2016居住環境実習・演習Ⅱ中間報告会(その3)

2.大雲院と東照宮
2-1 大雲院仏教美術品目録-昨年度の研究成果
大雲院は、慶安三年(1650)、鳥取藩の初代藩主池田光仲により、鳥取東照宮を管理する別当寺として造営された。大雲院は江戸時代の鳥取藩内でもっとも格式の高い寺院であったが、明治維新の神仏分離令によって樗谿から立ち退きを命令された。そしていったん上町の末寺、「観音院」に仮住まいし、明治三年には、正式に立川の末寺「霊光院」に境内を移すこととなる。

赤い四角の枠内が、上町にある樗谿公園の範囲である。右の図は幕末の鳥取城下絵図の樗谿周辺をクローズアップしたものであり、このように江戸時代には、鳥取東照宮と大雲院は樗谿の地に隣接しており、両者一体の組織として運営されていた。鳥取東照宮は鳥取藩内の神社で最高の格式を誇り、それを管理する大雲院もまた鳥取藩内において最も重要な寺院であった。先ほども述べたように明治維新後の神仏分離令後、大雲院は立川町へ移されるが、この時に全ての仏具が当時の霊光院、つまり現在の大雲院に移された。
立川の地にもたらされた仏具等一式は、鳥取藩主池田家や、徳川家に係わる大量の宝物、文書等を含んでいる。これらは文化財価値が非常に高く、とりわけ東照大権現厨子は家康の位牌をおさめたもので、かつては「鳥取東照宮」の中におかれていた。大雲院の美術品はおそらく50件以上が、近い将来指定文化財になるだろうと予想されている。こうした美術品や建造物の調査を、昨年から進めている。
