座談会「民族建築その後」(その8)
窟の建築化
浅川 国内では六郷満山を中心に九州各地の霊山を視察し、国外では大乗仏教の伝播ルートを遡行していきました。当初の興味は「岩窟と木造建築の関係」であり、雲岡石窟・麦積山石窟や敦煌莫高窟・楡林窟などで窟檐・懸造・礼堂の取り付き方に注目していたの。それを類型化すると、大分の岩窟仏堂は華北の石窟寺院に近く、山陰の岩窟仏堂は福建省甘露寺のあり方に近いという見通しを得たんです。しかし、東トルキスタンやインドの石窟寺院をみて、ぜんぜん発想が変わってしまった。
栗原 どうしてですか。
浅川 東トルキスタンのキジル千仏堂(3世紀~)などは砂漠の中にある初期の石窟寺院ですが、木部のないアーチ式洞穴ばかりです。周辺に住んでいるトルコ系ウィグル族の土造アーチ式民家が土の中に埋めこまれたようなものでして、ときにラテルネンデッケ(隅三角持送り天井)がアーチについている。調べてみると、ラテルネンデッケはパミール高原の民家にあるようなんですが、もとは木造でしてね。木造の天井を模倣して石窟で表現しているわけです。平地式建物の構造が石窟に影響をしているんだと感じました。次に西インドのアジャンタ、エローラなどを訪れました。古いものは1世紀(I期)、新しいものは5世紀(Ⅱ期)くらいですか。平地寺院の装飾的な細部がごっそり石窟に持ち込まれている。そして、木部なんてありゃしません。こういう事実を目にして、むしろ「窟(いわや)の建築化」という視点が有効であろうという考えに至ります。石窟寺院に共通するのは礼拝窟に仏像を安置し祀ることですが、その空間が近隣の平地寺院の影響を受けて建築化していく、という捉え方です。こうした見方をすれば、アジア各地に展開した石窟寺院/岩窟仏堂の多様さを説明できるんです。
清水 中国や日本もそういう見方で説明できるのですか。
浅川 雲岡石窟では、岩窟の外側を木造建築で覆い、内側は木造建築の細部(三斗や人字形の中備)をレリーフで表現している。あれも、石窟の内部空間を平地の木造寺院化しているんですよ。日本の場合どうか、というと、岩窟に彫刻・彩色する力がないから、岩屋を窟(いわや)の中に納めてしまうんです。
山田 なるほど。
浅川 日本の岩窟仏堂は華北の石窟寺院や華南の懸造寺院のミニチュアであり、平安中期~鎌倉時代前期に造営され始めた。これは磨崖仏の年代と重なるんですが、北宋末~南宋の時代の影響かもしれません。岩窟内に木造建築を取り込む構造はアジア的にみると特異ですが、日本型の「窟の建築化」だと考えれば理解できる。OUV命題に対する答えになってないかな?
上座部仏教の洞窟僧院
浅川 ところで、タクヲさんは計4回の海外出張がすべて中国だったの?
清水 そうです(笑)。
浅川 そりゃ申し訳ないな。
清水 いえいえ。
浅川 君を中国に同行させていたわけですが、わたしは2011年からラオス、ミャンマー、ブータン、インドを単独訪問しているんです。中国とインドは厳しいよね。ラオス、ミャンマー、ブータンはいいですよ。何度でも行きたくなる。とても過ごしやすい国々です。
栗原 「石窟寺院への憧憬―岩窟/絶壁型仏堂の類型と源流に関する比較研究―」科研の一部としてそれらの国々を訪問されたということですね。
浅川 トルコのカッパドキアまで行きました。キリスト教の遺産ですが、洞穴に人が住み、教会を築いている。地下都市まであります。
栗原 それらは、もちろん次の科研申請の下準備というような意味合いがあったのでしょう?
