記念物の特徴および評価(案)
鳥取市覚寺の摩尼山は大山、三徳山と並ぶ天台宗の拠点的霊山(標高357m)で、 山頂と「鷲が峰」が馬の頭と背の如く二段になる山容に特徴がある。周辺の山林から山の全景を捉えにくいが、砂丘側(福部町浜湯山)のラッキョウ畑から遠望できる。地質は新第三紀安山岩質の岩脈・岩頸の複合体をなし、山頂周辺に凝灰岩の巨巌や岩肌が露出する。山域全体に落葉広葉樹と照葉樹の混交する原生林的植生がひろがるが、造林公社による杉植林地が一部を占める。
摩尼山の摩尼(マニ)とは、真言タントラ(六字大明呪=南無観世音菩薩)を構成する梵字の一つに由来する。マニは「宝珠」もしくは「宝石」を意味し、秩序、慈悲、思いやりなど悟りを開くための要素であって、とりわけチベット系密教で重視されている。汎アジア的にみて、後期密教に特有な概念である。
縁起書(1683)によると、唐より帰国した円仁(794-864)が八葉の蓮弁のように峰分かれしている山頂に注目し、天台宗の拠点と定め、摩尼寺を開いた。山号を喜見山という。仏教世界の中心に聳える須味山の頂に喜見城があり、そこに住む帝釈天が摩尼宝珠をもって鷲ヶ峰の立岩に降臨したと寺伝にいう。「鷲ヶ峰」なる峰名は古代インドの「霊鷲山」に因むものと思われる。
ところで、円仁開山伝承のある寺院は全国で600以上を数え、その大半の由緒は後世の附会とみなされる。摩尼山においても、発掘調査により「奥の院」の敷地造成は10世紀後半以降であることがほぼ明らかになっている。残念ながら、円仁開山伝承の信頼性は高くないが、遅くとも平安時代後期に喜見山摩尼寺は開山しており、以来、「因幡(鳥取県東部)に住む民は死後いったん霊魂が摩尼山に滞留し彼岸に逝く」と信仰されてきた。
構成資産のうちとくに注目すべきは摩尼寺「奥の院」遺跡であろう。立岩(鷲が峰)から約60m下ったところに巨巌が聳え、その正面に2段の平場(加工段)が展開している。巨巌は下段を大きく抉って掘削し、岩陰の仏堂としており、木彫仏(上層遺構対応、帝釈天か)のほか、阿弥陀如来・千手観音・地蔵菩薩・不動明王・虚空菩薩などの石仏を祀る。巨巌の上段では小規模の岩窟を掘削し、五輪塔を祀る。上段と下段をつなぐ石段の遺構もみつかっている。2010年にⅠ区(下の加工段)・Ⅱ区(上の加工段)・Ⅲ区(巨巌岩陰)・Ⅳ区(巨岩岩窟)で発掘調査がおこなわれた。Ⅱ区の上層では8間以上×8間以上の総柱建物跡SB01、Ⅲ区では岩陰直下で掘立柱掘形が検出され、それらは小泉友賢の著した地誌『稲葉民談記』(1688)に描かれた2棟の重層建物(楼閣式仏堂)に対応する蓋然性が高まった。民談記に描く手前の建物がⅡ区検出のSB01、奥の建物が巨巌の岩陰仏堂・岩窟仏堂・石段に密着して建つ懸造の建物と推定される。また、Ⅱ区の下層では凝灰岩盤に掘削された正方形のピットが7尺等間に並ぶなど平安後期の建物跡SB02も検出されている。全国的にみても、「奥の院」の発掘調査は稀少であり、平安密教山林寺院の特殊例として注目される。なお、旧参道には平な石敷が残っており、『稲葉民談記』にみえる平屋の門(山門?)の可能性がある。
「奥の院」と「鷲が峰」は近接しており、一体の遺跡群として捉えるべきであろう。「鷲が峰」の立岩に降臨した帝釈天を祀る聖域の下側に行場として「奥の院」があったとも考えられる。立岩からの眺望はみごとなものである。日本海・鳥取砂丘・湖山池などを一望にでき、天候の条件が良い場合、大山の頂を望むこともできる(最近はpm2.5の影響で霞んでいる)。
摩尼山の摩尼(マニ)とは、真言タントラ(六字大明呪=南無観世音菩薩)を構成する梵字の一つに由来する。マニは「宝珠」もしくは「宝石」を意味し、秩序、慈悲、思いやりなど悟りを開くための要素であって、とりわけチベット系密教で重視されている。汎アジア的にみて、後期密教に特有な概念である。
