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崖と建築のヒエロファニー 三徳山《日本遺産》フォーラム(報告7)

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 11月25日(土)に開催した日本遺産《三徳山》フォーラムでは、午前中に40名近い学生が投入堂めざして登山しました。2年生32名を3班(A班・B班・C班)に分け、それぞれに案内人とサポートをつけたのですが、まず雨上がり(時々小雨)状態で足元がわるく、靴底チェックでひっかかり草鞋に履きかえる学生も少なからずあって時間を要しました。3班が時間差をもって登拝を始めたのですが、進行思うにまかせず、先発のA班のみ投入堂到達、2番手のB班は文殊堂まで、最後列のC班は鎖坂の下までとなって、フォーラムにあわせて下山しました。このことを知ったわたしは大変ショックであり、フォーラム中に何度か謝罪しました。今夜は投入堂まで上がったA班の感想をお届けします。なお、今回の登拝にあたっては、入山料・草鞋代の全額を日本遺産の会にご負担いただきまして、ここに記して感謝申し上げます。


厳しい登山に班員の心の距離が縮まった

 私はA班のグループで投入堂までたどり着くことが出来たが、時間がなかったため、急いでの登頂となり、あまり詳しい話を聞くことが出来なかった。登るにあたってその道のりがかなり険しく、ところどころ藁などが地面に敷いてあって、引率の方に話を聞くと、登拝する人が増加してきており、地面が踏み削られることからボランティアで学生や自衛隊の方が補修してくださっていることを知って、あの道に重機などの機械を持ち込むことが出来ないため、人の手によってされていたこと、その労力に感謝しながら登りました。登るまでの最中には自分の力や体感しか頼れるものがないような場所もあり、何度も危ない場所を通るたびに緊張が走りました。自然は人をコミュニティに帰属させる効果を持つことを耳に挟み、登山をしているときにすれ違った人に挨拶や軽い世間話などをしていて、これがその効果なのかと実感しました。また、鐘楼ではA班の班員の一人が代表として鐘を搗いていたのですが、今までの登りに対する疲れも相まってしみじみと音を楽しみました。投入堂の手前には社のような小振りの建物(元結掛堂)があり、そこに住職が自分の髷、髪の毛を納めることを知りました。登る道のりは険しく大変なものでしたが、たどり着いた時の感動はすさまじく、はじめはあまり会話の少なかった班であったが、一気に心の距離が近づいたことを感じました。投入堂がどのようにして建ったのかがわからず、解明してほしいと思いながら下山しました。今回の登拝でははじめに述べたように、あまり詳しい説明を聞くことが出来なかったけれども、フォーラムでの説明で実物を見たことによってより興味を持ち集中して拝聴することが出来、次は夏に草履をはいて登ってみたいと思いました。(A班班長1AR)


1125三徳A班01投入01


修行者はこんな怖い想いを乗り越えて特殊な力を手に入れたのか

 三徳山や周囲の山の紅葉がとても綺麗でした。また、登山道やその側など簡単に見えるところに両手を広げたほどの直径の杉が生えているのを見かけました。信仰や修行の場として、手入れはされているが最低限で、伐採とかはないため、植物の種類が多く自然が守られているなと思いました。歩きやすい道ではなく、岩や入り組んだ根を足場にしたり手を使ったりして進んでいき、自然の険しさを感じました。落ちて死ぬのではないかと怖くて登れなかったため、私が行けたのは鎖坂の前までです。修行者は臨死体験をしていたそうですが、このような経験を繰り返し、乗り越えていたなら、実際に何か特殊な力を手に入れられたのかもしれません。文殊堂を見上げて、材料を持ってきたとしても山の木を使ったとしても、どうやって建てたのか不思議に思いました。投入堂まで行けなくて残念だったので、次は晴れた日に荷物を減らして挑戦したいです。(8IK)

鳥取学で学んでから是非行ってみたいと思っていた

 私たちの班は、投入堂までたどり着くことができた。着くまでの道のりはとても険しくて怖くて何度も引き返したくなったけれど、同
じ班の子たちと励ましあったり、案内してくださったガイドさんに励まされながら、登りきることはできた。登っている途中も、ガイドさんがうまく登れる方法や気を付ける点、お寺の説明などをたくさんしてくださり、たくさんのことを学ぶことができた。実際に投入堂を見た時、迫力があって感動した。本当に崖の上に立っていて、当時の建築技術者の発想の独特さに驚いた。修復作業は、がけ下からレールを敷いて行っているということを聞いた。たどり着くまでと下山はとても大変だったけれど、登ることができてとても達成感があった。鳥取学で習ってから、ぜひ行ってみたいと思っていたので、実際に行くことができてよかった。(10IR)

ずぶ濡れ、泥だらけになった最高の達成感

 私は鳥取市で生まれ育ったが、三徳山の登山は初であった。小雨で、足元も悪い中での演習だった。特に、自分は靴のチェックで草鞋に履き替えさせられての登山で、最初は正直消極的な姿勢で臨んでしまった。しかし、私たちの班は、投入堂まで登ることができた。ここ最近では、最高の達成感であった。手足がずぶ濡れ、泥だらけになりながらであったが、心の底から参加してよかったと感じる瞬間であった。それは恐らく私だけでなく、班員皆が感じていたことだろう。皆最初は文句を言いながらであったが、最後には笑顔でお互いを称えあい、友情も感じることができた。とても良い機会を与えてくださって、感謝の気持ちでいっぱいです。(13ID)


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崖と建築のヒエロファニー 三徳山《日本遺産》フォーラム(報告6)

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アップルパイ&シェイクで朝ブレイク

 11月26日(日)、崖シリーズ3日間の最終日となった。わたしは前日、後遺症を考慮して三徳山に登らなかった。あの根っこだらけの坂道や鎖坂はもう無理だと諦めている。自分の感覚でそう分かる。しかし、この日は摩尼山に登ることに決めていた。摩尼山なら、まだ登れるかもしれない。それは甘い目測かもしれないが、なにぶん同行者が多いので誰か助けてくれるだろうと思っていた。補助者がいても三徳山は容易くないが、摩尼山はぎりぎり行けるだろうという思惑である。だとしても、おそらくこれが最後の摩尼登拝になるという仄かな覚悟も内に秘めていた。生死に係る杞憂というほどではもちろんないけれども、補助者なしでは登れない状態で、再度登山の意欲が湧かないだろうと漠然と考えていたのである。それにしても、2日間の活動ですでに疲れが溜まっていた。体を一度休めたい。


1126mani00門前の説明


 そうだ、エガチャンネルのマックシェイクとアップルパイでブレイクしよう。10時に鳥取駅で全員集合した後、ただちに駅南のマクドナルドに移動し、かのブリーフ団が推薦しエガちゃんが絶賛した高級スィーツを注文した。熱々のアップルパイに冷えたマックシェイクを絡ませる作法は、環境大も筑波大も台湾人もブータン人も知らなかったが、全員満足してくれたようだ。とりわけ留学生たちは留学先で日々の食事に満足していないので、鳥取で口にする何もかも美味しく感じたらしい。マックのアップルパイごときに「美味しい」と言ってくれて、嬉しくあるはずもないけれども、まずはみんなで休んで雑談できたことが何より良かった。


1126摩尼01木橋01 1126mani01橋01


摩尼寺門前の親子

 摩尼山の門前に着くと、岡垣親子が待っていた。この日は奥さんが日曜出勤のため、若い父親が3人の子供を連れていた。上の二人は自分で歩けるが、下一人はまだ2歳だからオンブに抱っこが必要である。そうして山を上下するというのだから大したものである。旧参道に入り、まずは摩尼川源流に架かる木橋に至る。一段と滑りやすくなっていって、みな一歩ずつゆっくり渡ったが、自信たっぷりのドルジ君が転びそうになったのは可笑しかった。その後、しばらく道は失われていた。落石、洪水、雪、なんでもありの状態で、川と道の区別がつかなくなっている。以前はこんなことはなかったのに。わたしは山形の立石寺で買った杖をついて自力で登っていった。まだ、傾斜は緩かったが二度ばかり転んだ。そうして4度休み、奥の院と福部に分かれる三叉路まで辿り着いた。そこから奥の院にあがるヘアピンカーブは傾斜がきつく、滑りやすい。ここから、わたしはドルジ君にサポートを依頼した。手を引いてもらったのである。手を引いてもらわなければ上に進めなかい、時間がかかると判断した。おかげてヘアピンの斜路を登り切った。


1126mani01消えた山道 1126摩尼02円仁の札01


ボクシングジム山道巡り以来の「奥の院」

 11時半ころ、奥の院に着いた。いったい何年ぶりだろう。記憶を辿ってブログを検索すると、2019年9月、シュガーナックルボクシングジムの「摩尼寺護摩焚き・山道巡り」に山道案内係として参加して以来だと分かった。大勢の子どもと父兄が参加した。あのときは谷さんがいて、子どもの扱いが上手かったのをよく覚えている。それでも4年前か。62歳、まだ元気だった。夏休みにブータン、四川高原を訪問した直後の摩尼登山であり、その後11月には、中国の建国70周年で2週連続、学会シンポに呼ばれた年でもある。その2週めの福州大学科技史シンポから帰国した11月末、体調がおかしくなった。重い風邪のような症状だった。今だから言えるけれども、あれはコロナだったのではないか。中国でコロナ騒動が始まったのは12月からだったが、その直前のことである。その後の本格的なコロナ禍で私の人生は軌道がおかしくなってしまったが、今年5月の入院が禊になったような気がする。退院後の人生を好転させた福の神は「なまず」である。間違いない。魚類学ゼミの水槽を礼拝しないとバチがあたる。なまずは帝釈天だ。


1126摩尼03奥の院01ハチの巣01


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崖と建築のヒエロファニー 三徳山《日本遺産》フォーラム(報告5)

三徳山(東)スライド9 スライド9


3.ボン教の隠里ベンジ村

 続いてトンサ地区の山村、ベンジ村を紹介する。村人が共有する伝説がある。8世紀後半、吐蕃の版図を最大にした仏教王ティソン・デツェンには3人の息子がいた。王はボン教から仏教へと国教の舵を切り、国民の仏教への帰依を求めた。王の二人の息子もそれに従ったのだが、一番下の息子だけはどうしてもボン教を捨てられない。そこで、王は「おまえはラサでは生きられない。遠くに逃げろ」と命令する。その末っ子の王子が落ちのびて居着いた場所がベンジだということである。
 ベンジ村に着いてすぐ、「明日は祭りがあるから、今日はボンの旗を立て替える」というので、さっそく見にいった。仏教の経典旗とは全然違う綿帽子の旗を立てる過程と儀式を見学した。勢いよく焼酎アラッを旗竿や周囲に撒き、自らも呑む。その高台からは、流域の守護神ムクツェンンの棲む山を遥拝できる。また、高台と地主邸宅の中間には、やはりボンの旗を立てた広場があり、ムクツェンの山から飛来する天女が腰掛ける石の椅子がある。ここはダンスの舞台にもなるそうだ。


三徳山(東)スライド10 スライド10


 ベンジ村にはカーストが今も残っており、旧封建領主の地主の邸宅をナグツァンと言う。ここはゲストハウスでもあり、わたしたちも3階の部屋に寝泊まりして調査した。母系の大家族がここに暮らしており、近隣の親戚もしばしば集まって法要し、食事する。3階の中央間は仏教寺院の本堂とみまがうほど立派な仏間である。90歳を過ぎたおばあちゃんは、毎日何時間もここで読経している。


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 ベンジ村でも、仏間以上に、仏間の奥にあるギョンカンが重要である。そこには、守護神ムクツェンが祀られているが、偶像ではなく、ご神体が厨子の向こうに隠されているようである。ただし、ムクツェンの用心棒カタップの等身大の立像が左奥の隅にあって祭壇を守護しているので、暗い部屋全体のおどろおどろしさはクブン寺以上に迫力がある。


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 わたしたちがナグツァンに滞在したとき、姪の女性が手伝いにきていた。その女性は近々アメリカに移住することになっており、ビザ取得が順調に運ぶことを願って、僧侶を3名招き、ギョンカンで祈りの読経を続けた。ギョンカンの祭りはボンもしくは非仏教系のはずだが、司祭を仏僧が務める点には注目すべきであろう。こういうところに、土着宗教に配慮した「仏教のチベット化」を読み取ることができる。ムクツェンはボン教にも仏教の祭祀対象にもなるが、村人はボン教の神として崇めているとナグツァンの主人は教えてくれた。
 ベンジ村では、仏教は悟りと係る高尚な哲学として捉え、自分たちの生活とはやや切り離して考えている。一方、ボン教的なムクツェンへの祈りは、日常生活にご利益をもたらし、厄災を遠ざける必要不可欠の存在とみなしている。


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崖と建築のヒエロファニー 三徳山《日本遺産》フォーラム(報告4)

三徳山(東)スライド1 スライド1
 

 こんにちは、大学院M2の滅私です。11月25日(土)、三佛寺本堂で開催されたフォーラム「崖と建築のヒエロファニー」で、わたしもスピーチさせていただきました。教授の後を受けた3番バッターです。ブータンの非仏教/前仏教系信仰に関する問題は難解であり、教授には前日午後までパワポ作成の指導をしていただきました。心より感謝申し上げます。当日の発表概要を報告させていただきます。

題目: ブータンにおけるボン教/非仏教系の遺産-クブン寺とベンジ村を中心に-
     Some Heritages of Bonism or non-Buddhism in Bhutan
      - Mainly focused on Kubum Monastery and Bemji Village -  



 いま教授が最後に述べられたように、ブータンを含むチベット仏教圏においては、非仏教系の土着信仰が盛んであり、それを仏教側が仏教と矛盾しないように、うまくコントロールしていると考えられる。わたしは、昨年12月今年9月の調査に連続して参加し、非仏教系の信仰が、予想をはるかに超えて強力であることに衝撃を受け、その問題を主題にして修士論文に取り組んでいる。今回は、その中間報告である。ボン教は仏教以前から存在するヒマラヤ土着の宗教と言われているが、その実態と変遷は複雑で曖昧である。つい最近、この問題に係る新しい論考が発表されたので、今日は皆様に最新の動向をお知らせする。


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1.ボン教または非仏教系信仰
 
 12世紀にチベット語で書かれた『デンパの布告』は、7~9世紀の吐蕃王朝時代にあって、仏教がチベットに伝わった経緯と理由を、ボン教の視点から語った最古の記録である。その記録の全文がこのたびクバーネとマーチンによって現代文に翻訳された(Kvaerne and Martin 2023)。その翻訳によれば、ボン教は10~11世紀に中央チベットで生まれ、チベットにおける仏教の後継者たる立場をとっていたが、その信者たちは仏教徒ではなく、仏教以前からチベットで何世紀にもわたってこの宗教(の前身)を信仰してきたようである。クバーネとマーチンは翻訳書の序文で、ボンの時期区分を示している。すなわち、