浅川 そのとおりです。2013年から今に至る「チベット系仏教及び上座部仏教の洞穴僧院に関する比較研究」につながりました。
山田 上座部仏教とチベット系仏教ではどういう違いがあるのでしょうか。
浅川 厳密にいうと、ラオスやミャンマーなどの上座部仏教では「洞窟僧院」ですね。迷路のような鍾乳洞のひろい範囲を僧院にしています。洞窟内にはまれに瞑想のための小洞穴も含みますが、ほとんどが礼拝窟でして、寄進仏が片寄せ、せめぎあうほどぎゅうぎゅう詰めに並んでいる。何千もの仏像ですよ。
ブータンの崖寺と瞑想洞穴
浅川 一方、チベット仏教のブータンでは、急峻な岩山の洞穴を木造懸造の掛屋で塞いで瞑想窟としています。ブータンでは、今でも瞑想が密教修行の根幹でして、一人前の僧侶になる前に3年3ヶ月3日の瞑想をする必要がある。瞑想の場所が洞穴なんですね。大乗仏教の石窟寺院では、岩窟は仏像を安置する礼拝窟として崇拝されたわけですが、西インド初期の石窟寺院に礼拝窟はなく、瞑想窟(僧坊窟)だけで構成されていた。北インドで仏教が出現した紀元前6~5世紀のころまで遡ると、経典も仏堂も仏像も存在しなかった。瞑想修行に勤しんでいたんでしょうね。菩提樹の下や岩陰や洞穴が瞑想の場所だったんじゃないでしょうか。ブータンの瞑想場は、そうした古い仏教のあり方を彷彿とさせます。ブータンで礼拝窟にあたるのは、仏像を祀る本堂ラカンなんですが、本堂が僧院に建立されるのは国家形成期の17世紀にまで下ると言われています。こうした「瞑想」あるいは「瞑想洞穴」の研究に没頭しているところです。
栗原 もちろん学生さんを率いての調査なんですよね。
吉田 ブータンは第2次調査(2013)から学生が加わりました。中島さんがリーダー格です。第2次調査は教員・学生あわせて13名の大所帯でしたね。
浅川 みんな喜んで感動してくれたと信じたいけど、調査人数としては多すぎたね。なかばコントロール不能に陥りました。恋愛厳禁の掟は破るし・・・
吉田 すぐに別れましたから(笑)。
東ブータンの試練
宮本 わたしは岡野くんと同じ2期生なんですが、2013年の秋から1年半、建築・環境デザイン学科の非常勤職員を務めました。そのあいだ、2013年末の第2次ミャンマー調査と2014年夏の第3次ブータン調査に参加しています。
浅川 第3次ブータン調査は過酷な旅路でした。宮本は、ちょっと海外旅行運がないのね。スーツケース取り違え事件とか(笑)。
清水 えっ、スーツケースを取りまちがえたの!?
宮本 買ったばかりの新品で、ほんま、そっくりやったんですよ(笑)。トランジットのバンコクで空港ホテルにチェックインし、さぁ眠ろうとしたら、スーツケースが開かないんですよ。フロントで開けてもらったら、中身がちがう。急ぎ空港に戻って税関に探してもらいました。
清水 あったの?
宮本 ありました(笑)。
浅川 苦行の前兆ではありましたね。グアハチ(アッサム)から国境を超えてタシガン(東ブータンの中心地)を経由し、メラッの招待所までなんとかたどり着いた。すでにふらふらですね。体力を使いきって疲弊しているだけでなく、標高3,400mの地で高山病に苦しんでいました。眞田会長と私は夜中に頭痛がしたんです。それに大雨でね。招待所の雨漏りがひどくて、毎晩バケツいっぱいの水が溜まりました。3日め、午前と午後1ヶ所ずつ放牧地まで行きましたが、高低差が激しくて、本当に体力がついていかない。翌朝、出発して標高4,700mの峠をこえ、サクテンまで移動するから準備してと指示されたんです。トレックの距離は18km。真田会長と宮本をわたしの部屋に呼んで相談したんです。行くべきか、戻るべきか。
宮本 峠越えを断念し、タシガンまで戻ることになりました。
浅川 宮本は峠越えできたかもしれない。しかし、会長と私は無理だと判断しました。すでに高山病に悩まされていたし、標高3,000mをこえた高地での歩行スピードは時速1~2kmです。18kmの移動は二日がかりになる。天候が良ければ、キャンピングも楽しいでしょう。しかし、大雨が降っている。テントを張ることだけでも一苦労ですよね。日本人の場合、さらに体調が悪化する可能性もあるし、撤退するなら今しかないと考えた次第です。
遊牧の世界
山田 メラッでは遊牧民を調査されていたのですか?
浅川 50年ばかり前に定住化した遊牧民です。テント生活はみることができないし、牛の数は多いのだけど、純粋のヤクは1頭しかみなかった。90%以上が混血種なんです。住まいは石壁と板校倉を併用する構法で、屋根は板葺きがトタン葺きに変わりつつある。ゲルク派のチベット仏教を信仰していて、ダライ・ラマの写真を仏壇に飾っていました。1990年代に調査した西北雲南モソ人の住まいと似ています。
吉田 中央ブータンのウラも綺麗な集落ですが、成立は50年前だと聞きました。半世紀前に国王が遊牧民に土地を与えて定住集落が成立した、ということです。
浅川 ラカン(僧院)の周辺は牧草地でしかなかった。そこはまれに遊牧民のテント宿営地になった。その場所に忽然と定住集落があらわれたんだね。いまみえる集落は永遠なのか、それともいずれテントのように消えてしまうのか?
