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買物に悩むバースディ

1221バースデイ01 1221バースデイ02 誕生日プレゼント


 嗚呼、大晦日といえば、誕生日ではないですか。鬼門と考えていた66歳をなんとか乗り越えましたね。退院後、ナマズのご利益から日々運気の回復を感じるようになりました。取得不可能と諦めかけていた中国ビザが転がり込んできて、母校同済で花道を飾る講演をさせていただき、日本遺産《三徳山》フォーラムも異常な熱気に包まれました。生きてるだけで丸もうけなのに、いろんな成就があり、満足しています。そういえば、滅私くんとゼミ生から誕生日プレゼントを久米屋でいただきました。ありがとう! おちょこは家内専用になるかも(笑)。
 
弁天娘が道草に与えた影響

 さて、昨日まで雪国の再生古民家を追跡してきました。わたしは「アトリエ兼書庫」となる中古物件を探し求めていて、閉業する「みちくさの駅」もその候補だったのですが、送別講演会の翌日(1週間前)から予約し、前日・当日も確認のメールを入れておいたにも拘わらず、22日(金)に訪問すると、「蕎麦、一枚しかない」と仰る。軽い前兆です。テーブルについてお茶をもってきた奥さんは「先生、予約されてたんですか?」と心配気に問われたので、「えぇ、何度も」と答えるとやや呆れ顔。夜は晩酌で寝てしまうんだそうです。弁天娘はとまらないからな・・・あげるんじゃなかった!? ざるとそばがき、ガレットをいただいた後、談笑まじりに交渉に入ったのですが、主人の口から21の数字が漏れ、即時撤退。ありえない。正直、雪掻きが心配だったので、潔く駅を後にしました。レジカウンターでの奥様との会話。「交渉決裂でした」-「なんの交渉?」-「ここ買おうかと思ったんですが」-「(喜んだ顔で)買ってください!」-「いや21ですから手が出ません」。さよなら、みちくさの駅!


おとうさんケーキ 最後のシャトレーゼ(珈琲グァテマラ from まつば


21から51へ

 この日は大原にも寄ることになっていた。じつは、20日(水)の忘年会で右手(うて)にレコーダーを忘れてしまっていて、大原古町の某家郵便ボックスで受け取ることになっていたのである。そうなれば、売物件もみたいと思い、業者に連絡したところ、扉を開ける方法を教えてくれたので、一人で入って1階を観察し、撮影した。もとは化粧品店だったみたいで、一面土間に変わっており、新しい天井板がぼろぼろになっていたが、却って好都合だと思った。畳があると、段差の処理が難しいし、畳は坐臥につらいから。天井はぜんぶ剥がして根太や大引をみせるほうが素敵になる。正直、気に入った。ところが、後でその旨伝えると、「2階をみたか」と問われた。雨漏りがひどくて、2階の腐朽が激しく、その影響で1階の天井や壁がぼろぼろになってしまったらしい。これは大変だということで、もういちど見に行かざるをえないのだが、その際は地元の方と一緒に見学して意見を聞こうと思う。カールさんなら再生すると思うが、修復・改修の経費が気になる。こんな状況のなかで、学生諸君からレポートが続々送られてきた。課題の問3を以下に再録します。
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問3 教師は退職後の「書庫兼アトリエ」となる活動拠点(セカンドハウス)を鳥取周辺の古民家/木造建築の再生により実現できないか、と候補物件を探している。先日送別講演会を開催した「みちくさの駅」もその候補の一つだが、大原宿もよい場所だと考えている。今回の視察で、セカンドハウスの所在地として大原宿や右手をどう感じたか、感想を述べなさい。
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1222売却07雪 古町小雪


《街道派》

改修が大掛かりになりそうだが、利便性は大原に分がある

 教授ご夫妻の年齢と体調を考えると、右手は難しいのではないか。生活に必要なスーパーや病院に通えない距離ではないが、車を運転しなければならない。そう遠くない将来、車を手放す可能性を考えたら、 徒歩の範囲に多くの施設があるほうが良い。奈良との往来も自家用車を使うしかなくなる。一方、大原宿からは鳥取堂~中国道の乗り入れが楽だし、かりに車を手放してもJRや高速バスがある。スーパーはくとで大阪まで2時間は便利である。病院もコンビニもスパーも徒歩圏内にある。古町のコミュニティに関しても人の出入りが激しいので、ドラ イな方だと聞いた。教授がそれでよいなら心配無用だ。
 古民家の改修は「みちくさの駅」に比べて大掛かりになるだろう。大原の再生古民家は内部が寒く、ストーブやエアコンをつけていても、場所によっては白い息が見えるほど。大原宿は雪が少ないとはいえ、寒くては快適に暮らせない。カールさんのように、ペアガラス・断熱材・床暖房を導入し、薪ストーブを設置するのが理想的だろう。また、段差・畳に関しても改修が必要だ。奥様の身体が不自由なこと、教授も足元が危ない場面が少なくないので、 土間で靴を脱いで畳部屋に上がったり、畳部屋に座って立ち上がったりするのは苦しいだろうし、危険を伴う。
 大原宿を歩いている途中に見つけた不動産業者の売物件は元々店舗だったようで、1階が土間の店舗スペース、2階が畳部屋となっている。ホームページ掲載の内装写真を見る限り、トイレ・キッチン(かなり狭い)は2階にある。おそらく風呂も2階にあると考えられ、寝室と水回りを1階に新装しないといけない。2階はかなり広く部屋数もあるため、書庫及び執筆部屋には十分だろう。というか、広すぎるくらいではないか。2階の畳・段差は懸念点だ。畳ははがして断熱材を挟み板張りにできる。また、階段についても歩きやすく大きなものを新設した方が良いだろう。 1階の段差については、ホームページの写真を見る限り少なそう。玄関についても元々店舗だったことから、段差なしで部屋に入れるようになっている。
 以上みたように、交通手段の問題から右手は不向き。大原宿は交通の面ではいちばん条件が良く、大がかりな改修が必須になってくるが、どの地域のどの古民家でも同じ問題を抱えている。一方、「みちくさの駅」は広めの階段・ 少ない段差・薪ストーブを元から有しているので、改修の手間と経費は少なそうと感じた。改修面でいえば智頭だが、冬に雪で閉ざされてしまう可能性がある。大原宿はその心配がないためその点は大原に分がある。 (ウェイチアン)


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雪国の再生古民家をたずねて(5)-大原・右手〈学生課題〉

1220大原12難波邸02集合01 1220大原12難波邸02集合02 難波邸式台前


 2023年のゼミ忘年会ともなった美作市大原・右手の訪問については、3年生と4年生1名に以下の課題を出しました。
 
問1 大原宿の歴史と町並み保全の概要をまとめ、古民家再生の実例をみた感想を述べなさい。
問2 美作の限界集落「右手(うて)」の古民家再生・活用と移住状況について、新潟のカールベンクスと比較しながら感想を述べなさい。
問3 教師は退職後の「書庫兼アトリエ」となる活動拠点(セカンドハウス)を鳥取周辺の古民家/木造建築の再生により実現できないか、と候補物件を探している。先日送別講演会を開催した「みちくさの駅」もその候補の一つだが、大原宿もよい場所だと考えている。今回の視察で、セカンドハウスの所在地として大原宿や右手をどう感じたか、感想を述べなさい。


 締め切りは12月27日(水)。最初に提出してくれた鶴舞君のレポートを転載します。


因幡街道古町-袖壁と海鼠壁の町並み

 《問1回答》  因幡から播磨までを結ぶ上方往来(因幡街道)は古くから人馬の往来があり、道路や宿駅が整備された。因幡街道沿いの宿場町として栄えた大原は、鳥取藩が参勤交代時に宿泊した三宿場のうちの一つである。美作市古町(大原)はかつて小原宿と呼ばれ、本陣・脇本陣・問屋が置かれた。宿駅は、上小原(古町・川西)と下小原 (辻堂)に分かれていたが、本陣・脇本陣をもつ古町村が宿駅の仕事の中心で あった。また、古町は宮本武蔵生誕の有力候補地でもある。


1220大原10袖壁の町並み02海鼠壁03 1220大原10袖壁の町並み02海鼠壁02武蔵の里02 1220大原10袖壁の町並み04 袖壁と海鼠壁の町並み


 古町を歩いていると、路地や茅葺屋根・袖壁(火がえし)・ナマコ壁などが見られる。袖壁は、時代が新しくなるにつれてその機能よりも意匠に凝るようになった。ステータスシンボルとしての価値が高まったということである。結果、袖壁の細部意匠によって建物の新旧を見分けることができる。 また、海鼠壁は、明治以後の町並みに多く見られる特徴である。古町には本陣と脇本陣が残っている。本陣は江戸時代の宿駅で、公家や幕府要人などの賓客も宿泊したが、第一の利用者は鳥取藩主池田侯であった。一方、脇本陣は大名や幕府の要人が本陣に留まる際、重臣の宿場に充てられた。本陣は数寄屋造りの御殿と御成門が今もなおその姿をとどめる。
 本陣向かいの休憩所には、 脇本陣の庭にあった水琴窟が再現されている。水琴窟とは、大地を器として自然が奏でる装置である。地中に埋められた瓶の中で水滴が壺の底面を打ち、その音が妙音となって聞く人の心をとらえる。このように、古町は歴史的町並みがよく保存されている。古町では、享保18年(1733)~天保7年(1836)の間に四回大火に見舞われており、建て込んだ家の造りには、火がえし・南北の大壁・通し土間など防災に適した構造が有効とされた。それが、現在も古い町並みを残す要因の一つとなった。加えて道路が石畳のエリアは、早くから岡山県の町並み保存地区に選定されており、このことも古い町並みがよく保存された要因である。


1220大原11本陣01 1220大原11本陣02 本陣と周辺の町並み


雰囲気としての温もりと機能的な暖かさのギャップ

 大原宿では現在、古民家を活かし、移り住んだ3組の若者が新たに宿、飲食店などを開業しており、古い町並みと新しいカルチャーが交差している。土佐邸を改修したあんこや「ぺ」は、あんこの卸売りをしている。店内であんこのおやつを食べることも、持ち帰りもできる。また、改修をおこなった丸山さんの設計事務所も内部にある。OHAYOは、地物を使用した食事や飲み物のレストランである。 築100年の古民家を改修した難波邸は、宿、コワーキングスペース、ジュエリーショップを運営している。


1220大原12難波邸01 1220大原12難波邸03 難波邸


 今回、大原宿での古民家再生の実例を見て、そのうち2軒の中に、実際に入らせていただいた。あんこや「ぺ」は、梁と構造体はそのままに内装のみ改修しており、通り土間も残している。中に入ると、椅子に座ってゆっくりと読書などをしていたくなるような、非常に落ち着いた雰囲気を感じた。課題は断熱設備であり、費用の関係でほとんど整備できなかったと聞いた。
 難波邸は、梁組が見える内装となっている。「ぺ」と同様に古民家の温もりを感じるが、キッチンや冷蔵庫などの家電、コワーキングスペースのいすなどを見ると、「ぺ」よりも現代風な印象をうけた。しかし、キッチンの向かいにあっ て寝室となる和室には畳が敷いてあり、懐かしいような落ち着いた雰囲気があった。また、床にはいくつか段差がある。それは上に身分の高い者、下に行くにつ れて身分の低いものが居るというように、身分の違いを表すための上段・下段であったようだ。そういった古くからの構造を残していることも温もりを感じる要因だと思った。
 「ぺ」と難波邸はどちらも内装を改修しているが、古民家の構造体をよく残しており、木造古民家の温もりを感じることができる。そして、雰囲気としての温かさはあるが、機能的な暖かさが課題となっているため、床暖房などの設備が必要である。そのためには、相応の費用が必要となるが、断熱設備が整えば過ごしやすくなり、今よりもさらに魅力のある建物になりそうだと感じた。


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訃報-大貫静夫さん

 さきほど奥様から電話があり、大貫静夫さん(東京大学名誉教授/新石器考古学)のご逝去を知った。昨日年賀状を(ごく少数の方々に)書いたばかりだった。体の調子はどうか、と尋ねたその日(28日)に旅立ったらしい。悪性リンパ腫(血液の癌)で入退院を繰り返されていたが、本人も覚悟をしており、異常なスピードで論文を書き続けていた。著作集の類にいっさい興味はなく、まだ書いておかないといけないものがあると言い、ひたすら新作に拘って著作に邁進された。見倣わなければいけない。
 大貫さんと私は、語学力不振のため、北京語言学院に1年(1982-83)収容された最後の国費留学生(大学院生)である。今年5月、軽度の脳梗塞で入院した際に電話して、「俺の方が先に逝くかと思った」などと雑談したことを懐かしく思い出す。「退院おめでとう」というショートメールもスマホに残っている。縄文中期の埋没スギの報道についても知らせたところ、理路整然と「加工痕」など残るはずはないという意見を頂戴した。新石器研究者のプライドを感じさせる語り口だったが、電話の向こうの声は小さく、枯れていて、「また入院だ」と嘆いていた。あれが最後の交信になった。無念としか言いようがない。
 心よりご冥福をお祈り申し上げます。

以下、葬儀情報。
 
 葬儀日時: 1月5日(金)10:00~11:00
 喪主: 大貫浩子様(ご令室)
 会場: 町屋斎場    *通夜はなし
https://gc-tokyo.co.jp/funeral_hall/machiya.html?utm_source=yahoo&utm_medium=cpc&utm_campaign=search&yclid=YSS.1001264898.EAIaIQobChMIz9K0lNy0gwMVZ_5MAh0PtgbcEAAYASAAEgL1PvD_BwE

《町屋斎場》〒116-0001 東京都荒川区町屋1-23-4 ℡0120-622-288
アクセス: 京成本線「町屋」駅より 徒歩5分
東京メトロ千代田線「町屋」駅(1番出口)より 徒歩5分
都電荒川線「荒川七丁目」駅より 徒歩3分
都電荒川線「町屋駅前」駅より 徒歩5分


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雪国の再生古民家をたずねて(4)-美作市大原・右手

大原街歩き 大原街並み


大原宿の町並み

 12月20日(水)。岡山県美作市の大原と右手(うて)をゼミ忘年会を兼ねて訪問した。先日、教授ご夫妻が右手の久米屋を訪れ、一気に大原・右手との親交が深まってきた。12月に入ってから新潟十日町、智頭町板井原、そして大原・右手と、主に雪国で多くの民家再生例を見ている。卒論に関わると同時に、それらの地域を訪れたことは、私個人にとってもかけがえのない経験になっている。この日、教授はあらかじめ、鳥取側上方往来(因幡街道)の宿場町をみておき、大原を訪れたいと考え、滅私さんに12時半ころ連絡され、早くから大学のロータリーで待機されていたが、学生の足並みが揃わず、ご機嫌斜め。それでも、なんとか昨年までの調査地、河原宿T家の前で往来のスケール感を確認し、大原へ車を走らせた。美作市役所大原総合支所に到着したのは、予定より10分遅れの14時10分ころ。庁舎では、建築家の丸山さんのほか、美作市役所本庁からわざわざ社会教育の文化財係長さんや、企画係長さんがかけつけ、支所長さんも含めて歓待をうけ、両係長さんは、その後の大原宿視察にも同行してくださった。有難い限りである。


1220上方往来河原のスケール感01 1220大原00総合市庁舎01 左:上方往来のスケール感(河原宿) 右:大原総合支所にて


 丸山さんは8年前に東京から中右手集落に移住し、地域おこし協力隊の一員として活動した後、地域から離れるのはよくないと決断し、移住された方である。一級建築士の資格をもっておられ、大原宿でのカフェ、コワーキングスペース兼宿泊施設などの改修にも携わっている。まずは町並みとともに、その改修例を拝見させていただくことになった。

上方往来または因幡街道

 播磨国と因幡国を結ぶ街道は古くから人馬の往来があり、江戸時代は鳥取藩主の参勤交代路となった。鳥取側からは姫路まで続くこの古道を「上方往来」、美作・播磨側からは「因幡街道」と呼ばれる。岡山県町並み保存地区の「古町」には本陣と脇本陣が残っており、歴史的町並みの保全度も高い。古町では過去に四回大きな火災が発生しており、建てこんだ家の造りには火がえし(袖壁)、通し土間、なまこ壁など防火用の配慮がいくつも見られる。これらにより、古い町並みが残った理由の一つでもあるだろう。

 
脇本陣となまこ壁 脇本陣となまこ壁


難波邸

 先に述べた通り、丸山さんの改修した住宅が古町には3軒ある。コワーキングスペース兼宿「難波邸」、あんこのおやつを楽しめる喫茶店「あんこや ぺ」、岡山の食材を中心とした食事とコーヒーなどを楽しめる飲食店「OHAYO」だ。それぞれ案内していただいたが、「OHAYO」だけは休業中で、他の2軒の視察となった。


難波邸外観
↑↓難波邸
難波邸内部1 難波邸内部2 難波邸内部3


 築100年の古民家を改修し、コワーキングスペース兼宿、ジュエリーショップとしても運営している難波邸。玄関先はソファやお洒落なテーブルなどかなり現代木造テイストを感じたが、古風な良さを失っているわけではない。黒光する柱になにより存在感があり、和紙仕立ての照明などインテリアなどから温もりある空間を存分に味わえる。奥の部屋(宿泊スペース)は、見上げると梁組が露出している。そのスペースには、キッチンや椅子・テーブルがあり、真実性と快適性の両立をめざしている。箱階段も発見。カールさんと似たアイデアだが、ホワイトボードで隠れているのが残念だった。また、畳部屋が寝室となっているが、高齢者・身障者は使いにくいかもしれない。そして、寒い。靴を脱いで板のフロアに上がったのだが、足元がかなり冷えてきた。ストーブやエアコンを備えているとはいえ、外部からの冷気が染み込んでくるため暖気が逃げてしまう。カールさんの断熱処理を少し恋しく思った。


