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魏志倭人伝を読む(8)

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クリスマス天目茶碗

 嗚呼、誕生日ですよ。63回めのバースディ。4月に救急車で運ばれたときはどうなるかと思いましたが、おかげさまでそちらのほうは回復しました。とはいえ、瞼の下の隈は濃くなり、皺は増える一方の今日このごろでございます。
 12月25日(水)に話を戻しましょう。この日は卒業アルバムの撮影日でもあり、卒アル担当の学生が大きなカメラをもって4409演習室を訪ねてきました。そこで記念撮影したのですが、プロジェクト研究2&4「魏志倭人伝を読む」の発表会で使う予定の弥生人の衣服素材が届いており、男用の横幅衣、女用の貫頭衣を卒業予定者に試着してもらい、撮影しました(データは卒アル委員会がもっているので、いずれ提供してもらいませう)。ここで厳密に商品名を記しておきます。

 《横幅衣》 テーブルクロス おしゃれ 北欧 エスニック柄 民族風 長方形 耐熱 防汚 滑り止め
       テーブルカバー 食卓カバー 綿麻製 花柄 インテリア 4人 6人掛け
       ボヘミアン マヤ文化 140x180CM
 《貫頭衣》 黄麻布 自然ジュート バーラップ テーブル飾り 黄麻ロール リボン 
       椅子/テーブル/ギフト/贈り物などに装飾 結婚式・披露宴・パーティー・記念日 
       田園風 素朴 装飾(30cm*5m)
 《腰巻紐》 真田紐 平紐3分(約9mm幅)5mカットNo.4 組紐 茶道具

 残す課題は男の頭にのせるホッカムリだけですね男子はみな冠り物をかぶらず絹布を頭にかける。バンダナでいくか、手ぬぐいにするか。記念撮影を終えてサプライズがありました。ゼミ生一同から誕生日プレゼントを頂戴したのです。これが、まるで数十万円もする(斑なしの)天目茶碗のようなモーニングブルーの器でしてね(黒米付)、わたしの場合、蕎麦米のリゾットやお茶漬けに最適のお椀です。
 みんな、ほんとうにありがとう!


1225クリスマス01記念品02up 1225クリスマス01記念品01


「弥生の衣食」再現

 じつは当方、翌26日に赤米大会を控えておりました。シラバスにもちゃんと書いているのですが、プロジェクト研究2&4「魏志倭人伝を読む」では、弥生土器で赤米を炊く実習をおこなうこととしておりました。とはいうものの、時間はなくなっていて、26日にもパワポの調整や漫画のスキャン作業があったのですが、ここは3年以上のゼミ生に協力してもらい、赤米大会を実施したのです。弥生風の野焼き土器や甑はたくさんあるのですが、なにぶん天候がわるく、野外で煮炊きするのは難しいので、炊飯は電気釜として、食事に弥生土器を使いました。


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 じつはじつは絶妙のタイミングで秋田から米10キロが送られてきたのです。「魏志倭人伝の新しい解釈-田中章介先生講演会」に秋田から車でやって来られた小林さん(縄文考古学)が帰宅後送ってくださったものです(イブリガッコ2本付)。これに赤米・黒米(日本の古代米)、ブータン米、蕎麦米などを混ぜたもの、あるいは白米を炊飯器5つに分けて炊きだしたのです。みんなよく食べてくれました。準備した3・4年の女子は大変だったみたいです(男子は何をしてたんかなぁ)。
 ここでもまた弥生衣装の打ち合わせをしました。1・2年生の代表者2名ずつに服を着てもらって、貫頭衣の縫い合わせは後漢書の担当部分を読んだ大分のKさんにお願いすることになりました。うまくいくことを願っています。


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↑1年生  ↓2年生
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極道なまはげクリスマス

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年末恒例-カフェ黒田での実習演習

 12月17日(火)、年末恒例の古民家カフェ黒田での卒論研究発表と実測演習(3年生)をおこないました。4年生のうちTaskくんは「『秋田県の近代化遺産』その後」を主題としている関係上、故郷の秋田県湯沢市に帰省して卒業研究を進めていますが、他の3名及び修士研究の院生は以下のような取り組みを進めており、今回はその中間発表大会になりました。

  谷(卒論)「ブータン仏教の調伏と護法尊」
  野口(卒論)「昭和49年刊『鳥取県の民家』を訪ねて」
  ガビラ(卒論)「功徳の石積み-モンゴル・チベット・日本の墳丘状堆石に関する比較研究」
  岡崎(修論)「宝塔・多宝塔の原義と発生時期に関する基礎的考察
          -チベット仏教と古代日本の比較研究-」


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 いつものごとく教師の指導は厳しかったのでありますが、良かった順に並べると、

  ガビラ → 野口 → 谷 → 岡崎

でありまして、ブータン・四川につれてった2名が振るわなかった点、残念でした・・・


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↑実測演習



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お帰り寅さん(1)

 28日(土)午後、高の原イオンシネマで「お帰り寅さん」をみた。映画館に足を運ぶのは数年ぶりのことである。諸々の映画の予告が終わり、松竹の富士山ロゴが映し出された瞬間から気持ちが高揚してきて、冒頭はいきなり鳥取砂丘。第44作「寅次郎の告白」(鳥取篇1991)で家出した泉ちゃんと満男が再会する、あのシーンから「お帰り寅さん」は始まり、続いて主題曲を歌う桑田佳祐にバトンタッチ。数ある歌手のなかから桑田佳祐を選んだ慧眼には敬意を表したい。正直、第49作の八代亜紀は選択ミスだと思っていたが、桑田佳祐の主題歌は良かった。わたしはとくに「どぶに落ちても根のあるやつはいつかは蓮(はちす)の花が咲く・・・」という2番の歌詞が好きで、このあたりからすでにして涙腺が緩んでいた。

 満男は小説家に転じていて、デビュー作?が評判になり、サイン会を開催することになって、八重洲ブックセンターで泉ちゃんと再会する。泉ちゃんはヨーロッパに渡って難民問題を扱うNGOのスタッフになり、ジュネーブに住んでいて、もちろん結婚して家族もいる。二人とも現状の世界と少し似たところがあり、満男は「三丁目の夕日」のポンコツ小説家茶川を彷彿とさせるし、泉ちゃんはジャン・アレジとの事実婚生活を匂わせている。ただし、二人の描き方は対照的で、満男は三丁目の茶川ほどだらしなくはなくて節度があり、中3の娘から慕われているのに対して、泉ちゃんは歴代のマドンナと同様、訳ありの陰があって、事実、三浦半島の施設にいる父親と介護する母親の問題で頭を抱えているし、おそらく現実(アレジとの別居)と同様、ジュネーブの家族生活にも何かあるのだろうと暗示させるが、それは最後まで明らかにされない。
 満男と娘の関係には、少々違和感がある。家族の基軸は母-娘の母系的つながりにあって、男たちは「粗大ゴミ」的存在であるはずなのに、ああしたあからさまな娘からの好かれ方を前提とする家族感をしばしば山田洋次監督は描こうとする。娘には新しい母親が必要、というのもおかしなところで、思春期の少女なら自分を産んだ母親以外に母親はいないと思っているだろうし、その分だけ母親変わりのおばあちゃん(倍賞智恵子)に依存するのが自然な成り行きだと思う。

 主題は、満男と泉ちゃんの恋の再燃である。満男は最後の最後まで自分の妻が他界していることを隠そうとする。泉ちゃんはそんな満男さんが好きだと言ってキスをする。48作までの満男は寅さんに似ていてどん臭く、ここぞというところで脱線してしまうのだが、今回はそうではなくて、むしろ泉ちゃんのほうからのボディタッチがしばしばあり、口説きに入っているような気がしてならなかった。この点に関しては、続編の布石とみてもなんらおかしくはない。

 美保純が亡父タコ社長の代役を必死で演じていた、視ていて可哀想なほどに。対して、満男は寅さんの代役ではなかった。もっと普通の常識ある日本人の役である。寅さんの代役はどこにも居ない。寅さんは回想シーンの中にだけいた。その回想カットインの場面になにより胸を打たれた。寅さんが画面にあらわれるたびに元気が出てくるし、笑わされるし、涙がでてくる。寅さんに戻ってきてほしい、と心底思った。
 正月休み中、もういちど高の原イオンシネマに行こうと患者に語りかけると、彼女は素直に「そうだね」と返事をした。今度はもう少し後ろの席で視ようと思う。スクリーンが大きすぎて、前の方だと全景が捉えにくいのである。正直、毎日通ってもいいとさえ思っている。一度だけみて分かる映画なんてこの世に存在するはずがないからね。【続】

【連載情報】
男はつらいよ50周年「お帰り寅さん」上映記念 ギャラリートークのお知らせ
(大学HP)http://www.kankyo-u.ac.jp/news/2019/20191221/
男はつらいよ「お帰り寅さん」上映記念ギャラリートーク(予報)
(1)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2154.html
(2)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2159.html
お帰り寅さん
(1)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2160.html



男はつらいよ「お帰り寅さん」上映記念ギャラリートーク(予報2)

20191224寅さん中華そば_01 寅さんギャラリートーク・校了_01
 

メリークリスマス、寅さん!
 
