魏志倭人伝を読む(5)
11月28日(木)、2年生が魏志倭人伝の2回めの輪読をしました。ついに卑弥呼が登場します。また、下線を施した「収租賦有邸閣 國國有市」(原文)は、とくに12月14日の講演会と深く係わる部分です。学生諸君はくれぐれも注意して、ここの意味を考えてください。
魏志倭人伝(二)
その風俗は淫らではありません。男子はみな(帽子などの)冠り物をかぶらず、木緜(絹布)を頭にかけます。衣服は幅広の布を結び束ねているだけで縫うことをしません【注19】。女性は髪を束ねて髷を結い、衣服をつくるときは、反物の中央に穴をあけ、そこから頭を出して着ています【注20】。禾稲(いね)や紵麻(あさ)を植え、桑の木に蚕を飼って絹を織り、細紵(ほそあさ)やかとりぎぬ【注21】・木綿を生産します。その地には、牛・馬・虎・羊・高麗烏(コマガラス)【注22】はいません。武器には矛・楯・木弓を用います。木弓は下を短くして上を長くし、竹の矢は鉄鏃のものもあれば、骨鏃のものもあります。これらの特産品【注23】は儋耳・朱崖(今の海南島)と同じです。
倭の地は温暖で、冬も夏も生野菜を食べます。みな裸足。地上に建物があり、父母と兄弟の住むところは別々にしています【注24】。朱丹(赤い顔料)を体に塗りますが、それは中国人が白粉(おしろい)を塗るようなものです。
飲食には高坏を用いて、手でモノを食べます。人が死ぬと棺に納めますが、(棺を納める)木槨はなく、土を盛り上げて塚【注25】をつくります。人が死んでから十日あまり喪に服し、そのときは肉を食べず、喪主はわめき泣き続けますが、その他の人たちは歌い踊り酒を飲みます。死者を埋葬したあとは、一家全員で水に入り、練沐【注26】のように体を洗い清めます。
旅立って海を渡り中国に向かう際、必ず一人の人物を選びます。その人物には髪を梳かせもしなければ、シラミを取らせず、衣服を垢で汚れさせ、肉を食べさせず、女性を近づけさせず、喪中の人のように扱います。この人を「持衰」と呼びます。もし、道中にご利益があったとすれば、褒美や侍者を与え、もし病気になったり、厄害にあったとすれば、みなで持衰を殺してしまいます。持衰が禁欲しなかったからと考えるからです。
真珠・青玉(碧のヒスイ)を産出します。山には丹土(赤い顔料の原料)があります。樹木には、枏(クス)、杼(トチ)、予樟(クスノキ)、楺(ボケ)、櫪(クヌギ)、投(スギ)、橿(カシ)、烏号(ヤマグワ)、楓香(カエデ)があります。竹には、篠(シノダケ)、簳(ヤダケ)、桃枝竹があります【注27】。薑(ショウガ)、橘(タチバナ)、椒(サンショウ)、蘘荷(ミョウガ)はありますが、それらの調味料を使って食べ物の味をよくすることはできません。サルと黒キジがいます。
その習俗では、何かをしたり、どこかへ行ったりするときに云々するところがあれば、すぐに骨を灼いて吉凶を占い、まず占いの内容を告げます。令亀の法【注28】のように、火熱によってできた骨の裂け目をみて兆し(近未来)を占い、メッセージを発するのです。会合や着座には、父子・男女で差はありません。人びとは生まれつきの酒好きです。貴人に(平民が)敬意を表すところをみたのですが、ただ手を叩きます。それで跪拝の代わりとします。
倭人は長寿で、100歳とか80~90歳の者もいます。その習俗では、貴人はみな4~5人の妻をもち、平民でも2~3人の妻がいます。女性は淫らでなく、嫉妬しません。盗みはなく、訴えごとも少ないです。その法を犯すと、罪が軽いものは妻子を没収し、罪の重い者は一家一族を殺してしまいます。身分に序列があり、(下位の者が)上位の者に服従して秩序が保たれています。租(物品税)と賦(人頭税)を納めます。邸閣(倉庫・武器庫群、管理施設・客館などの複合施設)があります。国々には市場があり、諸国の特産物を交易します。「大倭」という役人が市を管理しています。邪馬台国より南【注29】には「一大率」という役職を置き、諸国を検察させます。諸国はこれを畏れています。一大率はつねに伊都国にいて、(その国を)統治しています。魏の国の「刺史」のようなものです。倭の王が使者を魏の都(洛陽)や帯方郡、三韓諸国に派遣したり、帯方郡の使者が倭国に赴くたびに、(一大率は)港に出向いてチェックした上で、文書や贈物を女王に伝送し届けるので、ミスは許されません。
平民が貴人と道路で出会ったときは、後ずさりして草むらの中に入ります。貴人がお言葉を伝え、物事を説明する際には、うずくまったり、ひざまづいたりして、両手を地につけ、恭敬の意を表します。平民の返事の声は「はい」と言います。中国でいう然諾(せんだく)のようなものです。
