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中国道蕎麦競べ(10)-大和最上級コース

0919一如庵00看板01 0919一如庵01建物01玄関01


一如庵 ★★★★★

 奈良に住んで35年以上経つが、こんなに美味いものを食べたことがない。私個人の独断ではありません。三人が口を揃えた共通見解です。誇張でもなければ、冗談でもありませんよ。
 下の写真は、宇陀の山中にある「蕎麦・菜食 一如庵」で最初に卓に置かれた茄子のお寿司です。正式なメニュー名は「大和菜寿司(季節野菜の箱寿司)」であり、訪問した19日における季節野菜(大和菜)が茄子であったということ。この茄子がいわゆる「大和丸なす」なのか別の地元種なのかはよく分からない。ともかく身が蕩けるように柔らかく、皮付きの茄子をひっくり返しているのだが、食感だけでは皮はあってなきが如し。この柔らかさは、そうだな、敢えて類似の品をあげるとすれば、バルせロナのバールで食したパプリカのお惣菜に似ている。あれも異常に美味しい前菜であった。


0919一如庵02料理05茄子寿司01 0919一如庵02料理05茄子寿司02アップ


 中国道の旅から戻った勢いで、連日奈良や木津川の街中蕎麦屋の暖簾をくぐったものの、正直、落胆の念を禁じ得なかった。そういう気持ちを我が家のシェフ、つまり息子に伝えたところ、「いや宇陀に凄い蕎麦屋があると先輩に聞いている。ミシュランの一つ星を取ったらしい」というではないか。というわけで、性凝りもなく、宇陀の蕎麦屋探訪に出かけることを即決した。もちろん予め電話をした。神鍋の床瀬そばと同じく、コースはソールドアウトだというが、単品なら可能ということで、3人の席だけとってもらい、そそくさと家を出る。奈良の場合、北から南への移動は渋滞が激しく、時間がかかる。いったん24号線に乗ったものの、これでは予約の時間に間に合わぬということで、大きく県庁方向に舵を切り、紀寺から東に折れて山道を40分ばかり走行した。


0919一如庵02料理06天ぷら01 季節野菜の天ぷら


 やはり田舎道はいい。風景麗しく、信号少なく、空気が澄んでいる。こういう場所でなければ、美味い蕎麦を食えないと経験的に分かるのである。宇陀市榛原の自明という集落に着いたのは、予約の10分前、ちょうどよい時間であった。まっさきに家内が杖歩行者であることを告げる。主屋の裏側にツノヤを新築してあり、そこを身障者用の土間・テーブル個室にしている、というので大変喜んだ。こういう配慮も、ひょっとしたらミシュランの評価対象なのかもしれない。その部屋でじっくり昼食をいただいた。


0919一如庵02料理07ざる01 もり


 一品めは茄子のお寿司、二品めは「季節野菜の天ぷら」、三品めは各自一枚ずつ「もり」をたいらげた。この店には大盛りという概念がない。大目に食べたければ一枚追加するしかないというので、そうしようとしたところ、お給仕の女性から「辛味おろし」の冷やしぶっかけにされたら如何でしょうか、と薦められた。さらに、そばがきも注文した。もりとそばがき以外の3品には共通する食材を使っている。茄子である。おろしぶっかけの中にも長めの茄子が入っていて、やはり蕩けるような柔らかさに仕上げていた。スダチしぼりの爽やかな酸味の効いたぶっかけであった。また、天ぷらには定番の海老など海鮮をいっさい含まない。正真正銘の菜食天ぷらである。「これは精進料理ですか」と訊ねたところ、給仕の女性は「お出汁に鰹節は使っています」と恥かしそうに答えられた。いいじゃないですか、動物アレルギーさえなければ、出汁ぐらい誰でも許しますよ。


0919一如庵02料理08冷やしぶっかけ茄子01 辛味おろし(半分食べてしまったところ)



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中国道蕎麦競べ(9)-大和山城番外篇

0919談山神社01十三重塔01 0え919談山神社00看板01


談山神社十三重塔

 9月19日(土)、桜井市の談山神社に参拝した。これまで何度か門前近くに至り、そのたびに訳あって素通りしてきたが、ようやく願いが叶って嬉しい。寺伝によれば、談山神社の縁起は大化改新にまで遡る。中臣鎌足と中大兄皇子が、改新のための談合をここ多武峰(とうのみね)でおこない、後に「談い山(かたらいやま)」とか「談所ヶ森」と呼ばれるようになったとされる。


0919談山神社01十三重塔02 0919談山神社01十三重塔03詳細01


 中臣すなわち藤原鎌足の長男、僧定恵が唐から帰国し(678年)、父の墓を摂津からこの地に移して、十三重塔を造立した。その二年後に講堂(現在の拝殿)を建立して「妙楽寺」と号し、大宝元年(701年)、鎌足の木像を安置する祠堂(現在の本殿)を構えて「聖霊院」と名付けた。不審に思う点もある。これら一連の普請事業が天武持統朝、すなわち遣唐使の中断期にあたるからである。ただし、多武峰に古代の境内が存在したとすれば、鎌足の霊廟としての性格を強くもつ雑密系の僧院であったものであろう。


0919談山神社01十三重塔04中景01 0919談山神社01十三重塔05祈念撮影


 中国からみた場合、「妙楽寺」の創建期は初唐にあたる。初唐の塔と言えば密檐式の磚塔が主流であり、中国では現存しない純木造の層塔もそのころは存在した可能性があるだろう。そのような初唐の多層塔と十三重塔は関係があるのかないのか。願望を交えて憶測すれば、妙楽寺十三重塔は唐代密檐式磚塔の日本的表現であるとすれば刺激的だ。ともかく、世界唯一の木造十三重塔遺構である。
 藤原氏の氏寺と言えば興福寺である。しかし、血脈・宗派の違いのため興福寺と妙楽寺は平安時代から不仲であったらしい。後者は奈良朝が一時期禁じていた修験道(雑密)の傾向を強くもつはぐれ山寺の一つであり、興福寺など南都七大寺から敬遠されていたのかとも思われる。十三重塔は承安3年(1173)、興福寺一派の焼き討ちで消失してしまう。文治元年(1185)に再興したものの、中世は南朝勢力に取り込まれたばかりに、永享10年(1438)、北朝軍に焼かれて灰燼に帰う。その後も戦火は絶えず、塔は享禄5年(1532)に再々建、伽藍全体は天正13年(1585)以降、秀吉と家康によって復興された。
 明治の神仏分離~廃仏毀釈によって神道に改修し、「談山神社」と改名されて今に至る。大神(おおみわ)神社の神宮寺であった大御輪寺が大直禰子(おおたたねこ)神社に身をやつしたのと同じ道筋を辿ったことになる。


0919談山神社02拝殿03本殿02 0919談山神社02拝殿03本殿01

↑↓ 本殿(旧聖霊院)は隅木のない春日造。近隣にある宇陀水分神社と同形式である。縋破風の春日造と言ってもよいかろう。隅木を使う形式よりも古式であり、春日大社以前の原初的スタイルと考えてよいだろう。間口三間の大型本殿である。色彩などに桃山の匂いをぷんぷん漂わせている。重文。

0919談山神社02拝殿03本殿03細部01


0919談山神社02拝殿01

↑↓拝殿は大掛かりな懸造。中に入れるのはありがたい。

0919談山神社02拝殿02内部01


↓西宝庫。春日大社の板倉に近いが、校木は板状の角材ではなく、面取りの五角形となっており、仏教系の匂いもわずかに残す。校倉における神仏習合か?

