fc2ブログ

跋文(2)-開学二十周年とブータン研究

戦争やめろ!web 戦争やめろ!奈良


人類が現代史で経験したことのない災禍を超えて
 2021年4月15日(木)、杞憂は現実となる。春休みあけの第2週、木曜初回の講義にむけて家を出ようとしているところに電話が鳴った。学務課職員からの急報である。1名の学生にコロナ陽性反応が確認され、しばらく休校になるので、PCR検査の対象者以外は大学に来る必要はない、という。翌日、数百名のPCR検査をおこなった結果、さらに数名の陽性者を確認し、陽性者が出席した授業の担当教員・学生等も17日(土)にPCR検査を受けることになった。私の場合、火曜講義の履修生に陽性者が含まれていた。17日のうちに陰性であることが確認されたが、陽性者は日々増えてゆき、最終的には学内外十数名のクラスターであると認定された。テレビ・新聞・ネットに大学のクラスター情報が日々溢れていた。
 今でこそ、学校関係のクラスターはありふれてきているけれども、第4波のころは未だ例外的であり、近隣地域社会への影響も小さくなかった。馴染みのパン屋等に出入りすると怪訝な顔をされ、「PCRで陰性だった」と説明する必要があったし、「3日休業した」とか「アルバイト学生に来ないよう指示した」などの愚痴も聞かされた。大学は千人に及ぶPCR検査と約200人の抗原検査により、この苦難を乗り越えていった。これから先のことは曖昧に記すしかないけれども、コロナによる分断に巻き込まれて体調を崩し、夏に6週間の静養をすることになった(軽いウクライナ現象だと思っている)。研究意欲の低下がなにより悩みの種であり、こうなったら徹底的に体を休めようと思っていた矢先、本学同窓会報挨拶文の執筆依頼が届く。コロナは第5派のピークにありながら東京オリンピックが開催されるばかりか、断続的に線状降水帯が発生してゲリラ豪雨が降り已まず、各地に大きな被害をもたらしていた8月のことである。そんな不思議な夏を主題として、「人類が現代史で経験したことのない災禍を超えて」と題する挨拶文を書いた(付録中扉参照)。10月下旬、同窓会報が届きページを開くと、短文を寄稿したvol.17は開学20周年記念号であることが分かった。私もまた、この大学で20年働いたということだ。開学20周年記念号の挨拶文がまわってきたことを前向きに捉えることがきっかけになったわけでもなかろうが、体調は回復傾向をみせ始める。

アジア密教史と菅原遺跡「円堂」の座標
 チベット・ブータン地域のフィールドワークが進捗をみない苦境のなか、2021年度は奈良市疋田町でみつかった菅原遺跡「円堂」の復元に力を注いだ。この復元研究は2019年11月に開催された中華人民共和国建国70周年紀念中国建築学会国際シンポジウム(@北京工業大学)に招聘されて講演した「東大寺頭塔の復元からみた宝塔の起源-チベット仏教の伽藍配置との比較を含めて」(中国語)の続編にあたる。この日本語版を前掲『能海寛と宇内一統宗教』の中で発表した直後、菅原遺跡の報道に接し、それまで暖めていたアジア密教史と東大寺及び行基の関係に係わる考察[岡﨑2020]を前進させるべく「円堂」の復元に着手することを決意した。この決断もまたコロナ禍が影響しており、予算の手続きなどに骨を折ったが、関係部局の理解もあり、多くの学友・研究室OB等のサポートにより成し遂げることができた。可哀想だったのは玉田さんである。玉田さんは「ブータンに行きたい」という志のもとゼミに加わったものの、2020~21年度を通して国外出張が叶わなかった。2018年以来、歴代の秀麗な先輩女子学生は、森さん(雲南1回)、谷さん(ブータン2回)、藤井さん(ブータン1回)と海外出張を重ね、研究室の主軸として活躍したが、玉田さんだけがコロナの壁に夢を砕かれた。その結果、無理心中のようにして行基と菅原遺跡に係わる卒論に引き込まれる結果となった[玉田2022]。しかしながら、行基と道昭・菩提遷那・忍性の関係をよく整理して、復元研究と歴史観の向上に貢献してくれたことに感謝している。
 11月8日、奈良県庁内で菅原遺跡「円堂」復元の記者発表をおこなった。メディア各社の反応はまずまずであり、同日夕刻のNHK奈良と奈良テレビのニュースを皮切りに、翌日以降、全国各紙で報道された。2021年はこうしたメディア露出が反復的にあった一年でもある。6月30日のNHK全国放送「歴史探偵-信長・秀吉・家康 神への道-」では研究室OBの岡垣くんとともに出演し、安土城摠見寺本堂の復元から「仏を超える信長」の野心的構想を説明した。また、菅原遺跡の報道に目をとめたNHK鳥取は、国内で稀少な建築考古学の専門家としてわたしの特集を企画し、年初からの2日にわたるロケを経て、2月3日夕方の情報番組「いろドリ+(プラス)」で「say 精鋭 yeah!」シリーズに出演した。開学20周年の年に私の復元人生をうまくまとめてくれて喜んでいる。


続きを読む

跋文(1)-開学二十周年とブータン研究

ウクライナ国旗01 ウクライナ国旗01戦争やめろ!
出雲大神よ、ウクライナにご加護を! プーチンとコリグに厳罰を!


遠ざかるブータン
 2020年1月、日本人で最初の新型コロナ陽性者が奈良で確認された。その人物は大型観光バスの運転手であり、乗車客は十数名の中国人旅行者であった。まもなく、大阪や京都でもちらほら陽性者がでるようになったが、感染のセンターはあくまで遠く離れた中国湖南省であり、都市封鎖された武漢に比べれば日本は無菌に近い状態を維持していた。鳥取はもちろん感染者ゼロである。そんな田舎町に、ブータン史とチベット仏教の大家、ローペン・カルマ・プンツォ(Lopen Karma Phuntsho)博士を招聘し、2月11日に大学のまちなかキャンパスで、以下の講演をしていただくことになっていた。

ブータン仏教からみた人間の幸福
Human wellbeing from the view of Bhutanese Buddhism

 2019年夏休みのティンプーで昼食を共にした際、カルマ博士に来鳥を直訴して快諾を得ており、その後も繰り返しメールでスケジュールを調整していた。1月から準備を始め、万全の態勢でお迎えする用意を済ませていたのだが、コロナの壁が立ちはだかった。わたしのほか複数の関係者は、日本の感染症が決して蔓延状態にはなく、例外的にしか認められないことを強調して安全を知らせていた。しかしながら、経由地のバンコクの状況がやや悪化の兆しをみせており、理事長を務めるロデン財団のスタッフからの懇願もあって、博士は出国を回避されることになる。日本側のショックは計り知れないものであった。
 講演内容については「幸福」にあたる英語に注目していただきたい。刹那的な喜びをあらわすハピネス(happiness)ではなく、持続的に心身が健やかな状態にあるウェルビーイング(wellbeing)を敢えて「幸福」と訳している。当時、この主題に係わる研究をしていた者はいなかったが、まる2年を経た今年度、「居場所」論と絡ませてウェルビーイングを扱う卒業研究が2篇もあらわれた[東2022・村上2022]。この点、カルマ博士の幸福論を拝聴できなかったことを、今でも残念だと思っている。

空気の抜けた浮き輪のように
 カルマ博士の来日キャンセルはまさに2年以上に及ぶコロナ禍の先駆けとなる出来事であった。2020年度はGWあけから前期の全面オンライン授業が始まり、夏休みはわずか2週間に短縮された。海外系の科研をもつ研究者は出国不可の状態に陥り、国内でのデータ整理や報告書等の執筆に集中するほかない。かくいう私もその一人であったが、オンライン講義の負担は予想を超えて重くのしかかった。前期の間に2科目30コマ分の録音・録画教材を作成した結果、夏には「空気の抜けた浮き輪」のようになってしまい、自ら年度目標と課した論著等の完成に自信がもてないほどの疲弊感を覚え始めていたのである。
 救済者はゼミの4年生たちであった。とりわけ前年(2019)夏の第8次ブータン調査を経験した藤井さんと井上くんには負荷をかけた。藤井さんは3年次の後期後半から能海寛に係わる報告書の編集実務をこなし、年度末に刊行した『能海寛を読む』[バックナンバー38]の推進役を果たした。就職活動では、その報告書を持参し面接に臨んだのだという。オンラインが常態化した4月以降は、4年生全員を巻き込んで『鳥取県の民家』(1979)追跡調査の成果を編集し始め、夏休みには井上くん等を引き連れて秋田に飛び、『秋田県の近代化遺産』(1992)の追跡調査にも取り組んだ。そうした国内活動のすべてを網羅した成果報告書『古民家「終活」の時代』[バックナンバー39]を父の13回忌にあたる11月11日に刊行した。ささやかな成果ではあったけれども、その後に展開する「ソバ食のフードスケープ」[佐藤2021]や、カールベンクス氏設計の古民家再生の評価[東2022]などの出発点となった業績である。