 1)7~9世紀の吐蕃王朝とその直後、チベット高原において行われていた、体系性に欠ける非仏教的信仰
 2)10~11世紀における地域レベルの信仰
 3)上記1)、2)からの諸要素を取り入れながらも、仏教的思考を大々的に借用し、僧院制度も整え、自らを「ユンドゥン・ボン(永遠のボン)」と称した宗教
 4)現在でもヒマラヤ山脈の辺境地域で行われており、「ボン」と称される信仰

 一方、フラソワズ・ポマレによると、現代ブータンでは、厳密な歴史学/哲学的定義とは異なり、非仏教系の信仰ならば概括的に「ボン」と呼ぶ傾向がある、としている(Pommaret 2014)


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 ブータン史の大家、カルマ・プンツォ博士も大著『ブータンの歴史』(Karma Phuntsho 2014)で前仏教/非仏教系信仰をボンと混同する傾向に懸念を示している。今年の9月にティンプーでカルマ博士と面談する機会があり、その際、ボン教と他の非仏教系信仰との違いを訊ねてみた。カルマ博士は、以下のように分類している。

 ①ボン: ネパールなどで行われている宗教。ブータンの場合、ポプジカのクブン寺がこのタイプだったが、仏教に改宗した。
 ②ヒマラヤ山麓の広域的守護神(ゲンイェン神、ゲンポー神等)
 ③ブータン国内のローカルな守護神(チュンドゥ神、ムクツェン神等)

 この場合、①のボンと②③の守護神は区別すべきだが、重なる部分もなくはない、ということである。カルマ博士のいう②③などの土着的守護神は、クバーネ&マーチンの4)に該当するのか否かも厳密には分からない。このように複雑だが、「分からない」を連発するだけでは何も生まれないので、わたしは自分たちが見聞きした事例を正確に記述し、報告するだけだと考えている。歴史的ではなく、現在学的/民族誌的な記述をめざす。


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崖と建築のヒエロファニー 三徳山《日本遺産》フォーラム(報告3)

1125三仏寺本堂前記念写真01 クリック拡大


講演2)瞑想・礼拝と他界-日本・中国・ブータンの崖寺

 投入堂登拝で苦戦した学生たちに謝罪した後、スピーチを開始した。チラシでは、わたしは前半の4番目、大ラスを予定していたが、発表用のパワポが集まるにつれ、全体のイントロとして自らスピーチしなければならないだろうと考えを改めた。まず「ヒエロファニー」とは何か、について語る必要がある。宗教学ではあまりにも有名なエリアーデの分析概念も、知らぬ人は知らぬのだから概説なしでは済まされないし、「アジア的視座」という部分も、たぶんわたし以外では語れないだろう。そう思って事務局と協議し、開催1週間前に打順変更。1番バッターを務めることに改めたのだが、天候に伴う登山の進捗が影響して2番目のスピーチとなった。講演の構成は以下のとおり。

  0.ヒエロファニーの諸相
  1.蔵王権現の宮室「投入堂」 -崖と懸造り
  2.中国に投入堂の源流を探る -崖か岩陰か
  3.ブータンの崖寺と瞑想洞穴
  4.仏教のチベット化/ブータン化/日本化

とくに言いたかったことを簡単にまとめておく。


スライド1ヒエロ スライド4ヒエロ


崖の紫宸殿-投入堂

 三佛寺投入堂の屋根形式が同時代(平安後期)の「平安宮紫宸殿」に似ている問題。とくに落棟(おちむね)の屋根形式は年中行事絵巻に描く紫宸殿とそっくりだと言われる。これは素直に投入堂を、崖の「内裏正殿」と捉えればよい。修験道の本尊「蔵王権現」が巌を切り裂いて出現し尋常でない法力を発揮するという特性に注目するならば、崖の向こうから此岸にあらわれた蔵王権現の宮室(神殿)が投入堂だと解釈される。だからこそ、投入堂は紫宸殿を圧縮した姿をしているのであって、おそらくその建物は丹塗りされていたであろう。この場合、崖の向こうは彼岸であり、崖は彼岸と此岸とを隔てる分厚い境界壁という言い方ができるだろう。


スライド17内裏 スライド18内裏 スライド19起源


 次に年代と源流の問題。とくに九州で比較的大型の掛け屋や懸造りの類が目立つようになるのは、九州で摩崖仏が増える平安後期~鎌倉初期とほぼ一致する。春日造のような小振りな建物は別にして、比較的大がかりな懸造りは摩崖仏の掛け屋としての発生的意味があるのではないか。これを中国側からみると、北宋末・南宋・元初の時期にあたる。12~13世紀、遼や元などの北方騎馬遊牧民族の国家的勢力が宋の漢民族を圧迫し、海外への亡命を招く時代である。大仏様のフィクサー陳和卿、鎌倉に純粋禅の道場を開いた蘭渓道隆(建長寺)や無学祖元(円覚寺)などは皆そういう漢人移住者である。こうした中央での動きと呼応するように、九州では摩崖仏の造営が進み、その覆屋としての掛け屋・懸造りが発達した可能性があると想像している。ただ、この動きと三佛寺投入堂は連動していない。投入堂のほうが一段階古いことは間違いなく、今のところ「蔵王権現の宮室」以外理解しようがない。


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チベット(日本)で仏教がチベット(日本)化した

 ブータンにおける瞑想、とりわけ悟りを開くための白壁洞穴での瞑想は、鳥葬場と近い位置関係にもあり、あの世への入口ともみなしうる。まず第一に、鳥葬は遊牧民的ではあるかもしれないが、仏教的ではないようにみえる。あまりにも残酷すぎる。
 ブータンの瞑想洞穴ドラフは、非常に危険な岩崖にある。悟りをめざす白壁の洞穴では、一日2回の軽食をとるだけのぎりぎりの状態に身を置く。自らを生と死の境において一種の臨死体験を続けていると考えられる。そこで生と死の境を体験し、無意識のなかで「生きるも死ぬも一つ」という認識を自覚できるようにすることが悟りへの道だとわたしは思っている。いわば、生の側にありながら死の側を覗きみる行だと言えようが、チベット仏教の場合、輪廻が大きな問題となる。これについては、今枝先生[Imaeda 2010]が革新的な見方をされているので、不十分な理解かもしれないが、ここに紹介させていただく。


スライド22ブータン スライド33ブータン スライド34ブータン


 たとえば仏教側は、仏教思想と矛盾する「生け贄」の代替を提案するなど、従来の葬送儀礼を否定することなく、土着の方向性をそのまま残すよう努めた。しかしながら、人間世界への輪廻は仏教的ではない。もういちど別の人間に生まれ変わっても、煩悩や苦しみの繰り返しであり、悟りを開いたことにはならないからである。これを仏教的にしようとすると、死者はブッダの住む超越的世界に再生し苦しみのサイクルから逃れる必要がある。通常の輪廻のサイクルに加えて、こういう超越的世界への指向を加えることで輪廻は仏教的に変化する。つまり鳥葬がそうであるように、輪廻もまた前仏教的な土着の思想であり、仏教側はそれを勢い否定することなく、うまく調整して仏教化していったと考えられる。これを先生は、以下のようにまとめている。

  チベットが「仏教化」したのではなく、仏教がチベットで「チベット化」した。
  (略)チベット仏教の歴史とは、チベットという天才が仏教という宗教を通して
  表現した本来の姿の歴史である。

IMAEDA Yoshiro (2010) The /Bar do thos grol/, or ‘The Tibetan Book of the Dead’: Tibetan Conversion to Buddhism or Tibetanisation of Buddhism?. In: Matthew T. Kapstein and Sam van Schaik (eds), /Esoteric Buddhism at Dunhuang/ Leiden: Brill,pp.143-158.


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崖と建築のヒエロファニー 三徳山《日本遺産》フォーラム(報告2)

1125正善院02庭園02 正善院の庭


三徳山入山許可も履物で駄目だし連発!

 11月25日(土)。ついにこの日を迎えた。大学で推薦入試をやっているその日に、投入堂登拝とフォーラムをやるというので、ホワイトアイに晒されているらしいが、正直申し上げてホワイトアイは毎度のことなので、ここは誇りをもって、教育と研究に邁進するしかない。朝8時半に鳥取駅南口に着くと、大型バスはすでに待機していたが、学生の姿はまだみえなかった。懸案の天気は快方に向かっている。しかし風が冷たくて、近くのコンビニまで軍手とホッカイロを買いにいった。軍手の効果は大きい。


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 まもなく続々と2年履修生(人間環境実習・演習A)などが集まってきて、予定どおり、9時に大型バスは出発した。わたしは留学生等を乗せて自家用車で三朝へ。山陰道の泊・東郷から地道に下りると、三徳山はとても近くなっている。きっかり10時には登山口に着いた。大型バスも駐車場に着いていたが、なにせ大所帯である。A・B・C各班長の点呼、トイレなどでやや時間を使った。天気は三朝の山沿では曇り、ついさきほどまで小雨が降っていたようで、路面は湿っている。しかし、登山の許可は下りた。ただ、履物の問題が露呈する。予め何度も、履物には十分注意せよ、と指示しておいたのに、靴底ペラペラのスニーカー系が非常に多く、入山条件をクリアできなかった。その学生たちは、「登山しなくていいんだ」という気分に傾いていたが、「有料の草鞋に履き替えて登ってきなさい!」と鼓舞した。ここで有料と書いたけれども、入山料500円も草鞋代もすべて日本遺産《三徳山》の会が負担してくださることになった。本当に有難うございます。


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復元「正善院」の初訪問-年代調査の想い出

 わたしには微かな後遺症があって三徳山の登拝は無理だと判断していた。中国語通訳の張くん、三朝町教委の課長さんらとともに本堂に残って会場の設営の仕上げをした。その後、車酔いなどで体調を崩していた学生とともに三佛寺の子院「正善院」を見学した。2012年3月9日に正善院の庫裡が火災で全焼した。その後、文化庁の英断で、史跡・名勝の範囲にある庭と建築がすべて復元されることになり、2013年9月28日にはこれと係る「三徳山シンポジウム」が開催されている。科学的年代測定に手を染めつつあったASALABは、2014年7月9日、残された部材等の絵様の拓本や年輪コアの採取に取り組んだ。そのとき焼け焦げた虹梁の拓本を取ったが、このたび正善院の向拝にかかる虹梁型頭貫をみて、我々の調査成果が活かされていることを知った。みるからに明治の絵様虹梁である。


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表門は焼けていない。庫裏向拝の虹梁型頭貫と同年代


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崖と建築のヒエロファニー 三徳山《日本遺産》フォーラム(報告1)

1124たかや01ドルジ横山 1124たかや01ドルジ横山sam 元P4バイト学生と


若桜のエクスカーション

 11月24日(金)、プレ三徳山のエクスカーションで若桜の不動院岩屋堂を悠々と案内している予定であった。が、わたしはまだパワポを作り続けていた・・・まぁ仕方がない。学内でのプレゼンならいざ知らず、一般の文化財愛好者を前にして標準レベル以下の内容を露呈するわけにはいかないのである。それなりの対応をするしかない。筑波一行は予定どおり空港に到着してリムジンで鳥取駅をめざし、岡山から来鳥するドルジ君と迎えの滅私くんに合流した。そこで、作業中の下宿にいったん集合してもらうことにした。11時になっても、まだパワポはできていなかったが、全員でそば切り「たかや」をめざした。5人中4人はわたしと同じ辛みおろし(冷)を注文し、ドルジ君だけは季節限定「きのこ蕎麦」(温)を注文した。


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 みな美味しいと言ってくれてうれしかった。昼食後、わたしは下宿に戻ってパワポづくりの詰めを再開した。残る4名は滅私車で不動院岩屋堂をめざす。案内人はいないが、この方法以外選択の余地はなかった。午後2時半ころ、ようやくパワポが完成し、事務局にデータを送信した。そして、若桜行のメンバーに電話したところ、「やはり先生が必要だ」との返答を受けた。たとえば?と訊ねた。岩屋神社の拝殿の奥に本殿らしい建物が2棟建っていたんですが、あれはなぜですか・・・という。


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崖と建築のヒエロファニー 三徳山《日本遺産》フォーラム(予報5)

三徳山フォーラムチラシ(最終校⑤)_圧縮 クリックすると拡大。チラシ文字を鮮明に読み取れます


ボンの煩悩

 日本遺産《三徳山》フォーラム「崖と建築のヒエロファニー:そのアジア的視座」が2日後(11月25日午後)に迫ってきました。わたしはすでに講演のパワポを仕上げています。国際的なフォーラムですので、少々英文を混ぜました。問題は院生でしてね。院生は昨年12月(第9次)と今年9月(第10次)の調査に連続して参加し、非仏教系信仰に対する予想をはるかに超えた信心深さに衝撃を受け、ボン教などブータンの非仏教系宗教/信仰を主題に修士論文に取り組んでいます。三徳山フォーラムでは、その中間成果を報告することとなります。この場合、とくにボンの理解が非常に厄介です。ここでは、現状でASALABが理解するボンの概念等について整理しておきます。

ボンの時期区分

 ブータンを含むチベット仏教圏においては、非仏教系の土着信仰が歴史を通して盛んであり、それを仏教側が仏教と矛盾しないように、うまくコントロールしている状態にあると考えます。ボン教は仏教以前から存在するヒマラヤ土着の宗教とされますが、その実態と変遷は複雑で曖昧です。気軽に「ボン」という言葉を使っても、その実像からかけ離れてしまいかねない恐れが小さくありません。ASALABで、最初にボン教研究に取り組んだのは藤井鈴花さんでした。コロナ禍が始まった2020年度、多くの文献を渉猟して卒業論文(藤井[浅川指導]2021)を著しました。ここでは、ボン教を以下の3期に区分しています。

 推定Ⅰ期: 7世紀の仏教導入以前に中央アジアに広く分布していた原始「シバ・ボン(斯巴笨)」の時期。
 推定Ⅱ期: 8世紀にチベット・ブータンにインドから後期密教がもたらされ、ボン教とニンマ派仏教が併存しており、互いに影響を与えあっていた時期。
 推定Ⅲ期:11世紀以降、チベットで仏教諸派が林立しており、ボン教もその覇権争いに加わることで、逆に仏教化が著しく進む。いわゆる「ユンドゥン・ボン(雍仲笨)」の時期。

 いまインド、ネパール、中国などで勢力を誇るボン教寺院は推定Ⅲ期のユンドゥン・ボン(永遠のボン)の拠点ですが、実際のところは、仏教の一派と言ってもおかしくないグループです。一方、ブータンにおけるボン教の伝統は細々としたものでした。それでも11~12世紀には、埋蔵されたボン教の経典や宝物が続々と発見され、発見者には「テルトン」の称号が与えられました。それらテルトンによりボン教寺院がわずかながら創建されたようですが、徐々に仏教寺院に改宗され、いまは痕跡を辿るのが難しくなっています。フォーラムで紹介するポプジカのクブン寺は仏笨習合の例外的存在です。
 なお、同じポプジカにあるガンテ寺仏教大学のケンポー・ワンチュク校長によると、ボンにはより原始的な「黒ボン」と仏教的な「白ボン」があって、白ボンは評価できるが、黒ボンは良くないと指摘されました。察するに、黒ボンがシバ・ボン、白ボンがユンドゥン・ボンにあたるのだろう、と思いましたが、実際はよく理解できていません。ただ、ボン教には白黒の双子の神話があります。「世界の起源は2つの白黒の光線または卵から誕生した双子であり、白い卵からは神と人間の父が生まれ、黒い卵からは悪魔と破壊の父が生まれた」という伝承です。

 今枝由郎先生は以前から「ボン教という宗教はない。あれはチベット仏教ボン派だ」と一刀両断でして、仏僧の語る「黒ボン」「白ボン」などの概念も学術的には意味がないと切り捨てておられます。そして最近、きわめて重要な論考であるとして、P・クヴァーン&D・マーティンの最新作『デンパの布告ーチベットにおけるボン教の興隆と衰退』(Kvaerne/Martin 2023)をご紹介いただきました。
Per Kvaerne and Dan Martin(2023) ‟Drenpa's Proclamation: The Rise and Decline of the Bön Religion in Tibet ” Vajra Academic vol.III,. Kathmandu: Vajra Books.

