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座談会「民族建築その後」(その1)

 昨年(2015)の11月8日(日)にカフェ黒田で開催された座談会の記録をこれから連載します。録音文字化データの第一次整理は、今年度からゼミ活動に参加いただいている山村賢治さんにお願いしました。山村さんの校正テキストをさらにASALABで校閲したものを掲載します。


建築嫌い

 栗原  日本建築学会の比較居住文化小委員会で『フィールドワークの系譜』(仮)という書籍の出版を企画しています。公立鳥取環境大学浅川研究室でこれまでやってこられた海外での調査研究の方法についても、その本で取り上げたいと思っています。比較居住文化小委員会は、学会のなかでフィールドワークをアイデンティティーとしているところに最大の特色があります。3年ほど前には『フィールドに出かけよう! 住まいと暮らしのフィールドワーク』(風響社・2012)という概説書を出しています。今回は『フィールドワークの系譜』ということで、各大学の建築系研究室が取り組んできたフィールドワークの方法に焦点をあてた出版企画です。一口にフィールドワークと言いましても、それぞれの研究室によって独特のスタイルがありまして、手法としてのフィールドワークに焦点をあてて、他の研究室のスタイルをちょっとのぞき見したいという気持ちがあって、このような出版企画に至りました。全国で18の研究室を取り上げることになっています。
 浅川  私個人の立場から申し上げますと、来年(2016)の大晦日で還暦を迎えるものですから、その記念に小さな本を出したいなぁと漠然と思っています。これまでは1万円以上するような学術書ばかり出してきたわけですが、もっと気楽で安価な本にしたい。巻頭に座談会の記録をいくつかもってきて、あとは紀行文や随想をずらっと並べる。私の研究活動は「民族建築」「建築考古学」「地域貢献(鳥取学)」などに分かれているのだけれども、まずそれらに係わる座談会を5~6本集めて、自分の業績を振り返ろうと思っていたところです。このたび栗原さんから研究室の民族建築研究に係わる紹介記事の執筆依頼があり、その条件が、私ではなく、私の弟子筋にあたる若手が書くということなので、この機会を活用させていただこうと思ったのね(笑)。この際ですから、関係者にお集まりいただき、私と研究室の履歴を語っておこう、と考えた次第です。
 栗原  松原弘典先生の『未像の大国 日本の建築メディアにおける中国認識』(鹿島出版界・2012:pp.368-376)のインタビュー「日本建築界で中国をみてきた専門家たち(9)」と重複するかもしれませんが、まず浅川先生の主題の一つである「民族建築」の世界に入るきっかけから、お話を始めてください。
 浅川  私は1975年に大学の工学部建築学科に入学したのですが、正直なところ、建築が好きで選んだわけではありません。建築学科に4年通ったのですが、とうとう好きになれなかった。サッカーを同好会でやっていて、親しい仲間たちは理学部や文学部にいる。理学部・文学部の連中は工学部をバカにしていました。じっさい、かれらの方がよほどおもしろいことをやっていると私も思っていました。ともかく建築という分野はしんどかった。他学部・他学科で半期2単位の科目が建築では1単位ですからね。取得単位数は多いし、物理系の科目はついていけないし、設計は下手だし、候補として残ったのは歴史系しかない。
 栗原  1979年に修士課程に進学されていますね。
 浅川  同級生の大半は大手ゼネコンに就職していきましたが、自分は絶対無理だ。故郷に戻って高校の教師でもやるか、留年して教職でもとろうか、と考えたりしていてね。べつに大学院に上がりたいとは思っていない。建築を続けたいという意欲が湧かない。だから、進学についても、就職を2年先にのばせればいいや、という程度の感覚でした。そういう根性なものだから、先生によく叱られました。