 先日、ある考古系の専門家から大船の「でぶそば」を発見したというメールがあり、でぶに「でぶそば」の紹介とは何事か、と思った次第ですが、上の写真にみるとおり、寅さん50周年記念のカップヌードルでありました。大船とは、寅さんシリーズが撮影された大船撮影所のあったところですね。撮影所の近くにあった老舗の中華そば屋さんの味を再現したというわけだ。
 50周年第50作「お帰り寅さん」の公開は年末27日からです。初日は満席かな・・・でも、正月休みには必ず映画館に行きます。これをみないでギャラリートークはできませんから。
 チラシに細部の微修正があったので、上右に貼り付けておきます(サムネイル)。また、大学のホームページにも広報がアップされました

http://www.kankyo-u.ac.jp/news/2019/20191221/

  1.日 時: 令和2年(2020)1月18日(土)13:30~15:30
  2.会 場: 河原城2階イベントホール
  3.参加料: 無料(入館料250円は必要)・要予約
  4.内 容: 映画「寅次郎の告白」の終盤30分を鑑賞後、
          最新の成果を学生のコスプレ風衣装を交えてトーク
  5.主催・問い合わせ先: お城山展望台「河原城」(鳥取市河原町谷一木1011)
          URL http://www.kawahara-shiro.com/
          ℡0858-85-0046 e-mail:kw-oshiro2@city.tottori.tottori.jp

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男はつらいよ「お帰り寅さん」上映記念ギャラリートーク(予報)
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お帰り寅さん
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四川高原-ストゥーパの旅(5)

190825道孚県尊勝白塔01 190825道孚県尊勝白塔02


道孚県の白塔とマニタイ

 8月25日(日)。宿泊した道孚のホテルから車に乗り、街を出てすのところで、白塔(ストゥーパ)を発見しました。近くには大きな川が流れています。白塔最下段の基壇は8,900㎜四方で、高さはおよそ4mです。下側の2段のテラスに小振りなストゥーパが群をなして、中央の白塔を取り囲んでいます。寺院とは独立した単独のストゥーパであり、道孚の街を守護するために設置されたものだということです。寺院正面の離れた位置にストゥーパをおくのと同じ空間構造を、街(都市・集落)に対しても読みとれると思いました。


190825道孚県尊勝白塔03 190825道孚県尊勝白塔04 


 このストゥーパを中心とする境内の隅にマニタイを確認できました。白塔基壇からの距離はわずか2.25mです。マニタイは街の守護とは無縁です。ドライバーのマニさん(チベット族)によれば、このマニタイは、風水的に理想的な場所にあるストゥーパの聖域に設置したものであり、多くは住居周辺に置き場所がない人びとが積んでいっているのだそうです。一枚の板石に真言を刻むのは一世帯に対応し、それは祖先を供養するためであったり、自らの徳を積むことを目的としますが、それを墳丘状に積み上げるのは家族単位ではなく、街に住む大勢の人びとによるものであり、最終的には「世界平和のため」という意識があるともうかがいました。


190825リンボン02 190825リンボン03


リンボン

 道孚を後にし、德格県に向かう道中でリンボンと呼ばれる多くの積み石をみました。板状の石ではなく、拳大または人頭大の丸石を円形階段状に積み上げています。手に石を持ち、ゲルク派の真言「心咒(シンジュー)」を読誦しながら石を積んでいくそうです。大きいものから小さいものまでいたるところで目撃しました。形状的にみて、モンゴルのオボーによく似ているので、あるいは仏教以前の信仰に起源するものかもしれませんが、少なくとも今はチベット仏教的な民間信仰の一部となっていて、頂部が伏鉢状を呈している点も仏教ストゥーパと似ている点です。


190825リンボン04 190825リンボン05



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四川高原-ストゥーパの旅(4)

190824寿霊寺01 190824寿霊寺05門前マニタイ 


寿霊寺

 8月24日(土)。まずは炉霍県の寿霊寺を訪れました。この寺院は1880年代にパンツェンラマ14世によって建立されたものです。山のふもとの門前には、仏像をレリーフにしたカラフルな板石をがたくさん立てていました(↑右)。本堂(↑左)の前から街の全景が広がり、その向こうの山の間に鮮水河という大河が流れており、風光明媚です。


190824寿霊寺02バターランプ 190824寿霊寺07 


 本殿に入ると、1階の扉に鍵がかかっていたため、2階から見学しました。2階仏殿の前には、バターランプ(↑左)が灯されています。灯明にバターランプを使うのは伝統的なやり方ですが、ブータンではすでに植物油に変わっており、ひょっとしたら初めてみる光景だったかもしれません。扉の内側に入ると、中央に本尊の釈迦牟尼を安置し、その両脇には、弥勒や文殊のほかにバラモン教由来の馬面金剛菩薩も祀っていました。その後、1階のカギを開けていただきました。1階は講堂のようになっており、中心に三世仏(過去釈迦・釈迦・弥勒)を祀り、壁にはせん仏を貼り付けています。1階は仏殿を取り囲むようにしてマニ車を置いています。さいごに僧侶たちとポラロイドで交流し、調査をおえました。


190824ボン教白塔01 190824ボン教白塔02


ボン教のストゥーパ
 
 移動途中10時40分ころ、炉霍県の旺達でボン教の白塔(ストゥーパ)を発見しました。道路のすぐ近くで川のほとりにあり、対岸には大きな集落があって、白塔の対面にボン教寺院の境内を望むことができました。上円下方のチベット仏教型ストゥーパですが、基壇テラスが分厚く、上段5段、下段が6段になっています。一番下の基壇は4,34m四方、高さ約7mほどです。複数のマンダラを配する群集型ではなく、単独型ですが、川向こうの寺院(と集落)を守護しているようにみえました。また、近くにはマニ車の水車もありました。ブータンでいうマニコロです。水流を利用して、常時マニ車を回転させるのですが、ボン教の場合、回転方向は反時計まわりのはずです。
 すでにブータンではボン教寺院は絶滅状態であり、むしろ中国の残存例を早くおさえて調査する必要があるように思います。

190824ボン教ストゥーパ02対面の寺院01 190824ボン教ストゥーパ02対面の寺院02
↑対面集落遠景(左)とそこに建つボン教寺院(右) ↓マニコロ
190824ボン教白塔03 



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魏志倭人伝の新しい解釈-田中章介先生講演会(レポート)

1214田中先生講演01web 田中先生講演(第1部)


 12月14日(土)、本学100講義室で「魏志倭人伝の新しい解釈-田中章介先生講演会」が開催され、200名以上の聴衆を集めました。田中先生は税制論の大家であり、2001年度鳥取環境大学開学時から4年間、環境政策学科の教授を務められました。近年は我が国税制の起源を探り、その最古の記載が魏志倭人伝の「収租賦有邸閣」の六文字であることに着目されて次々と論文を発表されています。講演会の構成は以下のとおりです。

 1 開会・趣旨説明                                  
 2 第1部講演「魏志倭人伝『収租賦有邸閣』の解釈」
   コメント: 茶谷満「中国考古学からみた邸閣のイメージ」
 3 第2部講演「魏志倭人伝に係る、もう一つの解釈-邪馬台国位置論に関連して-」
   コメント:中原斉「倭人伝にみえる投馬(つま)国と山陰の関係遺跡」       
 4 質疑応答・閉会


1214田中先生講演02web


群雄割拠・地方分権から中央集権的国家の形成へ

 第1部は、「収租賦有邸閣」を「租賦を収む。邸閣あり。」という二文に分けて読み下すべき、という話題です。租は米や絹などの物品税、賦は労役・兵役などの人頭税であり、とくに後者(人頭税)と邸閣(大倉庫)は無関係とみなされるからです。ところが、中国湖南省長沙馬王堆漢墓出土の「走馬楼簡牘(木簡)」に「邸閣」および「関邸閣」の語が頻出し、前者は軍事的な倉庫群(兵糧倉+武器庫等)、後者はそれを管理する役職名であることが近年明らかになってきています(茶谷氏コメント)。兵役(賦)や軍事倉庫(邸閣)の存在から、邪馬台国の中央集権的な国家支配が推定されます。なお、軍事用倉庫群としての「邸閣」は大和朝廷の武器庫が聖域化して成立したとされる石上神宮との系譜関係が注目されるところでしょう(質疑で岡垣氏コメント)。


1214田中先生講演03茶谷さんコメント01 1214田中先生講演03茶谷さんコメント02sam
↑茶谷氏コメント


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魏志倭人伝を読む(7)

