させてチベット仏教の基礎を築いた。同時に、ブータンを2度訪問し、タクツァン(Taktsang)僧院などで悪霊調伏のための瞑想をした。ブータンでは、パドマサンバヴァをブータン仏教の開祖とみなし、今もグルリンポチェ(Guru Rinpoche)という尊称で篤く崇拝している。パドマサンバヴァがおこした最初期の宗派をニンマ派(古派=紅教)という。11世紀以降、チベット仏教は諸派林立の時代となり、チベットでは14世紀にツォンカパ(宗喀巴)のおこしたゲルク派(格鲁派=黄教)が興隆して主導権を握り、ブータンでは17世紀にドゥク(druk)派が勢力を拡大し、ブータンという国家を誕生させる。
 2012年以来、毎年ブータンを訪問し、すでに8回の調査を終えている[浅川2019]。初期の研究主題は「崖寺と瞑想洞穴(修行洞)」であった[吉田・浅川2016]が、最近はボン教系神霊の調伏による仏教「護法尊」への取り込み(仏教とボン教の習合関係)などに焦点を絞りつつある。ボン教の理解なくしてチベット・ブータン仏教の理解はなしえないからである。一方、日本で取り組んできた科学的年代測定を海外でも実施すべく多少のサンプルを採取し成果を得始めている。科学的年代測定の目的は、ブータン仏教僧院における本堂成立時期を確定することである。一部のインフォーマント(情報提供者)が、ブータンにおいて仏教僧院の本堂は17世紀前半以降の国家形成期から一気に増加すると繰り返し発言していたことによる。たしかに、ブータン仏教発祥の地とされるタクツァン僧院(海抜3,050m)でも、今に残る巨大な本堂の建立は1692年まで下る(1990年代にほぼ全焼し再建)。こうした山上崖寺の初期構成について想いをめぐらすに、高山の岩陰洞穴における瞑想があくまで密教修行の根幹をなし、その場所はおそらく僧坊と修行洞に小さなストゥーパを加えた程度のものであって、仏像を安置する本堂は存在しなかったところが多いであろう、とイメージされる。このイメージは正しいのか否か。要するに、本堂はいつの時代から仏教僧院に登場したのか、科学的年代の成果から考えてみたい。

(2)平屋型本堂内陣柱の年代測定
 一般にブータンの仏教僧院では、本堂内部の写真撮影が禁止され、器材を使う実測などの調査も歓迎されない。しかし、一定額の寄進をくり返したり、寺院側が薦める高額の書籍・図録などを購入すると、内部の調査が許可される場合がある。以下、内陣柱の年輪サンプル採取を許可された数少ない例を報告する。
 ジャンバラカン: ソンツェンガンポ造営の12寺は、パドマサンバヴァの密教伝道以前に遡ると言われているが、12寺の開山自体が伝承にすぎないという見方ももちろんある。少なくともブータンの2寺についてはいつの時代の創建なのか詳らかでない。ただ、キチュラカン(パロ)、ジャンバラカン(ブンタン)の両寺とも山上の崖寺ではなく、河川流域の平野部に立地しており、また、大半の仏教僧院が本堂を楼閣形式とするのに対して、両寺とも本堂は平屋である。こうした共通性が古代の伝統を反映するのか否か。
 筆者らは2015年の第4次調査でジャンバラカンを訪れた。8世紀以前と伝承されるのは本堂の内陣のみであり、外陣は後世の増築もしくは大改修だと僧侶は言う。本堂の内陣は内部に二本柱を対称配置する構成であり、年輪サンプルを採取したのは二本のうちの北側の柱である。柱は上から布で覆われて赤い塗装がなされているが、床面から10cmほどの高さまでは木肌が露出していた。そして、床から8mmの位置で、南面の南西隅から年輪を数え、6年輪のみを確認した。その位置で、一番外側から3年輪分を採取した。樹種と部位(心材/辺材)は不明である。帰国後、このサンプルでAMS法放射性炭素年代測定を実施した。最外層年輪年代の測定結果は以下のとおりである[浅川・大石・武田・吉田2017]。

   1526-1555 cal AD (信頼限界16.3%)  1632-1666 cal AD (信頼限界74.4%)
   1784-1795 cal AD (信頼限界4.7%)