倭国はもともと70~80年ばかり男子を王としていました。倭国は戦乱が続き、何年も互いに攻撃しあいました。そこで、諸国が共同で一人の女子を立てて王としました。名は卑弥呼と言います。鬼道(シャーマニズム的宗教)に仕え、民衆を惑わすことができました。【続(未完)】
魏志倭人伝(二)
その風俗は淫らではありません。男子はみな(帽子などの)冠り物をかぶらず、木緜(絹布)を頭にかけます。衣服は幅広の布を結び束ねているだけで縫うことをしません【注19】。女性は髪を束ねて髷を結い、衣服をつくるときは、反物の中央に穴をあけ、そこから頭を出して着ています【注20】。禾稲(いね)や紵麻(あさ)を植え、桑の木に蚕を飼って絹を織り、細紵(ほそあさ)やかとりぎぬ【注21】・木綿を生産します。その地には、牛・馬・虎・羊・高麗烏(コマガラス)【注22】はいません。武器には矛・楯・木弓を用います。木弓は下を短くして上を長くし、竹の矢は鉄鏃のものもあれば、骨鏃のものもあります。これらの特産品【注23】は儋耳・朱崖(今の海南島)と同じです。
倭の地は温暖で、冬も夏も生野菜を食べます。みな裸足。地上に建物があり、父母と兄弟の住むところは別々にしています【注24】。朱丹(赤い顔料)を体に塗りますが、それは中国人が白粉(おしろい)を塗るようなものです。
飲食には高坏を用いて、手でモノを食べます。人が死ぬと棺に納めますが、(棺を納める)木槨はなく、土を盛り上げて塚【注25】をつくります。人が死んでから十日あまり喪に服し、そのときは肉を食べず、喪主はわめき泣き続けますが、その他の人たちは歌い踊り酒を飲みます。死者を埋葬したあとは、一家全員で水に入り、練沐【注26】のように体を洗い清めます。
旅立って海を渡り中国に向かう際、必ず一人の人物を選びます。その人物には髪を梳かせもしなければ、シラミを取らせず、衣服を垢で汚れさせ、肉を食べさせず、女性を近づけさせず、喪中の人のように扱います。この人を「持衰」と呼びます。もし、道中にご利益があったとすれば、褒美や侍者を与え、もし病気になったり、厄害にあったとすれば、みなで持衰を殺してしまいます。持衰が禁欲しなかったからと考えるからです。
真珠・青玉(碧のヒスイ)を産出します。山には丹土(赤い顔料の原料)があります。樹木には、枏(クス)、杼(トチ)、予樟(クスノキ)、楺(ボケ)、櫪(クヌギ)、投(スギ)、橿(カシ)、烏号(ヤマグワ)、楓香(カエデ)があります。竹には、篠(シノダケ)、簳(ヤダケ)、桃枝竹があります【注27】。薑(ショウガ)、橘(タチバナ)、椒(サンショウ)、蘘荷(ミョウガ)はありますが、それらの調味料を使って食べ物の味をよくすることはできません。サルと黒キジがいます。
その習俗では、何かをしたり、どこかへ行ったりするときに云々するところがあれば、すぐに骨を灼いて吉凶を占い、まず占いの内容を告げます。令亀の法【注28】のように、火熱によってできた骨の裂け目をみて兆し(近未来)を占い、メッセージを発するのです。会合や着座には、父子・男女で差はありません。人びとは生まれつきの酒好きです。貴人に(平民が)敬意を表すところをみたのですが、ただ手を叩きます。それで跪拝の代わりとします。
倭人は長寿で、100歳とか80~90歳の者もいます。その習俗では、貴人はみな4~5人の妻をもち、平民でも2~3人の妻がいます。女性は淫らでなく、嫉妬しません。盗みはなく、訴えごとも少ないです。その法を犯すと、罪が軽いものは妻子を没収し、罪の重い者は一家一族を殺してしまいます。身分に序列があり、(下位の者が)上位の者に服従して秩序が保たれています。租(物品税)と賦(人頭税)を納めます。邸閣(倉庫・武器庫群、管理施設・客館などの複合施設)があります。国々には市場があり、諸国の特産物を交易します。「大倭」という役人が市を管理しています。邪馬台国より南【注29】には「一大率」という役職を置き、諸国を検察させます。諸国はこれを畏れています。一大率はつねに伊都国にいて、(その国を)統治しています。魏の国の「刺史」のようなものです。倭の王が使者を魏の都(洛陽)や帯方郡、三韓諸国に派遣したり、帯方郡の使者が倭国に赴くたびに、(一大率は)港に出向いてチェックした上で、文書や贈物を女王に伝送し届けるので、ミスは許されません。
平民が貴人と道路で出会ったときは、後ずさりして草むらの中に入ります。貴人がお言葉を伝え、物事を説明する際には、うずくまったり、ひざまづいたりして、両手を地につけ、恭敬の意を表します。平民の返事の声は「はい」と言います。中国でいう然諾(せんだく)のようなものです。
倭国はもともと70~80年ばかり男子を王としていました。倭国は戦乱が続き、何年も互いに攻撃しあいました。そこで、諸国が共同で一人の女子を立てて王としました。名は卑弥呼と言います。鬼道(シャーマニズム的宗教)に仕え、民衆を惑わすことができました。【続(未完)】