座談会「民族建築その後」(その5)
実測技術の功罪
山田 大学院で中国に留学し調査していた時代の図面がひどかったという話をお聞きしました。しかし、奈文研の採用試験には実測作図の「実技」もありますし、とくに採用後は鍛えられたのではありませんか。
浅川 奈文研に入ると、図面が下手だとか言ってられませんから。建築の図面も大変だけど、発掘調査の遺構図の実測はさらにやっかいです。石とかごろごろでくるでしょう。それを、上から見た状態で描かなきゃいけないわけです。腰が痛くなりますよ。
山田 発掘調査の組織はどうなっていたのですか。
浅川 当時の平城調査部は6室に分かれていて(今は5室)、考古3室、史料、建築、造園から一人ずつ選抜されて、計6人で現場班を構成してました。日々、学際的研究ですね。年に3ヶ月間の発掘ですが、こんなに理想的な組織で調査しているところはほかにないでしょうね。
山田 雰囲気はどんな感じでしたか。
浅川 和気藹々です。休憩時間のナポレオンが懐かしい。
吉田 お酒飲んでたんですか?
浅川 (絶句して)トランプ・ゲームのナポレオンさ。
山田 (笑)・・・強かったんですか。
浅川 弱いよ・・・内面が顔にでてしまうタイプだから。
山田 清書作図のほうも大変だったんじゃありませんか。
浅川 奈文研には主婦のアルバイトさんがたくさんいて、トレーサーをやってくれるので、たいへん助かりました。当時、頼りにしていたのは北野陽子さんという方でね。『住まいの民族建築学』以来、ずっとパースを描いてもらいました。
栗原 内観パースですよね。
浅川 おもに内観だね、カマドと台所のパースが印象深いかもしれません。
栗原 朝鮮族やツングースのときも、すごいパースが報告書で描かれていました。
浅川 現場で実測図はイヤになるほどとりましたが、図面の仕上げは、奥様たちに任せていました。はっきり言って、わたしよりはるかにうまいから。トレース検定1級とか2級をもっているようなスタッフが揃っていたんでね。烏口やガラスペンを使える技術者たちだったんです。
大給 和歌山県文化財センターで、いま苦労しています。重要文化財建造物の実測図は烏口仕上げですから。
浅川 CADの図もわるくないけれども、やっぱり烏口で描く線は綺麗だよね。ああいうのができる人たちが脇を固めてくれていたわけです。
一日一山
山田 建造物調査の組織はまたちがうのですか。
浅川 建築のメンバーが3人一組でね。調書1名、写真撮影1名、実測1名。入所直後は近世社寺建築調査の最盛期でして、1日8ヶ所の社寺を調査するの。
栗原 1日8ヶ所!?
浅川 1ヶ所の調査時間は50分です。お寺さんがコーヒーを出してくれるでしょう、飲んだふりをして、さっと捨てて次のところへ行く。1週間、5泊6日で50ヶ所以上になるんです。そういう鍛えられ方をした。たとえば小さい流造の本殿なら、スケッチから採寸まで15分でやれと言われた。
栗原 それは断面も……。
浅川 平面だけです。
栗原 平面だけですか(すこしは安堵)。調査の雰囲気はどんなもんですか。
浅川 殺伐としてましたよ。人間は機械じゃないからね。汚い図面をたくさん描いて、歪んだ写真を撮って、調書に殴り書きしてるだけだから、おもしろいなんて感覚はない。
栗原 海外調査に影響しましたか。
浅川 こんな調査をしちゃいけない、っていう反面教師であったはずなんですが、西北雲南調査の際、一日のノルマを4ヶ所と決めたんです。近世社寺の半分だからいけると思ったんですが、他大学の研究者からクレームを頂戴した、「ガツガツしすぎてる」って。たしかに、そうなんですよ。一日のノルマを決めること自体間違っている。だれかが事前にアポをとっているわけでもないですから、まずは交渉から始めないといけないし、断られる場合だってある。移動の時間が長くて疲れるから、のんびり休憩だってしたくなる。そういう交渉、移動、休憩のすべてがフィールドワークですからね。民家を何棟実測するかが重要ではないんですよね。
