座談会「民族建築その後」(その3)
認識人類学の影響
栗原 じっさいに南方中国では、どのような調査方法でフィールドワークをされたのでしょうか。
浅川 文化人類学の専門家がみたら、調査とはいえないとお叱りを受けるでしょうね。なぜかというと、当時の中国では農村に行くのがやっとのことで、農村の民家に寝泊まりしながら参与観察なんてことは絶対許してもらえない。ミクロネシアではホームステイしていましたよ。中国では、各地のホテルか招待所に泊まって、そこから調査地に通うわけです。測れるものを測って、聞き取りできるものを聞く。私の場合、言語学から展開した認識人類学の影響を受けていたから、現地の言葉を方言レベルで集めることを極力やりました。たとえば台所の展開図を描くとすると、そこに描き込まれた民具の呼称をすべて方言で集める。漢字も書くし、読み方も書く。読み方は片仮名でもいいからとにかくノートしました。たとえば、カマド(竈)は北京語ならザオと発音しますが、上海語だとツォッでしょう?
栗原 そうなのですか。
浅川 そういう現地語の漢字表記と音声をできるだけ体系的に集めたんですね。それはもう露骨に認識人類学の影響でした。
栗原 なぜ認識人類学だったのでしょうか。
浅川 文化を内側から理解し記述する方法として有効だと思ったからです。関東は知らないけれども、少なくとも京大や民博などの関西では認識人類学一色になっていて、ミクロネシアの調査研究を進めるなかで影響を受けないわけはない。認識人類学の方法をきっちり理解していたわけではないですが、とにかくフィールドに入ったら現地の言葉を極力集めるしかない、と思ってました。とくに重要なのは、似た言葉ですね。たとえば、コップとグラスの違いはなにか。両者を分類している弁別素はなにか、っていうのを考える。その場合、語彙そのものだけではなく、語彙素にまで踏みいらないと分からない。じっさいにどれほどのことができたか自信はありませんが、そういう気持ちで調査に臨んでいました。
栗原 1980年代ですよね。松井健先生が書かれた『認識人類学論攷』(昭和堂)が1991年に出版されて、私も総合研究大学院大学(民博)の課題図書としてまず与えられました。松井先生って僕の高校の大先輩なんです。
浅川 ああ、そうですか。
栗原 直接面識はないですが……。実測作図のほうはどんな感じでしたか。
浅川 実測図はひどいもんです。人前に出せない。壁なんかシングルラインで、厚みがないんだから(笑)。ただ、デザイン・サーベイやってたわけじゃないからね。歴史民族学の大林太良先生がおっしゃてましたが、「民族学者の描く図面は建築学者のような図面でなくていい。空間構成がわかればいいんだ」と。わたしの実測図もその程度のレベルです。ただし、家具配置は徹底的に描きましたね。そして、家具の名称を全部書き込んだ。それは一生懸命やりました。
カマド神とのめぐり逢い
栗原 カマド神についても分析されていましたよね。
浅川 江南のカマドにははまりました。住居というのは、そもそも「火」を守る小屋、という意味なのかもしれない。火(ヒ)という言葉と家(イヘ)のヘが似ているでしょう。トラック諸島だと、家がイームで、炉がウームなのね。竪穴住居を考古学的に分析していくと、火(炉)を中心に男女の融合と対立が表現されている(浅川「竪穴住居の空間分節」、都出・佐原編『古代史の論点2 女と男、家と村』小学館・2000)。火に着目して家を考えると、いろんなことが見えてくる。中国江南では、カマドがおもしろいんだ、圧倒的に。まずカマドそのものの意匠がすばらしい。そして、カマド神の信仰がカマドに映し出されている。柳さんという優秀なガイドがいたんです。柳さんがいろんな昔話を聞かせてくれた。私の中国語のレベルが低いんで、柳さんは、原稿用紙に文字で書いてカマド神の伝説を教えてくれたんです。それを訳して論文にしたの(浅川「カマド神と住空間の象徴論-続“竈間”の民族誌-」『季刊人類学』18巻4号 :p.107-145、1987)。
栗原 そのガイドさんは地元の方だったのですか。
浅川 紹興の人、外事弁公室の主任でした。1983年11月19日、紹興で調査中に鳥取で長女が生まれたんです。電報が柳さんのところに届いたの。「女児誕生 母子共健康」。みんなでお祝いしてくれました。調査中ずっと、とてもよくしてくれて、数年後に日本にいらっしゃったときには宴会でおもてなししましたよ。
栗原 そういう物語とか口頭伝承とかに目をつけるのも、人類学とか神話研究の影響ですか。
浅川 民話や伝承は文化をとく鍵になりますよね。神話学のレベルまでは達していませんけどね。ヒアリングやっていたら、そこまでいっちゃったみたいなところだと思います。いまもブータンの民話をせっせと翻訳しています。
オーラを五感で
栗原 新しいフィールドに行かれたときに、まず、どういうところに着目されますか。まず何をされますか。
浅川 何だろう。
栗原 フィールドに入る前に、たとえば上海で文献を集めるとかして計画を立てて入られたのか、それとも?
