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スローフォワード(3)

鳥取マスク券02 鳥取マスク券01


因幡のマスク

 1週間以上前に鳥取県福祉保健部からマスク購入券が郵送されてきた(↑)。さきほど近くのスーパーで夫婦2セット分購入しました(10枚500円/人)。よく考えれば、ドラッグストアのほうがすでに安価(7枚300円前後)になっているんですが、わたしたちのように住民票を県外におくものに対しても配慮してくださっているというご厚情に感謝しつつ購入した次第です。
 なにぶん政府のナントカマスクがあまりにも非道いので、自治体の奮闘には拍手を送りたくなります。鳥取県で暮らしていることを今ほど幸福に感じたことはありません。「酒とバラのない日々」こそがコロナに強い。都会はアルコールとエロティシズムの巣窟だからこそウィルスが蔓延るということでしょう。


まるでチャーのような因幡のマスク
↑まるでチャーのような因幡のマスク


 

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いい加減に学ぶ中国語講座(11)

関口欣也博士に贈る詩

 研究所と学会から関口欣也博士(横浜国立大学名誉教授)ご逝去の報せが届いた。博士はかねてより慢性閉塞性肺疾患により自宅療養されていたが、 5 月 24 日に永眠された(享年 87 歳)。あまりの大家であり、個人的にはほとんど接点がなかったが、上海の母校、同済大学に日本人研究者で初めて留学されたのは関口博士であり、わたしはまだプロになっていない大学院生として2番目の留学を果たした。
 関口博士については一度だけLablogで記事を書いたことがある。昨年(2019)春、共通の指導教官であった故陳従周先生(同済大学名誉教授)の生誕百周年文集に一文を寄稿するにあたって、『陳従周詩詞集 山湖処処』(浙江人民出版社)を読み直したところ、関口博士に係る詩を二篇発見した(28頁)。陳先生は文革(1966-)以前にいちど浙江省武義の延福寺を訪れ、大雄宝殿が元代14世紀の再建であると鑑定されたのだが、すでに記憶が曖昧になっておられた。もういちど尋ねたいとの思いが強く、関口博士を同行して再訪された前後の二篇である。陳先生の詩は古典文と現代文がミックスした独特の文体であり、とても難しく感じた。いったん訳したものの全然自信はない。関口博士追悼に因んで再訳を試みる。前回は読み下し文をつけなかったので、まずはそこから再開します。


浙遊雑詩

 1980年、日本の工学博士、横浜国立大学助教授の関口欣也君が同済大学に留学してきた。わたしが指導した。いっしょに浙江省中部に赴き見学・調査した。たまたま感ずるところあり、詩にして記録した。これを友人の横山正、田中淡両君にもみせた。関口さんを連れて陳先生は浙江省武義県の延福寺を訪れた。

1.漢文→読み下し(もどき)

 武義延福寺
軽舟導夢到桃渓  軽舟桃渓に到る夢を導き
延福相迎喜上眉  延福相迎し喜んで眉をあげる  
我未忘情重到此  我未だ此に到る情を忘れず
風雲十裁記依稀  風雲十裁記するに依稀す
(贈関口欣也)     (関口欣也に贈る)


 別延福寺     延福寺を別す     
西来中土寄深思  中土に西来して深思を寄せ
両国文明欲永垂  両国文明永垂(千古)を欲す
難得関君能解意  得難き関君能く意を解す  
帰程回首又遅遅  帰程に回首し又遅遅とす          
(贈関口欣也)     (関口欣也に贈る)

*和訳文は「続き」に配しています。

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スローフォワード(2)

開講に舵を切れ!

 オンラインのオンデマンド講義が始まって教員も学生も疲弊している。いちばんの原因は学内サーバーが圧迫され、VPNがつながり難くなっていることである。わたしはVPNを使っていないので、以下は学生からのアンケート結果によるが、平日の昼はまず繋がらないらしい。みな夜中か朝に講義資料をダウンロードして対応している。結果として昼夜逆転の傾向が著しくなっている。
 わたしは自分の授業を受講する学生たちに、学外サーバーやフリーメールを積極的に活用すべきだと指示している。情報漏洩などのリスクがあると雖も、別にたいした講義資料ではなく、すでに夥しい数の学生がパワポ自動スライドショー(ppsx)等をダウンロードしているわけで、これがどこにどれだけ拡散するか分からないし、たとえばユーチューブにアップされることだってありうるだろう。だからどうした!? 脆弱な学内サーバーを経由するからトラブルが頻発するのである。

 本心をさらに打ち明けるならば、学外サーバー活用の時期はすでに過ぎている。授業開講にむけて動くべきステージを迎えているのである。鳥取はそれが可能な数少ない自治体であろう。それだけウィルス感染のリスクは低い。全国的にみても、大阪府の吉村知事が連休までは「緊急事態」を強調し自粛を強く要請していたにも拘わらず、今は大きく開業に舵を切り称賛を集めているし、鳥取県の平井知事だって同じ方向を向いていると確信している。大学だけが躊躇している場合ではない。とくに本学では、4月には図書館や演習室を開放していたのに、GW明けから5月末まで全演習室を封鎖しており、どうしていつも行政の方針と逆転しているのか、理解に苦しむところがある。
 鳥取の病床数や迅速なPCR検査の対応力を考慮した場合、まずは①ゼミ・演習系から学内実施を再開し、②次に60人未満の講義を大講義室で開始する。その後、③徐々に履修生の数に応じて講義室での講義を再開する、という道筋が正しいように思うのである。もちろん授業を再開する場合、「新しい生活スタイル」には適応していなければならない。すなわち、
  1)マスクの着用
  2)ソーシャル・ディスタンスの維持
  3)換気・除菌の徹底
などである。こうした原則を維持するならば、たとえば大講義室での着席をチドリ配列にするなどの工夫をしておくならば、鳥取の大学において(小規模の)授業は可能だろうと思う。こうすれば、ゼミや一部の講義で通学する学生が増え、学内で楽にダウンロードができるので、同時に学外からのVPNも繋がりやすくなるだろう。唯一の心配は交通手段である。とくに三密になりがちなバス通学が気にかかる。これはもうスクールバスを増便するしかないのではないか。


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研究表現としての麻雀警察(4)




 前回のアップと前後して、本物の麻雀警察が出動されました。なんだ、この真面目すぎる真面目さは・・・
 それだけ県次長(自重?)の賭け麻雀事件の余波は大きかった、ということですね。わたしは、学生時代に何度も鉄マンしたことはあります。しかし、友人同士でお金を賭けたことはない。いちばんお金が動いたのは寺町の下宿の対面にあった喫茶店「」の麻雀ゲームに足繁く通っていた時代ですが、熱中するといっても小1時間程度のインベーダーゲームもどきですからね。そのときの負け額が1,200円でした。

 しかし、テンピンの麻雀が賭博として逮捕の対象であるならば、パチンコ・競馬・競輪・競艇・宝くじ等はみな賭博の扱いになるのではありませんかね。こういう国家がカジノをつくろうとしている。カジノをつくるからには、大がかりな法律の改訂が必要であり、その場合、テンピン程度の雀荘(もしくは自宅での)賭け麻雀は違法にはできなくなるはずです。もちろん問題はここにはなくて、県次長が緊急事態宣言のなかで自重しなかったことと法律の番人であり、あろうことか、その番人さんとかわら版屋さんが癒着していたという点にフォーカスされるわけですが。
 麻雀好きにわるい人はいない、とまでは言えないけれども、諸悪の根源が権力中枢にあることを国民のだれもが承知している。天はみています。 