縁起書(1683)によると、唐より帰国した円仁(794-864)が八葉の蓮弁のように峰分かれしている山頂に注目し、天台宗の拠点と定め、摩尼寺を開いた。山号を喜見山という。仏教世界の中心に聳える須味山の頂に喜見城があり、そこに住む帝釈天が摩尼宝珠をもって鷲ヶ峰の立岩に降臨したと寺伝にいう。「鷲ヶ峰」なる峰名は古代インドの「霊鷲山」に因むものと思われる。
ところで、円仁開山伝承のある寺院は全国で600以上を数え、その大半の由緒は後世の附会とみなされる。摩尼山においても、発掘調査により「奥の院」の敷地造成は10世紀後半以降であることがほぼ明らかになっている。残念ながら、円仁開山伝承の信頼性は高くないが、遅くとも平安時代後期に喜見山摩尼寺は開山しており、以来、「因幡(鳥取県東部)に住む民は死後いったん霊魂が摩尼山に滞留し彼岸に逝く」と信仰されてきた。
構成資産のうちとくに注目すべきは摩尼寺「奥の院」遺跡であろう。立岩(鷲が峰)から約60m下ったところに巨巌が聳え、その正面に2段の平場(加工段)が展開している。巨巌は下段を大きく抉って掘削し、岩陰の仏堂としており、木彫仏(上層遺構対応、帝釈天か)のほか、阿弥陀如来・千手観音・地蔵菩薩・不動明王・虚空菩薩などの石仏を祀る。巨巌の上段では小規模の岩窟を掘削し、五輪塔を祀る。上段と下段をつなぐ石段の遺構もみつかっている。2010年にⅠ区(下の加工段)・Ⅱ区(上の加工段)・Ⅲ区(巨巌岩陰)・Ⅳ区(巨岩岩窟)で発掘調査がおこなわれた。Ⅱ区の上層では8間以上×8間以上の総柱建物跡SB01、Ⅲ区では岩陰直下で掘立柱掘形が検出され、それらは小泉友賢の著した地誌『稲葉民談記』(1688)に描かれた2棟の重層建物(楼閣式仏堂)に対応する蓋然性が高まった。民談記に描く手前の建物がⅡ区検出のSB01、奥の建物が巨巌の岩陰仏堂・岩窟仏堂・石段に密着して建つ懸造の建物と推定される。また、Ⅱ区の下層では凝灰岩盤に掘削された正方形のピットが7尺等間に並ぶなど平安後期の建物跡SB02も検出されている。全国的にみても、「奥の院」の発掘調査は稀少であり、平安密教山林寺院の特殊例として注目される。なお、旧参道には平な石敷が残っており、『稲葉民談記』にみえる平屋の門(山門?)の可能性がある。
「奥の院」と「鷲が峰」は近接しており、一体の遺跡群として捉えるべきであろう。「鷲が峰」の立岩に降臨した帝釈天を祀る聖域の下側に行場として「奥の院」があったとも考えられる。立岩からの眺望はみごとなものである。日本海・鳥取砂丘・湖山池などを一望にでき、天候の条件が良い場合、大山の頂を望むこともできる(最近はpm2.5の影響で霞んでいる)。
縁起書によると、羽柴秀吉の鳥取城攻めの際、摩尼寺も戦場となり、境内が灰燼に帰したとあるが、秀吉との攻防を証明する成果は得られていない。戦国期から藩政初期にかけて摩尼寺の維持は不安定で、元禄3年(1690)には鳥取東照宮の別当寺「淳光院」(後に大雲院と改名)兼帯の寺院となる。摩尼寺門前の墓地には、淳光院(現在の大雲院)第2~4代住職(摩尼寺兼任)の墓碑、及び『稲葉民談記』の著者・小泉友賢の墓碑が残る。淳光院は天台宗山門派だが、摩尼寺は享保3年(1718)より比叡山安楽律院の末寺となって、安楽院(安楽律派)より輪住が派遣されるようになる。この宗派変更に前後して、境内は「奥の院」から山麓に移った可能性が高い。
江戸期の山麓境内については、古い絵図資料がなく、幕末の米逸処『稲葉佳景無駄安留記』(1858)まで下ってようやく境内図がみえる。そこに描かれた建物群のうち当初位置に姿をとどめるのは仁王門(18世紀後期・県指定保護文化財)と庫裡(文政6年/棟札)のみである。本堂は安政七年(1860)、山門・鐘楼は明治20年代の再建である。また、山上にあった三祖堂と閻魔堂は昭和戦後の新築だが、向拝などは山上前身建物の部材を受け継いでいる。境内の最も奥に建つ善光寺如来堂は明治末の山陰線全通を記念して建立された第2の本堂であり、法要やイベントはこの仏堂で開催される。2014年に本堂・鐘楼・山門が国の登録文化財となったが、いま問題を抱えているのは庫裡である。山門より内側では最古の建造物(1823)であり、屋根・壁・床などの経年的な劣化が進行している。
このほか、摩尼山には150体以上の石仏が寄進されている。それらは境内最奥の善光寺如来堂背面から立岩(鷲が峰)に至る登山道周辺に集中している。石仏の背面・側面に施主と寄進者を彫り込む例も若干あり、それらの多くは文化文政期以降のものである。とくに注目すべきは、鳥取市元魚町の商人、大谷文治郎の動きである。「奥の院」岩陰仏堂に鎮座する地蔵菩薩・弘法大師厨子・虚空蔵菩薩・不動明王、登山道~立岩にかけて3群に分けて鎮座する西国三十三観音菩薩は、文化年間に他寺に寄進していたものだが、その寺廃絶したため摩尼寺に寄進しなおしたものであることが分かっている(田中新次郎『因幡の摩尼寺』鳥取県民俗研究会、1958)。
以上、摩尼山は平安密教に係わる遺跡・伝承地をはじめ、江戸時代~近代の墓地・建造物・石仏等文化資産を大量に残し、巨巌と遺跡と山林の複合する風景は圧巻である。また、立岩(鷲が峰)や登山路展望所から日本海・砂丘・らっきょう畑・湖山池なども一望にできる風景の名所であり、国の登録記念物(名勝地)にふさわしいものである。
江戸期の山麓境内については、古い絵図資料がなく、幕末の米逸処『稲葉佳景無駄安留記』(1858)まで下ってようやく境内図がみえる。そこに描かれた建物群のうち当初位置に姿をとどめるのは仁王門(18世紀後期・県指定保護文化財)と庫裡(文政6年/棟札)のみである。本堂は安政七年(1860)、山門・鐘楼は明治20年代の再建である。また、山上にあった三祖堂と閻魔堂は昭和戦後の新築だが、向拝などは山上前身建物の部材を受け継いでいる。境内の最も奥に建つ善光寺如来堂は明治末の山陰線全通を記念して建立された第2の本堂であり、法要やイベントはこの仏堂で開催される。2014年に本堂・鐘楼・山門が国の登録文化財となったが、いま問題を抱えているのは庫裡である。山門より内側では最古の建造物(1823)であり、屋根・壁・床などの経年的な劣化が進行している。
このほか、摩尼山には150体以上の石仏が寄進されている。それらは境内最奥の善光寺如来堂背面から立岩(鷲が峰)に至る登山道周辺に集中している。石仏の背面・側面に施主と寄進者を彫り込む例も若干あり、それらの多くは文化文政期以降のものである。とくに注目すべきは、鳥取市元魚町の商人、大谷文治郎の動きである。「奥の院」岩陰仏堂に鎮座する地蔵菩薩・弘法大師厨子・虚空蔵菩薩・不動明王、登山道~立岩にかけて3群に分けて鎮座する西国三十三観音菩薩は、文化年間に他寺に寄進していたものだが、その寺廃絶したため摩尼寺に寄進しなおしたものであることが分かっている(田中新次郎『因幡の摩尼寺』鳥取県民俗研究会、1958)。
以上、摩尼山は平安密教に係わる遺跡・伝承地をはじめ、江戸時代~近代の墓地・建造物・石仏等文化資産を大量に残し、巨巌と遺跡と山林の複合する風景は圧巻である。また、立岩(鷲が峰)や登山路展望所から日本海・砂丘・らっきょう畑・湖山池なども一望にできる風景の名所であり、国の登録記念物(名勝地)にふさわしいものである。