浅川 調査計画をたてて、その計画にそった調査を遂行するのはなかなか難しいですね、とくに当時の中国の情勢では。資料を集めてはいるけれども、どう転ぶかわからない。むしろ、臨機応変に出会ったものと向き合うしかない。やっぱり入ったときの感性じゃないかな。
栗原 感性・・・
浅川 うん。「あっ、ここいけると思う」という直感というか。今はブータンの調査を続けていますが、たぶん学生諸君が気づいてないことをわたしは気づいていると思うよ。
栗原 もうそこは勘というか。
浅川 感受性かな。身体というか、五感でオーラを受けとめている。江南の台所もそうですね。これはいけると思うとスイッチが入る。
栗原 お弟子さんたちは、浅川先生と何回も一緒に調査に行っているうちに、先生が反応してスイッチが入りそうなところってわかるようになりましたか。民族建築でなくても、建築考古学でも地域貢献の調査でももちろんいいのですが。言葉ではなくて、師匠の背中から師匠の感性は伝わってきましたか、どうですか。
清水 いま石見銀山にいて町並み保全をやっているんですが、最初のフィールドワークが2002年の石見銀山でした。
浅川 ああ、そうだな。
清水 ある程度は県市の担当者が予定を決めているのですが、先生はじっさい現地に入られてから、集落の人と話をさせてくれとか、そういう交渉がなんどかあったように記憶しています。ぼくらは当時まだ全然経験もないですし、現場に放り込まれて、そこ測れ、あれ描けと指示されてやっていたんです。基本的にぼくらがやっているのは作業ですね。先生は、やっぱり所有者の方とか地元の方にヒアリングをしまくるという、そこがすごく印象に残っています。
建築考古学の出発点
浅川 建築考古学でもそういう分岐点がありましてね。1991年に鳥取県から指導依頼が届くんです。わたしは奈文研で平城宮・平城京の発掘調査を少しずつ覚えはじめていたんですが、そいう研究者のところに焼失竪穴住居跡の調査指導依頼がくるわけです。湯梨浜町の南谷大山遺跡で弥生時代終末期~古墳時代初期の焼失住居跡が2棟出土した。少々悩んだんですが、地元鳥取からの要請ですから、もちろん現場に駆けつけた。
山田 なぜ、悩まれたんですか。
浅川 古墳時代以前の建物跡を調査したことがなかったから(笑)。平城宮の下層で古墳時代の竪穴住居跡がみつかることもあるんですが、まぁ掘りません。時間もないから、掘らないで埋め戻してしまいます。
山田 竪穴住居に興味はあったのですか。
浅川 ありましたよ。そもそも民族建築とは「住まいとは何か」を人類学的に問う学問領域なんですが、その命題に答えるためには考古資料も不可欠です。「住まいの起源」を探るには考古資料に頼らざるをえないわけですから、これは良い機会だと思いました。
山田 民族建築の一部としての建築考古学ということですか。
浅川 というか、わたしの民族建築と建築考古学は表裏一体なんですね。このことで批判されたこともありますが、でも、じっさいこうなんだな。奈文研の先輩や後輩で建物跡から上屋復元をやっている人も少なからずいるけれど、あれは、日本建築史の研究者が律令期の建物復元をやっているにすぎない。「建築考古学」じゃないってわたしは勝手に思ってます。
山田 故郷の現場はいかがでしたか。
浅川 じっさいに南谷大山遺跡の現場に立ち、強い衝撃を受けました。竪穴住居の床面に炭化した垂木材が横たわり、それを覆うように茅材(屋根下地)や焼土(屋根土)が堆積する遺構を目にして、平城宮の想像復元ではない、実証的な復元が可能だと直感したわけです。そのオーラに五感が反応した。これはいける。以後私は、焼失住居跡の大家?になってしまうのです。全国で焼失住居が出るとすぐ呼ばれるようになりました。
栗原 それは何なのでしょうね、どうやったらその域に達することができるのかすごく知りたいですよね。
浅川 最近のブータンもそうですよ。ブータンに初めて行ったのは2012年ですが、パロ空港に降り立った瞬間、この国はいい、一生通えるところだと感じました。ブータンはまた行きたくなるよね。
吉田 ですね。 【続】