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いい加減に学ぶ中国語講座(10)

朱家角003 朱家角004


 今宵は新3年ゼミの紅一点T.K.さんの翻訳をお届けします。江南の水郷に興味をもって、準備を進めてくれています。主題は、上海四大水郷のうち「朱家角」の名物、チマキ(粽子)です。

朱家角の粽

1.原文
 朱家角阿婆粽系上海朱家角古镇的特色小吃.朱家角阿婆粽、大闸蟹、扎肉,肉馅烧卖,炙毛豆,红烧蹄髈,麦芽糖,臭豆腐等共同构成了古镇朱家角小吃特色,历史悠久。
 朱家角的粽子花样很多,有三角形、船形、枕头形,毫无疑问这是和水乡人的生活分不开的。朱家角的粽子还大小不等,大的可以一只吃饱,小的可以一口吃掉,这种迷你型的“一口粽”,如今已成为阿婆茶楼招待游客的“点心”,创出了品牌。走遍朱家角,打阿婆旗号的粽子有咸肉、大肉,排骨、蛋黄、栗子等多达十余个品种,搭配上曲纤食品去除油腻,粽子好吃又不会让人胖。

2.簡体字→繁体字
 硃傢角阿婆係上海硃傢角古鎮的特色小喫. 硃傢角阿婆粽、大閘蟹,扎肉,肉餡燒賣,炙毛豆,紅燒蹄髈,麥芽糖,臭豆腐等共同構成了古鎮硃傢角小喫特色,歷史悠久。
 硃傢角的粽子花樣很多,有三角形、船形、枕頭形,毫無疑問這是和水鄉人的生活分不開的。硃傢角的粽子還大小不等,大的可以一只喫飽,小的可以一口喫掉,這種迷妳型的“一口粽”,如今已成為阿婆茶樓招待遊客的“點心”,創出了品牌。走遍硃傢角,打阿婆旂號的粽子有鹹肉、大肉,排骨、蛋黃、慄子等多達十餘個品種,搭配上麯纖食品去除油膩,粽子好喫又不會讓人胖。

3.日本語漢字への変換
 朱家角阿婆粽係上海朱家角古鎮的特色小喫. 朱家角阿婆粽,大閘蟹、扎肉,肉餡焼売,炙毛豆,紅焼蹄髈,麦芽糖,臭豆腐等共同構成了古鎮朱家角小喫特色,歴史悠久。
 朱家角的粽子花様多,有三角形、船形、形,毫無疑問這是和水鄉人的生活分不開的。朱家角的粽子還大小不等,大的可以一只喫飽,小的可以一口喫掉,這種迷妳型的“一口粽”,如今已成為阿婆茶楼招待遊客的“点心”, 創出了品牌。走遍朱家角,打阿婆旗号的粽子有咸肉、大肉,排骨、蛋黃、栗子等多達十余個品種,搭配上麯繊食品去除油膩,粽子好喫又不会讓 人胖。


朱家角002粽02 朱家角002粽01
粽(アップ)粽(アップ)



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いい加減に学ぶ中国語講座(9)

上海中心大廈002浦東全景  外灘からみた浦東摩天楼


 今宵はフットボーラーAS君が担当した浦東地区の超高層ビルの翻訳です。

浦東 プトン の高層ビル
https://www.travelking.com.tw/tourguide/scenery100577.html


1.原文
 上海中心大厦(Shanghai Tower),是中华人民共和国上海市的一座巨型高层地标式摩天大楼,其设计高度超过附近的上海环球金融中心。上海中心大厦项目面积433954平方米,建筑主体为119层,总高为632米,结构高度为580米,机动车停车位布置在地下,可停放2000辆。
 東方明珠塔位於上海浦東新區、陸家嘴金融貿易區的西部綠地上,高467.9米的東方明珠塔在1994年完工時是亞洲第一、世界排名第三的高塔,僅次於加拿大國家電視塔(553.3米)和俄羅斯的奧斯坦金諾電視塔(540.1米)

2.簡体字から繁体字に変換
 上海中心大廈(Shanghai Tower),是中華人民共和國上海市的一座巨型高層地標式摩天大樓,其設計高度超過附近的上海環毬金融中心。上海中心大廈項目麵勣/面積433954平方米,建築主體為119層,總高為632米,結搆/構高度為580米,機動車停車位佈置在地下,可停放2000輛。
 東方明珠塔位於上海浦東新區、陸傢嘴金融貿易區的西部綠地上,高467.9米的東方明珠塔在1994年完工時是亞洲第一、世界排名第三的高塔,僅次於加拿大國傢電視塔(553.3米)和俄羅斯的奧斯坦金諾電視塔(540.1米)

3.難読文字を日本の簡体字に変換。
 上海中心大廈(Shanghai Tower),是中華人民共和国上海市的一座巨型高層地標式摩天大楼,其設計高度超過附近的上海環球金融中心。上海中心大廈項目面積433954平方米,建築主体為119層,總総高為632米,結搆/構高度為580米,機動車停車位佈布置在地下,可停放2000輌輛。
 東方明珠塔位於上海浦東新区、陸家嘴金融貿易区的西部緑地上,高467.9米的東方明珠塔在1994年完工時是亜洲第一、世界排名第三的高塔,僅次於加合拿大国家電視塔(553.3米)和俄羅斯的奥斯坦金諾電視塔(540.1米)


上海中心大廈001 上海中心大廈003
上海中心大廈(上海タワー)


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研究表現としての麻雀警察(3)

賭博の射幸性

 麻雀警察に代わって、今夜はホーリーさんに出動していただきましょう。まずは下の動画をじっくりご覧ください。事の本質はだいたいみえてきます。
 さて、県次長が賭け麻雀をしていた。その会場は記者の宿舎であり、しかも接待性の強い常習的な麻雀だったということで騒ぎが大きくなっています。なんで、この時期に、三密の部屋で、対面型の麻雀なのか。授業もオンラインなら、麻雀もオンラインで我慢するしかないじゃないか。それにしても、なぜこの時期に? 
 この人物は本当に主将に近い県殺伐だったのか。わたしが当該の立場にあったならば、連日の報道やOBの記者会見などで相当滅入っていたと思います。確信をもってそう言える。この状態に追い込まれて滅入らない人間なんていない。主将の意にそって長官になった毛利家系の人物にしても、おそらく深刻な鬱状態にあったに違いありません(今も?)。
 最近、一部の学生と三島の『金閣寺』を読んだり、その映画を視たりしています。金閣の放火には、美という可変的な現象を「死」によって永遠化しようという美学を読み取れる。遷ろいゆく女性の美を恒久のものとするには若き日の「死」が必要であり、意識のなかで絶対化している金閣の美しさを永遠のものとするためには「放火」が必要だった・・・そうした美学は三島の死生観そのものであり、後の切腹の布石になっている。
 県次長さんは意識的か無意識的かは分からないが、切腹の道を自ら歩んだのではないか。こう話すと、助手席にいた患者はこくりと首を縦に振った。これ以上罵詈罵倒を浴びてまで出世したくない。どうせ定年の年齢であり、退職金は十分頂戴できる。権力はなくとも事務所を開けば食っていける。
 慄いているのはむしろ権力の側だろう。隣国の大統領のごとき末路が待っている。だれが次の主将になるにせよ、現職とそのとりまきの犯罪は暴かれるでしょう。これほどの重罪を犯した権力者は戦後このかた存在しない。投獄されるべき人物が安穏たる晩年を送れるわけはない。こういう結果に至るとすれば、県次長の功績は大きいと言えるのではないでしょうか。
 コロナ禍が去れば、歌舞伎町の雀荘も再開するでしょう。県次長さんには、そこで長閑に射幸してほしい。こういう人物は麻雀が強い。ムツゴロウさんを始めプロを凌ぐレベルの知識人はいくらでもいる。だから、大半の雀プロは尊敬されないんだけどね・・・ただし、下のユーチューバーは若くして十段位を獲得した猛者です。若くして強すぎたが故に雀界を干され、今はマカオでプロのポーカープレーヤーになっている。個人的には、ぜひmリーガーとして雀界に復帰してもらいたいと思っています。





