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そしてまた、奇跡の発見

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平成27年度秋田県埋蔵文化財発掘調査報告会

 片貝家ノ下遺跡の現地説明会からまる四ヶ月をへた3月13日、「建築考古学からみた片貝家ノ下遺跡の埋没建物跡」と題する講演をしてきました。会場は秋田県生涯学習センターの大講堂。県埋文センターの内部報告会だと思っていたのですが、とんでもない、一般聴衆対象の大規模な講演会でした。いつもの軽装でスピーチしたのですが、他の関係者はみなビシッとスーツで決めておられた。わたしの場合、膨らんだ腹におさまるズボンがありませんで・・・ご免なさい。聴衆は例年150名前後だそうですが、今回は片貝家ノ下の大発見の影響でなんと240名にのぼりました。


ブログ20160313秋田県埋文報告会(浅川)_01 


 話題は上に示したように、3部構成にしました。まず縄文・弥生の焼失住居跡から復元される建物では、土屋根の厚さが10~40㎝の末広がりとなるので、片貝家ノ下の斜行黒土層とは大きく異なることを示唆しました。また、竪穴住居を土で覆うのは「防火」の性能を期待してものであることも強調しました。次に青谷上寺地遺跡の屋根材から復元される杉皮葺き大型建物の復元CGを示しました。現地では杉皮葺きの屋根に土を被せたとみる意見があるようですが、その場合でも、杉皮から下には結構な木構造があり、その小屋組の下端部分が周堤に包含されなければ建築として成立しないことを説明するためです。


ブログ20160313秋田県埋文報告会(浅川)_04 SI03西


SI03の土層分析-屋根と周堤

 片貝家ノ下の埋没家屋SI03については、まず同じような黒土系ではあるけれども、地山・斜行黒土・周堤ですべて色彩・色調が異なっていることを強調しました。これまでなんどか分析した、西側の断面をみると(↑)、斜行黒土の下端は鏃のような形状をして周堤にくいこんでいます。こうした土層の関係からみると、斜行黒土は垂木もしくは板などの木材である可能性が高いと思われます(面的なひろがりがあるので板であろうと推測しています)。しかし、これを屋根土とみる意見もある。その場合、斜行黒土の下側に<サス+母屋+垂木or板材>などの小屋組が納まり、さらにその下端部が周堤の内部に納まることを論証する必要があります。ここで再度、土層をみると、斜行黒土(勾配45°)の下側にベージュ系の攪乱層を確認できます。これが<サス+母屋+垂木or板材>の下端部として捉えうるのか否か。問題はこの攪乱層が周堤のなかに納まるかどうか、ですが、現状では地山面と周堤との関係が把握できないので、今後断面観察トレンチを拡大して、地山面と周堤の層位関係を厳密に理解しなければならないでしょう。ちなみに、周堤は小屋組を竪穴まわりにセットした後、小屋組下端部を固定するため土を被せて完成するものです。最初に周堤があるわけではありません。
 このたびは向かって右、すなわち東側の土層に注目しました。東側は屋根勾配が緩く(北東向25°北西向36°)、傾いた黒土層の色があせて、シラスの色に近づいています。よくみると、ここには上面に張り出し部分の痕跡があり、天窓などが存在した可能性があるでしょう。さらに、周堤に食い込む鋭角的な土層を上下2層確認できます。下側の層は周堤の下に食い込み、上側の層は周堤の上にのっているようにもみえます。下側がサス、上側が垂木もしくは板材の痕跡とみることができるかもしれません。


ブログ20160313秋田県埋文報告会(浅川)_07 ブログ20160313秋田県埋文報告会(浅川)_06 SI03東


SI01の壁と床

 次にSI01の壁と床について考察しましょう。SI01の東側には地山と竪穴内部のシラス堆積層の境界にほぼ一直線に通る縦の土層が確認できます。この土層を壁の裏込とみることもできなくありませんが、裏込にしては幅が綺麗に整いすぎている。その幅はSI03の斜行黒土の厚さに近く、SI01の床面で検出された板の幅に近いものだとわたしは感じています。この床板の下側は地山に接しているのか、それとも裏込があるのか。かりに裏込があるとしたら、壁際の縦層も裏込の可能性を否定できなくなりますが、まともな裏込が存在しないなら、壁際の縦層は板壁そのものだということができるでしょう。竪穴の内部は壁も床もみな板でふさがれていたということになります。湿気が強い床面で床板が残存し、乾燥したシラス内部では壁板が黒色土壌化したのではないでしょうか。