クロスロード

 浅川  進学早々、教授室に呼ばれましてね。「夏休みに2ヶ月間ミクロネシアのトラック諸島へ行かないか」と誘われます。嬉しいような悲しいような心境でね。海外旅行など珍しい時代で、家族のハワイ旅行以外は海外に出たこともなかったですから、恐怖感が先走りました。初めての海外調査がミクロネシアで、2ヶ月間一人で暮らすというのだから、不安は膨らみます。現地へ行って、遺跡の中に伝統的な集会所を建てるプロセスを2ヶ月間記録して、民族学(文化人類学)的な仕事はおもしろいものだなと思いました。
 山田  ミクロネシアに行け、と言われることになった背景には、どのような事情があったのでしょうか。たとえば、JICAとか、あるいは文化財保存の方面からの要請などがあったのでしょうか。
 浅川  西川先生のところには遺跡関係の整備に係わる国際協力の依頼などがいろいろあったんだと思います。その一つに、ミクロネシアの山城遺跡の整備があって、伝統的な集会所を復元するからだれか派遣して記録をとってくれという仕事の依頼があったんでしょうね。
 山田  ミクロネシアの「山城」と言いますと?
 浅川  太平洋の島々は大きく火山島とサンゴ島に分けられます。火山島で山城を営む時代があった。500~600年前、島相互の戦争が激化していたんです。日本統治時代に連合艦隊の基地が置かれたミクロネシアのトラック環礁にトル島(水曜島)という比較的大きな火山島があります。その山頂で山城の遺跡がみつかっていました。それを、アメリカの指導のもとに史跡公園整備しようという事業が動き出していたんです。整備そのものはアメリカが指導したんですが、集会所建設の記録だけは日本に依頼してきたということです。わたしの調査研究の出発点は民族学と考古学が交差している。フィールドは民族学的な場所(オセアニア)なんですが、仕事の内容は遺跡整備なんだから。結果論でしかありませんが、自分の人生を方向づける2つの分野と初めからつきあっていたということに自分でも驚いてます。
 栗原  そのとき研究室に院生が何人いらっしゃいましたか。
 浅川  数名ですね。
 栗原  それで、浅川先生お一人で行かれたのですか。
 浅川  一人です。
 栗原  西川先生はなぜ浅川先生を指命されたのですか。
 浅川  わからない。いま振り返ると、私より向いている人はいたと思います。ちなみに、先生はトラックに1週間ばかり滞在された後、ポナペのナンマドール遺跡を視察されて帰国されました。



 栗原  西川先生は浅川先生の成長を喜ばれたんではありませんか?
 浅川  いや、帰国後もよく叱られました(笑)。当時、研究室は京都・滋賀で精力的に町並み保全の調査をこなしているのに、私はミクロネシアの資料整理ばかりしていて、国内の活動にエネルギーを注げなかったんです。今は山陰でさんざん町並みの仕事をしていますが、学生時代はあまり興味が湧かなかった。海外のことばかり夢見ていました。先生からはいつも「君はミクロネシアだけやっていたらいいと思うのか、そんなことじゃ就職できないぞ」という調子でお叱りをうけていました。いま振り返れば、西川先生の考え方は正しい。当時、私と佐藤さん(民博)以外そんなことを本気になってやっている研究者はいませんでしたからね。
 山田  太田先生や布野先生もすでに東南アジアの木造住居を調査されていたはずですが。
 浅川  職に就いて海外調査するのと大学院生としてやるのは全然ちがいます。あのころ若手が民族建築で勝負するのは、大げさではなく、研究者としての生死をかけるほどのリスクがありましたよ。修士論文はミクロネシアで書いたけれども、このままだとまずいと西川先生も思われたのでしょうね。それで、今度は中国に留学しろ、という話になるわけです。