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いい加減に学ぶ中国語講座(8)

 今宵は我が母校を取り上げます。専門用語が多くて、教師・学生ともに滅入りました。M.T.君の成果です。

同済大学(1)
https://baike.baidu.com/item/同济大学

●原文
 同济大学前身是1907年德国医生埃里希·宝隆在上海创办的德文医学堂;翌年改名同济德文医学堂;1912年与创办不久的同济德文工学堂合并,更名为同济德文医工学堂;1923年正式定名同济大学;1927年成为国立同济大学,是中国最早的七所国立大学之一。
 同济大学先后承担了一系列国家重大专项、重大工程科研攻关,取得了大跨度桥梁关键技术、结构抗震防灾技术、城市交通智能诱导、城市污水处理、新能源汽车研发、国产化智能温室、遥感 空间信息 、大洋钻探 、心房颤动 分子遗传学等标志 性科研成果。发表于全球顶级学术期刊《Science》、《Nature》与《Cell》;同济大学有22位教授担任“973计划”项目(含重大科学研究计划)首席科学家,其中《大跨、高墩桥梁抗震设计关键技术》荣获2009年国家科技进步一等奖,《心房颤动分子遗传学和细胞电生理学研究》和《特大桥梁颤振和抖振 精细化理论》分获2005、2010年国家自然科学二等奖。

●繁体字
 同濟大學前身是1907年德國醫生埃浬/裏/裡希·寶隆在上海創辦的德文醫學堂;翌年改名同濟德文醫學堂;1912年與創辦不久的同濟德文工學堂郃/閤並/併,更名為同濟德文醫工學堂;1923年正式定名同濟大學;1927年成為國立同濟大學,是中國最早的七所國立大學之一。
 同濟大學先後承擔了一系列國傢重大專項、重大工程科研攻關,取得了暸/瞭大跨度橋樑關鍵技術、結構抗震防災技術、城市 交通智能誘導、城市汙水處理、新能源汽車研發、國產化智能溫室、遙感空間信息、大洋鑽探、心房顫動分子遺傳學等標誌性科研成果。發表于全球頂級學術期刊《Science》、《Nature》與《Cell》;同濟大學有22位教授擔任“973計劃”項目(含重大科學研究計劃)首席科學傢,其中《大跨、高墩橋樑抗震設計關鍵技術》榮獲2009年國傢科技進步一等奬,《心房顫動分子遺傳學和細胞電生理學研究》和《特大橋樑顫振和抖振精細化理論》分獲2005、2010年國傢自然科學二等奬。

●漢文調(難読文字を日本の簡体字に変換)
 同済大学前身是1907年徳(独=ドイツ)国医生埃裏希·宝隆在上海創弁的徳文医学堂;翌年改名同済徳文医学堂;1912年与創弁不久的同済徳文工学堂合併,更名為同済徳文医工学堂;1923年正式定名同済大学;1927年成為国立同済大学,是中国最早的七所国立大学之一。
 同済大学先後承担了一系列国家重大專専項、重大工程科研攻関,取得了大跨度橋梁関鍵技術、結構抗震防災技術、城市交通智能誘導、城市汚水処理、新能源汽車研発、国產化智能温室、遙感空間信息、大洋鑽探、心房顫動分子遺伝学等標誌性科研成果。発表于全球頂級学術期刊《Science》、《Nature》與《Cell》;同済大学有22位教授担任“973計画”項目(含重大科学研究計画)首席科学家,其中《大跨、高墩 橋梁抗震設計関鍵技術》栄獲2009年国家科技進步一等奨,《心房顫動分子遺伝学和細胞電生理学研究》和《特大橋樑顫振 和抖振精細化理論》分獲2005、2010年国家自然科学二等奨。


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いい加減に学ぶ中国語講座(7)

豫園001


 オンライン講義の対応と学内特別研究費の申請が重なり、ハードな1週間を過ごしていました。ささやかな息抜きはメダカ水槽の水替え。なぜにメダカはかくも人類を癒すのか。さて、すでに一部を紹介していますが、先週から3年ゼミで「いい加減な中国語講座」を始め、いまやゼミ生全員が和訳に取り組んでいます。しかしながら、なにぶん1回の翻訳量がワードで3~4行程度なので、1回ごとにアップするのは躊躇われます。今回から2回分(以上)まとめて紹介していくことにします。今夜はH.K.君の成果です。

 
 豫園周辺の茶館
https://baike.baidu.com/item/%E8%B1%AB%E5%9B%AD
https://baike.baidu.com/item/%E8%8C%B6%E9%A6%86/32287


1.豫园原文
 豫园(Yu Garden)位于上海市老城厢的东北部,北靠福佑路,东临安仁街,西南与上海老城隍庙毗邻,是江南古典园林,始建于明代嘉靖、万历年间,占地三十余亩。园内有江南三大名石之称的玉玲珑、1853年小刀会起义的指挥所点春堂,园侧有城隍庙及商店街等游客景点。豫园在1961年开始对公众开放,1982年被国务院列为全国重点文物保护单位。
 茶馆(Teahouse )是爱茶者的乐园,也是人们休息、消遣和交际的场所,历史十分悠久。中国的茶馆由来已久,据记载两晋时已有了茶馆。自古以来,品茗场所有多种称谓,茶馆的称呼多见于长江流域。两广多称为茶楼,京津多称为茶亭,此外,还有茶肆、茶坊、茶寮、茶社、茶室等称谓。 