 この内陣柱は16世紀以降の伐採であり、信頼限界からみて、17世紀以降の伐採の可能性がより高いと考えられる。つまり国家形成期以降の柱材ということでになる。この結果には二つの解釈が可能である。一つは古代に遡る本堂が17世紀以降に「再建」もしくは「修復による部材差し替え」された可能性である。いま一つは、本堂がこの時期に新設された可能性である。後者の場合、「国家形成期(17世紀)以前に本堂はなかった(あるいは少なかった)」ことを裏付ける資料だということになるけれども、かくも少ない資料ではこれ以上の憶測は無駄であろう。
 ツァルイゴンパ 首都ティンプー市にあるツァルイゴンパ(Tshalui Goempa)の本堂は14世紀建立の寺伝がある。2016年の5次調査(2016)で2回訪問し調査した[浅川・大石2018]。一般にブータンの僧院本堂は揚床板敷とし、その上に柱を立てるが、ツァルイゴンパの本堂は内陣の地盤が外陣より高い位置にあって、柱が土間から直に立ち上がっており、内陣柱自体も非常に古くみえた。現状は2階建の楼閣式だが、当初は平屋の可能性もあると考え、内陣2本柱のうちの1本の年輪サンプルを採取させていただいた。外側から20年輪を確認し、うち最外層2年輪を採取した。樹種・部位(心材/辺材)は不明である。以下に測定結果を示す。

   1494-1602 cal AD(信頼限界74.2%) 1616-1645 cal AD(信頼限界21.2%)

 この結果をみると、伐採年代は17世紀以降もありうるが、15世紀末~16世紀の可能性がより高い。寺伝にいう14世紀の造営までは遡らないけれども、国家形成期以前の部材である可能性を示唆している。



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科学的年代測定と建築史研究(2)

2.米子八幡神社の棟札と蟇股・神像の年代

(1)米子八幡神社の歴史
 日野川下流域北岸に鎮座する米子八幡神社(鳥取県米子市東八幡)は応神天皇のほか、仲哀天皇・神功皇后などの5柱を祀る。養老4年(720)、豊前国(今の大分県)宇佐八幡宮を勧請して創建し、その後、鎌倉幕府を開いた源頼朝が国ごとに8社の八幡宮を造営した際、この地に鶴岡八幡宮を建立し伯耆国(今の鳥取県中西部)の一社として再興したと伝える。奈良時代(8世紀)に遡るという伝承はともかくとして、後述するように、享保18年(1733)「八幡神社棟札書出」(古い棟札を集成して書き写した板書)には天永(1110~13)の元号を記す棟札の内容を転記している。八幡神社の創建年代を考える上で重要な指標となる情報である[原島・中島・浅川2015, 浅川・原島編2015]。
 中世(14世紀)には「相見八幡」「相見庄八幡宮」などと称され、相見庄(村)の鎮守社であったことがうかがえる。中世における米子八幡神社の祭祀は、八幡神を勧請した紀氏の後継一族である巨勢氏や相見氏によって掌られたが、かれらは神職であると同時に、軍事力を有する土豪でもあった。相見氏による八幡神社の神職継承は戦国時代末期(16世紀後半)まで及んだが、天正17年(1589)、吉川一族は相見盛宗を追放して内藤綱宗を京都より呼び寄せた。以後、八幡神社の宮司職は内藤氏によって世襲され現在に至る。
 現在、神社境内は日野川北岸に鎮座するが、社伝によると、古くは現在地より南方の長者原村(岸本町坂長)に所在し、大寺村(同町大殿)には神宮寺があったとされる。その後、八幡村に境内を移すが、天文19年(1550)日野川流域は大洪水に見舞われ、河川流路の変化によって八幡村は東西に分断される。川の東側に馬場村(現在の東八幡)が新たに誕生し、ここに八幡神社は社殿を遷したのである。

(2)米子八幡神社社殿の年代調査
 米子八幡神社の本殿(御神体を収納する中心社殿)と拝殿(本殿の前に置かれる祭儀・拝礼のための社殿)の構造形式を示す。

  本殿: 三間社流造 銅板葺(天保13年1842AD/棟札)
  拝殿: 入母屋造千鳥破風付 平入銅板葺
       向拝一間 切妻造妻入軒唐破風付(寛政11年 1799AD/棟札)

 本殿と拝殿をつなぐ中廊下が弊殿であり、本殿・幣殿・拝殿の全体は宇佐神宮を基準とする「八幡造」ではなく、日光東照宮に代表される「権現造」に近い平面になっている。2014年、おもに拝殿を対象として、<1>本殿・拝殿の実測、<2>棟札の撮影と翻刻、<3>蟇股及び木鼻・実肘木・虹梁の絵様(線刻模様)拓本の採取、<4>蟇股の年輪サンプル採取と放射性炭素年代測定をおこなった。

(3)拝殿蟇股の年代判定
 米子八幡神社には73枚の棟礼が所蔵される。そのうち建築・再建・改修等に係わる24枚と享保18年「八幡神社棟札書出」も撮影し翻刻した。73 枚の棟札のうち、とくに建築史と係わる15枚の年代と介入を以下に列挙する。