0919談山神社03西宝庫01 0919談山神社03西宝庫02


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中国道蕎麦競べ(8)

0816竹田01旧木村酒造場ホテルEN01 0816竹田01旧木村酒造場ホテルEN10暖簾
旧木村酒造場と竹田城


竹田城 城下町 ホテル EN

 天空の城-竹田城。じつは、まったく興味ありません。どうしてだろうか、城郭そのものにも興味はないし、城跡もおもしろいと思ったことがない。鳥取城跡の委員を長く務めたが、愛着はない。母校が久松山の三の丸跡地にあって、その移転問題を知ったときには、他県の史跡、世界遺産遺跡の状況を踏まえるならば、校舎の強制移転などもってのほかだと思ったが、だからといって、鳥取城跡になんらかの思い入れがあるわけでもない。それにしても、あの疑似木造の太鼓橋はいただけませんね。鉄筋コンクリートの橋が劣化しているという表向きの理由で、疑似木造の太鼓橋を建てたはいいが、高校生は渡れないんだからね。ただの原寸レプリカを作り、高校生を排除して何が嬉しいのか。若者と共生させるからこそ文化財に未来がうまれるんじゃないですかねぇ。指定民家がほぼ公開されない因幡の「暗さ」と同質の前時代的文化財意識を反映する最たる代物ですな、あの橋は。


0816竹田01旧木村酒造場ホテルEN02竹田城02 受付は脇の庭から


 竹田城の真下に、明治35年ころに再建された旧木村酒造場を大改修した「竹田城 城下町 ホテル EN(えん)」というホテルが誕生してとんでもない客を集めている。すでに年末まで予約で一杯。お値段は決して安くないのですが、なにぶんGotoトラブルの割引があるから「格安」で宿泊できるということで、大盛況のようです。しかしですね、みなさん、だまされちゃいけませんよ。このホテルがそうだとは決して言いませんが、ここぞとばかりにホテル代を跳ね上げて、割引した額が当初の宿代ぐらいにしているホテルはいっぱいあるので要注意です。


0816竹田01旧木村酒造場ホテルEN04 本館側面


 もちろんENに宿泊したわけじゃありません。ただの短時間の見学です。外回りと交流館のうろうろしただけです。気付いたことといえば、街道対面の小さな町家を分館にしていることと、背面側にJR播但線の線路が通っていること(竹田駅も近い)ですね。また、竹田城下町自体が兵庫県の歴史的景観形成地区に指定されているので町歩きも楽しそうです。


0816竹田01旧木村酒造場ホテルEN05 分館


 交流館で少々土産物を買いました。カフェは高そうなので、パス。運営会社のVMG社は全国各地でこういう大型の歴史的建造物を宿泊施設に改修しているようです。HPをみると、なかなかリフォームのセンスはよいですね。腕の良い建築家を使っている。但馬では豊岡に旧豊岡市役所南庁舎を改装した「オーベルジュ豊岡1925」というホテルも操業中です。泊まってみたい気持ちと高くつくならみるだけでいいや、という気持ちが微妙なバランスで右往左往状態です。


0816竹田01旧木村酒造場ホテルEN06鉄道 ホテル背面をとおる播但線



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中国道蕎麦競べ(7)

0916養父駅03内部01


山陰本線養父駅

 山陰本線の養父駅にも寅鉄の風情がある。外観はいくぶん改修されているが、内部の待合室はペンキが塗られているので、美作滝尾駅や安部駅ほどの骨董的風貌ではないが、若桜駅や改築前の郡家駅のレベルであろう。扁額は文字が摩耗して正真正銘の骨董品です。
 人はいない。しかし、つくづく、こういう駅舎はもったいないと思う。安部駅のように理容室が入って改札を管理するのもいいし、「道の駅」のような施設に部分転用するのもいいだろうと思う。そうだ、駅舎の一部を蕎麦屋にするとかね。「駅そば」をプラットフォーム側ではなく、玄関側につくるわけです。駐車場もひろいし、味さえ良ければ、繁盛するのではないかな。「鉄蕎麦」を訪ね歩く旅なんて最高じゃないですか。どこかで活用モデルをつくれないものだろうか。


0916養父駅01 0916養父駅02扁額01

 
 養父駅から少々南行すると朝来市和田山の高田という集落に至る。教蓮寺という浄土真宗の寺がある。20~30年前にはなかなかの町並みだったのだろう。骨格は残っている。外観の改修等は進みすぎている感が否めないけれども、ごくまれに古い町家をみることができる(↓)。


0916養父駅04和田山01 0916養父駅04和田山02


出石街道「高中そば」
 
 養父市奥米地の「高中(こうなか)そば」もまた山中の渓流沿いに建つ一軒家である。木造住宅風にもみえるが、公民館の匂いもする。戸口の横には、「高中特産物生産組合」の看板が貼り付けられており、週の定休日が火~木(3日)と長いので、週末のみの(半官半民的)営業組織なのかもしれない。平日に訪問したため、結果として門前払いをくらったことになる。ネット情報では、蕎麦以外にも豆ご飯のおむすびや手作りこんにゃくが美味しいらしい。
 こういう場所にある蕎麦屋は再訪する元気がなかなか湧きませんね。


0916高中そば01看板 0916高中そば02



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中国道蕎麦競べ(6)

0916床瀬そば01


床瀬そば ★★★★☆

 神鍋高原の「床瀬そば」については、鮎殿から数年前に情報を得ていた。「氷ノ山の方」という記憶があり、「氷ノ山 蕎麦」で検索するといくつか候補がヒットした。そのなかに「床瀬そば」が含まれていて、これだと思い出した次第である。
 国府町雨滝経由で豊岡市竹野町をめざすが、山中のトンネルが通行止めになっていて、急傾斜の細い林道をうねり下り、結局は9号線に出た。初めから9号線に乗ればもっと楽だったかもしれない。ぽつんと一軒屋の蕎麦屋ではなく、大字椒のなかの小字床瀬には数軒の住宅があるにはある。しかし、それにしても、たいした山間部であって、たどり着くには骨が折れた。


0916床瀬そば05外観02


 ごらんのとおりの大型民家-戦後の木造和風住宅であろう-を蕎麦屋に改装したものである(内部に仏壇が残っている)。玄関(土間)から座敷にあがるのは健常者なら問題ないが、身障者は苦しい。段差がやや低めであり、沓を脱ぐため板間に腰掛けるのが厳しいようだった。お任せコース(4,000円)が有名ならしいが、予約時にはすでに売り切れ。単品ならあるということで、蕎麦の大盛りと並、さらにきゃあそば(そばがき)を注文した。盛りつけがいかにも山荘風で、とくにきゃあもちが美味しかった。ただし、ちゃぶ台が低すぎて、身障者は食事の席でも苦労した。


0916床瀬そば04もり01 0916床瀬そば03縦01


 風情溢れるお店である。ちゃぶ台だけでなく、いろりを切って、網焼きができるようにもしていて、隣のお客様たちは昼から熱燗で焼き物(山女魚・茸など)の舌鼓を打っていた。患者はそばがき(きゃあもち)を懐かしがった。子どものころ食べていたからだという。そばがきのタレは出汁よりも醤油があう。おもしろい相性だと思った。


0916床瀬そば10きゃあもち01 きゃあもち


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中国道蕎麦競べ(5)

