秋里遺跡の焼失住居跡


全国初の焼失掘立柱建物?
5月10日(火)。教授が調査指導を依頼されている鳥取市の秋里遺跡(松下地区)の焼失住居跡の発掘現場を見学しました。この調査は、県立中央病院の病棟建て替え工事に伴い、鳥取県埋蔵文化財センターにより昨年9月から実施されています。
秋里遺跡は弥生時代から中世までの遺構を残す集落遺跡です。現在までに二十数回の発掘調査がおこなわれ、弥生時代後期から古墳時代中期を中心とする掘立柱建物跡や溝跡、土器溜まりなどがみつかっています。今回の調査区所は遺跡の西側外縁部にあたります。このたび見学した焼失住居跡は、弥生時代後期から古墳時代初頭の包含層の最上部で検出されました。
焼失住居跡は一般的に竪穴住居、もしくはその湿地帯でのバリエーションである登呂型の平地住居に復元されるのですが、発掘担当のTさんは、今回の遺構をいわゆる掘立柱の平地式建物と推定しています。 というのも、遺構には竪穴の落ち込み痕跡も周堤のたちあがり痕跡も確認できず、床面は旧生活面を残しているからです。建物跡の壁際には炭化した板が数枚残しており、土屋根を支える板状垂木の痕跡かとも思われたが、Tさんはこれを縦板壁の倒れ込みとみなしています。平地式掘立柱建物の焼失遺構だとすると、全国でも初例になる可能性があるそうです。まだ確証は得られないものの、これからの調査に期待が高まります。

では、現時点で焼失住居跡について確認されている事項をいただいた資料を参考にして整理しておきます。
(1)遺構平面はいわゆる隅丸方形を呈しており、やや楕円形に近い形状をしている。平面の規模は南北5.8m以上、東西6.1m以上。
(2)壁溝を東辺と南辺で検出。幅約40㎝、深さ約25㎝を測る。
(3)壁溝に近接する位置で小さなピットを2ヶ所で確認。壁付柱の痕跡か。主柱は未確認(床面に遺物等が堆積しているため)。
(4)床面中央近くに地床炉(焼土)と中央ピットを設ける。
(5)中央ピット内および中央ピット周辺に古墳時代初頭の土器が集中。
(6)床面上焼土粒・炭化物・被熱礫片が広く分布。
(7)長さ約140㎝・幅約30cmの炭化板材が東辺と南辺でまとまって検出。縦板壁あるいは板垂木の痕跡か。

↑中央ピット周辺の土器(古墳時代初頭)

遺構形状にあらわれた矛盾
中央ピットの内側と周辺に山陰型の甑形土器が生きた状態で残っていることから、住居は意図的な焼却ではなく、「失火」で焼失したと理解され、炭化材は不完全燃焼した板壁の残骸であると推定されています。炭化材の量が多いとはいえないので、いわゆる蒸し焼き状態の不完全燃焼ではなく、完全燃焼した部分が多いと考えられ、その点で土屋根であったとは言えないかもしれません。
教授は「遺構内部に少なくとも2本の主柱が欲しい。壁付きの柱穴ももっと欲しい」と感想を述べられました。今のところ、壁付柱ピットは2つしか確認されておらず、隅丸の形状にそぐわないと考えられているようです。「壁板1m単位ぐらいで柱が一本ずつ扇を描くように立っていないと壁構造がもたない」とコメントされ、Tさんの主張する屋根切妻造説に対しても、「遺構のカーブから見て切妻は不自然である」ことも指摘されていました。その上で、「今回は平地建物で記者発表すればいいが、登呂型の平地住居である可能性も残して調査したほうがいいでしょう」というアドバイスもされていました。
【感想】 発掘調査現場の見学は初めての経験であり、知識のない私はこの焼失住居をどう見ればいいのか見当もつきませんでした。現場で遺構の話を聞いていたときは8割方内容を理解できませんでしたが、ペースノートに移動して、先生から手ほどきを受け、いただいた資料を読み返してみると、徐々に自分の中へと落とし込めている気がします。はたして平地式建物であったのか、どのように建っていたのか、現段階で手掛かりはつかみ切れていませんが、今後の発掘調査の進展に期待しております。(ソニドリ)

【教師補遺】 上にソニドリさんが紹介してくれていますが、現場では「とりあえず、平地建物で記者発表すればいいが、登呂型の平地住居の可能性も捨てずに調査してください」とお願いしました。隅丸方形の平面と中央ピットの複合に注目するならば、竪穴系とみなさざるをえないわけでして、いまは登呂型よりも、むしろ浅い竪穴住居ではないか、と考え始めています。旧生活面である床面の真上を包含層が塞いでいたとすれば、こうういう残りかたもあるのではないでしょうか。