2.簡体字から繁体字への転換
 豫園(Yu Garden)位于上海市老城廂的東北部,北靠福祐路,東臨安仁街,西南與上海老城隍廟毗鄰,是江南古典園林,始建于明代嘉靖・萬歷年間,佔地三十餘畝。園內有江南三大名石之稱的玉玲瓏、1853年小刀會起義的指揮所點春堂,園側有城隍廟及商店街等遊客景點。 豫園在1961年開始對公衆開放,1982年被國務院列為全國国重點文物保護單位。
簡体字→繁体字
 茶館(Teahouse)是愛茶者的樂園,也是人們休息、消遣和交際的場所,歷史十分悠久。中國的茶館由來已久,據記載兩晉時已有了茶館。自古以來,品茗場所有多種稱謂,茶館的稱呼多見于長江流域。兩廣多稱為茶樓,京津多稱為茶亭,此外,還有茶肆、茶坊、茶寮、茶社、茶室等稱謂。

3.難読文字を日本の簡体字に変換
 豫園(Yu Garden)位于上海市老城廂的東北部,北靠福祐路,東臨安仁街,西南與上海老城隍廟毗鄰,是江南古典園林,始建于明代嘉靖・万曆年間,占地三十余畝。園內有江南三大名石之称的玉玲瓏、1853年小刀会起義的指揮所点春堂,園側有城隍廟及商店街等遊客景点。豫園在1961年開始対公衆開放,1982年被国務院列為全国重点文物保護単位。
 茶館(Teahouse )是愛茶者的楽園,也是人們休息、消遣和交際的 場所,歴史十分悠久。中国的茶館由来已久,据記載両晋時已有了茶館。自古以来,品茗場所有多種称謂,茶館的称呼多見于長江流域。両広多称為茶楼,京津多称為茶亭,此外,還有茶肆、茶坊、茶寮、茶社、茶室等称謂。


豫園002湖心亭01 豫園の湖心亭



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いい加減に学ぶ中国語講座(6)

和平004


上海外灘-和平飯店

 火~水のオンラインゼミが終わりました。今日は、どういうわけか、会長が教授室にいてオンラインゼミを参観されました。さて、3年生が「いい加減に学ぶ中国語講座」の第1回レポート(3~5行程度)を提出してくれたので、添削して和訳を完成させました。まず再確認しておきますと、以下の5つのサイトが中国語翻訳に大きく貢献します。

1.weblio中日日中辞典
https://translate.weblio.jp/chinese/
2.百度
https://www.baidu.com/
3.百度百科
文字色" target="_blank" title="https://baike.baidu.com/">https://baike.baidu.com/
4.中国語の簡体字と繁体字を相互に変換
https://dokochina.com/sim2traconv.php
5.漢和辞典オンライン
https://kanji.jitenon.jp/

 これ以外にむしろグーグルやヤフーのほうが役立つこともあります。 さて、今夜はU君のレポート添削の結果を報告しましょう。主題は百度百科の「和平飯店」、上海外灘の代表的ホテルです。学生時代には気楽に外国人が通えるホテルでした(但、中国人入るべからず)。南楼の8階レストランで担担麺・小籠包・モヤシ炒めをよく食べました。あのころの青島ビールは今とちがって美味しかった。これで1,000円ちょいぐらいだったかな。今は大変ですよ。同じレストランで家族が食事する場合、数万円の出費を覚悟する必要があります。ただし、美味い。極上の上海料理です。では、翻訳開始。


1)原文
 上海南京东路口的两幢大楼都称为和平饭店。和平饭店北楼建于1929年,原名华懋饭店,属芝加哥学派哥特式建筑,楼高77米,共十二层。饭店位于上海的南京东路和外滩的交叉口。1929年,犹太商人Victor Sassoon构思并创建了名为“华懋饭店(Cathay Hotel)”的酒店,这就是后来的和平饭店。
 当时由芝加哥学派哥特式设计风格的建筑师Palmer& Turner设计,以一个海拔77米的绿色铜护套屋顶为最大特色。外墙采用花岗岩石块砌成,由旋转厅门而入,大堂地面用乳白色意大利大理石铺成,顶端古铜镂花吊灯,豪华典雅,有“远东第一楼”的美誉。


和平003


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研究表現としての麻雀警察(2)




「うちで踊ろう」に関する一考察

 オンライン講義が始まりました。すでにwebexゼミは(わたしが勝手に)一月やってきていますが、講義はまた別物でして、本学ではパワポ(pptx)に録画・録音を施して自動スライドショー(ppsx)に変換し、サーバーからダウンロードするオンデマンド方式をとっています。サーバーダウン、おきてますよ。学生には申し訳ないとしかいいようがない。当方は先週末からずっと録音・録画に取り組んできました。これはね、しんどい。一枚のスライドで5テイクぐらい撮り直します。日をまたぐから衣装が変わっちゃったりして・・・アナウンサーは偉大だわ。
 麻雀警察のようなめりはりのある動画はそう簡単に作れるものじゃありません。上下とも秀逸です。星野源さんの「うちで踊ろう」は頭に残る良い曲です。G7/D♭7の代理コードを覚えたときの快感が蘇ってきました(この進行に気づくのに何十年もかかった)。大勢のミュージシャンやタレントなどが演奏したり、コーラスしたりしていて、それなりに視聴数はのびているようですが、わたしはだいたい気に入らない。結局、星野さんと共演する連中は自分の演奏技術や歌唱力を誇示したいだけなんだから、顰蹙を買った某主将と大差ない、とまで書いたら炎上するかな(炎上するほどの読者もなし)。ともかく、歌伴として星野さんの曲の良さを引き出すというか、さらに高めようという、脇役としての自覚がない。自分が星野さんより目立っていることを何とも思っていないのは悲しいことだと思うのです。
 映画『タカダワタル的』で、高田漣さんに「お父さん(高田渡)がどんな演奏を求めていたか」という質問をするシーンがありましたね。漣さん答えて曰く、「歌い手が歌いやすいような演奏を心がけよ」と。星野源+の動画には、そういう発想がほとんどありません。それに引き替え、上の星野源+はすごい。ちゃんと和了して裏ドラ確かめ、寡黙なドヤ顔するんだから。よくもまぁ、こんなこと考えるというか、実践するよ、ひろーさんは。

 下もまたおもしろいね。麻雀にいかれた学生の末路を普通の学生と対比しているわけですが、なんかわたしもそろそろ天鳳やりだしそうな気がして仕方ないのね。パイレーツとやりたい。瑞原とやりたい、なぁんつぁって・・・



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いい加減に学ぶ中国語講座(5)

1117陳大尉宮02楼門04正殿01 1117陳大尉宮02楼門04正殿03内部01


陳大尉宮を読む〈三〉

 昨夜の漢文調読み下し文は、ちょっとおかしな文章になってしまいました。今夜はまともな日本語に直してみましょう。

【福建·羅源】陳太尉宮(福建三大宋代木造建築之一)
 福州の華林寺大殿、莆田の玄妙観三清殿、羅源の陳太尉宮正殿は、福建(閩)地方の三大宋代木造建築の至宝と称賛されています。前二者は繁華街にあり、訪問しやすいので、衆人の熟知するところとなりました。陳太尉宮は福州市羅源県の深山にあるため、交通ははなはだ不便です。しかも、正式にはずっと対外的な開放がなされていなかったので、名声露わにならず、関係資料もまた多くはありません。かつて三回陳太尉宮に出向いた人がいるのですが、運気はじつにひどいものでした。一回めはもろに門前払いをくらい、何もみることはできず、ただちに打って返しで自宅に戻りました。二回めは廟門の中に入ったのですが、正殿の手前まで至るや否や町役場の役人が次々あらわれ、「出ていってください」と請われました。「北京の専門家がいらっしゃって修復作業を視察・指導しているので、無関係の方はみな(参拝を)控えていただいている」と言うのです。三回めは道半ばにして小雨が降り始め、廟門に着くと固く閉ざされているのに出くわしたのですが、幸い後からやってきた参拝者数名が香火管理人に連絡してくれたので付いていくと、思いがけず幸運にも廟に入ることができました。ところが、これら参拝者の焼香・占卜が終わるのを待って、管理人はただちに門を閉め始め、立ち去ってしまったのです。こういうわけで、(参拝者に)付き添って宮を撮影する時間は半時間もありませんでした。しかも、雨天の殿内は光が足らず暗すぎて,撮影条件はまったく理想的ではなく、重要な部分を撮り損ねてしまったのです。このように、その人は3回めの行程も失敗してしまいましたが、(陳太尉宮をみて)興奮を覚えたのです。


