安楽寺、国登録有形文化財へ

昨夜(19日)、イスタンブールのユネスコ会議で国立西洋美術館の世界文化遺産登録が決まりました。イスタンブールは空港経由を含めて2度訪れましたが、最近の騒ぎっぷりは尋常でありませんね。この3月のバルカン訪問で空港に滞在した際、あまりにガードが緩いので表紙抜けした記憶があります。空港で大規模テロ勃発という報に接し、さもありなん、と思い返した次第です。
一方、国立西洋美術館については、昨秋、葛飾訪問の前に上野公園を散歩した際、「・・・・を世界遺産に!」の旗を多数目撃し、「嗚呼、東京よ、おまえもか」の切ない気持ちに苛まれました。この問題については、また授業で討議しようと思います。

さて、西洋美術館の報道に先立つ7月15日(金)、文化庁文化審議会で新規の国登録有形文化財の答申が決まりました。鳥取県では4件7棟が新規登録の見込みであり、それに湯梨浜町の安楽寺(1件4棟)が含まれています。安楽寺は、重要文化財「尾崎家住宅」の対面に建つ同家の菩提寺(浄土真宗)です。ASALABは2005~06年に尾崎家を調査し、2007年に『尾崎家住宅―建造物調査報告書―』を刊行しました。安楽寺についても、報告書の第4章4「安楽寺の建築と景観」で大きくとりあげています。これらの成果に基づき、まずは2011年に尾崎家が県の保護文化財に指定され、2013年には国の重要文化財に格上げ指定されました。その当時から、安楽寺の文化財価値にも注目が集まっていましたが、このたび登録の運びとなり、大喜びしております。
4棟の建造物の詳細は「続き」を参照してください。



本 堂
湯梨浜町宇野の清柳山安楽寺(真宗大谷派)は、重要文化財「尾﨑家住宅」に西面する山裾に境内を構える。寺伝によると、伯耆一宮(湯梨浜町宮内)の僧が、集落背後に迫る丘陵の南麓に創建した天台宗の「正来院」が前身という。その後、戦乱などにより寺地が移動し、承応2年(1653)のころ真宗に改宗し、現在の寺号に改めた。現佐地への境内の移設は改宗の時とも、宝暦年間(1751~63)ともいう。本堂の建立年代については、棟札写しに文化2年(1805)の上棟とあり、寺蔵文書には享和2年から文化7年(1814)まで「本堂立替」とある。安楽寺の造営には尾﨑家が深くかかわり、主要堂宇は7代清衛門(1846年没)の再建にかかるものという。本寺の造営にあたり、大工を京都に派遣し、西本願寺?で建築彫刻を学ばせたと伝える。
本堂は桁行7間(14.9m)×梁行7間(15.1m)の中規模仏堂で、入母屋造・平入・桟瓦葺きの構造形式を有する。正面中央に3間通しの向拝を設け、正側面の三方に縁をまわし、擬宝珠高欄を巡らせる。本堂内部は、前の1間通りを広縁とし、中3間通りを外陣、後3間通りを内陣、内陣の左右に余間を配する典型的な浄土真宗型平面である。側まわりと外陣前面は角柱、来迎柱をはじめ内陣まわり及び外陣内の独立柱は粽付円柱とする。外陣全面と余間の角柱は几帳面を取る。外陣は無目敷居を梁行方向に二筋入れ、中央と左右間に分かつ。広縁と外陣左右の間の柱上は平三斗(実肘木付)の組物をおき、中備に蓑束を入れる。広縁の天井は長大な角縁の竿縁天井、外陣左右の間の天井は平格天井とする。外陣および左右の余間の柱上組物は、支輪付の二手先(実肘木付)とし壁付の巻斗からも手先肘木をだす。中備に蟇股を入れ、天井は折上格天井を張る。内陣は外陣より1尺ほど高く、余間境に無目敷居を入れ2寸ほど高くつくる。須弥壇を中央に置き、その両側に来迎柱を立て、背後左右に仏壇を配置する後門形式。須弥壇には宮殿を据え本尊(阿弥陀如来立像)を安置し、右の仏壇には親鸞上人、左の仏壇には蓮如上人の画像を架ける。内陣柱上の組物は余間と同様の二手先で、来迎柱上(頭貫先端木鼻)は三手先となり、二重折上小組格天井を張る。内外陣境は巻障子、余間外陣境は襖で仕切り、長押上には彫刻欄間を入れる。左余間の仏壇には七高僧と聖徳太子、右余間の仏壇に六字名号を架け、仏壇上の欄間には真宗寺院には珍しい四神を彫刻する。また、向拝の繋虹梁も海老の姿を彫るもので目を奪われる。建物の主要材はケヤキで、その他にカシやサクラ、マツなどが部分的に使用されている。板戸などが小修理されているものの、保存状態は良好である。
安楽寺本堂は、中規模な真宗寺院の本堂だが、組物や欄間、木鼻などの意匠に特徴があり、素朴な鳥取県内の寺院建築のなかでは突出して意匠が派手で力強い。また、隣接する重要文化財「尾﨑家住宅」・名勝「松甫園(尾﨑家庭園)」と一帯となって、質の高い歴史的風致を形成している。