雲南に消えたチベット仏教求法僧
 2020年度後期から本学は全国的にも珍しい、原則「開講」に舵を切った。開講すれば教員は楽になり、学生の授業理解は深まるが、同時に感染のリスクを背負うことになる。本学の特徴は、県外出身の学生が8割にも及ぶことであり、春休み・夏休み・冬休みなどの長期休暇が終わると、県外に帰省していた学生が一斉に戻ってくる。この場合の防疫基準として鳥取県の感染警戒レベルを指標とするのは意味をなさない。学生の故郷は四方八方に拡散しており、帰学後のキャンパスはごちゃまぜの全国圧縮状態になっているからだ。幸運なことに、後期前半の10~11月は感染者が全国的に少なくなる。そうしたかりそめの安定期を迎えたからこそ、『古民家「終活」の時代』を刊行しえたのだが、この年わたしはさらに欲張りなシフトを整えていた。コロナ禍で暇になると思い込んでいた春の学長裁量経費申請で別の編著の出版助成金まで獲得していたのである。3月刊行済の報告書『能海寛を読む』の内容を一般向けにするだけという気楽な申請のつもりが、完成に至る道のりは険しかった。出版社や関係部局にはご迷惑をかけてしまい、改めてお詫びと御礼を申し上げたい。
 島根県出身の僧侶、能海寛は仏教が冷遇された明治期前半にあって新仏教改革を唱え、入蔵熱(チベット潜入願望)の先導者としてラサ一番乗りをめざしたが、明治34年ころチベットに近い雲南省の奥地で殺害された。2018年度、能海の残した唯一の著作『世界に於ける仏教徒』(1893)の現代口語訳に取り組む一方で、能海の足跡を辿る西北雲南高地を旅していた[森2019]。それらの成果をまとめた報告書が『能海寛を読む』であり、これをベースにしつつ複数の専門家の玉稿を編みなおして『能海寛と宇内一統宗教』(同成社・2021)を年度末に出版することができたのである。


続きを読む

ASALAB報告書 バックナンバー(3)

20180827ルンダ(谷)01web 20180827ルンダ(谷)02sam 風の谷のルンダ


開学20周年記念 第40輯 編集中!

 休日あけの24日になってもまだ雪は降り止まず、この日も雪掻きを・・・したのは私ではなく、家内でした。杖歩行者がまたなんでそんな激務を、と思うでしょ? 彼女は暇をもて余している。ゴミ置き場まで通路をつくりたいと言って聞かないの。もちろん何度も駄目だと言いましたよ。3年前だったか、奈良のニュータウンで日課の散歩をしていて路肩で転んでしまい、見知らぬ歩行者に助けられたのですが、肩の骨にひびが入ってしまった。息子から電話連絡があったとき仰天しましたから。骨折ではなかったけれども、全治3か月のあいだ家族は気が気でなかった。結果を申し上げますと、彼女は喜々として雪掻きし、ご近所の方にも助けられ、門前からごみ置き場に至る通路を完成させてしまいました。
 一方、私は腰痛が治まりつつあり、遅れていた報告書編集の仕事に再着手しました。自分が動きにくくなっているものだから、周りを使えということで、じつは3日ばかり前から、表紙に使うロゴを2名の方にデザインしてもらっていました。有難いことこの上ないですが、著作権はその二人だけにあるわけではありませんよ。元のアイデアは私のものであり、ラフを描いたのも私ですから、著作権共有です(芸名ルサマシャ・バコバコなる若干1名が少々五月蠅いので敢えて書き留めておきます)
 24日は私自身が表紙と裏表紙のデザインを仕上げ、苦手なワードのスキルが少々アップしました。ついで最終ページに掲載予定の報告書バックナンバーを整理しました。バックナンバーはすでに2回ブログに掲載しておりまして、その最後は2016年1月22日になっています。6年前か。当時、報告書は第32~34輯を編集中でありました。いまは第40輯刊行の詰めに入っておりまして、目出度いことに、開学20周年記念号となります。20周年の40号って縁起がいいよね。「続き」に報告書一覧を示します。
 すでに1月末に8割以上入稿済の状態でして、残すは跋文のみ。跋文の内容は、苦しかったコロナの2年間をふりかえるしかなく、それをどこまで記すのか思案にくれております。とりわけこの1年がタフでした。思いっ切りタフでネガティブな一年ではあったのだけれども、こんなときこそポジティブでなければロコのように前進できないでしょうね。これから書いて、遅くとも月末までに仕上げることができれば間に合うでしょう。とにもかくにも開学20周年の目出たい報告書第40号にご期待ください。

 さて、24日はロシアがウクライナに侵攻を始めた日になり、このニュースで持ち切りです。以下のサイトは侵攻前にアップされていたものですが、プーチンの考えを理解するに貴重な情報だと思います。内憂を外患にすり替える権力者の常套手段です。

全ロシア将校協会が「プーチン辞任」を要求…! キエフ制圧でも戦略的敗北は避けられない
https://news.yahoo.co.jp/articles/1c2aed745c6a6ff05ac648bd75facca32c8a5577?page=1



↑2台のリズムギターが気になって仕方ありません。メロディがどうでもよいとは言わないけれども、メロディ以上にコード進行が重要でしてね。この有名な曲にしても、コード進行を単純化すれば、ただのカントリーになってしまいますが、実際のコード進行は結構凝ってましてね。そのコードの構成音とメロディが一致する必要はない。むしろコードから逸脱することでテンションが発生し、ジャジーな響きが生まれます。そういうことを学んだ曲でした。このほか、ユーミンとかスティーリーダンの譜面をみながら、なるほどと唸った記憶があります。


続きを読む

《卒論》マカオの小店街とエッグタルトの風景 -旧ポルトガル植民地の町並みとフードスケープ-

魚谷スライド1 スライド1


 こんにちは、遊民です。2月9日(水)のオンライン卒業研究発表会の発表内容と概要を報告させていただきます。卒業論文の完成に協力していただいた皆様に、この場を借りてお礼を申し上げます。本当にありがとうございました。

題目:マカオの小店街とエッグタルトの風景 -旧ポルトガル植民地の町並みとフードスケープ-
Scenery of small shops streets and the egg tart in Macao - Townscape and foodscape of the former Portugal colony -
中間報告5


研究の背景と目的

 2020年度の春、研究室有志が上海に渡り、同済大学と交流しようと計画していた。渡航前の準備として、少しは中国語を学んでおこうということになり、中国の「百度百科」というサイトを利用して上海の情報を集め、教授が開発した「いい加減に学ぶ中国語講座」の方法に従いながら翻訳に取り組んだ。私は、外灘の近代租界建築を担当し、「和平飯店」などの翻訳をした。このような準備にもかかわらず、コロナ禍のため上海行は叶わなかった。
 年度が変わり、マカオ都市大学からの留学生テイさんを研究室の修士課程に迎えた。テイさんは「マカオの歴史的建造物の再生」を研究課題としており、昨年度から中国語翻訳を続けていた私とペアを組んで、今度は「百度百科」のマカオ(澳門)の項目を和訳することになった。マカオと上海は、西欧化の歴史が少々異なる。マカオは16世紀からポルトガルの居留地となり、19世紀にポルトガルの植民地となったのに対して、上海はアヘン戦争後の南京条約(1842)で開港した租界都市であり、英仏などの居留地が形成されてはいたが、植民地であったわけではない。
 卒業論文としては、なによりテイさんの存在が大きく、類似する西洋風の都市ではあるけれども、マカオを主題とすることにした。


魚谷スライド2
魚谷スライド2盧家ステンドグラス 魚谷スライド2盧家天井 スライド2+追加2枚(盧家大屋)


マカオの歴史と文化

 1513年、当時小さな漁村だったマカオにポルトガル人が来航した。この事件を端緒として、ポルトガル人はマカオの居留地を拡大していく。1557年には永久居住権を確保するが、行政権は明王朝にあった。しかし、アヘン戦争後のイギリスによる香港割譲に刺激され、ポルトガルは1849年、マカオを完全に植民地化した。 以来、1999年に中国に返還されるまでの150年の間、マカオはポルトガルの植民地であった。現在は中国の特別行政区とされている。
 こうした長きにわたる居留地~植民地支配の影響により、マカオ本来の中国的文化とポルトガル文化が融合し、マカオに特有な中葡折衷の文化が形成された。それは食文化・建築文化によく表れている。とりわけ多くの建造物や広場の文化財価値が高く評価され、「マカオ歴史地区」が2005年にユネスコの世界文化遺産に登録されている。世界遺産となった建造物の多くはポルトガル式のものだが、中葡折衷のものも含んでいる。たとえば、1898年に建てられた盧家屋敷(マカオのカジノ王・盧華紹の旧宅)は、小さな中庭を持つ二階建ての四合院式住宅だが、ステンドグラスやコロニアル式石柱などポルトガル風の意匠が散りばめられている(↑スライド2追加2枚)。