栗原 結局、どういうペースになったんですか。
浅川 雲南では午前1ヶ所、午後1ヶ所のペースになりました。いま調査しているブータンの場合は、なにぶん標高が高いので、山寺に上がって下りてくるだけで息が上がります。1日1ヶ所だな。1日2往復やれと言われたら厳しいです。高いところは標高3,500mを超えますから、体力的にそうとう堪える。ホテルに帰ったら動けなくなります。ですから、ブータンでは一日一山。
栗原 今までに高山病になったことはありますか。
浅川 1992年のラサでひどい高山病になりました。標高200mの成都から標高3,700mのラサまでいきなり飛行機で飛んでいったので、体が順応しなかった。3日3晩、頭痛に悩まされ、4日めにようやくポタラ宮に上がりました。最近では、昨年(2014)の東ブータンですね。標高3,700mのメラ・サクテンで激しい頭痛に襲われました。今年(2015)は西ブータンのケラ尼寺が標高3,500mでしたね。若い学生ですら息もたえだえ、苦しそうだから、「食べる酸素」をかじらせたんです。
吉田 あのタブレットと塩レモン・キャンディで生き返りました。
栗原 体力的な問題もあるようですが、調査数にこだわらない、という理解でよろしいでしょうか。
浅川 あまり調査対象の数が多いほうではないよね。どっちかというと、「個別性をきわめれば普遍性がみえてくる」という人類学的なスタンスで調査しているということにしておきましょうか。もう年も年だし、ますます物量作戦の調査はご免こうむりたい。
イクロム無念
栗原 浅川先生といえば「中国」というイメージがぼくたちにはあるのですが、いつごろからでしょうか、中国以外のフィールドが多くなってきているようですね。ひょっとすると、奈文研時代から中国以外の海外調査に手を染めておられたとか。
浅川 奈文研時代は中国一色です。90年代の中盤までは個人研究としての少数民族調査ばかりだったんですが、後半は「日中都城の比較研究」の窓口役でね。奈文研と中国社会科学院考古研究所(考古研)の共同研究です。奈文研の所長が中国国家文物局に発掘調査の申請をして初めて認可がおりたのが、漢長安城桂宮の発掘調査で、その窓口をやっていたんです。それで、年に3回ぐらい西安に出張がある。西安の文化財は見尽くしていたので、自由時間はホテルにこもって原稿を書いたり、校正をしたりしていました。あのころの感覚ではね、わたしにとっての中国出張は国内出張でしかなかった。日本よりも中国のほうがコネも多くて、大概言うことは聞いてもらえた。だからこそ、中国以外の国に行きたかったんです。東南アジア、インド、ヨーロッパ、どこでもいいから出して欲しかったんですが、「おまえはもう3回海外に出た」という理由で認めてもらえませんでした。西安は公務出張でしかないんですがね。
栗原 イクロムの件をぼやいてらした記憶があるのですが。
浅川 1994年、天田起雄さんが文化庁から奈文研の建造物研究室長として戻ってこられて、ずいぶん気を使ってくださいましてね。そろそろ、浅川さんの順番だよって薦めてくださったんですが、それを部長に告げると、「おまえは大極殿があるから駄目」と言われて行かせてもらえなかった件ね。ロンドンで1ヶ月英語を訓練して、ローマセンターで半年研修ですからね。「もう一生中国に行かなくていいからイクロムに行かせてください」って頼んだんだけど、アウトでした。あんなやつをイングランドやイタリアに派遣しても、サッカーばかりみて勉強なんかしてこないぜ、って思われたのかもしれないね(笑)。
栗原 奈文研最後の海外出張も西安だったんですか。
浅川 いや、澳門でした。科研費に余裕があって、もう大学に異動するから用はないと思われていた年度末に1週間澳門に遊びました。水上居民研究の一環です。微泡性ポルトガルワインとエッグタルトを堪能したよ。碧い空と蒼い海に囲まれて、なんか、解放されたような気分になったもんです。 【続】