  【棟札01】天正17年(1589)若宮建立
  【棟札02】寛永11年(1634)修理(棟札現存せず)
  【棟札03】承応02年(1653)本殿再興
  【棟札04】延宝01年(1673) 「拝殿」初見
       本社並別宮二宇末社三座従神門鳥居廳屋拝殿咸造立成畢
  【棟札05】元禄07年(1694)造栄(修理?)
  【棟札06】正徳05年(1715)造営(修理?)
  【棟札07】元文03年(1738)修造(修理)
  【棟札08】宝暦05年(1755)修栄(修理)
  【棟札09】明和08年(1771)修栄(修理)
  【棟札10】安永10年(1781)修栄(修理)
  【棟札11】寛政11年(1799)拝殿を再建
  【棟札12】文化13年(1816)修栄(修理)
  【棟札13】天保13年(1842)本殿を再建
  【棟札14】慶応02年(1866)修造(修理)
  【棟札15】明治20年(1887)屋根葺替

 米子八幡神社は16 世紀後半、日野川の大洪水により対岸から現在地に境内を移設し、天正17 年(1589)に新しい神社(若宮)を「建立」し【棟札01】、本殿は承応2 年(1653)と天保13 年(1842)に「再建」【棟札03・13】、拝殿は延宝元年(1673)に初見し【棟札04】と寛政11 年(1799)に「再建」している【棟札11】。承応2 年の拝殿初見、および「建立」「再建」以外の棟札は屋根葺き替えや軽微な修理を指し、20 年前後のサイクルで造替を繰り返している。
 拝殿側柱筋の16 枚の蟇股は、塗装・彩色・形状からみて、現在の拝殿(1799)本体よりも古い時期に制作された刳抜蟇股とみなして大過ない。調査以前、内藤宮司はこれらを戦国時代以前と推定していた。様式は2種に分かれる。一つは側柱筋の蟇股14枚であり、番付A05・B06の拓本を採取、放射性炭素年代測定サンプルについては、予算の関係上、蟇股A05のAMSサンプル1点(芯から43年輪目)の採取にとどめた。いま一つは拝殿と幣殿の境の蟇股2枚(番付D03・D04)であり、様式的には格段と古式を示しており、D04は年輪数100層を超えるスギ材なので、まずは奈文研に年輪年代測定を依頼したが、年輪幅の粗密が大きく、年代を特定できなかった。酸素同位対比年代測定については、大がかりな破壊分析になるので断念し、放射性炭素年代測定(ウィグルマッチ法)のサンプル3点を採取した。なお、これら八幡神社拝殿蟇股の様式分析と年代判定に先立ち、『日本建築細部変遷小図録』[天沼1944]と『蟇股』[吉井2006] や佐藤正彦の業績[佐藤1980, 1985]などから網羅的にデータを集め、「蟇股データベース」(全325 枚)を作成している。
 拝殿側柱筋蟇股の制作年代: 八幡神社拝殿側柱筋の蟇股(A05)はAMS法放射性炭素年代測定にかけたが、以下のように信頼性の低い候補が複数あらわれた。

  1669-1681calAD(信頼限界14.7%)  1738-1756calAD(信頼限界19.5%) 
  1763-1781calAD(信頼限界22.0%)  1799-1803calAD(信頼限界4.0%)
  1938-1945calAD(信頼限界8.0%)

 結果として、制作年代については様式の鑑定に頼らざるをえなくなり、蟇股データベースの全国例を山椒しつつ鳥取県内の類例と対比した結果、様式的に最も近いのは鳥取県倉吉市の長谷寺仁王門蟇股(1680)と判断した。「拝殿」の語が初見する延宝元年(1673)の棟札と対応する可能性が高いと思われる。
 拝殿・幣殿境蟇股の制作年代: 八幡神社拝殿・幣殿境の蟇股D04[スギ 1212mm × 378mm 年輪101層 心材型]は、装飾された中板を嵌め込む刳抜蟇股である。表面の脚部先端に派手な彩色の雲紋板を貼り付け、延宝期(推定)の形状に近づけているが、裏面をみると、素朴な脚部先端があらわれる。放射性炭素年代測定(ウィグルマッチ)の測定結果は、  

  1036-1080 cal AD(信頼限界95.4%)

