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大僧正行基の長岡院に関する継続的再検討 -奈良市菅原遺跡の発掘調査報告書の刊行をうけて-《2023年度卒論概要》

卒論スライド1(武内) スライド1


 こんにちは、武内です。2月7日(水)ポスター卒論研究発表会の発表内容と概要を報告させていただきます。 卒業研究にご協力いただいたすべての皆様に厚く御礼申し上げます。

題目: 大僧正行基の長岡院に関する継続的再検討
    -奈良市菅原遺跡の発掘調査報告書の刊行をうけて-
Continuous Re-examination on the Annex called Nagaoka-in for the Memorial Service of Archbishop Gyoki in the 8th Century
-Upon the Publication of the Formal Report on the Excavation of SUGAWARA Site, Nara City -
中間報告


1.研究の経緯と問題意識

 奈良市疋田町の丘陵上に所在する菅原遺跡は、2020年10月から元興寺文化財研究所(以下、元文研)が発掘調査し、2021年5月22日にその成果を一斉に報道した。菅原遺跡は菅原寺の西北約1kmの丘の上にあり、『行基年譜』(1175)の記載に一致するため、東大寺大仏の造営を指揮した大僧正行基(668-749)を追善供養する「長岡院」説が有力視されている。そこで発見された遺構は、同心円的平面を呈する十六角形建物を回廊・塀などが囲んでおり、国指定史跡の価値があると評価されたものの、遺跡の保存は叶わず、宅地造成により滅失した曰く因縁の奈良時代遺跡である。
 報道を受けてまもなく、研究室の有志は菅原遺跡を訪れて遺構を体感し、建築的復元を決意した。当時、ただ元文研がネット上にアップした速報があるだけで、その資料から復元に挑むのは早計の誹りを免れえないとは思いつつ、研究室が事を急いだのは以下の理由による。元文研が記者発表で使った「円堂」の復元パースは、空海が真言密教とともにもたらしたとされる「多宝塔」をイメージしたものだが、奈良時代の日本には存在しないというのが常識であった。復元パースの建物は、ネパールのストゥーパや北京の天壇を彷彿とさせる日本離れしたものであり、一般国民はこのような建築が奈良時代に存在したと勘違いしかねないので、できるだけ早く修正しなければならないという想いが強くなったのである。
 研究室の手法はオーソドックスである。十六角形という特殊な平面を、奈良時代の八角円堂のバリエーションとして捉え、四つの復元案を完成させ、記者発表と学会誌投稿などをおこなった。このとき研究室の卒業生、玉田花澄が卒論として考察している。その後、2023年3月に元文研が正式な報告書を刊行した。問題点はさらに悪化している。「多宝塔の初現形式」が空海帰国以前の奈良時代に遡ると断定し、円形建物の復元案が当初案以上に奇怪な姿を露呈しているからだ。こうした日本史/日本建築史に抗う見解を示すならば、予め学会誌で審査を受けるべきだが、そのような慎重なプロセスを経ることなく報道され、再び国民に歪んだ歴史観を与えかねない状況なので、急ぎ報告書を全面的に精査し、批評を試みる。


卒論スライド2(武内) スライド2


2.宝塔/多宝塔の歴史観-空海帰国以前と以後では形式が異なる

 宝塔・多宝塔の本来の意味は『法華経』見宝塔品に由来する。釈迦が法華経を説法していたとき、突然地下より巨大で美しい塔が涌き出で空中に浮かび、「釈迦の説法は正しい」と絶賛する大声が聞こえ、釈迦を塔の中に招きいれて並座する。この大声の主こそ、東方の宝浄国にいた過去仏、多宝如来である。法華経では、多宝如来の御在所を「塔廟」と呼んでおり、「宝塔」あるいは「大塔」とも表現している。煌びやかで大きいことに特徴があるだけで、具体的な姿は不詳だが、7世紀に遡る長谷寺銅板説相図の「多寶佛塔」は六角三重塔に描かれている。ほかにもバリエーションはあるが、ともかく平安時代以降の多宝塔とは全く異なることを知っておかなければならない。
 平安時代の初め(9世紀初期)に、空海が唐長安青龍寺での修行を終えて、密教の奥義を極め、多数の仏典とともに、日本に招来したのが宝塔・多宝塔とマンダラである。マンダラは円と正方形を組み合わせた図形の複合に特徴がある。そうした幾何学的造形は宝塔・多宝塔にも共通する。高野山金剛峯寺の根本大塔や同じ和歌山県の根来寺大塔 (1496)などの裳階付き宝塔は、平安初期には「大塔」と呼ばれていた。11世紀前期以降、釈迦・多宝如来並座の天台系の塔を「多宝塔」と呼び始め、現存最古の石山寺多宝塔(1194)は真言宗の本尊「大日如来」を祀っている。
 日本建築史の定義では、裳階のない円筒・伏鉢状本体だけのものを「宝塔」、それに裳階がついたものを「多宝塔」とする。仏教史的にはそうした区別はあまり意味がないようで、多宝如来を祀る宝塔を「多宝塔」と呼ぶ寺院もある。繰り返しになるけれども、空海帰国以前の「多宝塔」と帰国以降の「多宝塔」は形式を異にするという事実を認識する必要がある。