 12世紀に書かれた『デンパの布告』は、吐蕃時代に仏教がチベットに伝わった経緯と理由について、ボン教の視点から語られた最も古いまとまった記録です。その記録の全文がこのたび初めて翻訳されたのです。本書によれば、ボン教は10~11世紀に中央チベットで生まれ、同時期のチベットにおける仏教の「後継」の立場をとってきましたが、その信奉者たちは仏教徒とは異なり、仏教の伝播以前からチベットで何世紀にもわたってこの宗教を信仰してきたようです。『デンパの布告』は12世紀のチベット人が自分たちの祖先の宗教をどのように想定していたのかについてのユニークな洞察や、 宇宙論、神話、儀式に関する豊富な情報が含まれています。


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放送大学面談授業「住まいと建築の古代史」

冬虫夏草で乗り切る集中講義

 来たる12月2~3日(土日)、放送大学の面談授業をおこないます。少人数の講義で嬉しく思っていますが、2日で8コマという強行軍なので、やや体力が心配されます。冬虫夏草で乗り切ろうと思います。

[科目コード] 2633400  [実施場所] 放送大学鳥取学習センター (31A)
[科目名] 住まいと建築の古代史」 [専門科目] 人間と文化 [定員]30名
[担当講師] 浅川 滋男 (公立鳥取環境大学・教授)
[実施日時] 2023年12月02日(土)~03日(日)8コマ集中
 第1限 09:50~11:20 第2限 11:30~13:00 第3限 14:00~15:30 第4限 15:40~17:10

【授業内容】 狩猟採集を基盤とする旧石器・縄文時代から、農耕定住的な弥生・古墳時代を経て、律令と都城制の支配する奈良・平安時代に至る建築の変遷を読み解きます。中国・朝鮮半島やチベット・ブータンなどの話題も含めて日本の住まいと建築の特質を際立たせます。最後に、国際的な文化遺産保護の視点から日本の遺跡整備の功罪についても論じます。

【授業テーマ】 住まいと建築の古代史
 第1回 住居の起源-旧石器/縄文建築論
 第2回 倭人伝と卑弥呼の建築世界-宮室・邸閣・楼観
 第3回 天空の神殿-出雲大社の神話世界
 第4回 東アジアの古代都城-長安城と平城京
 第5回 白鳳と天平の甍-飛鳥寺から唐招提寺まで
 第6回 平安密教と山林寺院-宝塔・多宝塔と三仏寺投入堂
 第7回 極楽浄土の伽藍と庭園-平等院と平泉
 第8回 遺跡整備と復元建物-ヴェニス憲章から奈良ドキュメントへ


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さよなら、みちくさの駅(1)

20211111みちくさの駅(P4)02内部01 20211111みちくさの駅(P4)外観 2021年P4


「みちくさの駅」をめぐる福原と母と私の輪廻

 今年の6月ころだったと思うのですが、岡山県境に近い智頭町福原のそばカフェ「みちくさの駅」から葉書が届き、鳥取道(高速姫鳥線)の補修・拡張工事のため店を閉めるというので仰天しました。福原出身の店主は京都のゼネコンで働いていた一級建築士で、わたしと同い年。脱サラとともに帰郷し、福原パーキングエリア(PA)内の「道の駅」の運営をめざしていたのですが叶わず、自らの設計でPAに近接する敷地に「みちくさの駅」を建設して奥様とともに経営をスタートされました。
 開店まもなく高速道路から目につく山小屋のような建物を目にしたわたしは、蕎麦狂でもありますので、喜々として店をひやかすことになります。そこで口にしたソバは高地寒冷の清涼さに溢れ、一級建築士の作と思えぬほど美味しい。以来常連客の一人となり、しばしば演習授業の会場にもさせていただきました。とくに思い出深いのは、昨年のお盆に母の七周忌を営むにあたって、一次会は河原の「菊乃屋」の鮎づくし、二次会は「みちくさの駅」の蕎麦づくし(ソバ・ワッフル・ガレット等)にしたときのことです。河原は父母とともに18歳まで育った町であり、福原は母の故郷だったのです。幼少のころ盆になると、母に連れられて福原の墓参りに行った経験があり、本家で柿の葉寿司をいただいたり、付近の渓流で泳いだりしていました。店主の苗字と母の実家の苗字は同じ藤原で、母の七周忌に際し、店主はわざわざ母方の墓を探しあて、我々一行を案内してくださいました。その墓地で「浅川たみ子」の名を刻む石灯籠を発見したときは幻覚をみているようでした。こんなところで、自分の歴史の一部に出会うなんて。しかも、よくよく考えてみると、母の亡くなった2016年は「みちくさの駅」誕生の年であり、まるで輪廻のような因果を感じます。


20211111みちくさの駅(P4)02内部02講義風景01 20211111みちくさの駅(P4)03ガレット01 2021年P4 ガレット


「みちくさの駅」送別講演会

 「みちくさの駅」の送別会を12月にやりたい、と思うようになり、その旨を店主と奥様に伝えました。最初は音楽会でもするか、と考えていましたが、いややはり研究室らしいのは講演会だろうと思い直し、以下の会を開きます。

 《イベント名》 「みちくさの駅」送別講演会
 《日時》 2023年12月14日(木)15:30~17:30
  15:30 ごあいさつ(浅川)
  15:35 動画と講和 藤原和寛(みちくさの駅 店主)
      1)動画「笑ってこらえて ダーツの旅」智頭篇抜粋
      2)講話「みちくさの駅」の7年間
  16:10 休憩
  16:20 郷土文化を学ぶ講演鳥取の石造物−獅子と狛犬−
       駒井正明(大阪府文化財センター)
  17:20 コメント 政田孝(公立鳥取環境大学非常勤講師) 
  17:30 閉会
 《聴講》 環境大学P2/P4履修生(18名)・ASALAB有志他

 学生でいっぱいの会ですが、「みちくさの駅」に愛着のある方は一声かけてください。最後の店主の講話ですので、ご希望者には席を用意します。よろしくお願いします。


P1440800(智頭町金刀比羅神社)sam P1440807(智頭町金刀比羅神社)sam 智頭町金刀比羅神社


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崖と建築のヒエロファニー 三徳山《日本遺産》フォーラム(予報4)

蔵王権現(三朝) 蔵王権立像(木材伐採年代 945~1165年)宝物殿


雨天の場合の参観計画

 11月25日(土)の日本遺産《三徳山》フォーラム「崖と建築のヒエロファニー」が近づいてきました。当日午前には、2年次「人間環境実習・演習A」の履修生と留学生が投入堂の登拝をしますが、雨天の場合、登拝を中止し、正善院・宝物殿・遙拝所をめぐるツアーに変更します。三朝町教委のご尽力でこのツアーが成就することになり、そのスケジュールが送られてきましたので、大学関係者はご参照ください。

【雨天時】1125三徳山周遊計画001

晴男の天気予報対策

 ネットで天気予報を調べてみましたが、あまり良い気候状況にはないようです。わたしは晴男なのですが、さすがに歩行に難のある体調で三徳山は厳しい。摩尼山はなんとか踏ん張ろうと思っているのですが、三徳山にも登ると決意しないことには晴れないかもしれないな。要検討です。
 
 11月20日(月)雨のち曇り(降水確率50%)東日本在住匿名考古学者三徳山へ
 11月21日(火)晴時々曇(0%) 同上考古学者摩尼山へ
 11月22日(水)晴時々曇(0%)ゼミで準備
 11月23日(木=勤労感謝の日)曇一時雨(50%) 
 11月24日(金) 雨時々雪(80%)不動院岩屋堂外観は見学可能
 11月25日(土)曇時々雪(60%) 投入堂登拝可能か。不可の場合、三施設参観
 11月26日(日)曇(40%) 摩尼山登山可能か

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ノビタのなまず放浪記(1)ー埼玉県吉川

【写真1】吉川市発行のグルメガイド。②~④が面している道路が葛飾吉川松伏線である。 【写真1】吉川市のグルメガイド。②~④の面している道路が葛飾吉川松伏線


 研究室OBのノビタです。この春から故郷鳥取を離れ、千葉に引っ越しました。埼玉がナマズで地域振興しているから是非とも食レポしてほしいと、春から教授に依頼されておりました。5月20日(土)、ちょうど教授が入院中でしたが、なまず料理を食しに埼玉県吉川市へ出かけました。なまず料理はかつてASALABで米子に宿泊した際、駅前の居酒屋「庄や」で食して以来です。「庄や」で提供していたなまずは清流日野川で店主が捕獲した天然物でしたが、現在は代が変わって提供されなくなっていることもあり、再びなまず料理を食せる事は楽しみでありました。


【写真2】「割烹 ますや」外観 【写真2】割烹ますや(吉川市)


なまずをめざして吉川へ

 私の住むアパートから吉川市へは電車で乗り換えせずに35分程と比較的近い。電車に揺られ、その心地よさから吉川駅を乗り過ごし、吉川駅へ降り立ったのは10時35分ころ、その第一印象になまずの要素は全く感じられなかった。吉川市となまずの関係であるが、市のホームページによれば、江戸時代まで遡るという。西側を中川、東を江戸川に挟まれた吉川では、河川交通が発達し、それに伴い川魚料理の文化が根付いたそうだ。かつては「吉川に来て、なまず、うなぎ食わずなかれ」と言われたそうで、新選組の近藤勇をはじめ、元総理大臣福田赴夫、同中曽根康弘らが吉川に来て食したという。河岸付近には料亭が軒を連ねたというが、現在でもなまず料理を食べられる店が中川に近い葛飾吉川松伏線の沿線に集中しているのはその名残りであろう【写真1】。今回は「割烹ますや」【写真2】を訪れた。ここを選んだ理由は、店構えが一見(いちげん)や単身でも入りやすそうだからという至極単純な理由である。


【写真4】 【写真3 】 【写真5】 左から【写真3】料亭の広告、【写真4】市の看板、【写真5】なまずがデザインされたマンホール蓋

 駅から店までは徒歩でも行ける距離であり、ますやまで歩いていくと、電柱に掲げてある料亭の広告【写真3】や市の看板【写真4】、なまずがデザインされたマンホールのふた【写真5】など、各所でなまず料理を推している事を目にすることができた。

割烹ますやのなまず御膳と刺身

 さて、割烹ますやに入りメニューを一覧する。メインはやはりなまず料理であり、一品料理をとっても、なまずの刺身から蒲焼までバリエーションは豊富である。私は財布と相談の結果、なまず御膳と刺身を注文した。膳はなまずの天ぷら、たたき揚げ、南蛮漬け、ごはん、味噌汁、香の物となっており、これで2,100円、刺身は単品で870円(いずれも税込価格)。「少し時間をいただきます」との事であったが、予想より早く料理はテーブルに届いた【写真6・7】。私としてはおよそ20分という非常に長い時間をかけてゆっくり味わいながら刺身と膳を平らげたが、強い興味をもったのは刺身以外の料理だった。
 まず、天ぷらは少し冷めてはいたものの、非常にふっくらとして、咀嚼するとはらはらと口の中でこぼれるほど柔らかかった。海魚のそれでもここまでふっくらとしたものにはなかなか出会えないではないだろうか。自分の中で比較するならば、鱚(キス)よりもふっくらしていたと感じた。


【写真6】 【写真7】
左:なまず御膳【写真6】、右:ナマズ刺身【写真7】(ますや)


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菅原遺跡報告書批評のための習作(5)

土塔03整備01


大野寺土塔最上層の伏鉢状遺構をめぐって

 その後のやりとりでは、行基の造営とされる土塔(堺市大野寺、727年)に話題がひろがっていった。菅原遺跡から土塔が連想されるのは自然な流れである。ともに行基と関わるモニュメントで、おまけに円形(多角形)の構造物を包摂するからである。2本目のメールを引用抜粋する。
--
大野寺土塔の最上層は、十二層までが方形瓦葺きなので、十三層目も瓦葺き屋根が載るのは間違いないでしょうが、十三層の基礎の粘土ブロックは円形なので、伏鉢状あるいは隋代・唐代の敦煌壁画にあるような亀腹が伸びたような構造物の上に方形ないし八角形の屋根が載るのかなと思いますが、いかがでしょうか。
-- 
 ついに来ました。これを質問できる人、回答できる人が日本に何人いるだろうか。土塔最上層については、暗中模索の悩みの種ではあるけれども、少なくとも、現地に模型復原してあるような、夢殿型八角堂を頂部(13重)に建てるのは似合わないと思い、以下のような構造を夢見ている。
 ①まず13重床面の円形粘土ブロック上に低めの壁を立ち上げ、その上に屋根をかける。
 ②その場合、屋根は下の12層にならって盛土上に瓦直葺きにするしかない。屋根は短く、1段か、3段前後の長さにとどめ、ドーナツ状の裳階のようにみせる。
 ③裳階の熨斗瓦の上に再度露盤状の土をもりあげて伏鉢構造にするが、伏鉢は露出にして相輪を立ち上げる。