0913美作滝尾駅01  0913美作滝尾駅04プラット02


寅鉄-美作滝尾駅

 津山から因美線の美作滝尾駅へ向かう。第48作「紅の花」冒頭のシーンのロケ地となった駅舎である。若桜鉄道「安部駅」と双璧になる寅鉄の駅舎だが、安部駅は寅さんが鳥取を去る最後のシーンで使われるだけに哀愁一入、風景としての魅力はこちらに軍配があがるように思う。ただし、駅舎そのものの古めかしさや(美容室などの)改修を含まない、という点では美作滝尾駅に分があるかもしれない。その骨董的風貌は、すでに廃線した路線の駅舎ではないか、という錯覚すら覚えるほどだ。この駅舎を通過する列車が智頭、用瀬、郡家を経て鳥取に至るのである、今もなお。


0913美作滝尾駅02内部01 0913美作滝尾駅03パネル01


 あとは駅舎前の広場に残る青電話も懐かしい。今は使えないが、覆屋とともに、いずれは昭和の貴重な時代相を語る展示物となるだろう。公衆電話のカードを財布にいれていた時代を思い出す。未だにスマホに移行できない人種としては嬉しい風景をみた。近くに長い鉄橋もある。川に鉄橋がかかるとこれだけ絵になるものだ。伯備線と因美線の両方でそのことに気付かされた。駅舎は変われども鉄橋は変わらない。だれかがどこかで(画像資料の)コレクションしているかもしれないね。


0913美作滝尾駅04プラット01 0913美作滝尾駅05電話01縦

0913美作滝尾駅06鉄橋01


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中国道蕎麦競べ(4)

0912津山02寅02本通り02碑02作州東屋敷01 作州東屋敷(寅さん撮影地)


津山城東の町並み

 津山は鶴山城の城下町であり、内濠(宮川)の東側にあたる城東地区に伝統的な町家が軒を連ねている。1988年、研究所の一員として伝建対策調査に参加し、『津山城東の町並み』(報告書1989)に分担執筆した。その後、本学(私学)開学以降、2~3度高校訪問で津山を訪ねた。Lablogを検索すると、2006年9月に訪問しており、津山東高校の重文校舎を撮影したり、城東中町のカフェ「びおとーぷ香葉」でカバチーノのなる飲み物をいただき休憩している。当時、こういう喫茶店は2~3軒しかなかった。伝建調査時点よりわずかな変化を感じたものの、大差はなかったように記憶する。


0912津山02寅01寺町01 DSC_0264紅 寺町(1)


 2013年、津山城東地区は劇的な変化を遂げる。重要伝統的建造物群に選定されたのだ。「歴史まちづくり法」の対象地区にもなったはずである。このたび十数年ぶりに訪れたのだが、修理修景・活用の状況は大変わりしていた。鄙びた出雲往来は美観を増し、なにより活気がある。13日、山陰では雨模様だったらしいが、津山は直射日光が眩しく、昼下がりの気温は30℃を超えており、コロナ禍の影響がないはずはないのだが、街歩きする観光客は跡をたたない。


0912津山02寅01寺町02 DSC_0268紅 寺町(2)


焼けた寅さんの風景

 最初の目的は、寅さんシリーズの最終作 「紅の花」(第48作・1995)のロケ地を確認することであった。あれは衝撃的なシーンだった。嫁入りする泉ちゃんの結婚式をぶち壊すため、自分の車でタクシーにぶつかり押し返す場面。あれが寺町の小路であることは承知していた。街道の駐車場に車を停め、坂道を上がって寺町の石垣を撮影した。その後、 街道に戻り少し東行すると作州東屋敷の手前に「寅さんロケ地跡」の石碑を発見。あぁ、ここが婚礼前の場面に使われた屋敷かぁ・・・ということで屋内に入ると、「紅の花」撮影時のパネルがいっぱい小壁にかけてあった。暇そうにしているおじさんに声をかけると、思いっ切り元気になってロケ時のことをお話しくださる。


0912津山02寅02本通り02碑01 0912津山02寅03ロケ風景01


 衝撃だったのは、作州東屋敷(情報館)対面は寅さんが祭りで叩き売りをした場所なのだが、撮影から数年後に大火が発生し、対面の5軒が全焼したことである。跡形もない、とはこのことで、某河原町の五軒長屋を思い起こさずにはいられない。おじさんによれば、町並み保全の活動を揺るがすほどの大事件だったというが、なにぶん城東の出雲街道は長いので、致命的な影響というほどではなく、逆に、これだけお店が増えると、重伝建地区内の駐車場に歯抜けとなった町地家跡地を利用できるので、ネガティブ一色にとらえる必要もないだろう。


0912津山02寅02本通り01焼け跡01 作州東屋敷対面の火事跡地(寅さんロケ地)

0912津山01町並み03
こういう町並みが上のようになってしまったわけ(同じ場所ではありません)


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中国道蕎麦競べ(3)

0912勝山04高瀬船02 旭川と高瀬船の発着場


出雲街道「勝山」の町並み

 真庭市勝山の古代名は高田という。南北朝のころ、三浦貞宗が山上に高田城を築く。戦国期以降、宇喜多、小早川、森が領主となり、明和元年(1764)、三浦明次が2万3千石を領して封ぜられた。明次は城を修築して勝山城と改称、勝山藩が誕生した。町場は旭川と新庄川の合流点に在り、本流(旭川)に沿って北上する伯耆街道と、支流(新庄川)に沿って西行する出雲街道の結節点として繁栄した。また、旭川を改修して街の背面側に高瀬舟の発着地となる長大な水路を設け、水運・陸運の要衝となった。


0912勝山03中町04中橋小路01 中橋から中町を望む


 岡山県は町並み保全に力を入れている。とくに重要な地区は以下の10ヶ所。

A.国重要伝統的建造物群保存地区(重伝建): ①倉敷市倉敷川畔 ②高梁市吹屋 ③津山市城東
B.岡山県指定町並み保存地区: ④岡山市足守 ⑤倉敷市下津井 ⑥倉敷市玉島 ⑦美作市古町(大原)
               ⑧真庭市勝山 ⑨新庄村がいせん桜通り ⑩矢掛町矢掛

 このうち、③津山、⑧勝山、⑨新庄は出雲街道、⑦大原は因幡街道の宿場であり、山陰と関わりが深い。なかでも勝山は岡山県の町並み保存地区になった最初の町(1985)としてよく知られている。これだけの質があれば、重伝建への格上げも十分可能であろうに、そうならない理由が何なのか不思議なほどである。なまこ壁、うだつが目につくので、やはり明治の耐火町家なのだろうが、低いつし二階の町家もあり、そうした丈の低い建築は藩政期に遡るのであろう(おそらく当初は茅葺き)。


0912勝山03中町04中橋小路02のれん 草木染め暖簾(半額補助)


 13日午前、時間がなかったので、中町から旭川に架かる中橋あたりだけをうろうろした。まずは中橋まで歩いていく。どの町家にものれんが掛かっている。垢抜けたデザインに目を奪われた。お話を伺うと、「強制はされていないが、のれんを掛けると市から半額補助が出る」とのこと。平成5~9年の第二期事業で「のれんのまちづくり」活動が始まり、勝山はまたたくまに草木染め暖簾の街に変貌したようだ。中橋から望む旭川の景観は素晴らしい。よくみると、旭川から枝分かれした細い水路が町家の裏手を数百メートル通っている。高瀬船の発着地だ。船を復原すればさらに風情もますだろうが、役にはたたないか・・・