 12月19日(木)、1年生が「宋書倭国伝」を4名で輪読し、口語訳を完成させました。やっかいな漢文で、とりわけ後半は難解ですが、担当者はネット上のサイトなどを参照せず、漢和辞書を使って見事に訳出しました。教師よりレベルが上ではないか、と恥ずかしくなった次第です。
 『宋書』は中国南朝の宋(420-479)の正史であり、宋・斉・梁に仕えた沈約(441-513)が斉の武帝に命ぜられて編纂しました。日本については夷蛮伝の倭国条に短い記載があり、これを「宋書倭国伝」と略称しています。いわゆる「倭の五王(讃・珍・済・興・武)」の時代であり、倭国は朝鮮半島への侵攻を進めていましたが、高句麗と対峙しており、中国に支援を求めていたのです。北朝ではなく南朝に朝貢したのは、北朝が漢民族と系統の異なる騎馬遊牧民の国家であったのに対して、南朝宋は蜀漢の血統を自称しており、さらに宋の版図が長江を越えて山東半島にまで及んでおり(注1参照)、朝鮮半島と近接していたことなどによるものだと推察されます。いずれにしても、後漢書倭伝・魏志倭人伝とはまったく異質の内容が記されています。

宋書倭国伝

 倭国は、高句麗の東南側の大海の中にあって、代々貢ぎ物を献上してきました。南朝宋【注1】の初代皇帝、高祖(武帝)は永初二年(西暦421年)、詔しておっしゃいました。「倭王の【注2】は、万里の彼方から貢ぎ物を献上してきた。果てしない道のりをものともしない、その忠誠心に報いるべく官職を授けましょう」と。太祖(三代文帝)の元嘉二年(西暦425年)、讃は司馬(軍事を司る官職)の曹達を遣わして上表文を文帝にたてまつり、倭の特産物を献上しました。
 讃が死んで弟のが倭王に即位しました。珍は使者を遣わして貢ぎ物を(宋に)献上しました。珍は「使持節、都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東代将軍・倭国王」と自称し、これを正式にお認めいただくよう(宋の王に)求めました。【注3】
 文帝は詔して(珍を)安東将軍・倭国王に任命しました。珍はまた「輔国将軍」の称号を正式にたまわらんことを求めました。文帝は詔して、これを許しました。元嘉20年(西暦443年)、倭王のが使者を派遣して貢ぎ物を献上しました。やはり安東将軍・倭国王に任命されました。元嘉28年(西暦451年)、「使持節都督、倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓の六国諸軍事」の官職を加え、安東将軍は元の通りとしました。さらに上表した23人を将軍や郡の長官に任命【注4】しました。
 済が死にました。世継ぎのは使者を送って、貢ぎ物を献上しました。世祖(第4代孝武帝)の大明六年(西暦462年)、詔しておっしゃいました。「倭王の世継ぎの興は、代々忠義であり、中国の外海で城壁となり、中国に感化されて国境の平和をまもってきました。礼儀正しく貢ぎ物を収めて職務を遂行し、新たに辺境平定の仕事を受け継いでいます。ですから、当然爵号を授け、安東将軍・倭国王とすべきでしょう」と。
 興が死んで、弟のが即位しました。自ら「使持節、都督倭・百済・新羅・任那・加羅・奉韓・慕韓七国諸軍事、安東大将軍、倭国王」と自称しています。
 順帝の昇明2年(西暦478年)、武は使者を遣わして、上表文を皇帝にたてまつりました。上表文では以下のように述べています。

  倭国は僻遠の地にあって中国の城壁になっています。昔から私の祖先(の王)たちは、鎧兜を
  身にまとい、山を越え川を渡り、やすらかな場所にいたことはほとんどありません。東の
  毛人(野蛮人)を征伐すること55国、西は衆夷(諸々の野蛮人)を征服すること66国、海を北に
  渡り朝鮮半島の国々を治めること95国。王の政治は安泰になり、領土を大きく広げました。
  代々中国を崇めて入朝するのに時節を誤ったことはありません。君(順帝)の臣である
  わたし(倭王武)は愚か者ではありますが、ありがたくも先祖の偉業を継ぎ、自ら統治する
  人びとを率いて君のご在所まで参ろうと思います。百済を経由して海を渡るべく、船の装備を
  しています。ところが、高句麗は無体にも謀略して百済を併呑し、人民を略奪し殺害しようと
  しました。いつも中国への道が滞ります。航路を進もうとしましたが、追い風を失って、
  前進できたりできなかったりしています。
  臣(武)の亡父、済は高句麗が中国への道のりを妨害するのを本気で怒りました。弓を
  持った百万人の兵士は済の仁義ある声に感激し、大挙して(高句麗を)攻伐しようと
  しましたが、ちょうどそのとき突然、父(済)と兄(興)が亡くなってしまいました。
  あと少しで(攻伐に)成功しそうでしたが、成し遂げられませんでした。むなしく喪に服し、
  軍兵を動かすことをやめました。このため高句麗とは休戦状態に陥り、いまだ勝利を
  おさめていません。今に至り、軍兵を準備して、父兄の遺志を果たそうと思います。
  義士・勇士、文官・武官いずれも功をなして力を発揮し、刃(やいば)が眼前で交わった
  としてもひるむことはありません。もし中国皇帝の徳をもって我らをご支援いただくなら
  ば、この辺境の敵を打ち破り、災いを鎮めることができます。そうすれば、祖先の功績
  にも比肩できます。畏れながら、武を開府義同三司【注5】に任命し、それ以外の者にも
  みな称号を与えていただければ、忠節に励みます。

と。順帝は詔して、武を使持節、都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍・倭王に任命されました。【完】



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男はつらいよ「お帰り寅さん」上映記念ギャラリートーク(予報1)

寅さんギャラリートーク(浅川先生・最終稿)_compressed_01 寅さんギャラリートーク(浅川先生・最終稿)_compressed_02 右をクリック


かわはら宿「寅さんの風景」ギャラリートーク

 待ちに待った「男はつらいよ」50周年第50作「お帰り寅さん」の封切が1週間後(12月27日)に迫ってきました。今年は前期にプロジェクト研究1&3として「寅さんの風景ファイナル-砂丘篇」を予定していましたが、教員ローテの関係で演習を免除されたので頓挫してしまい、後期は中国出張その他忙しすぎるので再現ロケ撮影が不可能と判断し、「魏志倭人伝」を主題とするプロジェクトに変更しました。それでも、50周年第50作が気になったので、人間環境プログラム実習・演習B(2年次)で2コマだけ復活したところ、とりわけヒアリング班が見事な成果をもたらしてくれました。
 そんなこんなで浮かれているところに河原城からのオファーをいただき、めでたくも、第50作上映の真っ最中にトークイベントを開催していただくことになりました。歴代のマドンナ勢揃いの予定です。後藤久美子に負けてませんからね。ぜひ若き寅、マドンナ、満男などをご覧においでください。わたしのトークは二の次です。再現ロケの再現をご堪能いただければ、と。

 前回、2018年10月28日(土)の河原町40周年文化祭の記念講演「寅さんの風景-千代河原と上方往来河原宿の遷ろい」とのだぶりはできるだけないようにします。日時・会場等は以下のとおりです。詳細はチラシをダウンロードしてください。

  1.日 時: 令和2年(2020)1月18日(土)13:30~15:30
  2.会 場: 河原城2階イベントホール
  3.参加料: 無料(入館料250円は必要)・要予約
  4.内 容: 映画「寅次郎の告白」の終盤30分を鑑賞後、
          最新の成果を学生のコスプレ風衣装を交えてトーク
  5.主催・問い合わせ先: お城山展望台「河原城」(鳥取市河原町谷一木1011)
          URL http://www.kawahara-shiro.com/
          ℡0858-85-0046 e-mail:kw-oshiro2@city.tottori.tottori.jp

四川高原-ストゥーパの旅(3)

190823梭坡古碉01 190823梭坡古碉02アップ


梭坡碉楼

 8月23日(金)。丹巴県のホテルを出発し、最初に丹巴県梭坡の「碉楼」集落(↑)を対岸から撮影しました。碉楼は内部に木造の骨組がいっさいなく、石を積んだだけの高層楼閣で、煙突のようにそびえたっています。もとは、外敵を監視する見張り台でしたが、今は住宅の機能も兼ね備えています。碉楼が広い範囲に複数存在していたため、教授と私の二人で多重撮影を試みました。以下の中国語サイトも参照してください。

https://baike.baidu.com/item/%E6%A2%AD%E5%9D%A1%E7%A2%89%E6%A5%BC/17403615?fr=aladdin


190823美人谷遠景01 190823美人谷中景01
美人谷遠景



美人谷

 その後、丹巴県蔵寨の集落を訪れました。この集落はギャロン・チベット族が住む村で、「美人谷」とも呼ばれており、中国で最も美人が多い村と自称しています(あくまで自称です)。「全国重点文物保護単位」の集落であり、日本でいえば重伝建といったところでしょうか。車を駐車場にとめて、シャトルバスで集落に向かいました。駐車場ではいきなり誘惑があり、ガイドの女性(元「美人」?)を雇い、電気自動車で集落を案内してもらいました。ガイドさんの案内で、集落内を歩いて見て回りましたが、伝統的な民家が若干残っているものの、新築家屋が多くて少し残念でした。住宅の数は全部で70軒ほどで、政府の補助金もなく、観光業としてもあまり儲けがないとガイドの女性は嘆いていました。


190823美人谷03 190823美人谷04 ガイドさんの家と客間(右)



 せっかくなので、ガイドさんの家の中を見せてもらいました。旧宅と新宅の2棟があり、民宿を兼ねています。1階は羊や牛を飼う家畜スペース、2階は家族の居住スペース、3階は客間となっています。3階の廊下などでは、山椒(花椒)や野菜などを乾燥させています。民宿業は儲けが少なく、続けていくことがしんどいが、やり続ける以外ない、というのが本音のようです。美人谷については、以下の中国語サイトを参照してください。

https://baike.baidu.com/item/%E4%B8%B9%E5%B7%B4%E7%BE%8E%E4%BA%BA%E8%B0%B7/9018844


190823美人谷05 190823美人谷06
花椒

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魏志倭人伝を読む(6)

 12月12日(木)、2年生が魏志倭人伝を読み終えました。大変難しい漢文でした。とりわけ魏の皇帝の詔に出てくる卑弥呼への返礼の品々がやっかいです。巷間でよく知られている金印や銅鏡以外にさまざまな織物などが送られています。原文は非常に複雑な表現になっていて、先達諸氏の業績に頼らざるをえませんでした。魏志倭人伝講演会の資料としては間に合いませんでしたが、重要な基礎知識を身につけて会に臨むことができ良かったです。学生に感謝!