魚谷スライド3
魚谷スライド3ポルトガルレストラン外装 魚谷スライド3ポルトガルレストラン内装 スライド3+追加2枚(ポルトガル・レストラン)


フォトスキャンにみる中葡折衷の町並み

 私は世界遺産地区のバッファゾーンにあたるマカオのメインストリートの景観に着目した。 道路に沿って軒を連ねる小店(こみせ)の「町並み=タウンスケープ」と「食の風景=フードスケープ」の関係/非関係性を探ることが本研究の目的である。
 留学生のテイさんは身内の不幸もあり、昨年の夏休みに帰国された。その際、町並みの連続写真撮影に取り組み、帰国後、私と協力してフォトスキャンによる連続立面図の作成に取り組んだ。スライド3上部の画像は新馬路の騎楼街の連続立面写真である。騎楼とは、建物の二階が歩道上にせり出す都市型住宅であり、中国南方の都市に卓越している。1階は小店となるのが一般的である(連続立面図の黄枠内)。こうした構造と外観がポルトガルの影響で洋風に変容している様子がよく分かる。カラフルな塗装もまたポルトガルの影響である。屋根については、中国式の黒い瓦を葺いている。以上のような諸々の特色ある町並みは、大陸側の一般的な都市では認められない。マカオ特有の中葡折衷型タウンスケープと言える。
 小店は騎楼の1階ばかりでなく、中国式の店舗併用住宅や単独の店舗としても存在する。その特徴を探るため、ネットや観光ガイドを情報源としてデータベースを作成した。すでに述べたように、本研究の目的はマカオのタウンスケープとフードスケープの関係を明らかにすることであり、小店のうち、とくに料理店を対象とした。これら料理店のタイプを、「ポルトガル型」「中葡折衷型」「中国広東型」「東南アジア型」の4タイプに分類し、合計20店のデータを集めた。
 なお、スライド3追加2枚の写真は本格的なポルトガル・レストランだが、今回はこのような大型のレストランではなく、小店街にある小振りのポルトガル料理店を紹介する。


魚谷スライド4スライド4


小店の4タイプと料理店の特色

 データベースを作成した結果、タイプごとに、ある程度の傾向を確認した。
 ポルトガル型料理店の場合、先ほどおみせした大型のポルトガル・レストランは、建築もメニューもポルトガル式だが、小店のポルトガル料理店の外観は、中国式であることが多く、フードスケープとタウンスケープの交錯が認められる。一方で、内装には洋風で、温かみのある照明を使用するなど、清潔感や高級感があると言える。
 中葡折衷型の料理店は、ほとんどが「茶餐廳」という形式で経営している。茶餐廳とは伝統的なファストフード店のことであり、近隣住民や学生が朝食や夜食を食べたり、ビジネスマンが昼食を食べたりと、外食文化が盛んな広東人の日常生活には欠かせない存在である。速くて安い手軽さを重視しているが、高級感はない。店舗の外観は、先に紹介した新馬路の騎楼のような中葡折衷型の建物や新しい建物が多い。
 中国広東型の料理店は、店と屋台を複合させている例が多くみられる。人や車の交通が少なくなる夜間に営業をおこない、店舗から歩道に客席ばかりか、小型のキッチンまで移設して、食品を販売している。高級感や清潔感とはほど遠いが、屋台食にも風情があり、下町の雰囲気をぞんぶんに楽しめる。
 東南アジア型の料理店は、外観は中国式であり、質素な内装をしている。ポルトガル料理・中華料理とは違い、ミャンマーやベトナムからの難民が手作りする東南アジア料理は、マカオ人にとっても異国情緒溢れるメニューとして人気がある。そうした未体験の料理を楽しめることが東南アジア料理店の最大の特徴である。



続きを読む

《卒論》大僧正行基と長岡院 -菅原遺跡を中心に-

玉田スライド1枚目
菅原遺跡の遺構図(玉田) 菅原遺跡の円堂跡(玉田) スライド1+追加2枚


 こんにちは、小霞です。2月9日(水)のオンライン卒業研究発表会の発表内容と概要を報告させていただきます。卒業研究にご協力いただいたすべての皆様に厚く御礼申し上げます。

題目: 大僧正行基と長岡院 -菅原遺跡を中心に-
Gyoki as an Archbishop and his Annex called Nagaoka-in
- Focusing on the Sugawara ruins -

中間報告1


研究の目的と概要

 奈良市疋田(ひきた)町の菅原遺跡は2020年10月から元興寺文化財研究所が発掘調査し、2021年の5月22日にその成果が一斉に報道された。遺跡は喜光寺(菅原寺)の西北約1kmの丘の上にある。『行基年譜』(1175)にいう「長岡院 菅原寺の西の岡にあり」の記載に一致し、東大寺大仏の造営を指揮した大僧正行基(668-749)が創建した「長岡院」に比定される可能性が高い。喜光寺の本堂は行基が東大寺大仏殿を建立する前に大仏殿の圧縮モデルとして試作されたものとされ、行基は天平勝宝元年(749)喜光寺で生涯を終える。丘陵上の菅原遺跡(長岡院)から東南方向に喜光寺の境内を俯瞰でき、東の遠方には若草山麓の大仏殿を遥拝できる。行基にとって絶好の場所であり、ここに建つ建物が行基の供養堂と推定されるゆえんである。
 スライド1追加図2枚は、菅原遺跡円形建物跡の空撮写真と全体の遺構図である。この種の「円堂」を回廊などが囲む構成は聖徳太子を祀る法隆寺東院夢殿と似ている。上に述べたように、菅原遺跡の場合、長岡院の一部に造営された行基の供養堂とみる説が有力になっている。建築年代は奈良時代後半の750~760年ころと推定される。なお、円形の建物を木造で組み上げることは非常にやっかいであり、日本や中国では「八角円堂」「六角円堂」と称して、正多角形平面を「円」の代替としている。


玉田スライド2枚目 スライド2


行基史略

 行基は生涯にわたって49の寺院を建立したと伝承されている。ただし、行基四十九院の名称や所在地のすべてが明らかなわけではなく、行基四十九院であったことが確定しているのは、大阪府堺市の大野寺、奈良市大和田町の隆福院など数ヶ寺に限られている。今回発見された菅原遺跡が長岡院だとすれば、行基創建の寺院の一つであることは間違いないけれども、『行基年譜』には「長岡院と喜光寺は49院の外(ほか)なり」という追記があり、行基49院とは別の寺院であったことに注意しなければならない。


玉田スライド3枚目 スライド3


玄奘・道昭と行基/行基と菩提僊那

 行基は、仏教の源郷たるインドに強い憧れを抱いた仏教者であったろうと想像される。行基自身は中国に渡っていないが、師とされる道昭(629-700)は遣唐留学僧として玄奘(602-664)に師事している。三蔵法師として知られる玄奘は、当時の中国で最もインド仏教の知識を有した高僧であり、その知識を弟子の道昭に伝え、帰国後、行基は道昭からインドの情報を吸収した可能性がある。ただし、行基と道昭に係わる直接的な記録はほとんどなく、両者の師弟関係については疑わしいとする見解もある。しかしながら行基は、あとで述べるように、神亀4年(727)ころ、堺市大野寺にインドのストゥーパを意識したとしか思えない巨大な十三重土塔を建立している。
 また、天平8年(736)、大仏造営のため聖武天皇がインド僧菩提僊那、林邑(チャンパ=今のカンボジア)僧仏哲等を招聘した際、行基は九州の大宰府でかれらを迎え、平城京まで案内した。その後、行基と菩提僊那は協力して大仏造営に尽力する。おそらく行基は菩提僊那からもインドの情報をおおいに吸収したものと推察される。


玉田スライド4枚目 スライド4


行基と忍性-墓にみる八角の思想

 行基の墓は奈良市生駒の竹林寺でみつかっている。これにはちょっとした伝承がある。鎌倉時代の嘉禎元年(1235)、竹林寺のお坊さんの夢の中に行基があらわれ、「私の墓を掘ってくれ」と頼まれ、行基の墓が掘りあてられた。すると、八角形の石塔の中に舎利容器(骨壺)が入っていた。しかし、骨壺は断片しか残っておらず、地中に埋め戻された。その舎利容器は、明治以降、ある人物が所有しているのが分かった。明治の廃仏毀釈の際に竹林寺もだいぶ荒らされてしまい、その時に盗掘された可能性がある。
 忍性は鎌倉時代の僧侶だが、行基のことを大変尊敬していた。忍性の墓も竹林寺(ほか3寺)にあり、行基に憧れて花崗岩製の立派な八角形の石塔をつくった。そのなかには忍性の骨壺が入っていた。忍性が19歳の時に行基の墓がみつかったのだが、忍性は行基の墓を模倣して八角形の石塔をつくったのではないか、と推定されている。舎利容器(骨壺)の銘文も行基の銘文に倣っている。忍性や行基の墓が八角形をしていたことは、今回みつかった菅原遺跡(長岡院)の供養堂の造形を考える上できわめて示唆に富むものである。