1220大原01あんこや01 1220大原01あんこや02


あんこや ぺ

 カールさんがカフェと建築事務所を一つの元旅館に納めているように、丸山さんもこの喫茶店と建築事務所を一体化している。店内写真禁止の表示があったため外観しか撮れなかったが(目の悪い教授は表示に気が付かなかったのか撮影していたが)、内部は古材を多く残す伝統木造の空間だった。先述した「通し土間」が残されていること、黒くなった古材が多いこと、和家具や木製テーブル・椅子などから、古き良き日本の民家を体感できる。だが、アメニティはやや弱いかもしれない。まずは大きな段差だ。玄関先で靴を脱ぐのだが、土間から上がる際の高低差がかなりある。若者は大丈夫でも、高齢者・身障者にはきつそうだ。また、天井が低かった。天井の低さが建築の古さを証明している一方で、何度も頭をぶつけそうになり、というか、ぶつけてしまった。そして、やはり寒い。難波邸同様、ストーブはあるのだが、足元と空気が冷たく感じた。やはりペアガラス、断熱材、床暖房、薪ストーブの効果は絶大だと思う。


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雪国の再生古民家をたずねて(3)-智頭町板井原

板井原景観1 


 12月14日(木)。智頭町福原の「みちくさの駅」送別講演会に先立って、滅私先輩と智頭に乗り込み、鳥取県伝統的建造物群「板井原」を視察した。以前は養蚕民家を活用した山菜料理店「火間土(かまど)」がゼミの会食によく使われていたが、コロナ禍後、経営者(元自治会長夫妻)の高齢化もあって廃業された。それでも教授は10月の上海講演で板井原の「火間土」を大きく取り上げている。もちろん板井原は私の卒論テーマとも関連が深く、以前から個人的に気になっていた山間集落なので、迷いなく訪問を決断した。教授から古民家再生の「カフェ和佳(のどか)」もご紹介いただいており、その活用状況も視察対象とした。

県伝建「板井原」-養蚕民家群の特徴

 板井原には二つの集落があり、すでに用瀬町の下板井原は廃村となっている。我々が訪れたのは智頭町の上板井原である。板井原川の谷間に沿って盆地状の地形に形成された集落で、成立は遅くとも15世紀末にさかのぼり、「平家落人」伝説を残す。集落における主な生業は焼き畑であった。耕地が少なく、藩政期以降、炭焼き、養蚕、杉樽材の産出などが行われていた。焼畑は昭和40年代まで存続していたが、いまは杉の植林地に変わっている。集落内の110棟余りの建物のうち住宅23棟は江戸時代から昭和初期までに建てられたもので、新しい建物も養蚕が盛んだった昭和40年以前のものである。江戸~明治期に建てられた建物の多くは茅葺きだったが、養蚕が盛んになった大正期以降は杉皮葺の二階建てが中心となり、昭和に入るとこれらは鉄板葺きに変わっていった。別棟で養蚕場を建てる家や、主屋を改築して養蚕場を二階に設ける家もあった。これらは板井原集落の重要な建築的特色と言えるだろう。


板井原景観2 養蚕民家が軒を連ねる


 集落内に自動車が入れないこともあり、山村集落の形態をよく残している。また、集落周辺の山林・谷・川・耕地にいたる生業形態に適応した伝統的建造物が高密度で残っている。このことから、一時期は重伝建をめざしていたが、文化庁の審議で不可となり、平成16年2月3日に、鳥取県の伝統的建造物群保存地区に選定された。全国で県選定の伝建は板井原だけである。ちなみに、当時の重伝建レベルを考えると、県選定は妥当かもしれないが、今は重伝建の質が下がっており、国選定のレベルには達していると思われるが、如何せん、定住者の数が異常に少ない限界集落であり、重伝建になっても、維持の担い手がいないという大問題を抱えている。


カフェ和佳内装 


カフェ和佳(のどか)

 教授ご紹介のカフェ和佳ももちろん訪問した。低い平屋の建物で、当初は茅葺き民家だと思われる。入店すると、女性のスタッフが一人。このカフェをひとりで切り盛りされているようで、時にバイトの方がいらっしゃるらしい。14日(水)午前の客は私たちだけだったが、翌日に団体の予約が入っていると聞いた、客が15人を超えるときもあるようで、古民家カフェは惹かれる魅力があるんだな二人で語り合った。このカフェをされている前橋さんは、お母様の故郷である板井原集落へ30歳を節目に戻られ、4代目(5代目かも?)の経営者として「和佳」を再オープンした。古くてもまだ使える材を残しながらの古民家再生には真実性があり、どこか懐かしさも感じた。


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雪国の再生古民家巡礼(2)-十日町市竹所

双鶴庵  冬には茅葺き被覆のシートを被せる


カール・ベンクスさんのこと

 カールさんの履歴についてあまり触れていなかったので、改めて紹介させていただく。カールさんは1942年に旧東ドイツの東ベルリンで生まれた。絵画修復師の父の影響を受け、ブルーノ・タウトの著作などから、日本の文化と建築に関心を持ち、1966年に空手を学ぶために日本へ留学。同時に建築デザインも学んだ。日本の木造建築に惹かれ、茶室など日本建築を欧州に移築する仕事に携わるようになる。カールさんが竹所を訪問したのは、友人の米の買いつけに同伴したためであったが、そこで偶然空き家に出会う。中門造の古民家に強く惹かれて購入を決断し、2年かけて再生。夫婦の「終の棲家」にすべく、自邸を「双鶴庵」と命名した(比翼入母屋造の比翼を思わせる名前である)。その後もカールさんは古民家を再生し続け、その総数は東日本各地で60軒を超えるが、竹所では11軒目となる「とちのきハウス」を再生中である。

奇跡の集落-竹所

 今から数十年前の竹所には家が38軒もあったが、カールさん移住時の1993年には、わずか9軒にまで減っていた。平均年齢70歳前後の限界集落であった。しかし、カールさん夫妻と彼の再生古民家に吸い込まれるように、移住者が続々現われ、集落では18年ぶりに子供が生まれるなど、人口は倍増し平均年齢は40歳前後となった。限界集落だった寒村に、次々と老若男女の世代が移住してきていることから、竹所は「奇跡の集落」と呼ばれるようになり、NHKの特集番組(年2回)で一躍有名になった。
 12月8日も快晴で、集落をゆっくり視察できた。道中、カールさんが再生したであろう古民家を何軒も見た。外観はドイツ式ハーフティンバーで、色は青・黄色・ピンクなど様々、黒い古材とのコントラストがよく映える。積雪の銀白とも似合うだろう。私邸と言うことで中には入れなかったが、これまで視聴した動画の記憶によれば、ゲストハウスやカフェと同じように、オーセンティシティ(文化財としての真実性)とアメニティ(現代住宅としての快適性)が両立されている。外観意匠のオーセンティシティは失われているとはいえ、個人的にハーフティンバーは好みのデザインである。この方法で再生すると、工費・売値も茅葺きよりかなり安価で済むという。


ハーフティンバー1 ハーフティンバー2


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雪国の再生古民家をたずねて(1)-十日町市松代

まつだいカールベンクスハウス
べんがら色の壁と黒い柱のコントラストが映えていますね。


天気晴朗-まつだいカールベンクスハウス

 12月7日から10日まで新潟県を歩いてきました。LCCを使うと飛行機代が思ったより安く、思い切って高飛びを決断した次第です。新潟と言えば、もちろん十日町市のカールベンクスさんの古民家再生がいちばんの訪問目的です。まつだいの"カフェ渋い"で食事して和洋折衷の雰囲気を体感し、カールベンクス古民家ゲストハウスに宿泊する。竹所をのんびり周回し、都合がよろしければ、カールさんになんとかお目にかかりたい。以上が旅立つ前の私の目標でした。ただし十日町は豪雪地帯ということで、天候を心配しておりました。
 7日は雲がほとんどない快晴。これは運が良い。十日町駅から、北陸急行ほくほく線に乗って、まつだい駅で下車し、カールベンクス古民家ゲストハウスのチェックインをするために、"カフェ渋い"へ。チェックインの時間より早く到着したため担当の方に連絡を入れると、「後ほどカールの方からご挨拶に伺いますので」との嬉しい一言。これも運が良い。足早にカフェへ向かいました。
 十日町市松代の商店街ほくほく通り沿いにあるまつだいカールベンクスハウスは、明治末の由緒ある旅館「松栄館」を再生させたものです。1階がカフェ、2階が建築デザイン事務所に生まれ変わっています。欧州の骨董と思しき重厚な扉を開けてカフェへ入り、席に座ってチェックインを待つことに。昼に訪れたこともあり、ランチメニューがテーブルも置かれており、ついつい目をやってしまった。食欲を抑えきれないため、カフェの雰囲気を味わうためだと自分に言い聞かせて、昼食を注文しました。
 「カールさん好みの生ハム&チーズ・お任せデザートセット」にドリンクはドイツ産ノンアルコールビールをチョイス。柱や梁の露出、日本の家具・建具・古材等、伝統的な暮らしの息吹を残しながらも、ソファやテーブル、冬の寒さを凌ぐ薪ストーブ、ペアガラスを取り入れ、現代的な暮らしに対応している。オーセティシティとアメニティがこれ以上ないあり方で融合し、美しいピアノ曲がほのぼの流れる空間で食事を嗜んだ。


まつだいカールベンクスハウス内部

カフェ渋いでの食事1 カフェ渋いでの食事2 カフェ渋いでの食事3


冬とは思えない室内の暖かさ

 ベンクスハウスの中に入ってからずっと思っていたのだが、このレストラン、広いのにかなり暖かい。このとき昼とはいえ、外は10℃ほどなのに、これほど暖かいのはどうしてなのか。まず断熱材だ。新潟県十日町市は豪雪地帯であり、その寒さ対策として、カールさんは厚さ10㎝の断熱材を外壁や床に忍ばせている。薪ストーブで温めた空気を部屋に滞留させることで、この暖かさを実現しているのだ。ペアガラスも大きな役割を果たしている。ここにいうペアガラスとは、いわゆる二重ガラス窓のことで、断熱性に優れている。このため、窓を大きくしても外部との空気の入れ替えが起こらず、部屋を暖かく保つことができる。雪のピーク時は1階部分が埋まるほどであり、自然光をなるべく多く取り入れつつ室内の暖気を失いたくない。ちなみにこのペアガラスはドイツから輸入しているそうだ。


薪ストーブ 新しいタイプの薪ストーヴ


カールさんと対面!

 15分ほど食事をしていると、2階のアトリエからカールさんが下りて来られ、「こんにちは」と笑顔で一言。2階の事務所で打ち合わせをしていたらしい。明日現場を報告する竹所で再生中の古民家の案件を検討されていたようだ。お仕事で忙しい中、わざわざ挨拶に来てくださる優しさに感動です…! 5分ほどの短い会話だったが、翌日竹所で古民家再生の工事をすると聞いた。私自身も明日、竹所へ行く予定だったため、これまた運が良い。「また明日会いましょう」と、カールさんはお仕事に戻られた。


ペアガラス カールさん2ショット
(左)ドイツ式ペアガラス (右)記念撮影


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菅原遺跡報告書批評のための習作(17)

第5章4-3.「多宝塔の起源問題」 p.90


批評-大陸の事例をあげ連ねても多宝塔存在の証拠にはならない

 宝塔・多宝塔が奈良時代の日本に存在した理由が、第4章第1節3.と同様の論理で語られる。連載5連載14ですでに批評したように、敦煌莫高窟壁画に一つの文物が描かれている事実と、同時代の日本にその文物が存在した事実は別次元の問題である。本報告書の記載では、敦煌で描かれていれば日本にも存在した可能性が高い、という論調が当たり前のようになっているが、騙されてはいけない。ここでは敦煌以外の事例についてもコメントしておく。
 ①金剛峯寺根本大塔の形式は、空海自身が中国で得た「南天鉄塔」=天竺の塔、のイメージであると考えるのが自然である。《略》7世紀には玄奨三蔵がすでにインドの塔を参拝している。中国においては空海渡唐以前に「天竺塔=円形塔」のイメージが導入されており、8世紀前半の日中交流(あるいは道昭など7世紀の交流)のなかで多宝塔形式が導入されていても問題はない: 【コメント】敦煌壁画の解釈と同じ過ちを犯している。玄奘がインドに行ってインド型の仏塔を多数みた。それで、インド型の仏塔が西域や長安に建設された可能性はあり、それを遣唐使等の留学僧がみた可能性もある。しかし、そのような仏塔が日本に存在したと判断できるだけの証拠はどこにもない。空海が「天竺塔=円形塔」をイメージしたから、高野山金剛峯寺根本大塔(多宝塔という呼称は使っていないので注意せよ!)が建設できるほど気楽なものではなく、たとえば密教の本場、長安青龍寺あたりから工人を招聘しなければ、あのような大がかりで複雑な構造の仏塔を建設することはできなかったのではないか。あるいは帰国時に恵可が空海に授けたマンダラの中に宝塔/多宝塔が描いてあり、それを日本の工人にみせて大塔を建てさせたのか。いずれにしても、密教の奥義を極めた空海だからこそマンダラと大塔の招来をなしえたのであって、それ以前の僧を同等には扱えない。
 一方、行基の場合、周囲から間接的な情報としてインドの仏塔のイメージを植え付けられていたのだろう。直接的参照資料はなかったはずである。そのような条件下で、インド型仏塔を具体化しようとしたのが大野寺土塔であり、その最上層(13層)に円形構造のストゥーパを立ち上げようとしたが、構造・技術的な知識は欠落していたので、自分なりに最上層の円形構造物を考えたのではないか。その結果、塔の構造は土盛りに瓦を直葺きとする素朴なものになったと推定できる。少なくとも、大野寺土塔では最上層で検出している柱は心柱跡のみであり、4本柱の痕跡はないので、方形屋根で伏鉢を覆うことはできない。その屋根のない姿を想像するならば、平安初期の大塔、それ以降の多宝塔とは大きく構造を異にするものである。宝塔・多宝塔の「初現形式」という用語をどうしても使いたいなら、それは土塔最上層の構造物にふさわしいと思われる。
 ②『四分律』巻52には舎利弗・目連の舎利塔を「四方作若円若八角形」と規定しており、円形塔のイメージは戒律の中にも見いだせる。《略》行基の師、道昭とともに7世紀に中国へ留学した道光によって、四分律の研究書である『依四分抄撰録文』が著されており、道光帰国後の天武朝段階において戒律の研究が行われていたと考えられる(直林1990): 【コメント】「四方を作るに円のごとし、八角形のごとし」と読むのであろうか。釈迦の十大弟子であった舎利弗と目連の墓塔がインドにおいて、円形もしくは八角形であった、ということだろうが、サーンチのストゥーパをみれば明らかなことではないか。あえて日本に置き換えるならば、前期難波宮で正八角形の遺構(楼閣跡?)がみつかっているわけだから、7世紀の寺院に八角円堂があっても不自然ではないが、円形の建物はみつかっていない。円の代替として八角形が重用され、「八角円堂」と称するのであって、『四分律』巻52は7世紀の日本に円形建築が存在した証拠になりえない。天武朝に『四分律』の研究がおこなわれていたことと、円形の建物が存在したことは別次元の問題である。以下、原文。下線評者。
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(3)多宝塔形の起源問題
 今回の復元では多宝塔の形状が最も有力という結論を得た。しかし、多宝塔の形状が奈良時代にありえるかという疑問は残る。現存する最古の多宝塔は建久5年(1194)創建の滋賀県石山寺多宝塔であり、現存資料からは平安時代後期を遡るものは確認できない。記録上は最古の多宝塔として和歌山県高野山金剛峯寺多宝塔がある。これは空海が真言曼荼羅の塔(毘盧遮那法界体性塔)として考案したもので、創建大塔の型式は不明だが、『高野春秋編年輯録』所収の康和5年(1103)再建の二代目大塔の記録に創建期大塔が「高さ 16丈、方5間で広さ8丈の裳階水輪柱12本、母屋内柱12本、仏壇柱4本」を有していた記録があり、創建大塔が上層円形、下層内陣円形、外陣方五間の可能性があるとされている(足立1941、濱島1975)。いずれにしても平安時代をさかのぼる多宝塔形式の塔はその存在を確認できないが、そもそも毘慮遮那法界体性塔としての原型は、龍猛が南天鉄塔から金剛頂経を得たとする『金剛頂経大喩伽秘密心地法門義訣』の情報である(阿部1996、真鍋1983)。
 しかし経典には鉄塔の形状に関する記述は無く、金剛峯寺根本大塔の形式は、空海自身が中国で得た「南天鉄塔」=天竺の塔、のイメージであると考えるのが自然である。敦煌莫高窟第301窟(北周末隋初)、第303窟(隋)、第419窟(隋)壁画には宝塔形式の建築物が描かれているほか(近藤2014、図75)、7世紀には玄奨三蔵がすでにインドの塔を参拝している。中国においては空海渡唐以前に「天竺塔=円形塔」のイメージが導入されており、8世紀前半の日中交流(あるいは道昭など7世紀の交流)のなかで多宝塔形式が導入されていても問題はないだろう。また、『四分律』巻52には舎利弗・目連の舎利塔を「四方作若円若八角形」と規定しており、円形塔のイメージは戒律の中にも見いだせる。受戒作法を伴う四分律の体系的受容は鑑真渡来以降であるが、すでに行基の師、道昭とともに7世紀に中国へ留学した道光によって、四分律の研究書である『依四分抄撰録文』が著されており、道光帰国後の天武朝段階において戒律の研究が行われていたと考えられる(直林1990)。


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菅原遺跡報告書批評のための習作(16)

第5章 調査のまとめ-要点の整理と課題(続)
 3.創建年代と維持管理について pp.88-89
 4.中央建物の構造について pp.89-90


 メリー・クリスマス! 菅原ブルーの夜に、サンタさん来るかな?


批評-堀方/抜取からの出土を明確に区別して解釈せよ!