魏志倭人伝(三)

 卑弥呼はすでに年老いていますが、弟がいて補佐しています。(卑弥呼が)王となってから彼女をみた者は少なく、奴婢千人を侍らせていますが、ただ男子が一人いて、飲食を給し、お言葉を伝え、お住まい(居処)【注30】に出入りしています。宮室、楼観(ものみぐら)、城柵をおごそかに設け、つねに人がいて、武器をもって守衛しています。
 女王国の東【注31】にむかって海を千里余り渡ると、また国があり、みな倭種です。さらにその南【注32】には侏儒国があります。身の丈3~4尺(1m前後)で、女王国から4000里余りのところです。さらに東南【注33】にいくと、裸国と黒歯国があります。船に乗って1年かかります。倭の地について問いたずねると、海中の洲島のようなところであり、断続的に陸地があって【注34】、海中に点在したり、陸地が長く続いていたりします。
 景初二年(西暦239年)【注35】の六月、大臣のナトメ(難升米)等を帯方郡に派遣し、魏の皇帝に面会して朝献したいと求めてきました。帯方郡の長官、劉夏は役人を遣わして、都の洛陽まで使者を連れて行きました。その年の12月、皇帝【注36】は詔して倭の女王に伝えました。

  親魏倭王卑弥呼に詔します。帯方郡長官の劉夏は使者を遣して、貴国の大臣ナトメと
  その次使ツシゴリ(都市牛利)を都まで連れていき、貴女の献上した男の奴隷4人、
  女の奴隷6人、まだら織の布【注37】二匹【注38】二丈を皇帝のところまで持って
  きました。貴女の所在地ははるか遠いところであるにも拘わらず、使者を遣わせ貢物を
  しました。この行いは甚だ忠孝であり、貴女をいとおしく思います。これからは貴女を
  親魏倭王と認め、金印と紫綬(紫の組紐)を与え、おごそかに箱入して帯方の長官にわたし、
  貴女に寄贈させます。(この金印をもって)倭種の人びとを鎮め治め、できる限り忠孝で従順
  であるようにさせなさい。貴女の使者、ナトメとゴリは遠い道のりを苦労して歩いてきて
  くれたので、ナトメを率善中郎将、ゴリを率善校尉とし、銀印と青綬(青の組紐)を与え、
  面会して労い、帰国させます。いま深紅の布地に交竜模様を施した錦を五匹、深紅ちぢみ
  の毛織物を十張、茜色の絹を五十匹、紺青絹を五十匹、貴女への返礼とします。とくに
  貴女には、紺布地の小紋の錦を三匹、細い花模様の毛織物を五張、白絹を五十匹、金を八両、
  五尺刀を二本、銅鏡を百枚【注39】、真珠と鉛丹(赤い顔料)をそれぞれ五十斤与え、
  すべておごそかに箱入してナトメとゴリに渡します。二人が帰国したら受け取り、
  すべての品を国中の人にみせ、魏国が貴女をいとおしく思っていることを知らしめなさい。
  こういうわけで、丁重にして貴女に素晴らしき品々を贈るのです。

と。正始元年(西暦243年)【注40】、帯方郡の長官、弓遵建中校尉の梯儁らを派遣し、詔書・印綬を携えて倭国に到り、倭王に拝謁してこれらを与え、詔を代読して渡し、黄金と錦、絹織物、刀、鏡や贈答品も授けました。女王は魏使の言に応じて挨拶し、謝意を示しました。
 その4年(西暦243年)【注41】、倭王は大臣のイトギ(伊声耆)・ヤザク(掖邪狗)ら8名を(魏に)派遣して、奴隷・倭錦(やまとにしき)・赤青の絹・緜衣(絹の衣服)・帛布(白絹)・丹(赤い顔料)・木弣(木製の弓束)【注42】・短い弓矢を献上しました。ヤザクたちは、率善中郎将の印綬を授かりました。その6年(西暦245年)、皇帝は詔して黄幢【注42】を帯方郡経由で(女王に)与えました。
 その8年(西暦247年)、帯方郡の新たな長官に王頎が就任しました。倭の女王、卑弥呼はもとから狗奴(くな)国の男王ヒミクコ(卑弥弓呼)と仲が悪かったので、倭のソシ(載斯)・ウオ(烏越)らを帯方郡に派遣し、戦争しあっている状況を説明させました。魏は塞曹掾史の張政らを派遣して、詔書と黄幢を(倭に)もって行き、ナトメに拝謁してこれを与え、檄文を作成して激励しました。

 卑弥呼が死にました。大きな墓(塚)を作りました。直径100歩あまりで、徇葬する者は奴隷100人あまり。その後、男子の王を立てたのですが、国中の人びとは従いませんでした。入れ代わり立ち代わり誅殺しあって、当時千人あまりが殺されました。そして、卑弥呼の養女トヨ(台与)が13歳になったので王として擁立したところ、ようやく国内が治まりました。張政らは檄文をもってトヨを激励しました。トヨは倭の大臣、率善中郎ヤザクら20名を派遣し、張政らの帰国を送らせました。そのまま魏の中央官庁【注43】にまで至り、男女の奴隷30人を献上し、白い真珠5000個、青玉(ヒスイ)2枚、珍しい模様の雑錦20匹を貢物としました。【完】


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四川高原-ストゥーパの旅(2)


190822見成塔01 190822見成塔02


見成塔

 8月22日(木)、康定のホテルを出発し、丹巴をめざします。この日は午前に標高4300mの折多山を通過したため、やや高山病気味ではありましたが、多くのストゥーパやマニタイを見ることができました。
 13時ころ、昼食をとったレストランのとなりで見成塔という大型ストゥーパに出会いました。標高は3400m。周りに寺院はなく、独立してたつストゥーパです。上円下方の多宝塔型で、下方部分は3段に分節されていますが、戒壇状というほどではなく、わずかに逓減する台形に近い印象です。周りには多数の小振りなストゥーパが取り囲んでいます。
 見成塔は上円下方の多宝塔が立体マンダラに展開していく直前の状態を示す遺例として注目されるべきでしょう。


190822上柏桑村マニタイ01 190822上柏桑村マニタイ02


康定上柏桑村のマニタイ

 15時ころ、標高3450mの道中にある上柏桑村で、多くのマニタイを発見しました。まず初めに理曲という川のほとりの地で、山積みになったマニタイ4基とストゥーパ1基を発見しました。 ストゥーパ近くにあるマニタイは、最下段が2.9m×1.5mを測り、3段積みになっています。
 村の方の話では、人が亡くなるとその子供がまず近くの山に旗をたてて死者を弔います。その後マニタイを自分で彫り、この場所に積んでいくそうです。そのためチベット仏教を信仰する人たちは、子供のころからマニタイの板石に真言を彫る訓練をするそうです。実際にドライバーのマニさんは13歳から訓練し、今でも自分で彫ることができるそうです。かつては手彫りでしたが、現在は機械彫りが多いそうです。真言は「オン マニ ペメホン シュ」というチベット文字です。どうやら「観音菩薩はわが心に」という意味らしいですが、じつはもっと深い意味もあるようです。


190822上柏桑村マニタイ03 190822上柏桑村マニタイ04 
↑(左)マニタイ (左)ツァーツァ  ↓インフォーマント
190822上柏桑村マニタイ05 



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建国七十周年の新中国(三)

図02講演開始web 図01会場前での記念撮影(福州大学)


 12月14日(土)、無事に「魏志倭人伝の新しい解釈」講演会を終えました。自分が発表するわけではなく、ただ司会を務めるだけで、昨年の能海寛生誕150周年国際シンポジウムなどに比べれば気楽なものだとタカをくくっていたのですが、思いのほか準備にエネルギーを費やしました。その影響もあって、ブログには手をつけられない状態が続いていました。というのも、北京の建築学会講演を終えた翌日(11月10日)から1泊2日で蘇州を訪問しており、懐かしい古典園林を視てまわったものですから、その記録を書かねばならぬ、ということで写真の整理がおぼつかなくなり、ブログの全体が動かなくなってしまったのです。このやっかいな作業は冬休みにまわすことにします。