吉田 本物の遊牧民は今年(2015)の中国青海省でみましたね。
浅川 うん、あれには仰天した。
山田 半定住のグループではないですか。
浅川 これが本物なの。青海省の省都西寧から黄河源流域の同仁(レゴン)をめざして車で移動した。行きはただの草原だったんですが、帰りには一面にヤクと羊がいて、テントの宿営地もできている。そりゃもう、何万頭のヤクと羊です。
吉田 青海湖の周辺も素晴らしかったですね。峠から湖を望むと谷筋にヤクと羊がうようよいる。人懐こい遊牧民がテントに招待してくれて、チャイとザンパ(裸麦の粉を焼いた主食)をご馳走になりました。 【続】
宮本 わたしは岡野くんと同じ2期生なんですが、2013年の秋から1年半、建築・環境デザイン学科の非常勤職員を務めました。そのあいだ、2013年末の第2次ミャンマー調査と2014年夏の第3次ブータン調査に参加しています。
浅川 第3次ブータン調査は過酷な旅路でした。宮本は、ちょっと海外旅行運がないのね。スーツケース取り違え事件とか(笑)。
清水 えっ、スーツケースを取りまちがえたの!?
宮本 買ったばかりの新品で、ほんま、そっくりやったんですよ(笑)。トランジットのバンコクで空港ホテルにチェックインし、さぁ眠ろうとしたら、スーツケースが開かないんですよ。フロントで開けてもらったら、中身がちがう。急ぎ空港に戻って税関に探してもらいました。
清水 あったの?
宮本 ありました(笑)。
浅川 苦行の前兆ではありましたね。グアハチ(アッサム)から国境を超えてタシガン(東ブータンの中心地)を経由し、メラッの招待所までなんとかたどり着いた。すでにふらふらですね。体力を使いきって疲弊しているだけでなく、標高3,400mの地で高山病に苦しんでいました。眞田会長と私は夜中に頭痛がしたんです。それに大雨でね。招待所の雨漏りがひどくて、毎晩バケツいっぱいの水が溜まりました。3日め、午前と午後1ヶ所ずつ放牧地まで行きましたが、高低差が激しくて、本当に体力がついていかない。翌朝、出発して標高4,700mの峠をこえ、サクテンまで移動するから準備してと指示されたんです。トレックの距離は18km。真田会長と宮本をわたしの部屋に呼んで相談したんです。行くべきか、戻るべきか。
宮本 峠越えを断念し、タシガンまで戻ることになりました。
浅川 宮本は峠越えできたかもしれない。しかし、会長と私は無理だと判断しました。すでに高山病に悩まされていたし、標高3,000mをこえた高地での歩行スピードは時速1~2kmです。18kmの移動は二日がかりになる。天候が良ければ、キャンピングも楽しいでしょう。しかし、大雨が降っている。テントを張ることだけでも一苦労ですよね。日本人の場合、さらに体調が悪化する可能性もあるし、撤退するなら今しかないと考えた次第です。
遊牧の世界
山田 メラッでは遊牧民を調査されていたのですか?
浅川 50年ばかり前に定住化した遊牧民です。テント生活はみることができないし、牛の数は多いのだけど、純粋のヤクは1頭しかみなかった。90%以上が混血種なんです。住まいは石壁と板校倉を併用する構法で、屋根は板葺きがトタン葺きに変わりつつある。ゲルク派のチベット仏教を信仰していて、ダライ・ラマの写真を仏壇に飾っていました。1990年代に調査した西北雲南モソ人の住まいと似ています。
吉田 中央ブータンのウラも綺麗な集落ですが、成立は50年前だと聞きました。半世紀前に国王が遊牧民に土地を与えて定住集落が成立した、ということです。
浅川 ラカン(僧院)の周辺は牧草地でしかなかった。そこはまれに遊牧民のテント宿営地になった。その場所に忽然と定住集落があらわれたんだね。いまみえる集落は永遠なのか、それともいずれテントのように消えてしまうのか?
吉田 本物の遊牧民は今年(2015)の中国青海省でみましたね。
浅川 うん、あれには仰天した。
山田 半定住のグループではないですか。
浅川 これが本物なの。青海省の省都西寧から黄河源流域の同仁(レゴン)をめざして車で移動した。行きはただの草原だったんですが、帰りには一面にヤクと羊がいて、テントの宿営地もできている。そりゃもう、何万頭のヤクと羊です。
吉田 青海湖の周辺も素晴らしかったですね。峠から湖を望むと谷筋にヤクと羊がうようよいる。人懐こい遊牧民がテントに招待してくれて、チャイとザンパ(裸麦の粉を焼いた主食)をご馳走になりました。 【続】