 菅原遺跡2020年度調査区でみつかった複数の遺物を取り上げ、創建年代を749~760年に位置づける解釈は妥当であろう。ただし、遺物の出土位置に着目すると、北側建物SB150柱穴m抜取痕と南側排水路SDO34から出土した6711B型式軒平瓦(5·35·36)は施設の廃絶と関わる遺物である。円形建物SB140に用いられていた軒瓦が伽藍廃絶時に投棄されたものと考えられる。一方、SB150柱穴c掘方から出土している土師器杯B(1:730~760年)こそが施設設置に伴う遺物と言える。同じ柱穴と言っても、抜取で出土した遺物は廃絶、堀方で出土した遺物は設置を反映しているからである。この土師器こそが伽藍造営の鍵を握っているが、廃絶時に投棄された6711B型式軒平瓦は西側の整地土Ⅰでも出土しているので、区画内施設群の当初から用いられていたとみてよい。ただし、何度も述べてきたように、造営工程から考えて、行基没後まもない749年以降10年以内に編年される6711B型式軒平瓦はSB140の大屋根に使用されていたとみなすべきである。

批評-SB140多宝塔案に根拠がない理由一覧

 またまたまたSB140多宝塔説の根拠と起源説が繰り返し語られる。何度でも反論してさしあげます。今回は箇条書にコメント形式とする。

 ①内周土坑列の性格については、その配置が円形を呈すること、その性格として転用石を埋設したものである: 【コメント】「転用石を埋設」という説明は初見。あとで「切石など廃材利用」という表現も出てくる。「転用石」「廃材」の根拠不明。事実ではなく、推定あるいは解釈であることを明記すべし。
 ②(土坑列のうち)一つは147゜の角度を持つ切石の痕跡が確認でき、これは正八角形の内角(135゜)とは異なること、またその配置は内周土坑列の配置と整合性を持たないことなどから、これらの石材は八角形や円形の石造基壇地覆石にはなり得ない(18頁): 【コメント】前にもに述べたように、土坑列の抜取穴の角度が147゜であって、切石の角度そのものではない。「石材」は一点も出土していない。執筆者たちは「略円形」の「壁地覆の地覆石」説を採っているが、結果として基壇は存在し、凝灰岩の地覆石は基壇外装になっている。また、基壇形状は八角形でなくとも十六角形もありうる。十二角形にはなりうるのか?
 ③内周土坑列はその配置から八角円堂の8本柱の礎石痕跡にも、多宝塔にみられる12本柱の礎石にもなり得ない: 【コメント】八角円堂の場合、八角に並ぶ柱列は基壇端から数尺内側に並ぶので、基壇端に柱を立てる必要はない。むしろ立ててはいけない。多宝塔案の場合、基壇端に12本の柱を円状に並べる必要がある。それができないと自白しているのだから、ここに構造壁を構築するのは不可能である。一般的にこの位置で壁をつくる場合、カーテンウォールとするが、その場合は必ず12本の柱が必要になる。大壁にする場合でも、柱は必要であり、柱がないというのなら、深い溝状遺構に杭を並べて大壁の小舞が多数必要だが、そのような痕跡も一切ない。したがって、多宝塔説の基壇端大壁復元は成立しない。
 ④外周柱列は《略》周辺から小型瓦が出土しているが、回廊は通常の瓦を利用した甍棟構造であることが判明しているため、小型瓦は中央建物に使用したものと考えざるを得ない: 【コメント】回廊が通常の瓦を利用した甍棟構造であるとしているのは執筆者の大胆な「解釈」であって、事実として受け入れることはできない。中央建物に小型瓦を使用したという論理も成り立たない。6711B型式軒平瓦を回廊に使ったとすれば、行基没後最初に回廊等囲繞施設が完成し、その後に内側のSB140の造営に移行したことになる。作業上ありえない工程であり、当然、SB140を真っ先に完成させ、その後、囲繞施設の建設に移行したであろうから、6711B型式軒平瓦など普通サイズの瓦を用いたのはSB140であり、むしろ小型瓦は囲繞施設のどこかで少数使ったと考えるべきである。
 ⑤内周土坑列をかなりの重量を支えるための基礎構築物を抜き取った痕跡と判断した: 【コメント】内周土坑列が大重量を受ける基礎の痕跡のようにはみえない。また、遺構は基礎構築物の「抜取り」痕跡ではなく、「据付け」と「抜取り」の痕跡が重複したものである。凝灰岩粉が底面でわずかにみつかっているので、凝灰岩の切石が収まっていたのはたしかだろうが、大壁の基礎となる杭列も柱礎石列も皆無である。凝灰岩は柔らかい化粧石材なので、基礎そのものにはならない。基壇端に大壁(構造壁)をつくることはできない。


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菅原遺跡報告書批評のための習作(15)

第4章第1節 おわりに pp.71-72


批評-建築にならない復元案

 また同じことが書いてある。誤認識もいっそう露わだ。たとえば、「内周円形土坑列上には、筒状に壁体が立ち上がるが、柱をもたずに地覆上に下地を立ち並べる壁構造と考えた。渡来系氏族の居住地で発見される、いわゆる大壁造りの住居と同様のものである」。ここで大壁構造に初めて「渡来系氏族の居住地で発見される」という枕詞をつけるが、類例を一切示していない。少し資料を集めれば、渡来系氏族の住宅で用いられる大壁(連載1)は、深い溝状地業の中に多数の杭を打ち込んだものであることは分かるはずだから、資料を見ずに推測でこのような書き方をしているのだろう。SB140の場合、円形土坑の底辺に凝灰岩粉が貼り付いて残っており、杭列・柱穴・礎石据え付け痕跡は検出されていないのだから、大壁の地下遺構ではありえない。基壇端の円形大壁という未だ見ぬ構造を妄想しても、それが存在した根拠はなく、仮に存在したとしても、凝灰岩基礎の大壁は本体と裳階(土庇)をつなぐ構造壁にはなりえない。この段階で、元文研復元案は建築的に成立しえないことを、すでに何度も述べた。
 基壇上に12本の柱を立ち上げる平面は、桃山時代の慈光寺開山塔に古式を認め倣ったものである。それは「初現形式」というほどのものではなく、空海帰国後のある段階の形式であり、奈良時代に遡る証拠は皆無である。内側の円形に並ぶ柱列と平行関係にある基壇端の大壁は存在しえないし、「裳階」と位置付ける16本の外周柱列も決して金剛峯寺大塔図のような正方形ではない。どこを探しても、多宝塔との類似点は確認できず、それ以前に「建築にならない」事実を報告書で告白したようなものである。

批評-研究は多数決ではない

 さて、「発掘遺構や出土遺物からできる限りのヒントを得られるよう、発掘担当者とも議論を重ねて得た成果である」という釈明文は、読者を納得させようとしてアピールしたものだろうが、危険な匂いがプンプンする。第5章の「おわりに」(p.92)でも、「(SB140の)構造復元については、現状で利用しうる限りの情報を用いて、関係者間で何度も検討を繰り返した」ことを強調している。遠く離れた旧調査区で出土した小型瓦がSB140に用いられたというのは、事実ではなく、調査担当者の大胆な解釈にすぎない。2020年度調査区の瓦出土状況をみれば、SB140と小型瓦の関係は希薄であり,小型瓦をSB140の所用瓦とみなす根拠にならないのは自明である。ただ、調査担当者が「小型瓦を使った」と思い込んでいるから、建築復元担当者もそうだと考えただけのことである。大勢で議論を重ねたと言っても、おそらくEとMとSとHの4名の合意であり、その4名が集団として間違った方向に歩んでいったのだと私は思っている。研究は多数決ではない。反論者がわたし一人だとすれば、4対1で多勢に無勢だが、研究という世界では少数意見が真実に近いことはしばしば起きる。初めは狂気かぼんくらだと思われていたアインシュタインにしても、相対性理論の発見により一瞬にして評価は覆った。もう一言反論しておくと、多勢に無勢のようにみえて、逆に私の回りでは、この報告書を読んだ考古学のMもSもKもHもみな多宝塔案には否定的である。建築史のKやO、YもNもMも「奈良時代にこんな断面あるはずない」「基壇端の大壁などありえない」「建築にならない」等と口を揃える。関係者全員で考えたという背景が、正しい考察・結論に至らなかった代表例の一つとして今後語り継がれるかもしれない。
 最後の一文「建築史的に見ると、その構造や年代に、やや唐突の感は否めない。鎌倉時代より古い宝塔や多宝塔の現存建築がないなかで、その初現的な形態について、今後のさらなる研究の深化に期待したい」についても一言。やや唐突どころの騒ぎではない。これほど唐突で非論理的な建築史学的妄想にお目にかかることは珍しい。平城宮第一次大極殿院東楼を寄棟屋根にした考察(連載3)を凌ぐほどの作為に満ちた捏造的論考である。その根幹にあるのは「知識のなさ」であり、それがここまで結論をねじ曲げているのだと思う。そもそも菅原遺跡SB140を宝塔・多宝塔系とみなすのが誤りであり、その「研究の深化」がここから進展するとはとても思えない。すでに終わっている。 以下、原文。下線評者。
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おわりに
 以上 SBI40の遺構の特徴を確認したうえで、上部構造を検討してきた。その結果、多宝塔に似た形式に復元するのが最も妥当であると考えた。ただし、その構造は、現存する多宝塔には見られないものである。その特徴を掲げてまとめとしたい。遺構で確認した内周円形土坑列上には、筒状に壁体が立ち上がるが、柱をもたずに地覆上に下地を立ち並べる壁構造と考えた。渡来系氏族の居住地で発見される、いわゆる大壁造りの住居と同様のものである。そしてその内部に、地盤面から立ち上がる12本の柱が三手先の組物を備えた構造体を支持して 屋根をかけた上層を造る。この内周円形土坑列の壁体上部と上層軸部とを支輪状の天井でつないで、下層の主屋を形成する。これらは木造宝塔の実例である慈光寺開山塔の構造に古式を認めて倣ったものである。ここまでで宝塔の基本的な形態を形成する。上層は方形平面の瓦葺で、出土瓦から通常より小さいサイズの瓦を用いる。鬼瓦の出土数から稚児棟をもつと考えた。
 さらに外周の掘立柱列には径17cmの掘立柱を立てて桁をまわし、前述の支輪状の天井上から外周掘立柱上の桁に垂木を渡して檜皮葺の屋根を葺く。下層を掘立柱としたのは、内周円形土坑列上に形成された壁体が大壁構造であることから、繋梁を入れづらいためと解釈した。こうして形成された下層の展根は平面十六角形をなし、宝塔の下層軸部にかかる裳階として機能する。全体を見ると、平面は、内部12本の柱が平面円形にめぐり、その外側に円形の壁体をもち、さらにその外側に平面略円形(十六角形)に16本の掘立柱がめぐる構造となる。この形式は、形状にやや違いはあるものの、『高野春秋編年輯録』に載せる金剛峯寺大塔の平面に共通する部分があり、多宝塔の初現的形態と位置づけることができる。
 類例のない遺構が、特異な立地上に建つSB140の復元を通じ、発掘遺構や出土遺物からできる限りのヒントを得られるよう、発掘担当者とも議論を重ねて得た成果である。これには、慈光寺開山塔と堂庭廃寺宝塔跡の構造が似ていることが大きなヒントとなった。しかし、建築史的に見ると、その構造や年代に、やや唐突の感は否めない。鎌倉時代より古い宝塔や多宝塔の現存建築がないなかで、その初現的な形態について、今後のさらなる研究の深化に期待したい。


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さよなら、みちくさの駅(6)

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 12月14日開催「みちくさの駅」送別講演会に出席した1・2年生の課題提出締め切り時間をすぎました。今夜は、課題問3の回答を、移住(セカンドハウスとしての活用)に絞り、肯定派と否定派に分けて紹介し、若干コメントします。まず問3を再掲載します。

課題6「みちくさの駅」送別講演会の活動について
  問3「みちくさの駅」は今年いっぱいで廃業し、木造山小屋風の店舗を住宅として
    売却する予定にあるという。一方、教師は1年余で大学を定年退職する。
    退職後は、鳥取で古民家もしくは木造建築を購入し、「アトリエ兼書庫」として
    機能するセカンドハウスに再生・活用したいと考えている。この「みちくさの駅」
    移住構想についてどう思うか、率直な意見を述べなさい。
    なお、教師の住宅・家族事情は以下のとおりである。
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①現在、教師は同い年の妻とともに鳥取市内のアパートに仮住まいしているが、奈良市に一戸建ての住宅も所有している(長男と猫がそこに居住中)。②教師の蔵書は大変多く、新居を探している目的は「書庫兼アトリエ」を確保し、晩年の執筆活動に便利な活動拠点にしたいと考えている。③智頭町福原は豪雪地帯であり、冬季にはまれに1m以上の積雪があって、孤立状態に陥ることがある(停電もあり)。また、駅舎・役場・病院・スーパーなどが集中する智頭の中心地からやや離れている(そう遠くでもない)。こういう生活の不便さを妻は懸念している。④教師は気候の良い春~秋は主に鳥取で生活し、冬は奈良に籠ろうと考えているが、冬季の3ヶ月間「みちくさの駅」を放置というわけにもいかない。⑤妻は軽度の身体障がい者(杖歩行者)であり、また教師も今春軽度の脳梗塞で入院し、歩行に若干難がある。このため「みちくさの駅」を住宅化する場合には、バリアフリーの改装が必要であり、また現在はない寝室、バス(浴室)などを1階に設置する必要がある。
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《否定派》

移住するなら智頭の中心部の方がよい
 私はみちくさの駅に移住するのはあまりよくないのではと思います。ブログにも「河原は父母とともに18歳まで育った町であり、福原は母の故郷だったのです。幼少のころ盆になると、母に連れられて福原の墓参りに行った経験がある」や、「母の亡くなった2016年は「みちくさの駅」誕生の年であり、まるで輪廻のような因果を感じます」等、思い出があり、ここで余生を過ごしたいという気持ちはわかりますが、夫妻ともに身体に不自由があり、いくらバリアフリーの家にするとは言っても、あの場所だと生活品の買いだしや病院に行くためには車が必要不可欠であり、将来的に車が運転できなくなることを考慮すると、やめた方がよいと感じる。なので別荘として利用するのが最善だと思う。移住するなら智頭の中心地などある程度生活には困らない、別荘近隣の場所に移住するにとどめるなどが良いと思う。お金はかかるが、それが最善だと自分は感じている。(1年経営055SM)
【リプライ】 ①智頭中心部も豪雪地帯 ②古い町・村はコミュニティが厄介な場合がある。③どこにいても車は必要。

立地よく、広く使えるような古民家をリノベーションした方が良い  
 「みちくさの駅」は木造の二階建てとなっている。夫妻お二人で住むことを想定していると思うので、懸念ポイントがいくつかあると思っている。まず二階建てであり(詳しく階段を見れていないが)二階と一階の間に十分な高さがあったところから、階段を上り下りするのが困難だと思われる。また、教授は脳梗塞で歩行に支障があるとのことだったので、二階を書庫や作業部屋にはしづらいと考えられる。そうなると二階の活用がなかなかに難しくなってしまう。他にもバスをない所から作るとなると、多くの場合が元々ついているところをリノベーションするよりも代金が高くなってしまうのではないかと考えられる。また、詳しく見れていないが、一階はそれほど広くないように見えたので、そこに寝室、アトリエ、書庫、キッチン、リビング、バスetc.を入れるのは難しいと思った。増築するにもお金がかかってしまう。しかし店の周りは広かったので土地関係は分からないが、増築する分の土地はありそうだなと思った。店内は木造でどこか温かく落ち着く感覚があり、確かに執筆作業をするのにはぴったりな雰囲気だと思われる。しかし、上記の理由から、立地ももっとよく、広く使えるような古民家をリノベーションして住んだ方が良いのではないかと思った。(2年環境153YM)
【リプライ】 ①古民家のリノベーションは「みちくさの駅」以上に費用がかかる。②寒さも厳しい。③反バリアフリー(畳と土間)

自分がしたいと思ってした行動には大きなリスクを伴う
 反対である。なぜなら不便すぎるからだ。私は愛媛県出身で、それなりに家の周りが充実していて買い物にも遊びにもすぐ に行くことができていた。しかし、地元よりも自然が魅力的な鳥取という場所に 惹かれ移住したいと思い、今現在に至る。自然が大好きな私にとって鳥取は最高 な場所である。しかし、実際に生活してみると近場にコンビニやスーパーがな く、買い物に行くのにも非常に多くの労力と時間を費やさなければならなくなっ た。免許を持っていないということもあるのかもしれないが、少なくとも鳥取に はお店が少なく不便だと感じることが多い。このように、自分がしたいと思ってした行動は後悔はしない代わりになにか大きな欠点を負うこととなる。そのため、住むとしたら市内の方にしておいて、別荘として古民家を再生した建物にすればよいのではないかと思った。(1年環境029ON)
【リプライ】 ①鳥取で(愛媛でも)車のない生活はありえない。将来的には自動運転車? ②市内の不動産は高い。アパート家賃もばかにならない。③古民家再生は複雑で費用がかかる。


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雪掻き・孤立の問題、市内のセカンドハウスの方がいい
 私は、この移住構想について反対である。主な理由として、教授や奥さんが歩行が不自由であることである。歩行が不自由であるならバリアフリーに改装を施せばよいのだが、智頭町福原は豪雪地帯である。そのため定期的な雪かきが必要であり、車での移動が不可能となる場合がある。さらに、万が一豪雪によりみちくさの駅に孤立するとなった場合、歩行が不自由な教授と奥さんでは避難も容易にすることができない。アトリエ兼書庫とするセカンドハウスを探すのであれば不便の少ない市内にするほうが良いと感じる。(1年経営083DK)
【リプライ】 ①冬は奈良に籠る。②鳥取市内の不動産・家賃は智頭よりかなり高い。