0912勝山03中町02ブルービー03 カフェ「ブルービー」


 大通りに戻り、「ブルービー(青い蜂)」という名のカフェを発見。扉は開いているのに、のれんを下ろしている。中に入ってもだれもいない。対面左側の雑雑貨ののれんをくぐる。私は器に目がない。このたびはブータン国旗のような龍の絵柄を発見し、焼酎カップと珈琲カップを一つずつ買った。勘定をしていると、マダムが「ほら、ブルービー開きましたよ」と教えてくれた。ほんとだ、のれんが上がっている。さっそくカフェに移動し、暖かいブレンドを一杯。酸っぱいな。モカをメインにしたブレンドだという。豆を買った。ここでは生豆を焙煎してからミルで挽いてくれる。20分ばかり要するというので、斜め前の「ひのき草木染織工房&ギャラリー」へ。ここが草木染めのれんの製造元なんだ。一枚くらい買ってもいい、と思った。値段を訊くと、三万円!だという。とても手がでない。小さな小さな3,500円の暖簾を買うので精一杯。どこにかけるかな?? この染色工房は背の低い古い町家を活用している。改修の手がほとんど加えられていなくて、小屋組が露出しているところが玄人好みだ。


0912勝山03中町03陶器 雑貨屋

0912勝山03中町01草木染03 
↑↓ひのき草木染織工房
0912勝山03中町01草木染02


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中国道蕎麦競べ(2)

0912新見01高梁川01城山01 新見


山間過疎地と蕎麦屋の相性について

 昨日、初校を終えた。昨年来取り組んできた『鳥取県の民家』(1974)再訪、『秋田県の近代化遺産』(1991)再訪の成果をまとめた報告書の初校である。これまでは民家・町並み・近代化遺産に目をむけて、過疎地の近未来を考えてきたが、どれだけ前向きな眼差しでとらえても光明というほどのものは見いだせない。秋田遠征で秋田人の明るさに触れたことが最大の収穫だったのかもしれない。それにしても、地方の人口は減り続けており、居住地は全体として「終活」の方向に動いている。そういう予感しかしなかった。要するに、なにもかも持続不能としか思えなかったのだが、ある日、「蕎麦屋」のことを思い立った。


0912新見02町並み04つし町家01 新見中町 看板建築と度量衡の店(小路の奥に寺と墓地)


 鄙びた山間部に、美味い蕎麦屋があると聞けば訪ねてみたくなる。たとえば県内東部ならば、智頭町福原の「みちくさの駅」は岡山との境の山中にあって、鳥取-奈良往復の際には必ず立ち寄る昼食の場になっている。その味の透明感は山間部の清らかな水と空気がもたらすものだろうと思う。いずれ紹介することになるが、豊岡市竹野町の「床瀬そば」は神鍋高原の山中にぽつんとある有名な蕎麦屋であり、 奈良県宇陀市榛原の「一如庵」に至ってはミシュランガイド2017で一つ星を獲得している。しかも、こうした蕎麦屋は必ず古民家や木造建築を活用している。市街地から遠い「僻地」にありながら、持続可能な状態にあるのはなぜなのか。いちど真剣に調べたほうがいいと思うに至った。出発点は安来の「まつうら」であり、すでにLablogに報じている。それは前奏のようなものであり、今日からが本番である。


0912新見02町並み05平屋町家01 新見中町 平屋の町家


新見の町並み

 城下町と言えば、戦国時代のイメージがある。鹿野、倉吉、若桜、米子などは戦国時代の城下町に端を発し、大阪の陣後の一国一城令(1615)で廃城を強いられ陣屋町・商家町に転じる。それが鳥取城以外の辿る道筋である。新見を訪れて、高梁川支流の向こうに町並みと小高い丘陵を望んだとき、ここもまたそういう中世山城の城下町だったのだろうと思い込んでしまったが、岡山側では事情がちがった。


0912新見02町並み06本町郵便局01 新見中町 郵便局


 慶安3年(1650) 、備中松山藩の藩主水谷勝隆が高梁川から取水して新見から松山城下町までの水路を開削し、高瀬船による水運が始まる。その後、元禄10年(1697) 、徳川幕府により松山藩領が一部の領地を割かれ、 関長治が新見藩の藩主となる。しかし、すでに城を造営できる時代ではなくなっており、「御殿」が築かれた。だから、新見の旧市街地を「御殿町」と呼ぶ。
 9月12日(土)、新見を訪れた。ドローンを飛ばしたかった。空から視れば、丘陵・御殿町・濠川の関係を容易に把握できる。空間構造はあまりにも明瞭であり、濠川と山麓の間に町家が軒を連ねる。山麓・山腹には寺院があり、町並みの向こうに墓地がひろがっている。御殿町の骨格はしっかりしており、歴史的建造物が点在し、看板建築も多いので、昭和の町並みを復原しようと思えばできなくもない。しかし、正直な感想を述べるなら、すでに手遅れの状態になっている。四半世紀前から動いていれば、勝山に劣らぬ岡山県下有数の町並み保全地区になっていたかもしれない。しかし、この町場もまた「終活」の時代を迎えている。


0912新見02町並み07本町交流館01 新見中町情報館(低い屋根の痕跡が当初期か)


 ただ、質の高い町家も姿をとどめている。これを地元では「世間遺産」と呼んで観光の売りにしている。わたしは中町の情報館あたりをぶらついた。情報館は二階の高い大きな建物で、「昭和戦前でしょう?」と訊ねると、管理人さんは「いや、江戸です」と強く否定されたが、周辺には低いつし二階の町家も多く、これだけ高い二階の町家が江戸時代にあったとは考え難い。なまこ壁の土蔵造風の壁もいかにも明治風である。側面の妻壁をみると、低いつし二階屋根の痕跡じみた部分があり、1階の腕木も明治風なので、おそらく当初は明治のつし二階建、それが昭和になって高二階に建て増しされたのだろうと思う。


0912新見02町並み07本町交流館02内部01
↑情報館内部 ↓情報館の腕木
0912新見02町並み07本町交流館04腕木


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近代化遺産を往く-秋田紀行(7)

0825座談会12 図67 フェイスシールド座談会(8月25日@JR秋田駅前) 


7.秋田に学ぶ過疎地の未来像

(1)再び、寅さんの風景
 秋田入りしてから気づいたことがある。秋田県近代化遺産の詳細調査をしていた平成3年(1991)は映画「男はつらいよ 寅次郎の告白」(第44作・鳥取篇)が上映された年ではないか。第5章でも概説したように、「男はつらいよ」シリーズは昭和44年(1969)の第1作から平成7年(1995)の第48作まで日本各地の風景を映しとった作品群であり、それを「寅さんの風景」とわたしは呼んでいる。文化財行政の変化と重ねあわせるならば、昭和45年(1970)、文化財保護法に重要伝統的建造物群保存地区(重伝建)の制度が導入され、阪神・淡路大震災(1995)の被災を受けて平成8年(1996)から登録有形文化財(建造物)の制度が施行された。寅さんシリーズは重伝建とほぼ同時にスタートし、第48作「寅次郎 紅の花」に神戸の被災地を映し出して幕を閉じた。その四半世紀の間に重伝建の数は全国で40件ばかりまで増えていたが、鳥取篇の主要な舞台となる倉吉市の打吹玉川地区はなお選定に至っていない。備中高梁、津山、龍野、温泉津、津和野などの近隣諸県の風景区もまた寅さんシリーズの重要なロケ地とされたが、重伝建選定は映画の上映にはるかに遅れている。「寅さんは文化庁に先行する」と前章で述べたゆえんである。
 言い換えるならば、映画「男はつらいよ」シリーズには、文化庁の景観保全制度がさほど機能していない時代の、日本文化の核心というべき風景が大量に記録されている、ということだ。それは一種の定点として評価すべき風景群であり、史料としての価値を十分備えている。第44作「寅次郎の告白」(1991)を例にとるならば、後に重伝建となる倉吉「打吹玉川」地区と同「打吹鉢屋川」地区及び上方往来河原宿の町並みの質は大差ない。住民と行政が尽力していれば、打吹鉢屋川や上方往来河原宿も重伝建になりえる資質があったということだが、平成の30年を経て、両者の風景はパラレルな変化を遂げ、すでに解体してしまっている。平成という年号の30年は、そういう「解体の時代」として後世に再検証されるであろうと秘かに思っている。