土塔01 土塔02頂部 土塔出土状況


 こんなイメージをもっているのだけれども、最大の問題は瓦である。円形屋根に瓦を葺く場合、どうしても天壇風になるので、瓦は台形に造らなければならない。一列なら現場の調整もあるだろうけど、何段か葺き重ねるとなれば、専用の台形瓦が要るのではないか。現場あわせでどこまでやれるか、にかかっている。本瓦の現場あわせで、円錐形屋根を3段前後葺くことができれば、東アジアの匂いを残したインド風立体マンダラの造形になるかもしれない。こういう自分の思いを素直に書き留めたところ、さらに返信があり、①②③は「全く想像もしてなかったのでびっくりしました」が、「たしかに12段以下と雰囲気は合」うという評価を頂戴した。これと関連するのは『行基菩薩行状絵伝』に描かれた土塔であり、頂上に大きな宝珠状のものが載っており、「土饅頭状のものが残っていて継承されていた」可能性があるとのこと。そして、以下のように、平瓦の精査に強い意欲を示された。
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「本瓦の現場あわせで、円錐形屋根を1~2段葺」いていたかどうかは、台形平瓦が存在するかどうかにかかっていると思いますが、台形平瓦の存否については、現場で打ち欠きなら、破断面がある平瓦の総点検が必要ですね。丸瓦・平瓦は、残りが良かったり、作り方が良くわかったりする個体をピックアップする程度で、あまり丹念には見ないので、問題意識をもって総点検する必要があります。
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土塔03整備02模型 12段目までの意匠と最上層の夢殿的八角堂が整合的ではない?(土塔現地模型)

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菅原遺跡報告書批評のための習作(4)

隅切瓦は1981年検出の方形基壇建物と関連づけるべき

 上海講演の論文等をすでに20名以上に配っていて、そのお礼のメールが一通、昨日(13日)届いた。結構有名な西日本の考古学者からである(立石寺に登った匿名希望の考古学者は東日本在住)。菅原遺跡も訪問されている。同遺跡円形建物の復元について、大変示唆に富む指摘があったので、ここに引用させいただく。
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昨日ようやく元興寺でやっている菅原遺跡展を見てきました。あの遺跡が保存できなかったのは返す返すも残念です。円形建物復元のASALAB説と元文研説の相違は多々ありますが、上層の屋根形態を正方形にするか八角形にするかが大きな違いでしょう。建物の復原に関する展示の説明文で理解しがたい点があり、報告書を購入して読んでみましたが、特に屋根形態の根拠は、出土瓦の法量・形態によるとしています。正方形の根拠は45°の隅切り平瓦の存在なんですが、45°の隅切り平瓦は2020年度調査地では出ていないにもかかわらず、1981年の奈良大調査地点の出土瓦(方形基壇建物の周囲で出土)が、2020年調査地点からの流れ込みで、本来2020年度地点で用いられたとみなして立論しています。しかし両地点は50mも離れており、相当無理な話。1981年度地点での45度の隅切り平瓦の出土状況を再検討する必要がありますが、1981年度地点での出土瓦は方形基壇建物の周囲に集中的に出ているようですから、やはり方形基壇建物の屋根に葺かれ、その建物が正方形だったとする根拠に用いるべきでしょう。
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 きわめて論理的で妥当な解釈である。50mも離れた地点で出土した小型瓦(とくに45°の隅切瓦)を円形建物に用いたとするのは甚だ非論理的な恣意的思考であり、1981年度に検出された方形基壇建物で使われたとする見方が普通に正しい。このような正当的意見は今の奈良では例外である。嬉しくて仕方ないので、恐縮ながら、匿名で引用させていただいた。この方形基壇(1981発見)に木造層塔のような方形屋根の建物が建っていた可能性は十分あるだろう。こういうのを「可能性が高い」というのである。木造層塔とは限らないが、方形の二階建以上ならば、隅棟の鬼瓦が6点出土している点についても、なんら問題なく、第一次大極殿で不採用とした「稚児棟」を菅原遺跡円形建物で採用する必要もなくなる。敦煌壁画で稚児棟が描かれているので日本でも使ってよい、といういい加減な根拠をでっちあげるまでもなく、問題は解決するのだ。

 この考古学者は、当方の八角円堂案と隅切瓦の関係も気にかけている。フェアな精神である。
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一つ質問なんですが、八角形屋根の瓦葺の場合、67.5°の隅切り平瓦を作るんでしょうか? 隅棟の熨斗瓦の下に差し込むから角度はアバウトでも良いんでしょうか? 一般の方形屋根でも入母屋、寄棟では、45°にならない場合もあるでしょうから、現場での打ち欠きで適当に作るのかなという気もしますが。
--
 正直にお答えすると、これまで歴史時代の建物を復元するにあたって、隅切瓦の存在をほとんど気にしたことがない。現場あわせでどうにでもなると思っているからか、無頓着でありすぎた点は反省しなければならないが、逆にいうならば、隅切瓦を復元の根拠にした経験がないので、その点でも、元文研が有力な根拠として隅切瓦を持ち出した点、違和感を覚えている。【続】


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古民家カフェと郷土料理のフードスケープ(4)

1102カフェ黒鯛(2年)02スケッチ風景02夕暮れ 1102カフェ黒鯛(2年)02スケッチ風景02 釣べ落し


郡家のカフェ黒田でプロジェクト研究(2年)

 11月2日(木)、第5回プロ研(2年P4)の活動として、郡家の古民家カフェ「カフェ黒田」を訪問し、ミニ講義聴講と古民家スケッチの活動をしました。講義は、先週のP2(1年)と同じく、10月21日に上海で講演したばかりの「古民家再生の新機軸-過疎地に探る居場所のあり方」を2年生にも講じました。課題の問は1年次と似ていますが、やや変えています。

問1 浅川の講義「古民家再生の新軸線」について、以下の視点から内容を記述し、感想を述べなさい。
 (1)古民家再生にあたって考えるべき真実性(オーセンティシティ)と快適性(アメニティ)との関係性
 (2)カール・ベンクス夫妻とクンサン・チョデン夫妻の類似性
 (3)過疎地の「居場所」としての古民家もしくは再生古民家
問2 カフェ黒田を訪問した感想


1102カフェ黒鯛(2年)01 講義室となった書院造の和室


カールさんと大谷翔平くん

 ところで今回、わたしは講義で初めて、大谷翔平くんのことを口にしました。カール・ベンクスという建築家が限界集落で成し遂げたことは、百年に一度の奇跡であり、カールさん以外の人物ではなしえなかったと思っています。内閣総理大臣賞をもらっても奢ることなく、竹所の自治会長を務めている。こんな建築家がいるでしょうか。では、いったい誰に匹敵するほどの人格・業績か考えてみました。ブッダの化身だと言えば、チベット・ブータンでは説得力があるかもしれません。もう少し分かりやすい人物をあげるとしたら、大谷翔平くんであろうと思ったのです。大谷くんは百年に一人出るか出ないかの野球選手だと言われています。人柄もひょうきんでおもしろく、なにより謙虚な人柄に惹かれます。わたしはもう何年も、ほとんど毎日、大谷くんのプレーをテレビでみています。家内もみて喜んでいます。こんなスポーツ選手はちょっといない。ファッションに狂って田舎者丸出しの有名サッカー選手どもが恥ずかしくなる。今日の昼には、久しぶりにカールさんの事務所に電話を入れました。卒論で古民家再生に取りくむ4年生が竹所・松代を訪問したがっているので、秘書の方にスケジュールを訊ね、また上海の講演でカールさんの取り組みを紹介したことを告げ、その後、論文データをメールで送信しました。学生が無事カールさんに会って、叶うならば、カールさん設計のゲストハウスに宿泊できることを祈っています。


1102カフェ黒鯛(2年)02スケッチ風景01 洋風ダイニングにも古い柱が残る


帰るべき故郷としての居場所

 《問1》 (1)古民家再生にあたって考えるべき真実性とは、どれだけ元の古民家の形や材が残っているか、ということである。古民家は現代の建築物に比べると断熱性能などの面でも住みにくい家といえる。そこで、人にとって住みやすい家にするための快適性に重きを置くと、屋根や柱などの家全体の構造も変えていかなければならない。そうなると元の古民家の真実性は失われてしまう。つまり、一般的に快適性を重視するほど真実性は失われていく。古民家を残すということは当時の文化を残すという面で大事にされていくべきものである。しかし、そのままの形で残したとしても人が住んでいけるものではないうえに、その地域の過疎化が深刻になっていくなどの問題をはらんでいる。古民家再生に当たって真実性と快適性のバランスが重要になってくる。この点においてカール・ベンクスさんはすごい人だなと思った。元の家の使える部材や建具を最大的に再利用し、さらにハーフティンバーなどの異なる文化とうまく調和させて快適性の面でも良い家をつくる、ということを成し遂げている。これらの活動が実際に村に人を呼び寄せている、という点もすごいと思った。
 (2)カール・ベンクス夫妻、クンサン・チョデン夫妻のどちらも自分が骨を埋める覚悟をもった大切な居場所に住んでいる点で類似している。また、その居場所のために奮闘しているところもそうだといえる。居場所は自分にとって帰るべき場所(故郷)であり、心の支えともなるものだ。建物としての居場所や存在面での居場所があるが、これらの居場所を持つことは自分にとって大切なことなのだと思った。自分を肯定してくれる存在や心地よいと思う場所は生きていくうえで必要なものだと思う。


1102カフェ黒鯛(2年)02スケッチ風景03 書院造を描く



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古民家カフェと郷土料理のフードスケープ(3)

1026川の畔(1年)00カルピス01 ナマズ屋台景品3
学祭屋台投票第3位(ナマズ天丼)商品授与


用瀬の古民家カフェ「川のHotori」でプロジェクト研究(1年)

 10月26日(木)、第4回プロ研1年の活動として、用瀬の古民家カフェ「川のHotori」を訪問し、ミニ講義聴講と古民家スケッチの活動をしました。講義は、21日に上海で講演したばかりの「古民家再生の新機軸-過疎地に探る居場所のあり方」がプロジェクト研究の内容と関係深いので、そのまま使いました。スライドは中国語(一部日本語併用)ですが、ワードの日本語論文も配付したので理解できたはずです。課題の問は以下のとおり。

問1 講義「古民家再生の新軸線」について、以下の視点から内容を記述し、感想を述べなさい。
 (1)過疎地の「居場所」としての古民家もしくは再生古民家
 (2)古民家再生にあたって考えるべき真実性(オーセンティシティ)と快適性(アメニティ)との関係性
 (3)ブータン民家に露呈している有形文化と無形文化の融合
問2 古民家カフェ「川のHotori」を訪問した感想


1026川の畔(1年)02講義01 1026川の畔(1年)02講義02


おばあちゃんちのギャップ

 《問1》 大変興味深い内容の講義だった。古民家の需要の高さの意外性や、古民家での暮らしなど関心の高い部分はたくさんあったが、中でもカール夫妻の話が一番面白く、印象深かった。ドイツからわざわざ来日して、古民家を自らの手で改修して、なおかつ新しい古民家の形を作り上げていたことが、まず、日本人ですら執り行わないことをドイツ人のお二方がされていてとても素晴らしいと感じた。また、ただ古民家を改修したわけじゃなく、僕が一番に衝撃を受けたのがその場が過疎化しており、周りに人もいない中でそんな活動をされた結果周りに人を呼んだことである。お二人が作り上げた新しい古民家が新たな居場所としての需要を作り、その地域のみのコミュニティを生み出したことがとても衝撃だった。古民家の居場所としての役割に特に大きな影響をもたらしたのがまさしくお二人の新しい古民家に組み込まれた「真実性も残しつつ、快適性がとても高まった画期的な空間」であったと思う。古民家を改築するのにアメニティを高めるのは簡単だが、外見や内装がガラッと変わってしまうと、それは本来あったはずのその古民家特有のオーセンティシティが残ったとは言えない。逆にオーセンティシティを残しすぎると、本来の古民家はアメニティが高いとは言えないので、アメニティを向上させることができない。この難しい関係をうまく組み込めた、お二人にしか成しえないことだと思った。
 《問2》 古民家カフェ「川のHotori」の外装はまさしく古民家で、中に入るととても落ち着きのある雰囲気だった。講義をおこなった2階座敷の畳の感じや材木の組み方や障子の構成など、入ってすぐに感じたのは「おばあちゃんの家に来たみたい」だった。僕はこの感覚が古民家の良さだと思う。この感覚は恐らく日本の昔からある特有の家からしか感じ取れないと思う。改めて昔ながらの古民家の良さというものを「川のHotori」にきて実感することができた。しかし教授の言う通り、古民家のアメニティはそこまで高くない(畳からの立ち上がりや階段の上りにくさ、狭さなど)ことも同時に感じた。古民家カフェということで、和風の空間と洋風のメニューのいわゆるギャップというものを感じられて良い印象を受けた。(1年経営OY)


1026川の畔(1年)01夕暮れスケッチ01


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再考ー縄文住居の複式炉と入口の配置関係

0723山田01複式炉01 0723山田01複式炉03ひだな02縦01 複式炉


山田上ノ台復元住居の根継修復

 山寺(立石寺)に上って疲れた翌7月23日、仙台市縄文の森広場(山田上ノ台遺跡)を訪問した。ブログをほとんどアップしなくなった昨年(2022)12月、久しぶりに委員会が開催された。堅穴住居の柱根が浸水などの影響で腐朽しているため、応急の対策を協議したのである。そのとき秋田県立大学の女性研究者(材料学)が学生を連れてきていて、柱内部の空洞のスキャン調査などをおこなおうとしていた。結果を簡単に述べると、このたびは人工木材(エポキシ樹脂)で空洞を充填することになった。あれから半年余り経って、修理の状況をみたかったのである。仕事は順調に進んでいる。当面はこれで凌げるであろうと思った。


0723山田02基礎修理01 0723山田00外観01


複式炉=祭壇とみた場合の平面再考

 そこに匿名希望の考古学者が割り込んできた。かれは以前から、縄文中期住居の複式炉側に入口を想定する復元案に反対しており、入口は複式炉の斜め横だというのである。複式炉の側に入口を配する復元は、岩手県一戸市の御所野遺跡で構想されたものである。発掘調査担当の高田氏をはじめ、指導委員の林先生などがそういうのだから、縄文素人のわたしもそういう考えに従ってきたが、言われてみれば一理ある。ただし、複式炉の脇に入口を設ける根拠を、なんとミクロネシア集会所の例を参照して証明しようとしていることに驚いた。夜這い棒のデザインを入口上部の棟束に施しているところが、縄文の石棒とイメージが重なるらしい。わたしはミクロネシア建築で修士号をとった人間なので、黙ってはいられない。オーストロネシア語族の文化を安直に縄文と結びつけるのは生産的でも論理的でもない。複式炉が仮に祭壇を兼ねる聖域であったとすれば、入口はむしろその反対側に想定されるべきであろう。