妻の方が移住をどう考えているのか
 「みちくさの駅」を購入し、「アトリエ兼書庫」として機能するセカンドハウスに再生・活用するのは厳しいと考える。厳しいと考える理由は3点ある。1つ目は生活の不便さである。智頭町福原は豪雪地帯であり、冬季にはまれに1m以上 の積雪がある。この気候から雪かきや交通手段が困難であると考える。教授夫婦は少しではあるが日常生活に支障をきたしていることが、家族事情から読み取れる。脳梗塞は1度発症すると再発する可能性が高くなる。もし、この建物に冬場 住んでいるときに脳梗塞に陥ると考えると、助かる可能性が低いと思われる。また、車の運転も考えると夫婦のみで生活するには厳しい住宅ではないかと思う。 2つ目は金銭面である。みちくさの駅を書庫兼アトリエにする際に改装が必要である。歩行補助のためのバリアフリー、寝室や浴室を設置すると考えると、家を購入した資金と合わせると多額の費用がかかると考える。また、書庫兼アトリエ として使用すると考えると、蔵書を保管しやすい環境にする必要がある。国立国会図書館で行われた「持続可能な環境管理 図書館・文書館の資料を中心に」という資料によると、「湿度と温度の変動が緩やか、紫外線や赤外線の除去、可視光線、照度制御、清浄な空間」が基本であると書かれていた。また、建物も頑丈で断熱性のあるものでなくてはならない。現在の「みちくさの駅」はカフェと蕎麦を楽しむ空間となっているため、書庫を保存する環境がどうか分からないが、 蔵書が痛むような環境であれば改装する必要があるのではないかと考えた。3つ目は妻の方がどのようにこの件について考えているかである。教授が1人で 「みちくさの駅」を使って、執筆活動をする場合問題はないと思う。しかし、夫婦でそこに住むと考えると妻の方が生活の不便さを心配している現状がある。こ のことを含めて考えると、「みちくさの駅」でセカンドライフをするのは厳しいのではないかと思う。以上の考えから、「みちくさの駅」を購入し、「アトリエ兼書庫」として機能するセカンドハウスに再生・活用するのは厳しいと考える。(2年環境135MM)
【リプライ】 ①ともかく研究室所蔵の本の置き場に困っている。「みちくさの駅」は壁面積が広く、本棚をたくさん設けることができる。図書館をつくるわけではない。②都市部で新しい不動産を購入したり、民家をリニューアルしたりするのと比べると費用は安くあがると思う。土地代は0円に近い。改修費も古民家より安くて済む。③女房は「本や音楽関係の持ち物はすべて捨てて!」と日々言ってくる。楽器は売ってもいい。本は減らしていく予定だが、自分の天職は文筆であり、全部売却というわけにはいかない。死ぬまで文筆を続ける。それが生きがいであり、そのためには「アトリエ兼書庫」が必要。

 *これまで講義してきたカールベンクス、クンサンチョデンなどの人生・活動と比較してほしかった。


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菅原遺跡報告書批評のための習作(14)

第4章第1節 3.復元の建築史的意義(続)「SB140の復元案の評価」pp.73-74


批評-堂庭廃寺とSB140に類似点はほぼない

 信じられないことに、自らなしたSB140復元案を慈光寺開山塔や堂庭廃寺宝塔と比較して、「円形の軸部と、12本の柱を地盤上から立ち上げて、上層の構造を支持する方法は、宝塔の初現的な構造と言える」と自画自賛している。桃山時代の慈光寺開山塔を参照し、平安時代前期の堂庭廃寺宝塔跡を解釈して両者が類似していると説き、その両者を参考にして復元したのが菅原遺跡SB140なのだから、これら3者が相関し類似するのは当たり前のことである。
 ここで比較検討すべきは、堂庭廃寺宝塔跡と菅原遺跡SB140の出土遺構である。両者を比較すると、共通性はほとんどないことが分かる。堂庭廃寺宝塔跡の特徴を執筆者の解釈によって再度整理すると、①径18尺の12基の円形礎石列で塔身の軸部を支持し、②その4尺外側の同心円状もしくは十二角形の石列が円形軸部の地覆石であり、③瓦積基壇の外側に方形屋根からの雨水を落とす川原石の溝がある、という3点に絞られる。一方、菅原遺跡SB140では、①の12本柱の基礎は未発見、②円形軸部の地覆石部分には円形土坑列が並ぶが、それは大壁の基礎になりえず、③方形屋根からの雨落溝がない代わりに16本の掘立柱列が円形にめぐるが、多宝塔に特有な正方形裳階の形状を呈していない。つまり、SB140の本体が建つ基壇の形が略円形もしくは多角形を呈している事実以外に、堂庭廃寺宝塔跡とSB140に類似点は確認できないのである。しかも、構造壁となる大壁は成立せず、方形屋根の根拠もない。裳階とは言い難い十六角形の土庇を本体まわりにめぐらす点はとくに異質である。こういう状況にあって、SB140を「多宝塔の初現的な構造」と位置づけることはできない。むしろ多宝塔とは別系統の建物と考えるべき証拠が揃っていると言えよう。 以下、原文。下線評者。
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 SB140の復元案の評価  そのうえで、菅原遺跡のS8140の復元案について考えてみたい。SB140は、慈光寺開山塔や堂庭廃寺宝塔よりも規模が大きいために、鎌倉時代以降の工芸品の宝塔に見られるようなプロポーションではないが、円形の軸部と、12本の柱を地盤上から立ち上げて、上層の構造を支持する方法は、宝塔の初現的な構造と言える。さらにその周囲には、平面略円形(十六角形)をなす掘立柱列をめぐらせる。それを掘立柱で造らなければならなかった理由は、柱を自立させて屋根を支持しなければならなかったためであるが、内部の構造体(主屋)と水平方向でつなぐことが難しかったためでもあると推測する。掘立柱列の内部にあるのは、円形軸部の壁体であり、これと水平材で連結できなかったことがその理由として考えられる。また、上層屋根の張り出しでは下層の円形軸部を覆いきれず、円形平面の外周掘立柱列を設ける必要が生じたと推定した。
 下層軸部が円形である点、また略円形平面の裳階をもつ点が特異だが、これらは発掘遺構で検出されたものであり、小型瓦を用いた上層は多宝塔とほぼ同様の構造を想定した。板床を張らずに土間と推定したが、発掘遺構では板床を張った床束の痕跡も確認できていない。堂庭廃寺が土間であることを勘案して土間と考えた。以上のSB140の構造は、多宝塔の初現的な形態と評価できると思う。上層に小型瓦を用いるため、上層の12本の柱からなる平面は、小さくなるように考えなければならなかった。また、そうしないと上層の対面する組物どうしをつなぐ通肘木を一木で造れなくなるといった材料上の制限もある。


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菅原遺跡報告書批評のための習作(13)

第4章第1節2.「外周掘立柱列」 p.69

 憂鬱だが、中途半端に終わるわけにはいかないので、書評習作を再開しよう。


批評-外周掘立柱列は本体と時期差のある土庇であり、扇垂木もありえない

 外周掘立柱列については、「板葺きにして葺板の長さを均一にすれば、多宝塔の裳階のような造形になる」としているが、現実には、裳階は十六角形を呈する。檜皮葺き十六角形の土庇であって、多宝塔下層のような方形裳階には決してならない。そもそも、円形にめぐる掘立柱列を純然たる「裳階」として評価するのは如何なものか。これは土庇である。いま平城京内の事例を思い出せないので、絵巻物を参照すると、『年中行事絵巻』巻1に描かれる平安宮内裏建礼門の背面に掘立柱と思われる檜皮葺きの土庇が描かれている。また、満田さおりの論文「平安宮内裏の土庇と雨儀」(日本建築学会計画系論文集 第77巻 第677号:pp.1739-1748,2012)は多数の土庇のある建物を引用している。これらの例をみると、土庇は階段を覆う向拝というよりも、基壇端全体を保護している。つまり、SB140の場合、円堂の四方にあった扉口前の石階の向拝をつないで環状にしたもののように思われる。あるいは、石階は多角形全周をめぐっていて、十六角形土庇はその向拝だったのかもしれない。向拝という点では、養老2年(718)、光明皇后の母、橘夫人の発願によって行基が建立したと伝える法隆寺西円堂(1250再建)が参考になる。法隆寺西円堂の正面には錣葺き風に向拝がつく。鎌倉時代初期の再建だけに、礎石建瓦葺きとするが、本体と向拝の接続関係がよく分かる。
 SB140の場合、本体基壇建物部分と十六角形掘立柱列には方位軸にずれがあるので、若干の時期差を想定できる。我々は、まず八角円堂が建立され、その後やや遅れて土庇を付加したと考えている。多宝塔説の場合、基壇上の主屋と貧相な掘立柱が同時に構想されていたことになるが、それならば両者の構造形式にもう少し一体性があってもよいのではないか。本体と土庇であまりにも落差が大きすぎる。ともかく、土庇(裳階)十六角形は確定なので、方形大屋根との形態差は明らかである。この点が、元文研復元案を醜くしている最大の要因と言える。見られた造形ではない。
 もう一つ、図60(p.67)の復元見上げ図をみると、この「裳階」部分が扇垂木になっている点が気にかかる。7世紀の四天王寺や山田寺ならいざしらず、8世紀中期以降の奈良時代建築に扇垂木を使ってよいのか。我々の八角円堂案では、十六角形の土庇はあくまで平行垂木と配付垂木による檜皮葺き屋根としている。元文研案が、かような規則違反というべき扇垂木になったのは、基壇端に構築した大壁構造壁のせいである。何度も述べたように、地業・杭・柱なしで大壁は存在しえないので、当然、扇垂木もありえない。小型の隅切瓦を遠隔地で用いたとする無根拠の理由で、上層は無理矢理、宝塔風の方形屋根にしたものの、下層が方形にならないことは明々白々である。下層との整合性を考えると、上層は素直に八角形とみるべきである。八本の隅棟があったとすれば、熨斗瓦として使う平瓦・割熨斗瓦が多い出土状況も説明しやすい。以上、下層(掘立柱裳階)の形態からも多宝塔説は破綻していることがよく分かる。以下、原文。下線評者。
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 外周掘立柱列 すでに述べたように、円形土坑列の外側で検出した柱列は、掘立柱の構造である。主屋の構造が掘立柱ではないながらも、外周柱を掘立柱としている。掘立柱の特性は、柱が自立すること、あるいは簡易に設置できることであり、柱が自立すれば水平方向の支持材(水平材)の役割は小さくなる。SB140の円形土坑列は壁構造と考えたので、この上にさらに重い瓦葺の構造体を重ねることは難しい。また、外周柱の頂部高さに主屋とをつなぐ水平材を入れることも難しかったのであろう。このため、主屋に礎石建ちを用いる技術をもちながらも、掘立柱を用いなければならなかったと考えられる。この場合、隣り合う外周柱頂部どうしを水平材(桁)でつないで、その上に屋根の骨組み(垂木)を掛け渡したと推定される。
 この外周掘立柱で支持した屋根は、内周円形土坑列の壁体と、その内部の上層屋根の軸部では、覆いきれなかった部分を覆って、雨水から守る機能を有していたと考えられる。であれば、その平面形状は略円形(十六角形)でなくてもよかったのではないか。この点を屋根材とからめて検討する。まず、径17cmと細い柱であるのは、重い屋根材ではないことを意味しており、瓦葺は考えにくい。屋根平面は十六角形をなし、屋根面は扇状に広がるので、板をかけ渡す流し板葺とすると、一面の屋根の中央部は長い材が必要となり、また両端部は現場あわせで材の長さを調整する必要がある。板葺であれば、板の長さをおよそ一定にできる四角平面とするのが簡易である。このとき、四隅にあたる柱穴に隅木がかかり、支持する重量も隅にあたらない平の部分よりも重くなる。このため太い柱4本と細い柱8本程度が必要になる。この形態がまさに多宝塔の下層になることが理解できる。しかし、遺構は平面略円形(十六角形)になっているのであるから、この平面で簡易に屋根を造るとすれば、檜皮葺が適当と考えられる。761年の「法隆寺縁起井資財帳」(いわゆる法隆寺東院資財帳)にみえる檜皮葺の「屋」は、昭和の解体修理に伴う発掘調査によって、掘立柱の構造であることが判明しており(國立博物館1948)、掘立柱と檜皮葺は整合的である。
 その構造は以下の通りである。先述した内部土坑列上の壁体と上層軸部との間に設けた支輪状の天井の上に、裳階の垂木の上端を添わせて置き、外周柱筋の桁に垂木を掛け渡し、直交方向に木舞を渡して檜皮を葺く。


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さよなら、みちくさの駅(5)

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 12月14日(木)の「さよなら、みちくさの駅」送別講演会は、1・2年のプロジェクト研究「古民家カフェと郷土料理のフードスケープ」とも連携しており、その課題を開会前に通知しておいた(課題6)。締切は13日(水)だが、いつも一番初めにレポートを提出してくれるYS君から早くも課題が届いたので一番に紹介させていただく。

植林地を環境破壊と感じる感性

問1 「みちくさの駅」に係る動画と藤原店主の講和について感想を述べなさい
 今回の藤原さんのお話を聞いて「みちくさの駅」などの想いを学ぶことができた。私は、岡山県に住んでいて鳥取県に来るときに西粟倉村から北上しくる。そのときに、杉などの人工林(植林地)に囲まれていて緑がきれいな場所だと感じていた。しかし、藤原さんは子供のころは雑木林だったのに、Uターンしてみると植林地に変わっていた。植林は「環境破壊」という感想を語られた。昔は、秋になると紅葉がきれいで、子供ながらに感動するような景色が広がっていたが、植林地に変わったことで、年中緑が広がっているけれども、以前のような感動は得られらくなった。そういう残念な気持ちになるのも納得できた。こういった山間部にしかない魅力も年々環境の変化で減ってきてしまっているのだと実感できた。


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 藤原さんは、福原パーキング周辺に「道の駅」を作ろうという地域の盛り上がりがあり、会社を辞めてUターンし、地元で活動してきたが、その計画が進展する見込みがないことを悟り、自らプチ道の駅として「みちくさの駅」を開業した。その行動力や想いがすごいと感じた。この「みちくさの駅」という名前から、「道の駅」になれないけど、小さな道の駅として活動しようとする想いが伝わってきた。今回初めて「みちくさの駅」に来て藤原さんにお目にかかったが、とても人柄がいい人なのだという印象を持った。実際に県外の都市の方からも訪れてくれる人がいることから、多くの人に愛されてきた店なのだと思う。そばカフェ「みちくさの駅」では、手打ちそばと漬物、半殺し餅を振舞っていただいた。手打ちそばは、手打ちならではの、しっかりした歯ごたえのあるそばでとても美味しかった。漬物は、ちょうどよい塩加減で食べやすく、ご飯やお茶漬けの添え物としたらさらにおいしいと思った。半殺し餅は、自慢の「えごまみそ」が辛すぎず甘すぎずちょうどいい味で、癖になるような美味しさだった。半殺し餅という名前の由来も、「半分潰す」から「半殺し」という面白いネーミングで印象的だった。店内の様子は、天井が広く木造でゆったりとした空間が広がっていた。食器は、白いシンプルな色合いに波のような線があるオリジナルの砥部焼(愛媛=奥様の故郷)で、どこか自然を感じるような優しいデザインだった。そういったところにも藤原さんのこだわりを感じた。この「みちくさの駅」は、藤原さんの想いや人柄の良さなどが作り上げたものなのだということを感じることができた。


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狛犬・獅子の細部から作者を予測できるのはおもしろい

問2 駒井さんの講演「鳥取の石造物−獅子と狛犬−」について感想を述べなさい
 私は、神社などにある獅子や狛犬はどれも同じ見た目で代り映えのないものだと思っていたが、地域や時代によって姿形が異なり、奥が深い石造物だということに気づくことができた。獅子と狛犬の違いがあまりわかっていなかったが、立ち位置や口が開いているかどうか、角があるかないかなどの違いがあることも分かった。狛犬には型があり、座っている「座型」や構えている「構え型」に違いがあり、尾が広がっている「なにわ型」や「尾道型」など地域差に驚いた。岡山県に住んでいる私の印象は、地元の近くの神社では、構え型で尾が丸い狛犬をよく見る印象がある。これは、鳥取県西部の狛犬に多い特徴だということが今回の講演で理解できた。もしかしたら座型の狛犬も近くにあるかもしれないので、冬休みの初詣の際、少し意識してみてみようと思った。


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さよなら、みちくさの駅(4)

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笑ってこらえてられないの

 12月14日(木)、無事「みちくさの駅」送別講演会を催行し、終えることができました。参加者25名。学部生・大学院生20名、講演者(駒井さん)1名、コメント(政田研究生)1名、美作市右手からの参加者2名に小生です。いつもは広々と感じる「みちくさの駅」が人で溢れ、狭苦しいほどの密集感がありました。大学からのマイクロバスの到着がやや遅れたせいもあり、慌ただしい時間配分となりました。まず店主の藤原さんが「みちくさの駅」開業のいきさつや今後について短めに話し、「笑ってこらえて」智頭篇などの動画を視ながら休憩。半殺し餅(エゴマ味噌の五平餅)の名の由来「米を半分潰せば半殺し、全部潰せば皆殺し」には笑ってしまった。笑ってこらえてられないの。


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石造物となった霊獣

 再開後、駒井さんの講演「鳥取県の石造物-獅子と狛犬-」へ。鳥取に単身赴任されていた数年間の間、土日を活用して県内の神社をつぶさに訪問し、数万点の石造物を研究した成果である。考古学者らしい精緻な分類・編年とその背景に関する講演であった。学生には難しかったかもしれないが、麒麟や獅子など東アジアの霊獣を西欧との系譜関係で考察しようとしている研究生(62)にとっては、研究内容だけでなく、系譜論的比較研究にとってどれだけ多くのデータが必要か身に染みたことと推察する。


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花束贈呈!

 マイクロバスとの時間契約もあり、講演終了がやや尻切れ状態になったのは私のせいです。申し訳ありませんでした。政田先生のコメント(5分)後、ただちに花束贈呈に移行。厨房に隠れる奥様を引っ張り出し、長野代表よしかの君から奥様へ花束、愛媛代表ななさんのから店主へ清酒「弁天娘」、南部代表くるみさんから夫婦にクリスマスケーキを贈呈し、拍手喝采。贈呈者3名は学祭で屋台に入り、ナマズ天丼の制作に貢献した1年生である。その後、全員で記念撮影し、バス契約の関係でただちに解散した。


1214みちくさ03花束03クリスマス 1214みちくさ03花束01


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さよなら、みちくさの駅(3)

1213モスIMG_2910 メリークリスマス!