である。拝殿・幣殿境蟇股(D04)の最外層年輪年代は11 世紀代の暦年代を示している。この蟇股は材型なので伐採年代を特定できないが、ひとまず「西暦1036年以降の伐採」であることは確認できた。これと享保18年(1733)「八幡神社棟札書出」を比較すると、天永年間(1110~1113)の棟札の年代を含むことに驚きを禁じえない。「天永」という年紀の蓋然性は少しばかり高まったと言える。
 さて、蟇股(D04)は芯(髄)と最終形成年輪を含まない心材型の芯去材である。サンプルを採取した箇所の幅は360mmで、直径は最低でも720mm以上あると考えられ、その直径の外側に何年輪かを加える必要があるが、年輪の目はあらく、仮に100年輪を追加すると直径1.5m前後の太径木となる。それらを考慮した上で、蟇股(101年輪)の最外層年輪の外側に50年、100年、150年、200年の年輪が存在した場合を仮定すると、伐採年代は以下の範囲となる。

   1) 50年の場合:1086~1130AD   2)100年の場合:1136~1180AD
   3)150年の場合:1186~1230AD  4)200年の場合:1236~1280AD

 1)の場合、享保18年「八幡神社棟札書出」に含まれる天永年間(1110~1113)の棟札年代を含んでいる。2)の場合は、天永年間より遅れるが、鎌倉時代に入る直前の平安時代末期に該当する。米子周辺で紀氏一族が土着し活躍したのが11~12世紀頃であり、1)2)の年代に対応している。3)4)は鎌倉時代に含まれるが、年輪の幅がかなり長い(5~10㎜)ので、原木の直径は2mを超える材になるであろうから、とりわけ4)の可能性は低いと思われる。ここでは年代を広めにみて、1)2)3)で納まるとすれば、「平安時代後期~鎌倉時代前期」を原木の伐採年代と推定できるであろう。D04の伐採年代を「平安時代後期~鎌倉時代前期」と仮定して、蟇股データベースの類例と比較してまとめてみよう。

 《1》八幡神社拝殿D03・D04は、輪郭の見付け幅が上部を広く、下部を狭くして変化をつけており、全体として最古の遺例とされる宇治上神社本殿左殿の蟇股(1060AD頃)に近い形状をし呈している。これは平安時代後期の特徴と言える。
 《2》平安時代の刳抜蟇股は扠首状の二材を左右から組み合わせたものであるが、八幡神社の蟇板D03・D04は一木からの刳り抜きであり、鎌倉時代の特性を示している。ただし、東北の地方様式を有する中尊寺金色堂(岩手県)は蟇股を一木刳り抜きにしており、平安時代後期の山陰にそのような材が存在したとしてもおかしくはないだろう。
 《3》D03・D04の脚先の繰形は鎌倉時代以降にみられるような幅がひろいもので、十輪院本堂の蟇股(鎌倉時代前期)によく似ている。こうした造形は平安時代の遺例にみられない。
 《4》D03・D04は輪郭の内側2ヶ所に茨をつけ、内角に面を取っている。これもまた鎌倉時代前期中頃以降の様式を示すものである。

 以上みたように、八幡神社D03・D04は全体の形状以外では平安時代後期の蟇股遺例の有する特徴はやや希薄であり、どちらかといえば鎌倉時代前期の様式を示している。しかしながら、管見の限り、平安時代の刳抜蟇股は6点しか残っていない。平安時代に存在したであろう多様な様式を網羅的に理解できるわけではないのである。細部にあらわれた鎌倉時代蟇板の特徴にしても、それらが平安時代に遡りえないという保証はない。また、形状からみて平安時代の板蟇板と八幡神社D03・D04に共通点を少なからず認めうる点を考慮するならば、前身建物に使われていた板蟇股を刳り抜いて中世風の蟇股にリニューアルした可能性すらないとは言えまい。
 仮にこの蟇板が「棟札書出」にいう天永年間(1110~1113)の造営に対応するとすれば、宇治上神社本殿に次ぐ日本で2番目に古い刳抜蟇板ということになる。しかしながら、いまのところ八幡神社D03・D04は「平安時代後期~鎌倉時代前期」の作と表現するにとどめておきたい。平安時代後期か鎌倉時代前期のどちらに絞れるのかは現状のデータ量では難しい。なお、この蟇股は神社にしては派手すぎるので神宮寺のものではないか、という見方も可能であろう。いずれにしても、宇治上神社本殿の蟇板に似た日本最古級の刳抜蟇板が米子八幡神社に所蔵されているという事実に注目しなければならない。


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プロフィール

魯班13世

Author:魯班13世
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魯班(ルパン)は大工の神様や棟梁を表す中国語。魯搬とも書く。古代の日本は百済から「露盤博士」を迎えて本格的な寺院の造営に着手した。魯班=露盤です。研究室は保存修復スタジオと自称してますが、OBを含む別働隊「魯班営造学社(アトリエ・ド・ルパン)」を緩やかに組織しています。13は謎の数字、、、ぐふふ。

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