0723山田1010号住居平面図01 住居平面と複式炉反対側の壁際(↓)
0723山田1014号住居平面図01 0723山田01複式炉02反対側01 0723山田01複式炉02反対側02


御所野型復元住居の根本的見直し

 そう考えて平面図を見直すと、たしかに複式炉の反対側の壁際に大きなピットがある。これらを戸口の痕跡とみることができるかもしれない。この場合、より有効なのは貼り床の範囲である。いまの修復は臨時のものだが、次回は正式な屋根替えや部材の差し替えをおこなう予定であり、そのときには本気で遺構をもう一度精査して平面を再考し、可能ならば出入口の位置を変更すべきかもしれない。それは、御所野型の復元が全面的に否定されることを意味している。山田上ノ台は御所野に先んじて樹皮葺き土被覆の縄文中期住居を竣工させたが、デザイン・レベルでもこちらが上である。御所野の復元住居は、わたしの手を離れてから劣化した。今の平城宮の復元建物が大失策を演じているのとどこか似ている。大谷翔平が消えたエンゼルスのようなものかもな。いまはチャンスである。御所野型の復元住居に根本的な間違いがあったことを山田上ノ台で証明できるかもしれない。やれるなら、やりたいと思う。やりがいのある仕事をみつけてしまった。(青谷髪切朗)


0723山田01複式炉03ひだな01 0723山田00外観02sam
こういう火棚からナマズの日干しを吊るして燻製にしたい


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宝珠山立石寺ー「山寺」の散策

0722立石寺(小林)01納経堂01 立石寺11


山寺という愛称をもつ山寺

 こんにちは、滅私です。2023年7月22日(土)、灼熱の晴天下、教授と東北在住の考古学者(匿名希望)の3名で山形市の宝珠山立石寺を参拝しました。東北地方ではひろく「山寺」という愛称で親しまれている山寺です。仙台市からわずか1時間の場所にあり、仙台縄文の森で聞いたところでは、小学校の遠足でよく行く名勝地とのこと。立石寺は、貞観2年(860)清和天皇の勅命によって円仁(慈覚大師)が開山したとされる天台宗の御山とされますが、円仁開山縁起をもつ寺院は600以上に及び、一般的には伝承の域を出ないものと認識されています。「閑さや 岩にしみ入る 蝉の声」 という松尾芭蕉の句でも知られています。現在は、約百町歩(約33万坪)の境内に、大小30余りの堂塔が残されており、「三つの不滅(法灯・香・写経行)」を今に伝えています。
 来たる11月25日、三徳山三佛寺本堂で開催されるフォーラム「崖と建築のヒエロファニー: そのアジア的視座」のための情報収集が立石寺訪問の目的でした。同じ天台宗の山陰の山寺、三徳山や摩尼山との比較はもちろんのこと、ブータンの崖寺に想いを馳せています。麓から1080段の石段が続く奥の院、五大堂をめざしました。


立石寺3 焔藏内装 立石寺2 焔藏


そばがそばがきになったラバトリー@焔藏
 
 まずは、腹ごしらえです。山寺門前にある「山形蕎麦の焔藏」に入りました。「十割板そば」や最上地方の在来品種「最上早生」が人気のお店ですが、メニュー表に「週末限定 そば1時間食べ放題1500円」を発見。人生初のそば食べ放題を開始しました。板そば600gが出てきますが、すぐに平らげ、おかわりをします。その後も食べ続け、結果的に3人で1800g、1人6人前のそばをたいらげたのです。店員のおばちゃんから「まだ食べるのか」と訝し気に睨まれておりましたが、「食べ放題」で時間が余っているのですから、食うしかない。蕎麦は美味しかったのですが、食べすぎでお腹が苦しい。入院以来お通じがよくない教授は、ラバトリーまで往復された後、いつもはナマズなのに、今日は蕎麦がきだったなどと訳に分からぬことを呟いておりました。


立石寺8 立石寺1

 
 登山口の階段を登った正面には、重要文化財の根本中堂があります(↑右)。天台宗道場の形式がよく保存され、堂内には、円仁作と伝える木造薬師如来坐像が安置されています。山門から長い石段を登り始めたのですが、すでに教授はきつそうです。脳梗塞の入院から2か月が経過し、体調が戻ってきたとはいえ、右脚の不調は相変わらずであり、土産物店で買った長い杖に頼ってのスローな登山になりました(↑左)。私も、先生が心配でゆっくりと後を追います。匿名希望の考古学者は、私と先生に構わず、すたすたと登っていきます。


0722立石寺(小林)01納経堂03 0722宝珠山立石寺納経堂(左)と開山堂(右)01


開山堂と五大堂

 開山堂は、祖師円仁を祀る施設です。慈覚大師の木造の尊像が安置されており、朝夕、食飯と香を供えています。向かって左、岩の上の赤い小さな堂は、写経を納める納経堂で、山内で最も古い建物です。宝珠山立石寺は規模がとても大きく、五大堂など懸造の建造物が数多くあります。11月には立石寺と同様に円仁開山伝承のある摩尼山・三徳山を登るわけですが、教授の感想としては、三徳山より摩尼山と構成が似ており、宝珠山をモデルとした行場の可能性すらあるとのことでした。
 一般客が通常1時間半で往来できる行程を、往復3時間かけてゆっくり巡り歩きました。崖や洞穴、豊かな自然の神秘的な空間、五大堂からの眺望には感激しました。11月のフォーラムでは、ありがたいことに私も発表の機会をいただきました。私はいつも取り掛かりが遅いため、迅速に作業を進め、いい発表ができるよう準備していきます。鳥取に来て6年目ですが、不動院岩屋堂、三徳山三佛寺投入堂、摩尼山「奥の院」のいずれも訪れたことがないため、こちらもとても楽しみです。(滅私)
 

立石寺5 0722立石寺(小林)03参道01
五大堂内部と参道


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崖と建築のヒエロファニー 三徳山《日本遺産》フォーラム(予報3)

1125不動院岩屋堂01 1125不動院岩屋堂02縦01 不動院岩屋堂(南北朝)


人間環境実習・演習Aとエクスカーション

 三徳山《日本遺産》フォーラム「崖と建築のヒエロファニー」は環境大学2年次「人間環境実習・演習A」を兼ねており、多数の学生も参加する予定です。当日午前は、投入堂へ登拝します。また、台湾(筑波大)、ブータン(岡山大)の留学生との交流は、フォーラム前後の24日(金)、26日(日)にもエクスカーションとして予定しています。以下、タイム・スケジュールと体制を記しておきます。なお、わたしは体調の関係から三徳山には登りません。無理であろうと思います。摩尼山についてはなんとか登ろうと考えています。

1.スケジュール
11月24日(金) エクスカーション(若桜)
 筑波一行(ANA293便) 9:10羽田空港-10:30鳥取空港  日ノ丸バス 10:40空港-11:00鳥取駅前
 10:55 ブータン留学生 鳥取駅着 一路若桜方面へ
 11:30 昼食(そば切りたかや?)
 13:00 不動院岩屋堂(外観のみ) *ゼミ生は4年・院生の選抜
 14:30 重伝建「若桜町若桜」の町並み
  若桜鉄道 16:13若桜駅→16:45郡家駅(440円) 環境大学??
 17:30 留学生歓迎と翌日の打ち合わせを兼ねた夕食会(5名程度)
  ブータン学生 鳥取駅18:53→倉吉駅19:21 筑波一行ホテルへ


1125三徳山投入堂01 三徳山三佛寺奥の院投入堂


11月25日(土) 投入堂登拝+フォーラム
 09:00 鳥取駅を大型バスで出発(2年生32名+引率若干名)
 10:15 国宝「投入堂」にむけて登拝開始(引率3名+実習演習履修生32名他)*雨天見学地変更
A班(2年11名) 河中課長補佐引率(補佐:4年尾前+3年脇野) 2年班長 赤木(001-061)
B班(2年11名) 荻小姐引率(補佐:4年武内+3年出見・西山) 2年班長 佐藤(062-103)
C班(2年10名) 山田老師引率(補佐:M2東+3年安部) 2年班長 畠(106-150) 留学生2名もこの班
  *雨天中止の場合、3班で①正善院、②宝物殿、③投入堂遥拝所の3箇所を時間差で周遊する(決定)。


 12:00 本堂まで下山。各自昼食・休憩。(各種施設を自由に見学)
 13:00 三徳山《日本遺産》フォーラム2023 @三佛寺本堂
     「崖と建築のヒエロファニー:そのアジア的視座」聴講
 16:00 フォーラム終了。大型バス乗車。
 17:00過 鳥取駅帰着

1125摩尼寺奥の院遺跡01 1125摩尼寺鷲ヶ峰立岩(賽の河原) 摩尼寺「奥の院」遺跡(左)と鷲ヶ峰立岩(右)

11月26日(日) エクスカーション(摩尼山)
 09:42 ブータン学生鳥取駅着
      筑波一行とともに摩尼山へ(院生・3年2名選抜+ガキオ)
 11:00 摩尼寺「奥の院」遺跡
 12:00 鷲ヶ峰(立岩)で昼食(各自弁当持参)
 13:30ころ 本堂まで下山 居川住職による護摩供養
 15:00 市内で休憩し、解散

1125摩尼護摩01 1125摩尼護摩02 摩尼護摩供養


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崖と建築のヒエロファニー 三徳山《日本遺産》フォーラム(予報2)

三徳山フォーラムチラシ(最終校⑤)_圧縮 クリックするとチラシ拡大


 10月の上海講演からはや3週間が経ち、11月25日の三徳山《日本遺産》フォーラムが近づいてきています。予報1から35日以上過ぎてしまいましたが、ここに第2報を広報します。

崖と建築のヒエロファニー:そのアジア的視座

 アジア各地では山、森(杜)、大樹、湧水、崖などの特殊な自然物にヒエロファニー(聖性の顕現)を認めています。特殊な自然物に聖性を読み取る認識は、仏教や神道など上位の宗教が成立する以前から存在した原始的信仰ですが、論理的な思考を纏う仏教などに吞み込まれながらも、信仰の軸として今に継承されています。むしろ、前仏教的な場所の聖性は仏教化後に強化されるという見方もできるでしょう。たとえば三徳山三佛寺の場合、奥の院の崖に投入堂という小さな仏堂を配することで、崖という特殊な場所の聖性はいっそう際立ったと考えられます。本フォーラムは、こうした崖と建築のイメージの相関性を、日本だけでなく、中国/台湾、南アジアとの比較から探ろうとするものです。

《開催日時》 11月25日(土)13:00~16:00 《会場》三徳山 三佛寺本堂
開会 13:00 挨拶・趣旨説明(西田寛司三朝町教育長)
講演① 13:10 「崖と岩陰と懸造-三徳山三佛寺を中心に」
 眞田 廣幸 (倉吉文化財協会会長・公立鳥取環境大学非常勤講師)
講演② 13:40 「台湾の巌(岩寺)と霊山」
 陳 彥伯 (國立成功大學建築學系博士課程/筑波大学研究生)
講演③ 14:00 「ブータンのボン教遺産-山寺クブン寺と秘境ベンジ村」
 東 将平 (公立鳥取環境大学大学院生)
講演④ 14:15 「瞑想・礼拝と他界-日本・中国・ブータンの崖寺」
 浅川 滋男 (公立鳥取環境大学教授)
コメント・質疑 15:00
①「ブータンのドラク・ゴンパ(崖寺)」[仮題]
 サムテン・ドルジ Samten Dorji(岡山大学教員研修留学生)
②「密教系霊山と両墓制-三徳山三佛寺・喜見山と宝珠山立石寺」
 小林 克 (秋田在住、リモートによるコメント)
司会:山田 協太 (筑波大学芸術系准教授)
閉会 16:00  *講演要旨は「続き」に掲載しております

《お申込み/お問合せ先》
日本遺産三徳山三朝温泉を守る会事務局(三朝町教育委員会 社会教育課)
 〒682-0195 鳥取県東伯郡三朝町大瀬999 番地2
 電話 0858-43-3518(直通)  FAX 0858-43-0647
 E-mail shakaikyouiku@town.misasa.tottori.jp


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菅原遺跡報告書批評のための習作(3)

1024平城宮01大極殿02南門02楼閣02 左が南門、右の垂れ幕が東楼


中国都城造営の原則に抗う復元-大極殿院東楼

 第七次遣唐使が704年、ほぼ40年ぶりに帰国し、日本の社会経済システムと都城計画が激変する。663年、百済救済のため白村江に遠征軍を派兵するも、新羅・唐連合軍に大敗して国際関係は悪化し、遣唐使を派遣できなくなった。結果、唐長安城の情報を欠いたまま、日本最初の都城、藤原京(694-710)を造営せざるをえず、その計画は儒教古典から得た間接的知識によったとされる。その後、702年に第七次遣唐使が派遣され、粟田真人らが大明宮麟徳殿で則天武后に謁見するなどの成果を携えて帰国し、藤原京と長安城の乖離が明らかになって、平城京遷都の詔が下される。藤原京はわずか16年で首都としての役割を終え、長安城型の都城である平城京(710-784)に遷都される。都城の長安化は都市計画だけに限定されたわけでなく、平城宮の中に長安城的な空間が出現する。その最右翼が第一次大極殿院であった。


10含元殿01 00平城第一次大極殿04模型01 01平安神宮03
(左)含元殿の龍尾道 (中)平城宮第一次大極殿院の龍尾壇 (右)平安神宮の龍尾壇

 第一次大極殿院は、大明宮含元殿正面の龍尾道(平安宮の龍尾壇)の空間を再現しようと企図したものと理解される。もちろん完全な中国化が成し遂げられたわけではないけれども、平城宮の中で最も中国的であったと言うことは許されるであろう。そのような場所で、中国都城建築の序列が乱れるはずはない。『周礼』考工記の「殷人重屋。四阿重屋。」で知られるように、中国四千年の歴史を通して、最も重要な屋根形式は四阿(寄棟=廡殿)、とくに裳階付きの二重寄棟(四阿重屋)であり、以下、入母屋(歇山)、切妻(硬山/懸山)と続く。これを図式化しておく。

  裳階付き寄棟(四阿重屋) > 寄棟(四阿=廡殿) > 入母屋(歇山) > 切妻(硬山/懸山)