中国科学技術史学会国際シンポジウム「木造営造技術の研究」

 11月12日(火)、私はいったん帰国しましたが、3日後の15日(金)には再び中国に飛び立ち、翌16日は福州大学の演台に立っていました。中国科学技術史学会建築史専業委員会主催の国際シンポジウム「木造営造技術の研究」で「科学的年代測定と建築史研究」と題する招聘講演をおこなっていたのです。会場は福州大学。今回もまた中国語での発表です。恥ずかしながら、すでにふらふらの状態でして、どこまで体力がもつか・・・不安になっていました。
 講演の正式題目と構成は以下のとおりです。

科学性年代测定与建筑史研究           科学的年代測定と建築史研究   
-从日本木构建筑构件和不丹夯土墻廃墟的分析-  -日本の木造建築部材とブータンの版築壁跡の分析から-    
1.建筑年代和科学的年代测定   1.建築年代と科学的年代測定
2.米子八幡神社的栋札和驼峰、神像的年代   2.米子八幡神社の蟇股・神像の年代
3.寻找不丹佛教寺院大殿的成立时期   3.ブータン仏教本堂の成立時期を探る 
4.结束语   4. おわりに


(表紙)科学性年代测定与建筑史研究_01


 歴史的建造物の年代は従来、細部様式の分析と棟札などの文字史料等から検討されてきましたが、近年は木造建築部材の科学的年代測定を積極的に導入するようになってきています。科学的年代測定には、①放射性炭素年代測定、②年輪幅の変動による年輪年代測定、③酸素同位体比年輪年代測定の3種が知られています。いずれも精度を高めていますが、それぞれ一長一短があり、できれば2種以上の測定によって年代をクロスチェックするのがよいでしょう。まず、出雲大社境内遺跡出土柱材などの考古系木材を対象に科学的年代測定結果の相互チェックをした上で、鳥取市の大雲院本堂内陣柱・摩尼寺本堂小屋梁、米子市の八幡神社蟇股などの測定年代結果を棟札・様式と対照し、より正確な年代を特定するための方法を披露しました。さらに、ブータンで取り組んでいる版築壁内有機物の放射性炭素年代測定により、本堂の成立時期が国家形成期(17世紀前半)に遡る可能性が高いことを示しました。中国の建築史研究では、未だ科学的年代測定を導入することはほとんどなく、木造部材や壁内有機物の年代測定法には注目が集まりました。発表後には客家土楼の年代特定に協力してほしいなどの依頼がありました。



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四川高原-ストゥーパの旅(1)

190821瀘定橋01 190821瀘定橋02


 今夏、令和元年度公立鳥取環境大学特別研究費助成「四川高原カム地区のチベット仏教と能海寛の足跡に係る予備的調査研究」の一環として、8月20日~27日、中国四川省甘孜藏(ギャンツェ・チベット)族自治州を訪問し、仏教遺産の調査をおこないました。参加メンバーは、日本側は教授と私、中国側からは昨年の西北雲南で同行した雲南民族大学の何大勇教授、さらに四川省民族研究所助理研究員の韓正康さんの計4名です。韓さんはチベット族で、専門は言語民族学。おもに四川省西南地方を調査されています。ドライバーは色達在住のチベット族、マニさん。マニさんもチベット族で、もちろんチベット文字を読むことができます。マニタイなどの情報を多く提供してくれました。
 いま私は修士論文研究として、チベット仏教のストゥーパと日本の宝塔・多宝塔の比較研究に取り組んでいます。今回のブログでは、おもにストゥーパやマニタイを中心に今回の調査をまとめていきます。


瀘定橋

 8月21日(水)。20日に関空から成都へと一飛びし、この日から調査を開始しました。成都からギャンツェ地区に向かう途中、瀘定県で「瀘定橋」(1706年竣工)を見学しました。大渡河を渡る吊り橋です。かつては四川とチベットをつなぐ唯一の橋であり、能海寛が遺稿のなか橋を渡ったという記録を残しています。もともと、主に茶葉の貿易のために造られたものだそうです。瀘定橋は紅軍(共産党)が長征中に国民党と争った場としても有名で、何大勇さんの話では、蒋介石(国民党)がこの鉄橋の板を外して紅軍が通れないようにしたが、毛沢東はそれを乗り越えてなんとか横断に成功し、国民党から瀘定橋を奪ったのだそうです。
  近くには、「倣古街」という古い町並みを再現した市場があり、とても活気がありました。ほかにも、道に沿って多くの商店が軒を連ね、果物や野菜を売っています。ここで、いつもとおり、松茸を購入しました。


190821瀘定橋05仿古街 190821瀘定橋04松茸 
↑倣古街


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青谷上寺地遺跡を訪ねて(2)

1205青谷02遺物07コト02 1205青谷02遺物07コト01  四弦琴


 12月5日(木)の続篇。今夜は2年生のレポートを抜粋して再構成します。

倭の水人

 青谷上寺地遺跡は内海に面した集落の遺跡であり、船の破片の出土数では日本一を誇る。繰り抜き船を作ったり、船を解体できるのは優れた鉄製の工具があったからだと思われる。木板に彫られたサメの絵には驚いた。私が口語訳を担当している部分に「倭の水人は潜水して魚や蛤を採るのを好み、入墨して大魚・水禽を遠ざける」との記載があり、サメはここにいう「大魚・水禽」の類と思われる。青谷の水人たちも入墨していたのだろうか。(略)魏志倭人伝には「今倭の水人、好んで沈没して魚蛤を捕え」とあり、実際に上寺地遺跡からは鹿角で作ったアワビおこしが出土しており、本当に海に潜っていたことが確認できる。また、弥生人の骨も出土しており、潜水の証拠として出土した頭蓋骨には外耳道奇形が残っている。(環境2年・平井)

 青谷上寺地遺跡は内界に面した遺跡であり、丸木舟の船首や、さまざまな大きさの釣針、魚(サメ?)をモチーフにした絵画など海に関係する遺物が多数出土しており、人びとは稲作だけでなく漁業も積極的におこなっていたことが分かる。丸木舟の船首が見つかっていることから人々はこうした船に乗って、近海で魚を獲っていたと考えられるが、遠海に赴くには丸木船は適していない。(略)人びとが潜水業に専念した証拠として、「外耳道骨腫」の症状がある奇形の耳の骨も発見されている。海女に特有な病気であるという。(経営2年・松永)


1205青谷02遺物01


 青谷上寺地遺跡からは、漁で使う釣針もみつかっていて、大きい針から小さい針までそろっていて、当時の人びとの細工をする能力が高かったことが分かります。針は軸と別の素材を使って工夫をしています。銛もあります。銛にはしっかりと返しが付いており、セスという返しのついた四本の棒を束にした道具も展示してありました。倭人伝の末盧国(長崎県松浦半島)の人々も魚やアワビを獲っていたと記されており、青谷上寺地遺跡の水人のように道具を使って漁をしていたことが想像できます。(経営2年・宮本)


1205青谷03展示館03動物 1205青谷03展示館02樹木01sam


植生と動物

 青谷の植生と、倭人伝に登場する植物には共通しているものが多くみられた。枏(クス)、杼(トチ)、予樟(クスノキ)、投(スギ)、橿(カシ)、烏号(ヤマグワ)、楓香(カエデ)、椒(サンショウ)などである。他に青谷でみつかった植物にバラ科、ミカン科、コナラ属がある。これらは、楺(ボケ)、橘(タチバナ)、櫪(クヌギ)に対応する可能性がある。竹に関する資料は見られなかったが、気候などの環境条件が倭人伝に登場する地域と似ていたと考えられる。(経営2年・渡部) 

 箱型琴の側板には羊らしい姿が彫られているが、当時の青谷上寺地には生息しない動物だったらしく、羊絵の一部が鹿の姿に変えられているという意見もあるようだ。倭人伝には「その地には牛・馬・虎・豹・羊・鵲なし」とある。倭に存在しない羊がなぜ描かれていたはわからないが、当時の中国や朝鮮半島の国々と交易があった証拠なのかもしれないと思うと、魏志倭人伝の信憑性が上がるのではないかと感じた。(平井)


1205青谷03展示館05かご カゴ



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青谷上寺地遺跡を訪ねて(1)

1205青谷01案内03


 12月5日(木)、プロジェクト研究2&4の一環として青谷上寺地遺跡整備室と青谷上寺地遺跡展示館を訪問した。青谷上寺地遺跡は「弥生の正倉院」と賞賛される全国有数の弥生中後期の集落遺跡である(遺跡は国指定史跡、遺物は多くが重要文化財)。このたびは北浦弘人整備室長(県文化財局)のご案内で、多くの遺物とパネルの説明をしていただいた。出土品は数万点におよび、漁具、木器、楽器(琴)、農具、建築部材、布などから殺傷痕のある人骨や弥生人の脳(展示品はレプリカ)まで多岐多数に渡る。学生には各自担当している後漢書倭伝・魏志倭人伝・宋書倭国伝の記載と係わる出土遺物にフォーカスを絞ってレポートを書いてもらった。以下はその感想文を抜粋し、再構成(及び校訂)したものである。まずは後漢書倭伝輪読中であった1年生から。