卒論スライド3(武内) スライド3


3.行基墓に係る文献記載-行基舎利は生駒山中にあり、長岡院とは関係ない

 我が研究室は、菅原遺跡で発見された十六角形建物を法隆寺夢殿のような供養堂だと考えている。一方、元文研はこれを多宝塔系と捉えている。その根拠として、行基の墓に関する記録に「多宝之塔」「塔廟」が含まれることをあげているが、さてどうだろう。
 鎌倉時代初期、文暦2年(1235)の行基墓発掘の記録を含む『竹林寺縁起』を要約してみよう。

  行基の遺命によって生駒山の東陵で火葬した。 ただ砕け残った舎利、燃え尽きた軽灰が
  あるのみ。 行基の舎利・遺灰を容器に収めて、多宝之塔とみなした。

 行基の舎利を埋めた生駒山竹林寺の陵墓を「多宝之塔」とみなしており、行基の没年(749)の段階で墓はあっても、追善供養の施設はまだ建立されているはずはなく、菅原遺跡の円形建物と「多宝之塔」は関係ない。また、嘉元3年(1305)に凝然が著した『竹林寺略録』の読み下し文は以下のようになる。

   勝賓から嘉禄に至るまで、ただ「塔廟」を建てて舎利を安置する。
     *天平勝宝:749~757年  嘉禄:1225~1227年
 行基の没年以降、鎌倉時代の初期まで「塔廟」を造営して舎利を安置していた、ということである。「塔廟」とは生駒山で行基舎利を納めた施設であり、追善供養を目的とする長岡院(菅原遺跡)とは別の場所の別の施設であったと考えられる。そもそも、「多宝之塔」「塔廟」は『法華経』からの引用であり、いずれも「多宝如来の御在所」を意味しており、行基を多宝如来に重ねあわせた表現とみるべきである。


卒論スライド4(武内) スライド4


4.円形建物SB140の遺構解釈-大壁の作為と十六角形土庇

 菅原遺跡の円形建物跡SB140の平面図を改めてみるとよく分かるのだが、後世の削平により、断続的な円形の溝状遺構とその外側にめぐる16個の柱穴しかない。研究室は内側の溝状遺構を基壇地覆石の痕跡とみなしていたが、元文研はこれを否定し、大陸風大壁の痕跡とした。しかしながら大陸風の大壁は、溝状遺構の中に多くの杭を打って分厚い小舞壁とするものだが、菅原遺跡の場合、杭跡は一つもなく、この基壇端に「大陸風の大壁」をつくることはできない。
 外周の16本掘立柱列について、元文研はこれを多宝塔の裳階と表現し、基壇端大壁と扇垂木でつないでいる。扇垂木を奈良時代に使う例は知られていない。円形の本体と貧相な外周掘立柱列に構造の一体感はなく、研究室は、この16本柱列を土庇とみなしている。土庇とは、石階などの上につくる向拝、すなわち玄関ポーチのようなものである。このたび研究室は16角形の向拝に覆われ、基壇全周にまわる石階の案を追加で設計した。この場合、基壇は面取り八角形、すなわち不整十六形になる。



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プロフィール

魯班13世

Author:魯班13世
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魯班(ルパン)は大工の神様や棟梁を表す中国語。魯搬とも書く。古代の日本は百済から「露盤博士」を迎えて本格的な寺院の造営に着手した。魯班=露盤です。研究室は保存修復スタジオと自称してますが、OBを含む別働隊「魯班営造学社(アトリエ・ド・ルパン)」を緩やかに組織しています。13は謎の数字、、、ぐふふ。

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