この原則を逸脱する例を中国内でみたことはない。


2018第15回人間環境概論(ベニス憲章)02東西楼002
紫禁城にみる屋根序列と大極殿南門・東西楼の序列(2018)の矛盾

 この厳格な序列を平城宮第一次大極殿院の復元建物と比較してみよう。まず大極殿。先述のように、柱間からみて入母屋の可能性が高く、中国で最上級の寄棟ではない(寄棟の可能性がないわけではない)。しかし、大極殿が藤原宮からの移築であるとすれば仕方ないことであろう。次に大極殿院南門。残念ながら遺構の削平が激しく、基壇規模が判明しているだけで、柱位置は不明である。したがって、屋根形式も不明ではあるが、すでに竣工済の復元建物は入母屋(二重)としている。大極殿が入母屋なのだから、その正門を寄棟にはできないので、入母屋を採用したのは賢明な判断である。問題は南門の東西両脇に建つ楼閣だ。中国の序列に従うならば、南門が入母屋なのだから、東西楼は入母屋か切妻しかありえない。ところが実施案は寄棟に設計されていて、いままさに東楼の建設が進行している。すなわち、南門と東西楼の屋根形式は

  中央(南門)=入母屋 < 両脇(楼閣)=寄棟

となって、中国都城建築の原則を大きく逸脱している。というより、抗っているようにみえる。


2018第15回人間環境概論(ベニス憲章)01東西楼01
第一次大極殿院1/100復元模型 (上:1993年 下:2018年) 


東西楼屋根形式の変遷

 2018年晩秋、珍しいことに、家内と二人で平城宮を散歩していた。用を足したくなってプレハブの展示場に入ったところで、1/100の大極殿院模型の存在を知る。1/100模型はわたしたちの世代が1993年に制作した。それとは別の新しい模型が展示してあったのだ。復元案の更新は結構なことだが、驚いたのは、東西楼が寄棟になっていたことである。中央の南門が入母屋で、両脇の東西楼が寄棟。1993年制作の模型では、南門を入母屋、東西楼を切妻とした。東西楼と回廊の担当はわたしだったのだが、復元の方針は鈴木・岡田両氏の指示による。つまりわたしは図面係だった(こんなに下手なのに)。もともと、第一次大極殿院の成果をまとめた『平城宮発掘調査報告』ⅩⅠ(奈文研学報第40冊、1982)の段階では、岡田英男氏の復元により、南門・東西楼のいずれも入母屋に復元されていたが、1/100模型の段階で東西楼が切妻に変更されたのだ。その後2001年、建造物研究室によって、南門=単層切妻、東西楼=入母屋とする復元案が図化され、パンフレットの表紙を飾る。以上を年代順に並べ、中国建築の屋根序列との関係をみてみよう。

  ①学報40冊(岡田1982) 南門:二重入母屋  東西楼:入母屋【中国原則と合致】
  ②1/100模型(岡田・浅川・松田1993) 南門:二重入母屋  東西楼:切妻【中国原則と合致】
  ③パンフ表紙(木村・村田・田中2001) 南門:単層切妻  東西楼:入母屋《中国原則に違反》
  ④1/100模型・復元建物(箱崎・海野2018) 南門:二重入母屋  東西楼:寄棟《中国原則に違反》 
    
 つまり、当初の①②案では、中国都城建築との矛盾はないが、比較的新しい時期の復元案③④は矛盾があるということが分かる。この原則を意識して設計するか否かだけの問題だと考える。


2018第15回人間環境概論(ベニス憲章)03金子案東西楼002
2001年のパンフ「平城京 第一次大極殿院 大極殿」の表紙に掲載された南門・東西楼の復元パース[木村・村田・田中案]


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菅原遺跡報告書批評のための習作(2)

20231023大極殿6c0 00平城第一次大極殿01


平城宮第一次大極殿に係る中国建築史の見方-平屋説

 2019年11月8日(金)夕刻、わたしは北京工業大学建国飯店の一室にいた。中華人民共和国建国70周年中国建築学会建築史分会シンポジウムでの招聘講演を翌日に控えた歓迎の宴席である。10人ばかりの建築史研究者が集まっていた。日本人はわたし一人、台湾人夫妻のほかはみな中国人の研究者であった。以前、その人たちの多くを日本国内で案内したことがあり、中には「私の家で食事した」そうで、「あなたの奥さんの手料理はとても美味しかった」とのお誉めの言葉を頂戴したりしたのだが、当のわたしの記憶が薄れてしまっている。宴席の料理は極上、酒も絶品で、気分良く会は進んでいったが、盛り上がってきたところで、平城宮の話題になった。かれらはみな高名な研究者もしくは行政官だったので、奈良を何度も訪問している。
  
  「平城宮の大極殿ですけどね、あれは二階建ではなくて、平屋じゃないですか?」

と誰かが口火を切った。まわりの人たちも「そうだ、そうだ」という目でわたしを凝視している。中国建築史の立場からみても、あれほど巨大な二重入母屋の純木造建築は異常に映るのだろう。
 一時は遺構解釈の責任者であった関係上、返答せざるえをえない。わたしも第一次大極殿は平屋だと思っている研究者の一人である。研究所在籍中は、唐長安城大明宮含元殿との空間的類似性を鑑み、中国的な裳階付寄棟造(大仏殿の形式)を模索していたが、ある時点から入母屋造平屋建が正しい理解だろうと思い始め、今に至る。ぐだぐだ書いても仕方ないので、その理由を箇条書きしておこう。

 (1)柱間寸法: 復元平面図に従うならば、桁行柱間17尺、梁行柱間18尺であり、仏教寺院と対比するならば、金堂型ではなく、講堂型の平面である。法隆寺大講堂や唐招提寺講堂のような入母屋造平屋建がイメージされる。伊東忠太設計の平安神宮外拝殿(平安宮大極殿を2/3に圧縮)も、これに近い形式としているが、外拝殿については逆に疑問もある。
 (2)移築し易さ: 藤原宮大極殿と平城宮第一次大極殿の平面規模は一致しており、後者は前者を解体移築したものであったと考えられる。後者はまた恭仁宮/山城国分寺に再移築される(続日本紀)。巨大な建造物ではあるけれども、身軽な平屋の建物だったからこそ、二度の解体移築が可能になったと推定される。
 (3)前面開放: 年中行事絵巻(平安後期)の描写に従うならば、大極殿は前面の柱間を開放としており、平城宮の第一次大極殿復元建物はこれに倣った。初重前面開放の二階建の場合、構造的な不安定さが強く、 二階が前方に倒れやすい。復元された大極殿が倒れないのは鉄骨構造補強と強化ガラスのおかげである。平屋の建物なら、前面開放でも構造的な不安定は著しくは生じない。なお、年中行事絵巻の描写は大極殿内部を表現するための建具省略の可能性も十分ある。


01平安神宮01 09唐招提寺講堂01 法隆寺01大講堂02経蔵
 (左)平安神宮外拝殿 (中)唐招提寺講堂 (右)法隆寺大講堂+経蔵


大極殿はなぜ二重に復元されたのか

 以上は、わたしが2年次「住まいと建築の歴史」や3年次「歴史遺産保全論」で20年以上講義してきた内容である。研究所を出たからこそ、こういう発言ができるのであって、内部に居続けたら、こうはいかなかったかもしれない。ではなぜ、第一次大極殿は巨大な二重入母屋造になったのか。建築的な指向性は第2代所長の意向が強く働いたのは間違いない。何度かの検討会で所外の専門家を交えての意見交換もあったが、決め手に欠けた。鈴木所長と岡田教授(前平城部長)も単層か重層か、入母屋か寄棟かで悩まれていたが、結局、なんとなく雰囲気に流され、日本的な二重入母屋造に落ち着いたというところであった。しかし、時間が経つにつれ、さまざまな矛盾が露呈してきたので、わたし個人は平屋説に傾いていった。そして、所長が3代目に変わった時期の第一次大極殿の委員会で、遺構調査室長として「平屋の可能性が高い」と思う旨発言したところ、初代所長の激怒を買った。

   「昔から、難波宮は平屋、平城は二重と決めとんのや!」


00難波宮大極殿案 00難波宮大極殿案01唐招提寺金堂
(左)後期難波宮大極殿復元パース。単層寄棟の外観は唐招提寺金堂(左)を思わせる。大阪市教委作成。



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寧楽徘徊(Ⅱ)

極楽坊本堂 元文研展示


秋季特別展「菅原遺跡と大僧正行基・長岡院」

 2023年10月11日、教授宛てに封書で届いた元興寺文化財研究所(元文研)主催の令和5年秋季特別展「菅原遺跡と大僧正行基・長岡院」開催のご案内を拝見しました。卒業論文(中間報告はこちらを執筆するにあたり、菅原遺跡の発掘調査現場を直接みていないため(当時2年次)、特別展をみておかなければならないと判断しました。そして10月24日(火)、卒論ゼミの一環として元興寺法輪館を訪れました。展示の構成は以下のようになっています。

  第1章 明らかになった菅原遺跡
  第2章 円形建物の復元
  第3章 円形建物の性格
  第4章 行基の遺した建造物
  第5章 円形建物のその後

 以上の5章で構成されており、出土した遺物や発掘現場の写真に加え、周辺の関連資料などが展示されていました。展示を見ていると、元文研の所長が同じ部屋にいらっしゃることが分かり、教授は軽く挨拶に行かれたのですが、その後、結構な議論になってしまいました。この詳細はすでに報告されているので、繰り返しませんが、教授はとくに円形基壇端の大壁が「ありえない」ことと、多宝塔が奈良時代まで遡る証拠はない、などの懸念を所長に直接伝えられました。所長は初めて報告書の内容を知ったかのような素ぶりであり、正直なところ驚きました。


00興福寺町並み 1024興福寺01南円堂01


 元興寺の展示を見た後、ならまちの町並みを調査していたゼミ生と興福寺で合流しました。興福寺は以前に卒業生の玉田さんが菅原遺跡で卒業研究に取り組んだ際、院生の滅私さんも同行されており、以下のブログに詳細が記載してありますので是非ご覧ください。

行基縁りの地を往く(4)-土塔と八角円堂
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2475.html

興福寺北円堂ご開帳

 興福寺の南円堂(江戸時代)を見た後、北円堂(鎌倉時代初期)を鉄柵の外側から垣間みようと足を運ぶと、「令和5年 秋の北円堂特別開扉」の真っ最中であり、運よく北円堂の中に入ることができました。北円堂は中世の和様ですが、内法長押の内側には貫が隠されています。大仏様の技術を隠して用いることで構造を強固にしたようです。北円堂の八角仏壇には、本尊・弥勒如来坐像(鎌倉時代)とその両脇の無著・世親立像(むじゃく・せしんりゅうぞう、鎌倉時代)が安置され、四方に平安時代の木心乾漆四天王立像などを配しています。ふつう弥勒といえば菩薩ですが、北円堂では如来としてランクを一段上げています。インドや中国でこんなことがあるのか知りませんが、日本仏教ではあるということですね。


1024興福寺02北円堂03屋外からズームで撮影 1024興福寺02北円堂01全景
(左)屋外からズームで撮影 (右)北円堂全景


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寧楽徘徊(Ⅰ)

今井町 通り


重伝建「今井町」の町並み保存

 10月24日(火)、通常は午後から卒論ゼミですが、教授が上海から帰国された翌日にあたり、ゼミ生3名が今井町経由で奈良市を訪れました。いちばんの目的は招待状の届いていた元興寺の特展「菅原遺跡と大僧正行基・長岡院」をみることだったが、わたしは自分の卒論に係わる古民家活用と町並み保全をみてまわったので、ここに報告します。
 今井町は、寺内町(寺を中心に浪人や商人が集まり町場を形成した中世集落)で、戦国時代には織田信長と激しく対立していました。今も残されている環濠跡や屈折した通りは、戦国時代に敵の侵入を防ぐ軍事目的で作られたものですが、江戸時代には富裕な商人の財産や生命を守る防御の役割を担っていました。加えて、今井町の民家の大半が江戸時代以来の伝統様式を保持していて、町全体が歴史の重みを感じさせます。教授によれば、この今井町と、同じく奈良県にある五條や、大阪の富田林は日本有数の保存状況を誇る町並みであり、とりわけ今井町は世界遺産レベルだとのことです。
 同町は今から30年前の平成5年(1993)、重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。町内には重要文化財を9軒、県指定文化財を3軒、市指定を5軒含んでいます。短時間での視察だったため、重文の町家を中心にみてまわりました。現場で撮影できた重文町家は、河合家・高木家・旧米谷家・中橋家・豊田家・今西家住宅の6軒でしたが、中橋家は音楽教室として活用されており中に入れず、高木家・豊田家・今西家(見学有料)は少し早く着き過ぎたのか開いていませんでした。内部まで見学できたのは河合家と旧米谷家のみです。


河合家住宅 今井町 河合家住宅 内部2
河合家住宅


重文「河合家住宅」

 河合家住宅は「上品寺屋」の屋号で、江戸時代中期から酒造を始め、現在も営んでいます。家の内部は酒の販売場や、酒造道具の展示場になっています。重要文化財として古き良き風情を感じられますが、ここに人は住んでおらず、今井町内に新居を構えているとのことでした。



 旧米谷家住宅 今井町 旧米谷家住宅 内部1


重文「旧米谷家住宅」

 旧米谷家住宅(↑)は「米忠」という屋号で金物屋を営んでいた。主屋は十分古めかしい。また、内蔵と蔵前座敷があり、蔵は金目のものを入れるため、蔵前座敷は隠居部屋として使われていたそうです。主屋にはボランティアのガイドさんが一人いて、見学者を案内していました。その方によれば、この家も無住で、居住者は新居に引っ越したとのこと。両家とも「考古学的標本」というのは大げさかもしれませんが、展示館のような機能に変わっています。加えて、今井町を去る直前に見た今西家住宅は、この町で最も重要な町家です。1650年の棟札を残します。
 今井町は9軒の重要文化財だけでなく、町並み全体が重要文化財的雰囲気をもっています。内部改装や活用・転用を控え、できるだけ伝統的な姿を保持しようと努めている。こういう町並みは、もちろんあっていい。なにも活用だ、再生だ、方向に向かわないところが今井町のよいところだと思いました。


今西家住宅 (新居込み) 今西家住宅
左の写真:今西家(重要文化財)が右で、その向かい側の建物は新居?
右の写真:今西家住宅(重要文化財)


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第10次ブータン調査活動概要(2)

