衝撃の放射性炭素年代-速報
旧山岡家住宅の部材
今年度もまた科学的年代測定のお世話になっています。まず、倉吉市福吉の旧山岡家住宅(すでに解体)のウィグルマッチングが10月15日の速報で届いた。試料の最外年輪の年代は2σ暦年代範囲において、
1731-1777 cal AD(24.6%)
1855-1895 cal AD(53.9%)
1906-1945 cal AD(16.9%)
という測定の結果がでた。約54%の信頼性で、西暦1855-1895年ということなので、幕末~明治期の部材である可能性が高く、最も古い場合でも18世紀でとどまる。あらっぽいチョウナはつり痕跡が残っており、17世紀以前に遡る可能性もあると思っていたが、存外、新しい材であった。
大雲院とジャンバラカンの柱材
昨日、大雲院本堂とジャンバラカン(ブンタン)の部材の放射性炭素年代測定の結果も届いた。2σ暦年代範囲で以下の測定結果である。
大雲院 内陣入側柱【ウィグルマッチング】
最外年輪年代(辺材部)・スギ
1670-1686 cal AD (95.4%)
ジャンバラカン本堂内陣2本柱【AMS単体】
最外年輪年代(部位不明)・樹種不明
1526-1555 cal AD (16.3%)
1632-1666 cal AD (74.4%)
1784-1795 cal AD ( 4.7%)
大雲院本堂の柱は面取角柱であり、年輪観察でも辺材部を確認している。したがって、伐採年代を西暦1670-1686年+αとみることができる。伐採年代はおそらく1695~1705年ころであり、その後、乾燥→加工→組立の時間を考慮すると、享保六年(1721)の棟札年代に整合する。享保六年の旧霊光院本堂部材の可能性とともに、焼失した前身建物の部材の可能性も浮上してきたと言えるだろう。霊光院第一文書によると、享保二年(1717)に建立された当初の霊光院には四間四面の「弥陀堂」と七間×五間半の「観音堂」が並存していたと考えら、享保五年の石黒火事で境内の堂宇は全焼するが、享保六年棟札の段階では弥陀堂と観音堂の合体した七間×六間の「本堂」が成立した可能性がある。内陣入側柱は四間四面「弥陀堂」のいちばん外側にあたる部分であり、あるいは享保六年棟札以前の弥陀堂の部材であるかもしれない。いずれにしても、霊光院本堂をひきついだ大雲院の本堂が、鳥取東照宮(1650)に次ぐ鳥取市内最古級の建造物である可能性がさらに高まったと言える。
一方、吐蕃の王ソンツェンガンポが7世紀に創建したと伝承されるブンタン(ブータン)のジャンバラカン本堂内陣の2本柱(のうちの1本)は、最外資料が17世紀であり、7~8世紀の材ではないことが確定した。これには二つの解釈が可能である。一つは古代に遡る本堂が17世紀以降に「再建」された可能性である。しかし、それは「再建」ではなく、本堂「創建」の可能性もある。ウタムさんの持論である「国家形成期(17世紀)以前に本堂はなかった」ことを裏付ける資料としても理解しえるのである。ブータンでの放射性炭素年代測定の結果はパロのダカルポ-ゲムジャロ寺に次いで2ヶ所めであり、いずれも17世紀以降の年代を示している点は注目してよいだろう。来年度以降もデータの積み重ねができることを願っている。
今年度もまた科学的年代測定のお世話になっています。まず、倉吉市福吉の旧山岡家住宅(すでに解体)のウィグルマッチングが10月15日の速報で届いた。試料の最外年輪の年代は2σ暦年代範囲において、
1731-1777 cal AD(24.6%)
1855-1895 cal AD(53.9%)
1906-1945 cal AD(16.9%)
という測定の結果がでた。約54%の信頼性で、西暦1855-1895年ということなので、幕末~明治期の部材である可能性が高く、最も古い場合でも18世紀でとどまる。あらっぽいチョウナはつり痕跡が残っており、17世紀以前に遡る可能性もあると思っていたが、存外、新しい材であった。
大雲院とジャンバラカンの柱材
昨日、大雲院本堂とジャンバラカン(ブンタン)の部材の放射性炭素年代測定の結果も届いた。2σ暦年代範囲で以下の測定結果である。
大雲院 内陣入側柱【ウィグルマッチング】
最外年輪年代(辺材部)・スギ
1670-1686 cal AD (95.4%)
ジャンバラカン本堂内陣2本柱【AMS単体】
最外年輪年代(部位不明)・樹種不明
1526-1555 cal AD (16.3%)
1632-1666 cal AD (74.4%)
1784-1795 cal AD ( 4.7%)
大雲院本堂の柱は面取角柱であり、年輪観察でも辺材部を確認している。したがって、伐採年代を西暦1670-1686年+αとみることができる。伐採年代はおそらく1695~1705年ころであり、その後、乾燥→加工→組立の時間を考慮すると、享保六年(1721)の棟札年代に整合する。享保六年の旧霊光院本堂部材の可能性とともに、焼失した前身建物の部材の可能性も浮上してきたと言えるだろう。霊光院第一文書によると、享保二年(1717)に建立された当初の霊光院には四間四面の「弥陀堂」と七間×五間半の「観音堂」が並存していたと考えら、享保五年の石黒火事で境内の堂宇は全焼するが、享保六年棟札の段階では弥陀堂と観音堂の合体した七間×六間の「本堂」が成立した可能性がある。内陣入側柱は四間四面「弥陀堂」のいちばん外側にあたる部分であり、あるいは享保六年棟札以前の弥陀堂の部材であるかもしれない。いずれにしても、霊光院本堂をひきついだ大雲院の本堂が、鳥取東照宮(1650)に次ぐ鳥取市内最古級の建造物である可能性がさらに高まったと言える。
一方、吐蕃の王ソンツェンガンポが7世紀に創建したと伝承されるブンタン(ブータン)のジャンバラカン本堂内陣の2本柱(のうちの1本)は、最外資料が17世紀であり、7~8世紀の材ではないことが確定した。これには二つの解釈が可能である。一つは古代に遡る本堂が17世紀以降に「再建」された可能性である。しかし、それは「再建」ではなく、本堂「創建」の可能性もある。ウタムさんの持論である「国家形成期(17世紀)以前に本堂はなかった」ことを裏付ける資料としても理解しえるのである。ブータンでの放射性炭素年代測定の結果はパロのダカルポ-ゲムジャロ寺に次いで2ヶ所めであり、いずれも17世紀以降の年代を示している点は注目してよいだろう。来年度以降もデータの積み重ねができることを願っている。