0825座談会11 図68 同上(左:小林氏、右:池田氏)


 これら古き良き時代の風景が日本各地に残っていた平成3年、鳥取で寅さんのロケがおこなわれたことなど露知らず、わたしは秋田県の近代化遺産調査に没頭していた。恥ずかしい話だが、1987年の奈文研入所以来、遺跡の発掘調査にも、近世社寺建築の調査にも馴染めず、自分の居場所がないと悩んでいた時期であり、秋田県の近代化遺産に救われたとの思いが今も強くある。それだけ近代化遺産は自分の肌にあった。子どものころから慣れ親しんだ風景が調査地のまわりに溢れ、モノそのものの理解よりも、モノを通して「地域」の歴史と現状を読み解く研究スタイルが、「民族建築」の方法と著しく類似していたからだろうと思う。大袈裟でもなんでもなく、秋田県の近代化遺産調査は、十数年を過ごした奈良国立文化財研究所の公務として最も楽しかった仕事である。
 この春、「近代化遺産は元気かい」(コラム1)という記事を秋田魁新報に投稿するにあたり、池田氏から情報を提供していただいた。行政の機構改編や市町村合併が影響して登録抹消の例が増えているということなので、文化遺産に関わる秋田の状況を悲観的にみていた。しかし実際に各地を訪れてみると、その真逆の印象をうけることが多かった。前章にみるとおり、「失われた近代化遺産」はたしかにある。しかし、それ以上に活き活きと公開・活用されているいくつもの遺産の姿に接し、感動すら覚えたほどである。行政がどうのこういう問題ではなく、そこに住む人びとの前向きな姿勢に驚き、刺激を受けた。同じ日本海側の過疎県であるにも拘わらず、どうしてこうも違うのか。



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近代化遺産を往く-秋田紀行(6)

0825御蔵01 0825御蔵00道標01 図50 土崎湊御蔵跡地(スーパー店舗を運送会社が使用)


6.失われた近代化遺産

(1)土崎湊と船川港
 藩政期、すべての藩に「御蔵」があった。備蓄米や流通物品を収蔵する藩の直営倉庫群である。鳥取藩を例にとるならば、藩内15ヶ所に御蔵があり、その大半は日本海沿岸に設置された。拠点となる大倉庫群は東伯郡の橋津にあり、今は県指定史跡になっている(浅川編『橋津の藩倉』1996)。秋田藩の場合、土崎湊(秋田市)が拠点的直営倉庫群の拠点であった。主に県南から雄物川舟運によって運びこまれた特産品を備蓄・津出しすると同時に、上方などから北前船で運ばれた物資がここに荷揚げされ保管された。当初は5棟あったというが、1991年には存続していた6号蔵(19世紀初)・7号蔵(1880)・8号蔵(同)・10号蔵(18世紀後期)の4棟を調査した(報告書1992:T15)。藩政期に遡る6号と10号は棟持柱を用いる切妻造の板蔵、明治13年に下る7号と8号は洋小屋寄棟造の土蔵であった。いずれの規模も間口40~60mに及ぶ超大型の倉庫群である。調査当時から撤去の噂が絶えず、市民を巻き込んで保存の嘆願書が提出されるなど社会問題になっていく。その顛末については、池田氏が上記『橋津の藩倉』の特論で詳述している。


00土崎湊御蔵06号01 図51 在りし日の6号蔵(「秋田県名所、旧跡見所ナビ」より転載)


 結果として、一部の倉庫がレストランにリフォームされるなどコンバージョンも試みられたが、十年前までには総ての倉庫が撤去された。その後、大手スーパー「ジェイマルエー」が跡地に店舗を建設したが、開業しないまま、日本通運の支社がその施設を活用している。8月25日(火)夕刻、御蔵の跡地を訪ねたところ、旧スーパーの駐車場に大型トラックが整然と駐車されていた。旧スーパーの建物は運送会社の大倉庫になっていたのである。江戸~明治期の倉庫を撤去して誕生した大型店舗が大倉庫となっているのを目のあたりにし、まるで仏教の説く輪廻のようだと感じ入った。大学実習棟に改装した旧国立新屋農業倉庫のリノベーション成功例を視察した直後の訪問だけに、土崎湊御蔵の撤去をとても残念に思った。土崎には市の図書館もあり、そうした施設との複合は難しかったのか、収蔵施設としての本来の機能を受けつぐ改修をしていれば、運送会社の倉庫として今も機能していただろう、とか、いろんなことを考えたが、失われた建造物が蘇るわけでもない。たられば、を繰り返しても詮ないことである。ただし、同類の倉庫群が新屋では大学の一部として存続してなお持続可能な状態にあり、文化財としての価値を失っていないのに対して、土崎ではレストランに衣替えしたことで持続不能に陥り撤去された、その成功と失敗のプロセスを、今後の教訓として活かさなければならない。持続可能な文化遺産保全の術をわたしたちはこうした経験から学ぶ必要があるだろう。


00土崎湊御蔵07号01レストラン 図52 レストランに改修されていたころの7号蔵(同上転載)


0827船川港北側  図53 船川第二船入場防波堤北側(2020年8月)


 27日、男鹿市の船川港(報告書2019:T12)を訪れた。船川は古来より船舶の風待港として利用されてきたが、とりわけ明治20年代後半から港の拡充整備が進み、同43年(1910)には港湾調査会から重要港湾指定を受けた。翌44年から本格的な築港がなされ、大正2年(1913)には第一船入場を築造、同5年には船川駅(男鹿駅)が開設され、海陸運送の拠点となる。昭和2年には内務省から第2種重要港に編入され、同5年に5000t岸壁を完成させて外国貿易港としての第一歩を踏み出した。戦後は昭和23年(1948)に特定港、同26年政令によって重要港湾、同40年には国の秋田湾地区新産業都市に指定された。以来、7000t岸壁、15000t岸壁を相次いで築造し、秋田港につぐ県下第二の重要港となる。


0827男鹿 湊 図54 船川防波堤細部(間知石積)


 まずは、船川第二船入場防波堤を訪れた(図53)。この防波堤は港の近代化をめざした事業の一環として、5000t岸壁・船川防波堤などとともに施工され、昭和5年に完成したものである。間知石積みの防波堤であり、調査時にはすでに中央部250mが堤を加えこんだ形で埋め立てられ、先端80mと後端30mのみが建設当初のまま露出していた(図54)。防波堤の上幅は2.7m、積石は寒風山安山岩で石の奥行を長くとっている。現在、埋め立て地は埠頭や駐車場として利用されており、両端部分は当初のまま露出している(図55)。開発によって急激な変化を遂げた船川港にあっては昭和初期の姿を残す貴重な遺構である。