クブン寺のギョンカンと鬼女シッパイ・ゲルモ

⑥9月4日(日)  ポプジカ、トンサ [天候]晴
 09:40 クブン寺着。センデンデワの樹(倒木)の年輪調査、仏間、非仏教系神霊に係るヒアリング。 住職が代わり、1階仏堂の撮影が不可に。2階中央間も仏間だが、左奥の部屋は土地神を祀る(撮影不可)。 クブン寺2階はボン教寺院なので、ここに祀る神はボン教の神霊か、あるいはまた土地神(守護神)の系列のものか? この種の非仏教神霊を祀る部屋をギョンカン(gyon khang :gyonは守り神、khangは空間・部屋)という。クブン寺では、守り神シッパイ・ゲルモ(Sidpai Gyalmo)を祀る。ギョンカンの壁画にはガンテの守り神アゲ・ゲンポ(Agay Gonpo)と シッパイ・ゲルモ(女神)の伝説が描かれている。ある時、2人が飼っている牛2頭が喧嘩をした結果、アゲ・ゲンポの牛が負けた。2人は口論になり、アゲ・ゲンポがシッパイ・ゲルモをレイプする。壁画にはその様子と、2人が飼っている動物が描かれている。 17:45 ボン教徒の隠れ里ベンジ村着。夕食・調査。古代吐蕃王朝の末裔?が住むナクツァン(大邸宅兼ゲストハウス)泊。


センデンデワの樹アップ センデンデワの樹 調査風景 調査風景
センデンデワの樹アップ


【センデンデワの樹年輪年代調査】
 昨年の第9次調査では、空洞側で大きめの木片(270×70×35mm)を採取し、帰国後、最も内側の年輪のAMS法放射性炭素年代測定を行った。今回は、確認可能な総年輪数を数え、年輪サンプルの採取を目的とした。しかし、昨年と比べ苔が増殖し、前日の雨の影響で木が湿っていたため、年輪はとても見にくい状態であった。その中からルートを2か所選び、それぞれAライン、Oラインとした。以下が5年輪間隔でマチ針を打ち、木材の長さ・幅等を測った結果である。

Aライン 皮から切れ端まで263年輪(560mm) 平均1年輪2.13mm
Oライン 皮から待ち針まで100年輪(126mm) 平均1年輪1.26mm
年輪のカーブから髄(木の芯)は地面周辺と考えられ、表皮から推定樹心位置までは1100mm。


センデンデワの樹Aライン センデンデワの樹Oライン
センデンデワの樹Aライン(左)、Oライン(右)


ボン教徒の隠れ里、ベンジ村

⑦9月5日(月)  @トンサ [天候]晴
 09:30 土地神ムクツェンの山、Muktshem gi Phodrang を撮影。 Phodrangは宮殿の意味。11:45 最奥ギュンカンでのプージャの視察(正面のみ撮影可)。黒い髑髏の部屋に1体の等身大像(ムクツェンの門番)を配する。ブータンでは、この門番をカタップという。ムクツェンは、黒い扉の奥に祀られており、姿は見えない。像ではなく、ご神体か。アメリカに渡航予定の姪のソナムさんが無事ビザが取得できるように、さらにアメリカで生活が恵まれたものになるようにと、ムクツェンに向かって僧侶がお祈りをする。仏教は大事だが、こういう特別な時はムクツェンにお祈りする。諸仏と村人は距離が離れている。想いが届かない。近しいこと、日常的なことはムクツェンに頼むと主人は話す。 15:10 ナクツァンの平面図作成(2階ウェイチァン、3階教授)、仏間壁画のフォトスキャン調査。 18:00 近くの家の薬草風呂へ 20:30 夕食・調査。

⑧9月6日(火)  @トンサ、ブンタン [天候]晴
 08:30 ナクツァンの実測継続(2階・3階)、内装・外観撮影。 12:00 昼食・調査@ベンジ。 16:00 CHUMEY NATURE RESORT着。アメリカの大学が年代測定した木皮(780年以後)が展示されている。 17:40 ホテル着(ブンタン泊)。


第10次ブータン調査11 第10次ブータン調査13
ベンジ村 ナグツァン(ブータン王国トンサ地区) 厨房兼食堂タプサム(左)、ギュンカン内部(右)


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第10次ブータン調査活動概要(1)

カムIMG_9233
カムティエンハウス(バンコク・スクンヴィット)


今夏もまたバンコクからブータンへ

 2023年8月30日~9月10日、第10次ブータン調査を実施しました。私は昨年12月の第9次調査に引き続き、今回の調査も参加させていただきました。車酔いに腹痛、運転手の怪我などトラブルもないことはありませんでしたが、いきなりアシ(お姫様)との出会いがあって、天候にも恵まれ、充実した11日間を過ごすことができました。収穫はとても多く、ここでは毎日の調査記録を簡潔にまとめたものを掲載しておきます。調査メンバーは私と先生、ウェイチァンくんの3人です。なお、時間差については、日本時間=タイ時間+2時間、ブータン時間+3時間となっています。

①8月30日(水)  @関空~バンコク  [天候]晴
 09:00 関空集合 11:35 TG623(タイ国際航空)便離陸。 15:10 スワンナプーム国際空港(バンコク)着。 18:00 スクンビットのホテルにチェックイン。夕食は、昨年同様スクンビットのインド・レストランでハイデラバード料理を満喫。タイ行きの飛行機は空席が多く、バンコクは昨年年末に比べると人が少なかった。これには季節が関係しており、雨季のタイは、激しいスコールが降った後であった。

②8月31日(木)  @バンコク  [天候]晴→雨
 09:30 カムティエンハウス着。八幡造の屋根構造をしており、雨が降ると谷部に水が溜まってしまうという欠点があるのは日本の双堂系建築と同じです。この対策として、双子の屋根を大屋根で覆ったのが日本ですが、東南アジアにはそうのような変化はおきず、八幡造の形式そのままで、中央に大きな樋を残しています。10:30 ワットアルン(暁の寺)着。後期密教(チベット仏教)との関係が強いと思われる大型ストゥーパの視察。本堂を囲むインド系の仏像の前には中国系の武勇神と思われる偶像が多数並ぶ。インド系の仏像を中国の軍人が守るという趣。 12:30 ジム・トンプソン邸着。古民家・庭園・骨董・仏教美術を見学。 15:30 バンコク最大のスラム「クロントイスラム」着。クロントイスラムの支援活動を続けるシーカー・アジア財団の事務所を訪問。職員の山田さんに報告書『居場所とマイノリティ』を献呈。 17:00 ホテル帰着。

第10次ブータン調査1 カムティエンハウス2 第10次ブータン調査3
蓮の花とワットアルン(左)、カムティエンハウス(中央)、ジムトンプソン邸猫の尿瓶(右)


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菅原遺跡報告書批評のための習作(1)

作為の復元

 上海から帰国した翌日の10月24日(火)、ゼミ生とともに、元興寺法輪館の特別展「菅原遺跡と大僧正行基・長岡院」をみた。同じ場所に、ぼそぼそ喋る人がいて、まもなく、その人物が元文研の所長であることに気づく。彼は、わたしが国立研究所に在籍した当時の部長であり、後にその研究所(元文研ではない)の所長に昇格する。現所長から数えて二代前なので、ここでは元所長と呼ぶことにする。約二十年ぶりに再会した法輪館での会話を再現してみよう。

  「あれ、〇〇さんでしょ?、浅川です」
  「・・・あっ、そういえば、あんたも復元やっとっとたな・・・」

 わかりきったことである。小声で反論した。

  「わたしの復元が正しい」

 ご老体はにやついた。前代未聞にして奇妙奇天烈な復元案によほど自信があるのだろう。当方からみれば、信じがたい暴挙である。菅原遺跡のあの遺構から、どうしたら「多宝塔の初現形式」などという結論が導きだせるのか、さっぱり理解できない。卒論「中間報告」で論じたとおり、仮に7~8世紀に「多宝塔」なる呼称のモニュメントが存在したとしても、その形状は後の多宝塔とは異なる。『法華経』見宝塔品の経文を読み、長谷寺銅板法華説相図などの画像資料を観察するならば、平安期(空海)以降の多宝塔と奈良時代以前の多宝塔は別物であり、繰り返すけれども、前者が奈良時代にまで遡る証拠はどこにもない。桃山時代の宝塔をモデルにして、それが堂庭廃寺宝塔跡など10世紀以降(空海よりかなり後)の円形建物跡と似た構造であるというのも、一方は立体、他方は平面での比較であり、実際の系譜関係は不確実である。仮にその推定を認めるとしても、その種の平面が、これだけ痕跡の少ない菅原遺跡円形建物跡と近しいなどとは口が裂けても言えないはずである。妄想に基づく捏造に近い作為と言うほかない。

根拠のない12柱と方形屋根

 あらためて述べるまでもなく、菅原遺跡円形建物の遺構は、基壇の縁石と思われる基礎の据付もしくは抜取痕跡と、その周辺に配列された16基の掘立柱穴しか検出されていない。基壇相当部分に12基の柱礎石の痕跡が発見されてもいないのに、それと桃山期の宝塔「慈光寺開山塔」(1556)の平面が同系統と断ずるなどもってのほかである。すなわち、元文研の12本柱による復元案は、科学的根拠によって導かれた成果ではなく、「多宝塔が奈良時代に遡る」という思い込みから作為された本末転倒の結果である。 
 12本柱はもちろんのこと、方形の大屋根を導く遺構情報は皆無であり、かれらはこれを瓦に頼った。1981年に奈良大学が発掘した別の調査区で出土した小型の隅切瓦に依拠している。このたびの展覧会で、その隅切瓦を実際にみることができた。2020年の調査区では、奈良時代中期の普通サイズの瓦とともに少数の小型瓦も出土しているが、隅切瓦はみつかっていない。隅切瓦が存在したとしても、回廊の隅など別の場所に使う可能性も否定できないので、小型瓦・隅切瓦を円形建物に使ったという証拠にはならない。報告書の文章を引用しておく(2023:p.62)

   1981年の奈良大学の調査で出土した小型瓦が、現時点では、この建物に
   用いられていた可能性が高い。そこでは少数ながら隅切瓦が出土している。
   ここから、隅棟をもつ屋根形式であったことがわかるが、隅切の角度は
   約45°であり、正方形平面の屋根をもつ上部構造であった可能性が高い
   (後略)
   屋根瓦が下ろされたのち丁寧に保管されていたらしいことから、分類して
   保管されていたものが比較的一括して出土したものとして解釈する
   (すべての下線は評者による)

 隅切瓦から隅棟をもつ建物(入母屋もしくは寄棟・方形)が存在したことが「わかる」のはよいとして、その建物=円形建物という図式を現状で導くのは困難である。「可能性がある」とはいえるかもしれないが、「可能性が高い」とまで踏み込むのは相当の勇気が必要であろう。あくまで元文研の「解釈」にすぎない。ひるがえって、隅切瓦が方形屋根の根拠になるのはなぜだろうか。寄棟や入母屋でも、隅行45°なら必要な瓦であり、なぜ方形屋根の建物にフォーカスしてしまうのか。仮に方形屋根の瓦だったとしても、それを使った建物として真っ先にイメージされるのは木造層塔(舎利塔)であろう。元興寺五重小塔がもう少し大きくなったような層塔がひろい境内のどこかに存在した、という発想は浮かばなかったのだろうか。そして、そのような正方形平面をもつ遺構としてふさわしいのは、小型瓦とともに1981年にみつかった方形基壇建物にほかならぬ、とどうして結論づけないのであろうか。
 要するに、隅切の小型瓦を宝塔大屋根に結びつける操作もまた本末転倒の作為である。慈光寺開山塔を意識するあまり、12本の柱のうち4本を立ち上げて、方形の大屋根をかけたい言訳として、1981年出土の小型瓦を利用したにすぎない。そうした解釈のいいわけとして、2020年調査区で出土した普通サイズの瓦は回廊に(熨斗瓦として?)使われていた、としている。掘立柱に似合うのは檜皮葺きであり、排水溝等に軒瓦が放り込んであったとしても、その瓦を回廊の葺材だと判断して、円形建物とは無縁だと決めつけることはできない。どうしても小型瓦に拘るのは、隅切瓦を方形屋根に結び付けたい作為による。

デザイン力を欠く憾み

 一方、裳階(もこし)の方は柱穴の位置から十六角形と決まっている。これは事実である。ここに、大屋根=方形、裳階=十六角形という意匠上のアンバランスが発生する。裳階が十六角形(多角形)なら、大屋根も多角形であったと考えるほうが、建築デザインに整合性がある。現存する多宝塔は、大屋根も裳階も方形としてデザインを整え、見るものを引き付けるが、元文研案は、そうした多宝塔のデザインとは似て非なるものだということに、おそらく設計者自身が気付いていない。このように、元文研案は歴史考証や遺構解釈に偏向・曲解が露呈しているばかりか、デザイン力に欠ける憾みがある。こういう非力の作為が連続した結果として、前代未聞の奇妙奇天烈な造形が創作されたのである。あえて口を滑らせる。展示場に陳列された復元模型は、角帽を被ったオバQがフリルのスカートを履いたような姿をしている。
 ここで、わたしたちが菅原遺跡円形建物の復元に取り組もうと考えたモチーフを素直に告白しておく。元文研が2021年5月に記者発表し、その復元パース(当初案)が大きく報道された。日本人の多くは、このような二重円形型の多宝塔風建物が奈良時代に存在したと思い込みかねない。これは不味い、訂正しなければならない、という想いがただちに芽生え、急がなければならない、とも思った。あのときのわたしは、元興寺案をネパールのストゥーパだとイメージしていた。チベット仏教のストゥーパのうち、チベット式は上円下方、ブータン式は上方下方(もしくは単層方形)、ネパール式は上円下円という形態的特徴があるからだ。おまけに屋根は北京の天壇のようになっている。それでも、まだ世界建築史のなかでイメージできる類例がないわけではなかった。今回は違う。展示場の復元模型をみて改めて思った。こんな建築が世界のどこにあるのだろう。日本建築史にあるか、中国建築史にあるか、インド建築史にあるか、東南アジア建築史にあるか。管見の限り、どこにもない。少なくとも私は寡聞にして知らない。このまま放置しておくと、この歪な復元案が古代史を覆す発見として世間に衆知され、中高社会の教科書に掲載されるというような過ちを招くかもしれない。わたしと同じような反論を内に秘めていても、権力側に忖度し、黙秘を貫く若手研究者もいるだろう。脳梗塞を患って老い先知れぬわたしのような研究者が声をあげるしかない、と決意を固めたしだいである。
 そもそも菅原遺跡報告書の復元考察には、上記引用文にみえるように、「らしい」という表現がかなりな頻度で使用されている。調査報告・復元考察の当事者が「らしい」を連発して、自身の主張の根拠を弱めているにも拘わらず、その結論は断定的である。世にも奇妙な建物が奈良時代に存在し、おまけにそれを「多宝塔の初現形式」と断じて大々的に報道した点、捏造・偽造に準ずる行為であり、執筆・編集の関係者だけでなく、組織の代表者はその責任を免れないだろう。



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FC2ブログ トップ10返り咲き!