1117陳大尉宮02楼門04正殿05胴梁柱01 1117陳大尉宮02楼門04正殿05胴梁柱02


 個人の体験に基づくならば、陳太尉宮正殿は華林寺や三清殿と同類の福建東南地区の宋代遺構ではあり、様式・技術・改修方法すべてにおいてよく似ているものの、全体の保存状況では、陳太尉宮正殿があきらかに当初の姿に近いものです。細部をみても、古式・古風を備えているように思います。とりわけ太径の梭柱(↑)、大型の櫨斗、まんまるとした月樑(↓)、および形式独特の挿肘木が折り重なる畳門はすべて忘れがたい印象を残しました。


1117陳大尉宮02楼門04正殿07もや01小屋組02 1117陳大尉宮02楼門04正殿07もや01小屋組01


 陳太尉宮を説明するにあたっては、その淵源について語らざるをえません。この宮は羅源県中房鎮乾溪村の南の小山の斜面上に位置しています。五代梁の開平三年(909)に創建され,もとは陳氏の家祠でした。王審知(十国閩の初代の王)の入閩(福建進軍・侵入)に随い、陳蘇がこれを建てたのです。貞明元年(915)、陳蘇は世を去り、祠に奉祀られたので「高行先生祠」と改称されました。宋の嘉定二年(1209)、陳蘇は勅命により「英恵侯王」に封じられました。嘉熙三年(1239)には「顕祐嘉応侯王」に加封され、祠の前側に宮殿を建造し「大宮」と称します。同年,陳蘇の十五世孫にあたる陳慶が金に抗って功あるも、十八歳にて沙場(戦場)に死し、「都統伏魔太尉」に封されて宮に祀られて、(建物は)拡張され「陳太尉宮」と改名されたのです。以後、何度も修理・増築を重ねました。現状は門楼・舞台(清)、両側の配殿(明・清)、正殿(南宋)より構成され、建築面積は1,155㎡です。1985年に第二次省保(福建省分保護単位)、2001年に第五次国保(国家重点文物保護単位)に登録されています。


002平面図

 〈平面図キャプション〉 平面配置からみると,陳太尉宮は坐西朝東で、やや南に偏り、外觀は十字形を呈しています。山あいの窪地に位置するため、周辺は樹木に遮蔽され、全景を撮影する方法はありません。これは見取り図です(↑)。あまり正確でなく、(写真等の)寄せ集めで描いたものです。


1117陳大尉宮02楼門02細部01 1117陳大尉宮02楼門03藻井01
↑↓楼門(畳門)軒下細部
1117陳大尉宮02楼門02細部02 1117陳大尉宮02楼門02細部03


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いい加減に学ぶ中国語講座(4)

1117陳大尉宮02楼門06舞台01 宮門背面(舞台+配殿)


陳大尉宮を読む〈二〉

 昨日の「百度百科」の記事は大変短いので、「百度」で検索した「陈太尉宫」を再度チェックしてみたところ、以下のブログにかなり詳しい記載がありました。平面図もついていて便利です。今夜はこの文章の翻訳に挑戦しましょう。すでに述べたように、現代中国文を「漢文」調に変換し、読み下し文に直すのがてっとり早い方法です。以下が原文です。

【福建·罗源】陈太尉宫(闽地三大宋代木构建筑之一)
http://blog.sina.com.cn/s/blog_91ea73640102va1y.html (2014-10-26 22:44:52)

  福州华林寺大殿、莆田玄妙观三清殿、罗源陈太尉宫正殿,号称闽地三大宋代木构建筑瑰宝。前二者地处闹市,寻访较为容易,故为众人所熟知。陈太尉宫因地处福州市罗源县的深山之中,交通极为不便,而且一直没有正式对外开放,故而名声不显,相关资料也较为匮乏。某人虽曾三次前往陈太尉宫,但运气实在糟糕:第一次吃了个结结实实的闭门羹,啥也没看到就打道回府了;第二次虽然进了庙门,但只走到正殿跟前,就被接踵而至的镇政府工作人员请了出去,说是有北京的专家前来视察指导修复工作,闲杂人等一律回避;第三次才走到半路就下起了小雨,到达时又遇着庙门紧闭,还好有几个随后到来的香客联系到了庙祝,这才侥幸得以进入庙中。而等到这些香客烧香占卜完毕,庙祝也就开始关门走人了,故连看带拍的时间加起来不超过半个小时,加上雨天殿内光线太暗,那一次的拍摄效果并不理想,而且还漏拍了一个很重要的地方。即便如此,某人还是为这趟并不成功的行程而感到兴奋。根据个人的体验,陈太尉宫正殿虽然与华林寺、三清殿同属闽东南地区宋代遗构,在风格、技术及改建方式均有不少相似之处,但在整体保存状况方面,陈太尉宫正殿显然更加接近原貌,在一些细节上,也似乎更具古制古风。尤其是粗壮的梭柱、巨型的栌斗、肥硕的月梁,以及形制独特的插栱叠斗,都给某人留下了难以磨灭的印象。
  说到陈太尉宫,不得不提及它的渊源。此宫位于罗源县中房镇乾溪村南的一处小山坡上,始建于五代梁开平三年(公元909年),原为陈氏家祠,系随王审知入闽的陈苏所建。贞明元年(公元915年),陈苏去世,入祠奉祀,改称“高行先生祠”。宋嘉定二年(1209年),陈苏被敕封为“英惠侯王”,嘉熙三年(公元1239年)加封“显佑嘉应侯王”,即建造宫殿于祠前,称大宫。同年,陈苏十五世孙陈庆抗金有功,18岁战死沙场,被封为“都统伏魔太尉”,配享于宫,并予以扩建,改名“陈太尉宫”。以后多次重修、扩建。现状由门楼戏台(清)、两侧配殿(明、清)、正殿(南宋)组成,建筑面积1155平方米。1985年第二批省保,2001年第五批国保。
  从布局上看,陈太尉宫坐西朝东,稍稍偏南,外观呈十字形。由于正好坐落在一处山坳里,周边又为树木所遮挡,无法拍到它的全貌,那就画张示意图吧。比例不太精确,凑合着看。