続きを読む

雪のアルマーレ

0220アルマーレ02web 0220アルマーレ01web


賢者の食卓

 先週半ばに降り積もった雪もこの週末で融けてきた。イブ・ミュアヘッドとヴィッキー・アダムスにまんまとしてやられたカーリング決勝を見終えた昼下がり、少し落ち込んだ気持ちを癒したくなり、冬のアルマーレに行きたくなった。市街地は路肩に微かな残雪がある程度で雪は降っていなかったが、9号線を東に進むに連れて雲行が怪しくなっていく。スペイン瓦の館に着いたころには粉雪が降り始めて芝生の洋庭は薄く雪化粧していたが、入館した直後から吹雪に変わり、ガラス窓の向こうのヴェランダがみるみる真っ白になっていった(↓)。


0220アルマーレ03後 0220アルマーレ03前 (左)after ← (右)before


 感染者が少ないと言われてきた鳥取においても、第6波は深刻である。オミクロンは鼻風邪のような軽症のコロナであり、2月上旬にはピークを迎えて感染者は一気に少なくなるであろう、という予想を覆し、ここ1週間は連続して陽性者が100人を上回り(23日は211人)、小学校などのクラスターが続出している。重症者・死者も全国的に多い。鳥取県と奈良県は、国の「まん延防止等重点措置」を拒否する自治体の双璧であり、当初はそれを支持する意見も多かったが、かくもリバウンドが激しいと反対の意見もしばしば耳にするようになった。
 鳥取県東部には外出自粛要請が出ている。法律的には何の拘束力もない「要請」であり、こうして私たちも海辺のカフェに足を運んでいるわけだが、ご覧のとおり、この日もまた心配ない状態であった。経営陣には申し訳ないが、この空間と風景を独占できることの快楽を知る人は決して多くないであろう。いまや私たちの隠れ家のようになっている。


 0220アルマーレ04海岸01
↑ブルース・コバーンを知ったのは大学1~2年生のころだったかな。変則チューニングでジャズっぽい幻想的な演奏をする。どうやったらコピーできるのか、悩んだものである。すでに76歳だとか。カナダの英雄です。


続きを読む

《卒論》『金閣寺』と『金閣炎上』 -居場所を失くした若者たちへ

スライド1 スライド1


 2月9日(水)にオンラインの卒業研究発表会が行われました。当日発表した発表内容と概要を報告させていただきます。卒業研究にご協力いただいたすべての皆様に厚く御礼申し上げます。(教職4号)

題目: 『金閣寺』と『金閣炎上』-居場所を失くした若者たちへ  
The Temple Of The Golden Pavilion and Kinkaku combustion
-For the young people having lost their cozy place-

中間報告4


研究の背景と目的

 金閣寺(鹿苑寺金閣)は1950年、当時、仏教系大学の学生でもあった若い修行僧によって放火された。本論では、この問題を、三島由紀夫と水上勉の小説等から再考しようと思う。とりわけ三島由紀夫に関しては、戦後の右翼系文学者の代表であり、自身が「切腹」という衝撃的な死に方をしていることから、彼の作品には強いメッセージや思想が散りばめられており、おもに評論や随筆からそれらを読み解いていく。また、身障者であった放火犯の心理については、最近起こった事件を比較材料とし、若者の「居場所」の喪失という社会学的な視点を通して再検討を試みる。


スライド2 
若きサムライ  金閣寺の燃やし方 スライド2+追加2枚 


金閣放火を主題にした小説と映画

 金閣放火を主題にした文芸・映画等は以下の通りである(スライド2)。

《小説》 ① 三島由紀夫(1956)『金閣寺』新潮社
② 水上勉(1962)『五番町夕霧楼』新潮社
③ 水上勉(1979)『金閣炎上』新潮社
《評論》 ④ 酒井順子(2010)『金閣寺の燃やし方』講談社
《映画・ドラマ》 ⑤ 市川崑監督(1958)『炎上』
⑥ 田坂具隆監督(1963)『五番町夕霧楼』
⑦ 高林陽一監督(1976)『金閣寺』
⑧ 山根成之監督(1980)『五番町夕霧楼』

 ここで最も重要な資料となるのは三島の『金閣寺』(1956)と水上の『金閣炎上』(1979)であり、いずれも金閣放火事件の犯人、林養賢を主人公とする小説である。大谷大学の学生でもあった若い修行僧がなぜ金閣放火を実行したのか、犯人の人間性や性格・思考などが作者の想像も込めて、フィクション(三島)またはノンフィクション(水上)として仕上げられている。すでに指摘したように、三島が『金閣寺』で表現する美学や死生観は切腹の序章であるとも指摘されており、切腹の前年に発表された三島の随筆『若きサムライのために』(1969年)は、切腹の予感とともに、切腹と『金閣寺』執筆のつながりを暗示する部分がある。
 酒井順子の『金閣寺の燃やし方』(2010)は、三島の『金閣寺』と水上の『金閣炎上』を比較しつつ、他の著書や幼少期の話などを総合的に分析し、二人の文豪の人物像についての見解が語られている。


スライド3 スライド3


永遠の美と刹那の美

 三島の『金閣寺』に登場する放火犯は溝口と呼ばれている。溝口は重度の吃音を抱えており、幼い頃からいじめられていた。障がいがもたらす内面の屈折と人生観、そして女性に抱く興味と美の間で悩みを抱えるようになっていく。「溝口」というのは仮名だが、放火犯(林)に吃音の障害があったのは事実である。
 この作品には二つの「美」が登場する。一つは〈金閣の美しさ=永遠の美〉、もう一つは〈女性の美しさ=刹那の美〉である。放火犯の溝口は幼いころから金閣の美の虜だったが、女性への関心も年相応に抱くようになる。「女性の美」か「金閣の美」か、溝口が女性と交わる寸前に彼の脳内に金閣が現れ、金閣が女性の美しさにまさり、彼を不能に陥らせてしまう。金閣の永遠の美が女性の刹那の美を否定したのである。ちなみに『金閣寺』では、性経験を「人生」と表現しており、その「人生」を否定されて居場所を失った溝口は金閣を恨むようになり放火へ至る。
 この作品には、なにより三島の美学が表現されている。


スライド4 スライド4


身障者はなぜ物語に登場したのか

 次に、三島の『金閣寺』に登場する二人の障がい者から、障がいと人格形成の関係について考えてみる。
 この作品には二人の身障者が登場する。一人は放火犯の溝口、もう一人は柏木という溝口の大学の友人である。溝口は実在した人物(林養賢)をモデルにしているが、柏木は物語上の人物である。溝口は吃音によるいじめや、主張がスムーズにできないもどかしさから内向的な暗い性格になっていき、吃音を馬鹿にされると顔を真っ赤にして怒る描写もあることから、障がいを「恥じ」と認識していたことが分かる。
 一方で柏木の場合は、内反足という重度の障害を抱えているにも拘わらず、それを自分の存在条件として誇示し、他人と分かつアイデンティティだと捉えている。また、内反足を道具のように使い、女性を惹きつけ、そのことを得意気に語るなど、溝口とは正反対の性格をしている。自分の障がいに女性が惹きつけられる成功体験の積み重なりが彼におかしな自信をつけさせたのだろうが、正直、柏木については理解しがたく、このような人物が実社会にいるとはとても思えない。柏木は溝口に刺激を与えるために三島が作り上げたフィクションのキャラクターにすぎないと解釈している。


続きを読む

《卒論》荒金鉱山と岩井町営軌道-正・負の遺産の再評価とダークツーリズムの展望

スライド1(平井) スライド1
 

 こんにちは、天波活殺です。先生のご指導やゼミ生一同の協力があって、無事、卒業論文を完成させました。感謝の意を表したいと思います。どうもありがとうございました。以下、2/9(水)におこなわれた卒論web発表会の内容を報告します。

題目: 荒金鉱山と岩井町営軌道―正・負の遺産の再評価とダークツーリズムの展望
Arakane mines and Iwai municipal railroad tracks 
-Reevaluation of positive and negative heritages and the prospects of the dark tourism-  Hirai Kenshiro

中間報告3


研究の背景と概要

 近代産業遺産としての鉱山と公害は切り離せない関係にある。私が主題とする鳥取県岩美町の荒金鉱山や秋田県の小坂鉱山は環境問題で悩まされており、前者は汚水処理、後者は環境緑化に取り組んでいる。このように鉱山は、「負」の側面を際立たせている遺産の代表例である。たしかに、荒金鉱山は衛生工学的立場からみれば、評価は芳しいものではなく、「負」の遺産と考えざるをえないが、その一方で、鳥取県の近代化に貢献した重要な文化遺産としての意義、すなわち「正」の側面を軽視することもできない。本研究は、荒金鉱山及び鉱山と関わりの深い町営軌道の歴史と遺産の状況を精査し、文化遺産としての鉱山の再評価を試みるものである。