後漢書倭伝と青谷上寺地遺跡

 青谷上寺地遺跡は今は埋め立てられているが、弥生時代には内海に面していた。そのため丸木舟や鋳造品など、国内外との交易の痕跡が多々残されており、後漢書倭伝との相違点も理解できた。後漢書倭伝は魏志倭人伝をもとに書かれた条文であり、青谷上寺地遺跡の時代とも重なっている。後漢書倭伝には「居処は宮室・楼観・城柵、皆兵を持して守衛し、法俗厳峻なり」という記載がある。青谷上寺地遺跡も楼観の建築部材が出土している。楼観とは物見やぐらのことである。後漢書倭伝の武器を持った兵士が守衛していたという記述から、青谷上寺地遺跡でも戦があったと考えられる。遺跡から発掘された人骨10名分には金属製の武器によってつけられた傷があった。人骨には防御痕跡がないものや後ろから傷をつけられたものがあり、不意打ちによる殺傷であったとみられる。私はこれらの戦いは「倭国おおいに乱れ、更々相攻伐し、歴年主なし」という記載と関わりがあるのではないかと考えた。(経営1年・高橋)


1205青谷02遺物03あわびおこし  あわびおこし


 遺跡は内海に面していたため、釣り針や回転式銛頭、アワビおこし等の多くの漁業道具が出土している。丸木舟の船首の一部も発見されている。丸木舟は全長が7mに推定復原されていて、壊された丸木船の一部であった。その板材は環濠の護岸のために転用されていた。後漢書倭伝では、狗奴国や裸国・黒歯国へ行くのに海を船で渡る描写がある。しかし、丸木舟は木をくりぬいただけのもので、遠くまではたどり着けないように思う。そのため内海での漁労用だという考えが有力である。遠方への渡航には丸木舟にもう少し板などの船材を加えた準構造船を使用していたと想像されるが、その証拠がみつかっているわけではないようだ。
 また、遺跡からは柱や床板などの多くの建築部材が発見されており、当時の建築の復原も行われている。竪穴住居は一つもみつかっておらず、平地住居は1棟だけ確認できているそうだ。内海に接しており、湿地帯であったことから、地上式の掘立柱建物が主流であったと推測できる。後漢書倭伝の中に、楼観で武器を持った人が外を見張っているという描写がある。一方、遺跡からは7m以上ある柱が見つかっており、5m以上の高層建物が推定されている。それらは楼観を実証する資料として使われており、建物の形はCGで復元されている。(環境1年・田寺)


1205青谷02遺物04羊01 羊


大陸系文化の流入と交易・漁労・祭祀

 整備室に入って最初に紹介されたのは、弥生人の集落の絵だった。集落は内海に接しており、丸木舟や魚の骨が出土したことから波の低い内海で漁業を行っていたと考えられる。集落の周りには田畑も広がっており、生産性・保存性の高い食料を確保していたことがわかった。弥生人は加工能力もあったらしく、溶接されたガラス、骨や角を削って作った道具や装飾品は細かい加工を施していた。後漢書倭伝との共通点として理解できるものとして青玉(ヒスイ)、赤色顔料が使われた高坏も出土していた。私が重要だと思うのは交易品である。中国新王朝の貨幣や、羊と思われる絵の描かれた板が遺跡から出土しており、後漢書倭伝では羊は倭にいないとされているため、それらは大陸から伝来してきたものだと推測できた。さらには、北陸や九州でよく確認される遺物が出土しており、逆に北陸や九州で青谷の高坏が発見されてもいる。このことから、青谷上寺地遺跡は大陸や九州・北陸と繋がりをもつための交易拠点として造営された集落と考えられる。(経営1年・川口)

1205青谷01案内02 手前が船板


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『鳥取県の民家』を訪ねて(49)

1205 新聞№06 山陰合同銀行若桜支店 現状 ←現在の銀行支店


最後のまち 若桜町へ

 新聞No.06山陰合同銀行若桜支店 12月5日(続々)。ついに最後の調査地です。どんどん日が落ち、雨も本降りとなり気温も下がってきた中、若桜町へ向かいました。今回は民家でありません。若桜町若桜にある山陰合同銀行若桜支店です。
 この銀行は、豪商の面影が残る垢ぬけた町家風建物でした。写真をみるかぎり、明治40年(1907)建立の入母屋造平入桟瓦葺き近代和風建築です。元は若桜銀行として木島家が経営していた建物が銀行統合政策によって松江銀行に変わり、さらに山陰合同銀行若桜支店へと変わっていったのです。若桜は良質な杉材の産地であることから、銘木が数多く使われています。執筆者の木島氏も土蔵造りの中にスマートなセンスを感じ取っています。


1205 新聞№06 山陰合同銀行若桜支店 当時写真 
↑屋堂羅「若桜郷土文化の里」に移築された合銀若桜支店(2019年5月15日撮影)


 銀行の営業時間を過ぎていたためどうしようと考えていたところ、ちょうど中から出てきた従業員さんにお話を伺うことができました。詳しくは分からないとのことでした。現在は新しいビルに建て替えられていますが、解体後の建物は屋堂羅の「若桜郷土文化の里 たくみの館」に移築・公開されています。ネット情報によると、明治末に建設され、昭和56年(1981)まで合銀若桜支店として使用されていた土蔵造の建物を移築したもので、建物は若桜町の有形文化財に指定されています。 民家変容パターンは、A類(指定による民家の保全)のうちの「A-2 移築保存」に分類されます。

 
2019山陰合同銀行若桜支店001
↑「若桜郷土文化の里」に移築され、「たくみの館」として活用されている旧合銀支店。


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『鳥取県の民家』を訪ねて(48)

1205 新聞№21保木本家 白壁


小別府の大きな空き家

 新聞No.21保木本家 12月5日(続)。八頭町小別府へ。道路沿いに面する、石積みの上に建つ大きな白い壁で家の規模がみてとれます。屋敷の面積は実に700坪を超えるとされ、背伸びをして中を見ると植物がやや乱雑に生い茂っていました。空き家のようです。隣の家のベルを鳴らすと大きな犬が出てきて、後から出てきた奥様にお話を伺うことにしました。
 保木本家は大庄屋の家柄で、幕末に建てられたとされる六間取りの民家でした。伝統を守りつつ開放的な戸、格子を使用されており、オクノマは雲母を入れて塗ったとされる特殊な壁であったと新聞に記載されています。しかし、この家は分家の建物を移築したものとされる説もあるようです。


保木本家サシガヤ後01 保木本家サシガヤ後02


 と書いたところで、この住宅はASALABと係わりの深い古民家であることを知りました。その詳細は『鳥取県の中山間地域における過疎集落の活性化に関する基礎的研究―歴史的環境の分析と再評価を通して―』平成13~14年度鳥取県環境学術研究費助成特別研究成果報告書(2003年、鳥取環境大学)により知ることができます。2001年度、国府町神護の民家保存問題で悪戦苦闘している研究室に、当時の加藤学長の哲学の盟友である保木本教授(東京在住)から調査と保全計画の打診があり、調査に乗り出すことになりました。とはいえ、まだ1期生は1年生であり、研究室は存在せず、有志を募って建造物と庭園の調査に取り組みました。その後、1期生のゴルゴ18さんが下宿代を節約するために保木本家に2年ばかり住まわれたとのことです。学生の演習にもしばしば使われました。上の写真は2003年ころサシガヤをおこなった際の写真です。


1205 新聞№21 保木元家 当時写真①
↑新聞掲載(1974)↓現状(2019)
1205 新聞№21保木本家 茅葺の主屋


 すでに1985年の時点で保木本家のご家族は東京に引っ越されていました。以前は年始など帰ってきては挨拶にこられたそうですが、ここ数年はまったく見ていないとのことで、今は完全に空き家になっています。隣の奥様は隣家の劣化に悩んでいるようでした。空き家となってから土壁が落ち、木が折れて近隣住民の家に倒れたこともあるそうです。奥様の家の方には柿が落ちてくることで困っておられました。去年茅葺職人が入っているのを見たけれども、しばらくして作業を中断し、そこまま家は変わっていません。おまけに家は施錠されており、自由に出入りすることはできません。家の前に埋まっている大きなタイヤのようなものもどうにかしてほしい、とおっしゃっておりました。
 民家変容パターンはB類の新しいパターンで、B-3「未指定・未登録のまま茅葺き屋根を維持しているが無住状態(空き家)」になるかと思います。


1205 新聞№21保木本家 崩れる土壁 1205 新聞№21保木本家 鉄のタイヤ
↑崩れかけた土壁 →埋まっている大きなタイヤ


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『鳥取県の民家』を訪ねて(47)

1205 新聞№15 小島家 本家と文化


最終民家調査-八頭町石田百井小島家

 麒麟特別研究「昭和49年刊『鳥取県の民家』を訪ねて」の遂行にあたって、私は『鳥取県の民家』(昭和49年刊)第3次調査対象39件の民家再訪と併行し、新聞連載「失われゆく古民家」(1973-74)掲載の民家も訪ね歩いていました。新聞掲載49件のうち、県東部の民家24件に照準を絞り、『鳥取県の民家』と重複する5件をのぞく19件を対象に再訪調査を進めてきました。12月5日(水)、ついに最終の調査を迎えました。まずは八頭町石田百井へ。