 中国の簡体字を繁体字に変換し、さらに難読文字を日本の簡体字に変えて「漢文」風にします。

【福建·羅源】陳太尉宮(閩地三大宋代木構建築之一)
  福州華林寺大殿、莆田玄妙観三清殿、羅源陳太尉宮正殿、号称閩地三大宋代木構建築瑰宝。前二者地処鬧市、尋訪較為容易、故為衆人所熟知。陳太尉宮因地処福州市羅源県的深山之中、交通極為不便、而且一直没有正式対外開放、故而名声不顕、相関資料也較為匱乏。某人雖曾三次前往陳太尉宮、但運気実在糟糕:第一次喫了箇結結実実的閉門羹、啥也没観到就打道回府了;第二次雖然進了廟門、但唯走到正殿跟前、就被接踵而至的鎮政府工作人員請了出去,説是有北京的専家前来視察指導修復工作、閑雑人等一律回避;第三次才走到半路就下起了小雨、到達時又遇著廟門緊閉、還好有幾箇随後到来的香客聯係到了廟祝、這僥倖得以進入廟中。而等到這些香客焼香占卜完畢、廟祝也就開始関門走人了、故連観帯拍的時間加起来不超過半箇小時,加上雨天殿内光線太暗,那一次的拍攝效果並不理想、而且還漏拍了一箇很重要的地方。即便如此、某人還是為這 趟並不成功的行程而感到興奮。根拠個人的体験,陳太尉宮正殿雖然與華林寺・三清殿同属閩東南地区宋代遺構,在風格・技術及改建方式均有不少相似之処,但在整体保存状況方面、陳太尉宮正殿顕然更加接近原貌、在一些細節上、也似乎更具古製古風。尤其是粗壮的梭柱、巨型的櫨斗、肥碩的月樑、以及形製獨特的插栱畳門、都給某人留下了難以磨滅的印象。
  説到陳太尉宮,不得不提及他的淵源。此宮位于羅源県中房鎮乾溪村南的一処小山坡上、始建于五代梁開平三年(公元909年),原為陳氏家祠、係隨王審知入閩的陳蘇所建。貞明元年(公元915年),陳蘇去世,入祠奉祀,改称“高行先生祠”。宋嘉定二年(1209年),陳蘇被勅封為“英恵侯王”,嘉熙三年(公元1239年)加封“顕祐嘉応侯王”,即建造宮殿于祠前,称大宮。同年,陳蘇十五世孫陳慶抗金有功,十八歳戦死沙場,被封為“都統伏魔太尉”、配享于宮、並予以拡建、改名“陳太尉宮”。以後多次重修理、拡建。現状由門楼劇台(清)、両側配殿(明・清)、正殿(南宋)組成,建築面積1155平方米。1985年第二批省保,2001年第五批国保。
  従布局上観,陳太尉宮坐西朝東,稍稍偏南,外觀呈十字形。由于正好坐落在一処山坳浬裏,周辺又為樹木所遮擋,無法拍到他的全貌,那就画張示意図吧。比例不太精確,湊合着観。


1117陳大尉宮02楼門05配殿02 舞台と配殿(桟敷)



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いい加減に学ぶ中国語講座(3)

1117陳大尉宮10全景01背面02


陳大尉宮を読む〈一〉

 福州大学で中国科学技術史学会を終えた昨年(2019)11月17日の午後、羅源県の国家重点文物保護単位「陳大尉宮」のエクスカーションに参加しました。福州から片道3時間近くかかる山間部に境内があります。講演後の体調ふらふら状態であり、バスの中で眠っていればいいのですが、バスというのはなぜか眠りに落ちにくい。移動はつらいね。でも、やはり重点文物保護単位だけのことはあり、無理して行っただけの甲斐はありました。lablogで早く紹介したいと思ってはいたのですが、ここまで遅れたからには「いい加減に学ぶ中国語講座」の教材にでもして筆を進めるしかなさそうです、とほほ・・・
 というわけで今回は、陳大尉宮の情報を中国のサイトから集めてみます。weblio中日日中辞典に以下の短文を入力してみます(短文は自分で考える)。

陳大尉は福建省の重要な寺院です

 それから「日本語→中国語」変換のボタンを押すと、

陈大尉神社是福建省的重要的寺庙
chén dà wèi shén shè shì fú jiàn shěng de zhòng yaò de sì miào 。

 という訳文とピンインがあらわれました。いくらなんでも「神社」はないよね。中国に「神社」はないのに、「宮」を「神社」と訳すなんて、weblioも相当なものだな・・・と不満を抱きながらも、くじけてはいけません。連続して「宮殿」を自動翻訳すると、中国語簡体字の「宫殿」に変換される。以上二つの操作から、日本語簡体字の「陳大尉宮」は中国語簡体字では「陈大尉宫」であることがわかりました。ここで「陈大尉宫」を中国の「百度」で検索してみましょう。結果、複数のサイトが上下に並びますが、一番上のサイトは「百度百科」の説明文です。これを開くと、「陈太尉宫」という短いサイトがあらわれます。「上海 外灘」に比べれば、情報量ははるかに少ないですが、教材としてはちょうどよいかもしれません。イントロは以下のようになっています。

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 陈太尉宫坐落于罗源县中房镇乾溪村,始建于宋代,木结构,单开间,占地面积一千一百一十五平方米,由正殿、配殿、戏台三个部分组成。正殿建筑面积近四百平方米,有二十八根立柱,为鼓圆形状,整个建筑未用一根钉子,为“江南瑰宝”。
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 これをいったんweblioで日本語に自動翻訳してみましょう。すると、以下の訳文がでてきます。
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 陳太の尉宮は羅源県中の房鎮に位置して沢の村をして、1115平方メートル初めて宋代、木構造、ひと間だけの部屋、敷地面積に造って、正殿から、殿、芝居の台を配合して3個の部分は組成します。正殿建築面積400平方メートル近くは、28本の柱立てがあって、円形状をふくらますこととして、全体の建築物はまだ1本の釘を使わなくて、“江南至宝”とします。
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 これはちょっと悲惨ですね。使い物にならない。weblio社は翻訳技術をおおいに改善・向上させてください。この文章を学生が自ら解読するためには、やはり現代中国語を「漢文」風に変換する必要がありそうです。「簡体字→繁体字」のサイトを使って少々調整すると、以下の文章になります。
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 陳太尉宮座落于羅源縣中房鎮乾溪村,始建于宋代,木結構,單開間,佔地面積一千一百一十五平方米,由正殿、配殿、戲臺三箇部分組成。正殿建築面積近四百平方米,有二十八根立柱,為鼓圓形狀,整箇建築未用一根釘子,為“江南瑰寶”。
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 台湾の繁体字を日本語に変換すると、以下のように変わります。
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 陳太尉宮座落于羅源県中房鎮乾溪村、始建于宋代、木結構、単開間、占地面積千百十五平米,由正殿・配殿・劇台三箇部分組成。正殿建築面積近四百平米,有二十八根立柱,為鼓円形狀,整箇建築未用一根釘子,為“江南瑰宝”。
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 読み下してみましょう。
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 陳太尉宮は羅源県中房鎮乾溪村に座落(位置)し、始め宋代に建てられ、木結構(木構造)、単開間(間口一柱間)、占地面積1,115㎡。正殿・配殿(脇殿)・劇台(舞台)の三部分より組成す。正殿建築面積は400㎡近く、28本の柱が立ち、(その柱は)鼓円形狀(胴張り)を為す。建築全体(整箇)に未だ一本の釘も用いず、“江南の瑰宝(至宝)”と為す。
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 「釘を1本も使わない木造建築」という常套句は、都市伝説というべき大嘘ですからね。100万円かけてもいいですよ。垂木をすべての桁に釘打ちしてるし、ほかにもあちこちに釘を使っています。法隆寺だって釘をたっぷり使ってます。こういうイチャモンはさておき、なんとか原文の意味がつかめましたね。中国語の基礎がない学生が翻訳する場合、weblioの和訳はあくまで参考でしかなく、上のような「漢文」変換から「読み下し」とするのが正しい方法であることがわかります。翻訳を続けます。