鐘 楼
本堂の西北に位置する。大きな切石を用いた間知石積の基壇に建つ宝形造桟瓦葺きの小宇で、一柱間四方を吹放つ。基壇高は1.5mと高く、寺勾配をとり、基壇の下端には板状の切石を並べる。本堂側に傾斜の強い石段を設けるが、石段の両側面は切り石の亀甲積とする。全体に丁寧な造りの基壇である。
鐘楼の四柱は内転びの強い円柱で、基礎は礎石+礎盤の禅宗様とする。腰貫で脚を固め、上部は通肘木上に頭貫をわたし、木鼻をつける。さらに、頭貫の上には台輪をわたすので、水平材が3重になり重厚である。組物は大斗肘木として丸桁を受け、中備に蟇股を入れる。垂木から上は平成3年に修理されている。その際、文化14年(1817)上棟の棟札が発見されている。屋頂部には格狭間を刻む石製の露盤をのせる。当初の露盤と思われる
文化2年(1805)とされる本堂棟札年代より12年後の建築だが、尾崎家7代清衛門(1846年没)の関与した伽藍再興の足跡を示す貴重な遺構であり、境内景観の上でも重要な位置を占める。



山門・塀
本堂正面の敷地境、小路に面して西に開く山門と、それに取り付く塀が設けられる。山門は一間一戸、切妻桟瓦葺きの四脚門である。棟札写しによれば、安政7年(1860)の上棟であり、尾崎家7代清衛門の没後の造営とみなされる。本柱と背面(敷地内側)の控柱が几帳面を取る角柱であるのに対し、正面(小路側)の控柱のみ粽付の円柱とする。全ての柱が礎石上の礎盤に立つが、円柱の礎盤のみは彫刻を施す。本柱と前後の控柱の高さを揃え、頭貫(木鼻付)と台輪で固め、柱上に皿斗付三斗(組?)の組物をおくが、正背面は実肘木と通肘木、側面(妻側)は通肘木として丸桁をのせる。両側面はさらに正背面の柱を繋ぐ虹梁をわたす。正面の中備は鳳凰を刻む蟇股とし、背面も装飾蟇股を入れる。門の内側は、二手先組で巻斗からも手先肘木を出し、格天井を張る。軒は二軒繁垂木。両妻は妻飾が虹梁大瓶束笈型とし、拝懸魚と降懸魚を飾る。頭貫の木鼻は正面を獅子と獏、背面を獅子と鳳凰とするが、正面の獅子を振り向き気味に造る。山門は全体に禅宗様を強調するが、皿斗など大仏様の意匠もわかずかにみられる。本堂や鐘楼の意匠を継承しながら、意匠はいっそう派手になっており、幕末の特徴をよく表している。なお、門扉は平成3年頃に取り換えられているが、元の山門に飾られていた唐獅子の彫刻を採用している。
山門の両側に塀が取り付く。塀は高塀で屋根に桟瓦を葺く。布石に立つ大壁造で正面は縦羽目の腰板を張り、上部を白漆喰塗りとする。正面左側塀の背面は真壁とし柱に枠控を設ける。枠控の控柱の下端は礎盤(礎石では?)にのる。右(南?)側の塀の背面は真壁で腰板を張り上部を白漆喰塗りとする。背面の柱に枠控を設けるが、控柱の下端は金輪継的で石柱とつなぐ。この塀は正面の控柱の手前で折れ曲がり、門の本柱に取り付くが、両側に潜門を設ける。この塀の造営年代は不明だが、門と同期につくられ数度の修理を経ながら今日に至っているものと考えられる。
安楽寺の山門は尾崎家の長屋門(屋敷で最古の建物)と相対し、小路の景観に強い歴史性を与えている。明治の大火でほぼ全焼した宇野集落のなかで唯一江戸時代の景観を残す貴重な場所となっている。



経 蔵
本堂の南西、鐘楼と相対する位置に建てられている。木造の宝形造で桟瓦葺き、平屋の土蔵風の建物である。切石の亀甲積基壇に立つ。正面を鐘楼に向け、切石で石段を造り、入口に唐破風を架ける。唐破風は細長い柱を虹梁と頭貫で固め、束を入れる。妻飾は狐格子とする。柱は加工した礎盤に立て、柱の下部には根包みの痕跡を残す。建物の外壁下部はモルタルの洗い出しで石張り風に造り、上部から軒裏を白漆喰塗りで仕上げる。屋根の頂部には露盤風の切石をおく。入口は外側が漆喰塗りの板戸、内側が板引戸の2枚重ねとする。内部の壁面は縦板張り、天井を格子天井とする。
建築年代は昭和4年頃(財産台帳?)であり、伽藍内では最も新しい。すでに経蔵としても機能していないが、昭和戦前の貴重な近代和風建築であり、また境内景観を構成する重要な建造物である。