スライド2(平井) スライド2


荒金鉱山史略

 荒金鉱山の歴史は、古代にまで遡る可能性がある。奈良時代の正史『続日本紀』には「文武天皇二年(698)三月五日、因幡の国より銅鉱を献ず」という記載がある。この銅鉱が荒金鉱山のものであるという根拠はないが、荒金鉱山周辺の岩美町の銅山であった可能性はあると考えられている。たとえば、荒金近くの院内でみつかった広庭遺跡は、官衙の遺構とも推定されているが、荒金鉱山の近隣であることから、鉱山運営に関係する遺跡の可能性も指摘されている。近世に入ると、山に間府(まぶ)穴のある様子が『因幡志』(1795)に描かれており、古代から近世まで、採鉱は続いていていたようである。但し、本格的に採鉱が展開するのは近代以降のことである。
 明治30年に山添貞三が銅の露頭を発見し、荒金で採鉱が始まる。そこから堀氏の経営を経て、大正12年に鉱山は久原鉱業株式会社の手に渡る。ここから鉱山の繁栄期を迎える。しかし、昭和18年に鳥取大地震が発生し、65名の死者が出る。鉱山自体にも大きな打撃を加え、経済的な翳りがみえてくる。昭和32年、中国鉱山株式会社に経営権を譲渡し、そこから14年で閉山に至る。なお、鳥取大地震の前から、銅の産出量は減っていたようであり、中国鉱山の経営下では、設備、労働力の縮小の一途をたどっていった。


スライド3(平井) スライド3


荒金鉱山の生活

 鉱山隆盛期の昭和10年ごろの鉱山の生活や使用道具に焦点をあててみた。元来、鉱山の労働者は、周辺の農業従事者であった。岩美町だけでなく、八頭町や国府町などから働きに来ていたようである。鉱山で働く男たちは、法被(はっぴ)を着用し、パッチを穿いて作業していた。頭には手ぬぐいか鳥打帽を被っていた。大正12年に久原鉱業の経営に変わって、ようやく鉄帽が支給された。足下はもともと草鞋履きであったが、大正2年の堀鉱山時代に地下足袋に変わった。今年度の7月にゼミで荒金鉱山の見学に行った。その際には敷地内の造成土中に当時の生活用品らしき破片が埋蔵されているのを発見した。その後、詳細な遺物調査を準備していたが、コロナウイルス感染拡大等により実行できなかった。
 昭和15年頃から鉱山では、朝鮮人労働者が働いていた。朝鮮人労働者の飯場は決して良いものではなく、日の当たらない鉱滓置場の下に2~3軒建てられていた。トタン屋根で、窓には新聞紙を張り付けていたというから、スラムのような代物だったのかもしれない。同じ場所で働く者同士、日本人・朝鮮人の関係なく仲が良かったと言われているが、それはあくまで日本人側の記録である。昭和18年の鳥取大地震により、28名の朝鮮人労働者がお亡くなりになった。毎年9月10日には韓国の伝統的儒教式の祭祀(チェサ)に則った慰霊祭がおこなわれている。


チェサ(平井) チェサ



続きを読む

《修論中間報告》マカオの景観保護と囲屋のリノベーション

 鄭スライド1 スライド1


 2月16日(水)、大学院修士課程1年次中間発表会がおこなわれた。日本語能力が十分ではなく、発表準備に着手するのも遅すぎて、先生に大変迷惑をかけてしまいました。先生のご指導に感謝申し上げます。私の修士研究の題目・内容は以下に示すとおりです。(金巴克)

題目: マカオの景観保護と囲屋(袋小路)のリノベーション

研究の背景と動機

 今年度はコロナ禍ということもあり、満足ゆく活動ができたわけではないが、前期・夏休み・後期の順に活動の成果を報告したい。発表構成はスライド1の左側に示している。マカオは、香港に近い中国広東省珠江デルタ河口の西側に位置し、マカオ半島、タイパ島、コロアネ島から構成されている。面積は約33平方キロメートル、人口は68万人弱であり、世界でいちばん人口密度が高い地域と言われている。マカオは数百年に及ぶ中国とポルトガルの衝突と交流により、異国情緒溢れる地域文化をはぐくんできた。マカオはカジノで有名だが、ポルトガル占領時代の遺産も多く、2005年には「マカオ歴史地区」が世界文化遺産に登録されている。スライド2右の地図の青い線の内側が世界文化遺産の範囲であり、赤い線はバッファゾーンの範囲を示している。


スライド2 スライド2


 私はマカオ都市大学の卒業設計として「コロアネにある平民村の改造」に取り組んだ。スライド1の右下に現状写真と設計街区の模型を示している。この卒業設計をとおして、景観保護や歴史的建造物リノベーションの重要性を実感したが、結果は古い市街地の再開発になってしまった。本学の大学院に進学してから、景観や建築に対する見方が変わってきており、いま一度景観保護という観点から、歴史的建造物の修復・再生に取り組んでみたいと考えている。


鄭スライド3 スライド3


2021年度前期の活動

 私の日本語は決して高いレベルではないので、今年度前期は、語学力を向上させるため、中国語文章の日本語訳に取り組んだ。テキストとしたのは、中国のネットサイト「百度百科」である。百度百科のマカオに係る文章を毎週翻訳し、教授やゼミ生のチェックをうけ、研究室のブログにアップしていった。スライド3左は、百度百科の和訳内容などによって作成した歴史年表である。この年表に即して、マカオの歴史の概要を述べてみる。
 マカオが中国史に登場するのは紀元前に遡る。秦の始皇帝が天下統一し、マカオは南海郡の一部となった。大きな変化があったのは南宋の末期、13世紀のことである。モンゴル(元)が中国に侵入し、数十万の難民と軍隊が福建から敗走して、船でマカオに漂着し、さらに南方の各地に逃げていった。1513年、小さな漁村だったマカオにポルトガル人が来航する。この事件を端緒として、ポルトガル人はマカオの居留地を拡大していく。1557年には永久居住権を確保するが、行政権は明王朝がもったままだった。しかし、アヘン戦争後のイギリスによる香港割譲に刺激され、ポルトガルは1849年、マカオを完全に植民地化する。以来、1999年に中国に返還されるまでの150年間、マカオはポルトガルの植民地だった。現在は中国の特別行政区とされている。


鄭スライド4 図1 
スライド4+追加1


2021年度夏期休暇中の活動

 私の祖父の体調が悪化したことで、夏休みに帰国することになった。8月初旬より、広東省深圳に帰省したが、成田や広州での隔離期間が長かったので、隔離場所で日本語の論著を読んだ。その一覧をスライド4左側に示している。とくに興味をもったのは東光博英(1998)、内藤理佳(2014)、是永美樹(2017)の3冊である。これらの業績から、旧市街地の構成要素・構成原理、居住地の拡大について以下のように理解した。
 マカオ旧市街地は、ポルトガル人が要塞と城壁を建設したことに始まる。追加図1で示す緑と黄色の線がマカオの旧市街地にあたる範囲である。さらに、都市計画上重要な位置を占めるのはまっすぐな街路(直街)である。当時のポルトガル人は、丘陵の上に教会や要塞などの拠点施設をつくり、それらを直線的な道路(直街)でつないでいった。また、「前地」という広場はポルトガル語の「ラルゴ」を訳した言葉である。小振りの広場を教会、政府関係施設、廟、市場、私邸群などの前側に配している。住民と親和性の高い外部空間であり、ベンチやテーブルがおいてあり、移動キッチンカーの営業場所でもある。


鄭スライド5 スライド5


袋小路(囲屋)のフィールドワーク

 私の研究主題は「囲屋」である。広東語で「ウェイオッ」と言う。日本語になおすと、袋小路や路地裏(の長屋)にあたる。中国の場合、標準語では巷(シャン)、モンゴル語由来の北京方言では胡同(フートン)、上海では弄(ロン)または里弄(リロン)と呼び、どの都市でも独特の生活文化をはぐくんできた。
 夏休みに帰国して、まずは幻覚囲という袋小路の調査から再開した。小路に沿って建つ長屋風の住宅は2階建になっており、血縁関係のある宗族のコミュニティが形成されている。「幻覚囲」という地名は、アヘンに由来する。およそ一世紀前の清末の時代、ここに集まってくる人たちがアヘンを吸っていた。アヘンによる幻覚に因む地名だということである。百年以上の歴史がある幻覚囲の建造物はどんどん撤去され、およそ半分が崩壊している。スライド5右上の写真は茨林囲である。袋小路の特徴はすでに失われているが、歴史は最も古い。茨林囲は世界文化遺産の聖ポール天主堂跡の近隣に位置し、かつて日本のカトリック教徒が住んでいた。豊臣秀吉や徳川家康に迫害されたキリスト教徒たちがマカオへ逃れてきて住みついた場所であり、建造物の老朽化は著しいが、年代が古く遡る可能性があり、詳細な調査が必要だと感じた。
 スライド5の下半分は、私が多重撮影した町並みのフォトスキャンである。マカオの伝統的な建築は、ポルトガル型と中国広東型に加えて、中国様式とポルトガル様式の融合した中葡折衷型の三種類に分類できる。一番上は中国広東型であり、中央の博物館はポルトガル型。下の騎楼群は中葡折衷型である。
 追加図1・2(↓)は沙梨頭の図書館である。連続する7棟の騎楼を一体としてリノベーションしたものである。おもに内装を現代化しているが、デザインについては賛否分かれるかもしれない。


図書館2 図書館 スライド5追加1・2



続きを読む

祝い甘酒-卒論提出・記念品贈呈

0216テイ05優07 0216テイ05優05


常呂のロコ、決勝進出!