1117陳大尉宮10全景01背面01


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いい加減に学ぶ中国語講座(2)

簡体字から繁体字への変換

 中国の簡体字はとてもわかりにくいですが、じつは日本の漢字も日本流の簡体字であり、いま本物の繁体字を使っているのは台湾だけになってしまいました。日本人からみれば、台湾の繁体字のほうが中国の簡体字よりもかなりわかりやすいので、中国簡体字の文章を台湾繁体字に変換してみましょう。これには、以下のようなサイトが有効です。

中国語の簡体字と繁体字を相互に変換
https://dokochina.com/sim2traconv.php

 上のサイトで変換すると、

  我喜欢你!(中国簡体字) → 我喜歡妳!(台湾繁体字)

となりますが、これを敢えて日本の漢字に直すと、以下のようになります。

  我喜歓妳!(日本簡体字)

 意味は I like you. です。 I(我) like(喜歓) you(妳). 文法は英語に近いですね。「歓」という漢字に注目すると、

  欢(中) = 歓(日) =歡(台)

であることがわかります。

中国語から漢文へ

 さて、百度百科からペーストした「外灘」の第一パラグラフをもういちど引用します。

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外滩(英文:The Bund;上海话拼音:nga thae),位于上海市黄浦区的黄浦江畔,即外黄浦滩,为中国历史文化街区。1844年(清道光廿四年)起,外滩这一带被划为英国租界,成为上海十里洋场的真实写照,也是旧上海租界区以及整个上海近代城市开始的起点。
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 上のサイトを使って、全文を繁体字に変換してみましょう。

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外灘(英文:The Bund;上海話拼音:nga thae),位于上海市黃浦區的黃浦江畔,即外黃浦灘,為中國歷史文化街區。1844年(清道光廿四年)起,外灘這一帶被劃為英國租界,成為上海十里洋場的真實寫照,也是舊上海租界區以及整個上海近代城市開始的起點。
--

 どうですか、ずいぶん「漢文調」になったでしょ。繁体字になったことで却って難読化した言葉については、原文と対照すれば、日本の漢字を想像できます。さらに『漢和辞典オンライン』 https://kanji.jitenon.jp/ などを参照すると、たとえば

  「區」=「区」 「國」=「国」 「為」=「为」 「劃」=「画」
  「舊」=「旧」 「點」=「点」 「實」=「実」 「寫」=「写」

などの対応関係を導くことができるでしょう。



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いい加減に学ぶ中国語講座(1)

weblio中日日中辞典

 コロナ禍のなかにあっても、ASALABは上海行をあきらめていません。上海の感染状況は落ち着いており、むしろ日本の収束を待っている状態です。というわけで、3年生たちは『地球の歩きかた』を読んでレポートをこつこつ書いているのですが、やはり情報が足りないので、ネットを最大限利用した「いい加減に学ぶ中国語講座」を始めようと思うに至りました。いちばんよく使うのは、以下の辞典です。とても便利です。

weblio中日日中辞典
https://translate.weblio.jp/chinese/

 さっそく開いてみましょう。左側の「原文」のスぺースに、なんでもいいんですが、日本語の文章を入力します。たとえば、以下をペーストしてみます。

上海の外灘には高層ビルが林立しています。

 ここで、下のほうにある「日本語→中国語」ボタンを押します。すると、

(訳文)在上海的外滩,高楼正林立
(ピンイン)zài shàng hǎi de wài tān ,gaō lóu zhèng lín lì

がすぐに右のボックスに表示されます。かなり正確な訳文です(ひどい訳文のこともあります)。訳文の出来不出来はさておき、ひとつはっきりしたのは、日本語の漢字「外灘」は、中国の簡体字では「外滩」と表現されるということです。中国の簡体字はわかりにくいので、こうして調べると、日本の漢字との関係や違いがよくわかります。

百度あるいは百度百科

 次に中国の検索エンジン「百度」を使って「外滩」を調べてみましょう。

https://www.baidu.com/

 あるいは中国版ウィキペディア「百度百科」でもいい。

https://baike.baidu.com/

 今回は百度百科に「上海 外滩」と入力してみます。すると、「外滩 (上海市黄浦区的黄浦江畔)」という長文のサイトがあらわれます。写真や地図もたくさん含まれています。大変な情報量だ。でも、書いてあることの意味がわからない。



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再訪ー蘇州古典園林(8)

1112asa撮影


羅徳啓先生との再会

 獅子林の視察を終え、ドライバーは上海でわたしを待つ羅徳啓先生に電話をした。羅先生は貴州省建築設計院の元院長であり、今も中国建築学会顧問、中国民居建築大師、住建部伝統民居保護専家委員会顧問等の肩書をもっておられる。上海生まれで、建築の名門、南京工学院(東南大学)の卒業。設計院退官後、貴州から故郷の上海に戻り、奥様と悠々自適の生活を送られている。かつて1989年から3年間、貴州省黔東南ミャオ族トン族自治州の少数民族建築を共同で調査した。受け入れ機関の代表者である。当時、わたしは30代前半、羅院長は40代後半であった。 
 このたび羅先生ご夫妻と再会することになったのは、東南大学の後輩であり、貴州調査にも参加した楊昌鳴教授(北京工業大学)のお計らいによる。大変ありがたいことながら、内心を吐露してしまうなら、わたしはすでに疲れ切っていた。疲労が過ぎる故の胃腸炎であって、上海蟹が直接の原因ではないのである。そんな体で蘇州園林を再訪すること自体無茶なのだが、羅先生に失礼のないように振る舞いができるか、不安な気持ちにもさいなまれていた。


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 上海浦東の空港に至る2時間ばかりのあいだ、わたしはタクシーの後部座席で眠り続けた。途中、高速道路の渋滞もあり、ドライバーは何度か羅先生に電話したようだが、うすら覚えの記憶しかなく、惰眠を貪った。疲労性の胃腸炎には睡眠以上の特効薬はない。上海浦東の大衆空港賓館のロビーでご夫妻に30年ぶりの面会をしたとき、胃腸はかなり回復していて、賓館レストランでの晩餐に臨めるという前向きな気持ちになっていた。恥ずかしいことではあるけれども、院長には体調を説明し、酒は控え、腹にやさしい羹(あつもの)を注文することをお願いした。院長は79歳になられていた。奥様ともども、とても懐かしんでくださって、話が弾む。聞けば、猛暑の夏の二ヶ月だけ、今でも貴陽(貴州の省都)でお過ごしになるという。残りの十ヶ月は上海郊外の分譲マンション暮らし。上海にはお嬢さん一家もお住まいであるとか。
 先生は、上海市街地の馴染みのレストランにわたしを招待されたかったようだが、なにぶん時間がなく、遠路浦東までお越しいただいた。スマホを愛用されており、後日、記念写真を数枚サーバーにアップされたとの知らせをうけた。上下3枚はその写真である(一番上は私のカメラによる)。