アクセス急落の訳

 FC2ブログ・アクセスランキングが急落し、学校・教育部門の100位を超えてしまった。理由はよく分かる。某遺跡発掘調査報告書の批評が長引いているからだ。おもしろいはずがない。あたおか増長天以下執筆陣の筆力低く、評者自身読書を楽しめていないが、しかし、あまりにも誤認識が多く作為が強すぎる。ここまで低級の書物にはなかなかお目にかかることはない。だからこそ批評の手を抜けない。誉めるべきところは誉めたいのだが、それがほとんどないのが泣き所であり、結果、否定的な批評に終始せざるをえなくなる。読んでいる側も辟易してしまうだろう。もう切り捨ててしまおうと思う部分も少なくないのだけれども、ともかく質のわるい書物なので、駄目なモノは駄目として論評しておかないと、いっそう禍根を残す。だから、時間がかかる。おかげで、ブログへのアクセスは減少の一途を辿っている。ちょっと気分を変えないとね。

蔵書断捨離

 「みちくさの駅」送別講演会を翌日に控えた12月13日(水)、ゼミ室の大掃除をおこなった。翌週20日は大原右手で忘年会なので、1週早めて大掃除になったのである。しかし、欠席2名。残された人数で大掃除はきつい、と予想されたが、人数ではないね。やる気がある人間が揃えば事は進みます。大掃除の第一目的は研究室所蔵本の処分であった。以下のようなメールをゼミ生に送信している。

 1)税込み5000円以上の公費購入書籍には、大学の図書シールが貼ってあります。これは大学の備品ですので、メディアセンターに移しましょう。ただし、今年度以降の卒論・修論に係る書籍は研究室にとどめおきます。
 2)サステナブル研究所からTUES Sustainability Week(2023年12月18日~22日@学生センター)のイベント「古着・古本市」で販売する書籍・衣服の提供を求められています。学問的にさほど意味のない軽い本や漫画などをサス研にもっていきましょう。

 1)は退職までにやるべき義務であり、正直なところ、同じ書籍と雖も消耗品と備品を分けるのは厄介なのだが、消耗品や献呈本であっても、できるだけ図書室へ移管することにした。2)は有難い申し出である。横山光輝の歴史漫画や、建築系の教科書、有名小説家の単行本・文庫本などを大量に寄贈した。いずれも学生が台車でもって行ったが、2)については、これまでの寄贈本があまりに少なく、追加の依頼メールが届いたばかりであり、当方からの寄贈図書の多さに驚かれたという。まぁ、こんな私でも、たまには大学の「持続的発展」課題に貢献することもあるのですよ。そう言えば、「鳥取学」講義を終えた会長も久々来室。一部の寺院関係報告書の在庫が大量にあるので、当該寺院への寄贈をお願いした。おかげで、相当数の書籍が研究室から消え、本棚に空きスペースができた。断捨離上々ですが、今後も機会をみて続けなければならない。





超うましら モスの宇治抹茶シェイク!

 この日は少人数の活動であり、最初から慰労会をしてあげようと思っていたが、ふとモスが頭に浮かんだ。われらがエガチャンネルで、モスのコーヒーシェイクと宇治抹茶シェイクが尋常ならぬ高評価を得ていたからである。以前紹介したマックシェイク+アップルパイも美味かったが、どうやらそんなレベルを3段階上回る「うましら」のようで、あたおかの1名として試食しないわけにはいかない。大掃除に参加した学生にモスでシェイクを提案したところ、目はキラキラと輝いた。残念なことではあるけれども、「みちくさの駅」送別会や限界集落での忘年会よりも、モスのシェイクは効果があるようだ。


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菅原遺跡報告書批評のための習作(12)

第4章第1節2.上部構造の復元 「内周円形土坑列内部の構造」 pp.65-69

批評-舎利塔と多宝塔の混同

 悲しくなるような文章である。すでに何度も述べたように、円形建物SB140に葺かれた瓦は小型瓦ではない。1981年調査区で大量に出土した小型瓦は方形基壇建物(おそらく木造層塔)の所用瓦であり、小型の隅切瓦・鬼瓦もすべて方形基壇建物に使われたと考えられる。2020年度調査区で出土した小型瓦は方形囲繞施設と係りが深く、SB140には6711B型式の軒平瓦など標準サイズの瓦が採用されたと考えられる。西大寺系の瓦も割熨斗瓦もSB140に係る可能性が高い。方形隅切瓦を根拠にして、SB140を宝形(方形)屋根に復元することはできないのである。多角形基壇の建物には多角形の屋根がふさわしい。
 それにしても残念なことに、執筆者は供養堂と多宝塔の機能差ばかりか、舎利塔と多宝塔の違いも理解していない。舎利塔は仏舎利を心礎の下に埋納する一種の墓であり、その墓石の上に心柱を立ち上げて相輪をのせるものである。古代インドでは、サンチ―のストゥーパに代表されるように、本来の舎利塔は古墳の形状に近く、相輪は衣笠であった。それが高層化するのは、中国に伝来し木造楼閣と複合した南北朝あたりからであろう。舎利を地下に埋納しつつ、心柱と相輪で天を指向するようになる。両墓制のようなものである。埋め墓が心礎下の舎利容器であり、天上他界の極楽浄土を祈願し礼賛する詣り墓が木造楼閣(層塔)だと理解することもできるからだ。舎利塔は釈迦の優位性を示すものである。しかし、大乗仏教はブッダ主義(Buddhism)を掲げながら、釈迦という超越者(ブッダ)の優越性を貶め、宇宙に存在する多様な超越者(如来=ブッダ)を宗派ごとに崇拝するようになる。こんな具合に教義を変えていくので、保守的な上座部の側が「大乗仏教非仏説」を唱えることになる。その釈迦と同等か、釈迦を凌ぐ尊格を祀る代表的施設が宝塔・多宝塔であり、大日如来や多宝如来を内部中央に安置する。釈迦の象徴たる心礎・心柱も舎利容器も必要なく、設置できない。かくも初歩的な知識を改めて説法したくはないけれども、執筆者が舎利塔と多宝塔を混同して、心柱を使わない理由をぐだぐだ述べているので、あえて講釈させていただいた。


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批評-12本柱はどこから来たのか

 いろいろ言いたいことはある。まず「基壇」。円形土坑列の基壇地覆説を否定して、「大壁の地覆を受ける地覆石」などという訳の分からぬ説明していながら、結局、この円形建物は高さ2尺の基壇があって、円形土坑列は基壇外装になっている点である。2段重ねの凝灰岩切り石は基壇土のいちばん外側を囲う化粧石材ではないか。以下の部分はもっとひどい。「本末転倒の作為」の極みである。

   木造の構造体の平面は、内周土坑列が円形であることから、円形の構造と考え12本
   の柱を立ち上げる。この構造体が支持する屋根は、隅切瓦および鬼瓦の存在から、
   平面は四角で隅棟をもつ形式と考える。このように想定する場合、多宝塔の上層部分
   の構造と類似することになるので、径18尺の円形をなす平面に12基の礎石を置き、
   その上に径1尺の柱を立て、組物を置く構造体を考えた。

 円形に立ち上げる12本の柱とはいったい何なのか。後続する説明は、小型の隅切瓦と鬼瓦に頼って屋根を強引に方形とみなすことによって、多宝塔の上層部分に構造が似てくるので、「径18尺の円形をなす平面に12基の礎石を置いた」とある。明らかに逆でしょう。根拠薄弱のまま多角形基壇上に方形屋根を架けたのは、SB140を宝塔・多宝塔風に復原しようという意図が最初からあったとしか思えない。以下、本文。下線は評者。
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 内周円形土坑列内部の構造 先述のように、この円形土坑列の内部には何ら痕跡を残さないが、小型瓦を用いた木造の構造体が存在したと考える。1981年の奈良大学の発掘調査で検出した菅原遺跡の建物も、掘込地業の存在から基壇建物の存在が知れたが、基壇の内部からは礎石やその痕跡を確認することができなかった。SB140は掘込地業を確認してはいないが、円形土坑列の内部には、礎石を用いた建物があったと考える。そして、内周円形土坑列の上に乗る石材は、前述のように、旧地表面から20cmほど掘り込んで据えられ、石材は60~70cmの成があって、内部は旧地表面から40~50cm床面を上げて礎石が据えられたと考えられた。すなわち礎石の成は、最大でも50cmと考えなければならない。ここでは旧地表面から内部の高さは60cm (2尺)と考えた。木造の構造体の平面は、内周土坑列が円形であることから、円形の構造と考え12本の柱を立ち上げる。この構造体が支持する屋根は、隅切瓦および鬼瓦の存在から、平面は四角で隅棟をもつ形式と考える。このように想定する場合、多宝塔の上層部分の構造と類似することになるので、径18尺の円形をなす平面に12基の礎石を懺き、その上に径1尺の柱を立て、組物を置く構造体を考えた。
 具体的には慈光寺開山塔(埼玉県ときがわ町、1556年)の構造(図6l)を参考に、井桁に通肘木を渡して円形平面をなす8本の柱で受け、このほかの4本の柱で隅行方向および四角屋根の両脇間にあたる通肘木を受ける構造と考えた。そうした組物配置や丸桁を支持する間隔などから、上部構造を支持する円形平面の径を先述した18尺と考え、平の組物を三手先、隅組物は六手先(巻斗の挺出数)とした。柱長は円形平面の径と同じ18尺とした。ところで、多宝塔であれば相輪を受けるため心柱を立てる必要がある。奈良時代の三重塔や五重塔といった多重塔に類似するとすれば、心柱は地面から立ち上がる形式が想定できる。先述のように、礎石の成は50cmが最大と考えなければならないなかで、礎石より大きな心礎は、それよりも深くなると考えられるが、そうした痕跡は全く認められなかった。このため、心礎のない形式と考えた。現存する多宝塔でも、相輪を支持する心柱が地上まで達しないため、心礎はないのが通例である。さらに、後述する平安時代に遡る宝塔の発掘遺構である堂庭廃寺の宝塔跡でも心礎は確認できていない。堂庭廃寺の宝塔が相輪をもつかどうか不明である。以上のような様相から、九輪を備えた多重塔の相輪ではなく、簡略で短い相輪を上層から立てることとした。宝形造の屋根の納まりから露盤と伏鉢は必要となり、それより上部は金剛寺多宝塔(大阪府河内長野市、平安後期)を参考にした。


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菅原遺跡報告書批評のための習作(11)

第4章第1節1.「周辺遺構の様相」「建物の配置」 pp.62-65


批評-南と東のアプローチは併存しうる

 これら遺構・遺物の説明と解釈の後、第4章第1節1.は「周辺遺構の様相」「建物の配置」と続くが、第3章第2節(連載8)との重複も多く、冗長で分かり難い記述に終始する。これだ冗長に説明するなら、平面配置の復元図を示してもらいたいものだが、5尺メッシュで区切った遺構図を2枚掲載するにとどまる(図57・58)。それでも、完全無視というわけにはいかないので、原文を抜粋引用しつつコメントしておく。

 ①単廊SC160は桁行柱間寸法が2.40~3.15 mとばらつき、梁行は2.70~2.98 mで平均2.83 m。梁行規模は施工誤差の範囲だが、桁行柱間のばらつきの明確な意図は読み込めない。そこまでの精度を求める建物ではなかったと考え、桁行・梁行とも9尺を基本としたと解釈した。【コメント①】「そこまでの精度を求める建物ではなかった」という割には、桁行柱間2.40~3.15 mの寸法差は大きすぎる。なんらかの意図が働いていたはずである。地形との対応、古材の転用などか。
 ②東面の南北塀SA170は柱間寸法2.21~3.19m、平均2.47m。柱穴の深さも41.3~88.0cm、平均57.1cmとばらつく。【コメント②】SC160の柱間と同じく柱間の長短が大きすぎる。以下、同上。
 ③南面回廊SC180と東西溝SD034は、検出した遺構から、直接、性格を明らかにすることは難しい。SC180の柱穴柱痕跡からSD034の溝心までは3.9m(13尺)を測る。(以下略、冗長で分かり難い文章が続く)【コメント③】SD034を南側建物の雨落溝とみるのは無理。排水溝だとしても、280点という瓦片出土状況からみて、施設廃絶時には瓦溜りのような土坑と化していたと判断すべきであろう。排水溝周辺の複数の建物に用いられた瓦が投棄された可能性がある。
 ④区画全体は125尺四方に復元され、円形建物SB140は東西方向の中軸線上にあり、南北中軸線より8尺北寄りにあった。この場合の造営尺は0.300m前後に復元できる。【コメント④】無難な解釈と思われる。それにしても、このような施設配置計画を建築復元の担当者に委ねるのは如何なものであろうか。発掘調査担当者(考古学)が配置計画全体を分析し、その復元図を描くべきであった。
 ⑤平城京の条坊との関係から、東を正面と考えられないこともない(87 • 88頁)が、区画外の道路などとの関係は、必ずしも区両内の建物の正面性とは関係しない。他の重要施設(東大寺・興福寺・法隆寺東院等)をみても、明らかに南面を原則としており、菅原遺跡もそう考えるべきである。東面を塀SA170としたのは、中心建物から平城京を見えやすくする、また平城京から中心建物を見えやすくする効果を期待でき、伽藍の構築の原理とは異なる。【コメント⑤】発掘調査の見解とは違った見方をしている。伽藍全体の正面が南であるのはよいとして、東に東大寺を遥拝できる立地を考慮するならば、調査者が推測するとおり、東側の塀に棟門を想定するアイデアはわるくないと思う。執筆者自身、東大寺・興福寺北円堂・法隆寺東院には南と西(あるいは東)の二方向のアプローチが存在することを記している。菅原遺跡の区画においても、南以外に東のアプローチがあって不思議ではなかろう。東側の塀の成立背景を眺望景観だけに求めるのは見方が単一的過ぎる。少なくとも、<1>傾斜面を造成した整地土の範囲を大規模に確保するのは難しく、回廊ではなく、塀とした。<2>東に東大寺を遠望できる塀の一部を荘厳し、棟門を設置した。<3>東からのサブのアプローチも可能にしたなどの理由を想定すべき。この点については、建築復元担当者より発掘調査担当者の見解に賛同したい。
 さて、それにしても、これだけ施設配置の検討をしながら、回廊等で囲まれる多角形の施設を夢殿・北円堂の空間構成と近似するという指摘が全くないことに違和感を覚える。すでに何度も述べたように、回廊を伴う八角円堂ではなく、回廊のない多宝塔に復元が向かう理由は作為的であり、配置計画を一切考慮していないことが分かる。



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菅原遺跡報告書批評のための習作(10)

 さて、そろそろ第4章第1節「菅原遺跡SB140の復元考察」にメスを入れよう。復元考察に先立って述べる「1.遺構・遺物の確認と解釈」の部分は、これまで取り上げた報告書の内容と重複するけれども、どちらかと言えば、考察篇(第4章)の方が報告篇(第3章)よりやや詳しく、一歩踏み込んで事実を自分の解釈にひきつけているところも目につく。ときに調査者の意見と反している場合もある。そういう考察は決してわるくはないのだけれども、残念ながら、本書の場合、成功しているとも言い難い。以下、第3章の事実記載と異なる部分に注意しながら、復習の意味も込めて批評する。原文の下線・太字は評者による。
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第4章第1節 菅原遺跡SB140の復元考察

はじめに p.60
 ここでは、円形平面をもつ特異な遺構であるSB140の上部構造を検討する。《略》結論から述べると、内周の円形土坑列を基壇外装とは考えにくいという考古学的成果から、ここではこれを壁下の地覆を受ける地覆石と解釈し、円形平面の壁体を立ち上げた。その内部は基壇状に高まって、礎石等が存在したものの失われたと解釈して、屋根をもつ木造の構造体を建ち上げた。そして、 1981年に今回の調査区の南方で発掘調査を行った菅原遺跡(菅原遺跡発掘調査会ほか1982)から出土した小型瓦が、この構造体に用いられた可能性が高いとの解釈から、小型の隅切瓦や鬼瓦を用いる屋根形式を検討した。一方、外周で検出した円形平面をなす掘立柱列は槍皮葺の裳階と解釈し、円形平面の壁体の外側にめぐらせ、全体では多宝塔に似た形状とした。《略》