 いやはや、昨夜(2月18日)のカーリング女子準決勝の余熱冷めやりませんね。日本(ロコソラーレ)がスイスに勝ったのは「奇跡」だとか、「オーマイガー」だとか驚かれていますが、わたしは元々ロコには世界の強豪と五分に渡り合える実力があると思っていました。スイスやスウェーデンと同格に近いチームだということです。但しただし、それはエースのスキップ、藤沢五月さんが好調であれば、という条件付きの評価です。ラウンドロビン(予選リーグ)で、なぜあれほど苦しんだのかと言えば、完敗したスウェーデン戦、韓国戦、イギリス戦、スイス戦の全てにおいて藤沢さんのミスが多過ぎたからです。もちろん、このことを藤沢さんは十分自覚しており、だからこそロビン最終戦の敗北後、号泣したのでしょう。それでも、スウェーデンが4年前と同様にライバル(今回は韓国、前回はアメリカ)を撃破してくれたおかげで、ベスト4に滑り込んだ。スウェーデンに敗れた韓国は8位まで順位を落としています。


0216テイ05優06 0216テイ05優04


 ロコはこういうチームなんですね。紙一重の差が天地の差とよく言いますが、彼女たちは重要な局面でいつも天国の側に転ぶ。明るく前向きな姿勢がその要因だと言うのはたやすく、現実は厳しい。正直なところ、見倣いたいとは思うのですが、時すでに遅し。また偉そうに結果論を言って、と、ご批判を頂戴しそうですが、昨夜の準決勝戦の前から、私は周囲に対して「今夜は勝つような気がする」と自らの予想を打ち明けておりました。なぜならば、スイスも(藤沢好調時の)日本も世界有数の強豪であり、2連敗することが考え難かったからです。負けた側は必ず対策を練ってくるのに対して、勝った側には若干慢心があり、おまけにスキップ(サード)のティリンツォーニが故障を抱え、途中交代していたのです。おそらく日本はティリンツォーニをマークしていくであろう、と。


0216苔だま01
↑苔玉選び。 ↓全員集合 
0216苔だま04甘酒04全員集合02テイweb 0216苔だま04甘酒04全員集合01


続きを読む

三角山神社本殿焼失

0215三角山神社image0


視察情報

 昨日は早朝から入試業務で忙しくしていたところ、緊急の連絡が入り、用瀬の三角山山頂に建つ三角山神社本殿(市指定文化財)全焼のニュースを知った。市の指定を受けているからには、当然のことながら、市教委が黙認できるはずはなく、さっそくスタッフを派遣して現場検証をおこなったようだ。上下の写真は焼失した本殿の状況を写す最新の写真である。レポートを転載しておく。

  周囲に見える炭化材はいずれも覆屋のものとみられ、本殿は
  浜床の土台一部と基壇をのこして、跡形もなく焼失していました。
  土台の隅金物がのこっていましたが、同行した宮司の話によると、
  浜床は昭和の改修とのことです(洋釘留でした)。  
  研究室の報告書にみる壮麗な社殿がここにあったことは、まったく
  想像がつかず、ただただ虚しさだけを感じました。巨巌があらわと
  なった山頂の神聖な雰囲気に飲まれてしまったからかもしれません。


0215三角山神社image1


 上の報告文にみえる報告書とは、『市町村合併にともなう文化財の地域問題』(2005)のことである。そのころ「修験道トレッキング」というプロジェクト研究をおこなっていた時期があり、何度か登山した経験がある。建築は幕末のもので、小ぶりの本殿ながら池田家の家紋(揚羽蝶)などを派手にあしらっている。稲葉東照宮や聖神社に通じる造形だと癒える。


0215三角山神社01市町村合併2005 報告書2005


 私はと言えば、入試業務のあいまを縫って、翌日(=今日)に迫っている大学院修士1年次中間発表と卒論締切日の対応に追われていた。本殿が所在する山頂付近は膝下あたりまであり、老けた教員が登山できる状況ではなさそうだ。一つ思い出す事件がある。摩尼山鷲ヶ峰の地蔵堂焼失(昭和13年)である。あのときは登山して地蔵堂を参拝した客が蝋燭の日を本殿の窓枠か戸口の敷居に立てたまま下山したためと推測されている。三角山の場合、雪深い冬ではなく、秋の行楽シーズンにおこったような気がするが、真実は定かでない。
 くりかえすけれども、今日は卒論の提出〆切日である。「『金閣寺』と『金閣炎上』-居場所を失う若者たちへ」を書き上げようとしている教職4号くんは、この情報を知って何を思うか(思わないか)。


0215三角山神社03トレック2012
↑↓2012年トレック
0215三角山神社02トレック2012

鮭のベイビー、ロックンロール(2)

0214粕汁04


トバの糟汁

 ヴァレンタインの日に燻製鮭の糟汁をつくりました。
 上手くいったとはいえませんねぇ。塩漬け燻製された鮭の骨付き部分や頭を煮て煮て煮て塩を抜く。もちろん湯をかえていきます。その回数を増すごとに、鮭の風味も奪われていく。味噌汁のなかにある鮭の身はトバがもろくなっただけで、味わい深さがなくなっているのです。北海道アイヌたちは、冬越しをするために、こうした料理を育んできたのでしょうが、現代の西日本に住む我々は、容易に鮭の切り身が手に入る。それを使うほうが美味しい汁ができると思うのです。


0214粕汁03


 そもそも子どものころ、わたしは糟汁が苦手でした。美味しいと思ったことがない。年をとって、いつが最後だろうか、もう20年以上糟汁というものを口にしていません。だから味付けも暗中模索でね。酒糟を少しずつ味噌汁に加えていくのですが、半袋もいれれば十分だろうと思って椀に盛ったところ、糟の味が足らない、ということになって、鍋に汁と具を戻し、残り半袋の糟を加えて、記憶の彼方にある糟汁の味に近づいたような気がするのですが、本当に残念なことに、鮭の風味が失われておりました。
 今回は骨付き肉の部分と頭でしたが、まだ切り身があります。切り水は冷水につけて塩を抜いたので、鮭自身の風味はさほど失われていないのではないかと思うのですが、糟汁はもういいな。焼くか、ソテーにしてみます。


0214粕汁02 0214粕汁01


続きを読む

大学院修士課程1年次web中間発表会

マルコーニ


ハッピー・ヴァレンタイン!

 いや、ほんとに届かなくなりましたね、義理チョコ。ところが、家にはピエール マルコリーニ のハート型缶入りチョコがあったりして、どうやら東京在住の娘が缶のデザインをしたとか、なんとか・・・まぁそんなことどうでもいいんだけどね。上の缶をみてください、極小のチョコが9個入っているだけで、なんと4,700円。だれが買うかい・・・でも美味いな、これ、極旨です(東尿英機厳禁)。そうか、鮭の燻製をした先輩が京からチョコが届かないと嘆いていたので、5粒のマルコリーニを送ってあげました。5粒でもお値段は○○○○円もするんですよ。

 さてさて、先週の卒論発表会に続き、今週は大学院1年次中間発表会が開催されます。以下に日程と題目を示しておきます。

2月16日(水)
大学院修士課程環境学専攻1年次中間発表 09:00~
9:40~10:00 ZHENG JIANXIN
「マカオの景観保護と囲屋(袋小路)のリノベーション」

 webexの会議番号やパスなどは前日(明日=15日)にならないと発表されませんが、恩義のある学部生はぜひとも視聴してあげてください。



二胡イントロの3拍子ストロークはこの原曲アレンジを再現してるんですね。


続きを読む

鮭のベイビー、ロックンロール(1)

0211鮭(小林)web


手づくりトバの下ごしらえ

 蝦夷の遺伝子をうけつぐ東北の考古学者から白鮭の燻製が送られてきた。燻製小屋だったか、燻製ボックスだか忘れたけれども、3ヶ月かけて燻した冬葉(トバ)を送るというので、「頼むからやめてくれ」と嘆願したのだが、届いてしまって思案にくれた。下のレシピをみてください。学生にやらせたらいいでしょう、と本人は気楽にいうが、かくもせわしい卒論・修士発表会の時期に学生をこきつかったら訴えられると私は答え、じつは一度学生に提案してみたのだが、誰も首を縦にふらなかった。当たり前です。私にしたって、こんな複雑なレシピに取り組む余裕はまったくなく、半ば諦めていたところ、ある人物が「処理」を買って出てくれた。