0827船川港南側 図55 同上南側空撮(2020年8月)


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近代化遺産を往く-秋田紀行(5)

0826小坂02事務所01カフェ越し01 図34 赤煉瓦倶楽部越しにみた旧鉱山事務所(明治百年通り)


5.小坂鉱山の遺産群と環境緑化

(1)近代化遺産調査の主役として
 8月26日(水)午後、秋田市から約2時間の走行後、青森県との境に近い小坂町の「明治百年通り」に到着。十和田湖に近い山間地だが、猛暑は衰えを知らず、灼熱炎天下の視察となった。
 小坂鉱山の開発は幕末に遡る。盛岡藩によって金銀の採掘と精錬が始まり、明治2年(1869)には官営鉱山に転じるも、同17年には藤田組に払い下げられた。明治34年(1901)、銀の生産高が日本一となる。近代的な工場の整備だけではなく、労働者のための住宅や病院、劇場、鉄道などのインフラが整えられ、19世紀後半から1世紀以上、東北の山間部に「鉱山都市」が花開いた。明治末における小坂町の人口は2万数千人に及び、秋田市に次ぐ県内第2位の地位を誇ったが、現在の人口は5千人を切っている。近代化遺産調査の初年度にあたる平成2年(1990)に鉱山は廃鉱となる。当時、多くの近代化遺産が群として残っており、すでに緑化した丘陵地帯も「廃墟」の匂いをぷんぷん漂わせていた。同時期に調査され世界文化遺産にまで駆け上がった群馬県の富岡製糸場に引けを取らない迫力があったと関係者は口をそろえる。近代化遺産調査では、旧小坂鉱山事務所をはじめ電錬場(電気精銅工場)、変電所、製品倉庫、上級役宅、劇場など鉱山関係の遺産30件が対象となり、うち10件の詳細が『秋田県の近代化遺産』(1992)で取り上げられた。小坂鉱山はこの報告書のなかで最も多くのページを割いた近代化遺産である。調査の主役であったと言って過言ではない。


0826小坂01康楽館01外観01 図35 明治の芝居小屋「康楽館」


(2)明治百年通り
 「明治百年通り」は、南北500mを直線的にのびる道路を中心に小坂鉱山の繁栄を物語る建造物を散りばめ、アカシアの並木で彩る都市公園として整備されている。明治の芝居小屋「康楽館」(重文2002)、「小坂駅本屋及びプラットフォーム」(登録2015)、旧聖園マリア園「天使館」(登録2003)が位置を変えずに建ち、「旧小坂鉱山事務所」(重文2002)と「小坂鉱山工作課原動室」(登録2017)が山上から移築され、復原再生されている。これらの施設群は、平成23年に設立された「小坂まちづくり株式会社」が管理運営にあたっており、平成13年に環境省の「かおり風景100選」に選定され、平成17年には国土交通省より都市景観大賞「美しいまちなみ賞」、平成18年には「手づくり郷土賞」の地域整備部門を受賞している。


0826小坂01康楽館02内部01天井01 図36 同上天井


 康楽館: 鉱山労働者の福利厚生のための芝居用劇場として明治43年(1910)に建立された(図35~37)。木造2階建・切妻造・妻入で、外壁を下見板張りとして白ペンキを塗る明治の擬洋風建築である。内部は、玄関ホール、客席の桟敷、舞台、花道、楽屋などからなり、舞台中央に廻り舞台を設える。和洋折衷による近代劇場建築の傑作と評価される。こけら落とし後、演劇・民謡・芸能などのイベント会場として使用されていたが、昭和45年(1970)に中断。昭和60年(1985)、同和鉱業株式会社(旧藤田組)から小坂町へ無償譲渡され、昭和61年の県指定に伴う修理工事を経て、興行が復活した。現在も4月~11月のほぼ毎日、常打芝居がおこなわれている。このたびの訪問時は新型コロナウイルス感染拡大防止のため興行は中断しており、黒子の方に館内の案内をしていただいた。重要文化財の活用実例として興味深い。


0826小坂01康楽館02内部02舞台02 図36 同上-舞台から客席を望む


 旧小坂鉱山事務所: 康楽館の北側、駐車場などの公園施設を挟んで、木造3階建て白亜の広壮華麗な洋館が目を引く。旧小坂鉱山事務所である(図37~40)。小坂鉱山事務所は明治38年(1905)、鉱山山麓に建設された。当初の平面は逆凹字形だったが、昭和17年(1942)、背面に大規模な増築を施し、口字形に変化した。平成9年(1997)、町有形文化財に指定され、ほぼ同時に小坂精練株式会社(同和鉱業から分社独立)から町へ無償譲渡された。平成11年(2009)には、解体修理の後、現在地に移築され、同13年に竣工・オープンする(平面はロ字形を継承)。翌14年(2002)には康楽館とともに国の重要文化財に指定された。


旧小坂鉱山事務所 図37 旧小坂鉱山事務所


 外観の意匠はルネサンス風を基調とし、正面中央のバルコニー付きポーチを強調している。内部は玄関ホール中央に3階までつきぬける欅造りの螺旋階段が圧巻。1階には受付と事務所、土産物ショップ「明治百年堂」があり、2階には企画展示室、貸室の交流ホール、レストラン「あかしあ亭」がある。階は小坂鉱山の歴史を紹介する展示室や衣装レンタル室を設ける。1階から3階までの移動は、螺旋階段や階段を利用したが、玄関ホールの奥にエレベーターを設置している。この活用状況を目の当たりにして、無意識のうちに鳥取の重文「仁風閣」と対比し考え込んでしまった。指定文化財の積極的な活用を考えるときに参考になる事例の一つである。重文の積極的な活用例として賛意を送りたいけれども、重文指定以前の修復であるからだろうか、天井板や階段踏板などに新材を多用しており、「骨董品としての風貌」を失っている部分が少なからず見受けられたのは残念なところである。


0826小坂02事務所03バルコニ縦01 0826小坂02事務所04階段縦01
↑(左)図38 同上バルコニー (右)図39 同上螺旋階段
旧小坂鉱山事務所エレベーター 図40 同上エレベーター


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近代化遺産を往く-秋田紀行(4)

0825鮎川00由利高原鉄道001 図22 旧鮎川小学校駐車場からみた由利高原鉄道


4.学校リノベーション

(1)鳥海山 木のおもちゃ美術館(旧鮎川小学校)
 8月25日正午過ぎ、由利本荘市にある鳥海山 木のおもちゃ美術館(旧鮎川小学校)を訪れた。駐車場から車を下りた瞬間、由利高原鉄道をゆく一輛の列車に目を奪われた(図22)。ああいう風景をみると、本研究室のメンバーは寅さんを思い起こす。映画の舞台になったわけでもないのに、「寅さんの風景」だと感じ入り、見惚れてしまのである。コロナ禍第二派の最中にある猛暑の一日であったというのに、駐車場には次々と車が入ってきて、20~40代と思しき女性たちが足繁く校舎に向かう。なんだ、この人気は?