 新聞No.15小島家住宅: 小島家は石田百井を支えたとされる庄屋の家柄です。本建ちと呼ばれる小屋梁構造で、現在の大工技術ではなかなか再現できないような難しい構造でした。平屋建の民家であったものの、納戸には上へと向かう梯子があり、屋根裏に女中部屋があったそうです。柱が台鉋で仕上げられており、江戸中期以降の建築であるとされています。新聞連載当時は茅葺屋根をトタンで覆う鉄板被覆になっていました。ヒアリングに応じてくださったのはご当主です。


1205 新聞№15 小島家 当時写真①
↑新聞掲載(1974)↓現状(2019)
1205 新聞№15 小島家 正面


 前ご当主が生前、1991年に主屋を撤去し、跡地に住宅を新築し、現在は三人で暮らされています。ご当主は撤去前の資料等丁寧に保管し、ファイリングされており、日々小島家の先祖について調べておられました。前身の主屋は国府の武家屋敷を移築した建物であるようで、ケヤキ、桜、松など高価な材を使った民家であったそうです。撤去する際、材についてどうしたものか、町と話し合ったが、結局活用はせず、解体業者が持って行ってしまったとのこと。
 以前の主屋については、とても丁寧に使われた綺麗な家であったとおっしゃっており、新聞連載を執筆した木島氏も「丹念な手入れがなされ(略)落ち着いた美しさを覚える」と述べておられます。なお、本家は道を挟んだ赤い瓦屋根のもので、この小島家は分家であるそうです。
 民家変容パターンはD類:D-2 撤去後べつの建物を新築です。


1205 新聞№15 小島家 本家正面 ←小島家本家




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魏志倭人伝の新しい解釈-田中章介先生講演会(予報2)

チラシ見本4印刷用【圧縮web】compressed_01 1204日本海新聞


弘法も筆の誤り

 12月4日(水)、日本海新聞のカルチャーコーナーに講演会の広報記事がでました(↑右)。執筆は会長さんです。データを受信直後、わたしは誤字に気がついた。いちばん要となる部分の誤字だったもので、そりゃ目にとまります。午後からのゼミの休憩時間を利用して、学生全員に誤字探しをしてもらいました。なんとかひとりふたり気付いてくれた。その部分は、魏志倭人伝の引用する

  収租賦有邸閣

の六文字に含まれております(どの文字が間違っているかはご自分で確認してください)。
 この六文字は従来「租賦を収むに邸閣あり」と続けて読み下すことが多かった。この場合、「年貢を納める大倉庫がある」という気楽な口語訳になります。しかし田中先生は「収租賦。有邸閣。」の二文に分けるべきだと主張されています。こういう読み方をする東洋史の先達も、もちろんいなくはない。なぜ二文に分けるのか、と言えば、租賦の「租」は物品税、「賦」は人頭税にあたるものであり、とりわけ後者は倉庫に納めるものではないからです。この問題には、もっと大きな社会的意味が関与してきます。
 「賦」とは労役・兵役を担う人間を提供することであり、倭人伝の記載では「生口」という語がこの種の奴隷的存在に近いと考えられます。邪馬台国が倭国連合30ヶ国の他の国々からこうした「生口」を徴用していたとするならば、倭国連合における邪馬台国は非常に強い権力をもっていたことになり、それは中央集権的な制度を匂わせます。一部の学生はアメリカ合衆国におけるワシントンD.C.のような国だという意見を述べましたが、そんな緩い連合ではなく、むしろ後の平城京のように強固な中央集権制が3世紀前半に成立していた可能性を示唆する六文字だとみなすべきでしょう。
 そしてまた「邸閣」という用語も気になります。『三国志』にはたしか「邸閣」の用例が11ヶ所あって、倭人伝以外の記載はすべて「軍用倉庫」として記載されている、と理解されていました。しかし、租賦の「賦」が貝偏に「武」のつく言葉なわけですから、倭人伝の場合も、邸閣に武庫の匂いがしないわけではない。最近の研究では、邸閣は物品税を納める倉庫、武器庫、その管理施設を含む複合体としてとらえられる傾向にあり、わたしはさらに「邸」に客館の意味があるとすれば、周辺諸国の客人(生口=奴隷)を収容した建物まで含んでいた可能性があるとみています。だとすれば、邸閣は「租」と「賦」の両方に関与することになり、とりわけ賦と関連の深い軍事用施設の一部とみなせないこともないように思われます。この点、邪馬台国の軍事力の大きさをいっそう感じさせるものであり、人頭税の存在とともに注目されるべきでしょう。
 この六文字の解釈こそが、田中先生による「魏志倭人伝の新しい解釈」の前半部分にほかなりません。会長さんは、この大事な部分を・・・・・・弘法も筆の誤りです。


《連載情報》魏志倭人伝を読む
(1)漫画と文献で読む魏志倭人伝
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2113.html
(2)後漢書倭伝(一)
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2119.html
(3)魏志倭人伝(一)
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2125.html
(4)後漢書倭伝(二)
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2131.html
(5)魏志倭人伝(二)
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2134.html
(6)魏志倭人伝(三)
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2153.html
(7)宋書倭国伝(一)
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2155.html

青谷上寺地遺跡を訪ねて
(1)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2157.html
(2)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2158.html

魏志倭人伝の新しい解釈-田中章介先生講演会
( 予報1 )http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2132.html
( 予報2 )http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2140.html
(レポート)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2156.html
(大学HP)http://www.kankyo-u.ac.jp/tuesreport/2019/20191223/

『鳥取県の民家』を訪ねて(46)

1120 新温泉町 下雅意家 斜め


新温泉町での民家調査

 11月20日(水)、浜坂先人記念館「以命亭」に集合し、以命亭を調査する班と広瀬安美『兵庫の民家』(1974) 掲載の旧浜坂町上六軒の倉・民家を調査する班に分かれました。私は後者の班で活動しました。
 まずはその倉と民家を探さなければなりませんでしたが、『兵庫の民家』には正確な住所や建築物の名称が載っておらず、また、この日は雨が降っていたことから、私たちは車の中で手がかりを探していました。すると、Googleマップのストリートビューで報告書に掲載されているイラストに似た建築物を発見したのです。そこに赴くと、探していた民家と倉が現存していました。


1120 新温泉町 下雅意家 報告書
↑報告書(1974)↓現状写真(2019)
1120 新温泉町 下雅意家 正面 1120 新温泉町 下雅意家 棟瓦


 この民家は切妻造平入浅瓦葺であり、形状や窓の位置などは1974年のイラストとあまり変わっていません。『兵庫の民家』出版当時は、棟の熨斗瓦の代わりに薄緑色のを使っていたようで、この石は兵庫県下では浜坂周辺だけで使われていたようです。、他に多く見られる福井地方では「しゃくたに石」、出雲地方では「来待(きまち)石」と呼ばれており、軽くやわらかな凝灰岩で加工しやすいけれども、風化しやすいという欠点があります。現在はこの棟石をやめて熨斗瓦に変えており、風化が材料差し替えの原因の一つではないかと考えました。また、民家在住の方にお話を聞こうとしましたが、お留守でした。しかし、近所に住まわれている方のお話によりますと、この民家は築60年くらいで、Sさんという方が住んでいらっしゃることが分かりました。


1120 新温泉町 下雅意家 倉 報告書
↑報告書(1974)↓現状写真(2019)
1120 新温泉町 下雅意家 倉 正面 1120 新温泉町 下雅意家 倉 漆喰細工


 上の土蔵は先ほどの民家の隣にあり、S家の一部ではないかと思いました。こちらも報告書のイラストとほとんど変わらない状態を保っており、切妻造平入浅瓦葺です。日本海に面した豪雪地方では、白壁や土壁だけでは雪に弱いので、板壁を使った補強をすることが多いそうで、倉や付属建物には「鎧がき」と呼ばれる板壁がつけてあります。これは、板を重ねて張った簓子下見(ささらこじたみ)板のことであり、この倉も鎧がきでした。また、この倉はかなり手の込んだ見事な漆喰のコテ絵が施されていました。


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『鳥取県の民家』を訪ねて(45)

1120 先人記念館 森家住宅 正面


麒麟特別研究、但馬地域にむかう

 11月20日(水)、教授が中国から帰国されていましたがダウン状態であり、3年生とともに兵庫県但馬地区の新温泉町へむかいました。今年7月に採択された麒麟特別研究「昭和49年刊『鳥取県の民家』を訪ねて」では、『鳥取県の民家』報告書(1974)と「失われゆく古民家」新聞連載シリーズ(1974)に掲載されてある鳥取県内の民家を回ってきました。しかしながら、「麒麟」地区とには兵庫県の但馬地域も含まれています。こうした地域設定から、早めに兵庫県教育委員会著書『兵庫の民家-播磨地区調査概報』報告書(1969)と広瀬安美『兵庫の民家』(1974)の2冊を取り寄せ読み進めておりました。前者は副題にあるように播磨地区に限定されるので、但馬を含みません。一方、広瀬さんの『兵庫の民家』(1974)は今和次郎の『日本の民家』を思わせるスケッチと随想であり、但馬地区の民家を含んでいます。