0211鮭04web


 この種の燻製は、アイヌや蝦夷が越冬するための保存食であり、消費期限をなかば永久とするため、おそろしい量の塩を使う。調理もなにも、まずはともかく塩抜きである。その工程が少なくとも2~3日要する。3枚におろした切り身の部分は水に浸け、骨付きと頭の部分は鍋で煮続ける。雪国ではストーブに鍋をのせておけばいいだろうが、こちらはIHですからね・・・
 いまその工程をしており、食べるのはまだ先です。取り急ぎの第1報ということで。


0212鮭05sam


【燻製】レシピ
①3枚におろして、適当な大きさに切る
②水につけて戻しながら塩気も抜く(3〜4日)
③キムチのたれ(1cup)、に、日本酒(2cup)をビニール袋に入れ、戻した鮭切身を漬ける(3日)
④金網の上に置きファンヒーターの前で乾かす(3日)
⑤七輪の上に市販燻製器を置き、燻す(チップ2・3回交換、通算2〜4時間:時間が短ければ生ハム風、長ければビーフ・ジャーキー風)

【鮭粕汁】レシピ
①三枚におろした中骨、頭を適当な大きさに切る(鰭は除く)。
②鍋に水を入れ①の中骨、頭をストーブの上などで2日程煮る(気が短ければ圧力鍋を使うと良い)。
③骨が柔らかくなったら取り出す。
④別鍋で一口大のゴボウ、大根、人参などを煮て柔らかくなったら、③の骨を入れる。
④最後に酒粕を適量加えれば完成。
※元々のとばの塩気が強いので塩味は必要ないと思いますが、味見しながら味噌、醤油などを加えても美味い、はずです。


0211鮭02web 0212鮭06sam

遅咲きの蝋梅

0210蝋梅01


花はどこへ行った

 毎冬の楽しみは蝋梅の切花で、昨年までの3年間、共通テスト(旧センター試験)前後から雲山のトスクに安く出回るので、家や演習室に飾って鑑賞し、その艶姿と芳香に魅入られていた。家では、額縁に収めた陳従周先生直筆詩の前に飾るのがならわしで、江南庭園に想いを馳せる。蝋梅が終わると、白梅・紅梅・白桃などに変わっていく。卒業前の季節であり、演習室では卒業生を送り出すためのささやかな演出としていたが、学生の側はそれを敏感に受け止めていたわけではないかもしれない。


0210蝋梅02 0210蝋梅03


 今年は切花が消えてしまった。花はどこへ行ってしまったのだろうか。倉吉のMAD AMANO社長に問い合わせたところ、蝋梅は1月で終わったと言われ、落胆の念を禁じ得なかった。社長曰く、栽培農家が出品をやめたのだろう、とのこと。昨年1月末のトスク雲山の閉店が大きく影響しているように感じている。昨年は1月末から2月にかけて、当時4年のお嬢さんを背景にたくさん切花の写真を撮影した。わずか1年前のことなのに、ずいぶん昔の懐かしい想い出になってしまった。いま、わずかに行徳のトスク本店で小さな蕾の白梅を手に入れることができる。それを家と演習室に飾っていはいるものの、物足りなさこの上なし。蝋梅をみて思い出す人が多いからだと思う。

 そんなこんなで諦めていたところ、ある屋外で満開の蝋梅で出会った。嬉しくて、枝をもぎり、持ち帰って花瓶に活けようか、という欲望を抑え、写真を撮った。昔の恋人に再会したような気持ちになりましてね。やはり蝋梅がいい。ほかの花では記憶を辿り寄せられないんです。


 0210蝋梅05 0210蝋梅04
↑早く歌ってよ、と焦らされるのだけれども、歌への入り方も見事だし、なにより超一流ですね、ピート・シ-ガーは。

2022卒業論文発表会を終えて

220209卒論発表会00打ち上げ01 220209卒論発表会00打ち上げ02sam


発表前の打ち上げ?

 2月9日(水)、予定どおり、卒業論文web発表会がおこなわれました。前の研究室が予定よりかなり早く終わったのですが、時間を前倒ししてはいけない、ということで、なんと40分もの空き時間ができてしまい、ここで相談し、お茶の時間と称する「打ち上げ」を発表前にやってしまいました。オミクロンのご時世に密になって飲食などもってのほか、とお叱りを頂戴するかもしれませんが、2年前までは発表会の後に打ち上げの外食をしておりました。そのかわりの「お茶の時間」ということで、ご寛恕のほど宜しくお願いします。なお、演習室では、換気扇全開に加えて、扇風機2台を常時まわして通風・換気に努めております。

発表風景

 5名とも上出来の発表でした。詳細な報告は16日の卒論提出後、各自にブログアップしてもらいますが、今夜はとりあえずのラッシュレポートということで。


220209卒論発表会01東01 220209卒論発表会01東02sam


 トップバッターは、東くんの「日本海側過疎地の活性動態を探る-北陸の地域振興例と因幡・但馬へのフィードバック」(目次)。上々の仕上がりでした。北陸における竹所(カールベンクス氏の活動)や佛子園・JOCAの先行例をどれだけ因幡・但馬地域にフィードバックできるか、が今後の課題です。期待しています。最後の「過疎地を前向きにとらえる」というのは素晴らしい気づきだと思います。


220209卒論発表会02魚谷02 220209卒論発表会02魚谷02sam


 2番目は魚谷くんの「マカオの小店(こみせ)街とエッグタルトの風景-旧ポルトガル植民地の町並みとフードスケープ」(目次)。2年間、上海とマカオの研究に取り込んでもらいましたが、ついに渡航は叶いませんでした。最後は、大学院生テイ君のサポートもあり、限られた情報のなかで、うまくまとめてくれました。マカオは、ともかく魅力ある地域であり、今後、香港のような動乱がおきることなく、成長しながらもできるだけ現状を維持してほしいと思います。


220209卒論発表会03玉田01 220209卒論発表会03玉田02sam


 3番目は紅一点、玉田さんの「大僧正行基と長岡院-菅原遺跡を中心に」(目次)。ブータンに行きたいと言ってASALABに来た彼女もついに渡航が叶いませんでしたが、無理心中のようにして、行基と菅原遺跡の主題に取り組んでもらいました。行基と道昭、菩提遷那、忍性の関係をよく調べてくれました。また、2年前の岡﨑くんの修論「中期密教の宝塔/多宝塔とチベット仏教ストゥーパの比較研究」を後継する大役を果たしてくれました。感謝します!



続きを読む

オミクロンとネガティブ・ケイパビリティ

 大学のホームページに「Say 精鋭 Yeah!」特集の広報がアップされました。

https://www.kankyo-u.ac.jp/tuesreport/2021nendo/20220207001/

 今回はLABLOGだけにして、大学のHPに上げるのは控えようと思っていたんですけど、若干名からお誘いと激励をうけましてアップすることにしました。
 メールでは各地に配信してます。無視される場合もあれば、返信と感想を頂戴する場合もあります。留学時代の同窓で、いまは旧帝国大学の教授やら名誉教授をやっている大考古学者2名も感想をくれました。学問的なことはどうでもよくてね、当方の白髪に驚き、眼鏡が似合うという感想でした。
 仰天したのは、弟子のなかにオミクロン陽性者がいたことです。腎炎や糖尿に比べれば鼻風邪程度の軽い病気だから気にするなよ、と慰労したところ、一般報道とは異なり、以下のように深刻な症状であったことを報告してくれました。

  私の症状は、聞いていたものよりもきつい感じでした。一番はのどの
  痛み。飲み込むときに激痛があり、これは発症して一週間くらい続き
  ました。それと、発熱ですね。これも、発症2日目から39.6度まで上がり、
  39度前後が5日間ほど続き、解熱剤でようやく下がった次第です。あとは
  頭痛、咳、痰、鼻水が慢性的に続く感じです。症状で言うと風邪と変わり
  はないんですが、薬を処方しても治りにくい感じでした。これでも保健所
  的には「軽症」の判断で、10日間の自宅療養になっています。

 まぁ、ノビタは心配だわね。こんどの江戸行では注意しなさいよ。おかしなところに入り込むと、こういハメに陥る。そもそもこのご時世に女子を飲み屋に呼び出して濃厚接触し、捕縛された知識分子までおるらしく、オミクロンに感染したわけではありませんが、他人事ではない自分がいたりするわけです。しかしながら、すでに年金受給者となったわたしは健全そのもの。well-beingな状態にあります。毎晩家で夕飯を食べ、ホッピィを飲む。家が「居場所」であり、「生きがい」であり、「故郷」であり、「幸福」です。
 そうそう、OG1名からも連絡がありました。彼女は、「蒼い重伝建」から故郷に近い九州に昨秋引っ越してしまいました。ようやく新しい暮らしにも慣れてきたそうです。

浅川滋男教授の研究がNHK鳥取放送局の番組「いろドリ+(プラス)」)で特集されました _ 公立鳥取環境大学_page-0001 浅川滋男教授の研究がNHK鳥取放送局の番組「いろドリ+(プラス)」)で特集されました _ 公立鳥取環境大学_page-0002