1.遺構・遺物の確認と解釈 pp.60-65
 内周の円形土坑列  12基の断続的な土坑で、線的な部分もあるので全体では多角形平面になると思われるものの、正多角形にはならず、略円形の平面と考える。略円形平面の直径は土坑心々で約9.5m。土坑は断続的で、削平により失われた部分もあるが、石材の抜取痕跡がない部分に石材を補足して石材が連続する、という遺構の様相ではなく、当初より断続的に石材が存在する形態に解釈できるという。後述するように、石材の底面の形状を比較的よく残すが、旧地表面は一定程度削平を受けているので、石材の上部が長手方向で大きくなって、石材どうしの間隔が検出した土坑の間隔よりも狭まる可能性はある。土坑の幅はおよそまとまっており、平均約70.5cm、深さは最も深いAc(図11)で18.3cm、平均は13cmであり、旧地表面が削平されていることを考えると、やや深く据え付けられていたことになるようだ。凝灰岩片が底面に貼り付いて残る部分があり、凝灰岩が用いられていた可能性が高い。
  土坑の壁の立ち上がりはほぼ垂直になるといい、石材底面の庄痕をおよそ残すよう、丁寧に抜き取られている。抜き取った方法は、石材の周囲を掘り込むのではなく、石材を回転させるなどした様相と解釈できる。すると、一定程度の高さをもつ石材であったと考えられる。また方形石材の上に長方形石材を重ねたと解釈できる部分(Aa・Ab)があり、また147゜前後の角度の角をもつ痕跡がある(Aj)。以上のような検出状況から、内周の円形士坑列の性格は、基壇外装の抜取痕跡ではなく、幅をある程度そろえながらも、さまざまな形状・長さの石材を埋設した内護列石のような機能と推定されている(18頁)。
 以上から、これは基壇外装ではなく、壁受けの地覆を受ける地覆石と解釈した。これらが旧地表面からどれくらいの深さに据えられたかは明確でない。土坑の間隔が空く部分は、ここに乗る石材の間に土を入れて安定させていたか、石材が一定程度埋まっていたと解釈できるという。一方で、後述する外周の掘立柱穴の残存状況から、大きく削平を受けたわけではないこともわかる。また、円形土坑列の内部には木造の構造体を支持する柱が立つ礎石などが据えられていたと考えられることから、据えられた列石群はやはり一定程度の高さをもつと考えるのが合理的である。ここでは、石材は旧地表面から20cmほど埋め、さらに、旧地表面から40~50cm内部を高めたと解釈した。このとき石材の高さは60~70cmとなるため、上下には2石以上積んだと推定する。石材は石垣のような密度で据えられているわけではないため、外側に横転しないよう、また間隔の空く石材の間を土で埋めた状態では、土が流れて石材が不安定になる恐れがあることから、石材の外側は、石垣状にせず、旧地表面上に亀腹状に盛土して列石の大半を埋めたと考えた。
 一方、石列底部の形状を残しており、石材側面の立ち上がりの痕跡が認められることから、比較的丁寧に石材が抜かれていることがわかる。後述するように、葺かれていた小型瓦も、この建物の解体にあたって下ろされ、保管されていた可能性がある。このように、後世の削平はあるものの、この建物は創建後朽ち果てるまで存続したわけではなく、一定程度の時間を経たのち、丁寧に解体され、少なくとも瓦などは保管され、後世に転用されたらしい。《以上、原文圧縮》
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批評-「壁下の地覆を受ける地覆石」とは何か

 第3章第2節の記載と異なるところを2ヶ所指摘しておく。まず「凝灰岩片が底面に貼り付いて残る部分があり」(p,66最下行)という表現が第4章で初見する。後続の「石材底面の庄痕をおよそ残すよう」とも関連する。第3章では「底面は若干の起伏はあるものの比較的平滑なものが多」く、「埋土中から《略》微細ながらも凝灰岩の破片が出土している」という記載であり、「凝灰岩片が底面に貼り付」くとは一言も述べていない。さらに気になる違いは、以下。

 第3章 当該土坑列の内側からは柱穴などの痕跡はまったく検出されていない。
 第4章 円形土坑列の内部には木造の構造体を支持する柱が立つ礎石などが据えられていたと考えられ

 第3章は事実として正しい報告であり、これにより土坑群は大壁の基礎になりえないことを連載7で指摘した。第4章の表現は事実記載ではなく、執筆者の希望的観測にすぎない。希望を表明するならば、柱を立てる礎石をどこにどのようにして据えたのか、仮説的にでも示すべきだが、いっさい表明していない。凝灰岩を礎石にするのは柔らかすぎる。凝灰岩の切れ目に硬い礎石(暗礎)を据えた痕跡が残っていなければ説得力はない。幅70㎝の土坑に礎石を据えて柱を立てていたならば、その痕跡が残らないはずはない。いくら寛容にみても、構造体となる大壁が基壇端にあったとは考え難いのである。
 それにしても、反復して用いられる「壁下の地覆を受ける地覆石」という表現は理解し難い。これに関連して、

 第3章 Aa、Abは長方形土坑の短辺底部にそれぞれ隅丸方形土抗が穿たれており、方形石材の上に長方形石材を埋設した可能性が考えられる。
 第4章 また方形石材の上に長方形石材を重ねたと解釈できる部分(Aa・Ab)があり、

とあるけれども、やはりイメージし難い。旧地表面の削平が激しい状態で、「方形石材の上に長方形石材を重ねた」状態が本当に読み取れるのか、疑問に思う。この2段重ねの切石のうち上側を「壁下の地覆」、下側を「地覆石」と呼んでいるのであろうか。間違った理解なのかもしれないが、評者が間違っているとしたら、判読しにくい文章自体に問題がある。
 ともかく、元文研は環状土坑列を基壇外装にしたくない。その結果、「石材の高さは60~70cmとなるため、上下には2石以上積んだと推定する。・・・《略》・・・石材の外側は、石垣状にせず、旧地表面上に亀腹状に盛土して列石の大半を埋めた」という長々しい解説に終始し、理由をこねくり回している。お疲れ様です。ご苦労さま。まずこういう基礎の作り方をする類例があるのか問いたいが、おそらくないであろうし、苦労して長々と説明したところで、結果として、凝灰岩の積み重ねは基壇外装になっていることに気がついているだろうか。なにより、こうして複雑な構造を考えても、基壇端の位置に構造体としての大壁をつくることはできないのだから、この遺構解釈の基礎段階ですでに復元構想は破綻している。
 切々の環状土坑列は、後世の激しい地表面削平に影響を受け、南半では断続的配列となり、北半はほぼ失われたとみなせば、多角形基壇の地覆系基礎とみることができる。それで普通に基壇上に建物を構想できる。ただし、その建物は奈良時代にふさわしいものではならない。


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菅原遺跡報告書批評のための習作(9)

 今回から第4章「遺構・遺物の分析」の検討に移行するが、第1節「菅原遺跡SB140の復元考察」は後の楽しみにとっておき、まずは昨日(連載8)の分析と直結する第2節「出土瓦の検討」(pp.77-82)から批評する。太字・下線はすべて評者。
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報告書 第4章第2節 出土瓦の検討

1.出士瓦類の概要 p.77
(1) 菅原遺跡2020年調査出士瓦類
 今回の調査では、軒丸瓦が6236D、6299A、6316Dcの3型式、軒平瓦が6765A、6711Bの2型式が出土した。軒平瓦6711B型式が遺構に伴って4点出土している以外は、1点のみのものも多く、表採資料など、遊離した状態で出士している。以下、軒瓦のみならず、瓦類全体を遺構、整地土などのまとまりで整理しておくことにしたい。
 囲繞施設関連瓦類  今回の調査で検出した囲繞施設であるSC160、SA170、SCl80を構成する柱穴からは、多くはないが瓦類が出士している。軒瓦はなく、平瓦が多く、丸瓦が少ない傾向が看取される。丸瓦では、柱の抜き取り痕からは小型丸瓦(12)も出土している。平瓦には縦方向に半裁した可能性が高いものも含まれており、これは北区で検出したSK100から出土している平瓦と共通する。これらは割熨斗瓦であった可能性が高いものと判断している。平瓦には西大寺および東大寺の造瓦司にみられる凸面押庄技法によって製作された平瓦も出土している。また、北側で検出したSB150の柱穴mからは6711B型式の軒平瓦が出士しているほか、SC180の北側で検出したSD034からも同型式の軒平瓦2点が出土している。全体に瓦の出土量が少ない中にあって、軒平瓦6711B型式の出土は際立っており、同型式の瓦は 1981年調査区では全く出土していないこともあり、方形囲繞に使われていた可能性が高いものといえる。SD034からは西大寺26次調査(奈良市)で出土した「西」刻印と同氾の刻印平瓦(41)が出士しており、上記の凸面押圧技法の平瓦とともに差し替え用として搬入された可能性がある。なお、整地士Ⅱからは西大寺系の6236D型式の軒丸瓦も出土している。ただし、軒平瓦に組み合う軒丸瓦の出士がみられず、割熨斗瓦と考えられる平瓦が出土することなど、囲繞施設が掘立柱構造であることと合わせて、これらの瓦は屋根の甍にのみ使用されていた可能性が想起される。
 整地土Ⅰ出土瓦類  整地土Ⅰはすでに報告したように(30頁)、建物および囲饒施設を造営する際に行われた地業時の客土である。ここから、囲饒施設所用瓦と考えている6711B型式の軒平瓦が1点出士している。当該資料は囲続施設の屋根に用いるために搬入されたものが、造成時の整地土に紛れ込んだ可能性が高い。6711B型式は平城宮瓦編年のIII -2期(749~757年)とされ、今回の調査で検出した一連の遺構群の上限年代を特定する上で重要な位置を占める。
(2)菅原遺跡1981年調査出土瓦類  pp.77-79
 1981年の調査では、軒丸瓦が菅原A類、菅原B類、菅原C類、6225A、6236D、6281A、6299A、6316Dc、6316Mの9型式と軒平瓦が6681S、6710D、6765Aの3型式が出土している。菅原遺跡を特徴づけるのは、大きさの異なる多様な瓦の出土である。出土点数については図68に記したとおりであり、出土点数の対応関係から、中型瓦では軒丸瓦6316M-軒平瓦6710Dがセット、小型瓦では軒丸瓦6299A-軒平瓦6765Aがセットであると考えて問題なかろう。また、数点ではあるが超小型瓦についてもセット関係で出土している。この小型瓦については1981年調査時には、大きさの異なる瓦の混在に対する明快な回答は示されていなかったが、今回の調査では柱の抜き取り痕から小型瓦が出土し、周辺からは小型軒瓦が採集されることなどから、SBl40の上層に薔かれた可能性を想定することとなった。 《以上、原文》
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批評-6711B型式軒平瓦はどこに使われていたか

 非論理的思考の塊のような文章である。驚愕のレベルと思って読んでいた。まず前提として知っておくべきことがある。回廊等囲繞施設を伴う建築群の場合、最初に中心となる仏堂等を造営し、その竣工をみてから囲繞施設の造営に移行する。中心建物の建設工事には大掛かりな足場と周辺のオープンスペース(作業場)が必要であり、回廊などが存在しては邪魔になるからだ。たとえば、法隆寺西院を例にとると、まず金堂、次に五重塔を築いてから中門に移行し、最後に回廊を造営して全体が完成したと推定される。組み立てに必要な場所を確保するだけでなく、資材の運搬を考えても、このような工程で工事を進めるのは当たり前のことである。現在進行中の平城宮第一次大極殿にしても、同様のプロセスを踏んでいる。にも拘わらず、平城宮瓦編年のIII -2期(749~757年)にあたる6711B型式の軒平瓦を囲繞施設用の甍瓦と判断するのは如何なものか。行基の没年は749年であり、その後まもなく供養堂の造営が始まったとしたら、まず建設するのは中央の円形建物SB140以外考えられない。年代の古い6711B型式の軒平瓦は当然のことながら、円形建物SB140(の大屋根)に使われていたとみなすべきであろう。
 総数4点で際立つという6711B型式軒平瓦の出土地点をまとめると、北側の東西棟掘立柱建物SB150の柱穴mから1点、南側の排水溝SD034から2点、北西の整地土Ⅰから1点である。まず、SB150の柱穴mと言っても、その掘方か抜取りかが明記してないので解釈が難しいが、図16(p.21)をみる限り、後者の可能性が高く、第5章のまとめの段階(p.88)になって初めて「抜取痕」と記している。その場合、建築群の廃絶期に古い瓦が混入したことになる。この場合、厳密にいうならば、どの建物で用いた瓦か分からない。一方、仮に掘方からの出土なら、すでに竣工していたSB140に使用された(あるいは使用予定だった)軒瓦がSB150の柱掘方に混入したと考えられる。南側の排水溝SD034は南面の掘立柱列SC180からやや離れた位置にあって、「SC180の雨落溝ではない」としているので、ここに投棄された6711B型式軒平瓦や西大寺系の瓦は当然のことながら、SB140で使用された可能性を否定できない。さらに、北東の整地土Ⅰについては、掘立柱塀SA170の地盤をつくるための客土層、つまりSA170が完成する以前に造成された地盤であり、すでに竣工していた(あるいは建設中の)SB140の軒瓦が混入したと考えるほかなかろう。
 ここで遺物の出土分布を振り返ると、SB140周辺では「皆無」であり、小型瓦は南区北半の囲繞施設に10点ばかりがほぼ集中、軒瓦はむしろ南半の排水溝SD034や北西の整地土Ⅰで多くみつかっている。この状況を冷静に捉える場合、円形建物SB140に葺かれた瓦は小型瓦とも標準サイズの瓦とも判断しがたい。にも拘わらず、報告書ではSB140は小型瓦で葺かれ、標準サイズ瓦は囲繞施設の甍瓦だとしている。しかし、すでに述べたように、年代の最も古い6711B型式軒平瓦は建築工程からみてSB140に用いられたとみるべきであり、一方、囲続施設の北半に集中する傾向にある小型瓦こそ甍棟に使った可能性があるだろう。あるいは、東側の掘立柱塀SA170のほぼ中央に設けた可能性がある棟門(東門)用の葺材かもしれない。
 それにしても、「(軒平瓦6711B型式)の瓦は1981年調査区では全く出土していないこともあり、方形囲繞に使われていた可能性が高いものといえる」という一文には驚かされる。前半の「軒平瓦6711B型式の瓦は1981年調査区では全く出土していない」事実と後半の「方形囲繞に使われていた可能性が高い」という推測の因果関係が全く認められないからだ。1981年調査区の瓦を分析した(2)の結果として、「この小型瓦については《略》明快な回答は示されていなかったが、今回の調査では柱の抜き取り痕から小型瓦が出土し、周辺からは小型軒瓦が採集されることなどから、SB140の上層に葺かれた可能性を想定することとなった」とある指摘も同様で、1981年調査区と同じ小型瓦がみつかった事実とそれがSB140に葺かれていたという推測の因果関係を微塵も説明できていない。
 くどいけれども、6711B型式の軒平瓦は、その年代観と工程のプロセスから判断して、円形建物SB140に使用したと考えるべきである。そして、その後、765年に創建される西大寺の瓦(おそらく八角七重塔用に準備した瓦?)が「差し替え用で搬入された」という理解には納得できるのだが、割熨斗と推測される瓦がいくつか出土しているので、軒丸瓦・軒平瓦は「(囲繞施設の)屋根の甍にのみ使用されていた」という考えには賛同できない。軒瓦の年代観が囲繞施設と合わないだけでなく、単廊の甍棟としてこれらの瓦は大きすぎるのではないか。むしろ小型瓦こそが甍棟にふさわしいように思われる。こうした甍棟説は、出土する瓦の量が著しく少ない遺跡における常套解釈だが、菅原遺跡南区は円形建物の基壇土が消滅してしまうほどの削平を受けており、旧地表面と遺構検出面のレベル差は相当あるだろう。結果、遺物包含層・整地層も広く残っていないのだから、瓦ほか遺物全体が少ないのは仕方ないことであり、そういう状況のなかで、11点しか出土していない小型瓦をSB140の葺瓦とみなすのはあまりにも無謀であり、論理に飛躍がありすぎる。
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菅原遺跡報告書批評のための習作(8)

 円形建物SB140を囲繞する周辺施設については、報告書第3章で遺構と遺物に分けて記述しているが、ここでは施設ごとに遺構と遺物をまとめて述べようと思う。遺物については、建物復元と係りの深い瓦にほぼ絞り、遺構との関係を考えていきたい。報告書の記載はこのページの下段より一括して圧縮転載するが、まずは報告書を読んだ当方の感想を記す。

批評-西大寺系瓦から見通して:頓挫した八角塔の匂い

 まず全体的に言えることだが、瓦などの遺物を「掘立柱の柱穴から出土した」と記述するだけで、柱穴の掘形か抜取りかを明示していない点が残念である。掘方なら建物の設置、抜取りなら廃絶と相関するので悩ましい。さて、元文研が注目する小型瓦の出土状況をみると、北側の東西棟掘立柱建物SB150で、小型瓦の可能性のある丸瓦2点(6・7)、平瓦3点(8・9・10)が出土。掘立柱の単廊SB160では、小型瓦と確定するか、それに復元できるものが2点(平瓦12・14)、小型瓦の可能性があるものも2点(平瓦13・丸瓦18)出土している。このほかでは、北西の掘立柱塀SA170で小型の平瓦1点のみ(30)、北側飛び地の整地土II出土の丸瓦(58)も小型瓦とされる。報告書を読む限り、2020年度南区で出土した小型瓦は「可能性がある」ものを含めても、丸瓦4点、平瓦7点にすぎず、その分布は南区の北側外周域に偏る傾向が認められる。円形建物SB140周辺をはじめ、最も多くの遺物を得た南側の排水溝SD034や整地土Ⅰでは小型瓦は1点もみつかっていない。
 むしろ注目すべきは、西大寺と係る軒瓦・文字瓦である。約280点の瓦片を確認した排水溝SD034では、6711B形式の軒瓦(35・36)2点に加えて、「西」という漢字を刻印する平瓦(41)が出土した。報告書を引用すると、「41は平瓦で凹面側に『西』刻印が押捺されている。《略》奈良市の西大寺26次調査出土の平瓦に同范がある(未報告)。また、同范ではないが、書体は「西(a)」(西大寺 1990)に類似する」。掘立柱塀SA170で出土した平瓦31も瓦当は残らないが、軒平瓦であった可能性が高く、凸面押圧技法は東大寺および西大寺の造瓦司にみられる技法であり、「西」刻印瓦(41)とともに重要な位置を占めると報告書に記載される。また、整地土Ⅱに含まれた56は、西大寺系の6236D型式の蓮華文軒丸瓦であり、同57は均整唐草文軒平瓦である。


西大寺八角塔跡 西大寺八角塔跡02 西大寺東塔(方形五重塔)基壇跡の下に八角七重塔掘込地業の標示あり


 ここまで記せば、誰しも思い浮かぶのは西大寺八角七重塔ではないか。孝謙上皇が重祚して称徳天皇となり、天平神護元年(765)に西大寺が創建された。行基の没年は天平21年(749)であり、菅原遺跡南区に最初に持ち込まれた軒瓦は平城宮瓦編年のIII -2期(749~757年)にあたる6711B型式の軒平瓦と考えられるが、西大寺創建時においても、円形建物SB140等が行基の供養堂としてなお造営中もしくは修復中(あるいは裳階を増設中?)であり、西大寺の力を借りたと考えられる。しかも、西大寺東西両塔は当初、八角七重塔として構想されていた。その後、規模を縮小、意匠を改め方形五重塔として建立されたが、後に焼失。1956年の発掘調査で塔跡周辺に八角の掘込地業が確認されている。西大寺の八角塔で使用予定であった瓦を菅原遺跡円形建物に転用しようとした可能性を当然想定しなければならない。報告書の瓦出土状況を読んで思った。小型瓦は円形建物以外の周辺施設(塀・門・回廊等)と関係する匂いを発しているのに対して、円形建物には西大寺の瓦とのつながりを感じる。若干の時間差があるとはいえ、頓挫した八角塔と行基供養堂の関係を無視するわけにはいかないだろう。
 なお、老婆心ながら、さらに一言。掘立柱建物SB150の柱穴gを「棟持柱にあたる」としているが、奈良時代の一般建築の場合、「棟持柱」を使うことはまずない。梁下でとまる「妻柱」と考えるべきである。以下に報告書の圧縮引用文を掲載する。太字・下線は評者による。
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 以下は、すべて報告書第3章の抜粋転載である。