 というわけで、広瀬さん著書のデータを参考に民家調査へむかいました。調査は2班に分かれ、『兵庫の民家』(1974)掲載民家の調査と浜坂から新温泉町にかけて谷筋の民家、集落等を調査・撮影しました。私の班はまず登録文化財「旧森家住宅-浜坂先人記念館 以命亭)へ。


1120 先人記念館森家住宅スケッチ(1974) ←広瀬さんのスケッチ(1974)


 森家は七釜屋という代々庄屋の家で、明治中頃の130年前に建てられたとされます。仏間を中心とした九間取りで、お店に入ってきたお客様からみて仏壇と神棚が一直線上に並ぶ珍しい間取りでした。吉方に森家の宝蔵、鬼門の先に寺など、風水に良い配置であるようです。2代目の建てた茶室が「以命亭」であり、改修時に撤去されてしまいました。浜坂先人記念館は資料館としての機能を持ち、一般公開していない二階部分を浜坂資料の収蔵庫にあてています。浜坂先人記念館の主屋、北ノ蔵、酒蔵、乾蔵、石垣は2008年登録有形文化財になっており、浜坂先人記念館の周辺民家も景観形成地区に指定されています。


1120 先人記念館森家住宅 神棚と仏間 1120 先人記念館森家住宅 酒蔵


 森家9代目が戦時中にお亡くなりになられ、そこから奥様は一人暮らしであったそうです。下宿などを開いて生活していましたが、平成の手前で10代目の居られる関東へ移り住みました。そこから20~30年ほどは空き家となっており、一時期は撤去の話も出たらしいのですが、「何とかして民家を残せないだろうか」と地域の人と町が話し合い、町が買いとり、改修を行ったことで今の浜坂先人記念館があるようです。
 1992年に開設された浜坂先人記念館は二代目の建てた茶室から名前を取り「以命亭」の愛称で地域の人に親しまれています。酒蔵部分では地域の作品展示から地元のアーティストを呼び催し物を開催するなど、記念館としてだけではなく地域の交流の場として活用されています。明るい館内に今日も小学生の習字が展示されており、地域の公民館のような優しい雰囲気を感じました。
 民家変容パターンはA類:A-1現地保存に分類されます。


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建国七十周年の新中国(二)

1109講演05看板01


中華人民共和国建国70周年記念 建築史シンポジウム

 11月9日(土)。ネット不通の状況は早朝から良くない方向に影響を与えた。楊昌鳴さんがゲスト全員に送信した集合時間・集合場所の指示を受信できないままレストランで朝食ビュッフェを取り、微かな希望をもってネット接続に悪戦苦闘しているところに長身で美形の女子学生があらわれた。記念撮影があるからただちに会場に来てほしい、という依頼である。それからもまったく意思疎通は不調に終わり、わたし一人が記念撮影に間に合わなかったのである。遅れて会場入りするも、肝心のパソコンは部屋においたままだったので、いったんホテルに戻るしかなかった。長身の女子学生はもう一往復先導役を務めてくれた。お礼に甘栗を一袋プレゼントすると、とても喜んでくれましてね・・・


頭塔講演pdf_01 1109講演02"


 今年の建築学会は特別な意味があった。中華人民共和国建国70周年を記念する大会であり、建築史分会は「近70年建築史学研究と歴史建築保護」を主題とするシンポジウムを企画しており、わたしもその講演者として招聘されたのである。正式なイベント名称はとても長い。

           中国建築学会建築史分会シンポジウム
   「近70年建築史学研究と歴史建築保護-中華人民共和国建国70周年記念」

 わたしは午前のトリを務めた。演題と目次は以下のとおり。
           
 从东大寺头塔的复原看宝塔的起源        東大寺頭塔の復元からみた宝塔の起源
 -与藏传佛教窣堵波的结构和配置相比较-  -チベット仏教ストゥーパとの構造・配置の比較-

1 东大寺与头塔   東大寺と頭塔
2 头塔的遗构解释和过去的复原方案   頭塔の遺構解釈と復元案
3 头塔的系谱和修建背景   頭塔の系譜と建設背景
4 密教的扩散和毘卢遮那佛   密教の拡散と毘盧遮那仏
5 后期密教和立体曼陀罗   後期密教と立体マンダラ
6 浄土与寺院的距离   浄土と寺院の距離


1109講演03 1109講演06聴衆01


 この論考を中国建築学会で発表しようと思うに至ったのは、まったくもって岩永省三さんの新著『古代都城の空間操作と荘厳』(2019)のおかげです。大著に含まれる頭塔関係論文2篇を読み、奈文研の考古学者たちが夢想する「頭塔の塼塔起源説」を放置してはおくわけにはいかないという使命感が湧き出てきた結果です。塼を使わない戒壇状の塔を塼塔起源とみるのは、ボロブドールに代表される上座部仏教の立体マンダラと頭塔の系譜関係を認めたくない意志の裏返しなのですが、日本と同じ大乗仏教であるチベット仏教についてはいっさい考察されていません。わたしは後期密教に顕著なストゥーパや立体マンダラの配置や構造から頭塔の起源を捉えなおそうと試みました。 
 東大寺は南大門の約1km南に巨大なストゥーパ、もしくは立体マンダラをつくりたかった。それは複数の尊格によって構成される浄土を表現するモニュメントであった。それは、東大寺境内を正面遠方から浄化し、守護する役割を果たしていたのだが、その水平軸は此岸(世俗)と彼岸(浄土)の垂直軸の遠距離性を投影したものであろう、というのが講演の結論です。



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建国七十周年の新中国(一)

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五粮液の前夜祭

 11月8日(金)午後5時過ぎ、CA928便は一時間遅れて北京首都空港に着陸した。税関チェックを抜け、着陸ゲートをくぐると、中国文物研究所OGの張之平さんと楊新さんの出迎えに感激! いったい何年ぶりだろう。わたしが研究所にいたころ、文物研との交流が盛んであり、あれからすでに20年以上の歳月が流れていて、すでにお二人は文物研を退職されている。中国文物研究所という名の組織も今はなく、「中国文化遺産研究院」と改名されている。
 日本で接待した中国人の女性が口を揃えて言う科白がある。

  「あなたの奥さんはとても美しい人だった・・・どうしてるの?」 
  「彼女は脳の病で十年間闘病し、いまは軽度の身障者になってしまいました・・・」

 そう答えると、一様に驚いた顔になる。


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 空港からのびる高速道路を楊新さんが運転した。大型のスバルである。我がNboxの2倍以上の容積がある高級車だ。中国でも、ごく普通に女性が車を運転するようになった。豪華な車を。20年前なら考えられないことである。高速の渋滞はひどいものだった。二時間近くかけてようやく車は北京工業大学のキャンパス内にある建国飯店に到着した。
 同時に楊昌鳴教授があらわれた。30年前、ともに貴州や黒龍江の少数民族を調査した仲であり、かれがこのたび私を招聘したフィクサーなんだろう。そのままホテルの個室で夕食会になった(計7名)。豪勢な料理が円卓に並んだが、値段を聞くと、驚くほどではない。しかし美味、滋味・・・酒は五粮液。52°の白酒(パイチウ)を高杯のグラスでちびりちびり舐めた。北京料理にはよく合う、とくに烤鴨(北京ダック)には。


1108北京01夕食07酒 1108北京01夕食05sam


 食事中何枚も記念撮影をして、場は盛り上がり、楊新さんからは『独楽寺観音閣』の修理工事報告書を頂戴した。その本だけでスーツケースの1/4が埋まってしまうほどの大著である。どうやって持って帰ろうか、悩んでいたところ、東京からおいでのSさん夫妻が大きなスーツケースで来ているので、もって帰りましょうとご提案くださり、そのお言葉に甘えることにした。
 解散して部屋に戻り、ベッドに横たわると、たちまち眠りに落ちた。その後、午前2時に目がさめて、こんどは眠れなくなってしまい、翌週に控えた中国科学技術史学会の準備を進めることにした。ところが、部屋でネットが通じない。IDもパスワードもあるのだけれども、中国内でもとくに北京は外国人に対するネット規制が厳しいみたいだ。翌日午後、ホテルの専門技師さんを呼んでも状況は改善しなかった。これは深刻な問題である。日本にいる中国内蒙古自治区の留学生、嘎嘎嘎さんと共同で次週のパワポ科白の中国語訳作業を進めていたからである。携帯ワイファイは必要不可欠であることを改めて思い知らされた。【続】


1108北京01夕食06北京ダック 1108北京01夕食08
プロフィール

魯班13世

Author:魯班13世
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魯班(ルパン)は大工の神様や棟梁を表す中国語。魯搬とも書く。古代の日本は百済から「露盤博士」を迎えて本格的な寺院の造営に着手した。魯班=露盤です。研究室は保存修復スタジオと自称してますが、OBを含む別働隊「魯班営造学社(アトリエ・ド・ルパン)」を緩やかに組織しています。13は謎の数字、、、ぐふふ。

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