ブルーにこんがらがって

 山田  いきなり中国ですか。
 浅川  中国留学についても散々悩みました。言葉もできないし、素養もない。国費留学生の試験を受けるわけですが、1年目は軽く落ちてしまいます。中国語がまったくできないから。2年目になんとか合格し、1982年から84年まで北京と上海に留学することになりました。しかし、なにぶん中国語が不出来なものだから、北京語言学院で基礎をみっちり鍛えられました。ほかの留学生は何ヶ月かで専門の大学・大学院に移っていきましたが、私と大貫さん(東大考古)だけは北京語言学院で丸1年中国語を学びました。出来の悪い2名だったわけです。
 山田  それにしても、なぜ中国だったのでしょうか。
 浅川  西川先生自身は東洋建築史、とりわけ仏教寺院史が専門でしょう。そしてフィールドはインドを中心として、南アジア・中央アジアだよね。
 山田  はい。
 浅川  京都大学は仏教文化の源郷を求めて、アフガニスタン・パキスタン方面の発掘調査を継続していて、西川先生はそのリーダーでした。先生は中国にも興味があったんだと思いますが、察するに、ご自分は行きたくなかったんじゃないかな。京大の人文科学研究所(東方部)に田中淡さんがいて、ご自分で対抗するというよりも、弟子にチャレンジさせようとされたのかもしれません。それで、私に行けということになったのでしょうが、私は古文も漢文も苦手でしてね、正直なところかなり荷が重くて辛かった。
 栗原  そうだったのですか、当時は。
 浅川  最初から建築とのミスマッチに悩んでましたが、中国とも確実にミスマッチだと思っていました。学部時代、自分が中国を研究するなんて想像だにしていなかった。吉田神社の近くの博文荘というアパートに住んでいたんだけど、隣に中文の大学院生がいてね。それはもう、ものすごく勉強していた。部屋中漢籍。毎日白文の和訳をやっていて、ちらりと覗き見させていただきましたが、こんなことできるわけない。そんな男が中国留学の指令を受けるわけですから、中文の連中からは「ざまぁみろ!」って言われましたよ(笑)。それに、中国は文化大革命の直後でしたから。
 栗原  そうですね。留学できるようになってまだ2~3年しかたっていない。
 浅川  うん、3期生だと思う。
 栗原  ですよね。
 浅川  当時の中国では、まだみんな人民服を着て、女性の髪型は男と同じでした。そして、コウモリのような自転車の群れが街路を大移動している。
 栗原  北京の王府井にも馬車が走っていたとか?
 浅川  馬車は走っていましたね。城里(町なか)と城外(町はずれ)が区画されていて、城外まで馬車の乗り入れができた。王府井までは入れなかったはずですが、城外だって結構な市街地だから、道路に馬糞がいっぱい落ちていた。それを言い出すと、便所なんかもっとひどいから。壁も扉もないんだから。
 栗原  博士課程の2年次から2年間留学され、帰国後、学術振興会特別研究員(DC)を経て、奈良国立文化財研究所(奈文研)に就職されるわけですね。
 浅川  あのころの学振特別研究員は競争率が高かったんですよ。建築分野では全国でDCが2名、PDが2名だけでね。工学部の事務室に申請書類もらいにいったら、バカにされた。「受けたって無駄だよ、みんな落ちてるから」って。われながらよく通ったと思います。中国留学の経験が評価されたとしかいいようがありません。学振を一年やったところで、奈文研の採用試験に受かったわけですが、正直、悩みました。もう一年、学振やったほうがいいんじゃないかって。
 栗原  なぜですか?
 浅川  発掘やったことなかったから(笑)。まわりはもう、就職一色ですよ。30歳になろうとしてたから、そろそろ片付いてくれないと困る。わたし一人、マリッジ・ブルーにこんがらがってました。そうとはいえ、中国に留学したおかげで、学振特別研究員をパスし、奈文研に採用された。就職できたわけですから、西川先生の見方は正しかったというほかありません。当時、奈文研は非常にドメスティックな研究機関だったのですが、町田章さんという中国考古学の専門家が平城宮跡発掘調査部長でして、「日中都城の比較研究」を推進されようとしていました。そのために中国考古学・中国建築史の若い人材を集めたかったんでしょうね。 【続】

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魯班13世

Author:魯班13世
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魯班(ルパン)は大工の神様や棟梁を表す中国語。魯搬とも書く。古代の日本は百済から「露盤博士」を迎えて本格的な寺院の造営に着手した。魯班=露盤です。研究室は保存修復スタジオと自称してますが、OBを含む別働隊「魯班営造学社(アトリエ・ド・ルパン)」を緩やかに組織しています。13は謎の数字、、、ぐふふ。

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