掘立柱建物SB150 遺構:pp.19-22 遺物:p.31
 調査区北側で検出した桁行5間、梁行2間の東西棟掘立柱建物で、西側ではSC160、東側ではSA170に接続する。規模は桁行 14.99m、梁行5.81mを測る。柱間は桁行方向では若干のばらつきはあるものの、およそ3m を前後するものが多い。平均すると3.03mであり、10尺で設計されていた状況が看取される。染行方向は、平均では2.90mとなり、桁行の柱間に比してやや短めである。柱穴は東西方向にやや長い傾向がみられるものの、ほぼ正方形を呈し、一辺 1.1m前後のものが多い。深さも最深のものは78cmを測り、平均すると約58cmである。柱痕跡は平均して直径約43cmである。西側棟持柱にあたる柱穴gでは根固め石を検出している(図版 22下)。遺物の出土は南東側の柱穴で頭著で、柱穴a~d・mから土器片、瓦片が出土している。多くは細片であるが、柱穴cからは土師器杯B、柱穴mからは軒平瓦 (6711B) が出土している。
 瓦塼類5(図 27、以下すべて)は均整唐草文軒平瓦である。顎は曲線顎Ⅰであり、特徴的な瓦当文様から 6711B型式と判断できる。同型式の軒平瓦はSD034 (36・37)、整地土(58)からも出土している。6 • 7は丸瓦である。6は玉縁が残る。外面は縄タタキ後、ナデ消し調整を施す。内面は表面劣化のため、調整不明である。玉縁は厚さ 0.8cm前後で非常に薄く、丸瓦の復元幅は約12cmを測る小型瓦である7は外面は縄タタキ後、ナデ消し調整を施す。内面は布目浪が残る。厚さは約 1.4cm と薄く、復元幅約11cmの小型瓦である。8〜10は平瓦である。8は内外面ともに表面が劣化しており、調整は不明瞭であるが、凹面にはかすかに布目痕が残る。厚さが 1.6cm前後で小型瓦の可能性がある。9は凸面は縄タタキ、凹面は表面劣化のため調整不明である。厚さは1.4cm であり、小型瓦であると考えられる。10は凸面は細かい縄タタキ調整、凹面は布目が残る。端面はケズリ調整で側面は凸面側の面取り調整を行う。厚さは1.2~1.4cm前後で小型瓦と考えられる。

回廊SC160 遺構:pp.22-25 遺物:pp.31-35
 調査区北西で検出した掘立柱の回廊である。構造は単廊で、北辺では5間分を検出し、西辺では8間分を検出している。西辺は調査区南端で大きく攪乱、削平されているほか、調査区外へとのびているため全容は不明である。北辺はSB150 との接合部分から西端までで約13.5mを測る。柱間にはややばらつきがあり、北辺の北側柱列の柱間は、最長が2.80m、最短が2.47m で平均すると2.63m、標準偏差は0.1263 である。南側柱列の柱間は最長2.90m、最短は2.26mで平均2.76m、標準偏差0.2499 でばらつきが大きい。とくに西辺との接続部である柱穴k-1間、柱穴 q-r間は柱間が短い。延長が13.5mで5間であることからすると、計算上の1間は2.7mとなり、9尺を基本に設計されていた可能性もある。西辺は調査範囲内で北端からの検出長22.24mを測る。西辺の西側柱列の柱間は、最長が3,15m、最短が2.34mを測り、平均すると2.78m、標準偏差は0.2283 である。また、東側柱列の柱間は、最長が3.00m、最短が2.40mで平均すると2.74m で標準偏差は0.2718である。北辺同様に設計上は柱間9尺を基本として設計されていた可能性が高い。また、回廊幅の柱間寸法に関しては、比較的近似しており、最長は2.98m、最短は2.70m を測る。平均は2.83mで標準偏差は0.0923で、ばらつきは少ない。
 柱穴はほぼ正方形を呈するものが多く、攪乱により原形を留めない柱穴a・bを除く平均は東西96.1cm、南北101.1cm を測る。なお、北東側の柱穴掘方は柱穴j~l、柱穴q~sなどでは回廊の軸線に対して、斜めに触れている状況が看取される。振れ幅は北側で東に7.6~17.4°であり、平均は12.9°である。深さは柱穴a・bを除くと、最深のものが91cm、平均すると56cmを測る。柱穴c・dの底面からは板状の石材がまとまって出土しており、柱痕跡と対応している状況が看取される。このような造作は一部の柱穴に限られ、地山は比較的堅固であることなどを勘案すると、柱の不陸調整のために柱下面に埋置されたものの可能性もある(図 17)。柱痕跡の直径はSB150よりも若干細い傾向がみられ、平均して37cmである。柱穴e・i・p・uでは柱の抜き取り穴が検出されているが、方向は一定しない。
 SC160 を構成する柱穴からは、柱穴a・b・k・l・n〜pを除いて遺物が出土している。多くは土器、瓦の細片であるが、柱穴c・xからは凝灰岩片が出土しいるほか、柱穴 wからは小型丸瓦が出土している。また、特筆すべきは柱穴h・gの掘方埋土中から円形の鉄製品が出土している点である。隣り合う柱穴に意図的に埋納された可能性が高いものと判断している。鉄製円盤は柱掘方南東隅底部付近から出土している(図版 29下)。


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さよなら、みちくさの駅(2)

スライド1


送別講演会、迫る!

 またたくまに時は過ぎ、「みちくさの駅」送別講演会が迫ってきました。講演者の発表データもギガファイルで届き、DVD鑑賞の道具も確認しました。一般公開ではありませんけれども、親しい方には声をかけています。まぁ、メモ代わりです。恐ろしいことに、これで今年度の野外活動が終わったわけではなく、12月20日(水)には岡山美作の限界集落「右手」で古民家再生・活用に取り組む若き建築家の活動をゼミで視察します。雪が心配ですが、なんとか乗り切りたい!

《イベント名》 「みちくさの駅」送別講演会
 《日時》 2023年12月14日(木)15:30~17:30
  14:35 100講義室集合、14:40 大型バスでロータリー出発
  15:30 ごあいさつ(浅川)
  15:35 動画と講和 藤原和寛(みちくさの駅 店主)
      1)動画「笑ってこらえて ダーツの旅」智頭篇抜粋
      2)講話「みちくさの駅」の7年間
  16:10 休憩
  16:20 郷土文化を学ぶ講演「鳥取の石造物−獅子と狛犬−」
       駒井正明(大阪府文化財センター)
  17:20 コメント 政田孝(公立鳥取環境大学非常勤講師) 
  17:30 閉会
 〈聴講〉 環境大学P2/P4履修生(18名)・ASALAB有志他

《連載情報》さよなら、みちくさの駅
(1)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2717.html
(2)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2734.html
(3)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2745.html
(4)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2746.html
(5)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2747.html


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菅原遺跡報告書批評のための習作(7)

報告書 第3章第2節 奈良時代の遺構と遺物 第1項 南区(2)遺構:pp.13-

 【円形建物跡SB140】①内周土坑列: 《略》当該建物の遺構は内周の土坑列とその外周を巡る柱穴列で構成される。内周土坑列は12基を確認しているが、北東部をはじめとして、部分的に後世の攪乱、削平によって消失もしくは不明瞭となっている。各土坑間の間隔も不均衡であり、全体の配置を俯瞰すると、内周土坑列と外周柱列は同心円状に展開する以外、放射状に直列するなどの状況は看取できない。(土坑の)平面形は基本的には矩形を呈し、円周方向に長辺をもつ長方形のを呈するものが多い。長さはばらつきがあり、1m前後のものと2mを超えるものもある。幅は比較的まとまっており、残りのよいものを平均すると約70.5cmを測る。
 深さに関しては上面の削平の度合いで変化しており、一様には扱えないものの、最も深いAcで18.3cmを測り、平均は約13cmである。また、Abのように部分的に土坑状に深く掘られるものもある。底面は若干の起伏はあるものの比較的平滑なものが多い。また、当該土坑列の内側からは柱穴などの痕跡はまったく検出されていない。いずれも上面を削平された状態での検出であり、整地土や盛土の痕跡は確認できていない。埋土中からの土器・瓦などの出土遺物は皆無である一方、微細ながらも凝灰岩の破片が出土している壁の立ち上がりはほぼ重直で、特に Ag、Aj、Akではその傾向が顕著であるが、複数の土坑に円周内側へ石材を抜き取った痕跡が確認できる。Ajは147°前後の角度で角を持つ痕跡も見られる。これらの事から上記の土抗については凝灰岩切石を埋設していた痕跡と判断した。Aa、Abは長方形土抗の短辺底部にそれぞれ隅丸方形土抗が穿たれており、方形石材の上に長方形石材を埋設した可能性が考えられる。
 これらの石材について、これを基壇地覆石埋設痕とみる意見もあるが、Ajの切石側辺の角度は石材の円周に合致しない(図14)。さらに石材の規模・形状は統一性がなく、これをそのまま地覆石の下部痕跡とすることはできない。これらの土抗は基壇や亀腹造成に際して様々な形状、規模の石材(転用材)を埋設した内護列石のような機能を想定したい。また、北側では少し外れてSK018を検出している。長辺132cm、短辺77cm、深さ5cmで、他の土坑と共通した規模と形状をもち、当該建物に帰属する可能性がある。礼拝石の痕跡かとも考えたが、長軸方向の角度が建物全体の方位とは全く合致せず、現状ではその機能は不明である。

批評-環状土坑列は大壁の基礎になりえない

 まず、断続的ではあるけれども環状にめぐる溝状遺構を「土坑」とネーミングすることに違和感がある。ごみ捨て穴や瓦溜りなど建造物の構造とは関係ない穴を一般的には「土坑」と呼ぶ。ここにいう土抗列が基壇の地覆にあたるものか否かはさておき、建物本体の基礎になっていることは自らの復元図(pp.66-67:図59-60)でも示しており、とすれば、それにふさわしい遺構分類名称を与えるべきだった。以下、気になった点を箇条書きする。
 ①この土坑列に(大壁の)基礎となる凝灰岩が収まって抜き取られたとするならば、石を設置する時点の遺構と抜き取った時点の遺構の両方が重複して検出されるべきだが、両者の識別を怠ったようで、断続的な溝状遺構は一時期の土坑として認識されている。据え付けた状態をよく反映しているのは、おそらく長方形に近い直線状の土坑であり、丸みを帯びた土坑は抜取りが影響している可能性があるだろう。土坑Ajの隅の角度が147°になることを図14(p.19)で強調しているが、それは石そのものの角度ではなく、石の抜取り穴の角度でしかなく、基壇の形状に直結するとは言い難い。こうした細かい点を大目に見ても、本体の基壇は円形ではなく、多角形を呈していたのは自明である。これを多角形として受け入れる者は八角円堂系の復元に進み、「略円形」と表現する者は多宝塔系の復元に進む。前者は奈良時代に類例があり、後者はそれがない。
 ②「当該土坑列の内側からは柱穴などの痕跡はまったく検出されていない」(p.17): とても重要な記載である。8世紀の大壁構造であったなら、壁筋にあたる溝状遺構(この遺跡では内周土坑列)の内側に多数の杭根・杭跡を含む。それが全くないのだから、この土坑列は大壁の地業にはなりえない。
 ③「埋土中からの土器・瓦などの出土遺物は皆無である一方、微細ながらも凝灰岩の破片が出土している」: この証拠により土坑列には凝灰岩切石が据え付けられていたとみるわけで、それが正しいとすれば、②で述べた大壁の地業としてはますますふさわしくないことになる。むしろ、基壇の地覆石・側石のイメージに近くなる。
 ④「これらの土坑は基壇や亀腹造成に際して様々な形状、規模の石材(転用材)を埋設した内護列石のような機能を想定したい」(pp.18-19): 基壇はよいとして、亀腹が古代にあるのか。また、「内護列石」という用語が意味不明なので検索してみたところ、古墳で用いるようだが、建築史では使わないので、別の用語で説明すべきであろう。城郭史などに類例はないか。なにやら分かりにくい表現になっているが、復元図をみる限り、この土坑列に収まるという凝灰岩切石は基壇端大壁の基礎であり、同時に基壇の地覆・側石に相当しているので、さほど意味のある解釈とは思えない。なにより②で述べたように、この土坑列は大壁の地業にはなりえないので、大壁を用いた復原案そのものが成立しえないことを知るべきである。 


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菅原遺跡報告書批評のための習作(6)

図書情報

 少し疲れがとれてきました。インフルの感染も免れたようなので、いざ報告書の精査を始めますかね。まずは図書情報から。

報告書名: 菅原遺跡-令和2年度発掘調査報告書-
発行・編集: 公益財団法人 元興寺文化財研究所
発行年月日: 2023年3月31日
総ページ数: 本文104p. 写真図版1~51 報告書抄録
《報告書抄録》要約: 北区、南区とした2箇所を調査した。このうち、南区とした調査区では丘陵頂部の平坦面から回廊と塀で構成される奈良時代の方形囲繞を検出。その内側から平面略円形(十六角形)の特異な建物跡を検出した。当該地では1981年に奈良大学が中心となって調査が行われており、基壇建物跡1棟を検出し。小型瓦を含む瓦類が出土した。その年代観から『行基年譜』に記された「長岡院」との関連が指摘されていた。今回の調査で出土した土器や瓦類も8世紀中ごろで、ほぼ同時期であることが判明し、両者は一体の施設であったことが明らかとなった。当地は東に東大寺を望み、行基終焉の地となった菅原寺からもさほど遠くない立地であり、推定される創建年代が行基入滅年と近いことなどから、行基の供養堂であった可能性も高い*下線評者

目次と執筆者

 報告書の目次は以下のとおり。〔 〕内は執筆者(所属)を示す。

第1章 調査に至る経緯と調査体制 〔江浦洋・村田裕介(元興寺文化財研究所)〕
第2章 周辺環境と既往の調査 〔江浦〕
第3章 調査の成果 〔江浦・佐藤亜聖(滋賀県立大学)〕
 第1節 調査区の設定と基本層序
 第2節 奈良時代の遺構と遺物
第4章 遺構・遺物の分析
 第1節 菅原遺跡SB140の復元考察
    〔箱崎和久(奈良文化財研究所)・北脇翔平(文化財建造物保存技術協会)〕     
 第2節 出土瓦の検討 〔松田青空(元奈良大学)・江浦・佐藤〕
 第3節 鉄製円盤の検討 〔江浦〕
第5章 調査のまとめ-要点の整理と課題
 〔執筆者不明記だが、編集は江浦(補佐:芝幹)とあるので、常識的には江浦の執筆と思われる〕  


批評ー多宝塔は供養堂ではない

 報告書抄録の「要約」にある以下の部分がとても重要であり、気になるところである。

  《略》推定される創建年代が行基入滅年と近いことなどから、
     行基の供養堂であった可能性も高い。

 まず、推定される創建年代は、行基没年(749)直後の十年ばかりに編年される6711B型式の軒平瓦によって「行基入滅年に近い」と言えるのだが、報告書本文では、これを回廊等の甍棟に使用した瓦とし、最初に造営されたはずの円形建物の所用瓦を小型瓦とする点、工程プロセスからして納得できない(連載8)。そしてまた、「行基の供養堂」と推定しながら、供養堂の建築形式を「多宝塔(の初現形式)」とするのも理解不能な解釈である。供養堂は特定の人物を紀念し供養する施設であり、一般に八角円堂を造営し、回廊等によって囲繞する(回廊がない場合もある)。法隆寺東院夢殿、興福寺北円堂などがその代表例である。一方、多宝塔は大日如来、多宝如来など特定の尊格を安置し祀る仏堂的仏塔である。賢者・権力者の供養堂とは異なり、回廊等で囲繞されることはない。抄録にいうように、円形建物が「供養堂」ならば、八角円堂系と考えるのが自然であり、多宝塔になるはずがない。
 

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予防のタミフル

インフル猛威

 眼科の定期検診があるので、奈良に帰らなければならない。夕食もとらず、すぐに車で移動したかったが、帰宅すると、インスタントカレーが用意してある。食べたら眠くなって、mリーグの音声を耳にしつつ眠りに落ちた。目覚めたら午後10時。10時半に下宿を出た。高速に乗って奈良の家に着いたのは深夜2時過ぎ。奈良は鳥取より寒い。寝間で布団を一枚追加した。
 息子が風邪気味で仕事を休んでいた。2階の自室に籠もっている。翌朝、ブランチを取っていると、電話あり。「いま医者に居るんやけど、インフルエンザて診断された」とのこと。これは大変。感染すると授業できなくなる。幸い深夜の帰宅で、息子とは接触していない。まだまだ年内の講義も演習も終わっていないし、仮に休講とならば、年末年始に補講が必要となる。それだけは避けたいので、自ら医者へ直行。息子が先程までいたホームドクターの内科である。事情を説明して「予防用のタミフル」を処方していただいた。以前、年末の海外旅行(上海)を計画していた際、渡航前に娘が感染してしまい、同じように「予防用のタミフル」を処方してもらい乗り切った経験がある。それを、私もドクターも覚えていた。近くの薬局でタミフルを受け取った。この冬はコロナもまぁまぁいるけど、インフルが猛烈に増えているそうだ。帰宅後、ただちに一錠飲んだ。ちなみに、予防用のタミフルは保険が効きません
 午後3時から眼科へ。あいかわらずの混みっぷりで、3時間も滞在し、なんと前回BRDの採点を控え室で完了してしまった。視力・眼圧は良好だったが、左目の視野検査が以前より良くなかった。自覚はないのだけれども。ここでまた3ヶ月分の点眼液を処方していただき、近くの薬局へ。薬剤師は目ざとく、お薬手帳のデータを良く見ていて、「お熱があるんですか」と問われた。いやいや「予防のタミフル」を処方してもらっただけです、と説明して納得してもらった。

