南斯拉夫紀行(Ⅱ)

アドリア海の真珠
アドリア海に面するドゥブロヴニクやトロギールは、ヴェネチアと覇権を争った中世の海洋都市国家であり、当初は出島のような性格をもつ治外法権的居住区であったと思われる。そこは大陸に近接しつつ海で隔てられた海上の環濠集落であり、強力な防御性を備える一方で、開かれた海外交易の拠点でもあった。海から運び込まれる物資と陸で生産される物資が島で入れ替わる。島と陸は交流を望みながらも、互いに警戒する間柄だったので、両者の結節には橋を使ったが、日の入りとともに橋は引き上げられる。その後、両者の関係が融和するとともに海岸線を埋め立てし、島を陸地側に取り込んでいった。ドゥブロヴニクのメインストリート(↑)から西側が旧島嶼部分、東側が埋め立てされた海岸域である。こうした都市のあり方は、出島やマカオなどの近代租界都市にとどまらず、弥生集落として圧倒的に異端の姿を残す青谷上寺地遺跡の成立・展開・性格を考えさせるものである。

ドゥブロヴニクはボスニア領に飛び地として存在するクロアチア南端の古都である。その町並みは「アドリア海の真珠」と謳われるほど美しく、1979年に世界文化遺産に登録されている。現地のガイドはいう。
ドゥブロヴニクは日本で言えば、京都のような町です。第2次世界大戦にあって
米軍は文化遺産の集中する京都への空爆を回避しました。クロアチア側は、セル
ビアも当然ドゥブロヴニクを攻撃しないであろうと予想していたのですが、その
期待はあっさり裏切られました。
1991年、セルビア・モンテネグロ連合軍は非武装化していたドゥブロヴニクを7ヶ月間包囲して砲撃を繰り返し、世界遺産の市街地に甚大な被害をもたらした。いま訪れると、城門を入ってまもなく、何枚かのパネルが壁に貼り付けられており、戦禍による家屋の被災状況を図示している。分布図(↓右)の凡例(↓左)をそのまま引用しておこう。
▲ roof damaged by direct hit(直撃弾によって損壊した屋根)
■ Burnt Down Building(焼け落ちた建物)
△ roof damaged by shrapnel(爆弾の破片によって損壊した屋根)
● Direct hit on the pavement(敷石歩道への直撃弾)
焼け落ちて全焼した家屋は9軒にとどまるが、直接・間接の被弾で屋根を損壊した家屋は優に200軒ばかりあり、ペイヴの被弾箇所も損壊屋根に劣らぬ数にのぼる。戦後四半世紀を経て修復が一段落し、今では地中海クルーズ船を始めとして、おびただしい数の旅客がこの町を訪れる。しかしながら、よく観察すると、石壁や扉などに被弾の傷跡を残している。なにもなかったとして済ませるわけにはいかない。おそらく、そういう意気地が、完全なる復原、つまり戦禍の隠滅を拒否する姿勢となってあらわれているのだろう。


↑ドゥブロヴニクの被災・被弾分布図(右)と凡例(左):画像クリック

↑トロギール


スタリ・モストの破壊と再建
ボスニア・ヘルツェゴビナにはイスラムと共産主義の交錯する不思議な空気が漂っている。クロアチアやスロヴェニアほどの経済力がないためだろうか、抜け殻となった被弾家屋が今なお点在し、内戦の傷跡が痛々しい(↑)。被災民家に屋根はない。石壁だけがたちあがって廃墟となり、べつの敷地に新居を構えている。敢えて廃墟を残そうとしているのではなく、撤去の経費を節約しているのかもしれない。


今回の旅で最も印象に残ったのは、ボスニアの地方都市モスタルに所在する世界文化遺産「モスタル旧市街の古い橋(スタリ・モスト)の地区」である。そこは周辺諸国のアドリア海沿岸域でみた世界遺産の町並みと大きく趣を異にしている。ネトレヴァ川の渓流に長さ30メートルの石造アーチ橋「スタリ・モスト」が架かっており、その両側に門番の塔を付属する。石橋はオスマン・トルコのスレイマン1世が16世紀に建造したものである。橋の両側に連なる石畳の道に沿って石葺き屋根の民家が軒を連ねる。民家は石造のようにみえて、内部は木造になっており、まるで中国建築のような細部を観察できる。中国と言えば、かつて貴州省のプイ族・漢族雑居地区で同じような石壁・石葺き屋根の木造民家群をみたことがあるし、そこはまた渓流に石橋を架ける地域であった。そういうわけで、モスタルにはどこか東洋の匂いがする。

ボスニアは最も内戦に苦しめられた小国である。独立宣言して軍事行動をおこさなければ、セルビアとクロアチアに割譲される恐れすらあった。じっさい両国はボスニアに軍事的圧力をかける。モスタルについては、まずセルビア軍が包囲し、ついでクロアチア軍がセルビア軍を排除した。この結果、モスタルはクロアチア軍とボスニア軍によって分断統治されることになるが、93年になって両軍が衝突し、クロアチア軍によってスタリ・モストが破壊される。戦後、トルコ系企業の巨額の投資によってイスラム文化の象徴たる古橋が再建された。再開通は2004年であり、その翌年、「再建」という行為を通して多民族・多文化の共生・和解がはかられたことが評価され、ボスニア初の世界遺産となる。



↑こうした木造+石壁・石屋根の民家は文化史的にどう位置づけるべきか。民族建築の課題ですね。