0825鮎川02校舎01 図23 旧鮎川小学校玄関


 旧鮎川小学校は当初旧鮎川中学校の校舎として、昭和28~29年に建設されたものである。昭和45年(1970)、鮎川中学校が由利中学校に統合された結果、この校舎に小学校が移転したのだが、平成16年(2004)、今度は鮎川小学校が由利小学校に統合され廃校となった。廃校の直前にあたる平成14~15年度、秋田県近代和風建築総合調査が実施され、鮎川小学校も第3次調査の対象となる(『秋田県の近代和風建築』報告書、2004:№22)。平成20年(2008)には校舎の保存活用を願う有志や地域住民が中心となって「鮎の風実行委員会」を組織し、環境整備に取り組むとともに定期的に交流会を開催していく。平成22年には、本校舎を会場に「第2回よみがえる廃校全国サミット」が開催された。


0825鮎川02校舎02体育01 図23 旧鮎川小学校教室棟と屋内運動場


 校舎は東西方向にのびる教室棟3棟と屋内運動場(体育館)で構成されている(図23・24)。校長室・職員室のある中央校舎棟を軸線として左右両側に校舎棟を配置したシンメトリーの構成であり、妻飾りを派手にして高さを強調した屋内運動場を校地北側に配して、4棟全ての妻面を校庭側に向けるなど全体の均衡を意識した設計となっている。


0825鮎川02校舎02体育02 旧鮎川小学校屋内運動場


 外壁は焼杉下見張りに濃茶のペンキを塗って抑制を効かせながら、柱や窓枠を白ペンキで縁取りしてツートンカラーとし、モダンな雰囲気を醸し出している。一方、内部は杉板張りの床板や腰壁、竿縁天井など徹底して和風造作にこだわっており、建具も含めて秋田杉の木目を活かした調和感のある姿を今に留めている。このように旧鮎川小学校は、明治末~大正期の校舎の伝統を引き継いだ昭和戦後の木造校舎として、当初の姿をよく伝える全国的にも稀少な遺構であり、平成24年(2012)に国の登録有形文化財となった。現在は、「鮎川学習センター」として鮎の風実行委員会による交流会を定期的に開催しながら、本荘こけしの絵付け体験や本荘組子の製作体験など、さまざまな学習活動をおこなっている。
 平成30年(2018)、旧鮎川小学校は学習センターとしての機能を維持しつつ、「鳥海山 木のおもちゃ美術館」をオープンさせた。館内には秋田杉を使った玩具や大型遊具を設置し、「子どもが楽しむための施設」というだけでなく、市内の林業関係者や子育て支援団体の新たな活躍の場として、子どもから大人まで楽しめる「多世代交流・木育美術館」をめざしている。


0825鮎川01カフェ04インテリア01 図25 Kitchen Cafe kino(旧職員室)


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近代化遺産を往く-秋田紀行(3)

0825院内油田跡地01 裏口絵3 院内油田31号跡地のやぐら


3.土木遺産の現状-複合遺産としての性格

(1)院内油田跡地
 8月25日(火)午後、にかほ市にある院内油田跡地(報告書2019:I-19)を訪ねた。石油のことを古くは「臭水(くそうず)」と呼び、旧院内村の東方には、字を「臭津(くそうづ)」という丘陵地帯があって、古くから石油が露頭していたという。明治の初め、アメリカの地質学者ベンジャミン・S・ライマンがここに良好な油層が存在することを科学的に確認し、明治期には試掘が繰り返された。それが実を結んだのは、大正以降のことである。大正12年、大日本石油鉱業株式会社が上小国地区第1号井の深度110~425mの地層で日産約5㎘の機械採油に成功、昭和3年には日本石油株式会社が院内油田初のロータリー1号井による採油に成功、昭和5年には旭石油株式会社が「鋼式1号井」を用いて深度646mで8㎘の出油をみた。昭和10年頃には年産11万㎘に達し、油田開発は最盛期を迎え、院内・小国・上小国・平沢の4エリアに及ぶ院内油田は国内最大規模を誇った。昭和17年には戦時特措によって4社が合併して帝国石油株式会社が誕生するも、戦後は徐々に産油量が減少し、昭和46年には秋田石油鉱業株式会社に経営権が移行。近代化遺産調査の時点では稼働していたが、平成7年(1995)に閉山となった。その後、採油に係わった旧社員等の尽力により、平成19年(2007)に経済産業省の「近代産業遺産」に登録され、今は「院内油田やぐらR31A」の跡地が公開されている。


0825院内油田11やぐら001縦 0825院内油田12案内板01
 図13 院内油田やぐらR31A」の跡地(と案内板)


 やぐらR31Aの記号について説明しておく。Rはロータリー(Rotary)掘削方式のイニシャル。ロータリー式は昭和になって新しく実用化された掘削方法で、パイプの先につけたビット(刃)を回転させて岩石を削り、掘り屑をパイプの中に送り込んで地上へ搬出する。31は院内に「31番目の採掘ヵ所」であることを示す。Aは旭石油株式会社のイニシャル。R31Aは深度700m位からガスと油を採取していた。R31Aの採油量は、1日平均400ℓ(20ℓ缶で20缶)、最大で1日1000ℓ(20ℓ缶で50缶)であり、昭和40年頃までは木造やぐらあったが、その後は鉄管製に移行した。


0825院内油田10ロータリー002ポンピング01  図14 ポンピングパワー棟外観


 やぐらから少し離れた位置にポンピングパワー棟がある(図14)。ポンピングパワーとは、ポンプで採油をおこなう際に数多くの採油井に据付けられたポンプを1ヵ所の動力設備で同時に駆動させる動力設備のことで、油層深度が200~800mと浅い坑井(こうせい)で多く採用されてきた。院内は浅層油田であることから、数基のポンピングパワーでほぼ全ての油井から採油をおこなっていたとのことである。ポンピングパワー(PP)の垂直回転運動をオオバンドとカムシャフトで水平方向の往復運動に換え、ワイヤーロープで坑井の採油装置を動かしていた。このように伝達された水平方向の往復力は、やぐらの位置で垂直方向の往復運動に変換され、油とガスを汲み上げていた。ポンピングパワー棟は無人だが公開されており、訪問者は自主的に記帳するシステム。ポンピングパワーやオオバンドなどの実物を至近距離で見ることができる。私は油田やその採掘設備を実際にみるのは初めてであり、とても印象深かった。展示されている最盛期院内油田の古写真などと残されているやぐらを見比べ、往時に思いを馳せながらこの場所を後にした。(井上)


0825院内油田10ロータリー001 
図15 ポンピングパワーPP(↓)とオオバンド(↑)
0825院内油田10ロータリー002 0825院内油田12案内板02アップ



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近代化遺産を往く-秋田紀行(2)

0825両関00古写真01茅葺01 0825両関00ポスター01
(左)図6 明治の両関本館 (右)両関ポスター(昭和)


2.発酵の未来

(1)東北の灘-湯沢の蔵元を訪ねて
 秋田県下随一の酒どころ、湯沢市。その代表格が両関酒造である(報告書1992:I-29)。屋号を「加賀仁」という。寛文年間(1661-72)、加賀の仁右衛門がこの地と往来し、油屋を開業したのが始まりで、味噌醸造にも手をひろげたが、明治7年(1874)より酒造に舵を切り替えた(図5)。すでに湯沢には二十軒以上の造酒屋があったという。院内銀山バブル期の酒需要は湯沢全体の生産量をもってもなお足りず、さらに新しい蔵元を必要としていたのである。明治末~大正初には全国清酒品評会で何度も受賞し、「両関」の銘柄とともに秋田酒の名を全国に知らしめた。1991年秋には、両関酒造の本館(大正12年)・1号蔵(明治25年)・2号蔵(明治41年)・3号蔵(大正年間)・4号蔵(大正5年)を調査し、1996年にはそのすべてが国の登録有形文化財となった。