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↑SI01壁痕跡と床板 ↓同床板
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板の建築文化

 こうした状況を他の資料と照らし合わせてみましょう。まずは菅江真澄(1754-1829)の描く「埋没之家居」(小勝田)ですが、壁が地上に立ち上がる「壁立ち」式にはなっていますが、この壁板のイメージと片貝家ノ下SI01の壁痕跡は整合性があるように思います。『粉河寺縁起』(12世紀後半)に描く壁立式竪穴住居(半地下式住居)でも、屋根と壁には板を並べていますね。片貝と同時期に埋没した鷹巣町の胡桃館遺跡の埋没家屋も壁にしっかり板を組んでいます。片貝家ノ下の場合、小勝田や鷹巣の壁立式住居よりも原始的な伏屋の竪穴住居になっていますが、内側にはびっしりと板壁が組まれていた。床も板敷であったとみることができるでしょう。


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 おそらく屋根にも板を使っていただろうとわたしは思っています。粉河寺のように、垂木兼用の縦板を敷き並べていたのではないか。ところが、縦板だけだと、その目地で雨漏りがします。この目地をふさぐためにトチか樹皮を屋根板の上に葺き重ねていった。トチや樹皮をとめるには今は竹釘を使いますが、菅江真澄はねばつち(粘土)を塗りつけていたという記録を残していたはずです。まずは垂木を兼ねた板を敷き並べ、その上にトチまたは樹皮を葺き重ねて粘土で固める。そうした外観を示すのが、じつは小勝田の「埋没之家居」ではないかと思うのです。こうした見方をすることで、このたび発見された伏屋式竪穴住居は、小勝田の半地下住居や鷹巣の平屋住居と系譜関係をもつ存在としてとらえうるのではないか。その外観は下のように復元できる。これら3つの建物に共通して背景にあるのは「板の建築文化」だと思うのです。


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新疆南山カザフ族の「冬の家」

 最後にひとつ、参考になると思いまして、民族建築の例を示しておきます(↓)。新疆南山カザフ族はトルコ系の移牧民でして、夏と冬で住み替えをします。気候のよい夏はテント住まいで放牧三昧、極寒の冬はご覧のような「冬の家」に籠もるのです。壁は校倉造に似た累木壁、屋根は板葺き(トチ葺き)でして、屋根と壁の全体に粘土を塗りつけています。こうした薄い粘土の貼り付けは「土屋根」の手法とは異なっています。ここで使う粘土は壁や床の隙間を塞んで密封性を強めようとするものであり、「防火」というよりももしろ「防寒」を目的としたものだと思われます。マイナス30°を下回る極寒の冬世界をハザックたちは過ごしていく。屋内の炉から生まれる暖気をできるだけ外に漏らしたくない。そのために壁と屋根に粘土を塗りつけている。ハザックの「冬の家」は平地式の建物ですが、内蒙古の遊牧エベンキの「冬の家」は半地下式になっていて、さらに小勝田の住居にイメージが近くなります。


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粘土塗りつけ型の住居と防寒性能

 片貝家ノ下でみつかった屋根にも粘土が塗りつけられていた可能性がもちろんないとは言えません。しかし、それは縄文・弥生的な「防火」性能を有する分厚い土屋根ではなく、ハザック族の「冬の家」に近い塗土系であり、その目的は「防寒」(および「防水」)にあったものと想像されるのです。

 来年度の継続的な試掘調査で、とくに重要な点は、

  1)周堤と地山の関係
  2)周堤と屋根痕跡の関係
  3)床板より下の土層

を精査することでしょう。要は、周堤の全体像をつかめるようにトレンチをひろげ、また床板と地山を探るため深く掘り下げる必要があるということです。それらの土層を精査して、一つ一つの層の意味を掴むことができれば、ようやく復元図の作成に着手できるであろうと思います。今後の展開にとても期待しております。

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↑会場の地下に展示された原寸大のSI03断面写真 ↓講演風景
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0314秋田魁新報

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魯班13世

Author:魯班13世
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魯班(ルパン)は大工の神様や棟梁を表す中国語。魯搬とも書く。古代の日本は百済から「露盤博士」を迎えて本格的な寺院の造営に着手した。魯班=露盤です。研究室は保存修復スタジオと自称してますが、OBを含む別働隊「魯班営造学社(アトリエ・ド・ルパン)」を緩やかに組織しています。13は謎の数字、、、ぐふふ。

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