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再訪ー蘇州古典園林(7)

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獅子林

 拙政園のある平江区の東北街から、南に折れてまもなく獅子林に至る。行政上、この地は姑蘇区の東北街となっている。町並みは拙政園の門前ほど「白い風景」が目立たず、プラタナスの並木や賑わいある店舗群が「白さ」を薄めているが、おそらくこちらのほうが本来の町家を多く残しているだろう。それにしても、活力がある。  

 さて、元の至正2年(1342)、高僧の天如禅師が蘇州を訪れ仏典を講じると、弟子たちはおおいに歓待した。翌年、かれらは共同出資で敷地を購入し堂宇を建立して師の住処とした。これが「獅子林寺」の始まりである。こうして獅子林は寺院として出発した。寺園内は竹林繁茂し、その下側には奇石が溢れており、それが狻猊(サンゲイ)の群れの如くみえた。仏教の狻猊とは獅子のことである。浙江天目山獅子巌の高峰原妙に師事して剃度した中峰明本(普応国師)にあやかり、子弟関係を表現すべく、寺名を「師子林」あるいは「獅子林」と名付けたのだという。師と獅は音義とも通じており、「獅子吼える」とは「禅師が経文を伝授する」ことを意味する。さらにまた、園中の築山の多くが獅子の形に似ていたことから「獅子林寺」と命名されたのである。当時の黄石築山の一部が今も残っている。禅師の死後、弟子たちは散りぢりに蘇州を去り、寺園は荒廃していった。


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 明の洪武6年(1373),73歳の大書画家・倪瓚(号は雲林)が蘇州に立ち寄って造園に参画し、『獅子林図』を描いた。清の乾隆初年(1736),寺園は私有地となって僧院や仏堂を失い、「涉園」と改名された。園内に松の大樹が5本あり、「五松園」とも称した。いま園内に「五松園」なる堂屋があり、扁額の下に五幅の松の絵をあしらう。1917年、颜料商人の貝潤生が庭を買い取り、9年の歳月を費やして修理・増築を施し「獅子林」の名を復活させた。
https://baike.baidu.com/item/%E7%8B%AE%E5%AD%90%E6%9E%97/1025067


1111-7獅子林02石組05石船01 1111-7獅子林01堂屋01ステンド01


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再訪ー蘇州古典園林(6)

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拙政園

 蘇州の拙政園と留園、そして北京の頤和園、承徳(熱河)の避暑山荘が中国の四大名園とされる。なかでも拙政園の評価は高い。わが師、陳従周先生に以下の名言がある。

  江南園林甲天下 (天下で一番の江南庭園)
  蘇州園林甲江南 (江南で一番の蘇州庭園)

 これに拙政園を加えるとすれば、

  拙政園林甲蘇州 (蘇州で一番の拙政園)

とでもなるであろうか。


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 明の正徳初年(16世紀初)、中央官界に失望し帰郷した御史(古代日本の「大納言」に相当する天皇近侍の官)、王献臣は大弘寺の跡地に庭を造った。晋代潘岳の『閑居賦』にみえる「園(畑)に灌(そそ)いで蔬(あおもの)を鬻(ひさ)ぎ、以て朝夕の膳に供す……これまた拙者の政(まつりごと)をなすなり」に因んで、園名を「拙政園」と名づけた。敷地に湿地が多く、これを浚渫して池を穿ったため、見渡すかぎり湖水がひろがるようで、江南水郷の特色を色濃く映し出している。


小飛虹 by 文 1111-6拙政園03虹橋05sam 「小飛虹」の変化



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再訪ー蘇州古典園林(5)

1111-3蒼浪亭02門前02 1111-3蒼浪亭00証明


滄浪亭

 滄浪亭、獅子林、拙政園、留園は蘇州の四大園林と言われる。ならば、みな国の重点文物保護単位でよかろうに、第1次評定(1997)から第2次評定(2000)に至るまで、前二者は省級、後二者は国家級に差別化されていた。評定前にすべてを国家級にしておくほうが中国には有利に働いたであろうに。そもそも拙政園と留園が偉大すぎる。そのため、第2次評定の五園は見劣りしてしまうのだが、反面、網師園と環秀山荘が国家級ならば滄浪亭と獅子林も同格としてよかったはずだ。あるいは、滄浪亭と獅子林が前二者に優るという見方も可能だったと思われる。


1111-3蒼浪亭01 1111-3蒼浪亭02門前01


 ところが、少々やっかいなことに、蘇州の四大園林は規模や芸術性だけに拘った評価ではなく、滄浪亭、獅子林、拙政園、留園はそれぞれ宋、元、明、清の代表作という位置づけがなされている。そうした時代=王朝の傑作だとしても、省級と国家級の混乱はなお解消しない。とりわけ滄浪亭はわたしのお気に入りなのだが、国家級に格上げされたのは第2次評定の6年後(2006)まで遅れるというから驚きを禁じえない。いったい何の理由で、この名園は長い不遇の時期をかこってしまったのか。


1111-3蒼浪亭03池03 1111-3蒼浪亭03池02


 滄浪亭の歴史は五代十国の晩期(宋初)にまでさかのぼる。呉越王・钱俶の妻の弟にあたる孫承佑が北宋二年(969)、中呉軍節度使に任命され、ここに別荘を造営した (広陵王・銭元璙の池館という説もある)。その後、北宋の慶暦4年(1044)に詩人の蘇舜欽が呉の地に魅了され、敷地を四万銭で買って造園し住み着く。池の畔に亭(あずまや)を築き、「滄浪亭」と命名した。「滄浪」なる語は屈源の楚辞に因む。蘇舜欽の没後、所有者は入れ替わり、花園を拡大し堂宇を増やしていった。南宋紹興年間には韓蕲王・世忠の所有するところとなり、「韓園」と改名される。「平江図」にも韓園の記載がある。元代になると、近接する南禅寺の別院となり、僧宗敬が滄浪亭の跡地に「妙隠庵」を営んだ。さらに恵宗の至正年間(1341-68)には、僧善慶が妙隠庵の東側に大雲庵(結草庵)を建立し、別院は「南禅集雲院」と呼ばれるようになった。


1111-3蒼浪亭04漏窓01 1111-3蒼浪亭00回廊01



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プロフィール

魯班13世

Author:魯班13世
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魯班(ルパン)は大工の神様や棟梁を表す中国語。魯搬とも書く。古代の日本は百済から「露盤博士」を迎えて本格的な寺院の造営に着手した。魯班=露盤です。研究室は保存修復スタジオと自称してますが、OBを含む別働隊「魯班営造学社(アトリエ・ド・ルパン)」を緩やかに組織しています。13は謎の数字、、、ぐふふ。

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