続きを読む

原初のギターとホッピィと

0206雪01 0206雪02sam


栓を抜く快楽-ホッピィに寄せて

 5日の雪はたいしたことなかったんですが、6日の朝には雪が積もっていました。アパートの駐車場で確認したところ、積雪30センチ余。こういう時はおとなしく家に籠って天気が回復するのを待つのが得策とは思いつつ、パソコンマウスの接触が悪く、エディオンで新品を買うべく、20分ばかり雪掻きをしました。今年度、初体験。たしかに良い運動にはなります。
 エディオンからマルイに転じて、ホッピィを数本買いだめました。まい先生ご推薦の檸檬堂を断って以来、私の酒精はホッピィと焼酎に限定されています。低糖質でプリン体ゼロなの。マルイ店内のバッカスにあるホッピィは私が買い占めておりまして、とりわけ黒のホッピィは入手し難く、売れ難く、ほぼ独占禁止法に触れる状態になっております。黒が美味いの、ほんとに。
 わたしはホッピィの小瓶をこよなく愛しています。栓抜きがないと、あけられないところがじつに良い。こうでないとね、炭酸酒は。ホッピィに注ぐ焼酎は安物に限ります。パック入り焼酎で十分です。中身を高級焼酎の空き瓶に移すと美味しく感じますよ。これもフードスケープでしょうね。



0206ほっぴ01 0206ほっぴ02栓01


 さて、スーパーで子持ち鰈を探していたところ、知人とばったり遭遇。色違いではありますが、似たようなウィンドブレカーとズボンを身につけている(雪掻き用)。その方に因久山の焼物(器)を近々プレゼントすることになりそうです。学生やマダムがキャンパスを離れる際、わたしはいつも因久山を送ります。因久山だけでは済まないほどの恩義がある方ですが、淋しいけれども、なかなか楽しみな展開になってきました。それゆけ、神風特攻隊! わたしはグリコでも噛んで出雲大神の御託宣をお待ち申し上げるばかりです。


0206ほっぴ02栓04 0206ほっぴ02栓03縦sam
↑ホッピィには安物焼酎が合います。高級焼酎はロックがお湯割りで呑みたい。空き瓶にパック焼酎を移し入れると高級に感じますよ、間違いなく。


続きを読む

Say 精鋭 Yeah!

0203精鋭01奈良02適応に時間01 0203精鋭01奈良01 


NHKローカル「いろドリ+」

 昨夕(2月3日)、NHKローカルの「いろドリ+(プラス)」という番組で「say 精鋭 yeah!」というシリーズに出演しました。6分ぐらいの特集ですが、うまく私の復元人生をまとめてくれて喜んでいます。以下のサイトに3ヶ月だけアップされるそうです。
https://www.nhk.or.jp/tottori/irodoriplus/details/irp220203.html

 上のサイトの期限が切れた場合 こちら からDLできます。
 ここは自らネタバレです。


0203精鋭02妻木01


 まず大学の建築学科を経て奈文研に就職するのですが、発掘調査に戸惑ったことから特集は始まります。本音を吐露するならば、そもそも大学の建築学科に入学したときから、「ここは自分の居場所ではない」と感じていました。建築学科で学ぶこと自体に違和感があり、理学部か文学部に進めばよかったと後悔しきり。性同一障害の感覚もこんな具合なのかな、と建築学に対する適応障害で悩んでおりました。そこで大学院修了後、文科系の研究機関に居場所を変えようとしたのですが、発掘調査は不慣れで上手くならないし、モノにこだわる学風に対しても心底溶け込んでいくことはできませんでした。ただし、研究所の経験は大学院時代の十倍以上の重みがあり、優秀な先輩や同僚から刺激を受けたのも事実です。学恩ある方々も、この時代に集中しています。結果として、たまたま私のような人間が「建築考古学」で目立つようになってしまうわけですが、「建築考古学が本業ではない」と吐露すると、みんなに嗤われます。


0203精鋭03マニ03復元に決定打なし01 0203精鋭03マニ01CGのバリエーション01


 こういう次第ではありますけれども、建築考古学に手を染めて30年以上が経過しており、それなりに自分の信念をもつようになっています。それは、今回のTV特集で強調したように、

 復元に決定打はない

というスタンスです。だれもタイムマシンをもっているわけではないのですから、過去に遡って真実を確かめることはできません。どれだけ根拠を積み重ねて、できうる限り実証的な復元を心掛けたとしても、その復元案は往時の正しい姿ではない、と考えるほうが無難だと思います。にも拘わらず、全国の史跡上には復元建物が建設され続けています。復元建物が出現することで、オーセンティックな出土遺構をみることはできなくなり、根拠の乏しい復元案の一つが立体化され、国民のイメージとして定着していく。こうしたことから、私は復元事業をできるだけ避けて、研究軸を軌道修正していきました。


1988現地説明会(西池宮)2
↑1988年、入所2年目です(31歳)。平城宮馬寮東方地区の推定「西池宮」現地説明会。初担当者をやった現場なんですが、家内はこの人物を私ではない、と言って譲りません。じつは、わたしが在職中から今も研究所にいる補佐員のマダムDさんも「これはWさん」だと言って譲りませんでした。私ですよ、間違いないの。Wさんは、まだ入所していません。こんなに細かったですよ。でも、東尿英機になってしまったから、場合によっては1年で25キロも減量するそうです。このころに戻っちゃうかもね。



続きを読む

節分と恵方巻

0202恵方03


居場所論と知識社会学

 2月2日(水)、1週間後に迫ってきた卒論webex発表会の最終リハーサルを卒論ゼミでおこなった。若干1名はまだパワポを作成中ですが(わしゃ知らんぞ)、他の4名は上々の出来に仕上がっている。コロナ禍の2年を過ごした学年であり、ブータンなどの調査に携わった経験もなく、いつまでたってもまとまりのない集団だと感じていたが、なんのなんの、卒論は昨年までに勝るとも劣らないレベルに達してきており、私も(一部を除いて)上機嫌です。
 今年の卒論の隠れたキーワードは「居場所」であり、教職課程の1名は若者の「居場所」の喪失、カールベンクス氏に会って感動した1名は、映画「ブータン 山の教室」から、おもに高齢者の「居場所」の喪失を問題化している。最近流行りの「居場所」論については、なにかに似ていると思っていたのだが、ようやく気づいた。わたしが学位論文を執筆しているころに愛読していた知識社会学の以下の名著そのものではないか。

ピーター・L.バーガー &ブリジット・バーガー (1977)
『故郷喪失者たち―近代化と日常意識』新曜社
*アマゾンでは中古本に30,000円の価格がついてます

 バーガーはドイツ出身であり、アルフレッド・シュッツの現象学的社会学の影響を強く受け、渡米後は日常世界の「意識」を解読する知識社会学の旗頭となった。「故郷喪失」とは、ドイツ語のハイマートロス、英語のホームレス・マインドの訳語である。かつて心の拠り所としていた宗教が瓦解し、科学技術が宗教に取って代わった現代にあって、人間は産業社会の中で機械の部品のごとき代替可能な存在と化すばかりか、官僚社会の無慈悲な束縛のなかで息を切らしている。その結果、「帰る場所」を失い、故郷喪失感に苛まれているというのが、現代の日常意識だとバーガー夫妻は理解する。こうした日常意識にたちむかえるのは科学技術ではなく、伝統的な民族社会であるという立場から、私は当時、民族建築学の意義を説いた(おかしな論理かもしれない)。


0202恵方02


続きを読む

明晩(2月3日)、NHKローカルに出演!

 突然ですが、1月17~18日にロケした企画が、明日(2月3日)夕刻に放送されることが正式に決まったという連絡がありました。
 詳細は以下のとおりです。

2月3日(木)NHKローカル番組「いろドリ」18:30~
シリーズ「精鋭」(浅川出演)18:35~18:45頃
*多少の時間前後あり

 「精鋭」は、人口が全国で最も少ない鳥取県でキラリと光る活躍を見せる人たちを紹介するシリーズだそうです。CGを多用する建築考古学の専門家として特集されます。恥ずかしいですが・・・開学20周年の年度末にTVの特集を組んでいただけたことに感謝します。


1988現地説明会(西池宮)1
平城宮馬寮地区発掘調査現地説明会(1988年)。
朝堂のように長い桁行21間の礎石建物が発見され、『続日本紀』にいう「西池宮」の一部の可能性があると推定しました。
プロフィール

魯班13世

Author:魯班13世
--
魯班(ルパン)は大工の神様や棟梁を表す中国語。魯搬とも書く。古代の日本は百済から「露盤博士」を迎えて本格的な寺院の造営に着手した。魯班=露盤です。研究室は保存修復スタジオと自称してますが、OBを含む別働隊「魯班営造学社(アトリエ・ド・ルパン)」を緩やかに組織しています。13は謎の数字、、、ぐふふ。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カレンダー
01 | 2022/02 | 03
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 - - - - -
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR