続々・奇跡の発見

はやくも再考 -片貝家ノ下遺跡の埋没家屋
1990年代前半から焼失竪穴住居跡の研究に取り組むようになり、縄文・弥生から奈良・平安時代まで全国各地の遺構の分析と復元に携わってきた。それらの多くは土屋根に復元できる。密封性の強い土屋根住居は室内の湿度が高く、炉で煮炊きして火の粉が散乱し木材に付着してもすぐに鎮火する。土屋根の住居は失火では焼けない「防火構造」の建築であって、その点、近世以降における土蔵造の町家に似ている。それだけ焼けにくい土屋根の住居が「焼けた状態」で出土するのは、おそらく廃絶に伴って意図的な「焼却」をおこない、盛り上がった土屋根を平地(ひらち)に戻そうとしたからであろう。扉や天窓を壊して通風を良くし、一部の部材を強制的に焼却できたとしても、まもなく土屋根の内側は酸欠状態に陥る。木材は完全燃焼すれば灰燼に帰し、焼けていないなら土に帰る。酸欠による不完全燃焼だからこそ炭化し、はるか後の時代に姿を伝え残すのである。
こうした焼失竪穴住居では、焼けた垂木などの屋根材が床面に崩落し、茅などの屋根下地材も炭化して垂木上に痕跡をとどめ、その上にまた焼けた屋根土が堆積している。こうした幾重にも織りなされた証拠により、土屋根の構造が復元されるのである。このたび大館市比内町の片貝家ノ下遺跡で発見された埋没家屋SI03は焼失竪穴住居ではない。915年に噴火した十和田火山の火山灰が泥流洪水として押し寄せ、竪穴住居の内と外をゲル状のシラスでパックしてしまった結果、屋根の痕跡が地面に崩れ落ちることなく、ほぼ原位置で3次元的に姿をとどめたものである。万に一つの奇跡というほかない。

SI03は正方形に近い平面をしており、断面に45度の勾配で立ち上がる黒色土層を確認できる。その黒色土層は角錐形に残存しており、屋根の痕跡とみて誤りはないであろう。秋田県埋蔵文化財センターは、当初、黒色土層を土屋根の名残として記者発表していたが、私はこれを垂木の痕跡とみなし、45度ある勾配から草葺き屋根に復元されるであろうと解釈した。黒色土層の厚さは10㎝ばかりしかなく、下端は周堤に突き刺さるようにして納まっている(周堤は垂木を固める基礎)。しかも、層上面のところどころに突起が残っている。これらの突起は垂木上の木舞(草束をつなぐ横材)の痕跡かもしれない。
気になったのは、傾斜する黒色土層と周堤の全体を覆うようにして堆積する降下火山灰である。この砂粒状の層は、仮に草葺き説が正しいとすれば、垂木・木舞の上に葺かれた草屋根の層にあたる。被熱していない火山灰が草屋根そのものを変質させてしまった可能性もあるだろうし、極薄の土屋根上にただ火山灰が堆積した可能性もあるかもしれない。つまり、土屋根説を全面的に否定すべき段階にはないのだが、一般に土屋根は上端で0~10㎝、下端で30~40㎝の膨らみをもつので、SI03の薄い黒色土層は土屋根らしくみえない。むしろ、トチ葺き(木片重ね葺き)の木片相互を上面から接着させる粘土層の可能性もあるのだが、トチ葺きの場合、屋根勾配はもう少し緩くなるはずだ。


いま、現場で撮影した土層断面(写真↑)を見直すと、45度の勾配を有する土層の上端は黒色土と降下火山灰の2層だけでなく、4層(黒土→シラス→黒土→砂粒)に分かれている。こうした土層の意味を一つひとつ精査し、慎重に結論を下さなければならない。すでに述べたように、SI03は焼失竪穴住居ではない。木質の建築部材は不完全燃焼して炭化することなく、常温のシラスに呑み込まれ、柱・梁・桁などの主要材は形をとどめていない。にもかかわらず、垂木(と木舞?)だけが黒色土壌化するというのも納得できないところである。可能ならば、木材・茅草・樹皮などが大量の火山灰(+水)と接触した場合にどのような化学変化をおこすのか、についても実験し、その成果を踏まえて屋根構造を復元すべきと思っている。

米代川流域の埋没家屋は、江戸時代の菅江真澄・平田篤胤以来の記録があり、また胡桃館遺跡等の発掘調査により広く知られている。しかし、片貝家ノ下遺跡の埋没家屋はそれらの先行例よりはるかに原始的なものである。胡桃館・道目木・天神などの平地式、小勝田の半地下式壁立ちとは異なる伏屋(ふせや)式の竪穴住居であり、周堤上端から床面までの深さは120㎝を測る。それは縄文・弥生型の住居形式を受け継ぐものであるという点も強調しておかなければならない。火山灰の泥流は、秋田県北部に存在した多彩な平安時代建築の有り様をパッケージとして後世に伝えたのである。

