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座談会「民族建築その後」(その4)


酒と薔薇の日々

 栗原  調査時に書いたフィールドノートとか、実測された野帳などをまとめたり、あるいは図面を起こしたりというのは、その日の夜にやられるのですか。
 浅川  ブータンを例にとりましょうか。今年(2015)、いま記録係をやっている二人の3年生をブータンに連れていきました。初日は疲れていてね、ホテルに帰ってすぐにビールを出しちゃった。そうすると、一人がすごく飲むんだ。飲んだらもう笑い上戸がとまらない・・・
 栗原  あっ、そうなのですか(笑)
 浅川  酔っぱらって、笑い出して、とまらないんです。それで、初日、データ整理をしないまま爆睡してしまった。2日目からおおいに反省しまして、データ整理が終わるまでビールを出さない、と決めたの。
 栗原  調査中の飲酒規制は厳しいんですか。
 浅川  飲むべきときに飲めばいいんです。晩酌程度ならいいですが、毎晩大酒を飲む必要はない。酒と薔薇には要注意だね。人生ばかりか、調査が狂う。いちばんひどかったのは西北雲南調査です。女子2名が調査に加わって、深夜3時ぐらいまで酒を飲んで男女が語り合う。恋が芽生え、もつれ始める。それで体調を崩すメンバーもでてくる。海外フィールドでは体調の維持が重要ですから、調査隊長としては早寝早起きしてもらいたいのですが、いくら注意しても、修正しきれなかった。ブータンにも女子学生を連れていく機会があり、予め「恋愛禁止」を厳命していたのですが、カップルが一つ誕生しました。
 吉田  すぐ別れましたね(笑)。
 浅川  川喜田二郎さんが新書で書いていますが、フィールドワークは午後4時に終わらなきゃいけないんだってね。4時に終わって、それから2~3時間たっぷりノートを書く。うちの場合、そこまで徹底してはいませんが、夕方、みんなで整理します。清水くんや大給くんを中国に連れて行ってたころは、その日の夜のうちに活動記録をブログにアップさせましたが、あれは無茶だった。書くほうも大変ですが、校正する私の体がもたない。いまは帰国後、研究室のブログに紀行文を連載します。雑文ではありますが、こうした活動記録は非常に重要です。あとで効いてくる。論文を書いたり、報告書を編集したりするとき、ブログにアクセスすれば、当日の記録と写真が掲載されているわけですから。ノート形式の調査日誌だと、限られた人しか閲覧できないけれど、ブログだとだれでも読めるしね。野帳はカラーコピー1枚、白黒コピー1枚とる。
 吉田  最近はpdfにして、関係者全員に配信します。調査地では、一眼レフカメラで野帳類を撮影しますね。フラッシュなし1回、フラッシュあり1回の計2回。これで仮のバックアップになります。
 栗原  中国でフィールドワークされたときはどうでしたか。
 浅川  それはもう中国のビージーベン(笔字本)にびっしり記録を書きましたよ。下手くそなスケッチも添えてね。あの笔字本がなくなるとショックですね、奈良の家に保管してますが、バックアップとってないな(笑)。

為人民服務

 栗原  当時の中国だと、調査中に公安が入ってノートを没収されたりとかあったみたいですね。
 浅川  あった、あった。あれは無錫だった。小さな都市住宅に入って実測とヒアリングをしていた。そうしたら、白い服を着た公安(警察官)が入ってきて、もう終わりかと思ったのですが、その人はすごくいい人でね、「何か手助けしましょうか」と言われてセーフでした。人の話ですが、考古学の仲間でGPSを持って地形測量したら捕まって3日間収監されたとか、聞いています。君は大丈夫ですか。
 栗原  ぼくは大丈夫でした。現地の人より貧しいと言われていたぐらいで、すごくぼろぼろの服を着てはだしで歩いていたので、公安に目をつけられることはなかったです。1990年代でしたし、80年代に比べたら全然楽だったと思います。
 浅川  尖閣以降、また危なくなってるよ。80年代はお店でモノが買えなかった。たとえば靴が欲しいと店員に言っても、しばらく無視されて、そのあと商品の靴をぼーんと投げてくる。ひどいのになると、おつりまで投げてくる。
 山田  そうなんですか。
 浅川  タクシーに乗って、お金を払った後におつりをぽっと投げてくるんですよ。村松伸さんが一緒に乗っていて、本気で怒り出したことがあった。
 栗原  それ、日本人だからということですか。
 浅川  日本人は今より好かれていたような気がするな。しかし、外国人に対する嫉妬はあったね。中国人同士でも、かなり揉めていたけど。
 栗原  サービスというのが全くありませんでしたね。
 浅川  ないですよね。
 栗原  壁に「服務(サービス)」と書いてあるのですが・・・
 浅川  為人民服務。人民のためにサービス(服務)せよと書いてあるんですが、その実態や如何に(笑)。