すきやの肉味噌牛担々鍋定食で

 夕方6時を過ぎていた。奈良の家に戻りたがったが、叶わぬ夢さ。近くの数寄屋、じゃなくて「すきや」で肉味噌牛担々鍋定食を食べたら、猛烈に辛かった。二度と注文しません。家内は、おろしポン酢牛丼セットに満足げ。思い出した。単身赴任時代は、おろしポン酢牛皿定食が定番だった。牛丼・牛鍋は、はっきり言って吉野屋の方が美味いけれども、 おろしポン酢牛皿定食はいけます。次回からこの古典に回帰しよう。食後、車は第2阪奈(高速)へ。いつもは阪神高速環状線を経由するのだが、渋滞情報をみて、この夜は近畿道を選択した。正解だった。渋滞ほぼなし。ところが、中国道に移って、ゲーリー・ピーコック状態に。赤松、社、加西と連続してパーキング停車し、ようやく快方へ。最近は真逆の症状だったんです。5月の入院時から血液をさらさらにする薬とともに整腸剤を処方されていて、この効果が絶大。わたしの米異は堆積岩のように硬くなった。これを体外に排出するに出産のごとき苦しみがあり、毎朝厠で大きな呻き声を出してしまうほど。で、試しに2日ほど服薬を控えていたら、かつての症状に戻ってしまったが、おそらくその原因は激辛の肉味噌牛担々鍋定食だろうと推測している。
 午後10時半、まる24時間ぶりに下宿に戻った。疲れ果てている。正露丸服用。やはり鳥取の方が暖かい。追加の布団は要らないようだ。


photo_gyusuki_1006000.jpg 北京飯店と和平飯店の担々麺が懐かしい

崖と建築のヒエロファニー 三徳山《日本遺産》フォーラム(報告11)

三徳山登山(1) 三徳山登山(2)


崖の紫宸殿まであと一歩

 当日は小雨が降っていたが、三佛寺の判断で登山が許可されたため、輪袈裟を受け取り、C班の引率補佐として予定時刻よりも少々遅れてではあるが登山を開始した。私自身鳥取県出身であるが、投入堂に登拝するのは初めてである。事前に三徳山は修行の道であるため、木の根や鎖を経由して進むなど、険しい道が続くと聞いていた為、非常に緊張していた。登山を始めると小雨の影響で登山道が湿っていたので、滑らないように一歩一歩集中して進んでいった。しばらく行くと、さっそく木の根を伝ってよじ登る斜路が姿を現した。この道は掴む根っこを間違えると足の置き場がなくなるため、特に慎重に進む必要があった。そこから20分程険しい道を歩いていくと、重要文化財「文殊堂」が姿を現した。しかし、我々C班は後に予定されていたフォーラムに間に合わないと判断されたため、ここで先に進むことを断念し、再び登山道を引き返すこととなった(強引に文殊堂まで上った2年生もいた)。もう少し進めば「崖の紫宸殿」を拝めそうな距離であり、この目で一度投入堂を見てみたかった。結果的に悔しい思いをしたが、修験道の山道を少しでも歩むことができたのは非常に貴重な経験であった。また、次に投入堂登拝に挑戦する機会があった場合、草鞋を履いてみたい。なぜなら今回草鞋を履いていた人の意見を聞くと、「意外にも滑りにくく、一切けがもなかった」と言っていたからだ。いつか、家族や友人を連れリベンジを果たしたいと思う。

前仏教としての鳥葬と輪廻

 以下は、私の分担した講演等の記録と感想である。

 講演②浅川「瞑想・礼拝と他界-日本・中国・ブータンの崖寺」: 日本の場合、特殊な自然物(山、巨岩、崖、大木など)に聖なるものを感じる傾向にあり、これを「ヒエロファニー」という。また神社が古く、仏教は新しいという印象を抱きがちであるが、それらよりも前に自然崇拝をおこなっていた。三沸寺投入堂(平安後期)は蔵王権現の紫宸殿(宮室)であるとみなされ、これに代表される日本の懸造り仏堂は山林寺院において、しばしば岩陰や洞穴と複合して独特の神秘性を醸し出している。また、こうした特殊な仏堂の源流は北魏(5世紀末)創建とされる山西省渾源県の懸空寺である。しかし、懸空寺の場合は岩陰ではなく、崖に水平に突き刺した材の上に建っている。このことから、懸造りの原型としては岩陰・岩窟を利用しない懸空寺のあり方が想定されるが、投入堂のように岩陰・洞穴を敷地としてh類のは福建省泰寧の甘露寺である。一方、ブータンにも岩陰・洞穴複合型の懸造りが非常に多く、寺は崖に立地するため、崖ドラクと言うだけで崖寺ドラク・ゴンパを意味するほどだ。石窟寺院になぞらえるなら、日中の懸造り仏堂はチャイティア窟(礼拝窟)に相当し、ブータンのそれはヴィハーラ(僧坊窟)であり、ブータンの瞑想洞穴の方が日本の懸造り仏堂よりも古いタイプの仏教の在り方を示している。また、そこで最も重要な施設は、瞑想洞穴ドラフであり、僧侶はそこで長期の瞑想修行を行う。僧侶が危険極まりない小さな洞穴で粗食に耐えながら、長期の瞑想をするのは一種の臨死体験と言える。その洞穴はしばしば鳥葬場と近く、天上世界の入口と認識されているため、彼らにとって悟りとは「生死の境を超える」ことだと考えられる。



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崖と建築のヒエロファニー 三徳山《日本遺産》フォーラム(報告10)

三徳山 文殊堂 文殊堂 景色(2)
文殊堂からの眺望景観


文殊堂の絶景

 今回の投入堂登拝では、私はB班で投入堂まで行けなかったが、良い経験になった。三徳山の道はとても険しく危険であったが、自然が豊かで美しく、昔の人が崇拝し修行の地とした理由を理解できた。また、投入堂の登拝には至らなかったが、文殊堂に昇殿することができ、文殊堂からの絶景を堪能した。文殊堂までの道のりは険しく雨で滑り落ちそうにもなったが、登った先の景色を見ると、それまでのつらい道のりも忘れるほどの眺望に感動した。ちょうど紅葉の季節でもあったため、カラフルな山並みはとてもきれいだった。私は今回、自分の登山靴で登拝したが、草鞋を履いた友達が草鞋は岩にフィットして登りやすかったと言っていたので、次は草鞋も体験したい。次こそは投入堂まで行ってみたい。


三徳山登山(3) 文殊堂 鎖坂 文殊堂に上がる鎖坂


自然と向きあう修行のあり方の違い

 三徳山三佛寺で開催されたフォーラムのうち、担当分の要約と感想を以下に記します。
 講演①真田「崖と岩陰と建造-三徳山三佛寺を中心に」: 三徳山は伯耆国に位置する一峰であり、大和の国の役行者が「神仏のゆかりのあるところへ」と投げた蓮の花びらが舞い降りたことから、修験道の行場として開山したと伝承される。三徳山の文殊堂には勝手権現、地蔵堂には子守権現が祀られている。勝手権現は祈雨・止雨の神であり、子守権現は水分神である。大山と三徳山を比べると、大山は広い民間信仰域であり、三徳山は修行の山としての特色が強い。三徳山が修行の場となっているのは、水の神が祀られていることが関係しているのではないかと考えている(教授は懐疑的)。
 講演④陳彥伯「台湾の巌(岩寺)と霊山」: 仏教の伝来以前の中国では、山を神聖な霊山として信仰していた。山は誕生の場であり、死後魂が帰る場所として大切にされてきた。この信仰は、山と川を最も重要とする風水に受け継がれている。しかし、仏教の伝来により霊山は仏教の修行と信仰の場所となり、「巌」と呼ばれる仏寺が形成された。台湾では17世紀以降、中国南部(福建)からの移民によって信仰が伝わり、台湾の山にも「巌」が建てられた。移民は、仏教の信仰を持ちつつも仏教伝来以前からの信仰と原住民の信仰を基に、山を神聖な霊山として位置づけ、仏寺を建てた。しかし、日本統治時代に入ると、仏教が支配的信仰になり「巌」の仏教化が進んだ。そこで、仏教を信仰する僧と山を神聖な場とする原住民で対立が起き、「巌」は仏教系の巌と、仏教伝来以前からの信仰による巌と原住民の信仰に基づく巌に分かれた。
 コメント②小林「密教系霊山と両墓制-三徳山三佛寺・喜見山摩尼寺と宝珠山立石寺」: 墓には、死者を葬る葬地と祖霊を祀る祭地の2つの意味がある。これらは同じ場所で行われるだけでなく、時間の経過に応じて別の場所に移る両墓制がある。両墓制では「埋墓」と「詣墓」に分けられる。近年では両墓制は見られなくなったが、詣墓に代わるものとして福井県おおい町のニソの杜などが挙げられる。


【確定_印刷用】三徳山フォーラム要旨集_page-0007 【確定_印刷用】三徳山フォーラム要旨集_page-0006 【確定_印刷用】三徳山フォーラム要旨集_page-0010


 《感想》 様々な人の話を聞き、三徳山や崖寺についての理解が深まった。三徳山の詳細、仏教や崖寺の歴史、ブータンで信仰されている宗教などを知ることができた。特に、台湾やブータンと日本の崖寺の比較がおもしろかった。ブータンの崖寺は修行の場であり、日中の崖寺は祀堂であることに納得した。ブータンと日本では、修行の仕方も違うのかなと思った。三徳山は修行の場であるが、三徳山では堂までの道のりが修行の場となっている。また、日本でも写経や瞑想なども修行の一環であるが、修験道や滝行など自然の厳しさを活用した修行のイメージが強い。日本は寺に住み、厳しい自然の中に修行に行くイメージである。一方、ブータンでは厳しい自然(崖)で生活し、瞑想が最も重要な修行だというイメージである。ブータンと日本の違いについてもっと知りたいと思った。(3年B班 デミグラス)


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崖と建築のヒエロファニー 三徳山《日本遺産》フォーラム(報告9)

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 今夜から3年生の三徳山レポートを追加しようということになり、ゼミで活動しましたが、なんだ2年生の方が出来がよいではないか、と感じるところもあり、3年を中心にしつつ2年のレポートで補足します。

投入堂の春と秋

 私は2回目の投入堂登拝ということで、B班の引率として登山に挑みました。 前回登ったのは7月で緑が生い茂っていました(上左の写真)。夏の始まりでとても暑かったですが、友人と二人で投入堂までたどり着くことができました。今回は秋の紅葉が美しく、森も地面も赤や黄色の葉が溢れており、秋を感じる登山ができました。天候は良いとは言えず、時々小雨が降りましたが、登山中止にならず良かったです。2年生の班長のS君は体力があり、生徒をまとめるのが上手く、とても頼りになりました。文殊堂に登るための鎖と足場が雨でぬれていてとても滑 りやすく危険だったので、時間がかかりました。2年生が頑張っている姿を見ながら、3年のDさんと文殊堂からの景色を満喫しました。フォーラムに参加しなければならないということでB班は文殊堂までの登山となってしまいました。上右の写真はA班が撮ったものです。せっかく上ったので投入堂までみんなを連れていきたかったです。(3年B班 山女ラニー)


79FDD7EF-62F5-43A1-AB6E-F7B3841EBBFD.jpg 文殊堂からの景色


わらじでリフレッシュ

 私は今回、初めて三徳山を訪れ、B班として2年生の引率の手伝いを担当した。 三徳山に到着してから念入りな靴のチェックが行われた。靴底が滑りやすいと判断されたため、わらじを履いて登った。平坦な道は少なく、雨が降っていたことで、わらじを履いた足の裏は冷たく水がしみ込んでいた。しかし、わらじを履いていて怪我をすることもなく、いつもと違う靴でとても新鮮な気分だった。登山中はふだん交流する機会がない2年生とも会話し、楽しい雰囲気で登り、あっという間に大きな岩の前まで来た。時間の関係でB班は投入堂まで行くことはできなかったが、久 しぶりに山に登ったことで、美しい紅葉を見て自然を堪能することができた。下山する際も2年生が揃っているか確認し、怪我をしないよう慎重に下山した。自然に囲まれて登山をした後のお昼ご飯は格別に美味しかった。今回、日本一危険な国宝と言われる三徳山の奥の院を経験し、自然の厳しさの中で修行する辛さと美しい景色を見てリフレッシュすることができた。 (3年B班 シーサンパンナ)


三徳山わらじ2 三徳山登山で履いたわらじ


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研究倫理eラーニングを終えて

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国際学会で目の当たりにした倫理違反

 学術振興会の研究倫理eラーニングに半日費やした。日本語の「半日」にあたる中国語「半天」は、半日というより「とても長い時間」を意味する。まさにそんな具合であり、大学共通試験前に視聴する動画と同じぐらいの負荷を感じた。何年か前にいちど受講したことがある。そのときはゲノム編集など著しく理系に偏った事例が多く、我がBRDのような小テストで何問か間違えてしまったが、今日はスムーズに正解を重ねることができた。研究者として適正なあり方(倫理)を改めて学び、身の引き締まる想いがしたけれども、それにしても時間がかかるな。自分自身、気を付けないといけない、無意識ながら違反してるかもしれない、と思う部分もなくはない。ともかく困ったり、迷ったりしたら、頼りある事務職員に相談するのが一番であり、いまたしかに私はそのようにしている。
 余談ながら、研究倫理に反する事例を一つ追加で紹介させていただく。
 2018年5月、福州大学で開催された楊鴻勛先生3周忌国際建築考古学会で、わたしは露骨に著作権侵害をして発表する研究者を目の当たりにした。悲しいことではあったけれども、晩餐会の席上で注意せざるをえなかった。講演題目は「大極殿の復元」。発表者は、第一次大極殿の施工管理に従事してきたが、復元の根幹にあたる遺構解釈と基本設計には全く関与していない。それに携わったのは我々の世代である。鈴木、岡田、松田、小澤らの先達・同僚とともに私たちの世代が考察し続けた知的財産であり、それをあたかも自分ひとりの業績のようにして、国際学会においてシングルネームで発表するのはもってのほかである。あからさまな著作権侵害、倫理規定違反にあたる。学振の研究倫理指針を学んだのか、と問うたが、首を縦にも横にも振らなかった。


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美作の久米屋を訪ねて

1204久米屋05玄関看板02アップ 1204久米屋05玄関看板01


遠回りでみつけた美作右手

 11月14日(火)に放送された「いいいじゅ-」という番組の最後の5分をみる機会があり、目が点になった。上方往来の智頭の向こう側にある岡山県大原に若い建築家が住み着いて、古民家の再生・活用に挑んでいるという番組で、なにやら新潟竹所のカールベンクスさんを思い起こさせる。さっそく翌週から、古民家再生で卒論に取り組む4年のウェイチアン君と話し合い、忘年会の会場として訪問させていただけないか、ということで、旧大原町役場やら、美作市役所に電話して情報を集めた。市役所企画調整課からの返事は、大原の山間集落にある久米屋にメールを入れてほしいというものだったので、ただちに二人で1本ずつ計2本のメールをしたのが、返信のない状態が続いた。


1204丸忠01うな重 1204丸忠00sam ナマズではありません


 2日で8コマという放送大学の激務を終えて、自ずと疲労が蓄積しており、朝食後二度寝をしたため、出発は昼前になった。大原と言えば、いつも奈良との往来で通過するところだから、気軽に考えていたのだが、カーナビに「美作市右手(うて)」をセットすると、途中から予想とは異なる指示が出始める。大原に行けばなんとかなる、と思っていたのだが、鳥取道(高速)を下りる指示は智頭南から出始めた。なんかの間違いだろうと思って高速を南下するも、地道に下りるように重ねて指示が出るので、粟倉荘の手前から国道に出るも、鳥取方面に戻れという画面になっているので、古いカーナビはどうしようもないな、と呆れながら、粟倉荘をさらに南下すると、ようやく西(右)に折れる指示があって、細い山道を結構走った。しかし、10キロばかり行くと、道路は閉鎖されていた。行き止まり。仕方がないので、山道を引き返して大原宿の古い町並みを一周。上方往来の古い住宅群には食事をできそうな施設がみあたらなかった(実際にはあるらしい)。国道沿いの懐かしい洋食喫茶「パリ」が営業中の大きな看板を出していたので駐車場に車を停めたが、ドアは開かない。隣にある寿司屋「丸忠」に入った。丼やうどんを得意とする和食店である。ここで、わたしと家内はそれぞれうな重と天丼を頼んだ。ナマズそのものはなかったが、ナマズの活動と係り深いメニューで値段も安かった。隣にいた客は「丸忠は美味い」と言って店を出ていった。たしかにその通りだと思う。おまけにうな重が1,500円で食べられる。ファミマの対面にあって、午後8時まで営業というから、佐用食堂に入れないときにはここを使おう。「みちくさの駅」もなくなることだし、「丸忠」はわたしたちにとって重要性を増すであろう。


1204久米屋04正面02sam 1204久米屋03側面小川01


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プロフィール

魯班13世

Author:魯班13世
--
魯班(ルパン)は大工の神様や棟梁を表す中国語。魯搬とも書く。古代の日本は百済から「露盤博士」を迎えて本格的な寺院の造営に着手した。魯班=露盤です。研究室は保存修復スタジオと自称してますが、OBを含む別働隊「魯班営造学社(アトリエ・ド・ルパン)」を緩やかに組織しています。13は謎の数字、、、ぐふふ。

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