浅川 雲南では午前1ヶ所、午後1ヶ所のペースになりました。いま調査しているブータンの場合は、なにぶん標高が高いので、山寺に上がって下りてくるだけで息が上がります。1日1ヶ所だな。1日2往復やれと言われたら厳しいです。高いところは標高3,500mを超えますから、体力的にそうとう堪える。ホテルに帰ったら動けなくなります。ですから、ブータンでは一日一山。
栗原 今までに高山病になったことはありますか。
浅川 1992年のラサでひどい高山病になりました。標高200mの成都から標高3,700mのラサまでいきなり飛行機で飛んでいったので、体が順応しなかった。3日3晩、頭痛に悩まされ、4日めにようやくポタラ宮に上がりました。最近では、昨年(2014)の東ブータンですね。標高3,700mのメラ・サクテンで激しい頭痛に襲われました。今年(2015)は西ブータンのケラ尼寺が標高3,500mでしたね。若い学生ですら息もたえだえ、苦しそうだから、「食べる酸素」をかじらせたんです。
吉田 あのタブレットと塩レモン・キャンディで生き返りました。
栗原 体力的な問題もあるようですが、調査数にこだわらない、という理解でよろしいでしょうか。
浅川 あまり調査対象の数が多いほうではないよね。どっちかというと、「個別性をきわめれば普遍性がみえてくる」という人類学的なスタンスで調査しているということにしておきましょうか。もう年も年だし、ますます物量作戦の調査はご免こうむりたい。
イクロム無念
栗原 浅川先生といえば「中国」というイメージがぼくたちにはあるのですが、いつごろからでしょうか、中国以外のフィールドが多くなってきているようですね。ひょっとすると、奈文研時代から中国以外の海外調査に手を染めておられたとか。
浅川 奈文研時代は中国一色です。90年代の中盤までは個人研究としての少数民族調査ばかりだったんですが、後半は「日中都城の比較研究」の窓口役でね。奈文研と中国社会科学院考古研究所(考古研)の共同研究です。奈文研の所長が中国国家文物局に発掘調査の申請をして初めて認可がおりたのが、漢長安城桂宮の発掘調査で、その窓口をやっていたんです。それで、年に3回ぐらい西安に出張がある。西安の文化財は見尽くしていたので、自由時間はホテルにこもって原稿を書いたり、校正をしたりしていました。あのころの感覚ではね、わたしにとっての中国出張は国内出張でしかなかった。日本よりも中国のほうがコネも多くて、大概言うことは聞いてもらえた。だからこそ、中国以外の国に行きたかったんです。東南アジア、インド、ヨーロッパ、どこでもいいから出して欲しかったんですが、「おまえはもう3回海外に出た」という理由で認めてもらえませんでした。西安は公務出張でしかないんですがね。
栗原 イクロムの件をぼやいてらした記憶があるのですが。
浅川 1994年、天田起雄さんが文化庁から奈文研の建造物研究室長として戻ってこられて、ずいぶん気を使ってくださいましてね。そろそろ、浅川さんの順番だよって薦めてくださったんですが、それを部長に告げると、「おまえは大極殿があるから駄目」と言われて行かせてもらえなかった件ね。ロンドンで1ヶ月英語を訓練して、ローマセンターで半年研修ですからね。「もう一生中国に行かなくていいからイクロムに行かせてください」って頼んだんだけど、アウトでした。あんなやつをイングランドやイタリアに派遣しても、サッカーばかりみて勉強なんかしてこないぜ、って思われたのかもしれないね(笑)。
栗原 奈文研最後の海外出張も西安だったんですか。
浅川 いや、澳門でした。科研費に余裕があって、もう大学に異動するから用はないと思われていた年度末に1週間澳門に遊びました。水上居民研究の一環です。微泡性ポルトガルワインとエッグタルトを堪能したよ。碧い空と蒼い海に囲まれて、なんか、解放されたような気分になったもんです。 【続】