奈文研での海外調査

 栗原  1987年に奈文研に就職されますね。民族建築研究はしばらく休止されたのですか。
 浅川  入所してまず釘を刺されたんです。室長からは「勤務時間中に自分の研究をしてはいけない」、部長からは「少なくとも一年間は海外に出さない」ってね。2年間中国に行かなかった。3年めに貴州トン族・ミャオ族の調査に入るんです。
 栗原  貴州については『住宅建築』誌で特集が組まれました。
 浅川  雲南省モソ人母系社会、黒龍江ツングース・朝鮮族と続きます。やはり肩身が狭いんだけど、開きなおって行くしかない。今は奈文研も国際交流を盛んに進めていますが、本来とてもドメスティックな研究機関で、町田部長が「日中都城の比較研究」、田中琢所長がアンコール遺跡群のサポートを始め出したころです。奈文研は公務が忙しい研究所です。発掘調査、遺跡整備、日本全国の建造物調査があります。それを抜けて海外に出るわけだから、冷たい視線に曝されるのも仕方ない。幸い住宅総合研究財団から研究費を頂戴して中国の奥地に行けるようになったわけですが、長期間はとても無理です。2週間ぐらいで限度なんです。
 栗原  1995年の黒龍江朝鮮族の調査のときに、私、御一緒させていただいております。
 浅川  ああ、そうだね。坂田昌平君(国交省→現大牟田市副市長)とね。
 山田  94年に『住まいの民族建築学』を出された直後ですね。
 浅川  そうです。
 栗原  94年からは京大人間・環境学研究科の客員助教授になられますね。修士論文を指導されたのは、坂田さんと・・・
 浅川  長沼さやかさん(現静岡県立大学)ですね。蛋民の研究者。
 栗原  客員助教授になられてから民族建築がやりやすくなったということはないですか。
 浅川  それは全然ない。本分はあくまで平城宮跡発掘調査部の研究員(技官)ですから。田中所長や町田部長の理解と支援があったからよかったものの、そうでなければ危ない立場です。一歩間違えば、転落しかねない。
 山田  奈文研に入った後はやはり考古学とか文献歴史学の視点も入ってくるわけですね。『住まいの民族建築学』では民族建築史という視点を打ち出されています。建築を対象として、民族学・歴史学・考古学の3つを融合した民族建築史をやるんだと宣言されたように思うのですが、それは奈文研入所後からはじまるのでしょうか。
 浅川  考古学については、ミクロネシアの段階から遺跡整備に係わっているので民族考古学の研究者と交流があり、刺激を受けていました。無文字社会の発掘調査で出土する遺物は、民族社会のなかになお生きており、民族学的理解なくして考古資料の解読はなしえない。民族資料と考古資料を融合させて民族移動や文化伝播を読み解く研究は夢があります。ただ、日本では民族考古学が受けないのね。日本のような歴史の長い国だと、考古資料と民俗資料は乖離しているので、むやみに民俗・民族資料を使って考古資料を解釈すると批判を招く。日本で評価が高いのは歴史考古学ですね。平城宮はまさに律令期を対象とする歴史考古学の世界であり、遺構・遺物・木簡・文献などを総合した実証的研究を叩きこまれたわけです。とはいうものの、もともと歴史学と考古学が得意なわけじゃありませんから。
 山田  やはりミスマッチだった?
 浅川  そう言われても仕方ないかな。いまは歴史考古学を愛していますが。

今和次郎と宮本常一

 山田  もう一つ、住居学、あるいは今和次郎の考現学的な視点はどこから導かれたものなのでしょうか。やはり民博とか、杉本尚次先生の研究会経由で出会われたのでしょうか。
 浅川  今和次郎、宮本常一は今でも大好きです。ずっとかれらの後継者でいたいと考えて今に至っています。それは、西川先生の教えなんです。
 山田  ああ、そうなのですね。
 浅川  西川研のゼミで「今和次郎を読んだか」「宮本常一を読んだか」とよく聞かれました。宮本常一全集は研究室に置いてあったし、今和次郎全集は自分が全部もっているし、まさに研究の原点です。今&宮本的な世界をもとにして、考古学・人類学・文献史学を吸収して何かつくりたいと今でも思っています。自分は歴史学者でも考古学者でも文化人類学者でもないけれどもね。そうだ、あともう一人、西山夘三さんがいるよね。
 山田  えぇ、えぇ。
 浅川  西山さんは地域生活空間計画講座の先代でしたから、彼の著作集も研究室に並べてありました。
 山田  西川研時代に西山夘三、今和次郎、宮本常一に触れていたということですね。
 浅川  西川先生は都市史を専門とする歴史学研究者です。「歴史学者は宮本常一のことなんか評価してない」という発言もされていましたが、じつは先生も好きだったと思います、宮本常一のことは。好きだから、「おまえも読め」と言われたんですよ。
 山田  今のでつながりました。なるほど、民族建築史へ至る出発点には、今和次郎、宮本常一、西山夘三があったということですね。
 浅川  出発点でもあり、終着点であればいいと思っています。いま話題になって、改めてそう思いますね。【続】


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魯班13世

Author:魯班13世
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魯班(ルパン)は大工の神様や棟梁を表す中国語。魯搬とも書く。古代の日本は百済から「露盤博士」を迎えて本格的な寺院の造営に着手した。魯班=露盤です。研究室は保存修復スタジオと自称してますが、OBを含む別働隊「魯班営造学社(アトリエ・ド・ルパン)」を緩やかに組織しています。13は謎の数字、、、ぐふふ。

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