2016居住環境実習・演習(Ⅱ)期末発表03-1


1-3 分布図から読みとる町と町並み
(1)用途・建築形式の分布
立川~上町~樗谿にかけて町と町並み景観の特徴を捉えるため、データベースをもとに、複数の分布図を作成した。まず用途別の分布図を示す(図1)。グレーの色を塗った専用住宅が圧倒的に多く、全体にまんべんなく分布している。一方、町家・しもたやなどの店舗併用住宅はあまり目立たないが、分布図中に赤い線で示した表通りに面して点在していることが分かる。
図2は戦後RC・鉄骨住宅と駐車場の分布図である。グレーが空き地・駐車場を示す。すでに広大な面積を占めており、過疎による空洞化の状況をよく映し出している。RC・鉄骨などの新しい建造物もあるが、それ以上に、過疎が進んでいることが分かる。 図3は建築形式の分布図を示す。「町家」と、町家が変形した「看板建築」が、先ほども述べたように、表通りに沿って分布している。近代和風住宅(戦前木造建築)については、表通りよりも、むしろその後背地に広がっている。また、右の町家の写真をみると、2階がとても低いつくりになっていることが分かる.

図3
立川周辺には、このような屋根の低い中2階形式の建物が多く分布している。一般に、2階の屋根が低いほど建築年代は古いと判断できる。屋根の低い中2階形式は、幕末~明治の建築と推定される。図4左の2棟が高2階式だが、左右を比較すると、中2階形式の2階の低さが目立つであろう。
図5が平屋および中2階形式の分布図である。開発が早くからなされたであろうと思われるエリアを読み取ることができる。

↑図4 ↓図5



(2)鳥取城下絵図との比較
先ほどのような建物群の起源を調べるため、安政5年(1858)の鳥取城下絵図(図6)の土地利用をみてみたい。図7が城下絵図の立川町~樗谿にかけての部分の拡大である。上方の鳥居の印が、樗谿の東照宮、中ほどの卍が上町の観音院、下方の卍が立川の霊光院(現在の大雲院)の位置を示す。絵図で白く塗られている部分は「武家地」、水色の部分は「町人地」、黄色は「農地」であり。ここで、幕末と現代の比較を試みる。
樗谿に近い上町はかつて東照宮の参道に沿う門前町だった。昭和になって都市計画道路が通り、北側の宅地がなくなってしまったが、さきほど連続立面図を紹介したように、南側は「山の手」風の町並みを残している。一方、町人地には現在もなお表通りに沿って町家や「しもたや」が点在しており、江戸時代の商店街のイメージを仄かに伝えている。そして現在、街道周辺の旧農地には専用住宅が密集するが、過疎のため空き地も増えてきている。
観音院から霊光院にかけての一帯は、大半が城下町の北東はずれの農地であり、街道沿いのみが都市化していたということである。その農地が宅地化し始めたのは、中2階形式の分布からみて、おそらく明治中期以降のことと推定される。(谷口)