0825両関00古写真02昭和か? 0825両関00古写真03近年01
(左)昭和の全景俯瞰 (右)近年


 8月25日(火)、調査以来29年ぶりに両関酒造を訪れた。まずは本館の表構えに圧倒される(図6・7)。同行した池田氏が「重要文化財クラス」と絶賛されていたとおりの迫力である。湯沢のシンボルというにふさわしい風格が漲っている。前日訪問した横手市増田の重文「伊藤又六商店」も風土に根差した鞘付き高層土蔵造であり、目を見張ったが、両関酒造本館は90mに及ぶ間口規模があり、その全体に綻びをみせていない点、特筆すべき近代化遺産/近代和風建築だと断言できる。車から下りてその外観を目にした瞬間、フォトスキャンによる連続立面図(オルソ写真)の作成が必要だと感じ、調査補助で同行している4年生の井上君に多重撮影を指示した。


0825両関02外観01 0825両関02外観03 図7・8 両関本館


 他の4名はいそいそと本館に足を踏み入れる。販売室兼ショールームでレジの女性に名刺を渡し、『秋田県の近代化遺産』報告書を編集した者だと挨拶すると、しばらくして社長がショールームまでお出ましになり、直々にパネル展示等のご説明を受けることになった。苦渋に満ちた顔で厳しいコメントが続く。全国的に日本酒のシェアが低迷し、経営に深い影を落とす一方、巨大な木造建築群の維持が大きな負担になってきている。とりわけ大雪の対策は尋常ではなく、屋根の修理だけで天文学的な経費が必要なのだという。結論として、「(自分たちは)文化財保護のために生きているわけじゃない。それは二の次であり、経営が最優先であって、経営の邪魔になるようなことがあるなら、登録を抹消したい」と繰り返し発言された。


0825両関02外観02 本館 


 こちらから逆提案もした。広大な敷地を重要文化財(本館)、登録文化財(酒蔵群を内部改装)、その他更新部分にゾーニングすれば、適切な補助金を受けることができ、桟瓦葺き屋根の維持修理負担も軽減しつつ経営できるのではないか、と。しかし、苦渋の顔色は変わることなく、「やっかいなことが必要であるのなら、他の場所に工場を移し、いまの登録文化財をすべて市に寄贈するので、好きなようにしてほしい」というアイデアまで示された。


0825両関02外観04 本館


 本書は〈指定解除/登録抹消〉を鍵にして民家等歴史的建造物の「終活」を考察しようとしているわけだから、登録文化財所有者が自ら吐露した「抹消もやむえない」という発言は追い風にはなるデータではある。しかしながら、所有者の本音としていきなりそうした意見を耳にするのは大きな衝撃であった。しかも、両関酒造の本館・土蔵群は県内有数の木造建築遺産であり、今後、登録文化財から重要文化財に格上げ指定すべき対象である。この近代化遺産/近代和風建築の傑作を湯沢の地から消滅させるわけにはいかない。さて、行政はどのように動くのか、動向を注視していきたい。


0825両関01内部01販売室02
 ↑↓図08 両関の販売室兼ショールーム
0825両関01内部01販売室01


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近代化遺産を往く-秋田紀行(1)

0824増田02町並み01旧松浦家(重文)周辺 図01 増田-旧松浦家(重文)周辺の町並み


 令和二年度(2020)公立鳥取環境大学特別研究費に採択された「文化遺産報告書の追跡調査からみた過疎地域の未来像」の一環として、去る8月24日(月)~27日(木)の4日間、秋田県各地に所在する近代化遺産を訪問した。これは浅川が編集した『秋田県の近代化遺産』(秋田県教委1992)の追跡調査である。昨年も同種の予備的調査を地元出身の学生が自主的におこなったが、今回はドローンによる空撮やヒアリングなど、一歩踏み込んだ調査に取り組んだ。本文は副題に「紀行」の語を含むが、行程に沿った旅行記の体裁はとらない。遺産の特性によって種別を分け、各種別ごとに現状を報告する。

1.近代化遺産と町並み

(1)重伝建「増田」の町並み
 8月24日(月)、コロナ対策のため東京羽田経由ではなく、伊丹空港から秋田に向かう。スーパーはくと4号(鳥取~大阪)はガラガラ状態、JAL2173便も空席が過半を占めている。午後2時半過ぎ、秋田空港に到着。池田憲和氏(秋田県文化財協会副会長)と小林克氏(元秋田県埋蔵文化財センター所長)の出迎えを受ける。池田先生は、平成2~3(1990-91)年度に実施された「秋田県の近代化遺産総合調査」で教授と行動をともにされた方である。ちなみに、秋田県の調査は、全国の近代化遺産調査のさきがけとして群馬県と同時に実施されたものという。


0824増田00ポスター 重伝建「増田」ポスター


 挨拶もそこそこに予約していたレンタカーで県南内陸部の横手市に向かう。1時間ほどで横手市増田町の重要伝統的建造物群保存地区(重伝建)に到着する。車を保存地区南端の「増田の町並み案内所 ほたる」に駐車し、南北にのびる増田蔵町通り(小安街道)を北に進む(図1)。見慣れた重伝建の景観と違うと感じたのが第一印象。後で、通りに面する主屋の外観と、いわゆる「看板建築」の存在からくる印象であることに気づく(図2)。


0824増田02町並み02看板建築群01 図02 蔵町通り(小安街道)に軒を連ねる看板建築


 重伝建の「横手市増田伝統的建造物群保存地区」は、出羽国を縦断する羽州街道から分かれ、宮城県に抜ける東西方向の手蔵街道と、南北方向の小安街道の交わる交通の要衝に形成されている在郷町である。明治時代には、生糸や葉タバコの集散地として栄えたという。保存地区内の伝統的建造物は、短冊型の敷地に通り側から、店舗兼住宅の主屋、その背後に主屋と連続する鞘(さや)と呼ばれる上屋で覆った土蔵(内蔵)を設け、その後ろ側に別棟になる土蔵(外蔵)や付属屋、庭などを配置する。増田の町並みの特徴は鞘で覆われた内蔵にあり、「蔵の町」として知られている。これら建造物の多くは明治時代以降の普請という。どうやら江戸時代に数回発生した火災と豪雪が影響しているようだ。建造物以外にも、江戸期に整備された地割と水路などが今も存続し、近代にかけて繁栄した歴史的風致をよく伝えている。この町並みを顕彰する住民の動きは平成11年頃からみられ、平成22年度からの伝統的建造物群保存対策調査をへて、平成25年(2013)重伝建に選定されている。


図01 増田の町並み
↑↓ 重文「佐藤家住宅」の2階からみた対面の住宅と町並み
0824増田01佐藤家02対面の住宅01
*図1枚増加の場合、↑を使う


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魯班13世

Author:魯班13世
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魯班(ルパン)は大工の神様や棟梁を表す中国語。魯搬とも書く。古代の日本は百済から「露盤博士」を迎えて本格的な寺院の造営に着手した。魯班=露盤です。研究室は保存修復スタジオと自称してますが、OBを含む別働隊「魯班営造学社(アトリエ・ド・ルパン)」を緩やかに組織しています。13は謎の数字、、、ぐふふ。

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