南斯拉夫紀行(Ⅰ)

南のスラブ人
東欧には哀愁がある。共産主義と資本主義の狭間にあって前者の側に取り込まれたばかりに経済が停滞し、人々は貧困に苦しんだ。そのおかげもあって、歴史的景観が驚くほど良好に保全されている。そういう話をかつてプラハで聞いたが、現実はそれほど単純ではないように思える。多くの都市で戦禍が町並みを蝕み、ときに崩壊させてしまったからだ。その悲しみを執拗な復元によって乗りこえたのがワルシャワ(ポーランド)やドレスデン(旧東ドイツ)である。ドナウ川源流域のチェスキークロムロフ(チェコ)は、ナチスに占領されてゴーストタウンになり、戦後のジプシー流入が荒廃に拍車をかけた。この20年ばかりの修復でチェスキーの街はよみがえり、今ではお伽話の世界のような中世の町並みを訪れる旅客が跡を絶たない。共産主義で経済が立ち後れ、町並みが保全された場合もたしかにあるけれども、積極的な修復や復元によって戦前の町並みを再現している場合も少なくない。その事実を知るべきであろう。

このたび訪れたバルカン半島は、共産圏という現代史の構図だけでは捉えきれない複雑な史的背景を有する。そこはイスラム教とキリスト教の狭間にあって、大半は後者の側に落ち着いたが、ひとりボスニア・ヘルツェゴビナだけはオスマン・トルコの遺伝子を受け継ぎ、いまなおイスラム教徒が過半を占める。ボスニアは旧ユーゴスラビアを構成する6国の一つであり、1991-92年の内戦後、独立した。
ユーゴスラビアとは「南下したスラブ人の国」を意味する。恥ずかしながら、中国語の「南斯拉夫(ナンスラフ)」がその直訳であることに最近気づいたばかりである。ユーゴの中心地がセルビアであり、他の5国のうちモンテネグロだけがセルビアと友好関係を築いていた。クロアチア、スロヴェニア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、マケドニアはセルビアの支配に反発し、チトー大統領の死後、民族主義が高揚して独立の気運がたかまった。この独立運動を鎮圧するためセルビア軍がアドリア海側の諸国に侵攻し、内戦が勃発したのである。ソ連軍がチェコに侵攻したプラハの春(1968)を彷彿とさせる悪夢の出来事であった。

ベオグラードの赤い星
1992年、わたしは北京の初夏を過ごしていた。幸運にも、そこで初めてサッカーのヨーロッパ選手権(ユーロ'92)をライブで視る機会を得る。もちろん中国中央電子台の映像を通してである。ユーロ'92の優勝候補はオランダだった。ACミランに所属するフリット、ファンバステン、ライカールトのオランダ・トリオが国際舞台で躍動した最後のトーナメントである。とりわけライカールトの好調ぶりに目を瞠った。W杯では不調をかこつライカールトが本来の力を発揮してグラウンドを縦横無尽に走り回り、数々の決定機を演出して自らもゴールを奪った。ライカールトこそが世界最高のセントラル・ミッドフィールダーだという信念を目前の映像が証明してくれている。長安大街にある民族飯店の一室で、夜な夜なその勇姿にみとれ、心躍らせたものである。

↑↓最初に訪れたのはモンテネグロの世界遺産「コトルの自然と文化歴史地域」(1979年登録)。モンテネグロはセルビアと民族的同一性があり、内戦ではセルビア側についた。しかし、2006年に独立。


オランダは伏兵に足を掬われ、連破を逃す。優勝したのはデンマークであった。ラウドルップ兄弟の全盛期である。デンマークはユーロ'92の予選でユーゴスラビアの後塵を拝し、出場権を得ることができないでいた。しかし、内戦の懲罰としてユーゴは出場権を剥奪され、デンマークが繰り上げ出場国となる。その代替出場国がユーロ'92を制したことで世界は驚いた。
前年(1991)、レッドスター・ベオグラードは来日してトヨタカップを制し、名実ともに世界最強クラブの称号を得た。ユーゴ代表とはレッドスターが衣替えしたチームであり、下馬評では、オランダと並ぶユーロ'92の優勝候補最右翼だったのだ。主将はドラガン・ストイコビッチである。ユーゴスラビアは90年イタリアW杯でアルゼンチン(準優勝)と引き分けを演じ、PK戦で敗れたものの、10番対決ではストイコビッチに軍配が上がった。つまり、当時のストイコビッチはマラドーナを凌ぐファンタジスタだと評価されていたのである。しかし91年になって、クロアチアとスロヴェニアがユーゴ連邦からの離脱を宣言したことで、プロシネツキやボバンなどの有力選手がユーゴ代表チームを去り、また、ボスニア人の監督イビチャ・オシムもセルビア軍によるサラエボ(ボスニアの首都)侵攻に抗議して本戦直前に代表監督を辞している。実質的にセルビア代表と化したユーゴ代表チームは、はたしてデンマークに比肩する偉業を成し遂げえたのかどうか、微妙なところであろう。

ちなみに、侵攻する側のセルビアに属したストイコビッチは、すでにベオグラードを離れ、オリンピック・マルセイユに移籍していた。フランスを始めとするNATO軍はベオグラードの空爆に踏み切っており、これにストイコビッチは猛然と抗議する。マルセイユでの試合後、ユニフォームを脱ぎ捨て、「空爆をやめろ(NATO Stop Strikes)」と書き殴ったアンダーシャツを大観衆にむけて誇示したのである。その後、「NATO諸国ではプレーしない」と宣言して名古屋グランパスに移籍し、選手としての全盛期を日本で過ごすことになる。
バルカンを旅しながらサッカーを想う。四半世紀前の内戦は、私という個人史にとって北京の生活を想起させ、ユーロ'92をバーターとして、ストイコビッチやオシムの苦悩を蘇らせるのである。 【続】

↑ザグレブ(クロアチア)

↑リュブリアーナ(スロヴェニア)の一弦琴