 再開して走りっぱなしのLABLOGのランキングが急上昇してきました。なぜなんだか分かりません。新ブログ(LABLOG 2G)より 古いLABLOGの順位がやや高いところも気になります。以下、11月2日早朝のLABLOG 2Gランキング・データです。

学校・教育 10 位 (昨日:18位) / 16758人中
学校 3 位 (昨日:2位) / 3411人中

 かつて5位まで登りつめた記憶があります。学校ジャンルでは、昨日2位だったようです。追い風が吹いてきたのかもしれませんね。ナマズのご利益かな?

2023/11/02 06:36
所属ジャンルのランキング情報

1位 わんこら日記
2位 中学受験をわらう
3位 奥州市立東水沢学校給食センターブログ
4位 高校入試 数学 良問・難問
5位 【ZMSブログ】 東進衛星予備校 丸亀駅前通校・坂出駅南口校・高松サンフラワー通り校・
   フジグラン丸亀校
6位 セルフ塾のブログ
7位 TOEICオタクのブログ
8位 医学部小論文過去問自作解答集
9位 Lablog
10位 Lablog 2G


 ちなみに、1年ぶりに再開したLABLOGの最新注目記事は以下です。

エガチャンネルに学ぶエビフィレオとアップルパイ
http://asalab.blog11.fc2.com/blog-entry-3078.html


旧科研実績報告大改訂(ブータン2018-2022)

研究題目: ブータン仏教の調伏と黒壁の瞑想洞穴-ポン教神霊の浄化と祭場-
2018年度~2021年度基盤研究(C)
課題番号 18K04543  機関番号 25101
代表者:浅川 滋男(公立鳥取環境大学)

 今年の5月に脳梗塞を発症して入院し、科研の実績報告が同月末日の締切に間に合わなかった。締切は1ヶ月延長され、6月に新旧2本の実績報告を完成させたのだが、体調が良いはずもなく、執筆・校正とも不十分で情けなく感じていた。そうこうして時間は過ぎ、上海滞在の3日めだったろうか、大学の研究交流課からメールがあり、旧科研の最終実績報告に添付した研究成果(ワード)のフォーマットが指定のものではなく、フォーマットを改めて書き直すよう指示があった。もちろん書き直しを承諾した。退院直後に比べれば、少しは体調が回復しているし、9月の第10次調査を経験して、ポン(ボン)教をはじめとする非仏教系神霊の認識が大きく向上していたからである。それは、これまでの理解の修正を促すものだったので、この書き直し指令を好機と捉え、大改訂を試みることにした。


1.研究開始当初の背景
 申請者は洞穴・岩陰と複合する日本の懸造仏堂の源流を探るため、中国の石窟寺院・懸造仏堂や東南アジアの洞穴僧院を訪ね歩いていたが、2012年、ブータンに至る。ブータンの懸造仏堂は日本と同様に絶壁の岩陰・洞穴と複合しており、外見上、両者の関係は深いようにみえる。しかし、日本の懸造仏堂が蔵王権現などの像を安置する祀堂であるのに対して、ブータンのそれは僧侶が長期的に瞑想修業する僧坊窟であり、石窟寺院の変化などと対比しても、ブータンのあり方がより古式であると思われる。そうした古態を残すブータン仏教に魅せられ、2015年ころまでは主に崖寺(ドラク・ゴンパ)の空間構成を簡易測量などの方法で追跡してきた。仏教施設の内部は原則として調査・撮影が禁止されていたが、2016年ころから民家仏間での調査に方針転換することによって撮影は可能になり、多くの宗教情報を得ることができるようになった。このようにして、仏間の詳細な調査に取り組んでいると、仏壇や壁画などに非仏教的な要素が少なからず散見されることも明らかになってきた。そうした非仏教要素は、フランソワ・ポマレ[2014]が指摘するように、ブータンでは非仏教ならなんでもかんでもポン教(ボン教)関係として捉える傾向がある。それら「邪教」の神霊の多くは、仏法により調伏され仏教側に取り込まれて「守護神」に変換される。チベット・ブータン地域は、古代インドに最も近しい仏教の原型を残すようなイメージがあるけれども、実際に訪問すると、非仏教系信仰は脈々と根付いており、仏教の内側に染み込んでいる。その実態を理解したいと考えた。

2.研究の目的
 ポン(ボン)などの非仏教系信仰には、①どのようなものがあり、②仏教とは独立した関係にあるのか、従属的な相関関係にあるのか、あるいはまた、③仏教と非仏教は民衆にとってどのような役割の違いがあるのか、④その祭場はどういう空間構成をしているか、などの諸問題について、具体的なフィールドワークを通して明らかにしていく。この場合、研究の主眼は、仏教・非仏教の在り様を文献史学的に考察するのではなく、あくまで現在学的な視点から、神霊に奉仕する民衆の感覚を理解することに主眼を置く。とくに気にしているのは、⑤ポン教と他の非仏教系神霊の区別、⑥調伏された非仏教系神霊の仏教的位置づけと民俗的位置づけ、である。

3.研究の方法
 あくまでフィールドワークに主眼をおいて、研究を展開する。調査時に僧侶や村人からヒアリングを重ねるしかない。この場合のヒアリング情報は「歴史的事実」ではないかもしれない。それは、村人や僧侶が無意識に共有する歪曲した疑似歴史情報である。その集団幻想のなかに、ブータン人の自然観や精霊信仰、「悪霊」調伏の過程が埋め込まれていると考える。チベット仏教学やブータン史に矛盾するような情報も、現在のブータン人の認識として排除すべきでない、と考える。これと関連して、天上や地下の神霊にまつわる内容を多く含む民話の解読にも尽力する。
 現地調査では、仏教寺院でのヒアリングに加えて、民家仏間で考現学的な調査に取り組む。まずポラロイドカメラで対象となる仏間・仏壇等を数十枚撮影する。そして、現地インフォーマントにより、ポラロイドに写し込まれた仏像・仏具・装飾品等の呼称をローマ字表記で書いてもらう(油性マジック使用)。書きあがった写真はデジカメ撮影してバックアップをとる。この作業によって、仏教側の諸仏と非仏教系神霊が調伏された偶像の区別を明らかにする。調伏された非仏教系神霊については、仏像との配置関係を読み取りながら、由緒・慣習・祭祀などについて細かくヒアリングする。

4.研究成果
 《2018年度》 2018年8月28日~9月2日、ブータンを訪問した(第7次調査)。主要なフィールドはプナカのチメラカン寺周辺である。この寺は中世の怪僧ドゥクパ・クンレーが魔女を地下に封じこめたという黒壁のストゥーパが残り、本堂片隅に守護神(元は魔女アムチュキム)を祀る。クンレーはチベットの多くの谷筋で自らのファルスにより魔女を調伏し続け、仏教側の守護神に変えていった。そのためチメラカン周辺では建物の外壁に多くのファルスを描き、仏壇の一部にその木彫を祀っている。こうした傾向は全土で散見されるが、プナカはとくに男根信仰が盛んであることを確認した。また、周辺の崖寺等では、ギュンダップ、ツォメン、ルモなどの非仏教系神霊が調伏されて守護神になっているが、これらは土地神というべき存在であり、ポン教とは区別すべきである。パロでは初穂飾チャを仏間に祀る農家もあり、ブータンの宗教世界は決して仏教のみで理解できるものではないことを改めて実感した。
 一方、仏教寺院の成立年代に関する調査も進めており、パロ地区シャバ村の建物跡(廃墟)の版築壁から採取した木片(心材型)は14世紀に遡る古い炭素年代を示した。2016年に近隣の版築壁跡から採取したサンプル(辺材型)は15世紀前半~16世紀初期であり、今回のサンプルは心材型なので両者の年代に矛盾はない。いずれにしても、国家形成期以前から本堂を伴う寺院が存在した可能性は高いと思われる。
 9月12日~19日には西北雲南(旧チベット領カム地方)を訪問した。ブータン国教の開祖パジョの故郷であり、金沙江以北の谷筋は生態系が西ブータンに近似する。奔子欄の東竹林寺では、本堂に大きなルモ(地下大魔王)の浮彫が掲げられていた。調伏された守護神である。仏教系物質文化の中では、とくにマニタイと呼ばれる石積みに注目した。徳を積むため石板に「オンマニペメホン(観音様は心の中に)」の文字をカラフルに刻んで積み上げ、その中心に槍を立て、先端に転法輪を飾る。死者が出るとマニタイを作るというので、賽の河原(日本)の回向の石積塔を連想させるし、石積みに槍を立てる点はモンゴルのオボとも共通している。今後の重要な研究課題となるであろう。


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ナマズ食に係る活動記録-2023年度前期「歴史遺産保全特論」

0622ナマズ漁(菖蒲)01 6月22日ナマズ漁(菖蒲)。この日は収穫ゼロ。


小川でのナマズ漁

 今年度(2023)前期の大学院授業「歴史遺産保全特論」はナマズ食に係る主題となり、4人の院生が履修しました。基本は隔週2コマで木曜4~5限に開催。毎回のようにフィールドワークをおこない、ときに学部2・3年生のサポートを受けました。聞くところによると、教授のチュータ学生(とくに1・2年女子)にはさらに参加希望者が多かったとのことですが、漁具等も限られており、1回のフィールドワーク参加は4名を原則としました。以下、活動記録です。

第1回:4月20日 ナマズ活動初日
 大学院生4名で村上龍『料理小説集』(短篇、1998)のうち「ニューヨーク中華街のビルマ産地ナマズ蒸し焼き」「スルピンーブラジル大ナマズのスモーク」の2篇、宮本真二他(2001)「日本列島の動物遺存体記録にみる縄文時代以降のナマズの分布変遷」(『動物考古学』16号)を輪読。その後、ナマズを捕獲するための打ち合わせをおこなった。

第2回:5月18日 ナマズ捕獲活動(1)
 大学院生4名と学部生1名で鳥取市内4ヶ所でナマズの採集活動をおこなった。
〈洞ノ川A〉 環境大学付近にある大池とつながっている洞ノ川A区でミミズを餌にナマズ釣りをおこなった。中国留学生1名が虫や魚が苦手であることが発覚。釣果は4㎝ほどの小さなカワムツのみ。
〈洞ノ川B・砂田川〉 3人が釣り、1人が川の中に入り、網で採集をおこなう。ドンコ、ギンブナ、カワムツなどを捕獲。
〈大路川〉 水深が浅いため、畔・土手や橋の上から川の様子を確認した。スッポンの姿は見えたが、ナマズの姿は見えなかった。
〈重箱緑地公園〉 ほかの地点が水の透明度が高く、流れがあるのに対して、この地点では水が濁っており、流れも緩やか。水辺付近にはクロベンケイガニが大量に確認できるほど生物量が優れていそうな環境であったが、なにも釣れなかった。
 結局この日は鯰の姿かたちを見ることがなかった。

第3回:6月2日 琵琶湖北岸菅浦でイワトコナマズ視察
 菅浦の「佐吉」より、イワトコナマズが捕獲されたの連絡があり、急遽菅原へ(教師+滅私)。

菅浦イワトコナマズ01 菅浦イワトコナマズ02

第4回:6月8日 ナマズ捕獲活動(2) 
 鳥取市菖蒲地区でナマズが溯上しているとの連絡あり。同地区の幅2mの用水路でサデ網漁をおこなう。橋下にサデ網をもって待ち構える人を固定し、50m上流からサデ網を揺さぶりながら下流に向けて1名が歩き、下流に魚を追い込む。ナマズ1尾(約30㎝)、ドンコ、アメリカザリガニ、ヌマエビを採集することができた。ナマズはしばらく泥抜きを兼ねて研究室の水槽で飼育することとなった。また、アメリカザリガニは6月1日から始まった条件付き特定外来生物の規定などになったこともあり、サテライトキャンパス内にある里山生物園の餌にするため持ち帰った。
 今回の採集で、ナマズが数尾、下流へと逃げる姿が確認された。そのため、採集を行う際は観察をする前にサデ網であらかじめ下流を塞ぎ、逃げるのを防ぐ必要がある。次回の採集方法としては二人でサデ網を持ち水路を塞ぎ、上流から追い込む方法を採用する。採集にかかわる人数としては最低3人(追い込み1人以上、塞ぎ役2人)が必要であるという結論となった。

0608小ナマズ捕獲01

第5回:6月14日 ナマズ捕獲活動(3)
 同じく菖蒲地区の用水路で採集をおこなった。このたびは産卵期のナマズが活動を活性化させる夕刻の捕魚とした。先述のとおり、待ち受け役2名、追い込み役2名のサデ網漁。その結果、ナマズ2尾(62㎝・42㎝)と野生化した錦鯉1尾を採集することができた。先週の改善案の成果を感じられた。ナマズ2尾は菖蒲地区に住んでいる農家に一夜預かってもらい、錦鯉は研究室に持ち帰って飼育した。

0614ナマズ漁(菖蒲)夕方01 0614大ナマズ(菖蒲) 0614錦鯉(菖蒲)

 翌日(15日)午前、農家に預けていたナマズを受け取りにいくと、2尾とも死亡しているのを確認。回収した2尾は大学に持ち帰り、処理した。2尾とも腹を開いてみると淡い緑色のきれいな魚卵が一対入っていた。この後、卵は塩漬けにしたうえで冷凍庫に収め、身の方は内臓を除去したのちに魚類学実験室の冷凍庫で保管していただくことになった。身は後に塩漬けにし、後に乾燥標本となる。

0615ナマズ2尾遺体02魚卵 0615ナマズ2尾遺体01

第6回:6月22日 ナマズ捕獲活動(4)
 3度目の菖蒲地区に加えて、字中町の水田の畔を流れる幅1.5mほどの小川、大覚寺クリニック付近の小川で二人一組となって、前回同様のサデ網漁をおこなったが、ナマズを捕獲することはできなかった。すでに産卵期を過ぎているからかもしれない。菖蒲地区ではタモロコ、タイリクバラタナゴ、大覚寺クリニック付近ではカワムツを捕獲した。


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プロフィール

魯班13世

Author:魯班13世
--
魯班(ルパン)は大工の神様や棟梁を表す中国語。魯搬とも書く。古代の日本は百済から「露盤博士」を迎えて本格的な寺院の造営に着手した。魯班=露盤です。研究室は保存修復スタジオと自称してますが、OBを含む別働隊「魯班営造学社(アトリエ・ド・ルパン)」を緩やかに組織しています。13は謎の数字、、、ぐふふ。

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